↧
平成百人一句 選・宗田安正
↧
10句作品テキスト 陽 美保子 祝日
祝日 陽 美保子
昭和の日鷗も我も用のなく
鳥を食ひ魚を食ひぬ昭和の日
スリッパの滑りやすしよ昭和の日
海風に窓鳴る憲法記念の日
みどりの日犬は片脚あげにけり
あららぎのこぼれ雀も子供の日
虫食ひの穴の一列子供の日
大安の振替休日金魚玉
母の日の夜の青空仰ぎけり
父の日の畑に来てゐる鷗鳥
●
昭和の日鷗も我も用のなく
鳥を食ひ魚を食ひぬ昭和の日
スリッパの滑りやすしよ昭和の日
海風に窓鳴る憲法記念の日
みどりの日犬は片脚あげにけり
あららぎのこぼれ雀も子供の日
虫食ひの穴の一列子供の日
大安の振替休日金魚玉
母の日の夜の青空仰ぎけり
父の日の畑に来てゐる鷗鳥
●
↧
↧
10句作品 陽 美保子 祝日
↧
週刊俳句 第371号 2014年6月1日
↧
後記+プロフィール372号
後記 ● 村田 篠
東京も梅雨入りして、今日(6月8日)も朝から雨催いです。雨はべつに嫌いではないのですが、蒸し暑いのはたまりません。吟行に出るのがおっくうになる季節です。
しかし日本はほんとうに、一年のうちの暑い時期が長くなりました。暑さ嫌いの人間のひとりとして、まったく由々しき事態と言うほかありません。
そんなグチはさておき。
●
今週の10句作品は、芝不器男賞の奨励賞を受賞されたおふたり、髙坂明良さんと原田浩佑さんです。4月の西村麒麟さん、曾根毅さん、5月の表健太郎さん、庄田宏文さんに続き、これで今年の不器男賞受賞者6名の方の作品が揃いました。
どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。
●
それでは、また次の日曜日にお会いしましょう。
■茅根知子 ちのね・ともこ
1957年東京生れ。1999年「魚座」入会。「魚座」終刊にともない2007年より「雲」同人。2009年「雲」退会。第4回(2001年)「魚座」新人賞。第15回(2001年)俳壇賞。句集『眠るまで』(本阿弥書店)。「絵空」同人。俳人協会会員。
■生駒大祐 いこま・だいすけ
1987年三重県生まれ。「天為」「トーキョーハイクライターズクラブ」所属。「東大俳句会」等で活動。blog:湿度100‰
■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。俳人協会会員。「Belle Epoque」
●
東京も梅雨入りして、今日(6月8日)も朝から雨催いです。雨はべつに嫌いではないのですが、蒸し暑いのはたまりません。吟行に出るのがおっくうになる季節です。
しかし日本はほんとうに、一年のうちの暑い時期が長くなりました。暑さ嫌いの人間のひとりとして、まったく由々しき事態と言うほかありません。
そんなグチはさておき。
●
今週の10句作品は、芝不器男賞の奨励賞を受賞されたおふたり、髙坂明良さんと原田浩佑さんです。4月の西村麒麟さん、曾根毅さん、5月の表健太郎さん、庄田宏文さんに続き、これで今年の不器男賞受賞者6名の方の作品が揃いました。
どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。
●
それでは、また次の日曜日にお会いしましょう。
no.371/2014-6-8 profile
■髙坂明良 こうさか・あきら
1978年生れ。無所属。第四回芝不器男賞対馬康子奨励賞受賞。
葛原りょうの名で詩集「朝のワーク」、詩集「魂の場所」。
「魂の場所」がH氏賞最終候補作となる。現在、大衆文藝ムジカ代表。朗読ライヴを展開中。
■原田浩佑 はらだ・こうすけ
「蝶」「円錐」同人。
1978年生れ。無所属。第四回芝不器男賞対馬康子奨励賞受賞。
葛原りょうの名で詩集「朝のワーク」、詩集「魂の場所」。
「魂の場所」がH氏賞最終候補作となる。現在、大衆文藝ムジカ代表。朗読ライヴを展開中。
■原田浩佑 はらだ・こうすけ
「蝶」「円錐」同人。
1957年東京生れ。1999年「魚座」入会。「魚座」終刊にともない2007年より「雲」同人。2009年「雲」退会。第4回(2001年)「魚座」新人賞。第15回(2001年)俳壇賞。句集『眠るまで』(本阿弥書店)。「絵空」同人。俳人協会会員。
1987年三重県生まれ。「天為」「トーキョーハイクライターズクラブ」所属。「東大俳句会」等で活動。blog:湿度100‰
■小野裕三 おの・ゆうぞう
1968年、大分県生まれ。神奈川県在住。「海程」所属、「豆の木」同人。第22回(2002年度)現代俳句協会評論賞、現代俳句協会新人賞佳作、新潮新人賞(評論部門)最終候補など。句集に『メキシコ料理店』(角川書店)、共著に『現代の俳人101』(金子兜太編・新書館)。サイト「ono-deluxe」
1968年、大分県生まれ。神奈川県在住。「海程」所属、「豆の木」同人。第22回(2002年度)現代俳句協会評論賞、現代俳句協会新人賞佳作、新潮新人賞(評論部門)最終候補など。句集に『メキシコ料理店』(角川書店)、共著に『現代の俳人101』(金子兜太編・新書館)。サイト「ono-deluxe」
■西村麒麟 にしむら・きりん
1983年生れ、「古志」所属。 句集『鶉』(2013・私家版)。第4回芝不器男俳句新人賞大石悦子奨励賞、第5回田中裕明賞(ともに2014)を受賞。
1983年生れ、「古志」所属。 句集『鶉』(2013・私家版)。第4回芝不器男俳句新人賞大石悦子奨励賞、第5回田中裕明賞(ともに2014)を受賞。
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。
■岡野泰輔 おかの・たいすけ
船団の会会員。共著 『俳コレ』『季語キラリ』『漱石東京百句』『俳句の動物たち』。
■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』を上梓。
■岡野泰輔 おかの・たいすけ
船団の会会員。共著 『俳コレ』『季語キラリ』『漱石東京百句』『俳句の動物たち』。
■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』を上梓。
■西村小市 にしむら・こいち
1950年神戸市生まれ、埼玉県在住。2007年より「ほんやらなまず句会」参加、2012年「街」入会。
1950年神戸市生まれ、埼玉県在住。2007年より「ほんやらなまず句会」参加、2012年「街」入会。
■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。俳人協会会員。「Belle Epoque」
↧
↧
〔今週号の表紙〕第372号 エスカレーター 西村小市
〔今週号の表紙〕
第372号 エスカレーター
西村小市
市ヶ谷にある防衛省地下12階のシェルターへとつづくエスカレーター。
というのは嘘で、とあるビルで撮影しました。
他に人のいない下りのエスカレーターに乗っていると、地の底へ運ばれていくようなちょっと怖い感じがしました。
●
週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら
第372号 エスカレーター
西村小市
市ヶ谷にある防衛省地下12階のシェルターへとつづくエスカレーター。
というのは嘘で、とあるビルで撮影しました。
他に人のいない下りのエスカレーターに乗っていると、地の底へ運ばれていくようなちょっと怖い感じがしました。
●
週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら
↧
自由律俳句を読む46 喜谷六花〔2〕 馬場古戸暢
自由律俳句を読む46
喜谷六花〔2〕
馬場古戸暢
前回に引き続き、喜谷六花句を鑑賞する。
我れ春夕の磐をうち町人夕に来る 喜谷六花
時代差がためか、実は「磐をうち」の意味を理解できず、雰囲気で採ってしまった。お寺ならではの景なのだろうか。
みなは寝し仏壇とぢてひと夜の蒲団に入る 同
檀家へ赴いた際の話か、それとも自身のお寺での話か。人の死が見え隠れするが、これもまた、僧侶六花の日常の景だったことだろう。
寒蘭一鉢あるがまゝに愛す君欲しくばやる 同
蘭の愛好家は見た目には静かだが、その実、熱情を持ち合わせているのかもしれない。この申し出を受けて、君はさぞかし喜んだことだろう。
寒菊を置く碧梧桐の書この時分の拮屈 同
床の間に、寒菊と碧梧桐の書を合わせて飾っていたのだろう。しかしどうにも碧梧桐の字は堅苦しい。この書を書いた時の、碧梧桐の心境やいかに。
喜谷六花〔2〕
馬場古戸暢
前回に引き続き、喜谷六花句を鑑賞する。
我れ春夕の磐をうち町人夕に来る 喜谷六花
時代差がためか、実は「磐をうち」の意味を理解できず、雰囲気で採ってしまった。お寺ならではの景なのだろうか。
みなは寝し仏壇とぢてひと夜の蒲団に入る 同
檀家へ赴いた際の話か、それとも自身のお寺での話か。人の死が見え隠れするが、これもまた、僧侶六花の日常の景だったことだろう。
寒蘭一鉢あるがまゝに愛す君欲しくばやる 同
蘭の愛好家は見た目には静かだが、その実、熱情を持ち合わせているのかもしれない。この申し出を受けて、君はさぞかし喜んだことだろう。
寒菊を置く碧梧桐の書この時分の拮屈 同
床の間に、寒菊と碧梧桐の書を合わせて飾っていたのだろう。しかしどうにも碧梧桐の字は堅苦しい。この書を書いた時の、碧梧桐の心境やいかに。
↧
【週俳5月の俳句を読む】アルレッキーノの空 岡野泰輔
【週俳5月の俳句を読む】
アルレッキーノの空
岡野泰輔
町のそらぶらんこ乘りの脚埀るゝ 堀込 学
俳句を読むとはどういうことだろうか?無理矢理意味に還元する必要のないこの句のような場合、読むこととは作者の提示する映像枠に作者と一緒に入ることではないか。(『日本語は映像的である』熊谷高幸。この本は俳句に示唆的)
極めて映像的、というか静止画のような映像以外なにもない。ぶらんこ乗りの脚は垂れぶらんこは一瞬前もこの後も、動いた、あるいは動く気配さえない。この映像にうっとりする。映像にこだわって言えば、絵画でも写真でもなく、静止していてもフィルムは回っている。その臨場感と無類の平安さ。作者の視線に同調できているだろうか?この魅力的な映像の窓は願わくば私が独占したい。
近景右上にぶらんこ乗り、町はやや俯瞰で2/3は明るい空。ぶらんこから垂れている脚は赤や青や黄の派手なダイヤ柄。コメディア・デラルテのアルレッキーノだ。仮面を含む上半身は窓から切れて見えずともよし。あ!季語ないね。
同じ作者の
ひるふかき巣箱に穴の在ることを
は思弁に傾いてはいるが、「ひるふかき」で体感したような気になる、何を?作者の思弁を。
一方、
となりより火が來て春のドレスかな
は俳句の強みと弱みが両方露に。火とひるがえる薄く明るいドレスの印象鮮明。ただ起きている事態の不分明さがもどかしさとなって、俳句を読む快感まで届かない、私は。
第367号2014年5月4日
■木村オサム がさごそ 10句 ≫読む
■飯島章友 暗 転 10句 ≫読む
第368号2014年5月11日
■堀込 学 輕雷 10句 ≫読む
■表健太郎 沿線物語 7句 ≫読む
第369号2014年5月18日
■荻原裕幸 世ハ事モ無シ 20句 ≫読む
第370号2014年5月25日
■池谷秀子 蝉の穴 10句 ≫読む
■仲田陽子 四分三十三秒 10句 ≫読む
■庄田宏文 絵葉書 10句 ≫読む
●
アルレッキーノの空
岡野泰輔
町のそらぶらんこ乘りの脚埀るゝ 堀込 学
俳句を読むとはどういうことだろうか?無理矢理意味に還元する必要のないこの句のような場合、読むこととは作者の提示する映像枠に作者と一緒に入ることではないか。(『日本語は映像的である』熊谷高幸。この本は俳句に示唆的)
極めて映像的、というか静止画のような映像以外なにもない。ぶらんこ乗りの脚は垂れぶらんこは一瞬前もこの後も、動いた、あるいは動く気配さえない。この映像にうっとりする。映像にこだわって言えば、絵画でも写真でもなく、静止していてもフィルムは回っている。その臨場感と無類の平安さ。作者の視線に同調できているだろうか?この魅力的な映像の窓は願わくば私が独占したい。
近景右上にぶらんこ乗り、町はやや俯瞰で2/3は明るい空。ぶらんこから垂れている脚は赤や青や黄の派手なダイヤ柄。コメディア・デラルテのアルレッキーノだ。仮面を含む上半身は窓から切れて見えずともよし。あ!季語ないね。
同じ作者の
ひるふかき巣箱に穴の在ることを
は思弁に傾いてはいるが、「ひるふかき」で体感したような気になる、何を?作者の思弁を。
一方、
となりより火が來て春のドレスかな
は俳句の強みと弱みが両方露に。火とひるがえる薄く明るいドレスの印象鮮明。ただ起きている事態の不分明さがもどかしさとなって、俳句を読む快感まで届かない、私は。
第367号2014年5月4日
■木村オサム がさごそ 10句 ≫読む
■飯島章友 暗 転 10句 ≫読む
第368号2014年5月11日
■堀込 学 輕雷 10句 ≫読む
■表健太郎 沿線物語 7句 ≫読む
第369号2014年5月18日
■荻原裕幸 世ハ事モ無シ 20句 ≫読む
第370号2014年5月25日
■池谷秀子 蝉の穴 10句 ≫読む
■仲田陽子 四分三十三秒 10句 ≫読む
■庄田宏文 絵葉書 10句 ≫読む
●
↧
【週俳5月の俳句を読む】私はYAKUZAⅡ 瀬戸正洋
【週俳5月の俳句を読む】
私はYAKUZAⅡ
瀬戸正洋
村の渡しの船頭さんは ことし六十のお爺さん
年をとってもお船を漕ぐときは 元気いっぱい櫓がしなる
それぎっちらぎっちらぎっちらこ (「船頭さん作詞 武内俊子)
先日、ラジオから、この童謡が流れてきて思わず聴き入ってしまった。私も、この五月に六十歳になったばかりだが、自分は「お爺さん」なんだと改めて思った。
毎年、五月から九月までの五ヶ月の間の休日の予定のない日は草刈をしている。老人なのだから、その日の気分で草刈をしようと決めた。嫌になったら、途中でも止めてしまえばいいのだ。これだけやってしまおうなどと思うと疲れてしまう。仕事が捗らず草が残っていても無理はしない。隣地の畑に迷惑さえかけなければと割り切る。それでも、汗はかくし、それなりの達成感もありストレス解消にはなる。終わればシャワーを浴び、冷たいビールと昼食、そして、昼寝だ。
楤の木は地下茎で繋がっていて思わぬところから生えてくる。たまたま、自宅の北側は楤の畑であり、それが自宅の裏庭に生えてきた。地下茎は南に向うのかも知れない。私は変わった雑草が生えてきたなと思い、そのまま、刈り払ってしまった。後で気が付き、来年の楤の芽の天麩羅は幻に終わったのだとがっかりしたが、すぐに、同じ場所から楤の木が生えてきた。もう、刈り払ったりはしない。来年の楤の芽の天麩羅の夢が繋がった。まだ、五十センチメートル程度でも、瑞々しい緑色の楤の芽を見つけることができた。畑の持ち主にお礼を言わなくてはならない。楤の芽をピザにのせて焼いてもイケルかも知れない。
炎昼の熟練工にピザ届く 木村オサム
熟練というと年齢でいえば何歳ぐらいなのか。炎昼である。身体を使いたっぷりと汗をかく。昼食には少し大き目のピザ。これくらい食べなければ仕事などできるものではない。経験と体力が全てなのだから。もしかしたら、後輩に奢ってやるのかも知れない。見習いの頃はよく奢られたものだ。受けたものは、同じように返さなければならないのだ。某月某日、炎昼、熟練工にピザが届く。
なんとなく出がけに覗く扇風機 木村オサム
何となく覗くのである。振り返って見ているのかも知れない。はじめはスイッチが「切れ」ているかどうかの確認。そんな時、必ず気になるものを見つけてしまうのだ。羽根のあたりに、安全カバーのあたりに、スイッチのあたりに、何かが付いている。付いているのは「埃」なのである。その「埃」の形は千差万別、それは、扇風機が回転していたからなのである。
本日はお日柄もよく長い顔 飯島章友
「本日はお日柄もよく」と言った人が長い顔だったのか、言われた人が長い顔だったのか。その一族郎党が、長い顔だったのか。長閑なのんびりとした雰囲気が漂っている。お見合いなのか、結婚式なのか。顔の長い人に悪人はいないなどと作者も読者も思っている。
雨雲が走るぬらりひょんが走る 飯島章友
雨雲が走るのである。「ぬらりひょん」が走るのである。「ぬらりひょん」とは、ぬらりくらりと掴まえどころのない妖怪である。作者は、それを雨雲といっしょに走らせようとした。それは、作者の意思なのである。雨雲が走っている。雨は止んでいる。風の音だけが聞こえている。
ひるふかき巣箱に穴の在ることを 堀込 学
ひるふかきという表現から森の奥というイメージが湧いてくる。鬱蒼と生い茂った木立、そこに巣箱はあるのだ。巣箱に丸い穴が開いていることはあたりまえのことである。だが、作者は、敢えて、巣箱に穴が在るということに対し念を押す。言葉を繰り返すと、いつのまにか、巣箱には本来、穴は無いのではないかという思いが芽生えてくる。念を押し続ける行為からは、そうではないのかも知れないという疑いが、確かに生まれてくるのだ。言葉は不思議なものである。
摘み草の二人のうちの一人哉 堀込 学
二人が摘草をして遊んでいる。そのうちの「一人」に焦点が当たった。娘なのか、妻なのか、恋人なのか、見知らぬ少女たちの一人なのか。ただ、言えることは「二人のうちの二人」ではないのである。「二人のうちの二人」が正しいことならば、「二人のうちの一人」は間違っていることなのか。それとも「二人のうちの一人」も正しいことなのか。
バツカスもかつて阿佐ヶ谷商店に 表健太郎
阿佐ヶ谷商店である。阿佐ヶ谷の商店街ではない。かつて、酒の神は、阿佐ヶ谷商店にいらっしゃったのである。阿佐ヶ谷商店とは、酒屋ではなく味噌とか醤油とか、そういったものを商う店なのだと思う。たとえば「もろきゅう」でワインを頂くことも乙なものなのだ。味噌を舐めながらスコッチウヰスキー、これはこれでイケルのである。
新宿の空に噎びし神でよい 表健太郎
新宿の空に噎せたのである。息が詰まりそうになったのである。そして、それは神でよいという。汚染物質が浮遊しているのは何も新宿だけなのではない。偏西風から飛散するものだけでもない。汚染物質が浮遊していなくても噎せることは、いくらでもある。私たちは、無学ゆえに自覚することもなく無邪気に日々を過ごしてゆく。地球は、既に、充分に、汚れ、病んでいる。
ひぐらしや箪笥の底の新聞紙 荻原裕幸
ひぐらしが鳴いている。箪笥の引き出しの底には新聞紙が敷き詰められている。新聞紙は、箪笥の底だけではなく畳の下にも敷き詰められている。新聞紙は湿気から衣服や畳を守るものなのかも知れない。古い記事を読んだりすると、その時の自分を思い出したりして、昔の流行唄を聞くことと同じような感慨に陥ったりするのだ。
行きつけの書店なくなる春夕焼 荻原裕幸
行きつけの書店がなくなるということは寂しいものだ。かつては、この街にはこの書店、あの街にはあの書店と、電車を降りれば、必ずといっていいくらい行きつけの書店があったものだ。あとで考えてみると、何故、この本が見つかるのかと思うことも多々あった。自分が欲しい本が見つかるのではない。思ってもみなかった本が見つかるのだ。その本は、確かに私自身にとって必要な本なのである。当たり前のことなのだが書店には神様がいらっしゃるのだ。とある街角のセンチメンタルな春の夕焼けと閉店した書店のある風景。
熱の子に蚊帳の天井低かりし 池谷秀子
熱の子の世話をして立ち上がったときに、蚊帳の低いことに気付いた。あるいは、そのことが気になった。蚊帳の低さは熱があろうと無かろうと同じなのである。見慣れた風景であっても、見えなかったものが見えてしまうこと、感じなかったものが感じてしまうことは、私たちの生活の中においても多々あることなのである。
夏至の夜のもつとも遠き足の指 池谷秀子
昼の時間の最も長い夜に、夜の時間の最も短い夜に、足の指がもっとも遠くに感じた。たとえば私たちは足の指の爪を切る時などこのように感じることがある。身体が硬くなってきたからなのか、腹筋が緩んできたからなのか。こんな些細なことから、私たちは老いを感じてしまうのである。
黒百合のふところ深く眠りおり 仲田陽子
ふところ深く眠っているのは作者なのだろう。黒百合から「恋」とか「呪」とかを感じ取った人の感性には驚きを感じる。惚れてしまえば、しかたがないのだ。どうせ、呪うならば力いっぱい呪えばいいのだと思う。それが恋なのである。
触角の長い順から虫籠に 仲田陽子
虫籠に虫を入れるのであるが、入れる順番は触覚の長いものからとした。触覚の長い順に入れる理由はあるのだと思う。たとえば、虫籠の形から考えて長いものから入れないと虫の触角が傷付いてしまうとか。人が何かをする場合、必ず何かがあるのだ。人の行為には、意識、無意識に係わらず必ず理由がある。
人登りては消えてゆく春の坂 庄田宏文
怠け者の私は、坂の途中に腰を下ろし、過去の風景を眺め思い出に浸っている。そんな私を後から来た人たちは、どんどん、追い抜いていく。確かに「春」の坂だったのだ。まだ、「春」なのだからと油断していたら、それが、いつのまにか「夏」の坂になる。その時、少し、身体に堪えたりもしたが、しばらくすると「秋」になり、再び、過ごし易い季節となった。風景も、それなりのものになっていった。私は弱い人間なので、楽な方へと楽な方へと流れていく。私は、いったいどのくらいの人たちに追い抜かれてしまったのだろうか。未だに、坂の途中で人生について考えているふりをしている。
いくばくか太りし鳩や暮の春 庄田宏文
鳩が何となく太ったような気がした。飼っている鳩なのか、それとも、駅前広場などにいる野生の鳩なのか。私の体重も毎日「いくばく」か、増えたり減ったりしている。体重を増やさない秘訣は、嫌でも、面倒くさくても、毎日、体重計に乗ることだ。春も終わり、旬の食材が食卓に溢れるくらいに並ぶ。もちろん、冷たい瓶のビールも一本。
サラリーマンにとって休日の前日が一番だ。どこかへ寄って一杯引っ掛ける。「ことし六十のお爺さんに」なっても退職しない理由は、そこに尽きるのだ。そんな訳で、帰りはタクシーを利用することになる。顔なじみになったドライバーも多く、乗れば黙っていても自宅まで運んでくれる。一杯ひっかける時もそうなのだが、入ると何も言わなくてもカウンターの前に私の好みの銘柄の生ビールが出る。それと同じくらい嬉しいものだ。
ある時、タクシーに乗ったら顔なじみのドライバーが「魚を使って料理していたら失敗してしまい、そのままにしておいたら、へんてこなもの出来上がり、それを食べてみたら体調がよくなった」と言った。その日のタクシーの中は、その話でそれなりに盛り上がった。私は、酒盗のようなもの、塩辛のようなものを作っていたのだろうと思った。
ある日、そのドライバーが、わざわざ自宅まで尋ねて来て「いつも、持っていたが、なかなか出会わないので」と言い、タッパーに入った『あるもの』を手渡してくれた。舐めてみると塩辛く確かに魚の内臓のような味がした。「朝昼晩と豆粒程度の量を舐めるといい」とも言われた。私は、それを舐めている。身体にいいものなら試してみようという軽い気持ちからだが、その軽い気持ちが老いなのだろう。箸で掬って口に含み日本酒を飲む。それはそれで酒の肴としてもイケルのである。
第367号2014年5月4日
■木村オサム がさごそ 10句 ≫読む
■飯島章友 暗 転 10句 ≫読む
第368号2014年5月11日
■堀込 学 輕雷 10句 ≫読む
■表健太郎 沿線物語 7句 ≫読む
第369号2014年5月18日
■荻原裕幸 世ハ事モ無シ 20句 ≫読む
第370号2014年5月25日
■池谷秀子 蝉の穴 10句 ≫読む
■仲田陽子 四分三十三秒 10句 ≫読む
■庄田宏文 絵葉書 10句 ≫読む
●
私はYAKUZAⅡ
瀬戸正洋
村の渡しの船頭さんは ことし六十のお爺さん
年をとってもお船を漕ぐときは 元気いっぱい櫓がしなる
それぎっちらぎっちらぎっちらこ (「船頭さん作詞 武内俊子)
先日、ラジオから、この童謡が流れてきて思わず聴き入ってしまった。私も、この五月に六十歳になったばかりだが、自分は「お爺さん」なんだと改めて思った。
毎年、五月から九月までの五ヶ月の間の休日の予定のない日は草刈をしている。老人なのだから、その日の気分で草刈をしようと決めた。嫌になったら、途中でも止めてしまえばいいのだ。これだけやってしまおうなどと思うと疲れてしまう。仕事が捗らず草が残っていても無理はしない。隣地の畑に迷惑さえかけなければと割り切る。それでも、汗はかくし、それなりの達成感もありストレス解消にはなる。終わればシャワーを浴び、冷たいビールと昼食、そして、昼寝だ。
楤の木は地下茎で繋がっていて思わぬところから生えてくる。たまたま、自宅の北側は楤の畑であり、それが自宅の裏庭に生えてきた。地下茎は南に向うのかも知れない。私は変わった雑草が生えてきたなと思い、そのまま、刈り払ってしまった。後で気が付き、来年の楤の芽の天麩羅は幻に終わったのだとがっかりしたが、すぐに、同じ場所から楤の木が生えてきた。もう、刈り払ったりはしない。来年の楤の芽の天麩羅の夢が繋がった。まだ、五十センチメートル程度でも、瑞々しい緑色の楤の芽を見つけることができた。畑の持ち主にお礼を言わなくてはならない。楤の芽をピザにのせて焼いてもイケルかも知れない。
炎昼の熟練工にピザ届く 木村オサム
熟練というと年齢でいえば何歳ぐらいなのか。炎昼である。身体を使いたっぷりと汗をかく。昼食には少し大き目のピザ。これくらい食べなければ仕事などできるものではない。経験と体力が全てなのだから。もしかしたら、後輩に奢ってやるのかも知れない。見習いの頃はよく奢られたものだ。受けたものは、同じように返さなければならないのだ。某月某日、炎昼、熟練工にピザが届く。
なんとなく出がけに覗く扇風機 木村オサム
何となく覗くのである。振り返って見ているのかも知れない。はじめはスイッチが「切れ」ているかどうかの確認。そんな時、必ず気になるものを見つけてしまうのだ。羽根のあたりに、安全カバーのあたりに、スイッチのあたりに、何かが付いている。付いているのは「埃」なのである。その「埃」の形は千差万別、それは、扇風機が回転していたからなのである。
本日はお日柄もよく長い顔 飯島章友
「本日はお日柄もよく」と言った人が長い顔だったのか、言われた人が長い顔だったのか。その一族郎党が、長い顔だったのか。長閑なのんびりとした雰囲気が漂っている。お見合いなのか、結婚式なのか。顔の長い人に悪人はいないなどと作者も読者も思っている。
雨雲が走るぬらりひょんが走る 飯島章友
雨雲が走るのである。「ぬらりひょん」が走るのである。「ぬらりひょん」とは、ぬらりくらりと掴まえどころのない妖怪である。作者は、それを雨雲といっしょに走らせようとした。それは、作者の意思なのである。雨雲が走っている。雨は止んでいる。風の音だけが聞こえている。
ひるふかき巣箱に穴の在ることを 堀込 学
ひるふかきという表現から森の奥というイメージが湧いてくる。鬱蒼と生い茂った木立、そこに巣箱はあるのだ。巣箱に丸い穴が開いていることはあたりまえのことである。だが、作者は、敢えて、巣箱に穴が在るということに対し念を押す。言葉を繰り返すと、いつのまにか、巣箱には本来、穴は無いのではないかという思いが芽生えてくる。念を押し続ける行為からは、そうではないのかも知れないという疑いが、確かに生まれてくるのだ。言葉は不思議なものである。
摘み草の二人のうちの一人哉 堀込 学
二人が摘草をして遊んでいる。そのうちの「一人」に焦点が当たった。娘なのか、妻なのか、恋人なのか、見知らぬ少女たちの一人なのか。ただ、言えることは「二人のうちの二人」ではないのである。「二人のうちの二人」が正しいことならば、「二人のうちの一人」は間違っていることなのか。それとも「二人のうちの一人」も正しいことなのか。
バツカスもかつて阿佐ヶ谷商店に 表健太郎
阿佐ヶ谷商店である。阿佐ヶ谷の商店街ではない。かつて、酒の神は、阿佐ヶ谷商店にいらっしゃったのである。阿佐ヶ谷商店とは、酒屋ではなく味噌とか醤油とか、そういったものを商う店なのだと思う。たとえば「もろきゅう」でワインを頂くことも乙なものなのだ。味噌を舐めながらスコッチウヰスキー、これはこれでイケルのである。
新宿の空に噎びし神でよい 表健太郎
新宿の空に噎せたのである。息が詰まりそうになったのである。そして、それは神でよいという。汚染物質が浮遊しているのは何も新宿だけなのではない。偏西風から飛散するものだけでもない。汚染物質が浮遊していなくても噎せることは、いくらでもある。私たちは、無学ゆえに自覚することもなく無邪気に日々を過ごしてゆく。地球は、既に、充分に、汚れ、病んでいる。
ひぐらしや箪笥の底の新聞紙 荻原裕幸
ひぐらしが鳴いている。箪笥の引き出しの底には新聞紙が敷き詰められている。新聞紙は、箪笥の底だけではなく畳の下にも敷き詰められている。新聞紙は湿気から衣服や畳を守るものなのかも知れない。古い記事を読んだりすると、その時の自分を思い出したりして、昔の流行唄を聞くことと同じような感慨に陥ったりするのだ。
行きつけの書店なくなる春夕焼 荻原裕幸
行きつけの書店がなくなるということは寂しいものだ。かつては、この街にはこの書店、あの街にはあの書店と、電車を降りれば、必ずといっていいくらい行きつけの書店があったものだ。あとで考えてみると、何故、この本が見つかるのかと思うことも多々あった。自分が欲しい本が見つかるのではない。思ってもみなかった本が見つかるのだ。その本は、確かに私自身にとって必要な本なのである。当たり前のことなのだが書店には神様がいらっしゃるのだ。とある街角のセンチメンタルな春の夕焼けと閉店した書店のある風景。
熱の子に蚊帳の天井低かりし 池谷秀子
熱の子の世話をして立ち上がったときに、蚊帳の低いことに気付いた。あるいは、そのことが気になった。蚊帳の低さは熱があろうと無かろうと同じなのである。見慣れた風景であっても、見えなかったものが見えてしまうこと、感じなかったものが感じてしまうことは、私たちの生活の中においても多々あることなのである。
夏至の夜のもつとも遠き足の指 池谷秀子
昼の時間の最も長い夜に、夜の時間の最も短い夜に、足の指がもっとも遠くに感じた。たとえば私たちは足の指の爪を切る時などこのように感じることがある。身体が硬くなってきたからなのか、腹筋が緩んできたからなのか。こんな些細なことから、私たちは老いを感じてしまうのである。
黒百合のふところ深く眠りおり 仲田陽子
ふところ深く眠っているのは作者なのだろう。黒百合から「恋」とか「呪」とかを感じ取った人の感性には驚きを感じる。惚れてしまえば、しかたがないのだ。どうせ、呪うならば力いっぱい呪えばいいのだと思う。それが恋なのである。
触角の長い順から虫籠に 仲田陽子
虫籠に虫を入れるのであるが、入れる順番は触覚の長いものからとした。触覚の長い順に入れる理由はあるのだと思う。たとえば、虫籠の形から考えて長いものから入れないと虫の触角が傷付いてしまうとか。人が何かをする場合、必ず何かがあるのだ。人の行為には、意識、無意識に係わらず必ず理由がある。
人登りては消えてゆく春の坂 庄田宏文
怠け者の私は、坂の途中に腰を下ろし、過去の風景を眺め思い出に浸っている。そんな私を後から来た人たちは、どんどん、追い抜いていく。確かに「春」の坂だったのだ。まだ、「春」なのだからと油断していたら、それが、いつのまにか「夏」の坂になる。その時、少し、身体に堪えたりもしたが、しばらくすると「秋」になり、再び、過ごし易い季節となった。風景も、それなりのものになっていった。私は弱い人間なので、楽な方へと楽な方へと流れていく。私は、いったいどのくらいの人たちに追い抜かれてしまったのだろうか。未だに、坂の途中で人生について考えているふりをしている。
いくばくか太りし鳩や暮の春 庄田宏文
鳩が何となく太ったような気がした。飼っている鳩なのか、それとも、駅前広場などにいる野生の鳩なのか。私の体重も毎日「いくばく」か、増えたり減ったりしている。体重を増やさない秘訣は、嫌でも、面倒くさくても、毎日、体重計に乗ることだ。春も終わり、旬の食材が食卓に溢れるくらいに並ぶ。もちろん、冷たい瓶のビールも一本。
サラリーマンにとって休日の前日が一番だ。どこかへ寄って一杯引っ掛ける。「ことし六十のお爺さんに」なっても退職しない理由は、そこに尽きるのだ。そんな訳で、帰りはタクシーを利用することになる。顔なじみになったドライバーも多く、乗れば黙っていても自宅まで運んでくれる。一杯ひっかける時もそうなのだが、入ると何も言わなくてもカウンターの前に私の好みの銘柄の生ビールが出る。それと同じくらい嬉しいものだ。
ある時、タクシーに乗ったら顔なじみのドライバーが「魚を使って料理していたら失敗してしまい、そのままにしておいたら、へんてこなもの出来上がり、それを食べてみたら体調がよくなった」と言った。その日のタクシーの中は、その話でそれなりに盛り上がった。私は、酒盗のようなもの、塩辛のようなものを作っていたのだろうと思った。
ある日、そのドライバーが、わざわざ自宅まで尋ねて来て「いつも、持っていたが、なかなか出会わないので」と言い、タッパーに入った『あるもの』を手渡してくれた。舐めてみると塩辛く確かに魚の内臓のような味がした。「朝昼晩と豆粒程度の量を舐めるといい」とも言われた。私は、それを舐めている。身体にいいものなら試してみようという軽い気持ちからだが、その軽い気持ちが老いなのだろう。箸で掬って口に含み日本酒を飲む。それはそれで酒の肴としてもイケルのである。
第367号2014年5月4日
■木村オサム がさごそ 10句 ≫読む
■飯島章友 暗 転 10句 ≫読む
第368号2014年5月11日
■堀込 学 輕雷 10句 ≫読む
■表健太郎 沿線物語 7句 ≫読む
第369号2014年5月18日
■荻原裕幸 世ハ事モ無シ 20句 ≫読む
第370号2014年5月25日
■池谷秀子 蝉の穴 10句 ≫読む
■仲田陽子 四分三十三秒 10句 ≫読む
■庄田宏文 絵葉書 10句 ≫読む
●
↧
↧
【八田木枯の一句】ろくぐわつのうつたうしきは麥粒腫 西村麒麟
【八田木枯の一句】
ろくぐわつのうつたうしきは麥粒腫
西村麒麟
ろくぐわつのうつたうしきは麥粒腫(ものもらい) 八田木枯
八田木枯と言えば、鏡、母、鶴とお馴染みの木枯好みとでも呼びたい様な独自の美意識があり、ファンを楽しませてくれるのだが、その中でも「ろくぐわつ」は最も濃くて妙なキーワードではないだろうか。
なんと全句集には二十五句もの「ろくぐわつ」の句がある。どんだけ好きなんだろうか。しかも「六月」ではなく、すべて「ろくぐわつ」である。
これだけ頑なに「ろくぐわつ」なのだから、なんだか「ろくぐわつ」と「六月」は違うものなのではないだろうかとすら思えてくる。単純な梅雨の月というだけではなさそうだ。
今、六月の田園を見ながらこの文を書いている。雨は降っていないが空がうす暗い、予報によれば明日も。冥いと書くと木枯好みだろうか。このうす暗さに作者は何かしらの強い魅力を感じただろう。
ろくぐわつを敢えて二三度ろくぐわつと読んでみる。
ろくぐわつろくぐわつろくぐわつ
目が痒い。掻いてはいけない。
掲句は『鏡騒』(2010年)より。
ろくぐわつのうつたうしきは麥粒腫
西村麒麟
ろくぐわつのうつたうしきは麥粒腫(ものもらい) 八田木枯
八田木枯と言えば、鏡、母、鶴とお馴染みの木枯好みとでも呼びたい様な独自の美意識があり、ファンを楽しませてくれるのだが、その中でも「ろくぐわつ」は最も濃くて妙なキーワードではないだろうか。
なんと全句集には二十五句もの「ろくぐわつ」の句がある。どんだけ好きなんだろうか。しかも「六月」ではなく、すべて「ろくぐわつ」である。
これだけ頑なに「ろくぐわつ」なのだから、なんだか「ろくぐわつ」と「六月」は違うものなのではないだろうかとすら思えてくる。単純な梅雨の月というだけではなさそうだ。
今、六月の田園を見ながらこの文を書いている。雨は降っていないが空がうす暗い、予報によれば明日も。冥いと書くと木枯好みだろうか。このうす暗さに作者は何かしらの強い魅力を感じただろう。
ろくぐわつを敢えて二三度ろくぐわつと読んでみる。
ろくぐわつろくぐわつろくぐわつ
目が痒い。掻いてはいけない。
掲句は『鏡騒』(2010年)より。
↧
今井杏太郎を読む3 麥稈帽子(3)
今井杏太郎を読む3
句集『麥稈帽子』(3)
茅根知子:知子×生駒大祐:大祐×村田篠:篠
句集『麥稈帽子』(3)
茅根知子:知子×生駒大祐:大祐×村田篠:篠
◆俳句以前の「前書き」俳句◆
篠●今回は『麥稈帽子』の秋の部を読みましょう。知子さん、お願いします。
知子●はい。
ことしまた秋刀魚を焼いてゐたりけり
実際にこういうことがあったんだと思うのですが、それを前提として俳句をつくるのがふつうだと思うのです。この句は、堂々と前提を詠んでいるのが、開き直りといいますか(笑)。
誰もが思うけれど誰も詠まなかったことを俳句にして、句集にまで載せてしまったところがすごいな、と思います。
篠●ふつうは俳句にしないことをしてしまったという、論点はそこですね。
知子●でも、結局、今年もここで秋刀魚を焼くことができる幸せ、ということなのかな、と思います。その幸せを詠むのが俳句なのに、その前段階を堂々と俳句にしてしまったところが、杏太郎らしいというか、面白いと思います。一句として読んでみると、とても感慨深く、実際に秋刀魚を焼く人はまずこう思うでしょうから、いい句だなと思いますし、好きです。
大祐●まだ読みが足りないのかもしれませんが、言っていることの希薄さがここまでいくとちょっと評価がむずかしいな、と思います。句の意味はもちろん分かるし、描かれているものが多幸感のようなものだというのも分かるのですが。
嫌いというわけではなく、まだ掴みかねている……この句が存在するモチベーションを掴みかねている、という感じです。
知子●何も言えない、ということですか。好きでも嫌いでもなく。これがもし食事だとしたら、お料理を出されて、箸を出すのをためらっている感じ?
大祐●そうです、そうです。熱いのかな、冷たいのかな、というところから分からない。
篠●掴みきれないから判断できない、と。
大祐●そうですね。でもひとつ言えるのが、型としての破綻は全くないですよね。言いたいことがあって、それを必要十分に五七五にまとめている、そのあたりの隙のなさは、杏太郎さんらしいなと思います。
モチベーションをあえて読み取るとしたら、ほんとうに内容が何もないことを言ったらどうなるんだろう、砂糖水をどこまで薄めていったら甘いんだろう、というような感じなのかな、とは思うのですが。
知子●生駒くんは手をつけない、箸をつけない料理ってことですね。面白い。
篠●この句、べつに秋刀魚のことを言いたい訳じゃないのかな、という気もしますね。ふつうは、秋刀魚を焼いていることを俳句に詠みたいから詠むわけですが、いつもやっていることを今年もやっているんです、ということが言いたいだけ、という句になっているようにも思えます。
知子●詠みたかった、というよりは、杏太郎がよく口にする「呟き」なのでしょうか。今年また秋刀魚を焼いて、さあ俳句を詠みなさいという、その前段階なんですよ。
大祐●前書き、ぐらいな感じですね。
篠●ああ、そうか。前書きなんですね(笑)。
知子●(笑)。前書き俳句。面白いですね。よくぞこの句を句集に入れた、という感じがします。
篠●「魚座」に入ったばかりの頃「今日こういうことがあった、こういうことをした、ということをとりあえず言葉にして、それを五七五に当てはめてゆくと俳句になるんです」と杏太郎から言われたことがありましたが、この句はそういう句に近いですね。
知子●「俳句以前」ということなのかもしれないですね。
篠●でも、俳句を始めたばかりの人は、こうはつくらないような気がします。
知子●避けるでしょうね、逆に。こんなのはつくっちゃいけない、と思うでしょう。これを出せるのはすごいですね。
大祐●そういう意味ではやはり砂糖水の比喩で言えば、おいしい砂糖水をつくろうと思ったとき、良い舌を持っていない人ほど砂糖をいっぱい入れてしまうと思うんです。良い舌を持っているからこそ薄味の領域でとどまっていられる、というのはあると思います。
知子●どこまで薄めていって味がするのだろう、ということなのでしょうか。
大祐●秋刀魚をとことん薄味で詠もうというコンセプチュアル・アートがあったとして、秋刀魚が泳いでいるのはあまり目にしない、特殊な状況だからやめるとすると、ふつうは焼きますよね。それで「秋刀魚焼く」という五文字が生まれます。それを引き延ばすと「秋刀魚を焼いてゐたりけり」となる。
これに「(地名)の」や「口あけし」など、秋刀魚の描写を付けると意味が強くなるから、抽象的なことを付けようとする。その抽象さを「ありふれた表現」という方向性にすると普遍的な言葉がつながりますから、自然と「ことしまた」ということになるんじゃないでしょうか。
秋刀魚を焼いていることについて最も特殊性のないことを言おうとすると、この句が必然性をもって立ち上がってくるのではないか、と思います。
知子●杏太郎は上五のことを「イントロは重要」とよく言っていて、ドカンと入らないでフッと入るのが良いと言っていましたが、その典型かな、と思います。「前書き」という言葉に納得しました。
篠●名言ですね。
◆生きているのは誰なのか?◆
篠●じゃあ、次、私がいきましょうか。むずかしい句だと思うのですが、
生きてゐてつくつくほふし鳴きにけり
です。
この句の「生きてゐて」というのがまず誰のことなのか。ここで軽く切れているので、生きているのはつくつく法師ではなく自分だと思うのですが、じゃあ、そのことと「つくつくほふし鳴きにけり」はどういう関係になるのかな、ということです。
「生きてゐて」についてどう思われますか?
大祐●ほんとうにつくつく法師が生きていることを言いたいのなら、「生きてゐる」にするでしょうね。「て」の軽い切れの効果というのはあると思います。でも、どちらともとれますよね。断定はできないような気がします。
知子●私は自分が生きていると読みました。
篠●私もそうなのですが、そうすると、今度は「生きてゐて」の5音で表される内容が多すぎるというか、伝わってくることが複雑すぎて、戸惑ってしまいます。人が生きていることを「生きてゐて」と5音で言ってしまうのは、潔すぎるというか、大変な冒険という気がします。しかもそのあとに、つくつく法師が鳴いていたという、全く別のことを言っているわけです。
知子●「て」で確実に切れているんですよね。で、下五は「鳴きにけり」なんです。これが、生きているつくつく法師の声を聞いたというのだったらすんなり納得できるかもしれませんが、つまらないと思います。そうではなく、まったく別のことを言っている。そこが面白いと思います。
篠●生きている自分と鳴いているつくつく法師が結びつくというよりは、別々に生きているんだ、ひとつにはならないんだ、という感慨なのかな、という気もします。
大祐●ちょっと面白いと思ったのが、「生きてゐて」の主体が蝉を聞く作中主体だとしても鳴いている蝉だとしても、そのどちらもが生きていないとつくつく法師の鳴き声は聞けないですよね。だから、両者のどちらにもゆるくかかる、という読み方もあるのではないでしょうか。「て」で切れることで「生きている空間」のようなものが形成されて、そのなかに自分もつくつく法師もいて、鳴き声を聞いた、というようなことでもいけるのかな、と。
篠●「生きてゐて」が「生きているということ」といった感じで抽象的に詠まれている、ということですか。
大祐●そうです。仕掛けという点から言うと、「つくつくほふし鳴きにけり」だけだったら先ほどの秋刀魚の句のように何もないんですけど、「生きてゐて」と付けると上に少し重心が掛かって意味が出てくるので、バランスが良くて秋刀魚の句よりも意味が強いのかな、と思います。
篠●なるほど。書き方はさらっとしているのに、何度も何度も最初に戻って読み直してしまうつくり方ですよね。一読して「なるほどね」とは思えない句です。そういうところも面白いです。
◆始まる前に終わってしまう◆
大祐●次は、僕ですね。秋刀魚の句に少し似ているのですが
本当によく晴れてゐて秋の山
です。これはすごい。素直に感心します(笑)。この句について話すのはむずかしいのですが…。
篠●この「本当に」は、さきほどの秋刀魚の句の「ことしまた」と似てますよね。
大祐●そうですね。ふつうの人なら、「よく晴れてゐて秋の山」または「よく晴れている秋の山」という部分ができたとしたら「本当に」とは言わないで、「○○や」というふうに、取り合わせてしまうような気がします。
杏太郎さんの句には、「ここからどうひねるんだろう」と思っているとそのまま終わってしまった、ということがよくあります。いつ事件が始まるんだろうと思っていたら何も起こらなかった推理小説みたいなものです(笑)。すごい。
知子●すごい裏切りですよね(笑)。
大祐●例えば、冬の山や春の山だったら雨模様でもいいですよね。春の雨はしとしとと降ってあたたかい感じで情緒があり、冬の山に雪が降るのは自然です。でも、秋の山はやはり晴れている感じがいい。晴れていることに必然性があります。「秋」が動かない。
句の意味を薄めるときは、ひとつでも動くところがあるとたいがい崩れてしまうような気がします。そういう意味では、晴れている情景と「秋の山」を狙い澄まして付けたんだな、と思います。
多少は雲があっても晴れは晴れなんですが、単なる晴れではなくて「本当によく晴れて」とすることで「快晴」であることを言い表しているのが面白いなあと思います。
知子●いろいろと考えた結果、「本当に」という言葉以外ないと思ったんでしょうね。ふつうだったらここは取り合わせとか、何かかっこいいことを言いたくなります。
大祐●「雲もなく」とか、遠回しな言い方をしてしまいそうですね。
篠●「雲もなく」と言ってしまうと、雲はないのに、どうしてだか雲が目に浮かんでしまいます。
大祐●この句は本当に快晴と山しか目に浮かばないですからね。
篠●読んだ瞬間に笑ってしまうところもすごい。
大祐●笑えることを何も言っていないのに面白いというのがすごいです。俳句をやっていない人がこれを読んでもそこまで笑えないのかもしれませんが。
知子●でも、たしかに、俳句をやっていると笑ってしまいます。
◆五七五だけが韻律ではない◆
大祐●お訊きしたいことがあるのですが
しもふさの背高泡立草を刈りぬ
という句があります。けっこうな字余りで、しかも句跨りになっていてほとんど破調に近いのですが、こういうことに対して、杏太郎さんは何かおっしゃっていましたか? 例えば、字余りの句を句会で出したときに、これは定型にした方がいい、とか。
知子●むしろ上五の場合は逆で、六音にしてもいいから「の」を入れなさい、という指導はありました。ブツッと名詞で切れてしまうのを嫌がっていました。
この句もわざわざ「を」を入れています。「背高泡立草刈りぬ」でも意味は通じるし、理論的にも問題はないのですが。
大祐●「を」を入れるにしても、「背高泡立草を刈る」にしたら少しは字余りが緩和されます。
知子●そういう意味では、字余りだからダメ、ということはあまり言われなかったと思います。むしろ、定型に収めようとしてブチブチ切れてしまうことの方が注意されましたね。
大祐●俳句の韻律というのは、必ずしも「五七五」が定型のリズムではない、ということは考えとしてあって、この句もそんなに違和感はないんです。どう切っても中七と下五は余ります。
杏太郎さんは、定型というものに対して教科書的ではない捉え方をされているんですね。「五七五」というリズムにしても、必然的に決まったのではなく、「そのリズムが気持ちいいよね」ということで自然にできていったものだと思います。ですから、そこから逸脱していても気持ちのいいリズムもあるはずです。そういうところを初期の頃から攻めていた、というのはすごいな、とこの句を見て思いました。
知子●杏太郎は、音が多い分にはいいけれど、わざわざ短くするのはどうだろう、というところがありました。季語でも「春月」などのような縮めた言い方、窮屈さは嫌いでした。
大祐●たしかに音読みが少ないですよね。例えば
手のとどくところにさらしなしようまかな
も中八で字余りなのですが、「ところに」を「場所に」とすると収まるのに、訓読みにしています。漢語を使わないで日本の言葉を使うというところはありますね。
知子●熟語を使わないで、同じ意味の言葉を使っていました。それは大きな特徴で、熟語だとそれだけで意味を持ってしまうので使わない、というのもあったのかもしれません。
大祐●例えば「日没」というと日没というひとつの言葉のイメージしかありませんが、「日が沈む」というと「日」と「沈む動作」の両方が見えます。以前にも言いましたが、そうすると少し長いスパンの時間感覚が表現できて、ゆったりしたリズムを生むのではないかな、と思います。
篠●韻律についてはいろいろな角度から検証したいですね。では今回はこのへんで。
●
↧
ひとりっきりのポストモダン 宮崎斗士句集『そんな青』を読む 小野裕三
ひとりっきりのポストモダン
宮崎斗士句集『そんな青』を読む
小野裕三
3D立体視、というのをご存じだろうか。パターンの羅列のような絵があって、焦点を合わせずにぼんやりとそれを見ているうちにふっとそこから立体的なはっきりとした像が浮かびあがって知覚されるという、あれのことだ。
斗士さん(と、長い交友の中で慣れ親しんだ呼び方をあえて使わせていただく)の俳句は、なんだかそれに似ている。一見したところで、どうにも焦点を合わせにくく、なかなかすとんと腑に落ちない。俳句には「二物衝撃」というものがあるが、それに比較して言うなら彼の句には二物どころか三物くらいばらばらのものが顔を出していることが多い。三物もあるから、どれとどれをぶつけるというより、もはや三物がそれぞれ気ままに浮遊している感じ。つまり、「二物衝撃」ならぬ「三物浮遊」。だからそれぞれの三物をどのように扱っていいのか、俳句の一般的な定理に照らしてもよくわからず、最初は戸惑ってしまう。
ところが、この浮遊する三物にむりに焦点を合わせようとせずにしばらく眺めていると、ふっとすべてが氷解したようにきわめてクリアな何かがそこから立ちあがる。像というのとも少し違う、なんだかよくわからない感覚の塊のようなもの。
それがなんだかよくわからないのは、もちろん斗士さんが悪いのではない。われわれがまだ名づけ得ないものを、彼がずっと希求してきたからなのだ。そのようにきわめて孤高な道を彼が歩み続けた挙句に出てきたのが、三物浮遊の中に立ち現われる、なんだかよくわからないもの。一般的な俳句的定理には当てはまりにくいが、しかしそれでも確かに俳句的感性をぎりぎりまで突き詰めた先にある、何かの名づけ得ないもの。
除夜の鐘家長おのおの体脂肪
東京暮らしはどこか棒読み蜆汁
桐咲けり日常たまにロングシュート
切り株は優しい手紙とんぼ来る
一番最初の句はおそらく三物浮遊の典型例だろうが、そのあとの句も、直喩や暗喩のように使われてはいるものの、どこか脈絡のない三物が並んでいる印象がある。その比類なき句の姿は、まさに孤高の境地のようだ。
そんなわけで、現代俳人の中で孤高という言葉がぴったりくる人は、僕の印象では間違いなく斗士さんなのだ。もちろん、斗士さんの持つ俳句関連の交友の広さからすれば、「孤」という言葉は似合わないようにも思える。だが、俳句を作るという、言葉を構築していく純粋な世界の中において、斗士さんは常に孤独だ。実直もしくは愚直とも言えるほど、あえて難しい道ばかりを選びとって進んでいく。その先に道があるのかすらもよくわからない未開の場所へと、彼は進み続けてきた。その強い後ろ姿は、やはり孤高と呼ぶしかない。
ところで、以前から僕は「ポストモダン俳句」という俳句運動がなぜ二十世紀の末頃に存在しなかったのかということを疑問に思っていたのだけれど、もし世の中に「ポストモダン俳句」があるとしたら、斗士さんこそがそのひとつの完成型かも知れない、とも思う。あらゆる価値観から切り離したばらばらのものを並列に並べる。まさに記号として浮遊しているような感じ。その様はまさにポストモダン的だ。
もちろん、ただ単に記号化して切り離しただけではない。その三物に、何か説明のしようのない感覚的な合理性を見つけている。そんなものを見つけたのはたぶん、世の中で斗士さんだけだろう。とにかく浮遊する記号をぼんやりと見る。見続ける。焦点を合わせずに。ここで、俳句の一般的なやり方に逃げてはいけない(そのようなことを、きっと斗士さんは潔しとしなかったのだ)。なので、とにかく焦らず見る。見続ける。すると、ある時、ぽんとそこから名づけ得ないものが立ちあがる。
そうだったのか。「ポストモダン俳句」運動は宮崎斗士に始まり、宮崎斗士において完成したのだ。たった一人きりの俳句革新運動。どうやら世の中の多くの人がそのことに気づいていないらしいのが、どうにも歯痒く思えるのだが。
●
宮崎斗士句集『そんな青』(2014年6月22日・六花書林)
≫http://rikkasyorin.com/syuppan.html
宮崎斗士句集『そんな青』を読む
小野裕三
※本書栞文より転載
3D立体視、というのをご存じだろうか。パターンの羅列のような絵があって、焦点を合わせずにぼんやりとそれを見ているうちにふっとそこから立体的なはっきりとした像が浮かびあがって知覚されるという、あれのことだ。
斗士さん(と、長い交友の中で慣れ親しんだ呼び方をあえて使わせていただく)の俳句は、なんだかそれに似ている。一見したところで、どうにも焦点を合わせにくく、なかなかすとんと腑に落ちない。俳句には「二物衝撃」というものがあるが、それに比較して言うなら彼の句には二物どころか三物くらいばらばらのものが顔を出していることが多い。三物もあるから、どれとどれをぶつけるというより、もはや三物がそれぞれ気ままに浮遊している感じ。つまり、「二物衝撃」ならぬ「三物浮遊」。だからそれぞれの三物をどのように扱っていいのか、俳句の一般的な定理に照らしてもよくわからず、最初は戸惑ってしまう。
ところが、この浮遊する三物にむりに焦点を合わせようとせずにしばらく眺めていると、ふっとすべてが氷解したようにきわめてクリアな何かがそこから立ちあがる。像というのとも少し違う、なんだかよくわからない感覚の塊のようなもの。
それがなんだかよくわからないのは、もちろん斗士さんが悪いのではない。われわれがまだ名づけ得ないものを、彼がずっと希求してきたからなのだ。そのようにきわめて孤高な道を彼が歩み続けた挙句に出てきたのが、三物浮遊の中に立ち現われる、なんだかよくわからないもの。一般的な俳句的定理には当てはまりにくいが、しかしそれでも確かに俳句的感性をぎりぎりまで突き詰めた先にある、何かの名づけ得ないもの。
除夜の鐘家長おのおの体脂肪
東京暮らしはどこか棒読み蜆汁
桐咲けり日常たまにロングシュート
切り株は優しい手紙とんぼ来る
一番最初の句はおそらく三物浮遊の典型例だろうが、そのあとの句も、直喩や暗喩のように使われてはいるものの、どこか脈絡のない三物が並んでいる印象がある。その比類なき句の姿は、まさに孤高の境地のようだ。
そんなわけで、現代俳人の中で孤高という言葉がぴったりくる人は、僕の印象では間違いなく斗士さんなのだ。もちろん、斗士さんの持つ俳句関連の交友の広さからすれば、「孤」という言葉は似合わないようにも思える。だが、俳句を作るという、言葉を構築していく純粋な世界の中において、斗士さんは常に孤独だ。実直もしくは愚直とも言えるほど、あえて難しい道ばかりを選びとって進んでいく。その先に道があるのかすらもよくわからない未開の場所へと、彼は進み続けてきた。その強い後ろ姿は、やはり孤高と呼ぶしかない。
ところで、以前から僕は「ポストモダン俳句」という俳句運動がなぜ二十世紀の末頃に存在しなかったのかということを疑問に思っていたのだけれど、もし世の中に「ポストモダン俳句」があるとしたら、斗士さんこそがそのひとつの完成型かも知れない、とも思う。あらゆる価値観から切り離したばらばらのものを並列に並べる。まさに記号として浮遊しているような感じ。その様はまさにポストモダン的だ。
もちろん、ただ単に記号化して切り離しただけではない。その三物に、何か説明のしようのない感覚的な合理性を見つけている。そんなものを見つけたのはたぶん、世の中で斗士さんだけだろう。とにかく浮遊する記号をぼんやりと見る。見続ける。焦点を合わせずに。ここで、俳句の一般的なやり方に逃げてはいけない(そのようなことを、きっと斗士さんは潔しとしなかったのだ)。なので、とにかく焦らず見る。見続ける。すると、ある時、ぽんとそこから名づけ得ないものが立ちあがる。
そうだったのか。「ポストモダン俳句」運動は宮崎斗士に始まり、宮崎斗士において完成したのだ。たった一人きりの俳句革新運動。どうやら世の中の多くの人がそのことに気づいていないらしいのが、どうにも歯痒く思えるのだが。
●
宮崎斗士句集『そんな青』(2014年6月22日・六花書林)
≫http://rikkasyorin.com/syuppan.html
↧
10句作品テキスト 原田浩佑 お手本
お手本 原田浩佑
お手本をなぞると猫が濡れている
肩と肩触れあう昼の岬かな
ネクタイをほどききるころ麦の酔
重たさの紫陽花紺を身に受けて
くちばしに朧の月をもてあます
机のない椅子を残らず倒せ蝉
鳴りやまぬ夜の電話を蝌蚪の紐
指いまだ箒の夢をみていたり
春の夜に乾く無人のバスの中
螢火よ何かが足りぬ炒飯よ
●
お手本をなぞると猫が濡れている
肩と肩触れあう昼の岬かな
ネクタイをほどききるころ麦の酔
重たさの紫陽花紺を身に受けて
くちばしに朧の月をもてあます
机のない椅子を残らず倒せ蝉
鳴りやまぬ夜の電話を蝌蚪の紐
指いまだ箒の夢をみていたり
春の夜に乾く無人のバスの中
螢火よ何かが足りぬ炒飯よ
●
↧
↧
10句作品 原田浩佑 お手本
↧
10句作品テキスト 髙坂明良 六月ノ雨
六月ノ雨 髙坂明良
水打つや影煮えたぎる人として
まひまひも恋果てしなく輪描いて
ががんぼのいま巨大化の姿勢なり
しらたまを刺せばたちまち手錠かな
ふき水に指を差し込みよみがへる
父の日を埋める白魚集まりぬ
梅雨に入るグレタ・ガルボのやうな母
ソファーごと沈み宇宙で薔薇が浮き
子の指を荒野と見なしきらゝかな
荒梅雨のなかで生まれた馬を抱き
●
水打つや影煮えたぎる人として
まひまひも恋果てしなく輪描いて
ががんぼのいま巨大化の姿勢なり
しらたまを刺せばたちまち手錠かな
ふき水に指を差し込みよみがへる
父の日を埋める白魚集まりぬ
梅雨に入るグレタ・ガルボのやうな母
ソファーごと沈み宇宙で薔薇が浮き
子の指を荒野と見なしきらゝかな
荒梅雨のなかで生まれた馬を抱き
●
↧
10句作品 髙坂明良 六月ノ雨
↧
週刊俳句 第372号 2014年6月8日
第372号
2014年6月8日
■髙坂明良 六月ノ雨 10句 ≫読む
■原田浩佑 お手本 10句 ≫読む
……………………………………………
今井杏太郎を読む 03
【句集を読む】
■ひとりっきりのポストモダン
宮崎斗士句集『そんな青』を読む……小野裕三 ≫読む
■連載 八田木枯の一句
ろくぐわつのうつたうしきは麥粒腫……西村麒麟 ≫読む
■後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む
2014年6月8日
■2013落選展 Salon des Refuses≫読む
■髙坂明良 六月ノ雨 10句 ≫読む
■原田浩佑 お手本 10句 ≫読む
……………………………………………
今井杏太郎を読む 03
【句集を読む】
■ひとりっきりのポストモダン
宮崎斗士句集『そんな青』を読む……小野裕三 ≫読む
■連載 八田木枯の一句
ろくぐわつのうつたうしきは麥粒腫……西村麒麟 ≫読む
■自由律俳句を読む 46
喜谷六花〔2〕……馬場古戸暢 ≫読む
【週俳5月の俳句を読む】
■岡野泰輔 アルレッキーノの空 ≫読む
■瀬戸正洋 私はYAKUZAⅡ ≫読む
■〔今週号の表紙〕エスカレーター……西村小市 ≫読む
喜谷六花〔2〕……馬場古戸暢 ≫読む
【週俳5月の俳句を読む】
■岡野泰輔 アルレッキーノの空 ≫読む
■瀬戸正洋 私はYAKUZAⅡ ≫読む
■〔今週号の表紙〕エスカレーター……西村小市 ≫読む
■後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む
↧
↧
今井杏太郎論3 ひらかれたことば
今井杏太郎論3
ひらかれたことば
生駒大祐
八月もをはりの山に登りけり 杏太郎
大勢のひとの集る秋の山
本当によく晴れてゐて秋の山
今井杏太郎の俳句には漢語が少ない。そのためか、杏太郎の俳句の一句の情報量は極めて少ない。
漢語を多用して意味の重層性を狙った俳句には、たとえば飯田龍太のものがある。
春すでに高嶺未婚のつばくらめ 龍太
つばくろの甘語十字に雲の信濃
兄逝くや空の感情日日に冬
『百戸の谿』(1954年)から引いた。漢語を用いて複雑な情景を丹念に描き出そうとしている。
俳句は省略の文芸とよく言われる。
漢語を多く使った俳句が「言葉を省略して景の密度を上げている」と表現できるとすれば、杏太郎の俳句は「景を省略して言葉の密度を下げている」と言えそうだ。
龍太の俳句の韻律は景の密度を上げたことで必然的に生まれる独特の韻律だが、杏太郎の韻律には作者によるコントロールの成分が多分に含まれていると感じる。
言葉や景ではなくゆったりとしたスムーズな韻律を追求した結果が、密度の低いひらかれた言葉による俳句なのではないか。そう考えている。
●
ひらかれたことば
生駒大祐
八月もをはりの山に登りけり 杏太郎
大勢のひとの集る秋の山
本当によく晴れてゐて秋の山
今井杏太郎の俳句には漢語が少ない。そのためか、杏太郎の俳句の一句の情報量は極めて少ない。
漢語を多用して意味の重層性を狙った俳句には、たとえば飯田龍太のものがある。
春すでに高嶺未婚のつばくらめ 龍太
つばくろの甘語十字に雲の信濃
兄逝くや空の感情日日に冬
『百戸の谿』(1954年)から引いた。漢語を用いて複雑な情景を丹念に描き出そうとしている。
俳句は省略の文芸とよく言われる。
漢語を多く使った俳句が「言葉を省略して景の密度を上げている」と表現できるとすれば、杏太郎の俳句は「景を省略して言葉の密度を下げている」と言えそうだ。
龍太の俳句の韻律は景の密度を上げたことで必然的に生まれる独特の韻律だが、杏太郎の韻律には作者によるコントロールの成分が多分に含まれていると感じる。
言葉や景ではなくゆったりとしたスムーズな韻律を追求した結果が、密度の低いひらかれた言葉による俳句なのではないか。そう考えている。
●
↧
後記+プロフィール373号
後記 ● 西原天気
小林苑をさんの「「空蝉の部屋 飯島晴子を読む」がいよいよ最終回です。週俳への転載を快諾くださった苑をさん、俳誌『里』に深く感謝いたします。
●
サッカー・ワールドカップが始まりました。日本は予選を勝ち抜けるのでしょうか。全敗も全勝も可能性としてはあると見ています。三菱ダイヤモンド・サッカー(テレビ東京、金子勝彦実況・岡野俊一郎解説)以来のサッカーファンとして。
日本チームにそれほど思い入れはなく、絶対に勝ち抜いてほしい、などとは思いませんでした。テレビの応援番組がうるさすぎますしね。
でも、日系ブラジル人の方々が現地で応援している姿をテレビで見て以来、「あの人たちのために、がんばって。1試合でも多く勝ってほしい」と願うようになりました。
●
それでは、また次の日曜日にお会いしましょう。
■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
●
小林苑をさんの「「空蝉の部屋 飯島晴子を読む」がいよいよ最終回です。週俳への転載を快諾くださった苑をさん、俳誌『里』に深く感謝いたします。
●
サッカー・ワールドカップが始まりました。日本は予選を勝ち抜けるのでしょうか。全敗も全勝も可能性としてはあると見ています。三菱ダイヤモンド・サッカー(テレビ東京、金子勝彦実況・岡野俊一郎解説)以来のサッカーファンとして。
日本チームにそれほど思い入れはなく、絶対に勝ち抜いてほしい、などとは思いませんでした。テレビの応援番組がうるさすぎますしね。
でも、日系ブラジル人の方々が現地で応援している姿をテレビで見て以来、「あの人たちのために、がんばって。1試合でも多く勝ってほしい」と願うようになりました。
●
それでは、また次の日曜日にお会いしましょう。
no.373/2014-6-15 profile
■井上雪子 いのうえ・ゆきこ
1957年、横浜市生まれ。2008年「山河」入会。2010年秋から吉野裕之に師事し、2012年「豆句集 みつまめ」創刊に加わる。
1957年、横浜市生まれ。2008年「山河」入会。2010年秋から吉野裕之に師事し、2012年「豆句集 みつまめ」創刊に加わる。
■小林苑を こばやし・そのお
1949年東京生まれ。「里」「月天」「百句会」「塵風」所属。句集「点る」(2010年)。
1949年東京生まれ。「里」「月天」「百句会」「塵風」所属。句集「点る」(2010年)。
■太田うさぎ おおた・うさぎ
1963年東京生まれ。「豆の木」「雷魚」会員。現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。
■田中槐 たなか・えんじゅ 1960年静岡県浜松市生まれ。「未来短歌会」所属。岡井隆に師事。95年「短歌研究新人賞」受賞。2009年4月より朝日新聞「短歌時評」連載。現代歌 人協会会員。歌集に『ギャザー』(短歌研究社)、『退屈な器』(鳥影社)、『サンボリ酢ム』(砂子屋書房)。2011年より「澤」会員。ブログ「槐の塊魂Ver.2」
1963年東京生まれ。「豆の木」「雷魚」会員。現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。
■田中槐 たなか・えんじゅ 1960年静岡県浜松市生まれ。「未来短歌会」所属。岡井隆に師事。95年「短歌研究新人賞」受賞。2009年4月より朝日新聞「短歌時評」連載。現代歌 人協会会員。歌集に『ギャザー』(短歌研究社)、『退屈な器』(鳥影社)、『サンボリ酢ム』(砂子屋書房)。2011年より「澤」会員。ブログ「槐の塊魂Ver.2」
■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。
■西原天気 さいばら・てんき1955年生まれ。「月天」同人。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter↧
〔今週号の表紙〕第373号 国道20号 西原天気
↧