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俳句雑誌管見 違うかもしれない 堀下翔

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俳句雑誌管見
違うかもしれない

堀下翔

初出:「里」2014.5(転載に当って加筆修正)

本州に引越していちばん驚いたのは桜のことである。三月までいた北海道とはどうも様子が違う。色が薄くて葉がまじっていない。北海道のはエゾヤマザクラでこっちのはソメイヨシノだから種が異なる。知ってはいたがこれほどとは思わなかった。まずいぞ。今まで桜の俳句はぜんぶエゾヤマザクラの印象で読んでいた。

劇作家の平田オリザは評論でよく「コンテクスト」という言葉を持ち出す。ほんらいは「文脈」ぐらいの意味だが平田は「一人ひとりの言語の内容、一人ひとりが使う言語の範囲といったものと考えてもらいたい」(『演劇入門』講談社現代新書/1998)と述べる。自分の言う桜がエゾヤマザクラであるといったこともまた、この意味でのコンテクストに含まれる。

季語は日本人の共有財産だなんて言うけれど、それは意外と危ういものかもしれない。季語でなくとも、自分と詠者のコンテクストにズレがある可能性は、ある。

違うかもしれない一例。

春炬燵まづ新聞を持つて来い 今瀬剛一(『対岸』2014.3)

春とは言っても朝は寒いので炬燵を仕舞わない。寒い春の朝が、炬燵で読む新聞から始まる。……のだと思う。というのは、北海道では多くの家庭に炬燵がないので、いったい人間と炬燵はどういう付き合い方をしているのか、想像がつかないのである。「春とは言っても……」云々はすべて想像。ここで春炬燵の本意を調べてみると、てぢかにあった角川の『俳句歳時記 第四版増補』には「春になってもしばらくは寒さがぶり返すこともあるので、なかなか炬燵をしまうことができずにいる」とある。なるほど地域によっては朝が寒いという前提が違うことさえある。むろん寒いから仕舞わない地域もどこかにはあろう。誰がどう読むかなんて想像がつかない。

永らへて啓蟄のわが誕生日 深見けん二(『珊』2014.2)

深見氏、九十数回目の誕生日。啓蟄の生命力が誕生日の喜びを印象付ける。ここには「永らへ」たことへの喜びもある。

「誕生日」もまた詠者と読者との間にズレがあるかもしれない言葉だ。十八回しか迎えていない筆者の誕生日と違うのは当然として、たとえば六十歳の人間だったらどうだろう。大病を患った人、戦争経験のある人だったら。それぞれが確かに「永らへ」た誕生日を持っていても、その実態は異なる。

言葉は記号だが、イメージと言葉とが一対一の対応をしているわけではない。あるイメージの託された言葉が、誰かに受け取られた瞬間、別のイメージに還元されてしまうことは往々にしてある。これらのズレを誤読と呼ぶ必要はない。鑑賞の広さが俳句の醍醐味だ。ただ、せっかくなら詠者と同じ感動を得たいということもあろう。そのためにはコンテクストの拡大が求められる。

いちばんいいのは、旅だ。知らない土地へ行って自分のコンテクストにないものに触れる。こんなものまでコンテクスト外にあったのか、とたくさん驚いてみたい。そういう意味で『船団』(2014.3)の特集「再びひとり旅」はたいへん面白かった。俳句三句とエッセイによる会員のひとり旅の記録である(括弧内は行先)。

山頭火に手紙届ける秋の暮 内野聖子(湯平温泉)

神戸とは海を抱いているうさぎ 中居由美(神戸市王子動物園)

旅先で何より多く出会うのは固有名詞だ。自分の土地では遭遇しない名前に触れ、それらを語彙に追加する。旅の句は固有名詞が多くなる宿命にある。しかし旅によって得られるのは、新しい言葉だけではない。

上空はいつも快晴神還る わたなべじゅんこ(関西国際空港)

初めて飛行機に乗って雲の上に出たとき、こんなに綺麗なものは他にないと思った。どんな悪天候の日に飛び立っても上空まで行くと青空が広がる。あれを見てから空への認識が変わった。地上で見ている「空」は、時として雲に過ぎず、ほんとうの空ではない。〈上空は〉の句を得た詠者もまた同じことを思っていた筈だ。ここにおいて筆者と詠者における「空」のコンテクストは一致している。飛行機という経験によって。

宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫/1984)に「世間師」という言葉が出てくる。一般的には「悪賢い人」の意味だが、古い村では、奔放な旅をしてさまざまな知識を得た人間を指してこう言ったらしい。僕は世間師になりたい。あちこちを見て回ってコンテクストを広げたい。本連載は「管見」ではあるが、それにしても現段階の穴はあまりにも小さい。筆者が立派な世間師になるまでのご笑覧を乞う。

後記+プロフィール443

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後記 ● 福田若之

今号は評論づくし。
巻頭は、小野裕三さんの「俳人たちはどのように俳句を「書いて」 きたか?」です。

ソ連の映画作家、セルゲイ・エイゼンシュタインは、俳句の優劣は書きぶりの良し悪しで半分くらい決まるというようなことを書いています。初めて読んだときは、「いや、ねえよっ!」と思いました(半分、というのが、なんとも胡散臭くて)。けど、最近は案外そんなものかもしれないとも思わないこともありません。

道具だけでも、鉛筆、万年筆、ボールペン、シャープペンシル、毛筆、コンピューター、タイプライター、ガラケーにスマートフォン……いろいろあります。それぞれが全く違うのは分かるけれど、それがどう、書かれる言葉に関わっているのか。

あ、でも、タイプライターは、触ったこと、ありません。「和文タイプライター」で動画を検索すると、すごく、そそられます。



それではまた、次の日曜日に、ここでお会いしましょう。


no.443/2015-10-18 profile

小野裕三 おの・ゆうぞう
1968 年、大分県生まれ。神奈川県在住。「海程」所属、「豆の木」同人。現代俳句協会評論賞、現代俳句協会新人賞佳作、新潮新人賞(評論部門)最終候補など。句 集に『メキシコ料理店』(角川書店)、共著に『現代の俳人101』(金子兜太編・新書館)、『超新撰21』(邑書林)。サイト「ono-deluxe」

■堀下翔 ほりした・かける
1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。筑波大学に在学中。

■中嶋憲武 なかじま・のりたけ1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■太田うさぎ おおた・うさぎ
1963年東京生まれ。「豆の木」「雷魚」会員。「なんぢや」同人。現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。

■畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。

■近 恵 こん・けい
1964年生まれ。青森県出身。2007年俳句に足を踏み入れ「炎環」入会。同人。「豆の木」メンバー。2013年第31回現代俳句新人賞受賞。 合同句集「きざし」。

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「ku+」に参加。共著『俳コレ』。現在、マイナビブックス「ことばのかたち にて、「塔は崩れ去った」掲載中(更新終了)。

週刊俳句 第443号 2015年10月18日

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第443号
2015年10月18日



2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


俳人たちはどのように俳句を「書いて」きたか? 
〝ぐちゃぐちゃモード〟の系譜とデジタル化の波
……小野裕三 ≫読む

俳句雑誌管見
違うかもしれない……堀下翔 ≫読む

〔俳句ふぃくしょん〕
マゲ……中島憲武 ≫読む

連載 八田木枯の一句
秋の絵や水にふれなば水に散る
 ……太田うさぎ ≫読む

自由律俳句を読む 113
「平松星童」を読む〔2……畠働猫  ≫読む

〔今週号の表紙〕横浜……近恵 ≫読む

俳句雑誌『塵風』第6号発売のお知らせ
≫読む

2015角川俳句賞 落選展 作品募集
≫読む

後記+執筆者プロフィール……福田若之 ≫読む


 
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る





週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る




 
 ■新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ ≫読む
週俳アーカイヴ(0~199号)≫読む
週俳から相互リンクのお願い≫見る
随時的記事リンクこちら
評判録こちら

後記+プロフィール444

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後記 ● 村田 篠

今週号も評論のみのリリースとなりました。充実しています。どうぞお楽しみください。

小津夜景さんの「セックスと森と、カール・マルクス」の中に登場している〈《カラマーゾフの兄弟》Tシャツ〉に笑いました。いえ、感動しました。欲しいです。

ロシア名といえば、中学生のころ、通学路だったある路地を勝手に〈ラスコーリニコフの道〉と名付けていました。その界隈が、いかにも『罪と罰』に出てくる金貸し老婆の棲んでいそうな空気感を漂わせていたのだと、今となっては解釈していますが、〈ラスコーリニコフ〉の名を付したのは、その硬い響きに惹かれたからだと思います。響きでいえば〈カンチェンジュンガ〉の絡まった糸のような訳のわからなさも好きで、夏休みに帰る田舎の山をそう呼んでいました。

もうほんと、どうでもいいことですみません。



さて、ただいま「角川俳句賞落選展」の作品募集中です。〆切は今日。詳細はこちらです。どうぞ奮ってご参加ください。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。



no.443/2015-10-25 profile

■今井 聖 いまい・せい
1950年生まれ。加藤楸邨に師事。「街」主宰。句集に「谷間の家具」「バーベルに月乗せて」など。脚本家として映画「エイジアンブルー」など。長編エッセイ『ライク・ア・ローリングス トーン』(岩波書店)、 『部活で俳句』(岩波ジュニア新書)など。「街」HP

■生駒大祐 いこま・だいすけ
1987年三重県生まれ。「天為」「トーキョーハイクライターズクラブ」所属。「東大俳句会」等で活動。blog:湿度100‰

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

■田島健一 たじま・けんいち
1973年東京生れ。「炎環」「豆の木」。現代俳句協会青年部委員。ブログ「たじま屋のぶろぐ」  

■橋本 直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。「俳句の創作と研究のホームページ」

■角谷昌子 かくたに・まさこ
東京在住。鍵和田柚子に師事。「未来図」同人。俳人協会幹事、国際俳句交流協会評議員、日本文芸家協会会員。詩誌「日本未来派」所属。句集に『奔流』『源流』。木島始との共著に『バイリンガル四行連詩集〈情熱の巻〉』、角川書店 『鑑賞 女性俳句の世界(5巻 井沢正江)』、俳人協会紀要「中村草田男 第 一句集『長子』の時代」ほか。目下、揚羽蝶の飼育に熱中。近所の井の頭公園散策が日課(井の頭バードリサーチ会員)。  

■畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」

〔今週号の表紙〕第444号 観覧車 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第444号 観覧車

西原天気



近頃は遊園地でなくとも観覧車を目にすることが多くなりました。もっともショッピングモールなどは〈消費社会の遊園地〉の様相を呈していますから、そこに観覧車があっても不思議はありません。写真も、神戸ハーバーランドという商業集積に立地する観覧車。Wikipediaによれば、これ、世界初のイルミネーション付き(1995年開業)で、以降、観覧車は色とりどりの照明を纏うようになったらしい。100年余の観覧車の歴史のなかで、一定の存在感をもつもののようですが、乗っている我々はそんなことは知らないまま。

蜩やどこにも行けぬ観覧車  輿梠 隆

車(wheel)と言いながら不動。私たちはどこにも行けず、夕暮の神戸港と瀬戸内海を眺めて10分ほどの時間を過ごしたのでした。





週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら


自由律俳句を読む114 「平松星童」を読む〔3〕  畠 働猫

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自由律俳句を読む 114
「平松星童」を読む〔3〕

畠 働猫



前回に続き、平松星童句への連れ句を提示する。
今回の星童句は、全盛時代の作品と、層雲復帰後の作品であり、前回紹介した句に比べて円熟や変化を見ることができよう。


(星童)……平松星童句
(働猫)……畠働猫句
※(働猫・過去作)……連れ句として詠んだのではなく、過去に作った句を連れ句として当てはめたもの


◎全盛時代の作品「ふるゆき」(特選)昭和二十一年六月号以降
つばきおちている鏡のなかの女がおびをとくので (星童)
  おんな鏡ごしに見てるのも知っている (働猫)

新緑のまっただなか海のよな乳房ふくませている (星童)
  母乳知らぬわたしをからかうきみは母になった (働猫)

つばめの子が巣で大さわぎしている下の貧しい兄弟 (星童)
  出て行った兄の消息知らぬかつばくらめ (働猫)

線路の草つよしそこをこどもあるいてゆく夕焼 (星童)
  夭折の役者が残した映画死体探しの美しい旅 (働猫)

ひとにはふれてもらいたくないさびしさ葉がぽろぽろおちる (星童)
  「存在の根源から発する哀しみ」と私に名付けたひとも亡くした (働猫)

星がふるような待ちぼうけ (星童)
  待たない君より長く生きよう (働猫)

あいたいとだけびしょびしょのはがきがいちまい (星童)
  会いたいとさえ言えぬ孤独を生きている (働猫)

まよなかふとめがさめてみずをのみほしてみてもひもじき (星童)
  さびしいか、水を飲め (働猫・過去作)

大きな柿にむしゃぶりつきすこし静かにたべ、考えることする (星童)
  食べかけては仕事する机食べかけだらけ (働猫)

いきもつかずにみずのんでいきついているいき (星童)
  ねこ水のんでとくいげ (働猫・過去作)

こどもだいてこんなにかるくつきとそのかげ (星童)
  かるい子もおもい子もかなしく親をしんじている (働猫)

すかんぽべっかんこうしてわかれたきり (星童)
  かくれんぼうの続きのままに町を出た (働猫)

ぬころそんなことにまんぞくしてかえってゆく散る葉 (星童)
  いぬころ振って落としたしっぽが点々と続く雪原 (働猫)

月が、ひとりのときの吾が顔のさびしさ知っている (星童)
  ひとりで生きてるわけじゃなかった窓の月 (働猫・過去作)

としよりのかなしさのひざをころげるみかん (星童)
  祖母の手がもみすぎたみかんよこす (働猫)

ひとりをほんとうのひとりにしてゆきのふるなり (星童)
  きわめてひとりでゆきにふられている (働猫)

枯れて枯れてほんとうの冬が女の口紅をうきたたせる (星童)
  枯れた街路樹のよこに立つおんなの口がぬらぬらあかい (働猫)

泣きたくて笑っている風が木の葉ころがしてゆく (星童)
  さっき別れたひとの笑い声枯葉かさかさ去ってゆく (働猫)

風が木の葉かきむしっていったあとの紙くずのように人間歩く (星童)
  紙屑のように燃える人間たちが行き交う夢でわたしだけ火がない (働猫)

かえらぬものをおもううみになみのかたちしろくてうごく (星童)
  よせてかえすうみにもうかえらない (働猫)

手のとどかぬところに星は光り寒くなる毎晩 (星童)
  月も星もきれいでここにはない (働猫・過去作)

吾が体臭のけものめく毛糸のシャツのほころび (星童)
  かっこいい私が滲みたシャツに猫くる (働猫)

どこからか祭がきこえる金魚水の中で寂しい花火になる (星童)
  鉢の金魚のぞき見ているねこもわたしも祭に行かない (働猫)

しみじみ手をにぎられしただいちどのゆきの日 (星童)
  ただ一度のくらい部屋しろい肌 (働猫)

便りが来ても便りを出さずに女を枯野のむこうにおく (星童)
  便りなく空高くなる女は今も生きている (働猫)

万緑の中一つきりの卵をひとりっきりのわたしにわる (星童)
  最後の卵たべてしまっておでん鍋はもうこんにゃくだらけ (働猫)

ゆんべの校正がゆびにあかく朝のパンはちぎってたべます (星童)
  ゆんべついに別れてしまった朝のパンはちぎってたべます (働猫)

いちわはないておくれてゆく (星童)
  はぐれた理由こぼして渡ってゆく (働猫)

小さな工場が体いっぱいに働いている月がぐんぐん高く (星童)
  まだ月残る工場へ入る今日は人参を分けます (働猫)

ゆきがあおくにおうほどしずかにむねをやんでいる (星童)
  雪降る音よりかすかな鼓動をさがす (働猫)

雨が冬の青いものつんでゆく黒い貨車に貨車に (星童)
  次々に来るものの姿知っている窓に、窓に、 (働猫)

ひとり雪ふることのそれからめをつぶりねむろうとする (星童)
  寝て起きてなお月 (働猫)


◎層雲復帰作品(昭和四十四年~昭和四十六年)ば、「冽冽」「淡淡」であろうか。
夕日が檻の猛獣のあくびする赤き喉の中 (星童)  狼にはせますぎる檻の中ぐるぐる、ぐぐるぐる (働猫)

胎内のようぬくい地下道そこから見えて夕焼地獄 (星童)
  ここから産まれ来るのであろうか女の地下道がぬくい (働猫)

母を愛して吾を憎む父が咳しておられる (星童)
  母を憎む手がつめたい (働猫)

だまされた私がそこから月夜になって出ていく (星童)
  だましたが幸せだったろうと月のない夜を逃げる (働猫)

*     *     *

自分にとっての「連れ句」の定義とは、相手の句を出発点にして詠む、ということである。
その距離は密接であってもいいし、遠く離れてもいい。
そのどちらでも面白い句になればいいのだ。
相手の句の情景や感動を、あるいは語句や方言を使うこともある。
全く使わないこともある。
しかし少なくとも連れ句の相手には、相手の句から詠んだものであることは伝わらなくてはいけない。
そして、そこで意識することは、相手に「そう読むか」「そう来るか」と思わせ、面白がらせることである。
時に相手の句の説明で終わっているような連れ句を見かけることがあるが、これは非常にまずい。
そんなものを見せられて相手が喜ぶはずがない。
何か冗談を言ったときに横から「今の冗談の何がおもしろいのか」を説明されるようなものだ。
辱めである。
連れ句とは相手の句への敬意、そして愛情の発露である。
愛情は、相手を楽しませることにつながるはずだ。
他者を思うことのない感情は乞いであり、愛ではない。
敬意と愛情。それが私の連れ句のメソッドである。
そしてそれを互いに持ち得るとき、連れ句は最も大きな効果を発揮する。
その効果とは、一人では辿り着けない名句への到達である。

笑い飯という芸人が私は好きである。
二人ともボケという珍しい漫才をする。
お互いがお互いのボケにボケを重ねていく。
ボケがどんどんエスカレートし、加速していく様子が非常に面白い。
無論、即興ではなくよく練られたネタがあるのだろうが、笑い飯の二人は、よりよいボケを、相手より面白いボケを、と競い合っているようでもある。
天坂寝覚との連れ句はいつも笑い飯の漫才を思い出させる。
よい相方、よい句友の存在が、連れ句という装置を通して、より高い次元へと自分を導いてくれるのだ。

次回は、そうした句友たちとの研鑽の場であった「鉄塊」を読む〔1〕。

【石田波郷新人賞落選展を読む】思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章 〈第十二章〉 田島健一

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【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章

〈12〉デリカシーもおべんちゃらもいらない
田島健一



12. 微熱(三島ちとせ)

俳句をつくる上でもっとも難しいことは、自分に正直であることだ。いい俳句をつくることも、うまい俳句をつくることも、私たちの可能性という時間軸のなかでひとつの技術として現れるが、「自分に正直であること」は、そのような因果関係の直線上に因果関係を持たない絶対的な関係性を生成する。俳句を書くとき、「書きたいものを書く」ということが最も大事であることは言うまでもない。それが俳句を書くことの倫理そのものだ。そのために大事なのは「自分に正直であること」だ。言い換えれば「書きたいもの」に対して真摯であることだ。

島唄を覚えるごとく亀鳴きぬ  三島ちとせ

「私は正直か?」という問いに正しく答えることは難しい。自分では正直であるつもりでも、どこかで誰かに「配慮」している。その「配慮」が書きたいものを書くことを邪魔する。日常の社会生活ではデリカシーのある言動が不可欠だが、少なくとも「俳句を書く」という行為においては逆である。それは「書くこと」のもっとも大事なものを遠ざけてしまう。

私たちが「俳句を書く」ということは、言い換えれば「無意識の配慮」との葛藤である。例えばそれは有季定型への「配慮」であるかも知れない。あるいは季語への。あるいは意味への。

「書きたいものを書く」ときの「書きたいもの」とは、厳密に言えばまだ「書けないもの」だ。「無意識の配慮」はそれまでに書いてき歴史と経験をもとに、あくまでも誰かを納得させるために書かせようとするが、本来私が「書きたいもの」は、まだ誰にも書かれたことのない何かだ。

とある日へ置き去りにする真冬かな

掲句の「とある日」とは、あたかも過去のある時点を指し示しているようであるが、それは「今」という地点から遡及して定義された歴史には書き込まれなかった時間だ。私たちが「書きたいもの」は、すでに予言されていたかのように、あたかも私たちを代理する。

掲句の「真冬」はめぐる季節のなかで何度もくりかえすものでありながら、「置き去り」にされたそれは、複写することのできないたった一度の記憶(これもまた遡及して生成された)である。私たちの「書きたいもの」もまた、そのようにしてあたかも「書き尽くされた」ものであるような見せかけでありながら、私たちの時間のなかでどこまでも「新しい」。

私たちが「無意識に配慮」しているものたちは、この「書き尽くされた見せかけに奉仕せよ」と呼びかけてくるが、俳句を書くためには、その呼びかけに反する「勇気」をもたなければならない。ここで言う「勇気」とは、私たちがまだ因果関係で説明することができない事象をそこに「書きとめる」ことに他ならない。

「自分に正直であること」は、この「書きとめる」ちからを、歴史性や日常性に還元されず、私を起点として私の責任の上で書くために必要な絶対条件である。

空耳であらぬ柘榴を割つてゐる

まさに「俳句を書く」ことは、「空耳」を書き留めるような行為である。それは「私だけに聞こえるもの」にまっすぐに従うことだ。「自分に正直であること」それは、「配慮に欠けた」ものではなく、そもそも「配慮に反した」ものなのだ。そこには期待された(私たちの「配慮」はその期待に対する「配慮」に他ならないのだが)意味が「ない」のではなく、期待された意味に反する「意味」が遡及されて生成される。

俳句は一般的に思われていることと異なり、全き「意味の文芸」である。しかしそこで言う「意味」とは私たちが生きる時間の中で実に複雑な様相を呈している。俳句に書かれる「意味」は、私たちの「主体」と直接的に関係性をもっていて、いわゆる「意味」は、その「主体」との関係性のなかで「私ではない私」によって語られる。

この「主体」と「意味」と「時間性」は、俳句がおのずから「語る」こと、つまりは俳句が「語り尽くしたこと」によってのみ描き出されるネガティブな領域の出来事である。

俳句を書く私たち、俳句を読む私たちに呼びかけられているのは、そのネガティブな領域からの声で、その声は常に私たちに勇気を求めてくるのだ。

<完>




【石田波郷新人賞落選展を読む】思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章 〈終章〉 田島健一

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【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章

〈終章〉

田島健一

≫2014「石田波郷賞」落選展


思いもかけず時間がかかってしまった。気がつくと、今年の石田波郷賞の選考も終わったようで、あやうく一周おくれになるところだった。あぶない、あぶない。

本来なら半年ほどで書き終える見込みだったが、最後の一章に書くことを迷っているうちに私生活の忙しさなどもあって、ずるずると時間が過ぎてしまった。その間に、私自身の生活においても第、三子が生まれたり、転職をしたり、「オルガン」という同人誌を始めたり、といろいろ大きな変化があり、おのずと自分の考えにも変化があった。

当初、十二編の作品について「読む」ことの依頼をいただいたとき、そもそも俳句を「読む」とはどういうことだろう、という疑問があった。俳句を「読む」とき、そこにはそれを読んだ読み手の「評価」が反映されるのは自然なことである。

しかし、既に「石田波郷賞」の選考をうけ、そこで一定の「評価」を受けた作品に対して、私がそれと異なる「評価」を読み与えたとしても、それは俳句を「評価」の多様性に落とし込むだけだろう。この十二編は十分に「評価」を受けているはずで、それについては作者各々が何かを感じとっているに違いない。

また、俳句を「読む」とは、俳句を別のことばに翻訳することでもないだろう。それは私たちが映画や絵画を観るときや、スポーツを観戦するときに、そこで観ている対象に別の文脈を与えるよりも前に、そこから直接に何かを感じ、そのあとにその感じたことから思考が飛躍していく。俳句を「読む」とは、そのような飛躍のなかで、対象と私のなかにある別の言葉が結びついて、あたかもそこに書かれた作品(句)とは結びつきのないような印象を構築することでもある。その意味で俳句を「読む」というのは創造的なのだろう。

そういう意味で俳句を「読む」ことを、その「評価」と「翻訳」から解き放つにはどうしたらいいか、ということが私自身の課題だった。

だから、これまで書いた十二章は、十二編それぞれについての「鑑賞」ではない、と感じられる方も多いだろう。実際にこの十二章は対象となった十二編の作品「について」書いたものではない。そうではなく、その十二編が書かれたことから感じとった俳句の構造について、私自身のなかに問いかけながら書いたつもりだ。

当初〈序章〉で「俳句は、天才がつくる文芸である」と書いた。それは、俳句が一部の天才のためのものだ、ということではなく、誰もが自分自身のなかに埋もれている言語化されていない「天才性」と向き合いながら書くものだ、ということだ。

誰の中にも「天才性」がある。その「天才性」に触れるためには、自分自身のふかいふかいところに自ら降りていかなければならない。それは、私たちの日常的な思想や、社会的な地位・立場、年齢、性別、などとは全く無関係なものだ。

この十二編について書くことは、私にとって「偶然」に他ならない。その「偶然」を受けて、私は自分のなかの深い沼に糸をおろした。それは「私のために」書いたに違いないのだが、同時に、それは「俳句のために」である。

この「偶然」は、いつか遡及して「意味」を生成するだろう。

最後になるが、そのような「偶然」を与えていただいた週刊俳句のスタッフの方々と、十二編の作者の皆様に御礼を申し上げたい。

平成27年10月   田島 健一



セックスと森と、カール・マルクス。 柳本々々を読む 小津夜景

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セックスと森と、カール・マルクス
柳本々々を読む

小津夜景




柳本々々の作品を読んでいると、ごくたまに「森」という語に出会うことがある。そして現在のところ、この語はたいへんあからさまに「性」(特に、性交ないし女性器)を意味している。

  ひゅううんと結婚と森とひゅんひゅうん
  森林にひだがあるとか本気かと
  しんりん、とくちびるがいう性的に

一句目は飛ぶことを介して性愛の高揚を描いたもの。どこか夢の出来事にも似た、別世界の霊力に満たされたかのようなひとこまだ。また他の句でも、シュールレアリスム風に性を扱うにあたり「森」がそのシンボルとして駆り出されている。 

それはそうと、なぜ森」なのか? 単純な理由だったらいくらでも思いつきそうだ。たとえば「森」は仄暗く、湿り気がある。葉が生い茂って、実際に入る以外にその奥を確かめることができない。たまにそこで宗教的秘儀さながらのトランス・コンタクトが行われる。またそのコンタクトにはどこか崇高な快楽を伴う。さらにそこは知れば知るほど言語に回収できない迷宮性を帯びる、などなど。

そういえば、柳本がひそかに繰り返している主題のひとつに「森のくまさん問題」というのもあって、これは柳本の読者にしてみたら当然の話かも知れないのだけれど、実をいうと私はなにゆえ柳本が童謡「森のくまさん」について言及を重ねるのか長い間よくわかっていなかった。それがある時とつぜん「森」がセックスの比喩だと悟り、そこでやっと「なるほど『森のくまさん問題』というのは、こっそり性交を匂わせつつ、くまさんとお嬢さんとが繰りひろげるコミュニケーション・マターだったのか!」と思い至ったのである。

「森のくまさん」の歌詞というのは、形式的にも内容的にもめっぽう完成度が高い。熊は逃げなさいと言いつつ少女を追いかけてくる。少女は逃げながらも追いかけてくる熊を待っている。それというのも、貝殻のイヤリング、すなわちおのれの分身(貝&耳輪なので、やはり女性器だろう)を忘れてきたから。最後は貝殻のイヤリングを返してもらい「ラララララ」と歌をうたっておしまい。殊に、ラスト一連にみなぎる異様な高まりには「ひゅううんと結婚と森とひゅんひゅうん」とまったく同じ匂いの狂気が感じられる。

  あるひもりのなか/くまさんにであった
  はなさくもりのみち/くまさんにであった

  くまさんのいうことにゃ/おじょうさんおにげなさい
  スタコラサッサッサのサ/スタコラサッサッサのサ

  ところがくまさんが/あとからついてくる
  トコトコトッコトッコト/トコトコトッコトッコト

  おじょうさんおまちなさい/ちょっとおとしもの
  しろいかいがらの/ちいさなイヤリング

  あらくまさんありがとう/おれいにうたいましょう
  ララララララララ/ララララララララ
  ララララララララ/ララララララララ

さあとことん解読してくれ……読者の前にその身を投げ出さんばかりの歌詞だ。これに対する柳本の考察は以下のとおり。

くまは少女を食べようとする一方で、お逃げなさい、という。くまの内面はあきらかに分裂している。わたしたちはここで一匹の動物の恋愛論をまのあたりにしている。恋愛とは、おそらくは恋愛対象を身体的・精神的に侵食していくその一方で、逃走させていくこころみでもあるだろう。恋愛とは矛盾であり、両義なのだ。わたしが生きるためにわたしはあなたを食べるだろう。しかし、あなたが生きるためにわたしはあなたを逃がすだろう。(中略)それにしても、逃げろといわれたにも関わらず、わざわざ落とし物をしていく少女の恋愛論はどうなるのだろう。おそらくは、こうだ。恋愛とは、無意識領域におけるゲームである。*1

浸食と逃走、矛盾かつ両義、無意識領域におけるゲーム——以上が柳本の分析である。コミュニケーションをかんがえる時はその文脈の規定が必須なので、当然この分析は、熊と少女との恋の駆け引きが「森」という性的現場で行われていることを念頭に置いてのものだろう。

  森の中くまさんとだけ出逢えない
  トレンチを着込んだ森のクマさんが「お逃げなさい」と抱きしめる夜

うした作品は、浸食と逃走、矛盾かつ両義、無意識におけるゲーム、といった先の分析をありのままに反映している。また「森」が性愛の甘美および危機の舞台として機能していることも捉えやすい。こうかんがえてゆくと、柳本における「森=性」の図式とは、森林のもつれあう枝葉が必ずやわたしの心を絡めとるであろう予感と、その枝葉をわたしが御することの不可能とを同時に想像させるための見立てだったのだ、と定義できそうである


ところで、柳本の作品で性を担うのは、実は「森」だけではない。「マルクス」とか「カラマーゾフ」なども立派な性のメタファーになる。なぜそんな恐ろしいことになってしまうのかというと、どうやら髭がポイントらしい。


マルクス——まるで森そのもののような風貌の人。もはや歩く森だと言いたいくらい。ちなみにカラマーゾフの方は、ドストエフスキーの小説のこんがらがった雰囲気と、カラマーゾフという名前の文字どおり「からまったぞ感」とが柳本をして「森」を妄想せしめるようだ。またカラマーゾフはその音だけでなく、実際こんな風にもからまる。もちろん髭で。


  (ガジュマルの樹と化したカラマーゾフの兄弟*2

さて。このようなマルクスやカラマーゾフが登場しつつ、ひそかに髭=森=性の役割を担ったテクストとして、さいきん柳本は「マルクスだいすき」という詩を発表した*3。これは、つまるところ「セックスだいすき」という趣意なのだけれども、とても繊細なコノテーションをもった、まるで性カウンセリングのごとき芳香の作品に仕上がっている。

テクストは、はじめに性への恐れを告白する短歌が置かれたあと、詩のパートに移り、またさいご短歌が来るといったつくりになっている。少し、読んでみよう。

マルクスだいすき     柳本々々

マルクスとふたりで乗った観覧車ふるえる右手、そっとつかんだ
わたしたちの遊びはいつもマルクスのひげのなかに手をいれることだった
長い廊下をあるいていって、つきあたりを右に曲がると、壊れかけのロッカーのよこにマルクスが体育すわりでぐったりとしている
3・1
そのマルクスのひげのなかにてをいれてかえってくる

私がまず興味をひかれたのは、マルクスが森、すなわち恋人たちの性愛の舞台となっていること。次に、女性器がマルクスの髭として外在化かつアニマロイド化*4していること。さらにの女性器の外在化によって本来なら「わたし」が「かのじょ」に向けて遂行するはずの〈相手を食べようとしつつ同時に逃がそうとする〉シナリオ、すなわち〈浸食と逃走の恋愛ゲーム〉がこっそり回避されていることの三点である

女性器の外在化は「森のくまさん」でも見られた構図。あちらの少女は熊に惹かれるがゆえに、イヤリングに化けた女性器を「うっかり」落として逃げた。そして自分の気づかぬうちに処女喪失が終えられることを期待した。こうした手順の背景には、少女のたいへんシンプルな性への恐れが見え隠れしている。

一方「マルクスだいすき」の「わたし」は「かのじょ」に対しいかなる暴力(浸食)も命令(逃走)も加えない。その代わり二人一緒に、なんどもマルクスという「森」の中へあそびにゆく。そして「かのじょ」がみずからマルクスの髭と戯れるのを観察し、その感触について質問し、彼女が自己の性を見定め、受け入れるプロセスをじっと見守るのである。

わたしはかのじょのようにふかくてをいれたことはないが、かのじょはてをふかくながいじかんをかけていれていたことがある
4・1
かのじょはそのときマルクスとすこしのあいだみつめあっていた
4・2
よかったの、ときくと、よかったという
4・3
意思疎通ができていたんじゃないかとかのじょはいう
4・4
そのときはじめてマルクスのくちびるやにのうでをしげしげとみることができた
4・5
それにマルクスはすこしおびえていたようだった

このようにマルクスをより深くさぐり、またかんがえようとするのは「かのじょ」の側だ。たぶんマルクスの中心が、彼女自身の可能性と不可能性の中心だということを無意識に知っているがゆえに。またうした「わたしたちのあそび」がスムーズにくよう、マルクスの〈森としてのポテンシャル〉入念に去勢されている点も、けっして見のがせない。

マルクスはまだぐったりとしている
6・1
わたしはときどきマルクスのところにいってマルクスにくだものややさいやなまにくをほおばらせたりしている
6・2
だいすき

おびえつつ(45)、ぐったりとして(36)、自分だけでは食事もままならず(61、あたかも根を失った木のように腐ってしまう(9)マルクス。こうしたマルクスの弱体化は、「」に潜在する力に「わたしたち」が足をすくわれないようにとの作者の配慮にちがいない

もっともマルクスを弱体化しても、このテクストにはまだ別の「森」がひそんでいる。あのカラマーゾフのことだ。

ひげの奥はどうだったのとわたしが思い切ってきいてみるとかのじょはわらってごまかしてしまう
5・1
エメラルドグリーンの矯正器具がみえる
5・2
わたしの姉とおなじめをしている
5・3
姉「あなたのなかにもカラマーゾフがいるのね」

「かのじょ」は笑う。すると矯正具が見える。きっと「しんりん」と呟いたことのある、そのくちびるのあいだから。

女性器に嵌められた、教育・調教・馴致のための拘束具。多分、これは貞操帯の役割を果たす器具なのだろうまたエメラルドグリーンといった強い聖性を放つ色は、いわゆる護身石同様、大切な場所に他者をよせつけないための表徴のように感じられる。ここから読みとれるのは「かのじょ」は外在化した女性器には触れることができるものの、みずからの性にはいまだ枷をはめた状態である、ということだ。片や「わたし」はそんな「かのじょ」を見つめているうちに「姉」を見ている気分になり、かつその姉からわたしの中に生い茂るカラマーゾフを指摘される。すなわちとしてのポテンシャルと、性愛をめぐる〈浸食と逃走〉の欲望とを見抜かれてしまうのである。

「マルクスだいすき」における最も重要なシーンは、まちがいなくこの個所である。実際このシーンがどのように存在するか(あるいは存在しないか)で、作品の奥行きもその緊張の度合いもがらりと変わってしまっていたはずだ。そこを柳本は、スライドする人物虚をつかれるセリフ内容、触感あふれる行間のモンタージュといった操作によっていずれもなく、ゆっくりと着実に切り替わる映像のごとく展開しえている。それにしても、貞操帯をはめた肉親のくちびるから「あなたはわたしを食べようとしているでしょう?」と語りかけられるとは、なんと不気味な主体の〈危機〉なのだろう。

この〈危機〉を経た後、柳本は、森=性が「わたしたち」のあいだで〈食らうこと、逃すこと〉ではなく〈繋がること・結びつくこと〉として共有されるよう、この詩をそっと仕向けてゆく。かくして「わたしたち」はプール通いを始め、水中で、お互いの筋肉をひと夏かけてじっくり揉み合うのだ。この水中でのメンタルケアとでも呼びたくなる描写に込められた、あまりにデリケートなやさしさ。

次のマルクスはもうこの町内に引っ越してきているという
わたしとかのじょはこの夏、プールにかよいつづけた
8・1
おたがいの筋肉をさわりあっているうちにわたしとかのじょはマルクスを共有できたようなきもちになっている
8・2
もうすこしさわってねといわれる
真夜中にほとんど腐ってしまっているマルクスのもとにいく
9・1
「きんにくのふしぎ」という詩を書くよ、とわたしはマルクスにいった
9・2
マルクスのひげが弾力をもってぴくぴくする
9・21
マルクスだいすき

次のマルクスがやって来ている。一方「わたしたち」のマルクスはまもなく朽ち果てるだろう。マルクスだいすき。そしてこの詩はこんな短歌でおしまいになる。

10
マルクスの渦巻くひげにてをいれた少女が貰う勇気の貨幣

森=性としてのマルクスは、魔法をとかれたのように消滅した。一方「かのじょ」はといえば、自分の性器を、勇気と共に手に入れ直したらしい。も「かのじょ」は、いや「わたしたち」は観覧車どころか、なにもない場所を高く飛翔することさえ恐れないだろう

以上がこの詩の全貌だ。ここで辿られた性のお話は、とてもシンプルかつ普遍的なもの。にもかかわらず柳本のこまやかな描きぶりは、性愛というどこにでもあるものを、少しもステレオタイプな存念に落とし込まなかった。それどころかこの詩は、男性も女性もふだんは語ることを忘れてしまっている、素朴なヨガのごとき性愛術への啓きをさえ感じさせる。「という、とてもふしぎな性愛の世界。「マルクスだいすき」は、すぐれた構想力と構成力とによって綴られているばかりでなく、人の尊厳に対する柳本の深い思いやりと洞察力とあふれた作品でもあるだ。


【註】
*1青空のなんと青かったことか
*2カラマーゾフの兄弟(髭的な意味で)。
*4ふだん柳本がたずさわる川柳とアニマロイド(獣人)との関係についてはこちらを参照。


【八田木枯の一句】子どもには子どもが見えて秋のくれ 角谷昌子

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【八田木枯の一句】
子どもには子どもが見えて秋のくれ

角谷昌子


第五句集『夜さり』(2004年)より。

子どもには子どもが見えて秋のくれ  八田木枯

かくれんぼをして遊んでいたものの、見つけてもらえず、忘れられたまま、ほかの子どもたちは、みんな帰ってしまった。あたりがとんと暗くなり、急に不安になって物陰から出て来たその子は、きょろきょろと木立や道を見回し、自分だけが取り残されていることを知る。

その子は、〈子どもには子ども〉なんて決して見えていないのだと、いや、見えないより、忘れられることのほうがもっと哀しいと、拳を握りしめて帰ってゆく。
その子は、自分の夢想の友人を持つようになる。期待しなくてもすむ、現実には存在しない、座敷わらしのような、特別な力をもつ子どもを友とする。その友は、いつでも一緒に居てくれて、その存在を常に感じられ、呼べばにっこり現れる。どんなことがあっても、自分を見捨てたりしない。

掲句の〈子ども〉は、そんな不思議な存在のように感じられる。普通の〈子ども〉ではなく、必要とする者にだけ、見える友なのだ。純粋なこころを持つ者が求めれば、ちゃんとその姿を見ることができる。秋の暮の闇が迫るころ、ひそかに名前をつぶやくと、ひょっこり顔をのぞかせてくれる。やがて〈子ども〉が成長してそんな特別な〈子ども〉なんて居ないと思うようになると、もう全く見えなくなってしまうのだろう。

八田木枯は、この句を、大人には子どもがちゃんと見えておらず、見えるのは子供同士だから、などと教訓的な意味合いをこめて、作ったとは思えない。異界から現世にやってきて、ふっと物陰からこちらを上目づかいに見ているような〈子ども〉を描きたかったのではなかろうか。郷愁をさそう、だが、ちょっと怖いような〈秋のくれ〉、「夜さり」の雰囲気を一句に詠み込んだに違いない。


俳句の自然 子規への遡行46 橋本直

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俳句の自然 子規への遡行46

橋本 直
初出『若竹』2014年12月号 (一部改変がある)


芭蕉の高弟である宝井其角が、その編著『句兄弟』において以下のように書いている。

  縦の題には古詩、古歌の本意をとり、連歌の式例を守り 
  て、文章の力をかり、私の詞なく、一句の風流を専一に
  すべし。横の題にては、洒落にもいかにも、我思ふ事を  
  自由に云とるべし。

すなわち、横題の季語は本意本情を尊ぶ必要がなく、自由に詠んでいいということである。前回も触れたが、いま注目している季語「鶏頭」は、この横題にあたる。

前回、子規の分類した近世の鶏頭の句から、その詠まれ方の傾向を整理し一一の項目にわけたが、それはいわば、その其角の言うところの「自由」が江戸時代にどのように行われていたのかの中味を分析したことになるだろう。そして、虚子の『新歳時記』の説明は、その詠まれ方の傾向にも合致していることを最後に指摘しておいたが、紙幅の都合で書き足りなかった部分を補足しておくと、具体的には、「妖艶といふよりどこか陰鬱」な印象、「佛花」に使われること、「小さい花が無数にむらがり咲いてゐる」特徴、「霜が降りはじめる頃まで枯れない」花期の長さ、「小さい實を一杯持つてゐる」(つまり種が多い)等の性質やイメージのことをさす。

この、近世以来自由に詠まれてきたはずである鶏頭の、その詠まれ方をさらに時代を下って確認してみようと思う。

まずは、子規の鶏頭の句についてである。子規の鶏頭と言えば、なんと言っても明治三三年の句会で詠まれた「鷄頭の十四五本もありぬべし」がよく知られているだろう。この句については後に検討するとして、まず全体の傾向を追う。子規が鶏頭を詠んだ句は、確認できたところで五十三句あった。そのうちいくつかを引く。

まず、写生を知る前の習作期。
 
  イ 鷄頭や壁のやぶれた夕日影    明治二四
  ロ 鷄頭や馬子がきせるの雁首に     二五
  ハ 何もかもかれて墓場の鶏頭花     二五
  ニ 百姓の垣に菊あり鶏頭あり      二六
  ホ 裏町は鷄頭淋し一くるわ       二六
  ヘ 鷄頭や賤が伏家の唐錦        二六

イは花の色や形のイメージを「壁のやぶれた夕日影」と「夕日」に重ねる点で、前回あげた①の「色から連想される日・火・炎・灯への見立てや対比」に当たる。ロは葉鶏頭の異名「雁来紅」ときせるの「雁首」をかけた着想であり、ヘも同じく鶏頭の古名「韓藍」と「唐錦」の連想を指摘できよう。これらは前回挙げた⑤「異名(韓藍・雁来紅)からの連想」にあたる。さらに、このヘの句の貧家の鶏頭を上等な織物と見たてる趣向は、前回挙げた⑤の例句b「鶏頭や紅錦繍の裏住居」との類似を指摘できよう。子規は、自作に先行する類句がある場合は削除しているが、どうやらこの句には気づいてはいなかったようである。

ハ句は⑧「仏前に供える花」にあたろう。ニホ句は貧家の侘びしさの中の句である。虚子の歳時記の解説にいう「どこか陰鬱」に通じる傾向であり、イハニも同様である。その中で花に一縷の明るさを見て取れる点で①に当たると考えることができようか。いずれにせよ、これらは総じて、近世の発句の趣向をでていない句群とみてよいと思う。次に、子規が写生を方法に取り込んだ明治二七年以降の句をみる。

まずはその写生の句をいくつか引く。

  鷄頭のうしろを通る荷汽車哉     明治二七
  鷄頭の夕影長き畠かな          二九
  村會のあと靜かなり鷄頭花        二九
  鷄頭に大砲ひゞく日午也         三一
  鷄頭の短き影や蟻の穴          三一
  鷄頭の花にとまりしばつた哉       三三
  萩刈て鷄頭の庭となりにけり       三三

これらのように、近世の句にあったなんらかの趣向を念頭においた句作りとは違って、なんでもないただの風景をただの風景として詠んだこれらの句群は、子規の真骨頂と言っていいのかもしれないが、案外にそのような句の数が多くない印象を持つ。さらに、写生を称え始めて以後の子規がすべて写生の句を詠んでいたわけではなく、引き続き近世のそれと同様の趣向の句がある。再び前回の近世の句を分けたものを用いて子規の句にあてはめてみると、

 ①色から連想される日・火・炎・灯への見立てや対比
  鷄頭や油ぎつたる花の色      二七
  鷄頭や雨の夕日の壁を漏る     二七
 ⑥花期の長さによる
  秋盡きんとして鷄頭愚也けり    二九
  鷄頭や二度の野分に恙なし     三三
 ⑩仏前に供える花  
  佛壇に鷄頭枯るゝ日數哉      三一
  鷄頭活けて地藏を洗ふお願哉    三二

①の句の「油ぎつたる」というのは、鶏頭花の生命力のぎらぎらした感じを子規なりに言い留めた工夫かもしれないが、油と「灯・火」との連想の親和性は高いだろう。その他も、先の江戸の句群に混ぜるとほとんど大差のない句と言えるのではないだろうか。次回では、子規独特の鶏頭の句の表現について検討し、さらに子規以外の句にも触れてみたいと思う。

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(16) 今井聖

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名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (16)
今井 聖

 「街」110号より転載


尾をふりて首のせあへり冷し豚
三条羽村(さんじょう・うそん)『虚子編新歳時記 増訂版』(三省堂)

なんだこりゃ。
  
オヲフリテクビノセアヘリヒヤシブタ

三条羽村は一九五六年に『かさゝぎ』という句集を出している「ホトトギス」の俳人。この句集に虚子の序句を戴く。

俳句に季語が必要な根拠は何か。

これについては俳句が発句として連歌連句にその源を発していることから、雪月花に代表される季節の在り方が基本であったこと、ひいては日本や日本人との季節との関りが民族的定型詩俳句にとって本然的であるということ、そしてその「季節」というのが二十四節気というのを基準にしていることなどがよく言われているところである。

俳句と季節というものの関係が密接であってそこを俳句の根拠とするという言い分はわかる。

わかるが、では、季語というものが
①誰が定めて、何処に記載されているのか。
②そこに記載されている「季語」以外は季節の言葉としては認められないのか。
ということについてはどうなんだろう。

①は虚子。虚子編の歳時記に載っているものだけが「季語」であるという常識にホトトギス派はもちろんのこといわゆる伝統派も誰も異を唱えない。(他の歳時記でも可という立場を取る人もあるがまあ大同小異だ)

②については「そこ」に載っている季語以外は認められていないのが実際だ。

現実、草花の名称などを見て、あれっこれは季語になってるんだっけといって歳時記を開いて調べ、載っていないと「これじゃ季語にならんなあ」と言及するのが主宰者クラスの俳人だって実情だろう。季語にならんということは俳句にならんと同義である。

前段の俳句の季節の関係についての言い分はわかるとしてそこからどうして①と②につながるのか。

これは論理的に無理でしょ。これは変だと思う伝統派俳人が出ない方がおかしい。宮坂静生さんなどは地域に根ざしたその地独特の「地貌季語」の発見普及に努めている。

季語大切派が季語そのものの設定について新しい提唱を始めたのだ。バイブル批判はバイブルをひもといてからしなければならない。

バイブル『虚子編新歳時記』を開いてみた。

初版は昭和九年、十五年に改訂版、二十六年に増訂初版、手許にあるのは平成十九年の増訂七十一刷のものである。

歴史も刷数もまさに俳句のバイブル。箱から出すと草色の表紙に朱色で「花鳥諷詠」と右から虚子の筆跡をそのまま横書きに大書してある。ありがたや、ありがたや。

「序」はもちろん虚子。

この歳時記をまとめるに際しての方針として五項目が列記してある。紙幅のこともあるので最初の二つを挙げて見よう。

「俳句の季題として詩あるものを採り、然らざるものは捨てる」
「現在行はれてゐるゐないに不拘、詩として諷詠するに足る季題は入れる」
等々、この調子である。

つまり虚子が「詩」を感じうるかどうかを季語の採否の基準にしているということ。これは編者の態度として明解である。

問題は虚子の判断を絶対の「季語」としてしまっている「伝統派」俳人の側の問題だ。

「ホトトギス」の人たちがその判断を教典とするのは理解できても、その他の季語大切派の人たちは季節の事物の採否について個々自分たちの「詩」を主張してこそ主体的伝統派なのではないか。

この歳時記を読んでいてさらに虚子の「詩」感覚を発見した。掲出の句である。

季題索引の「馬冷す」の項目の例句にこの句が出ている。どの項目も其角、蕪村、白雄などの近世俳人を始め虚子本人の句はもちろん、静雲、風生、漱石、草田男、たかし、誓子、蛇笏などのホトトギスの俳人たちが綺羅星のごとく並んでいる。

その中でのこの句である。

「馬冷す」は、「牛冷す」の項目と別個に立ててある。解説には、
「暑中労役後の馬の汗を落し、又暑熱から避けてやるために、河や沼などに入れて暫く冷してやる。」
とある。

その例句の中の「豚冷す」である。

この季題に対する虚子の考え方が出ている。すなわち虚子は「労役後の馬体を冷す」の「労役後」というところにこだわっていないのだ。「暑熱から避けてやるために」というところが虚子にとってのツボなのだ。だから労役に用いない豚を冷す句を採用することになる。

いいですか、ここが重要ですぞ。

「私は季題の本意、本情を大切にして句を作ります」とのたまう伝統派俳人の方、あなたは季語の採択の絶対条件として虚子編の歳時記に採用されたものを挙げているなら、「本意、本情」も虚子に倣えしなければ矛盾が生じる。虚子が「労役後」を意識の外に置いている以上、本意、本情は「暑熱から避けてやるために」の方にありますぞ。

つまり、家畜を暑熱から避けてやるための水掛なら認めねばならないということ。山羊冷す、羊冷す、驢馬冷す。みんな大丈夫だ。これらはまさしく季語ということになるでしょう。

それとも虚子が認めた変り種として「豚冷す」だけを馬や牛の例外として認めることにしますか。それとも虚子が認めているからと言って私は豚冷すは認めんとおっしゃるのか。虚子編歳時記をバイブルとして絶対化しておきながらそれは矛盾でしょ。

最近の季語に対する新しい考え方の中には、季語をコトバとして捉えるというのがある。

例えば涅槃西風(ねはんにし)という春の季語があり、これは涅槃会(陰暦二月十五日の釈迦入滅の日)の頃に吹く西風を言い、俗に浄土からのお迎えの風という、と本意の解説がある。

そうするとですよ、涅槃西風という季語を用いるときは、西風に当りながら、ああ、今日は釈迦が入滅なされた日だと嘆ずる本意が込められているべきであろう。季語大切派なんだから。

生身魂という季語は盆のとき帰ってくる精霊を迎えると同時に生きている家の古老を上座に置いて感謝を込めて小宴を催すというのが本意。

最近の句の中の生身魂は単なる老人の生態や発言をそれらしく描いた句ばかりだ。

例えば、子規の句「生身魂七十と申し達者なり」だってそういう上座に坐っての古老の言葉と解するのが本来の「生身魂」。だってこれ季節の行事を本意としてるんだから。

ただ老人の生態を描くなら、それ季語じゃないでしょ。

そうすると逆ギレする人がいる。現実にあるかどうかじゃなく、コトバとして面白いから使ってどこが悪いという意見も出そうだ。

あのね、その言い方を論拠にして昔「新興俳句」は出発したんです。「写す」という方法も季語もナンセンス。コトバはコトバ以上でも以下でもない。詩語としてのコトバを俳句に用いるということで。

それも俳句形式にとっては短絡的でおかしなモダンだと僕はずっと言い続けてきた。季語をコトバとして用いるなら季語にこだわる意味がない。コトバはすべて同じだと主張した方がすっきりする。

僕の考え方を言います。

俳句は「写生」だ。写すことがまず在る。写すことは実感です。見て、聴いて、触れて、味わい、匂うこと。
本意、本情などという「知識」をあらかじめ予定しない。
本意、本情は実感が決まればあとからついてくるもの。
歳時記の中の解説や傍題に捕らわれないこと。

「豚冷す」は視覚的現実のナマの実感がいかに強いか、写すことがいかに驚きに満ちたものであるかを教えてくれる。

写生のための空間描写に有効なひとつの手段として季節がある。

一に「写生」、二に季節。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。


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週刊俳句 第444号 2015年10月25日 

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第444号
2015年10月25日



2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫(16)
尾をふりて首のせあへり冷し豚 三条羽村
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2015角川俳句賞落選展  19 折勝家鴨 「塔」テキスト

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19.  折勝家鴨 「塔」

冬銀河子が減り子守唄が減り
鳥は枝に大樹は山に冬深し
冬立つやひとりひとつの顕微鏡
寒柝の耳にイヤホンありにけり
松過や手の中軽き雀の死
棕櫚の葉は音を絶やさず春隣
雪解や轍やくかいにして愉快
薄氷や睫毛の長き男の子
ふみきりの音なく開く寒露かな
臘梅や水を掃きたる竹箒 *
水仙の固まり咲や頭痛せり
春寒や白樫太き画家の家
理科室の棚に鍵あり梅の花
ペンいつも心にありしクロッカス
鳥雲に入る半地下の文芸部
春深しハモニカに舌乱れつつ
雨空に町の古びしつばくらめ
雨止んで菠薐草の茹で上がる
春の日やパスタの白子こんもりと
囀や海風に干すバスタオル
画用紙の空は一色夏隣
ジーンズを履いて臍出る立夏かな *
風ひとをさびしくさせるパセリかな
紙折つて塔の立つなり夏はじめ *
靴擦れは少女のこころ花薺
空席に木の影ありし五月かな
分校や蟻の集まるひとつの死 *
眼の端に動くものある薄暑かな *
丸まつて眠る地球や栗の花
梅雨深し電光ニュース来ては去る
心臓のかたちに百合の蕾かな
爪噛んで六月の音したりけり
耳美しき耳遠きひと著莪の花
出世とは無縁の名刺花南瓜
掛香の女の肘の尖りけり
噴水の止まりて言葉詰まりたる *
われは今海に迷ひし夏の蝶
足首の無防備にある泉かな *
ロボットの胸に脳ありソーダ水
日盛や時に値のつく道具市
少年の夏自転車を分解す *
蟬時雨腕立て伏せの胴長し
白ハンカチーフ笑顔も泣き顔も
日盛や鳩を散らして人を待つ *
声出して心戻しぬ草の花
星と星引つ張り合ひて涼しさよ
さみしからずやオリーブの実と文学と
秋澄むや野にはればれと膝頭
虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 *
雁渡し本棚本と共に古る

 *「俳句」11月号掲載句



■折勝家鴨 せっかち・あひる
昭和37年生まれ。
平成15年9月鷹俳句会入会。
平成24年鷹俳句会新葉賞受賞。
鷹同人・俳人協会会。

2015角川俳句賞落選展 18 すずきみのる「初扇」テキスト

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18.  すずきみのる 「初扇」

自転車の轍にじみて斑雪道
ローラーが雀がくれを熨しゆけり
春光や畠に呼び水用バケツ
抜く腸もぷりぷりとして春鰯
風に真向ふチユウリツプ赤も黄も
入学子教へ子として見わたしぬ
雑踏に遍路終えたる白衣装
京言葉枝垂桜を愛でゐたる
胸割かば桜や梶井基次郎
雲雀野に届く霧笛の切迫す
つちふるやグランドに脚からみあひ
天井より涅槃図床へ垂れゐたる
空やがて雲引きのばし春ゆふべ
飛行音とよもす空に初燕
青嵐になびくハートや航空祭
足元をロボツト掃除機聖五月
竿たわませてもつれあふ鯉幟
花芯よりつまみてはなむぐりを剥がす
とかげ息せりあまた罅あるつち壁に
みつちりとみしとさみどり小判草
言はざりしシヤツの背に蛾の貼りつくを
薔薇をきる雨のしづくを残しつつ
天墜つることもあるべし油照
名にし負ふ大くわがたのつぶれ貌
かの人の背筋正しき夏座敷
花火師を照らし出したる垂火かな
稜線をまなかひにして蕎麦の花
残業に疲れ七姫なる君よ
真榊を柱にさして神馬肥ゆ
玄関ににほふ銀杏踏みし靴
昼足らぬ歩数をかせぐ良夜かな
ほうと木菟窓を圧して山の闇
切りし爪庭まで飛びて秋うらら
小屋裏をのぞきてをれば秋の雷
針金の手脚伸ばせり鵙の贄
葱刻み終え包丁に水流す
脱力のセーター椅子の背もたれに
寒あかね鉄とガラスの美術館
寒鯔を手ばやくさばく水気たて
錯綜の枝のまなかにかぢけ鳥
夢寐にきく幽冥の楽もがりぶえ
大根の穴や異界に続く道
寒木瓜のそびらに枝の差し交はし
凍て灯すあまた名を彫る部落燈
クロゼツトの暗きに向けて豆をまく
初日の出天動説を許容せり
新聞の厚みうれしき初景色
初富士や住み古りゐたる富士見町
女正月なりけり寡男の厨事
初扇静かに閉ぢて仕舞とす





■すずきみのる
1955年生まれ。鳥取県在住。俳人協会会員。「参」「鼎座」「汀」所属。句集
『遊歩』。

2015角川俳句賞落選展 17 杉原祐之「日乗」テキスト

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17. 杉原祐之 「日乗」

しやぼん玉吹く子吹かれて泣きたる子
畦塗の準備のままの猫車
奥ノ院まで石楠花の磴続く
子の髪に匂ひのありて夏近し *
遠足の子の聖堂に静まれる
監獄でありし砦に西日差す
遊船や屋根を開きて橋潜る *
忙しいふりアイスコーヒー持ちながら
明らかに人手不足の神輿来る *
図書館の駐輪場のリラの花
恋人の髪のやうなる海松を刈る
それぞれの色に熟して実梅落つ *
浜砂にやませの湿りありにけり
海の日や海岸倉庫飾らるる
物の怪のやうな音たて油虫 *
夕立の気配に露店畳みだす
制服の脛たくし上げ川遊 *
橋の上に踊つてゐたる虫送
天の川濃くなり冷えて来りけり
ホームへと飛び降りてゆく帰省の子 *
潮の香の増して来れる盆踊
報知器の響き渡れる厄日かな
廃校の窓に小鳥の来ては去り
南のほのと明るき無月かな
土管より頭を出せば秋高し
空港の管理用地の薄かな
刈取を明日と控へて稲雀
玉砂利に芝生に萩のこぼれけり
けふまでの展覧会や文化の日
秋祭隣の在の子も交じり *
古本の山を値踏みの夜学生
のつそりと担がれてゆく熊手かな
リビングの隅の聖樹の消し忘れ *
富士見ゆる坂の減りたる翁の忌
大いなる音たてて散る銀杏かな
黒土の濡れてをりたる火事場跡
数へ日の紙屑だらけ競馬場
演習の土嚢の積まれ枯野原
潜水艦へ氷の岸を伝はねば
要塞の島の岩盤凍てつける
キャタピラの轍の残り厚氷
聖堂の二重扉の虎落笛
スケートや渦抜けたくて抜けられず
初釜を明日に並べる妻の帯
蝋梅の蘂も香りも黄金色
早梅や湯島の岡の暮れなづむ
屋根屋根に雪を積み上げ町眠る
据えらるる鹿の剥製雪山家
懇願に近き主張の息白し
川原飯炊き終へ雛を流したる *

 *「俳句」11月号掲載句



■杉原祐之 すぎはら・ゆうし
平成十年「慶大俳句」入会。平成二十二年、句集『先つぽへ』。
『山茶花』『夏潮』

2015角川俳句賞落選展 16 吉川わる「アディオス」テキスト

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16. 吉川わる 「アディオス」

看板の白く潰され春の風邪
初雲雀北半球に磁場乱し
声のみを聞きすれ違ふ春の山
プラタナスらせんとなりて芽吹きけり
通勤や流るるさくら来る桜
おとなしく傘たたまれて花の冷
父さんと母さんの留守雀の子
雨過ぎて離陸始むるさくらかな
饅頭(まんとう)のかたちほころび花水木
小さき花と思へば開き花水木
黄金週間鳥の喧嘩を止めにけり
少年は塀ふはり越え豆の花
図書館の本に色あり更衣ふ
枝々に四十雀の子隠れけり
グランドの四隅に内野夏つばめ
桑の実や紫に染む鳥の糞
黙黙と天ぷら食らふ夕立かな
空を飛ぶ子どもの写真夏の霧
滑空に憧れのあり秋立つ日
アディオスは別るることとつくつくし
不揃ひの楕円のタイル盆の月
長き夜や水兵リーベ僕の 船
鉄棒の匂ひ残るや曼珠沙華
言ひ訳をしてゐる秋の阿修羅像
一粒の地球みどりの葡萄かな
振り返り足の裏見む星月夜
まつすぐに猫失せてゆき虫の闇
地下足袋のコーラスの行く十三夜
秋の灯や風呂のものみな当たりよく
金属音纏ふ少年冬の鳥
裸木の大いなる輪を持ちにけり
網棚にねこのゐるらしクリスマス
数へ日や窓に貼られし物の影
耳の穴きれいに見えて春着かな
透きとほり溶けてゆくなり雪兎
太ももの外側ほぐし冬の虹
大寒にサムといふ名を付けにけり
だんご虫発見の報寒明けぬ
少年は本の名を知り梅の花
春風や解体工事始まりぬ
穴掘りの半身浮かぶ春野かな
三月や遠くテニスのラリー見ゆ
窓に残る指の形や春の雪
うつ伏せに寝る人とゐて鳥帰る
物思ふ翼ありけりつばくらめ
車両基地に照らされてゐる桜かな
一枝の花咲きおくれ散りおくれ
まだうまく回らぬ首や雀の子
手を振りし後春愁の残りけり
紅を放し蘂降る桜かな



■吉川わる きっかわ・わる
1965年生まれ。「都市」所属。 

2015角川俳句賞落選展 16 吉川わる  17 杉原祐之  18 すずきみのる 19 折勝家鴨  20 高梨 章 21 ハードエッジ 

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16 吉川わる 「アディオス」



17 杉原祐之 「日乗」



18 すずきみのる 「初扇」



19 折勝家鴨
 「塔」





20 高梨 章 「明るい部屋」


21 ハードエッジ 「ブルータス」


 



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18 すずきみのる 「初扇」 ≫テキスト
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21 ハードエッジ 「ブルータス」 ≫テキスト

2015角川俳句賞落選展 15 北川美美 「梅日和」テキスト

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15. 北川美美 「梅日和」

隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼
菜の花と大根の花隣合う
歩き出す膝の後ろを初蝶来
野を焼いて水を飲み合う男たち
ぶらんこや空の向うに飛ぶ子供
沙羅の木に耳あてさぐる春の水
てのひらに丘あり草餅にくぼみ
文鎮は紙をとらえて立夏かな
花えんじゅ空につづいてゆく山よ
万緑の晴れてさびしき石河原
犬の眼が正面にある入梅かな
舟底より水面は高し燕子花
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
縁台を水掛ける人と洗う人
トンネルを抜け木洩れ日の瀑布かな
草の花指の先よりこぼれけり
虫世界いま月蝕のはじまりぬ
隕石を重し重しと十三夜 
秋灯が点から線になつてゆく
崩落の崖留めている枯木の根
遺影より紅の明るし室の花
風花に日と雲薄く濃く速く
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
電飾の音なき音や夜の雪
次の間も赤き絨毯冬館 
ホと息が前へ連なる寒の内 
雪重し鍵のかかりし運動場 
暖房や硝子に映る我等あり
雪道に小さく灯るレストラン
きさらぎを鳥の名前と思いけり
梅林うしろにあれは石切場
永遠にきゃべつ千切りしてをるか
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇
くちびるにいちご冷たき静かな夜
ジオラマの中の家族や昭和の日
断層の岩肌を見る春の暮
鉄橋や高きを揺れる山の藤
小満の魚屋の前通り過ぐ
観覧車新樹の山と隠れ合う
夏燕土工の脚のたくましき
空豆の皮に皺寄る夕かな
怪我をした男に運ぶ氷水
滝の前みな歓声をあげている
竹は竹に凭れて撓る雲の峰
日本の暑さを競う盆地かな
夏の馬川がひとつになるところ
一日の終わりに流す夏の水



■北川美美 きたがわ・びび
1963年生まれ。 「面」「豈」同人。

2015角川俳句賞落選展 14 仮屋賢一「鷲掴む」テキスト

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14. 仮屋賢一 「鷲掴む」

天辺の尖れば家や夏きざす
横笛の音のときどき若葉光
最後まで音の鮮やかなる新茶
母の日や妹に訊く母の趣味
大袈裟に幸せ束ねカーネーション
鯉幟肥れるものを男とす
新緑や鬣かたきチェスの馬
ゆたかなる水ゆたかなる扇流し
扇流し水の機嫌を訊ねつつ
三船祭鷁首の龍を惑はせて
桜桃忌手足を描けば人となる
箱庭に夜逃げのやうな家のあり
霍乱やジョーカーの札入れ忘れ
樽廻船菱垣廻船心太
秋さがし終へし児らより休み時間
魚の絵の遊ぶお猪口や秋の風
大学の鬼門に実家天の河
留石を固く縛れる秋思かな
セスナ機も花野もおなじ風のなか
西口のどこか分からぬ神迎
絨緞のアラブの花を嗅ぐごと寝
味噌汁に海のもの入れ漱石忌
方違して竹馬を片付けり
小道具のパンはほんもの聖夜劇
編曲はクリスマスローズの部屋で
古暦すこし汚してより捨てり
夜通しの静かな雨や宝船
人日のニュースは人を呼び捨てり
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
終ひには紐いきいきと猿まはし
煙ごと串焼買ふや初戎
初恵比須神に冗談言ふことも
万札の上に銭投げ残り福
杖買うて使はずかへる初弘法
花の兄や我が尻つけて生駒山
楽園に音の少なき武満忌
下萌や旧字のままの解説版
大試験我が名一文字づつに意味
語呂の良き神より憶え地虫出づ
駘蕩や他人(ひと)の賽銭にて祈る
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
苗札のたつぷりと水もらひけり
入口の横に窓描く巣箱かな
春雨や市場の陰の地蔵尊
笛吹きの声変はりして桃の花
逃げ道を多く拵へ壬生狂言
水性の朧油性の朧かな
今日中に批評一編蔦若葉
ちやうどよい齢はいくつ春日傘
花水木けふは午後よりはじまる日



■仮屋賢一 かりや・けんいち
1992年京都府生まれ。関西俳句会「ふらここ」代表。京都大学工学部情報学科。作曲の会「Shining」会員。Lotus Castle - 俳句のある空間
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