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週刊俳句 第408号 2015年2月15日

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第408号
2015年2月15日


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2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


俳句/川柳を足から読む
ホモ・サピエンスのための四つん這い入門
(或いはカーニバルとしてのバレンタイン・メリイ・クリスマス)
……柳本々々 ≫読む 

【鴇田智哉をよむ 10】最終回
しぼりだされるトポスへ……小津夜景 ≫読む

【2014石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第四章〉……田島健一 ≫読む

連載 八田木枯の一句
天袋よりおぼろ夜をとり出しぬ……角谷昌子 ≫読む

〔ハイクふぃくしょん〕
末裔……中嶋憲武 ≫読む

自由律俳句を読む 80
第三回全国自由律句大会〔2〕 ……馬場古戸暢 ≫読む


〔今週号の表紙〕浅蜊……西原天気 ≫読む


3.11 4.11 いわき市 鈴木利明氏・中里迪彦氏の記録写真展のご案内 ≫見る


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後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む


 
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【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第四章〉 田島健一

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【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第四章〉あたえられた自明な世界と、万能ではない眼をもつ私たち

田島健一




04.ひかりと水の感覚(木田智美)

ものを見る、とはどういうことだろう。日ごろ、いろいろなものに囲まれて生きている私たちにとって、そのような「いろいろ」は自明な世界として「見る」よりも前に、見えているし、知っている。けれども一方で、私たちが生きるために必要なあらゆる「感覚」は、私たちの眼が万能ではない、ということに一途に支えられている。

薔薇園にサスペンダーの見つかれり
  木田智美

サスペンダーが見つかったその場所は「薔薇園」だった。この「薔薇園に」は、そのような出来事が起きた場所を示していて、そこが「薔薇園」であることは、ひとつの場面設定としてこの句の世界のなかでもっとも先がけて明らかなことである。だから、この上五が「球場に」でも「空港に」でも「テヘランに」でも、書割の背景を入れ替えるように、この句の意味内容を満たすことができる。この「薔薇園に」はそのような考えられるさまざまな場面設定のひとつとして、作者の選択のもとに提示され、この句を彩る疑いのない前提となっている。

夢に水の感覚のあり夏休み

この「夢に」もまた、句の場面設定として機能しているが、ここでは句の主体が「夢」という空間に位置していることを示している。注目すべきは、この「水の感覚のあり」と共時的に存在する「夢」という空間に主体は位置しつつ、同時にそれは「夢」の外部の意識でその空間を「夢」と断定している。つまり主体はそれが「夢」だと知りつつ、「夢」のなかにいる。

自転車に引っかけ錆びてゆく日傘
雷に沿わせて指先のきれい
三角に折るバスの券夏つばめ
水星に憧れている金魚かな
河馬の背に乗りし河馬の子アマリリス
夏芝に入り演奏の止みしジャズ
夕焼けにぐらついている足元
樹に星の実って夏の終わりかな


これらの句の「~に」は、名詞や動詞の連体形に接続し、それによって世界を対象化する。対象化された「自転車」や「雷」は、その名詞が示すものとしてあからさまに全体像を提示し、その句の前提を司る。あたかも「夢」のなかにいながら、それが「夢」だと知っているように、主体は世界の側面を見つつ、世界の全体像を夢想する。

例えば、街のひとごみのなかで初恋の人のうしろ姿を見かけたとしよう。そのうしろ姿は、そのままひとごみに消えてしまい、それきり見えなくなったとする。
そのとき私は何を見たのか。

私は、私の視線としてそのうしろ姿が初恋の人のものだと認めるけれども、仮にそこにテレビドラマのように、向こう側から私自身を含めたその瞬間をとらえた、もうひとつのカメラがあったとする。そのカメラには私が見たうしろ姿の持ち主が、私の初恋の人とは全く別の誰かであることが映されていたとしたらどうだろうか。そのとき私は何を見たと言えるのだろうか。

私にあたえられた万能ではない眼は、その視野の限界で世界を限られた空間としてとらえていて、それゆえに、そこに見えていない部分を信じ、それに期待し、それを感じる。

私たちはテレビドラマのように自分の眼とは異なるもうひとつのカメラを持っていない。それゆえに、私が見た初恋の人のうしろ姿は、それが初恋の人のものであるものとして、私を信じさせ、私を期待させ、私を喜ばせる。俳句におけることばの使命は、それが見間違いであったことを暴き立てることではなく、その〈幻想〉を維持しつつ、「見る」という行為が、「信じる」ことに支えられているということにつながっている。

俳句は暴力的と言ってもいいほどに、ことごとく世界を名詞化し対象化していくが、その対象のなかに私たちの視野を逃れ、かすかに私たちを信じさせるものたちが含まれている。
その私たちの視野を逃れたものたちが、「ものを見る」という行為とは別のかたちで、私たちの視野を満たし、感性をざわめかせ、万能ではない眼をもった私たちをわくわくさせるのだ。

さて、私たちはその万能ではない眼で世界を見つつ、そこで視野からあふれた世界のある側面と、すでに知っているはずの世界との差異において、いかにして世界をあたらしく知るのだろうか。すでに知っている世界が、俳句を通して改めて知られる、という様相は、どのような性質をもっているというのだろうか。

〈第五章〉へつづく

後記+プロフィール409

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後記 ● 西原天気

きょうは2月22日。ゾロ目です。毎年やってくるわけで、別に特別でもありません。

でも、西暦2222年2月22日となると、話が違う。世界中で大騒ぎするかもしれません。

というか、それまで人類は生きているんでしょうか?


 
先週まで続いてきた田島健一さんの「2014石田波郷新人賞落選展を読む・思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章」は、今週・来週とお休みです。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.409/2015-2-22 profile

■なかはられいこ
1988年、時実新子の『有夫恋』で川柳と出会う。1998年、文芸メーリングリスト「ラエティティア」に参加。2001年、倉富洋子と二人誌『WE ARE!』創刊(1号~5号)。2004年3月、歌人の荻原裕幸氏、丸山進氏らと「ねじまき句会」を立ち上げる。2010年、朝日新聞「東海柳壇」選者。第一句集『散華詩集』(1993年、川柳みどり会)、第二句集『脱衣場のアリス』(2001年、北冬舎)、共著『現代川柳の精鋭たち』(2000年、北宋社)。

■兵頭全郎 ひょうどう・ぜんろう
1969年大阪生まれ。「川柳結社ふらすこてん」同人・編集人。「Leaf」同人・編集人。「川柳カード」同人。

■赤野四羽 あかの・よつば
1977年生まれ。無所属。

■柳本々々 やぎもと・もともと
かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com

■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。

■西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。「月天」同人。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

〔今週号の表紙〕第409号 横浜 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第409号 横浜

西原天気




横浜ランドマークタワーから桜木町駅方向を見下ろす。

ずいぶん前にフィルムで撮った写真ですから、いまはもう建物や道が変わってしまったかもしれません。写真はいつも過去の「某日」です。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

自由律俳句を読む 81 芹田鳳車〔1〕 馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 81
芹田鳳車1

馬場古戸暢



芹田鳳車(せりたほうしゃ、1885-1954)は、兵庫出身の自由律俳人。『懸葵』や『宝船』に投句していたが、井泉水の自由律俳句論に感銘を受け、『層雲』に参加するようになる。以下では数句を選び、鑑賞したい。

心澄ませば林の奥の雫なり  芹田鳳車

山登りの最中に、こうした状況に置かれることがある。「林の奥の雫」が聞こえる日常に、憧れを覚えざるを得ない。

また一日のはじまりにおつる木の葉あり  同

ここでの「また」は、「一日のはじまり」にかかるのか、それとも全体にかかるのか。後者であるとすれば、毎日の一日のはじまりに決まって木の葉が落ちることになる。律儀な木の葉たちである。

あなあたたかく燃ゆる火が身にちかくあり  同

子供の頃にはたまの焚火にはしゃぐことがあったが、最近ではそうしたこともない。もとい、電化製品に囲まれた子供時代を送っていたために、焚火はひとつのイベントとなっていた気がする。掲句の景は、鳳車の日常のうちに組み込まれたものであっただろう。

棺かつぎ行く足が揃えばなお淋し  同

「なお淋し」が直接的すぎる気もするが、静かな葬列の様子がよく描かれている。たまたま足が揃ったところか、儀式の一環として足を揃えなければならなかったのか、皆の気持ちがひとつになったのか。

蛙遠く跫音もせず暮る二階  同

個人的に、このような景が大好きである。ただただ陽が落ちていく様子を、ぼんやりと寝ころびながら感じていたい。蛙の声もちょうどよい。

【八田木枯の一句】ねころべば血もまた横に蝶の空 西原天気

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【八田木枯の一句】
ねころべば血もまた横に蝶の空

西原天気


ねころべば血もまた横に蝶の空  八田木枯

血に縦や横があるのか。身体をめぐるのがその液体ならば、身体が横になれば、それもまた横になるのだろう。

この、あたりまえのような、なんかちょっとおかしいような12音が、座五の「蝶の空」でがぜんいきいきとする。

この人は、外で寝転んだのだ。ただ、一般的に「横」になったのではない。すると見えたのが「蝶の空」だった。

季語は、そのときどきの空気や心持ちで、読者を包み込むと同時に、事態をはっきりと確定する働きをもつ。

そこは畳じゃなかったのだ。「血」を「横」に感じたのは、蝶の空がそこにあったその瞬間のことであった。

俳句はあんがいこうした手順(驚くほどでもなく小難しくもないが、ていねいで周到な手順)、作者が親切に用意してくれた「はからい」によって、読者に届く、読者のものとなる。

掲句は第3句集『あらくれし日月の鈔』(1995年)より。



〔ハイクふぃくしょん〕僕の星 中嶋憲武

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〔ハイクふぃくしょん〕
僕の星

中嶋憲武

『炎環』2014年7月号より転載

好き歩いてみた。久々の暖かい日。いつもの公園を通りかかると、象の滑り台の鼻先に若いカップルが座って、ギターを弾いている。柵の低い茂みの向う、黄色い象の鼻先にアルペジオののんびりとしたメロディが奏でられている。どこにでもいそうな平凡なありふれた二十代のカップル。平和な公園、土曜の美しい夕方。僕にはそのカップルが、異化された合成写真のように見えた。

ブランコに座って、見るともなしにちらちら気にしていると、女の方が僕に怪訝な眼差しを向けた。すこし周章。知らぬ風を装って、よそを見た。髪の長い男の方が立って近づいて来て、君、と声を掛けた。男を見ると整った顔立ちをしている。男でも惚れ惚れしてしまう。その惚れ惚れが、君はもう亡くなってますよと言った。僕が死んでるって?太陽の眩しさも、木々の香りも実感しているのに?ああ、そうだった。思い出した。借金に借金を重ねた僕は、万事休すと会社の金を横領して随徳寺。とどのつまりが場末の安ホテル。トイレのドアノブにネクタイを掛けて、首を括ったんだった。奇妙な果実と成り果てたんでしたっけ。ははは。

だから一緒に歌いましょうや。と、言われた。

「宙ぶらりん宙ぶらりん、僕らも世界も宙ぶらりん」彼らの自作と云うフォークソングを一緒に歌った。そもそもなんであなた達は、僕が死んでるって分かったんです?そりゃ君、愚問と云うものです。僕らも死んでいるからです。生きてる人同士が、そんな事確かめますかって。

宙ぶらりん宙ぶらりん、たどり着くまで宙ぶらりん。彼らはギターをかき鳴らし、ハーモニカを吹く。ふと、ピックを弾く動きを止めて口を開いた。僕らは意識とでも云うような存在なので、実体はありません。瞬時にどこへでも行けます。僕らは三百億光年の銀河の、ある惑星からやって来ましたが、隣の部屋へ移動するような塩梅で移動出来るのです。君もあと五十日ほど経つと、君の星へ行けますよ。僕の星?そう、人にはそれぞれ決まった星があって、別の生を生きるのです。さらさらのロングヘアーを真ん中で分け、バンダナを巻いた女が、初めて口を開いた。なにしろ宇宙は広いし、どんどん恐ろしいスピードで膨張しているのですから、住む星には困らないのです。と男が言えば、例えばあなたがこれから貰う全宇宙カタログを見て、あの銀河のこの星がいいなと思ったとしますね、そうするともうあなたの意識はそこへ行ってますから、あなたもそこへ行かれるのです。と女が言う。言い忘れたけど僕はジョンで、彼女はヨーコ。無論、仮の名前だよ。地球のような星は無数に存在するから、その星々で一生を全うするさ。そしてまた戻って来るの。ジョンとヨーコに交互に言われると、何かの勧誘を受けている気分になって来た。僕は本当に死んでいるのか?まず君は、この星で死んだという終了証を受けねばなりません。さあ我々と共に行きましょう。手に手を取り合って。ジョンとヨーコの輪郭はノイズになった。ああ、僕も。

春寒し日暮れを待たぬ星ひとつ  高橋雪音

ぼんやりを読む ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって) 柳本々々

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ぼんやりを読む
ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)

柳本々々



毛布から白いテレビを見てゐたり   鴇田智哉
(「瞼」『句集 凧と円柱』ふらんす堂、2014年)

この句に対して、こんな問いから、始めてみたいと思います。

「白いテレビを見て」いるとはいうものの、この語り手は、ほんとうは《なにも見ていないことをしている》んじゃないかと。

「白いテレビ」とは、なんでしょうか。画面でしょうか、番組でしょうか、それとも白い筐体のテレビそのものなのでしょうか、あるいは語り手の脳内が雪原のようにブランクな状態にあるのでしょうか、もしくはこの世界そのものがこの世ではない〈彼岸〉なのでしょうか。

わかりません。

この〈わからない〉が実は大事なのではないかと思うのです。〈ぼんやり〉した〈見る〉という不分明な状態にあることが大事なのではないかと。

近森高明さんが『無印都市の社会学』において、ベンヤミンの〈気散じ〉という意識の集中の対極にある概念を、〈身散じ〉として身体レベルにまで接続させながらこんなふうに語られています。
どこにでもあるジャンクな消費装置を〈身散じ〉的に享受している私たちは、ある意味でゾンビ的であるだろう。思考のスイッチを切って、漫然と習慣にまかせながら、店内をうろうろする姿。店内空間のアフォーダンスにまるっきり操作され、空間設計者の意図どおりに翻弄されるがままの姿。どこからともなく同じ場所に集まってきて、互いに意志疎通をはかるでもなく、それでいて何となくつかず離れず一緒に空間を共有している姿。
いや、そう考えると「無印都市」にぼんやり浸っている私たちは、まったくゾンビ的である。
(近森高明『無印都市の社会学』法律文化社、2013年、p.18-9)
思考のスイッチを切り、なんとなくぶらぶらと空間を占有するゾンビ的存在。たとえば『スピカ』にてゾンビ小説/ゾンビ俳句の連載をされた石原ユキオさんの『HAIKU OF THE DEAD』(http://spica819.main.jp/tsukuru/tsukuru-ishiharayukio)においてもこんなふうなゾンビの〈内面〉が語られていました。

「美味しい。世界全部がぼんやりときれい。朝焼けかな。山火事かも。」

「ぼんやりときれい」。おそらくこの言葉は、鴇田さんの句の「白いテレビ」とつながっているのではないかと思うのです。それは〈気散じ〉のままの〈見る〉ということであり、「毛布」をかぶったままのリラックスしたうつろなゾンビのような〈身散じ〉からの〈見る〉という行為です。

石原さんのゾンビ俳句には、〈身散じ〉=〈ぶらぶら〉ならぬ、実際に身体が散っていくようなゾンビ俳句がゾンビ・テクストのなかで語られていきます。

野犬ガクハフル我ガ左手ヤ盛爪  石原ユキオ

下半身ナクテ愛ヅル  〃

鴇田さんの句が観念的〈気散じ〉の様態から世界を見つめることをあらわしている句であるならば、石原さんの句は身体=モノのレベルにおいて〈身散じ〉から世界を見つめている句なのではないかと思うのです。

そしてどちらも自らの主体を散らせつつ、その意味で〈ゾンビ〉でありつつ、「白いテレビ」=「ぼんやりときれい」の場所に行き着いている。

「見てゐ」ることが、〈なにか〉を見ることにも、〈どう〉見るかも、〈どこ〉を見るかも、問題にはならないような場所で。それは〈見る〉ことがベクトルをもった〈見る〉こととして組織化されない場所です。

むしろ〈見る〉ことがそのまま同語反復的に〈見る〉ことであるような、〈見る〉ことにしかならない、現実も虚構も意味も非意味もない〈触感〉としかいうべきことばをもたないような〈見る〉こと。

けれども、その〈触感〉としての〈実感〉は「毛布から」と鴇田さんの句に語られているように、〈横〉になる身体として、或いは石原さんの奪われ散り喰われていく身体のように、身体が十全であることの機能をやめた状態での〈非-身体〉として〈見る〉ことがたちあげられている。

だから、それは、《ぼんやり》している。強度のある《ぼんやり》であり、ある意味、積極的で戦略的な《ぼんやり》です。

身体が身体であり損ねること。江戸川乱歩の小説の語り手たちが這ったり、腹這いになったり、体育座りをしながら、いびつな世界を語りつづけるように、身体とは、いうまでもなく、〈見る〉ことと強い結びつきがあります〔*〕

近代的な〈見る〉こととは、おそらくは、〈歩く〉ことでした。きちんと目的をもって、姿勢よく立って、目的地までずんずんと歩くことだった。それは小説の語りや描写とも関連しています。〈歩く〉ことが〈見る/語る〉ことであり、〈語る/見る〉ことが、〈歩く〉ことだった。武田信明さんが夏目漱石の『草枕』を例にとりながらこんなふうに指摘しています。
「余」の歩行には、いくつかの意味がある。プロットを排すること、そして歩行の軌跡によって作品を縫い合わせること、そして眼そのものを移動させることである。つまり歩行は観察と不可分の関係にある。見ることには刹那的な時間しか流れないのに、観察者の移動は時間の継続を補填し続けるからである。それゆえ「草枕」において求められたのは、画工が観察することではなく、彼が歩き回って観察し続けることだったのである。
(武田信明「「写生」と「歩行」」『岩波講座 文学7 つくられた自然』岩波書店、2003年、p.238)
けれども、毛布をかぶった観察者は、身体が朽ちていく観察者は、ぼんやりとしたゾンビ観察者は、近代的な〈正しい〉観察者にはなれない。毛布をかぶったままひとは歩かないし、アキレス腱をかじられたあとで、誰も吟行には行こうとはしないだろうから。

つまりそこには正しい直立の歩行する観察者としての〈写生〉の挫折があり、〈写生〉の挫折からの、〈ぼんやり〉の提唱がある。

〈ぼんやり〉を俳句領域でたちあげること。

それが、鴇田さんや石原さんがゾンビ的ぼんやり身体でなしたことなのではないかと思うのです。

それをたとえばドゥルーズにならって、〈運動イメージ〉から〈時間イメージ〉への転回といってもいいかもしれません。
時間イメージにおいては、登場人物の行動とは全く無関係に空虚な時間がただ流れていく。ここにあるのは、その中で起こることとは無関係に《ただ流れていく時間》を《直接に提示する》イメージである。意味を剥奪された純粋なイメージという意味で、「光学的-音声的なイメージ」とも呼ばれている。
(國分功一郎「思考と主体性」『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、2013年、p.108)
「白いテレビ」=「ぼんやりときれい」はドゥルーズ=國分功一郎風に言い換えれば、「意味を剥奪された純粋なイメージ」である。身体の運動や行動が意味をもたず、だからこそ、そこには独特の時間の磁場が生成されていく。そんなふうに、おもうのです。

わたしはいま毛布をかぶりながらこれを書きはじめ、毛布をかぶったままこれを書き終えようとしているのですが、そういえば太宰治というひとがかつて〈女生徒〉というやはり都市を〈気散じ〉=〈身散じ〉のままぶらぶらする語り手をとおしてこんなふうにいっていました。
人間は、立っているときと、坐っているときと、まるっきり考えることが違って来る。坐っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年齢(とし)恰好のサラリイマンが、ぼんやり坐っている。
(太宰治「女生徒」『走れメロス』新潮文庫、1998年、p.87)
そうなんです。

人間は、毛布をかぶってると、いつもとちがう身体の状況では、ちがうことをかんがえる。ちがうものを、みはじめる。「テレビ」だけじゃない。身体を〈横〉にさせる「毛布」もまたメディアだったのです。安心毛布(セキュリティ・ブランケット)を見出した毛布のスペシャリスト、スヌーピーのライナスも、そういっています。
人生ってのはびっくりすることだらけだっていうね。何もかも見つくしたって思ったちょうどそのときにそうじゃなかったことを思い知らされるのさ  ライナス


【註】
〔*〕たとえばルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』(1971)を思い出してみましょう。これは、大ざっぱに要約すれば、アッシェンバッハ教授が想いを寄せる少年をえんえんと〈見つづけ〉る、ただそれだけの映画です。ここで注意したいのが、少年を〈見〉つづけるアッシェンバッハはつねに〈立って・歩行して・ストーキングして〉少年を見つづけていたのであり、アッシェンバッハが座った瞬間、へたりこんだ瞬間、アッシェンバッハはなにも見えなくなる、あるいは〈死〉にむかうという〈見る〉ことと身体の姿態の関係性です。むしろこのときアッシェンバッハは少年をストーキングしつづけている自分自身をみているといっていいかもしれません(座り込み、身体を円環へと近づけたことで)。そしてアッシェンバッハが少年をみることをやめるとき、つまり、座ったままの姿勢をとりつづけるときは、死ぬということなのです。そんなふうに、立つことと、歩くことと、見ることは結びついている。この『ベニスに死す』の逆をいくのが、アッバス・キアロスタミの映画『桜桃の味』(1997)です。カメラは車の内部から固定され、車の外には出ない。主人公である自殺志願の男がえんえんと車を走らせながら、自殺を手伝ってくれる人間を《車から》さがす。ある意味、車の内部が外の風景を、ひとを、えんえんと《見る》映画がこの映画です。『ベニスに死す』の《立》って《見》ていたアッシェンバッハと違い、『桜桃の味』の主人公は車の運転席にたえず《座》って世界を《見》ている。ところがある人間から「桜桃の味」をめぐるエピソードをきいたとき、男にふいに転機が訪れます。男は車から飛び出し、落ちる夕陽をみてしまう。男ははじめて車の外で《立》って世界を《見》たのです。『ベニスに死す』のアッシェンバッハ教授は《座り》ながら死にましたが、『桜桃の味』の無名の男は《立》って生きる決心をしました。おそらく、男は、そのときはじめて〈見る〉ということを知ったのです。その映画を観ていた〈この・わたし〉も。



10句作品テクスト 赤野四羽 螺子と少年

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赤野四羽 螺子と少年

螺子としてひとの命よ国の春

牡蛎剥いて遠い砂漠の民と泣く

購いの羊郊外からは見えぬ

とおくからひとをみているおおかみよ

え戦争俺のとなりで寝ているよ

少年の空に蒲団のような爆煙

てろてろと歩めば春の戦場へ

紫陽花はつねにただしくあやまらぬ

なんとなく崖へとすすむ蟻の列

爆撃の後方支援に星の歌

10句作品テクスト 兵頭全郎 ロゴマーク

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兵頭全郎 ロゴマーク

数カ所に分納されるロゴマーク

モノボケの浸透圧に耐えかねる

ホロホロとポロポロに続く傾き

飛ぶ夢を見るたび眉毛太くなる

清流の写真束ねる青い紐

コトあるごとに例えにされる柱

銅鐸は廃課金者の耳にある

ボタンにしか見えないものを押している

ご丁寧にどうもと帰る双子の子

水捌けのよいロゴマーク的月夜

10句作品テクスト なかはられいこ テーマなんてない

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なかはられいこ テーマなんてない

約束を匂いにすればヒヤシンス

どこまでも続く線路とキャベツを刻む

緑と白の境が葱のなきどころ

うがいするまだらな音を出しながら

水滴がさんずいへんで飛んでくる

おふとんも雲南省も二つ折り

パレードはいま食道を通過する

踵から頭のてっぺんまでギニア

F2を押すと液晶身もだえす

こいびととつくる夜の中の夜

10句作品 なかはられいこ テーマなんてない

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週刊俳句 第409号 2015-2-22
なかはられいこ テーマなんてない
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10句作品 兵頭全郎 ロゴマーク

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10句作品 赤野四羽 螺子と少年

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週刊俳句 第409号 2015年2月22日

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第409号
2015年2月22日


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〔今週号の表紙〕第410号 吊し雛

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〔今週号の表紙〕
第410号 吊し雛

有川澄宏



最近、吊し雛がブームのようですね。私も数年まえから、近くの郷土博物館や神社の社務所などに吊し雛を見に行くのが、いつの間にか習慣になりました。そんな場所には、広めの庭があって、梅や満作、せつぶん草など春の草木も見られ、もう北に帰る準備に忙しい鳥たちにも会えるので、季節の楽しみが一つ増えたような気がしています。

吊し雛が始まったのは、江戸時代だそうで、豪華な段飾り雛に手の出ない庶民の家で、お母さんやおばあちゃん、おばさんや近所の方達が小さな人形を持ち寄って吊したのが、最初だったそうです。

雛の種類も、良いですね。犬、猪、鶏、馬、人参、苺、蛤、鬼灯、花‥‥。みんな身近な題材で、それを布の端切れで作って持ち寄り、女の子の成長を祈って吊した、と聞くと、「限界集落」などという言葉が飛び交う昨今の世相が悲しくなります。

福岡、静岡、山形が、「全国三大吊し飾り」と呼ばれているようです。

ついでに、おばさん達の説明を聴くと、「吊すタイプ」「床置きタイプ」「台付きタイプ」など、さまざまな種類があるのですね。

わが家は? と思い出してみました。娘が年子で生まれ、生活もままならぬ貧乏な時代だったのに、かなり立派な段飾り雛がありました。あれは祖母が買ってくれたのだったか‥‥。ただ娘達が独立した頃からは、天袋から出すのはともかく、仕舞うのがなかなか厄介で、面倒になりました。また、その頃から、公園や道端の可哀想な子猫を拾ってくることが多くなり、子猫の格好の遊び場になるので、手足が折れたりして、もう出さない方が良いか、となったままです。たまには天袋を開けてあげなくちゃ! 申し訳ない。



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【八田木枯の一句】チューリップ婚約時代はじまりぬ 西村麒麟

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【八田木枯の一句】
チューリップ婚約時代はじまりぬ

西村麒麟


チューリップ婚約時代はじまりぬ  八田木枯

『八田木枯少年期句集』より。

楽しいだろう。幸せだろう。浮かれてしまうだろう。心にはアムステルダムのように最高のチューリップが咲いているに違いない。

恋人と言うのは去っていくものと決まっているが、婚約者とはもう少し去りにくい特別な存在だ。なんせ結婚の約束をしているのだから。

おそらく婚約時代というのは、結婚時代よりも甘い、良いものだろう。

多分。





自由律俳句を読む 82 芹田鳳車〔2〕 馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 82
芹田鳳車〔2

馬場古戸暢




前回に引き続き、芹田鳳車句を鑑賞する。

霧のうかきに馬は馬どち顔よせぬ  
芹田鳳車

霧の様子に、馬たちも不安を覚えたのだろうか。音がない静かな景を、きれいに詠みこんでいる。

一日雨ふりふかぶかと芹がしずみたり  同

川の中州を詠んだものか。雨が降った際に水中に沈んでしまう植物がなぜ生き続けられるのか、子供の頃からたまに疑問に思いつつも解消しないままでいる。

秋はいまやすぐると思ふ橋わたる  同

秋の部分は、どの季節でもいいように思う。ただ、もっともしっくり来るのは、やはり秋なのである。

日のおつ方へましぐらに潮が流れゆく  同

干潮の際の海について、一瞬の様子ではなく、ある程度の時間枠をもって詠んだものだろう。「ましぐら」の言葉からは、怒涛のように海が引いていく様子を想像できるため、面白い。あるいは、本当に「ましぐら」な潮の流れを詠んだものかもしれない。

馬子よ酔うてはおのがかわゆき馬叱る  同
酔っぱらいの馬子の様子に関する状況説明文のようだが、おかしみを覚える景である。馬との関係が悪化していないことを願う。

俳句の自然 子規への遡行39 橋本直

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俳句の自然 子規への遡行39

橋本 直
初出『若竹』2014年4月号(一部改変がある)

しばし話題を変える。子規とそれ以後の個人句集についてである。

近代の初期においては、生前に個人句集を出す習慣はなかった、と言うと、現代の俳人には意外と思われるであろうか。

以前述べたように、子規は俳句を文学としたのであり、そうであるならば、個人の作品の発表手段としての個人句集は当然出るべきだろう。たとえば、主な詩集や歌集の出版年は既に明治二十年代前半からはじまっていた。

明治22年 北村透谷  詩集『楚囚之歌』
明治24年  同    詩集『蓬莱曲』
明治29年 与謝野鉄幹 歌集『東西南北』
明治30年 島崎藤村  詩集『若菜集』
明治32年 土井晩翠  詩集『天地有情』
明治34年 与謝野晶子 歌集『みだれ髪』

しかし、句集になると話はそう簡単ではない。生前の個人句集出版は、ようやく明治三十年代後半になってからはじまるのである。出た順に列記すると、

①正岡子規『獺祭書屋俳句帖抄上巻』高濱清編 明三五年
②松瀬靑々『靑々句集 妻木』全四巻 明三七~三九年
③岡本癖三酔『癖三酔句集』明四〇年
④高濱虚子『稿本虚子句集』今村一声編 明四一年
⑤高田蝶衣『蝶衣句集 島舟』中野三允編 明四一年

となっている。

この個人句集における十年以上の他の韻文ジャンルに対する立ち後れの理由については、既に林桂氏が論考「岡本癖三酔小論―個人句集の行方」(「鬣」第二号平成一四年一月)で触れておられる。林氏は、虚子が『癖三酔句集』の序文に書いた一節(後述する)を引き、「これを虚子が本気で書いたのであれば、『一代一家集』の伝統的な考えから自由になれていなかったいとうことになる。」と指摘されている。

虚子の言う「習慣」とは、たとえば蕪村の『新花摘』に「家々の句集を見るに、多く没後に出せるものなり。ひとり五元集のみ現在に出さんとせし也。発句集は出さずともあれなど覚ゆれ。句集出てのち、すべて日来の声譽を減ずるもの也。(傍線引用者)」という物言いが書かれているように、近世以来、生前の個人句集出版はタブー視され、明治期もそのような考え方が根強かったことを言う。

つまり、ここで虚子のこの発言を受けて言えることは、明治の俳人達は、子規をはじめ新派の俳人達といえども、近世以来のこの習慣を墨守しようとしていたということであり、言い換えれば、彼らは、自らの俳句を一冊に纏める行為については、それ以前の俳諧の発句のありようと地続きであって、近代の所産として画期的・革命的なものとは思ってはいなかったということである。

虚子の物言いは、林氏も言うようにどこまで「本気」なのか、あるいは違う意図があるのかを即断できないところがあるけれども、実際に句集の発刊が遅れていることは、重くみなければならないだろう。さらに面白いことに、この明治の初期個人句集群においては、序文においてなぜこの句集を出すのかについての弁解めいた叙述が判で押したように次々と書かれることになるのである。出た順にあげてゆくと、
①「昔から自分の詩集とか歌集とか又は俳句の集とかを選ぶといふ事は非常にむつかしい事になつてをつて志那や日本では自選の集を出版した人は少ない。(中略)よし今日の標準で厳格に句を選んで見たところで来年になつて其を見たらばどんな厭やな感じがするかも知れん。さう思ふと自分の句集を自分が選んで出すなどゝいふ事は到底出来る事ではない。句集を出す事は一生おやめにしたと此の間まださう思ふてゐたのであつた。」(正岡子規自序「獺祭書屋俳句帖を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」)

②「自家の句を編して世に公にすること古来人の殆ど為さゞる所。一は名利に近くことを鄙しみ。一は嚢底暴露して眼前毀誉の到らんことを怯るゝに因る。我それ般の事は遮莫。唯我句を一冊に集めて我見たき計り。數星霜の拈り捨をこゝに掻き集めたる爪木。今是昨非。況や推敲の徹せざるもの多きをや異時他日なほ幾斧鑿の耻を見るへし。名をつま木と呼ふ見ん人心に副はすは丙丁童子に付せよ。直に寒夜爐中の灰却て草庵去年の醬を覆はさりし事を叱する無ンは幸也。」
(松瀬靑々自序『靑々句集 妻木』「序」)

③「去年の夏であつたか、俳書堂主人から、癖三酔の句集が出ることになつたといふ話を聞いた時、予は鳥渡考へた。今迄の俳句界の習慣が、新體詩や和歌や其他の多くの文學とは違つて、生前にさう輕々しく句集といふものを出さぬ事になつて居る獺祭書屋俳句帖抄も、子規の病が餘程重くなつて後に病床の慰籍として作つたといふ位に過ぎぬ、其後靑々が、妻木を出した時にも兎角の世評があつた様な次第である。生前に句集を出版するに就ての可否論となれば其處に種々の異つた議論が成立する、併し其議論は一切取除けて單に俳句会の習慣から見て癖三酔句集を出すといふことは鳥渡目立つた事柄である。癖三酔は靑々に比ぶれば未だ年もよけいに若い前途多望の俳人だ其れが句集出版といふやうな、些細な事柄の為めに世間から誤解を招くやうな事があつては、癖三酔の為に不利益なことゝ考へたから、余は無遠慮ながらも癖三酔に手紙をやつて句集出版だけは暫く見合したらどふかと云つてやつた」(高浜虚子「癖三酔句集序」)

(この稿続く)

【川柳訳】Stand by Me - B. E. King 柳本々々

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【川柳訳】
Stand by Me - B. E. King

柳本々々



中山奈々さんの「スタンドバイミー俳句訳(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/04/stand-by-me-b-e-king.html)」を追っかけて

  *

When the night has come
降りてくるひもを引くたび夜になる(ながたまみ)

And the land is dark
回線はつながりました 夜空です(なかはられいこ)

And the moon is
the only light we see

早く透けたいねと月を浴びている(瀧村小奈生)

No, I won't be afraid,
月光の亀裂を抜けて逢いに行く(むさし)

Oh, I won't be afraid
月明し理科の授業を抜け出して(樋口由紀子)

Just as long as you stand,
たったひとりを選ぶ 運動場は雨(倉本朝世)

Stand by me
ふと思い出した生きぬいてきた訳を(北野岸柳)

So  darling, darling,
跨って二人最後の練乳作業(榊陽子)

Stand by me, oh stand by me
いま君と椅子のかたちになっている(徳永政二)

Oh stand now, stand by me,

ぷつぷつの穴から駅員さんを呼ぶ(草地豊子)

Stand by me
見ていてね きちんと朽ちていくところ(石川街子)

If the sky that we look upon
should tumble and fall

かくれんぼとても上手でこわかった(妹尾凛)

Or the mountain should
crumble to the sea

「けれども」がぼうぼうぼうと建っている(佐藤みさ子)

I won't cry, I won't cry,
悲しくてあなたの手話がわからない(月波与生)

No, I won't shed a tear
わたしのことはわたしが祈る どいて(矢島玖美子)

Just as long as you stand,
散歩する水には映らない人と(八上桐子)

stand by me
傷だらけの両手楽しくなってくる(加藤久子)

And darling, darling,
干からびた君が好きだよ連れて行く(竹井紫乙)

Stand by me, oh stand by me

あなたから見ても私は変ですか(丸山進)

Oh  stand now, stand by me,
巻尺ではかれる距離にいつもいる(小池正博)

Stand by me
目を閉じる風のまんなかはここだ(畑美樹)

Darling, darling
目の前に水晶玉がある逢える(時実新子)

Stand by me, oh stand by me

がんばれよなんて言わない紙コップ(ひとり静)

Oh  stand now, stand by me
いいこともあるさと添えられるパセリ(松岡瑞枝)

Stand by me
冷たくて固くてそばにいてくれる(久保田紺)

Whenever you're in trouble
追いつめられて花屋の多いのに気づく(定金冬二)

Won't you stand by me, oh stand by me
兄ちゃんが盗んだ僕も手伝った(くんじろう)

Oh won't you stand now, oh stand
寄り道が好きで人間大好きで(三浦蒼鬼)

Stand by me
ネバーギブアップ岸が泳いでくる(普川素床)
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