今井杏太郎を読む8
句集『通草葛』(4)
鴇田智哉:智哉×生駒大祐:大祐×村田篠:篠
◆言葉の力で風景を異化する◆
篠●今回は『通草葛』の冬です。智哉さん、お願いします。
智哉●はい。
知床の海を流るる氷かな
この句は、季語である「流氷」を分解して「流るる氷」としているところが面白いですね。
実景としてはわりに大きな風景のはずですが、「海を流るる」と言われると、スケール感に違和が生じるように思います。以前、本城直季氏の『small planet』(2009年)という写真集が出て、「ミニチュアみたいに見える風景写真」が流行りました。トイカメラで撮った画像にも似ていますが、あの写真のようにも感じられます。
ただ、言葉の用い方、という意味では、「風景をそのまんま言っただけですよ」的な、単純な組み立てで、できてますよね。「流るる氷」のほかは、事実である「知床の海」だけでしょう? これ以上単純な構成はない。実景を単純にそのまま言ったはずの言葉。その言葉からもう一度実景に戻ると、言葉と実景が変にずれている、そういう効果が生まれている句だと思います。
たとえば、秋の部の〈こすもすの花びらの揺れうごくなり〉などは、実景としても小さな細かい風景を、言葉としても細かく言っている。細かい部分がクローズアップされた感じなのですが、「知床の」の句は、大きいはずの風景が言葉の作用によって、ミニチュア化されている。「本当のことを言ったら嘘になった」みたいな捩れを感じます。まるで箱庭のように風景を見ているような気にもなる。作者が意図してそうしたというよりは、言葉というものがもつ性質によって、そうなっている。物と言葉はそもそもズレているものですが、そのズレが、非情にシンプルに表面化している句でしょう。
「本当のことを言ったら嘘になった」「単純に写生をしたら現実と違った」みたいな感じです。言葉がそもそも持っている性質によって、実際の風景が異化されている。
大祐●プレーンな言葉の使い方ですよね。知床は地名ですが、「海」も「流れる」も「氷」もプレーンです。
「流氷」というといろいろな意味内容を孕みますし、ある意味限定された言葉ですよね。どういうものか、ということが厳密に限定されていますし、場所も限定されています。ですが、分解すると「海」も「流れる」も「氷」もいろんな意味にとれて、それらの言葉をすべて「知床」に集めてくると「ああ、流氷なんだな」と分かる。
トイカメラみたいな、というのもよく分かって、大きな流氷の本体というよりは、こぼれ落ちた破片を見ているような感じですよね。
海を覆うような氷も、非常に遠景から眺めるとこぼれ落ちたようなものですから。
智哉●「流るる氷」ってちょっと変というか、作者の目がどこを見ているんだろう、という気がします。軽々しいというか(笑)。
篠●「流氷」を流れるとはあまり言わないですよね。ふつうは「動いて」とかでしょう。
智哉●「流氷」とは「流れる氷」である、という考え方です。杏太郎はよく「流木」のことを言っていました。「流木」とは「流れる木」であると、とても理屈っぽく考えるんですよね。
「『流木』とは『流れる木』だろう? だったら『流木』が陸にあるなんて言うのは変だよな、陸にあったら流れていないことになるから」
みたいな話をよく言っていました。要するに、もし流木が陸にあると言うなら、「流木は流れない」という矛盾が生じることになる、ってことだと思います。
まあ、屁理屈とも言えるわけですが、理屈とも言えますよね(笑)。それを思い出すと、この句「流氷」の句にもそうした理屈を感じます。実際に知床に足を運んで見てつくっているはずなのに、こういう句ができる、というのは面白いです。
大祐●でも、ふつうは分解してゆくと必ず説明的になる、という先入観があるのですが、この句のように、うまくやると説明的にならずに1句として成り立つ、というのは発見ですね。
篠●この句、「知床」という地名がなければ、流氷とはわからなくて、だから分解しても説明になっていないんですね。
大祐●その2句前に
ゆふぐれに水は凍つてしまひけり
という句があります。氷という点では流氷もそのへんの氷も同じで、すぐあとに〈真つ白に氷が張つて水たまり〉という句もありますが、物理現象としてはどれも同じものなんです。
だから、流氷も水たまりの氷も同じテンションで見てゆくと、こういう句の並びになってくるのかな、と思います。
篠●同じテンション、というのは面白い見方ですね。
大祐●流氷だから、と大仰に扱うのではなくて、流氷もふつうの氷として扱っているんですね。
「ゆふぐれに」の句はちょっと変で、ふつう、氷が張るのは明け方なので、光景としては珍しいです。たぶん、知床に来て、寒くて、夕暮れに水が凍ったんだよ、という句だと思うのですが、この1句だけをピックアップするとそれが分からないですね。
篠●このあたりは北海道でつくった句が並んでいるんですね。〈オホーツクの氷の下にいつも海〉。この「いつも」はちょっと面白いです。ほんとうにいろいろな氷を詠んでいますね。
生駒さん、気になった句はありますか?
◆興味の持ち方が独特◆
大祐●はい。
月山のふもとの蕪畑かな
青畝に〈葛城の山懐に寝釈迦かな〉という句がありますよね。有名な句で僕もわりに好きな句ですが、構成的に似ています。山があって、地名があって、だんだん視点が寝釈迦とか蕪畑のようなモノに移ってゆき、最後に「かな」で締めると。
そこは同じなのですが、「葛城」の句は宗教的なイメージを孕んで荘厳な感じのする一方、この句は何でもないところに落とし込んでいます。「蕪畑」というのはちょっと拍子抜けというか、杏太郎さんらしいなあと。衒いというか、そんなに気合いを入れてつくらないところが面白いと思いました。
葛城山のふもとに寝釈迦があれば詠みたくなるのは何となくわかりますが、月山のふもとに蕪畑があって、それを言葉にするというのは、興味の持ち方が独特だなと思います。
篠●この句は実景なんでしょうが、「月山」という地名の使い方が感じが良いというか、うまいなあ、と思います。ただの報告になっていないですよね。
大祐●地名の使い方で、これは動くな、というのがないですね。
篠●杏太郎には旅行詠がわりにたくさんあって、地名をうまく使いますよね。旅行詠にこだわりがあったのかもしれません。
智哉●「鶴」でともに俳句をしていた岸田稚魚が角川俳句賞をとったときの50句が、たしか旅行詠だったと思うのですが(編集部註:「佐渡行」50句で第3回角川俳句賞受賞)、そういう座の影響もあるかもしれません。
篠●ああ、なるほど。それに、ふつうの句の中に旅行詠をすらっと交ぜてくるのもうまいんですよね。
大祐●旅行詠には、その土地のことを出さずに詠むやり方と、面白いものを見たよ、というような挨拶性の強い詠み方と、両方あると思うのですが、杏太郎さんの場合、地名は動かないけれどテンションはふつうの句と変わらないんですね。フラットに詠み続けている。テンションが一定なので、旅行詠をそうでない句の中に入れてもまとまるのだと思います。
篠さんはいかがですか?
篠●ちょっと変な句なのですが
牛乳を飲んで雪降る国にをり
ですね。それこそ、こんなにテンション低く「牛乳を飲んだ」ことをわざわざ言う、っていうのが面白いです。やはり、興味の持ち方がちょっと変だな、と(笑)。
大祐●雪降る国に行ったんだけれど、そこで「牛乳を飲む」ことをピックアップするのか、ということですよね。
篠●しかも、冷たい牛乳をゴクゴクッと飲んでいる感じなので、すごく寒い句になっているんですね。牛乳が白くて雪も……あ、白い句でもありますね。
智哉●とぼけてますよね、笑える。
篠●面白い句なんですか、やっぱり。事実を詠んでいるだけなんでしょうけれど、「とぼけてる」感じになるんですよね。事実なんでしょうが、牛乳を飲んだことをピックアップするのは、やっぱりちょっと面白いのかもしれません。
大祐●人によっては、固有名詞を入れたり、その地方独特だったり、牛乳になにか特別感を出したりしますよね。
篠●そうですね。さもなければ、牛乳と言えば出てくる場所、駅のホームとかそういうところを連想しがちですが、「雪降る国」の意外性はありますね。「雪降る国」そのものは地名でもないし特別ではないのですが、そこでピックアップしたのが「牛乳」というところの面白さですね。
「雪降る国」は杏太郎ならではの言い方かもしれません。「雪国」ではなくて「雪降る」という季語を入れて言葉にしています。「雪国」は夏でも「雪国」だから季語ではない、と言っていましたから。
智哉●そのあたりはこだわりなんでしょうね。
季語の分解について言うと、杏太郎は「霜柱」のことを「霜の柱」と言ったりしている。他人から、「それは霜柱とは違うぞ」と言われる可能性もあるのですが、わざとそうしているところがあります。
実は「保険」のようなものがあって、たとえば「霜の柱」と言っても、「霜」は季語なので、「霜」の柱、だと考えれば有季になる。さきほどの「流れる氷」にしても、「氷」が季語ですから、流るる「氷」、だと考えれば有季になる。きちんと保険が用意されているんです。
あ、「保険」という言葉は杏太郎は使っていませんよ(笑)。
保険が保険として働かない例もあって、そういう場合は分解してはいけない。たとえば、「冬苺」を「冬の苺」と分解してはいけない。「冬苺」は「苺」とは違う植物なので、「冬の苺」と分解してしまうと、「冬苺」とは別の「冬に食べる苺」になってしまいます。これは一般的に俳句の先生がよく指導していることですよね。「冬苺」のことは、杏太郎も句会で何度も言っていたという記憶があります。
篠●そう、たしかに違う植物なんですが、冬苺ならではの詠み方って案外むずかしいような気がします。
◆「色」を信じていない◆
大祐●ちょっと気になったのが
イタリアンブルーの青のカーディガン
です。
智哉●この句はちょっとはしゃいでないですか?(笑)
篠●はしゃいでますね。(笑)
大祐●イタリアンブルーって何ですか?
篠●コバルトブルーとかスカイブルーと同じで、そういう色があるんじゃないでしょうか。
智哉●「ブルー」と「青」を重ねているんですね。
篠●イタリアから地中海を連想しますし、印象としては一見夏の句のようなんですが、冬の句なんですね。なんでしょうか、この高級感あふれる感じ(笑)。17音のうちの13音がカタカナですし。
智哉●カタカナだからはしゃいでいるように見えるのかな。名詞が「の」で単純に繋がっているだけで、シンプルなんですけどね。
篠●色と言えば、
ももいろの落葉を焚けば燃ゆるなり
が気になります。焚いたのだから燃えるのは当たり前で、その当たり前のことをわざわざ書いていて面白いのですが、「ももいろ」というのは何でしょうか?
智哉●これは一種の、言葉のアクセントとして言ってみた、ということではないでしょうか。杏太郎は現実の色を信じていないような面がありました。色というものは、言葉しだいで「何とでも言える」という考えがあったように思います。
篠●じゃあこの「ももいろ」は「みずいろ」でも良かった、ということですか?
智哉●まあそういうことですね。この句では「ももいろ」というとイメージが広がるのではないか、という言葉の面白さで使ったんだと思います。
大祐●〈むらさきのいろを思うてくさめかな〉の句は、それこそ何色でもいいですね。もちろん俳句的必然性というのは必要ですが、事実としては何でもいいわけです。
篠●ほかに気になった句はありますか?
智哉●
広島の牡蠣といはれて寒かりき
ちょっと、ぎょっとする句かなと。「広島」でしょう。
我々はふつうは、広島のおいしい牡蛎のことを思うときと、広島の戦争での悲惨なことを思うときとでは、頭のモード、心のモードが違う。モードが切り替わっているはずですよね。そんな中であるとき、「広島の牡蛎」と言われてふと寒くなった、というんです。
でもわかりますよね。ふだん思わないようにしていることが、ふっと明るみに出たような。そういう意味では勇気のある句だと思います。
篠●『麥稈帽子』のなかに〈たいくつな播州平野鳥曇〉という句がありまして、私は播州の出身なのでふとその句のところで立ち止まったのですが、杏太郎にとっては「たいくつな」は悪い意味ではないのかな、という気がしています。これも、人によっては引っかかることがあるかもしれませんが。
大祐●決してけなしている句ではないですね。
智哉●
鯛の海鮃の海に雪の降り
は変な句ですね。ふざけているというか……。
篠●「浦島太郎」の歌の中に「鯛や鮃の舞い踊り」というフレーズがありますよね。そのあたりから発想したのではないでしょうか。
智哉●もしかしたら、何かのお祝いの席でつくった句かもしれません。刺身を見て作った。「鯛の海鮃の海」って、べつべつに海があるわけではないですから。いいかげんな言葉づかいですが、そこが面白いです。
篠●では、今回はこのへんで。次回からは第3句集の『海鳴り星』を読みます。
●
句集『通草葛』(4)
≫承前
◆言葉の力で風景を異化する◆
篠●今回は『通草葛』の冬です。智哉さん、お願いします。
智哉●はい。
知床の海を流るる氷かな
この句は、季語である「流氷」を分解して「流るる氷」としているところが面白いですね。
実景としてはわりに大きな風景のはずですが、「海を流るる」と言われると、スケール感に違和が生じるように思います。以前、本城直季氏の『small planet』(2009年)という写真集が出て、「ミニチュアみたいに見える風景写真」が流行りました。トイカメラで撮った画像にも似ていますが、あの写真のようにも感じられます。
ただ、言葉の用い方、という意味では、「風景をそのまんま言っただけですよ」的な、単純な組み立てで、できてますよね。「流るる氷」のほかは、事実である「知床の海」だけでしょう? これ以上単純な構成はない。実景を単純にそのまま言ったはずの言葉。その言葉からもう一度実景に戻ると、言葉と実景が変にずれている、そういう効果が生まれている句だと思います。
たとえば、秋の部の〈こすもすの花びらの揺れうごくなり〉などは、実景としても小さな細かい風景を、言葉としても細かく言っている。細かい部分がクローズアップされた感じなのですが、「知床の」の句は、大きいはずの風景が言葉の作用によって、ミニチュア化されている。「本当のことを言ったら嘘になった」みたいな捩れを感じます。まるで箱庭のように風景を見ているような気にもなる。作者が意図してそうしたというよりは、言葉というものがもつ性質によって、そうなっている。物と言葉はそもそもズレているものですが、そのズレが、非情にシンプルに表面化している句でしょう。
「本当のことを言ったら嘘になった」「単純に写生をしたら現実と違った」みたいな感じです。言葉がそもそも持っている性質によって、実際の風景が異化されている。
大祐●プレーンな言葉の使い方ですよね。知床は地名ですが、「海」も「流れる」も「氷」もプレーンです。
「流氷」というといろいろな意味内容を孕みますし、ある意味限定された言葉ですよね。どういうものか、ということが厳密に限定されていますし、場所も限定されています。ですが、分解すると「海」も「流れる」も「氷」もいろんな意味にとれて、それらの言葉をすべて「知床」に集めてくると「ああ、流氷なんだな」と分かる。
トイカメラみたいな、というのもよく分かって、大きな流氷の本体というよりは、こぼれ落ちた破片を見ているような感じですよね。
海を覆うような氷も、非常に遠景から眺めるとこぼれ落ちたようなものですから。
篠●「流氷」を流れるとはあまり言わないですよね。ふつうは「動いて」とかでしょう。
智哉●「流氷」とは「流れる氷」である、という考え方です。杏太郎はよく「流木」のことを言っていました。「流木」とは「流れる木」であると、とても理屈っぽく考えるんですよね。
「『流木』とは『流れる木』だろう? だったら『流木』が陸にあるなんて言うのは変だよな、陸にあったら流れていないことになるから」
みたいな話をよく言っていました。要するに、もし流木が陸にあると言うなら、「流木は流れない」という矛盾が生じることになる、ってことだと思います。
まあ、屁理屈とも言えるわけですが、理屈とも言えますよね(笑)。それを思い出すと、この句「流氷」の句にもそうした理屈を感じます。実際に知床に足を運んで見てつくっているはずなのに、こういう句ができる、というのは面白いです。
大祐●でも、ふつうは分解してゆくと必ず説明的になる、という先入観があるのですが、この句のように、うまくやると説明的にならずに1句として成り立つ、というのは発見ですね。
篠●この句、「知床」という地名がなければ、流氷とはわからなくて、だから分解しても説明になっていないんですね。
大祐●その2句前に
ゆふぐれに水は凍つてしまひけり
という句があります。氷という点では流氷もそのへんの氷も同じで、すぐあとに〈真つ白に氷が張つて水たまり〉という句もありますが、物理現象としてはどれも同じものなんです。
だから、流氷も水たまりの氷も同じテンションで見てゆくと、こういう句の並びになってくるのかな、と思います。
篠●同じテンション、というのは面白い見方ですね。
大祐●流氷だから、と大仰に扱うのではなくて、流氷もふつうの氷として扱っているんですね。
「ゆふぐれに」の句はちょっと変で、ふつう、氷が張るのは明け方なので、光景としては珍しいです。たぶん、知床に来て、寒くて、夕暮れに水が凍ったんだよ、という句だと思うのですが、この1句だけをピックアップするとそれが分からないですね。
篠●このあたりは北海道でつくった句が並んでいるんですね。〈オホーツクの氷の下にいつも海〉。この「いつも」はちょっと面白いです。ほんとうにいろいろな氷を詠んでいますね。
生駒さん、気になった句はありますか?
◆興味の持ち方が独特◆
大祐●はい。
月山のふもとの蕪畑かな
青畝に〈葛城の山懐に寝釈迦かな〉という句がありますよね。有名な句で僕もわりに好きな句ですが、構成的に似ています。山があって、地名があって、だんだん視点が寝釈迦とか蕪畑のようなモノに移ってゆき、最後に「かな」で締めると。
そこは同じなのですが、「葛城」の句は宗教的なイメージを孕んで荘厳な感じのする一方、この句は何でもないところに落とし込んでいます。「蕪畑」というのはちょっと拍子抜けというか、杏太郎さんらしいなあと。衒いというか、そんなに気合いを入れてつくらないところが面白いと思いました。
葛城山のふもとに寝釈迦があれば詠みたくなるのは何となくわかりますが、月山のふもとに蕪畑があって、それを言葉にするというのは、興味の持ち方が独特だなと思います。
篠●この句は実景なんでしょうが、「月山」という地名の使い方が感じが良いというか、うまいなあ、と思います。ただの報告になっていないですよね。
大祐●地名の使い方で、これは動くな、というのがないですね。
篠●杏太郎には旅行詠がわりにたくさんあって、地名をうまく使いますよね。旅行詠にこだわりがあったのかもしれません。
智哉●「鶴」でともに俳句をしていた岸田稚魚が角川俳句賞をとったときの50句が、たしか旅行詠だったと思うのですが(編集部註:「佐渡行」50句で第3回角川俳句賞受賞)、そういう座の影響もあるかもしれません。
篠●ああ、なるほど。それに、ふつうの句の中に旅行詠をすらっと交ぜてくるのもうまいんですよね。
大祐●旅行詠には、その土地のことを出さずに詠むやり方と、面白いものを見たよ、というような挨拶性の強い詠み方と、両方あると思うのですが、杏太郎さんの場合、地名は動かないけれどテンションはふつうの句と変わらないんですね。フラットに詠み続けている。テンションが一定なので、旅行詠をそうでない句の中に入れてもまとまるのだと思います。
篠さんはいかがですか?
篠●ちょっと変な句なのですが
牛乳を飲んで雪降る国にをり
ですね。それこそ、こんなにテンション低く「牛乳を飲んだ」ことをわざわざ言う、っていうのが面白いです。やはり、興味の持ち方がちょっと変だな、と(笑)。
大祐●雪降る国に行ったんだけれど、そこで「牛乳を飲む」ことをピックアップするのか、ということですよね。
篠●しかも、冷たい牛乳をゴクゴクッと飲んでいる感じなので、すごく寒い句になっているんですね。牛乳が白くて雪も……あ、白い句でもありますね。
智哉●とぼけてますよね、笑える。
篠●面白い句なんですか、やっぱり。事実を詠んでいるだけなんでしょうけれど、「とぼけてる」感じになるんですよね。事実なんでしょうが、牛乳を飲んだことをピックアップするのは、やっぱりちょっと面白いのかもしれません。
大祐●人によっては、固有名詞を入れたり、その地方独特だったり、牛乳になにか特別感を出したりしますよね。
篠●そうですね。さもなければ、牛乳と言えば出てくる場所、駅のホームとかそういうところを連想しがちですが、「雪降る国」の意外性はありますね。「雪降る国」そのものは地名でもないし特別ではないのですが、そこでピックアップしたのが「牛乳」というところの面白さですね。
「雪降る国」は杏太郎ならではの言い方かもしれません。「雪国」ではなくて「雪降る」という季語を入れて言葉にしています。「雪国」は夏でも「雪国」だから季語ではない、と言っていましたから。
智哉●そのあたりはこだわりなんでしょうね。
季語の分解について言うと、杏太郎は「霜柱」のことを「霜の柱」と言ったりしている。他人から、「それは霜柱とは違うぞ」と言われる可能性もあるのですが、わざとそうしているところがあります。
実は「保険」のようなものがあって、たとえば「霜の柱」と言っても、「霜」は季語なので、「霜」の柱、だと考えれば有季になる。さきほどの「流れる氷」にしても、「氷」が季語ですから、流るる「氷」、だと考えれば有季になる。きちんと保険が用意されているんです。
あ、「保険」という言葉は杏太郎は使っていませんよ(笑)。
保険が保険として働かない例もあって、そういう場合は分解してはいけない。たとえば、「冬苺」を「冬の苺」と分解してはいけない。「冬苺」は「苺」とは違う植物なので、「冬の苺」と分解してしまうと、「冬苺」とは別の「冬に食べる苺」になってしまいます。これは一般的に俳句の先生がよく指導していることですよね。「冬苺」のことは、杏太郎も句会で何度も言っていたという記憶があります。
篠●そう、たしかに違う植物なんですが、冬苺ならではの詠み方って案外むずかしいような気がします。
◆「色」を信じていない◆
大祐●ちょっと気になったのが
イタリアンブルーの青のカーディガン
です。
智哉●この句はちょっとはしゃいでないですか?(笑)
篠●はしゃいでますね。(笑)
大祐●イタリアンブルーって何ですか?
篠●コバルトブルーとかスカイブルーと同じで、そういう色があるんじゃないでしょうか。
智哉●「ブルー」と「青」を重ねているんですね。
篠●イタリアから地中海を連想しますし、印象としては一見夏の句のようなんですが、冬の句なんですね。なんでしょうか、この高級感あふれる感じ(笑)。17音のうちの13音がカタカナですし。
智哉●カタカナだからはしゃいでいるように見えるのかな。名詞が「の」で単純に繋がっているだけで、シンプルなんですけどね。
篠●色と言えば、
ももいろの落葉を焚けば燃ゆるなり
が気になります。焚いたのだから燃えるのは当たり前で、その当たり前のことをわざわざ書いていて面白いのですが、「ももいろ」というのは何でしょうか?
智哉●これは一種の、言葉のアクセントとして言ってみた、ということではないでしょうか。杏太郎は現実の色を信じていないような面がありました。色というものは、言葉しだいで「何とでも言える」という考えがあったように思います。
篠●じゃあこの「ももいろ」は「みずいろ」でも良かった、ということですか?
智哉●まあそういうことですね。この句では「ももいろ」というとイメージが広がるのではないか、という言葉の面白さで使ったんだと思います。
大祐●〈むらさきのいろを思うてくさめかな〉の句は、それこそ何色でもいいですね。もちろん俳句的必然性というのは必要ですが、事実としては何でもいいわけです。
篠●ほかに気になった句はありますか?
智哉●
広島の牡蠣といはれて寒かりき
ちょっと、ぎょっとする句かなと。「広島」でしょう。
我々はふつうは、広島のおいしい牡蛎のことを思うときと、広島の戦争での悲惨なことを思うときとでは、頭のモード、心のモードが違う。モードが切り替わっているはずですよね。そんな中であるとき、「広島の牡蛎」と言われてふと寒くなった、というんです。
でもわかりますよね。ふだん思わないようにしていることが、ふっと明るみに出たような。そういう意味では勇気のある句だと思います。
篠●『麥稈帽子』のなかに〈たいくつな播州平野鳥曇〉という句がありまして、私は播州の出身なのでふとその句のところで立ち止まったのですが、杏太郎にとっては「たいくつな」は悪い意味ではないのかな、という気がしています。これも、人によっては引っかかることがあるかもしれませんが。
大祐●決してけなしている句ではないですね。
智哉●
鯛の海鮃の海に雪の降り
は変な句ですね。ふざけているというか……。
篠●「浦島太郎」の歌の中に「鯛や鮃の舞い踊り」というフレーズがありますよね。そのあたりから発想したのではないでしょうか。
智哉●もしかしたら、何かのお祝いの席でつくった句かもしれません。刺身を見て作った。「鯛の海鮃の海」って、べつべつに海があるわけではないですから。いいかげんな言葉づかいですが、そこが面白いです。
篠●では、今回はこのへんで。次回からは第3句集の『海鳴り星』を読みます。
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