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週刊俳句 第711号 2020年12月6日

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第711号

2020年12月6日



藤田俊 はく 10句 ≫読む

…………………………………………………………
【句集を読む】
現在と過去を二重写しにする存在
鴇田智哉『エレメンツ』を読む……小林苑を ≫読む

のびのびと幸せな歩調
小池康生奎星を読む……西原天気 ≫読む
  
中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
ランバート・ヘンドリックス&ロス「モーニン」 ≫読む

〔今週号の表紙〕雪吊り吉平たもつ ≫読む

後記+執筆者プロフィール……西原天気 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

〔今週号の表紙〕第712号 筆を洗う 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第712号 筆を洗う

西原天気


別の色のインクを入れたいとき(なんでそんなことを思うかというと、たんに気まぐれです)、万年筆を洗うわけです。コップの水にかなり長いこと浸しっぱなしにしても、元の色はなかなか抜けてくれません。まあ、つまり、気長がだいじ。




週刊俳句ではトップ写真を募集しています。詳細はこちら

【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】青江三奈「池袋の夜」

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【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】
青江三奈「池袋の夜」


憲武●先週が「モーニン」でしたので、繋がりのある青江三奈で「池袋の夜」です。

 

憲武●歌詞のなかでは「夜の池袋」と歌われているので、勘違いしてしまうんですが、タイトルは「池袋の夜」(1969)です。作詞は吉川静夫、作曲は渡久地政信です。

天気●「上海帰りのリル」を作曲した人ですね。

憲武●それ、知らんかっとんてんちんとんしゃん。「池袋の夜」、イントロのギターの音色が時代を感じさせます。

天気●ぽよんぽよんしています。

憲武●演歌の枠に収められてしまってますが、もともと青江三奈は60年代前半は、ジャズ歌手として銀座の高級クラブで歌っていたんです。スイング・ジャーナルの編集長だった岩浪洋三の記憶によれば、鈴原志麻と名乗っていたようです。

天気●テレビとかで観た衣装が銀座とかクラブとかキャバレーって感じでしたもんね。

憲武●ヘアスタイルとかですね。この曲、深作欣二の「仁義なき戦い 完結編」(1974)の中で、松方弘樹扮する市岡輝吉が駐車場で射殺されるシーンで、どこかの店から流れてる有線として、効果的に使われていました。夜の繁華街の雰囲気がよく出てたんです。

天気●その映画、未見です。

憲武●青江三奈といえば「伊勢佐木町ブルース」のせつないため息の人として、興味半分にずうっと注目してたんですが、1993年にニューヨークでマル・ウォルドロンらと共演した全曲英語のアルバム「The Shadow Of Love」で伊勢佐木町ブルースを「Bourbon Street Blues」として新録音していて、これが良かったんです。声質がヘレン・メリルと似ているんで、「you'd be so nice to come home to」も歌ってくれていたらよかったんですけどね。

天気●うん、ヘレン・メリルを聴いたとき、思いました。ジャケット写真の髪型もちょっと似てたし。

憲武●1995年に、ニューヨークのレインボー・ルームのライブを一部含むアルバムが出まして、このアルバムのオープニングとエンディングに「モーニン」が使用されてるんです。この二枚のアルバム、ジャケットの基調となる色が青と赤なので、僕は青江三奈の赤盤青盤と勝手に呼んでいます。二枚とも新宿のディスクユニオンで購入しました。

天気●ああ、やっぱりあるんですね。ジャズ曲のアルバム。

憲武●没後20年になりますが、you tubeなどの影響で、まだまだ忘れ去られた歌手とはなっていません。寒い日などに聴くとね、しみじみいいんですよ。


(最終回まで、あと827夜)
(次回は西原天気の推薦曲)

【週俳11月の俳句を読む】三者三様 堀田季何

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【週俳11月の俳句を読む】

三者三様


堀田季何



空想を繰返せよと枯葉かな  田中目八


連禱の如く冬星座をわたる  同


氷瀑は異なる知性を記しけり  同


一句目、枯葉が次々に落ちる様とそれにかかる時間が空想の繰り返しというイメージと重なる。二句目、こちらは直喩で、冬星座を次々と渡る行為と次々に祈る(連?)というイメージが重なる。三句目、水晶は優れた記憶装置になるが、作者にとっては、水晶に似ていながらも遥かに大きくて荒々しい氷瀑こそが異なる知性(古代宇宙飛行士や亜神のようなものだと思ってよいかもしれない)の記憶装置なのだ。



白息やよく燃えさうな小屋の中  大塚凱


火事が遠くてなけなしの葉を降らす  同


鯛焼や晴れただけでは見えない島  同


水を轢くまぶしい車輪だが寒い  同


これらの句は、作者が言い方を実に楽しんでいるのがよくわかる。言い方のためにできている句と言っても過言でない。実だとしても、虚と変らない。私はこれらの句を面白く読むが、十年後には作者自身がこういう狙いの見えた言い回しに飽きているのではないだろうか。


冬しんしん隣は何味のシーシャ  同


〈秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉〉の本歌取、というかパロディーだろう。シ音の繰り返しも技だが、「しんしん」には、寒さが身に沁みとおるという意味の「深深」(芭蕉の句の「深」を意識しているか)と興味「津々」が掛けられているようで、こちらも技。さらに、その興味津々で強引な感じが、上五の字余りと中七から下五にかけての句跨りになっていて、内容と句のリズムが合っているのではないか、とも思ったが、作者はこの辺も狙ったか。



襖開けまた手をかえて襖閉め  鈴木春菜


冬の灯を消して冬の灯のほうへ  同


月一度の茶会を詠んだ連作だろうか。淡い恋の匂いもする。ささやかなモノを繊細に写生することで、静謐な時間を表現している。一連には、一句では屹立しない句もあったが、連作ならではの味だと思う。リフレインが効いている上の二句は、そのまま読んだだけでは茶事の情景であることが全くわからないが、不思議にも、これらはこれらで屹立すると思う。非常に単純化されているがゆえ、読者の想像をかき立てるのだ。



708号 20201115

田中目八 青へ、或は岸辺から 10 読む

大塚凱 或る 10 読む

鈴木春菜 月一度 10 読む

【週俳11月の俳句を読む】それぞれの指向で 鈴木牛後

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【週俳11月の俳句を読む】
それぞれの指向で

鈴木牛後


今回は三人の方の俳句を読ませてもらったが、それぞれの指向で俳句に向かっているという印象を受けた。どれが良いとか悪いとかいうことではなく、多様性こそが現代俳句なので、これからも読者を楽しませていただきたいということ。

冬の灯を消して冬の灯のほうへ  鈴木春菜

8音+8音の対句表現。同じ字数というのはきれいなようでいて、安定しすぎることでかえって気持ち良くないというのが、一般的に言われることだろう。この句ではどうだろうか。

この句には、自室の照明を消してから家族のいる居間へと向かうということか、あるいは外出時、自宅から駅へ向かうのか、いろいろな景が考えられる。いずれにしてもその間は寒く、暗いところを通らねばならない。「冬の灯へ向かう」ではなく「冬の灯のほうへ」としているところから、行為よりも感情が先へ行っているようにも思える。行き先の「冬の灯」を渇望するような心持だ。一字足りないことから、また、安定しすぎていることの不安定さから、そのような心の動きを受け取ることができるだろう。


錐状体捨てて寒林かがやきぬ  田中目八

錐状体とは、目の網膜にあって色を認識する細胞。網膜には他に、明暗を感知する桿状体という細胞がある。錐状体と桿状体の数を比較すると、圧倒的に桿状体が多いらしい。それは色よりも明暗によってものの形を知ることの方が動物にとって重要だからという理由だそうだ。

掲句では錐状体は捨てるという。錐状体を捨てた目には寒林はどのように見えるのだろうか。色がなく明暗ばかりがある寒林。もともと寒林には色は少ないが、だからこそ幹や枯葉のささやかな色が際立っているはずだ。それさえも捨て、寒林そのものを見るとはどういうことか。もし寒林の一本一本の木が俳句だとすれば、錐状体で見えるのは句にまつわる既成の情緒なのかもしれない。錐状体を捨てて桿状体で俳句を見れば、たちまちそれは光を得て輝き出すと言いたいのではないかと、作者の十句を読んで思った。


白息やよく燃えさうな小屋の中  大塚凱

木造の古い小屋。離農した農家の納屋のようなところか。中はがらんとしていて、内壁の木はささくれ立っている。ちょっと火をつければ、逃げる暇もないほど一気に燃え広がることだろう。そんな小屋に忍び込んだ少年たちを想像する。「探検」などと称してそんな無人の小屋に行くのは、いかにも彼らの好きそうなことだからだ。冬の寒い折、何かしゃべるたびに、口からは白息が放たれる。もしかしたら、煙草なども持ち込んでいるかもしれない。今なら百円のライターだろうが、ここはマッチが似合う。マッチを擦って煙草に火をつけ、マッチの火は吹き消して捨てる。一歩間違えば火事になるということに、彼らはまだ気づかない。少年の白息、煙草の煙、そしてマッチの火の交錯する緊張感。そんな情景をこの一句から想像した。


田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
大塚凱 或る 10句 ≫読む
鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む

【週俳11月の俳句を読む】ほっとする 柘植史子

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【週俳11月の俳句を読む】
ほっとする

柘植史子


連禱の如く冬星座をわたる  田中目八

冴え冴えとした冬の夜空に光る星は大気が澄んでいる分、輝きが鋭い。張り詰めた空気のなか、星の瞬きから祈りを連想した「連祷の如く」という直喩は胸にすとんと落ちる。星々が瞬き合う様子は人々が交互に祈りを交わす連禱の情景を確かに連想させる。主語の明示されていない「わたる」が時空の広がりを現出させ、天空の大聖堂から寒気を貫く祈りの声も聞こえてきそうだ。


氷瀑は異なる知性を記しけり  同上

凍滝に知性を感得するというのだ。想像を超えた文脈から突然飛んできたような言葉が読み手に説明を拒みつつ、毅然と立っている。だが、氷結することで厳冬をやり過ごそうとする滝、と考えてみればそこには確かに「滝の知性」があるのかもしれない。「記す」という措辞も凍滝の硬質な肌触りを鮮明に想像させ、氷瀑へ憑依した詠みには納得がいく。
それにしても、タイトルの「青」とは何だろう。作者の希求するものの象徴であって、「岸辺」とは反対のベクトルを持つイメージなのだろうか。或いはもっとシンプルに、「私」から「青」への呼びかけであるかもしれない。強いメッセージ性を感じさせる句群である。

吟味された言葉同士がぶつかり合い醸し出される独自な世界に作者の実験工房の一端を見たように思う。


冬蜂めりこむ泥のみるみる乾く  大塚 凱

もう刺す力もなく、ぬかるんだ地べたを力なくさまよう蜂。作者はそれを踏んだのだ。異物を埋め込まれた泥は急激に乾き始めたのだ(と作者は感じたのだ)。

屈み込み、現場検証でもするように冬蜂のめり込んだ泥を凝視する作者の姿が見える。死にそうな蜂に止めを刺した負い目はあったとしても一瞬のこと。だがそれは「乾く」という言葉の発見に多少なりとも寄与しただろう。確かな言葉の選択だと思う。ガクガクとした不器用なリズムが弱肉強食の自然界が孕む底なしのエネルギーを想起させ、奏功している。

水を轢くまぶしい車輪だが寒い  同上

夜、部屋にいると、通りを車が通過する音がはっきりと聞こえることがある。とりわけ寒くて静かな雨の夜には音が際立ち、あぁ、雨が降りだしたんだな、と気付く。雨を轢くタイヤの音はどこか寒々しい。

掲句は雨でなく「水を轢く」。情趣を一切切り捨てた即物的な把握が寒々しさに拍車をかける。「まぶしい車輪」の省略も鮮やかだ。まぶしい、だけど寒い。いや、まぶしい、だから寒いのかもしれない。

日常のワンシーンを切り取った句群には低く静かに語りかけられるような味わいがある。タイトルの「或る」の無名性がどの句にも通底している。不特定のなかにある確かなもの。そこへ向けられる俳人の冷徹な眼差しを感じた。


冬の夕指につながる水の音  鈴木春奈

月一でお茶の稽古に通っているのだろう。炉点前の様子とその日いちにちが過不足なく詠まれている。

掲句の「水の音」は柄杓から茶碗へ注ぐ水の音と読んだ。手指から柄杓へ、そして水へと続く一連の動きを表現した「つながる」に実感がある。割箸を使って毛虫を捕る時、その割箸がどんなに長くても、何も介さず直に毛虫を摘んでいるような嫌悪感を感じることがある。突飛な連想であるが、その場に漲る緊張感が恐らく両者に共通しているのではないだろうか。毛虫のことは頭から振り払い、掲句に戻ろう。程よい緊張のなか、お点前の所作もきっと自然で無駄がなく、流れるように進んだのであろう。「冬の夕」という暮れ方のしみじみとした情感にもどこか通じる「つながる」である。

冬の灯を消して冬の灯のほうへ  同上

句の構成のシンメトリーが季語の反復と相乗効果をあげ、口誦性を齎している。姿のよい句である。

一連の句の配置から想像するに、稽古から帰った一人の部屋の灯から、団欒の部屋の灯へ移ろうとしているところだろうか。或いは、もう休むために自分の部屋へ戻るところかも知れない。いずれにしても、人の気配のする暖かな灯が人懐かしさを感じさせる。穏やかで幸せな光景にほっとした。


田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
大塚凱 或る 10句 ≫読む
鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む

【週俳11月の俳句を読む】その月の感想 瀬戸正洋

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【週俳11月の俳句を読む】
その月の感想

瀬戸正洋


神無月眩暈こそが証なり  田中目八

眩暈には、いろいろな症状があります。前庭系に、何らかの原因で異常がおこり、バランスが崩れたときに起こるものだそうです。神無月とは、旧暦の十月のことです。神が不在であったことに、バランスを崩す遠因があったのかも知れません。

空想を繰返せよと枯葉かな  田中目八

現実にはありえないこと、何ら関係のないことを、思いめぐらせるのが「空想」です。足もとの枯葉を目にしたときに、そう言ったのです。「想像」せよと言ったのではありません。「空想」を繰返せよと言ったのです。枯葉には、にんげんのこころを惑わす、何かがあるのかも知れません。

旅夢想布団に初時雨の音に  田中目八

夢のこと、あてもないことを思うことを「夢想」といいます。つまり、憧れるということです。「空想」に、似ているような気もしますが、意識するか否かの違いだということです。布団にくるまれば、旅に憧れ、初時雨の音を聞いても、旅に憧れます。布団にくるまれて聞いた初時雨の音に、郷愁を感じさせる何かがあったからなのかも知れません。

知ることや愛することや朽葉微光  田中目八

朽ちている葉にかすかな光が差し込んでいます。差し込んでいる理由を考えても、よくわかりません。神のみぞ知るといったところなのでしょうか。「知ること」「愛すること」に、かすかな光に対して、にんげんの知ることのできるヒントがあったのかも知れません。

錘状体捨てて寒林かがやきぬ  田中目八

「錘状体」とは、網膜内に存在し、明るいところで、主に色を感じる細胞である、赤、青、緑の三種類があるのだそうです。

寒林が輝く否かにかかわらず、「視力」、つまり、見えるということは重要なことです。年を取りますと、尚更、そのように考えます。

それでも、捨て去ることは、大切なことなのだと思います。

連禱の如く冬星座をわたる  田中目八

「祈る」とは、世界の安寧や、他者への想いに願いを込めること、自身のなかの神と繋がること、何かの実現を願うこと、だそうです。「実現を願う」というところに興味を覚えました。連禱とは、キリスト教の祈りのかたちのひとつとありました。

冬の星座とは、十二月から二月にかけて、夜に見やすい位置にある星座のことなのだそうです。「夜に見やすい位置にある」ということに、なるほどと、合点がいった次第です。

沈思から鳥から燃ゆる天狼星  田中目八

天狼星も冬の星座です。天狼星とは、シリウスの中国名で、シリウスとは、焼き焦がすもの、光り輝くものをあらわす言葉から生まれとありました。「沈思」とは、深く考えることです。鳥に対する思いが、天狼星を深く考えるきっかけになったのかも知れません。

黒鳥の科学に夜は彩られ  田中目八

夜は、色や物で飾られました。黒鳥(ブラックスワン)を科学するには、彩ることが必要だったのかも知れません。

一定領域の対象を客観的な方法で系統的に研究する活動を「科学」というのだそうです。

氷瀑は異なる知性を記しけり  田中目八

異なる知性を得ることができるのならば、試してみる価値はあるのだと思います。氷瀑とは、滝が氷ることです。そこには、思いもかけぬ知性が隠れていると考えたのかも知れません。

ものの名を捨てて樹氷の弟子となる  田中目八

ものに名のあることは、不自然なことなのかも知れません。ものの名を捨てるということは、自分を捨てるということです。何も、弟子になる必要はないとは思います。それでも、弟子にしてくれるというのならば、それも悪いことではないと考えます。

白息やよく燃えさうな小屋の中  大塚凱

小屋のなかには、乾いた藁束などが無造作に置いてあります。小屋そのものも、火を放てば、すぐに燃えてしまいそうに思いました。吐く息が白いのは寒いからですが、その寒さのなか、自分自身も、燃えてしまいそうな気がしたということなのかも知れません。

冬蜂めりこむ泥のみるみる乾く  大塚凱

他の力によって、くい込むことを「めりこむ」といいます。既に、冬蜂は、死んでしまっているのです。冬蜂が、めりこむと、泥は、みるみるうちに乾いていきました。

冬蜂を踏みつけて歩いていきます。にんげんは、踏みつけた冬蜂には気がつきません。それが、にんげんの、日々の暮らしなのだと思います。

火事が遠くてなけなしの葉を降らす  大塚凱

「なけなし」ということばが、内に向かって発したことでないことに興味を覚えました。さらに、火事は、近くでではなく、遠くであることに面白さを感じました。「なけなし」の葉が降っているのは、火事が遠くであるからだとすれば、それも、ひとつの真実であるのかも知れません。

鯛焼や晴れただけでは見えない島  大塚凱

島は、存在していないのかも知れません。晴れてさえすれば見えるというものでもありません。見るためには、自分自身が変ることが必要なのです。鯛焼は、鯛ではありません。口中でひろがる甘さが、見えない島を、よりいっそう見えなくしているのかも知れません。

枯蟷螂日のかたむくと水に塵  大塚凱

草が枯れるにしたがい、蟷螂も緑色から枯葉色に変わっていきます。目立たないという一点に執着することには共感をおぼえます。水平線より太陽がうえにある状態を「日がかたむく」と言います。水面に塵が浮いている風景は、日のかたむくあたりかと言われれば、そんな気がしないわけでもありません。

水を轢くまぶしい車輪だが寒い  大塚凱

オートバイの車輪のような気がしました。水をはねたのではありません。轢いたのです。まぶしく感じたのは水ではありません。車輪を、まぶしく感じたのです。さらに、「だが寒い」としたことで、まぶしい車輪を強調しているような気がしました。

橋に鳩マフラー貸してそれつきり  大塚凱

「それっきり」というのは、日常茶飯事です。とくに、本を貸したときなどは、貸した方も、借りた方も、すっかり忘れてしまっています。返す必要などないと思っているのかも知れません。読むために捜したのに見つからない。そんなときに、貸したことに気づいたりします。橋に「鷹」ではなく、橋に「鳩」なので、揉めることもなく、マフラーは戻ってくるのだと思います。

しりとりは冬ざれいつのまにか壁  大塚凱

しりとりとは、ことばあそびのひとつです。冬ざれとは、冬の荒れさびれたころのことです。壁とは、家の四方を囲うものです。あるいは、建物を仕切る平板状のものです。

ことばを、いくら繋いでも、さびれたこころは、もとには戻りません。とどのつまり、にんげんは、壁のなかでしか生きていく術がないということなのかも知れません。

駅に立つみんなだんまりみな木の葉  大塚凱

駅に立っているのは、にんげんではなく、木の葉であるということです。ホームに立つのではなく駅に立つのですから、電車から降りて帰るところなのかも知れません。ことばなど発したくない、ゆらゆらと、風にゆれていたいと思っています。木の葉も、にんげんも、とどのつまりは風しだい、悲しいものなのだと思いました。

冬しんしん隣は何味のシーシャ  大塚凱

雪などがしずかに多く降っている様子を「しんしん」といいます。冬しんしんとは、冬がしずかに多く降っていることです。

シーシャとは、水タバコだということですが、イスラム圏の文化です。エキゾチックな空間をイメージします。多少の、不気味さも感じられます。ただ、「隣は何味の」とあります。何をするにしても、どんな場所にいても、にんげんは、他人のことを気にするということなのだと思います。

遠くより木の折れる音冬の山  鈴木春菜

現実として、冬の山で、木の折れる音を聞いたのではないと思いました。冬の山のイメージが、「遠くより木の音がする」ということなのです。カーンという澄みきった音ではなく、バキッというような複雑な音が、冬の山のイメージであるということに、「屈折」ということばが思いうかびました。

月一度会う人のいて炉のまわり  鈴木春菜

月に一度会う人に対して、どう思っているのかということに興味を覚えました。ひと月など、あっという間に過ぎてしまいます。心待ちにしているのか、しかたないと思っているのか、飽きてしまっているのか、嫌で嫌でしょうがないのか。いろいろ、あるとは思いますが、そんな感情も、回数をかさねるごとに、微妙に変化していくものです。炉のまわりとありますので、季節、および、感情も絡みあい、その人に対する印象も、微妙に変化していくものだと考えます。

湯気立てて畳の上の端と端  鈴木春菜

畳の上に鍋敷きを置き、そのうえに鍋を置きます。座卓の上に置けば、鍋のものも取りやすいだろうなどと考えています。畳の端と端ではありません。畳の上の端と端という表現が面白いと思いました。

襖開けまた手をかえて襖閉め  鈴木春菜

誰もいない部屋の襖を開けたり閉めたりしています。眺めていましたら、開ける手と閉める手が異なっていることに気づきました。にんげんの無意識の動作は、面白いものだと思います。

水運ぶ白足袋のかかとの丸み  鈴木春菜

かかととは、足の裏の後部です。白足袋のかかとの丸みに気づいたのです。おそらく、旅館、あるいは料亭の階段の下から眺めたからだと思います。コップの水をお盆にのせて、階段を駆けあがっていった風景が目に浮かびます。

冬の夕指につながる水の音  鈴木春菜

台所で夕餉の支度をしていたのかも知れません。水の音が聞こえています。この水の音は耳で聞いたのではありません。指が感じているのです。当然、耳が寒さを聞いているのだと思いました。

袂より手の美しく炭をつぐ  鈴木春菜

炭をつぐ和服の女性は美しいに決まっています。それも、袂よりのびた手を美しいと感じたのです。そのときには、既に、その女性は奥へと去っていってしまったのに違いありません。

短日の浮かんで消える今日のこと  鈴木春菜

よほどいいことがあったのでしょう。思い出しては微笑んでいます。寒かったからこそ印象に残ったのかも知れません。明日になれは、すっかり忘れてしまうことです。思い出すことのできるうちに、思いきり思い出しておくことは、大事なことだと考えます。

冬の灯を消して冬の灯のほうへ  鈴木春菜

今日のことが、何度も、思い返されます。何をしていても、そのことを考えてしまいます。もっと、仕事に集中しなければならないと思っても、ままなりません。所詮、にんげんの意志など弱いものです。そんなときは、冬の灯のほうへ、明るいほうへ行っても、咎められることはないのだと思います。

花柊一人乾かすセミロング  鈴木春菜

髪は自然に乾くものだと思っています。要するに、私が、ずぼらであるということなのだと思います。二年以上も、理髪店へ行っていません。それなりに伸びています。髪を洗いバスタオルで拭き、そのままにしておけば、いつのまにか、乾いてしまいます。洗い髪は、柊の白い花を眺めていさえすれば、自然に乾いてしまうものだと思っています。


田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
大塚凱 或る 10句 ≫読む
鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む

【週俳11月の俳句を読む】冷たき影に 小林すみれ

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【週俳11月の俳句を読む】
冷たき影に

小林すみれ


旅夢想布団に初時雨の音に  田中八目

一日一日と冬が深まって行く。いつものように気軽にどこかへ行くことが難しい昨今。だからこそ温もりに、ささやかな窓外の音に、旅を感じているのだろう。かつて行った思い出も重なって、より旅を恋しくさせる。リフレインが温かくやさしい。

知ることや愛する事や朽葉微光  田中八目

知ることも、愛することもどれも大切なことだ。生きてゆくことの支えになり勇気にもなる。よく言われる「前向きに」という言葉は便利だけれど、人生の道のりはなかなか平坦に、とはいかない。そんな時に道案内のようにそれらはすっと光りを届けてくれるのだと思う。

錘状体捨てて寒林かがやきぬ  田中八目

錘状体はいらないもの、無駄なもの。きっぱりと捨ててしまえば、すっきりとした寒林が別のものに見えてくる。頬に当たる風の冷たさや、今まで隠れていた星々など。どれも真直ぐに身の内に飛び込んで来る。ささやかなものとは何故こんなにも美しいのだろう。


橋に鳩マフラー貸してそれつきり  大塚凱

雪の降りそうな寒い夕暮れ。思いのほか薄着の相手に、別れの間際そっとマフラーを渡した。貸したきりになっても後悔のない大切な相手。けれどいつも隣にはいてくれず、マフラーとともに自分の前から消え去ってしまった。いつものように。昔のように。

冬しんしん隣は何味のシーシャ  大塚凱

シーシャとはイスラム圏の水タバコのこと。フレーバーがつけられた煙草の葉を加熱し、水を通したものを吸う。シーシャ屋と呼ばれる店の水パイプという器具で吸うらしい。フレーバーはミントやフルーツや花など多岐にわたる。映像でしか見たことはないが、とても神秘的でエキゾチックに感じられる。作者もお隣もその時の気分に合わせてフレーバーを選んでいるのだろう。こんな毎日だが気持ちに余裕があってなんだか羨ましい。外は「冬しんしん」だが、フレーバーを味わってイスラムの世界へ瞬間移動してみたくなる。

駅に立つみんなだんまりみな木の葉  大塚凱

今駅に立っている人は、もれなくマスクをして目許は少し疲れが滲んでいるだろう。世界中の人達はたぶん、いつもより口の周りの筋肉も落ちているのではないだろうか。仲間と会って話すことと、オンラインとでは熱量がちがう。話しているのだけれど、何かが足りない、届かない、そんな歯がゆさがある。本当に少しの風でも吹かれてしまう木の葉になったように心許ないのだ。心に封じ込めていた哀しみが何故かふっと湧いてくる一句。

月一度会う人のいて炉のまわり  鈴木春菜

作者は茶道を嗜んでいるようだ。月一度のお稽古を楽しみにしている様子がわかる。作法の厳しい茶道ではあるが、今年はいつものように滞りなく行われていたのだろうか。炉のまわりに人がいて、炉の暖かさではない温もりがある。途中で茶道を脱落した者としては、亭主の厳しくもあたたかい一期一会のもてなしが懐かしい。

冬の夕指につながる水の音  鈴木春菜

微かな音を感じとる繊細な把握。日中は穏やかな日差しを感じるが、今ごろは日が落ちると途端に冷え込んで来る。ひと段落ついた夕暮れ、水に入れた指にさざ波のように冷たさがやってくる。

冬の灯を消して冬の灯のほうへ  鈴木春菜

温もりを求めるように灯を消しては明るい方へ。「冬の灯」って少し淋しいあたたかさがある。とても惹かれる景だ。白色系より暖色系の方が冬らしい。冬灯下には人がいて、笑ったり、泣いたり、話したり、叫んだりしているのだと思うと心安らぐ。道々それぞれの家の灯りに思いを馳せ、いつもよりほっとさせるものが確かに冬の灯にはある。


田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
大塚凱 或る 10句 ≫読む
鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む


週刊俳句 第712号 2020年12月13日

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第712号

2020年12月13日




【週俳11月の俳句を読む 
小林すみれ 冷たき影に ≫読む
瀬戸正洋 その月の感想 ≫読む
柘植史子 ほっとする ≫読む
鈴木牛後 それぞれの指向で ≫読む
堀田季何 三者三様 ≫読む
 
中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
青江三奈「池袋の夜」 ≫読む

〔今週号の表紙〕筆を洗う吉平たもつ

後記+執筆者プロフィール……上田信治 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

後記+プロフィール712

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後記 ◆ 上田信治


ごぶさたしております。

「週俳」スタッフである上田ですが、ずっと、更新当番をお休みしていました。一年以上? 

じつは、というほどのワケでもないのですが、小誌のプラットフォームである blogger は、アップルユーザーにたいへん厳しく、ログインを何回かミスった上田は、どうしても操作画面にログインができなくなり、更新が手伝えなくなっていたのです。

最近、blogger は大規模なリニューアルを行い、小誌は保存データの一部がスポンと飛んだりして(記事は失われていないのですが、下書きの形で残していた、執筆者プロフィールが消えてしまいました)使いにくくなったね〜、とスタッフ一同、困っていたのですが、なぜか、上田は、あっさり入れるようになりました。

恩赦ですね、たぶん。



さて、ここで、自分が「週刊俳句」で書きたい、書かねばと思っているテキストの執筆予定を書きます。いわば「宿題」リストです。

 

「藤田哲史『楡の茂る頃とその前後』と、安里琉太『式日』の句集評」

昨年の生駒大祐『水界園丁』に続き、この2冊が、今年出たことの意味をあとづけたい。

どう見ても、この3冊には共通する方法意識と俳句観があって、それは、言葉の運動と関係によって抽象性を高めるということなのではないか、と。

角川「俳句年鑑2020」の「今年の句集」執筆者が3人とも、この2冊を取り上げなかったことは、誠に遺憾。特に安里さんも参加する「群青」の櫂未知子さんが『式日』をスルーしたっていうのは、あいかわらずスゲえなという感想しかない。

「2020角川俳句賞落選展を読む」


今回も、たくさんのご参加をいただきました。ありがとうございます。誌上でごあいさつを申し上げていなかったこと、お詫びいたします。

今年の角川俳句賞は、岩田奎さん「赤い夢」50句が受賞されたわけですが、選考委員の評価は、黒岩徳将さんの「嘴太鴉」とまったく拮抗していて、どちらが受賞してもおかしくなかった。一次予選の顔ぶれ、はっきりと年齢が若くなっていますし、作風的にも「これは潮目が変わっている」と強く思いました。

俳句は、どうも、新しくなろうとしているのではないか。それも、かなりの勢いで。

落選展にご応募いただいた作品、今年も、ものすごく面白いです。一次予選通過の作品は、編集部からお願いして、ご参加いただいたものも多く、それも含めて、俳句の「今」について考えつつ、ていねいに読んでいきたい。

「成分表」

ときどき書きます。「里」が、とりあえず出ていないので、載せるあてがないのが二本あります。あれを書くことが、いちばん楽しいので。

あとは、去年と今年に出た、何冊もの印象的な句集について、今井杏太郎について(あの作家がほんとうに実現していたことはなにか)、永井祐『広い世界と2や8や7』についても書きたい。

そんなかんじです。



それではまた次の日曜日にお会いしましょう。


no.712/2020-12-13 profile

■小林すみれ こばやし・すみれ
1955年東京生まれ。2006年、「椋」入会、石田郷子に師事。2011年、第二回「椋年間賞」受賞。2015年、第一句集『星のなまへ』上梓。現在「椋」会員、俳人協会会員。

■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』、2016年に『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』を上梓。 
 
柘植史子 つげ・ふみこ 
1952年横浜生まれ 金沢在住。俳句同人誌「ふう」同人。第六十回角川俳句賞受賞。句集「レノンの忌」  
 
■鈴木牛後  すずき・ぎゅうご
1961年北海道生まれ、北海道在住。藍生、雪華、イタック。第64回角川俳句賞受賞。第3句集「にれかめる」発売中。 

■堀田季何 ほった・きか
「楽園」主宰。現代俳句協会幹事。
芝不器男俳句新人賞齋藤愼爾奨励賞、澤新人賞。
句集『亞剌比亞』、歌集『惑亂』、共著に『新興俳句アンソロジー』等。多言語多形式で創作。
 
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。  
 
西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter
 
■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。句集『リボン』(2017)共編著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。 


〔今週号の表紙〕第713号 冬至 藤原暢子

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〔今週号の表紙〕
第713号 冬至

藤原暢子


ポルトガルの北東の山奥の村々には、ケルト由来とも言われる古い祭が残っている。その多くがクリスマス期間、12月24日から公現祭の1月6日の間に行われ、冬至に関係すると言われている。

村により多少やり方に違いはあるが、多くの村では仮面をつけ、毛むくじゃらの衣装を纏った青年たちが登場し、彼らは村の家を一軒一軒まわる、各家では自家製の腸詰に生ハム、ワインや、クリスマスのお菓子など、様々のご馳走を用意して彼らの訪問を待っている。

また、いくつかの祭では大きな火が焚かれる。大半の村では、大人の背丈を越すほど木片を山と積み上げる。今日では、クリスマスイブの24日、年越し、祭の当日など、主要な日にのみ燃やすようになっているが、昔はクリスマス週間の間、ずっと火を燃やし続けたと言われている。

この写真は、オウジリョン村の26日の祭(2017年撮影)。ここでは、珍しく藁で火を焚く。この年は雨だったが、炎は瞬時に激しく燃え上がった。この村では、今は青年だけに限らず、老若男女問わず仮面の仮装を楽しみ、にぎやかな祭を続けている。

もう一枚。下の写真は、センディン村の火。こちらは24日。村の一人の男から、かつてはここでも仮面が登場したらしいという話を耳にしたが、今日は、音楽以外に祭らしい騒ぎはない。人々は夜遅くまでこの火を囲み、豚の丸焼きに酒、そして会話を楽しんでいた。

冬至の頃、都会から離れた小さな村々で、長い夜を照らすように、人々をつなぐように、火が焚かれている。私はこの火が好きだ。今年はCovid-19の流行により、これらの祭も中止や変更を余儀なくされている。でも冬至の頃になれば、村の人々の心の中に、必ず今年も火が灯るだろう。



週刊俳句ではトップ写真を募集しています。詳細はこちら

【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】ヨ・ラ・テンゴ「リトル・ホンダ」

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【中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜】
ヨ・ラ・テンゴ「リトル・ホンダ」


天気●ホンダのCMで少し前からビーチ・ボーイズ「リトル・ホンダ」が流れています。やっとか? という感じです。なんでこの曲を使わなんだろうと思ってました(むかし使ったことがあるかもしれないけど)。でも、今回は、ビーチ・ボーイズのオリジナルじゃなくて、ヨ・ラ・テンゴ(YO LA TENGO)によるカヴァー。


天気●数年前にいちばん頻繁に部屋で流してたバンドです。8枚目のアルバム『I Can Hear The Heart Beating As One』(1997年)からの1曲。なげやりな歌唱がたまらなくいいです。オリジナルはマイク・ラヴが陽気に、ちょっとこっちが引いてしまうくらい陽気に歌うのですが、こっちは引きこもり型のロックンロール。

憲武●引きこもってますねー。控えめなヴォーカルが心地いいですね。

天気●伴奏はシンプル。ドラムはほぼスネアとバスドラとハイハットだけの基本型で。節目でスネアのおかず(フィルイン)が入るだけ。ベースはルート音の連打。ギターはパンクっぽい粗いディストーションの音色で3コードだけ。なのに、聴いていると、高揚する。

憲武●確かにそうです。なんでしょうね、この高揚感。グルーブってやつでしょうか。

天気●こういうのって、シンプルさがいちばんの美点です。ギターは、右手の指2本だけで押さえられるパワーコード。楽器を持ったことのない人間でバンドやろう、ってなって、メンバーが楽器を決めて少し練習すれば、ロックンロールは出来ます。つまり、どういうことかというと、ロックンロールは最高! ってことです。


(最終回まで、あと826夜)
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

【句集を読む】二〇世紀の空と海 草野早苗『ぱららん』を読む 西原天気

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【句集を読む】
二〇世紀の空と海
草野早苗ぱららん』を読む

西原天気


空母ゐて記念切手のやうな夏  草野早苗

aircraft carrierに「航空母艦」の和訳を宛てた人にはなにかしらの詩があったのだと、「母」の一文字を見て憶測するのですが、甲板に降りてゆくパイロットは「母」のようなおもむきを、あの長大な艦船の姿に見てとったのだろうと、無用な想像をふくらませつつ、「空母」と略されると、元の語にあった機能が薄れ、母のイメージが増幅するような気がして、空の母なんて、ちょっとじわっと来ませんか。戦争という忌まわしい事柄がこの観戦の背景にあるにせよ。

空母が停泊していたのでしょう、その日。そのまま記念切手の絵柄になるような風景です。船をモチーフにした切手はたくさんあります(≫画像検索)。ただ、まあ、平和な船が多いですが。

ともかく「空母ゐて記念切手のやうな景色」だったわけです。

掲句はご覧のとおり、景色ではなく《夏》。意味のよく分かる散文が、最後の一文字によって俳句になった。シンプルでいて鮮やかな展開です。

夏という包み込みによって、空母が備える「空」と「海」ののびやかなイメージが夏の温度と明るさを帯び、それによって夏が固有のかたちを得ることになります。


掲句も含め、どこか懐かしいモダニズムを感じさせる句に惹かれた。以下もそう。

落下距離と破壊の試験鱗雲  同

焚火する明星の下駱駝の前  同

そして、いちばん好きになったのは、こんな愉快な句。

三人でボート被りて川辺まで  同


草野早苗『ぱららん』2020年11月/金雀枝舎 ≫版元ウェブサイト



【週俳11月の俳句を読む】舗道の車輪は 浅沼璞

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【週俳11月の俳句を読む】
舗道の車輪は

浅沼璞


水を轢くまぶしい車輪だが寒い  大塚凱

表層テキストをなぞれば、中七までの視覚表現が「だが」によって触覚表現へと接続されている、というような解釈もできよう。その「転じ」に俳句性をみるのはさして困難ではなかろうが、都会のどうしようもない孤心のようなものが掲句に潜在していることは確かで、それを言いとめるのはそれほど容易くはない。

「水を轢く」というフィジカルな措辞は舗道の硬質なイメージを惹起させる。動体視力のおよぶ範囲で解せば車輪は自転車のそれだろうか。そうだとすると、反射的に浮かぶのは、むかし観た寺山修司の映画のワンシーン――浅い河川に捨てられた自転車のクローズアップである。この句の文体にのせれば「水に漬かる錆びた車輪だが温い」といった反転世界だ。映画名すら思いだせない曖昧な記憶だけれど、脳裡によみがえった反転世界そのものに虚偽がなければそれでいい。とはいえ全く手がかりがないわけではない。周知のように寺山にはこんな歌がある。

村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ  修司

第三歌集『田園に死す』(1964年)の「犬神――寺山セツの伝記」における一首だが、菱川善夫はこの歌集を「日本人の原郷に対する質問の書」(『前衛短歌の列柱』2011年)と規定した。この一首の上句/下句のコレスポンデンスもその「日本人の原郷」にふれていないだろうか。かつて寺山は「現代の連歌」(「ロミイの代辯」1955年)という作歌技法を提唱したことがあったけれど、それはそれとして、上句の俳句的表現と、人買いの唄を本歌取りした下句との照応は「日本人の原郷」のほの暗い「温さ」を私に感じさせるのである。

ひるがえって掲句はどうか。「日本人の原郷」など彼方へ置きざりにし、その忘却を逆エナジーとしているかのようだ。温む水にとどまる錆びた車輪の、うす暗い記憶など一かけらもなく、舗道の車輪は水を轢いてゆく。それはまぶしさであり、寒さでもある。先に「都会のどうしようもない孤心のようなもの」と記した所以だが、寺山ワールドを対句的に連想させる所以でもそれはあるのだろう。


田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
大塚凱 或る 10句 ≫読む
鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む

【句集を読む】旋律 豊里友行『宇宙の音符』を読む 小林苑を

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【句集を読む】
旋律
豊里友行宇宙の音符』を読む

小林苑を


夢を漕ぐ
Rowing a dream    豊里友行(以下同)

どれを選べばいいの、と『宇宙の音符』をいったん閉じる。音符は煌めき飛び交い飛び散り、さまざまな音色を奏でてくれる。優劣も好き嫌いもつけられない。とりあえず表紙を見てよ、この表紙のような句群なの。楽しくなるでしょ。さまざまな音色の背景には厳しい沖縄の現実が、怒りが、横たわっているのだ。だけど、それでも、とても明るい。

沖縄の海を思う。あのブルー。人を思う。あの笑顔。初めて乗ったタクシーの運転手氏は昔からの知り合いみたいに話した。仕事で出会った人は時間があるなら付き合うよと言ってくれた。初めてなのに隠さない、開けっ広げ。『宇宙の音符』はあの沖縄だ。

2015年から2020年まで時間を追いながら全11章。最初の章のタイトルは「夢を漕ぐ」。この章は一句のみで、それが掲句(笑)。この自由律以外にも、スタイルの違う句がさまざまに並ぶのだけれど、この最初の一句こそが句集の主旋律だと思う。装丁にも、挿画にも、一句一句につけられた英訳にも流れる。

はなざかりのしままるごと遺品なり
Flowers bloom extensively, all of the island relics

さらに《青空の画鋲のような戦闘機》《あふりかまいまいつぶしてあるく老婆》《君は夕焼けに滅ぼされてゆくよ》等の哀切にも主旋律は流れる。

大好きな4章「がっこうでおしえない」はなんと言ってもタイトルが良い。《口説き方わからない埴輪になっちゃた》《かばをみるかばにみられる夏休み》《首のない平和な冷凍庫のチキン》《森も海も奪うこの手はなんですか》。それらはとても大事なこと。

選ぶのがほんとに難しいので、2章「エキストラ」の最後の句で了ることにする。この章は総出演って感じなのだが、なにが総出演かを説明すると長くなるので省略。興味のある方は見てください、読んでください。

月も踊れ
花も踊れ  宇宙の音符よ
日も踊れ
Moon, dance/Flowers, dance/Sun, dance  note of universe
〔註〕「踊れ」にはすべて「モーレ」の振仮名。


豊里友行『宇宙の音符』2020年9月/沖縄書房







【週俳11月の俳句を読む】冬のあかるさ 浅川芳直

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【週俳11月の俳句を読む】
冬のあかるさ

浅川芳直


遠くより木の折れる音冬の山  鈴木春菜

雪山の情景、しずれる雪の音を一瞬想像したが、全体を通してみると冬日のやわらかな日差しのなかに、ふいに乾いた音が聴こえてきたものと読み直した。「遠くより木の折れる音」のこの流れは美しい。よどみのない表現である。下五が「冬の山」としっかり留めてあるので、流れがここで締まって素敵な句になっている。自然界の奥行を思わせ、読者に想起させる情報量がなかなかに多い「冬の山」の季題であるだけに、上の流れを柔らかく包んでくれているのに役立っていると思う。

短日の浮かんで消える今日のこと  鈴木春菜

この句もまた、よどみなく流れている一句である。「浮かんで消える今日のこと」という感慨は誰しも経験すること、その意味で平凡とも見える。私の師の師にあたる阿部みどり女は、「人生はなべて平凡」を折々に書いているが、平凡な暮らしでも作者の感性と技術によって非凡に表現するのが詩人の詩人たる由縁であろう。この句の決め所は「短日の」の助詞「の」ではないかと思う。型としては「や」で切ってもよいはずだが、そこをこらえて季題を中七以下に連絡させている。この叙法によって、短日という鋭さのある語のもとで、その日起こったことがぐるぐると脳裏に繰り返される時間が演出されているように思われる。

「月一度」と題する一連であったが、作者の静かな呼吸を感じる十句であった。


水を轢くまぶしい車輪だが寒い  大塚凱

雨上がりの水を車輪が轢くという措辞にまず目を奪われた。だがよく考えてみると、そのような光景というのは一年通して見られる。ただ、変化するのは気候である。これがあるために生活にうるおいがもたらされるのであって、いつも暖かであったら何も刺激がなくつまらない生活になろう。二度三度と口ずさんでみながら、この句の本当の眼目は下五にあるように感じられ、そのようなことを考えた。

「だが寒い」。新鮮なものは季節であり、それを受け止める心ではないかと思った。このように言えば、作者は一笑に付されるだろうか。

橋に鳩マフラー貸してそれつきり〉の句も面白いと思った。「それつきり」の間の抜けた感じが、「橋に鳩」の間の抜けた感じと呼応しているようだ。プレテキストの参照を作句の手法として言われる作者だけに、読者としては「元ネタは何かな」などと考えるのも楽しいだろう。ただ、そのような読み方をしなくても楽しめる句である。そこにこの作者の強みがあろうか。


旅夢想布団に初時雨の音に  田中目八

「旅夢想」は旅を夢想しているものと拝見した。「に」の使い方が心憎く、布団の中から広い世界を眺め、旅を夢見ている作者の、その世界観の一端を想像させてくれる。芭蕉の〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉〈旅人と我名よばれん初しぐれ〉の句を彷彿とさせる。掲句における「初時雨」の鑑賞は筆者には深読みをしないと案外に難しく、多言は控えて静かに味わいたい気持ちがする。強いて言えば、初時雨に対する喜びと、布団のなかでじっとしているギャップが心情的に対比されているようで、そこはかとない屈折が、布団がひかれた部屋の畳や、窓辺の光や、そこにほのかに舞っている塵まで浮き立たせているようにも思う。


ところで、今回拝見した三作品のうち、大塚凱氏、田中目八氏の作品には表題句というものがない。考えてみれば誓子の「蟲界變」にせよ、表題句がない先例はたくさんあるので、取り立てて指摘する事柄でもないかもしれない。ただ、俳句の中のフレーズからタイトルを取ることが現実として多いので、印象的であった。これからは表題句のない群作・連作もどんどん増えてゆくのだろうか。作中のフレーズからタイトルを取るより一層、作者の詩的手腕が問われる。

一句を推敲するうえでは、情報量が多くなり過ぎないようにといったハウツーがあるが、このようなタイトルの取り方のメソッドというのはまだまだ確立されていないように思われる。タイトルが強すぎて肝心の俳句の鑑賞の邪魔になっては元も子もないが、俳句の作風に応じてあっさりさせたり、押しを強くしたり、開拓の余地が大いにありそうである。


田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
大塚凱 或る 10句 ≫読む
鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む

ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート 〔2〕外山一機によるイントロ

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ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート


〔2〕外山一機によるイントロ

中矢温◆では外山さんよろしくお願いいたします。

外山一機◆はい、よろしくお願いします。20分くらいお話します。中矢さんの方から先ほど念腹についてやその周辺について、いろいろ説明があったかと思います。私がそこらへんを補強するような感じでもう少し話そうかなと思います。先ほど増田恒河の動画が出てくるとは思わなくてびっくりしました。 haicaisitaたちが句会をしている様子は初めて動画で見ました。それでなんというか、対抗するではないんですが、自己紹介がてら私が普段どういうものをネットで見てるかっていうのを紹介しようと思います。


私がコロナのステイホーム中に何をしていたかというと、アラン・ナカガワという人の作品をずっと聞いていたんですね。この人はアメリカのLAの人で、俳句をやっている人ではまったくないんですが、haikuを地域の人に募集してサウンドコラージュを作ったという人です。すべて歌詞が出ているのでよかったら聞いてみてください。先ほど紹介のあったように、haicaistaたちの俳句は独特じゃないですか。そういうところに興味があってですね。最近だとこういうニッチなのを集めています。

では本題にまいります。佐藤念腹以前にhaicaiの系譜があって、それが増田恒河のところで佐藤念腹の系譜と最終的に繋がっていくので、ブラジルでのhaicaiの発生から簡単に説明していきます。haicaiというのは先ほどもありましたけど1919年にペイショットという人の『Trovas Populares Brasileiras』(ブラジルの民謡)という本がありまして、その中でhaicai(haikai)を紹介してるんですね。そこで、haicaiはいわゆる抒情諷詠詩で、三行詩で、515の17のシラブルだと言ってるんですよ。ペイショットがブラジルに俳句を紹介した、といわれることがあるのはこういうことをふまえているんですね。ただ、ペイショットは日本語から直に俳句をポルトガル語に訳したわけではなくて、クーシューによるフランス語の訳をはさんでいる。要は、「ジャポニスム」といわれたヨーロッパでの日本への関心の高まりを受け、一旦ヨーロッパを経由してブラジルに入ってきたわけです。ただし、ペイショットより少し前の19世紀末に、アルメイダが日本を紹介する中ですでに俳句・俳諧を紹介してるんだと指摘する人もいます。あるいはモライスのように(これはブラジルではなくポルトガルの方で流通したんですが)一応日本語から直で訳している例もあるんです。このあたりがhaicaiの系譜の発生にあたるところです。

少し余談になりますが、ヨーロッパには、クーシューを経由して俳句を知るパターンとチェンバレンを経由して知るパターンというのがあります。ヨーロッパのhaicai、haikuを調べていると、チェンバレン、クーシューという名をよく目にするんですね。チェンバレンはかなり早い段階で日本の芭蕉を中心に紹介した人として知られています。一方クーシューはチェンバレンより後になります。具体的には、子規たちが「蕪村句集講義」を「ホトトギス」でやっていましたけれども、それが終わったちょうど20世紀頭ぐらいに、クーシューが日本に来ました。そのときに日本では蕪村の再評価の流れがあったわけです。それをクーシューはヨーロッパに持ち帰っていくわけです。そこからさきほどのペイショットにつながっていく。その流れを考えるとブラジルの俳諧は蕪村系といえば蕪村系なわけです。でも先ほどの増田恒河の動画でやたらと芭蕉の話が出ていたように、ブラジルで芭蕉が軽視されているかというとそんなこともなくて、そこらへんが少し複雑です。それについては後で話します。

haicaiの系譜についてもう少し話します。これは増田恒河さんが書いていたことですけども、まず禅と結びつけて理解しているということが大きい(仏頂和尚と芭蕉の関係、鈴木大拙の著作などを介した理解)。ここのところで芭蕉とのつながりも見えてくる。次に、短詩として理解しているということ。先ほどの動画で3行で俳句が書かれていましたけれども、それだけじゃなくて、例えばアルメイダは、韻をどこで踏むべきなのかというあたりもかなり厳密に考えていたということがあります。(※アルメイダは上五と下五の末尾で同じ韻を踏み、中七の第二音節と最後の音節は同じ韻を踏まなければならない、とした。)この他に、季語を重視する詩、という仕方で理解している場合もあります。季語を重視するかしないかという議論ついては、増田恒河さんの功績が少なからずあると思います。

haicaiの歴史的なことを言いますと、まず1920年代に、あまり知られてないですけどモデルニスモというモタニズム運動がブラジルでありました。外の色々なものをどんどん取り入れていこうという、アーティストたちの意欲が掻き立てられていくような運動があったんですね。大きく見ると、俳句もその流れの中で取り入れられていった。モデルニスモはあくまでアーティストの側の動きなんですけれど、これをより文芸に寄せて見ていくと、ペイショットなどをはじめとする俳句のブラジル化、haicaiを作っていこうじゃないかという動きが見えてくる。その後発表された33年のシケイラ・ジュニオルの「HAIKAIS」、これが1番早めのhaicaiの本だと思います。さらに40年には、フォンセッカ・ジュニオルが日本に来て虚子と会っています。季語重視の詩としてのhaicaiという考え方は、この虚子との対面を通じてフォンセッカの中で高まっていった。季語を重視するという理解の仕方は、例えばこういう流れの中にあるわけです。そして、第二次世界大戦中、日本語の使用制限や日伯で国交断絶などががあってもhaicaistaたちは細々と活動を続けていました。

ちなみに最近の作品としてはコンクリート・ポエトリーというものもあります。haicaiというものはアーティストたちにすごく吸収される。なんだか興味あるみたいです。ナニコレ?というものと俳句のつながりは意外とある。

では次に、「日系移民の俳句」という、ブラジルの俳句のもう一つの路線について話します。ブラジルにはhaicaiだけじゃなくって移民の俳句もあるわけですよね。もちろん佐藤念腹はこっちのケースに入るわけです。私なりの理解ですけども、日系移民の俳句については念腹に重きを置きすぎると見えなくなってしまうものがすごくたくさんあるという気がしています。私見ですが、ブラジル日系移民の俳句は、初期移民の俳句、木村圭石系、佐藤念腹系、その他の4つに大きく分類できるだろうと思っています。まずは初期移民の俳句です。念腹がブラジルに来るのは1927年ですが、ブラジル移民というのはその20年近くも前から始まっていたわけです。念腹が来るよりも前にすでに俳句はあったのに、今はそこのところがあまり顧みられていないというか、なんか軽視されちゃってる感じがします。例えばこういう句があります。1924年ですので、これは念腹の渡伯より前ですね。その年の日伯新聞の俳句欄に掲載されたトランスヴァル俳句會の作品です。トランスヴァル俳句會の句会はブラジルで行なわれた句会としてはかなり早いものになります。その中に「徒々に犬と戯る春の猫」なんてのがあります。正直言ってナニコレというような感じです。あまりレベル高くないんじゃないのという気がします。ほかには「東風吹くや日毎にぬるむ水の脚」というものがあったり、一応題詠にはなっているんですけど、その題に「日永」と「猫」が並んでいたり、彼らの季語の理解は大丈夫だろうかと見ていて不安になります。 

1910~30年代のブラジルの日本語新聞・雑誌の文芸欄に着いては半沢紀子さんがまとめ等れています(「戦前期ブラジル・サンパウロ州ノロエステ地方と日本語新聞 ―香山六郎と聖州新報―」)。ここで気になるのは、念腹が「聖州新報」の選者になっている1933年です。先ほど中矢さんがすごく重要だと仰っていた年ですが、私もすごく重要だと思ってます。なぜかと言うとこの1933年に選者になって、念腹はたった2年後に、クビか自らかはわかりませんが、とにかく選者を辞めちゃっているんですよね。一体何が起きてたのか。「聖州新報」は香山六郎さんが作った日本語新聞です。香山さんは初期移民かつ知識人で自由渡航者です。ある程度自分のお金もあるし(※中矢注:渡航費用の援助などが不要だった)、何よりインテリ層です。念腹はこの香山さんと対立してしまうんですね。なぜかいうと、初期移民は自分たちの好きなように俳句を作っていたんです。「ホトトギス」で提唱されているような俳句を守るとかではなくて、もうちょっと自由な形で作っていた。一方の念腹は虚子の考えに基づいて厳密に行こうとしますから、そこで対立します。こうして35年で念腹は降りて、俳句欄もなくなるんですが、さらに2年後の37年には俳句欄が復活しているんですね。ただし「三水会便り」というものを掲載する形になっている。「聖州新報」と「三水会」という俳句グループとの関わりが出てきていることがわかります。この三水会で香山さんは素骨という名で活動しています。三水会についてはあとで触れますが、知識人の集まりのようなところがあって、念腹は三水会に誘われたんですけれども断ったりもしてます。そのような対立の中に念腹はあった。念腹はブラジル俳壇のヒーローではなくて、初期移民のインテリ層から見れば「新参者の超できるやつ」だった。それが私のイメージです。

次に木村圭石系について説明します。まず圭石とは何者か。彼は「ホトトギス」で念腹と一緒に仲良くやっていて、念腹の結婚の媒酌人まで務めた人です。歳は念腹より約30歳上です。1927年に、圭石は念腹との関係やブラジルに移る前後の念腹の位置がすごくよくわかる文章を書いてます。学生時代から私の大好きな本である「虚子消息」に載っています。「虚子消息」とは「ホトトギス」の消息欄だけを集めた本です。虚子は圭石から手紙を受け取ったとき、ここに載せている。「…唯先生から素十氏に御話ありたる御言葉に励まされ、先輩念腹氏も続て来航せられ、所謂俳句の国を彼地に建設すべき希望にのみ生きて、余生を送り度思ふのみです。…」とある。面白い点は二つあります。まず「畑打つて俳諧国を拓くべし」(虚子)に象徴されるような「俳句の国を彼地に建設すべき」という考えが、念腹と虚子の間だけではなく、圭石も含めたもう少し広いコミュニティにおいて共有されていたということ。もう一つは、歳は自分の方が30歳も上なのに、「先輩念腹氏」と言っているところです。てっきり念腹の方が年上かと思ったら全然そんなことはない。ここからもいかに念腹が「ホトトギス」の中で有力な人間と思われていたかがよくわかる。この圭石は渡伯後の1931年に「おかぼ」、37年頃に「南十字星」を創刊しています。「南十字星」は三水会系の雑誌です。三水会は市毛孝三というサンパウロの領事館のトップの人が主導して、圭石が選者となっていた。この三水会に念腹は入ってこない。先ほどあったように「ホトトギス」以外のメンバーが入ってくることに納得がいかない。ただ私の考えでは市毛孝三や木村圭石がアンチ「ホトトギス」だったのではなくて、明治時代の知識人にありがちな、さまざまな文学形式をどんどん取り入れて幅広く自分を表現していくのが当たり前、という考えのもと、三水会というグループを作ってみんなでやっていこうよという感覚だったんだと思います。ただ念腹はそこが気に入らなかった。そこに念腹という「新人」における、俳句に対するスタンスの新しさがちょっと見える気がします。ちなみに39年の『圭石句集』が私が知る限りでは移民の人が作った句集としては最初のものになります。でも圭石自身は38年で亡くなっちゃうんですね。

次に念腹系について。先ほど中矢さんのほうでだいぶ触れられたのでここでは念腹らしさがよくわかるものを軽くご紹介します。念腹は1937年に「ブラジルは世界の田舎むかご飯」を含む4句で「ホトトギス」巻頭をとるんですが、雑詠句評会で素十が「念腹君が巻頭を占めたとあつては一言挨拶せねばなるまい。どの句も立派な句であつて念腹君の俳諧を祝福した訳であるが、この句なども誠に面白い。…とに角私はかういふ念腹の旺んなる心意気を尊敬して衷心から君の健闘を祈る次第だ。」とあります。これは当時の念腹のいたコミュニティの雰囲気がよく分かる一文だと思います。念腹が 「ホトトギス」同人となったのが1930年で、その前に巻頭を取ったりとかしてるわけですね。その時代って昭和の初期で、4Sとか言われている人たちが同列で雑詠に並んで、有名な作品がどんどん生まれてる時期なんですよ。素十は念腹より5歳か6歳くらい上ですから、念腹にしてみれば教えを請うみたいなところがあるんですけど、素十からすれば一緒に雑詠欄をしている仲間なわけです。でそんな期待できる自分より若い「念腹君」がブラジルでがんばっていると。でそれを応援せねばなるまいという素十。素十はこれから念腹に様々なバックアップをしていくわけなんですけど、彼らの関係が非常によくわかる一文です。圭石からは「先輩」と呼ばれて素十から「念腹君」呼ばれてですね、「巻頭を占めたとあつては一言挨拶せねばなるまい。」というそういう同期のよしみみたいなフレーズが出てきちゃう。念腹がどんな人だったかよくわかります。

その他の日系移民の俳句としては「曲水」系があります。渡辺水巴の「曲水」にもともと投句していた、渡辺南仙子という人がいます。力行会を通じて1928年に渡伯し、49年に創刊した「青空」は、「木蔭」という念腹の作ったすごく大きな「ホトトギス」系のグループに対抗できるほぼ唯一の雑誌といわれていました。63年に創刊した「同素体」は2011年になくなりました。

あともう一点、スライドには入れられなかったのですが、日系社会には臣道連盟を中心とした勝ち組と負け組の対立がありまして、その中で様々な雑誌がつくられ、そこに載った俳句というのがあります。少しだけお見せします。私が20代前半に何をしていたかというと、こういう雑誌に載っていた俳句をひたすらエクセルに打ち込んでいたんです。臣道連盟は日本が負けたことを認めない1940年代半ばにあったグループで、テロリスト集団としても有名です。その機関誌の「輝号」だったり、その前は「光輝」といった雑誌でも俳句が作られていました。ここに載っていた俳句は、たとえば、「白南風や金魚の鉢の藻の緑り」、「昼静か金魚の鉢の一つあり」とか、およそテロリスト集団とは思えない普通の句が並んでいます。しかしこれは当たり前のことです。これは、日系移民のことを調べるとよくあるパターンなんですけども、調べてもたいして面白いことがでて来ないってことがよくあります。なぜかというと、いかにも「日本らしいこと」を好むのが日系移民だからです。ましてやめっちゃ右寄りの臣道連盟の俳句がなんかすごく自由律になっているとか、戦後の「海程」のように最新のテクニックを使ってるとか、そんなことはあり得ない。もっともっと保守的なものを好むわけです。初期移民がブラジルにやってきたとき、とりあえず不格好ながら俳句を作ってみたという感覚に近いものですね。そういった俳句に対する感覚が時代を経て敗戦後にはこういう形で出てきたわけです。

私の話はこの辺で終わりにします。まとめると、様々な俳句のありかたがブラジルにはあったと。大きくわけて言うとhaicaiと移民の俳句というのがあり、移民の俳句は初期移民に始まり、先に木村圭石が来て、その後にすごいエースとしてやってきた念腹が場を制圧していく。念腹としては圭石が亡くなったってこともちょっとラッキーだったんじゃないかなと思います。そういう流れの中で念腹は政治的には勝ち上がっていくわけです。そして念腹の周りに衛星誌が様々にできて、それに勝てるものってなかなかいなかったというのが実際のところかなと思います。そこには、俳句形式という「日本らしい」ものに思いをぶつけたいという移民達の気持ちもあったんだろうと思ったりもします。はい、私からは以上です。ありがとうございました。

中矢温◆はい、ありがとうございました。めちゃめちゃ面白かったです。なるほどなと思いました。私が今回資料を作る上で参考にさせていただいたのが、この今年出された『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』でした。著者は新潟にある結社「雪」の主宰の蒲原宏さんです。念腹とも句友でして、まあ蒲原さんの方が年下です。蒲原さんは1923年生まれで、ご職業はお医者さんです。 高浜虚子、中田みづほ、髙野素十、浜口今夜に師事していて、「ホトトギス」、「まはぎ」、「芹」に投句されていたそうです。で、私が何がいいたいかというと、この本は大変豊富な内容ですが、あくまでも念腹の味方として、念腹に寄り添った本であるということです。念腹の死後誰も本を出さないから僕が書くしかないと思って書いたというような温かく、同時に少し残念そうなお言葉が冒頭に書かれています。つまりこの本を読むだけでは念腹の外からの視点や評価は知り得なかったと思います。そういった意味でも外山さんの講演は大変ありがたかったです。どうもありがとうございました。

〔3〕につづく

佐藤念腹読書会参加者5句選

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佐藤念腹読書会参加者5句選

生駒大祐選
豚の親春霜の藁くはへ居り
煉瓦工みな少年や春の風
少し降る雨あたゝかし珈琲畑
虚子門に無学第一灯取虫
耕や廿五年の切株と

岡田一実選
又丘の現れて月低くなる
顔のせて芭蕉葉食めり親子山羊
春の風耕馬を叱る口中へ
酔うて脱ぐ大きな靴や春灯
柿の影さして障子といふものぞ

小川楓子選
強東風のわが乗る船を見て来たり
土くれに蝋燭立てぬ草の露
豚の親春霜の藁くはへ居り
春の風耕馬を叱る口中へ
春雷や二人乗ったる馬に鞭

樫本由貴選
秋蚕飼うて俳書久しく借りにけり
雇ひたる異人も移民棉の秋
ブラジルは世界の田舎むかご飯
誤字多き移民の投句瓢骨忌
井戸掘つてゐるを見に来し新移民

木塚夏水選
印度洋
むらさきの流星垂れて消えにけり
雷や四方の樹海の子雷
少し降る雨あたゝかし珈琲畑
汲み終へし深井にもたれ春惜む
馬の脊の籠にあたりて燕来る

ぐりえぶらん選
雷や四方の樹海の子雷
雇ひたる異人も移民棉の秋
少し降る雨あたゝかし珈琲畑
墓参して和語を話さぬ移民の子
貰ひ水朝寝の窓に声かけず

黒岩徳将選
雷や四方の樹海の子雷
切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な
日雇いと短き昼寝覚めにけり
信あれば文は短し秋灯下
蛇蜥蜴からみ搏つなり草の中

西生ゆかり選
雷や四方の樹海の子雷
湯浴みして今日の日焼の加はりぬ
切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な
日焼子の日臭き頬よ頬擦りす
没収を免れし和書曝しけり

外山一機選
豚の群追ひ立て移民列車着く
誤字多き移民の投句瓢骨忌
虚子門に無学第一灯取虫
開拓のはてが籠編む夜なべとは
春夜行くポ語を知らねば聞ながし

中矢温選
森の雲なくなりしより朝寒し
花珈琲門入りてなほ馬に鞭
信あれば文は短し秋灯下
毛糸編んで昨日の如しベンチ人
老いてゆく夫に朝寝の妻若し


三世川浩司選
井鏡やかんばせゆがむ昼寝起
秋蚕飼うて俳書久しく借りにけり
野路夕立乙女に走り越されつゝ
枯野より犬這入り来ぬ汽車の中
馬の脊の籠にあたりて燕来る

ゆう鈴選
渡り鳥わが一生の野良仕事
霜害や起伏かなしき珈琲園
切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な
雇ひたる異人も移民棉の秋
移民妻わらびを干して気品あり

佐藤念腹100句:中矢温抄出

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佐藤念腹100句:中矢温抄出

1927年
01 強東風のわが乗る船を見て来たり 
02 シンガポール
  日曜や扉に凭れ昼寝人
03 印度洋
  むらさきの流星垂れて消えにけり
04 土くれに蝋燭立てぬ草の露
05 八方に流るる星や天の川
06 井鏡やかんばせゆがむ昼寝起
07 雷や四方の樹海の子雷

1928~29年
08 渡り鳥わが一生の野良仕事

1930年
09 湯浴みして今日の日焼の加はりぬ

1931年
10 霜害や起伏かなしき珈琲園

1932年
11 瓜盗人野獣ならめとうそぶきぬ
12 野良煙草してひまな手の虻を打つ

1933年
13 雨期あけや地面の黴びの大模様
14 森暑し花仙人掌に雨降れど 
15 又丘の現れて月低くなる
16 豚の群追ひ立て移民列車着く
17 汽車へ来て菓子購へる枯野かな

1934年
18 木蔭より人躍り出ぬ野路夕立
19 投槍に飛びつく犬や蜥蜴狩
20 蜥蜴狩びつこの犬も勢子のうち
21 秋蚕飼うて俳書久しく借りにけり
22 顔のせて芭蕉葉食めり親子山羊
23 日雇いの乗り来る馬も肥えにけり
24 雨来とて犬すり寄れど棉を摘む
25 処女林の紅葉の下に耕せる
26 豚の親春霜の藁くはへ居り
27 春の風耕馬を叱る口中へ
28 夫婦して稼き餓鬼なり野良遅日

1935年
29 足裏を砥め去る豚や庭昼寝
30 切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な
31 煉瓦工みな少年や春の風
32 春雷や二人乗ったる馬に鞭

1936年
33 野路夕立乙女に走り越されつゝ
34 瓜盗むみちはるばるとつけてあり
35 日雇いと短き昼寝覚めにけり
36 開墾もその日暮しよ秋の風
37 雇ひたる異人も移民棉の秋
38 森の雲なくなりしより朝寒し
39 冬蝿や乞食よぎる汽車の窓
40 四方より攻むるが如く樹海焼く
41 少し降る雨あたゝかし珈琲畑 
42 汲み終へし深井にもたれ春惜む

1937年
43 ブラジルは世界の田舎むかご飯
44 陽炎へる線路へ汽車を降りにけり 
45 深井汲む女かはりし蝶々かな

1938年
46 稲妻や隠れ家に似て移民小屋
47 日雇も天下の職や月の秋
48 彼の背我を睨める焚火かな 
49 毛布背負ひ目覚時計さげてゆく
50 誤字多き移民の投句瓢骨忌 

1939年
51 日焼子の日臭き頬よ頬擦りす
52 凶作や此処いらいつもバス迅し
53 耳削ぐも風邪の牛の手当てとや
54 移住して東西わかず道落葉
55 犬居りて牛喜ばず牧焚火
56 息白く言葉短かに気むづかし
57 夜逃せる教師に延びし冬休
58 どやしたる耕馬かなしく鼻取りぬ

1940年
59 夏草や投縄牛を獲つつ行く
60 旱魃や牧馬も斃れはじめしと
61 虚子門に無学第一灯取虫
62 汗寒く恐怖なしつゝ争へり
63 開拓のはてが籠編む夜なべとは

1941年
64 馬にのる拍車結へし跣足かな
65 枯野より犬這入り来ぬ汽車の中
66 花珈琲門入りてなほ馬に鞭
67 野焼人沼をわたりて集ひけり


1942~44年
68 騎初を追ふ子伜の裸馬
69 信あれば文は短し秋灯下

1945~46年
70 朝酒のあとの腹減る喜雨休
71 乳しぼる牛にさし来し初日かな
72 蛇蜥蜴からみ搏つなり草の中
73 腹這うて犬も飽きたり蜥蜴狩

1947年
74 汽車に会ひ牡蠣飯に叉日本人
75 毛糸編んで昨日の如しベンチ人
76 クリストの弟子の祠や冬木立
77 投かけて四方の窓に布圏(ママ)干す ※布団の誤植か
78 酔うて脱ぐ大きな靴や春灯
79 移民妻わらびを干して気品あり

1948年
80 没収を免れし和書曝しけり
81 ブラジル陋巷はなし新豆腐
82 襟巻きや神父と競ふ拓士髯
83 墓参して和語を話さぬ移民の子

1949年
84 瓜漬を食ひ結飯食ひ珈琲飲む
85 ズボンの娘モンペの母と井戸端に
86 肉馬車を追うて地を翔つ秋の蠅
87 干布団野飼の牛の戻り初む
88 病人も腹減りしとぞ草の餅
89 貰ひ水朝寝の窓に声かけず
90 老いてゆく夫に朝寝の妻若し

1950年
91 柿の影さして障子といふものぞ

1951年
92 井戸掘つてゐるを見に来し新移民
93 移民船隈なき月に沖がゝり
94 倖せとは世知らぬことか木の葉髪
95 糸瓜忌を明日に俳句の旅終る
96 春夜行くポ語を知らねば聞ながし
97 転耕を見迭るや馬とばしつゝ
98 馬の脊の籠にあたりて燕来る
99 耕や廿五年の切株と

(虚子が序文で引いているが句集に掲載はないもの) 
100 蚊食鳥ニグロ嫁とる灯の軒に

ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート〔1〕中矢温によるイントロ

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ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート

〔1〕中矢温によるイントロ

ブラジル移民・佐藤念腹の視点から、「ホトトギス」の信念がいかにしてブラジル俳壇に普及し、また同時に反発を受けたかという歴史の理解を試みた。

前半は中矢と外山一機氏によるイントロダクションを行った。後半の読書会では、参加者それぞれの五句選を基に鑑賞を深めた。

佐藤念腹(さとう・ねんぷく)
本名・謙二郎。明治31(1898)年に新潟県生れ。大正2(1913)年より「ホトトギス」に投句開始。昭和2(1927)年ブラジルに渡る。昭和54(1979)年に永眠(80歳)。
読書会テキスト:
参考文献:
細川周平『遠きにありてつくるもの 日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』(2008/みすず書房)
栗原章子『俳句&ハイカイ~自然探訪~ HAIKU&HAICAI Descobrindo a Natureza』(2014)
蒲原宏『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』(2020/大創パブリック)
2020年10月31日(土)13時~17時 俳人による佐藤念腹読書会をzoomにて開催。
参加者:
生駒大祐、岡田一実、小川楓子、樫本由貴、木塚夏水、ぐりえぶらん、黒岩徳将、西生ゆかり、外山一機、中矢温、三世川浩司、ゆう鈴(五十音順・敬称略)

中矢温◆初めに挨拶がてら、この読書会に至った経緯をお話します。私は現在学部3年生なのですが、そもそもブラジルという地域を専攻するというところも入学直前に決まりまして、何かビジョンがあったわけではありませんでした。そうなんですけれど1年生の2月に大学主催の1ヶ月の短期留学でリオデジャネイロを訪れました。リオデジャネイロはサンパウロより日本人移民の数は少ないのですが、ICBJ(日伯文化協会)という日本の文化センターとコンタクトを取ることができました。そこを訪れたときに、ブラジルと俳句のアウフヘーベンの先にブラジルでの俳句っていうのがあるのかなと意識しました。

あとはそこで出会ったペドロくんという友達が、去年の夏に日本を本当に縦断・横断するような長い旅を日本で一か月以上しました。そのときに東京で句会をしようとなって、外山一機さんに来ていただいたりだとか、あと私が東京にいないときにもう1回句会をした際に西生ゆかりさんが主催してくださったりとか、ペドロ君が松山に訪れた時には岡田一実さんが案内してくださったりとか。日本とブラジルの俳句というのをぼんやりとずっと考えていました。今年大学でゼミの方に入って12,000字ぐらいでゼミ論(プレ卒論)も書かなきゃいけない時に、なんかこう自分だけで考えて書くよりも、皆さんに読んでもらって一緒に考えていただけたら私も嬉しいし、ブラジルの俳句の紹介にもなるのかなというふうに考えて、今回企画したというところです。資料を探す中でサイニーで外山さんの文章(※児島豊 氏著:「勝ち組」雑誌にみるブラジル日系俳句--日本力行会資料調査から--)を見つけたりしてこれは外山さんにお話いただいたり、お誘いもしようというところなども思いついて、こんな形の読書会となりました。

はい、では早速ではありますが私の方からお話をさせていただこうと思います。画面共有します。私の作った年譜を見ながら、30分ぐらいに収めたいんですがお話の方をしたいと思います。

(※以下の大部分は蒲原宏氏著『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』(2020・大創パブリック)に拠る)

念腹は1898年に新潟県北蒲原郡笹岡村で生まれました。次男として生まれたんですが長男が早世しているためほぼ実質長男のような形で育ちました。で、突然さしはさみますが、1908年に神戸港より笠戸丸が出航して、日本人が初めてブラジルに移住した年になります。移住の経緯としてはそもそもブラジルに移民する前に例えばアメリカだったりとかカナダだったりハワイだったり移民の形があったんですけど1924年にいわゆる排日移民法っていうものが発令されてアメリカへの移民ができなくなったっていうところで次の場所としてブラジルが考えられました。なんで排日移民法が起きたのかっていうところはちょっとあの私も十分に調べきれてはいないんですが、だんだんと現地で日本人移住者が増えてくることによる、侵略ではないですけど黄禍という、黄色は肌の色のこと言ってるんだと思うんですけどそういうのもあったりして。それでも日本の中では例えば土地を相続しない農家の次男三男や、都市の失業者対策としての出稼ぎっていうものが考えられたりして。日本からの移民の需要はあって、でも行き先がないところで次はブラジルというところを国を挙げて注目するようになりました。

念腹は15歳の時(1913年)に尋常高等学校を卒業してそのまま家業を継ぎます。ここでは「稼業の傍ら」と書いてるんですが傍らどころじゃなく本当に俳句ばかりをしていると言うか、文学青年でありました。実家は海産物商だったようです。この頃から「ホトトギス」に投句し始めて俳号も自分で名付けたもののようです。21年に初入選します。

22年に中田みづほという、今でいう東大医学部で、東大俳句会の主要メンバーであったみづほが新潟の医科大学に赴任してきました。そのことを念腹は「ホトトギス」の名前のところに「新潟 みづほ」って書いてあるを見て知りました。そして封筒の宛名に「新潟市俳人醫學士 みづほ様」とだけ書いて、この時は郵便局員が頑張ったのかわかんないんですけど、無事みづほに手紙が届いて面会を果たし、師事することになります。みづほはこの時医学部の方の仕事が忙しかったのもあるし、東京から離れちゃったというところもあって俳句に対しての情熱もちょっと落ちていたんですが、念腹からの熱い手紙があったりして、24年に二人で虚子を招いて、虚子が来越、越後を訪れることになります。その際に句会に「眞萩会」と命名してもらいます。

ちょうどこの年の12月からみづほはドイツ留学に出かけてしまいます。で、26年にはキヨ、確か5歳年下ですね、と結婚して、この年にちょっとまた新しい登場人物なんですけど、「ホトトギス」の木村圭石が渡伯(※ブラジルに渡ること。)します。木村圭石も新潟の人なんですけど、歳は念腹より31歳年上で、「ホトトギス」に投句を始めたのは念腹より後という。歳としては念腹より年長の先輩なんですけど、俳句では念腹の方が先輩っていうお互い尊敬し合うような間柄だったということが書かれていました。

圭石の渡伯理由というのはちょっと本によって異なっていて、例えば歳をとってから日本に迷惑をかけることを心苦しく思って渡伯したともあるし、勤務先の新潟水力電気会社が合併のときに人員整理、リストラを行ったから困窮により渡伯したともあってそこは色々なんですけど。圭石はこのとき虚子に手紙を残していて、文化や風土の違いを心配していることを書いていたり、成功は望まないけど後生のために役立てたらなというようなことを書いたり、で出発します。どちらの理由が本当とかではなく、両方少しずつ真実なのかなとか。

翌年27年に念腹も渡伯を決意します。念腹の渡伯の裏には家業の失敗と言うか、 念腹の父も俳句が好きだったりまた商売下手だったりしたんですけどそれに加えて父親の要作が政治活動を始めて、選挙に出ては落ちてというところで、 選挙費用などもかさんで念腹は家を手伝うよりも、東京にしばしば上京して「ホトトギス」の出版所で雑用をしたりするの方が楽しいしというところで、ちょっと家の傾きっていうのがあったそうです。後は弟の彰吾というのがいるんですが彼がブラジル移民の講演会みたいな、「みんなも移民しよう。」というような成功者講演会のようなものに出席したことで触発されて「我が家も行こう。」ということを持ちかけたというのは結構大きな要因としてあるようです。念腹の渡伯はお父さんとお母さんと妻のキヨと後は妹と弟とを連れて、一人だけ弟は新潟に残して出発しました。

横浜港から出港だったのでその直前には東大俳句会の、多分今の東大俳句会とは違うんですけど、秋櫻子とか素十とかと一緒に句会をしてから渡伯したようです。年譜の渡伯が3から6月となっているのは、当時の船旅だとこれぐらい時間がかかったというところですね。 なんですけどさっき念腹一家に渡伯を持ちかけた彰吾が、ブラジル到着直後の列車事故で死んでしまうんですよね。彼はその働き手という意味もあったし、実の弟でもあったんですけど、農学校を卒業したてで、これからブラジルで農業するっていう意味ではとそういった農業の知識としても念腹たちにとって重要な人でした。そのまま一家は埋葬を済ませ、1年前に渡っていた圭石を頼って彼の近くのアリアンサというところに入植するんですが(※圭石は第1アリアンサ、念腹は第2アリアンサ)、「おかぼ会」を作っていてそこで句会をともにしました。「おかぼ」は陸稲のことですね。 念腹と圭石そろって、「ホトトギス」と新潟の「まはぎ」への投句を続けました。

で、念腹は28年の3月号に初めて巻頭を飾ります。この句は後半の選評会の方で年腹句集の方に掲載があるのでそこで紹介するんですが、ここでなんかちょっといいなと思った話があります。みづほがドイツ留学してる間に念腹は渡伯を決めて行くことになってしまったわけなんですけど、みづほが初めて巻頭をとったのもドイツ留学中で、なんかその時の手紙に「次は君の番だ、海外から肱を伸ばして、ぎゅっと巻頭を握る気持は何とも云へないよ」っていうのをもらっていたんですけど、それを自分もブラジルという地で初めて巻頭をとってという。みづほはドイツから、念腹はブラジルから初めてお互い巻頭をとった。念腹はみづほが言ってたこの「肘を伸ばして肱を伸ばして、ぎゅっと巻頭を握る」という感覚がすごく分かったっていうのを嬉しく手紙に書いています。30年に「ホトトギス」同人となって、31年に「おかぼ会」から離脱します。これは後の37年のところで話そうと思います。

で、突然年譜の33年のところに上塚瓢骨(※瓢骨は俳号で本名は周平)という名前があるんですが、彼について説明しようと思います。最初の日本人移民はブラジルで奴隷解放令があったことでコーヒーの摘み手がいなくなったというところを労働力を補充したいっていう話でヨーロッパからの移民もしていたんですけど、奴隷として扱われるっていうところからヨーロッパ諸国はそのブラジルへの移民っていうのすごく危惧し、禁止していました。そこで日本から試験的に移民が渡ったんですけど、その年はちょうどコーヒーも不作だし、船が着くのも遅れてほとんど摘めないから収入もあげられないし、ブラジルに行ったらこんなに稼げるという宣伝文句は嘘だったのかっていう移民による暴動もあったり、 現地で病気にかかったりっていうところで、ほとんどの移民がコーヒー農園から逃げ出してしまいました。それは1908年とかの話で、27年に渡伯した念腹はそういう契約移民ではなくて、わたる前に日本から土地を買ってから渡っていて、小作農ではなく自作農として渡伯していました。で、話を戻すと上塚瓢骨は最初の移民とともに移民会社のお世話役として渡伯した人で、「ブラジル移民の父」と呼ばれるようなブラジル移民の中で認知度もありました。そういう功労者なんですけど、上塚が念腹の弟子になるんですよね。上塚のコネクションというか紹介によって念腹は選者になるんですけど、私結構33年は大事な年だなあと思っています。なぜかっていうと、虚子に師事していた、誰かに師事していた弟子である自分じゃなくて、選者としての選ぶ自分であったり弟子がいる自分っていうような形で、念腹が先生になった年とも言えるんじゃないのかなと思っています。35年に農耕ではなく牧畜に転向したことで生活が安定したようです(後記注:『念腹句集』跋文によると、ここでの「牧畜」に豚は入らず牛のことだったよう。)。

で、年譜の中でも一番大事かなと思うのが37年なんですけど、先輩であり後輩でもある圭石とのここで対立というのがあるんですけど、圭石が「南十字星」という雑誌を作ろうとしたときは、ブラジル移民の中に「アララギ」からの歌人(※岩波菊治)がいたりして、短歌もするし「ホトトギス」だけじゃなくてもいいし、俳句や詩を書きたい人は皆ここに投句していいことにしようって言ったんですけど、 師系のない師匠のいない雑誌に違和感というか反発があって、てか反発があって創刊の時のメンバーだったんですけど、創刊前に抜けちゃうんですよね。そのまま圭石は翌年死去してしまうんですけど、なんというかブラジル俳壇って一枚岩ではなかったのかなっていう、お互いにブラジルに俳句を広めたいっていう気持ちはあったんですけど、その師匠がいるいない、何を是とするかというところでちょっとずれが生じてたんだなっていうのがここでわかるかなと思います。

41年からは戦争色っていうものが濃くなってきて、外国語新聞が発行できなかったり公共の場での日本語の使用が禁止されたりということで、俳句を広めるだとか句会をするっていうことがどんどん難しくなっていきます。ちょっと勝ち組負け組については後で外山さんからお話いただこうと思います。この日本語での新聞が許可されていなかったということもあって、ラジオで終戦を知ったんですけどその時に日本が負けたっていうのが上手く電波が入ってなかったのか、日本は勝ったというデマが流れます、で、勝利を信じている人を勝ち組、負けたと思ってる人が負け組っていうことで日本人移民の中に対立が生まれてしまいます。念腹は負け組に分類されたようなんですが、弟子の中には勝ち組の人もいて、その人はしばらく疎遠になったりもしていました。日本の勝ちを信じないっていうことで負け組は非国民扱いされる。でもだんだんと情報が入ってくると勝ち組の方が間違えているとわかってくる。勝ち組が負け組の人を殺した事件もありました。これは傾向としか言えないんですけど、負け組の人は情報を得られていた人で、 情勢を理解出来ていた人というか、割と教養のなる移民たちのまとめ役のような人、あるいは新聞記者だったいうような傾向はあったかと思います。あくまでも負け組は少数派です。私が念腹自身の書いた『念腹俳話』を手に入れられてないこともあるんですけど、念腹自身があんまり戦中のことを書いてなかったりもして、念腹にとっての勝ち組負け組がどうだったのかっていうのは想像でしか私は言えません。ですけど念腹にとっては戦後の民主化によりもう一度俳句の行脚ができるっていうことの方が大きかったのかなという風に想像しています。 

48年に俳誌「木蔭」を創刊して、題字は確か虚子が書いています。『ブラジル俳句集』を刊行したりして、この年に各地に40回の俳句指導の行脚をしたりしています。ちょっと地図をね作ったんですけど、(グーグルマップを見せながら)点の数が40ないのは、念腹がカタカナで訪問地を書き残しているのを見ても、私がそれをブラジルの地名の綴りに頭の中で変換できなくって…。わかった地名を点で打ったという感じです。かなり手広く行脚していたことは見えるかなと思います。で53年に今回皆さんに選句していただいた『念腹句集』っていうのが刊行されて、この年に星野立子も来伯していたり。戦後になってから今までは手紙や句のやりとりだったのが、人の移動っていうのもできてきたんだなあと思いました。

61年にはとうとう念腹が虚子三回忌に訪日することになります。訪日中に『念腹句集第二』も刊行されます。で、63年には髙野素十も来伯します。素十について全然話していなかったんですけど、みづほと東京時代から友人だったことから、念腹とも深い交流がありました。念腹にとっての師匠はみづほと素十と虚子という感じでした。

ちょっと私も資料を読んでいても意味がわからなかったんですけど、64年に念腹は日本の俳人協会創立創設に異議を唱えていました。何でこれを年譜に入れたかというと、私は現代俳句協会青年部の勉強会にお世話になることが多くて、ここら辺の歴史も知らなきゃなという自戒を込めて入れたところがあります。ちなみに私は特に結社とか入っていないので念腹からしたら師系のない人間にはなりますね…。

68年に俳句仲間・門下の寄附により念腹庵が改築されたりしていますね。73年は日本最後の移民船が出航されて、以降の移動は飛行機になります。そもそもここら辺で日本の高度経済成長期と重なっていて、送り出す要因の一つである働き口のなさそのものも減っています。なので1908年に始まって、戦時中に途絶えて戦後再開されるんですけどそれと同時に日本に高度経済成長期が訪れるので移民の数も減っていくというのがざっくりとしたグラフになるのかなと理解しています。

78年7月に念腹が発病して、『移民七十年俳句集』刊行されます。ここらへんは実はちょっと繋がりがあって、念腹が発病する、高齢を迎えるということは移民全体の、その移民1世の日本語ネイティブの人たちも同時に高齢化を迎えてくるっていう中で、ちょっとお金の話になるんですけど「木蔭」の運営っていうのもどんどんメンバーが減っていくというところで困難を迎えていくわけですね。 ブラジルは結構物価の変動が激しく、紙幣も何度も変わったりしています。この時にかなりインフレが起きていて、年会費もすごく高騰してしまって、そもそもメンバーは高齢とか持病とかで亡くなっていくなかで、ブラジルも物価が上がってしまって。内憂外患というか。念腹はブラジルに俳諧王国は築けたんですけど、それと同時に終わりも見えてきてしまっているというところかなと思いました。

「木蔭」は念腹の引退とともに休刊して、79年には末の弟、念腹と15歳が離れてるんですけど。牛童子が「朝蔭」として引き継ぎます。79年に念腹は死去します。84年に妻のキヨが『念腹俳話』を刊行します。これすごく読みたいんですけど、日本の古本屋で永遠にリクエストを出して待っているという状況です。2011年には牛童子も死去して、17年には牛童子の後妻の佐藤寿和が『朝蔭』を継承というところです。すごく駆け足で話したんですが大体こんなところで念腹の一生をざっくり話終えたかなと思います。

ここで外山さんにバトンタッチする予定だったんですけど、私がリオに短期留学した時に、ICBJでポルトガル語の動画を見せてもらって、この動画どう?って言われたんですけどさっぱりわからなかった動画があって。それを今ならちょっとわかったりして、文字起こしも出来たりしたので皆さんと見ようと思います。虚子の弟子である念腹の弟子である増田恒河という人のドキュメンタリー動画です。 ブラジルの俳諧についても話しています。せっかくなのでそれを見ようと思います。恒河の孫のフランシスコ・マスダのユーチューブチャンネルに載っていました。同時通訳めいたものをします。

≫Masuda Goga - Um discípulo de Bashô
https://youtu.be/qdj_mIEm09k

[A nossa vida, inclusive todos esses acontecimentos naturais, nunca fica no mesmo lugar, ao mesmo tempo, sempre tá mudando. Essa mudança é o espírito do haicai.]
私たちの生活・人生は、自然に起きる全てのことを含め、同じ場所に留まることは決してなく、同時に常に変化しているのです。この変化が俳諧の魂です。

中矢温◆恒河の書いている短冊に「動くとも動か」くらいまでは読めますね。続きが気になるところです。画面に「増田恒河 芭蕉の弟子」と表示されました。haicaistaたちが句会をしていますね。

[Hoje escolhi oito haicais, todos bons. Número 17: 
Vento na folhagem
responde ao cantar do inseto
um galo estridente]
今日は8句選びました。全てよかったです。17番
葉に風や虫に答へて鳴ける鶏(※おそらく恒河の句。中矢が無理やり五七五にした)

[Esta cena é muito interessante e haicaístico.
この場面はとても興味深く、俳諧的ですね。
Porque um cantar do inseto esse delgado muito quietinho, mas contra este o galo gritou estridentemente.]
何故なら虫の歌がか細く、とても静かなのに対して、雄鶏はけたたましく鳴いている訳ですから。

[À noite...sozinho...
me deixam mais pensativo
os cantos de insetos]
夜…孤独…
私はさらに考えるのを止める
虫たちの歌
→夜の孤独思考を止めて虫の声

[Haiku é o poema mais curto do mundo com 17 sílabas que canta a natureza. Por isso, pra mim, o haiku é universal.]
俳句は17音と世界で1番短い詩で、自然を詠うものです。なので私にとっては俳句は世界的なものです。

[Número 8:
O outono chegou
mais distantes e azuladas
as mesmas montanhas]
8番
秋が来た
さらに遠く青い
同じ山々
→秋の来てより遠く青き同じ山
(後日注:少なくともこの句は後に登場するパウロ・フランケッチ氏の句のようです。恒河訳は、「秋来る山なほ遠く青く見え」でした。)

中矢温◆改行のタイミングでポーズをおいて詠んでいるのが興味深いですね。

[Este autor está observando bem todo dia as montanhas em ao redor da sua vida. E qualquer um não descobre esse fenômeno.]
この作者は生活の周りにある山々を毎日よく観察しています。どんな作者(俳人)でもこんな現象を発見はしないでしょう。

[Flores silvestres
pequeninas e sem brilho
à espera de abelhas...]
野生の花
小さくて輝きがない
蜜蜂を待っている
→野の花小さし輝きもなく蜂を待つ

[Observa bem a transitoriedade de natureza. Só, nada mais que isso aí. Quem não sente nada, não há haicai.]
自然の儚いものをよく見ること。それ以上のことはなく、それだけです。全くなにも感じない人に、俳諧はありません。

[Libélula voando
pára um instante e lança
sua sombra no chão]
飛んでいる蜻蛉
一瞬で向かう
地面の自分の陰に向かって
→一瞬に蜻蛉の己が影に飛ぶ

[Eu nasci no dia 8 de agosto de 1911, meu lugar do nascimento é o Zentsuji na província de Kagawa. 
私は1911年の8月8日に生れました。私は1911年の8月8日に生れました。出生地は香川県の善通寺というところです。
quando era criança, idade de 12 anos Eu já tinha o sonho de para vir para o Brasil, 
12歳の子どもの頃私は既にブラジルに行くという夢がありました。
agora esse sonho foi completada quando eu tinha a idade de 18 anos. 
今ではその夢は叶えられました、私が18歳のときです。
Assim para mim o Brasil não é um o país estranho, desde criança eu estudava bastante sobre o Brasil.]
なので私にとってブラジルは外国ではありません。子どものときからブラジルについて十分に勉強してきたのです。

[A serra lá longe
dá ares de minha pátria:
névoa transparente]
はるか遠くの山は
私の祖国のように見える
透明な霧
→遠き山祖国のごとし霧透けて

中矢温◆「:」を使うのは日本語の俳句と違って面白いですね。これが切れを示しているのではと睨んでいます。

[O Porto de Santos era um lugar bem sossegado, eu gostei muito. Tranqulidade e hospitalide. Os funcionários da alfândega também eram muito bonzinhos pra mim.]
(入植した)サントス港はとても静かな場所だった。私は大変気に入った。落ち着いていて、親切だった。税関の職員たちも私にとってはとてもよい人たちだった。

[As nuvens douradas
Flutuam no pantanal
- florada de ipê]
続く雲が
大きな沼地に浮かぶ
イッペイの花

[Eu comecei a escrever haiku em japonês em 1929. 
私は1929年に日本語で俳句を書き始めました。
Na viagem para o Brasil tem alguns registrados no meu diário. 
ブラジルへの旅の中でいくつか日記に記録する。
Em 1935 encontrei com o mestre Nempuku Sato. 
1935年に佐藤念腹先生にお会いしました。
Eu comecei a escrever o haiku tradicional. 
伝統的な俳句を書き始めました。
Jorge Fonseca Júnior já fazia haicai em português, importado pelo Afrânio Peixoto.]
ジョルジェ・フォンセッカ・ジュニオルはポルトガル語での俳諧を始めました、アフラニオ・ペイショットにより持ち込まれたものです。

中矢温◆次に話すのはカンピナス大学の文学評論科のPaulo Franchetti (パウロ・フランケッチ)教授です。

[É preciso ver que o haicai entrou no Brasil de duas formas diferentes. 
俳諧が異なる2つの形でブラジルに入ったことを見るのが必要です。
Uma forma foi a forma de importação de um objeto exótico no fim do século passado e começo desse. 
一つの形は前世紀の末(19世紀末)に外のことの輸入の形で、始まりました。
Em toda a Europa aumentou muito o interesse pela "Japonaiserie", pelas coisas ligadas ao Japão,
ヨーロッパ中で「ジャポネズリ」、日本に関するものへの強い関心が高まっていた。
e pela "Chinoiserie", as coisas ligadas à China, também. 
中国に関するものへの強い関心「シノワズリ」
E o haicai veio assim para a França e da França para o Brasil como uma forma importada de uma poesia minúscula, delicada, uma coisa exótica.
そして俳諧がフランスに来ました。フランスからブラジルへ小さな(些細な)、丁寧な(繊細な・洗練された)、外国の詩が輸入されました。
Mas no Brasil há uma coisa que é um pouco diferente.
しかしブラジルでは少し違うものがあります。
É que nós tivemos também na mesma época uma a enorme imigração de japoneses e esses japoneses trouxeram para cá uma prática cultural que incluía a produção de poesia entre elas o renga, o tanka que é um poema amoroso, e o haicai.
私たちは同様に同じ時代に膨大な数の日本人移民を得ました。そして彼ら日本人は文化的習慣、連歌や愛の詩である短歌、そして俳諧を持ち込みました。

Mas esses dois lados da produção do haicai no Brasil, o lado digamos assim ocidentalizado, exótico e o lado oriental e digamos assim, mais próprio mais legítimo da cultura ficaram separados.]
しかしブラジルの俳諧のこれら二つの側面、西洋とエキゾチックな東洋的と言ってみましょう、これら文化のより適切で正当な二つの側面が分離されてしまった。

[Em 1936 quando eu conheci o Jorge Fonseca Júnior, já aqui no Brasil tinha o haicai, já bem divulgado, mas diferença grande é o sem o kigo. O kigo é o termo da estação do ano, esse é o espírito do haicai.]
1936年に私がジョルジェ・フォンセッカ・ジュニオルに会ったとき。既にブラジルに俳諧はあり、既に普及された。しかし大きな違いは季語のないことだ。季語は1年の季語のテーマで、俳諧の魂です。

(中略)

[O nosso haikai
tem sabor maravilhoso
qual caqui bem doce!]
私たちの俳諧
素晴らしい味がする
どの柿もとても甘い!
中矢温◆柿も日本から持ち込まれたもので、caquiは発音もそのままカキです。

[Primeiro: amar a natureza. Segundo: observar bem a natureza. Terceiro: não colocar o sentimento barato de cada pessoa. Agora, quarto: escrever o haiku com as palavras fáceis e simples. O haicai é o poema não artificial, por isso depende da sensibilidade do haicaísta. Nasce o haicai, não fazer o haicai, nasce o haicai.]
最初は自然を愛する。次に自然をよく観察する。3つ目に一人一人の安っぽい感受性に重きを置かないこと。4つ目にシンプルで簡単な語彙で俳句を書くこと。俳諧は人工的な詩ではなく、俳人の感覚による。俳諧は生まれる、俳諧を作るのではなく、俳諧は生まれる。

中矢温◆日本で売られている句作の入門書と通ずるものありますよね。

(中略)

[Em cima do túmulo, 
cai uma folha após outra.
Lágrimas também...]
墓の下
他の葉の後に葉が落ちる(葉が続いて落ちる)
涙も同様に

中矢温◆登場した中で1番美しいなと個人的に思った句です。

[Eu gosto do haicai. Namoro o haicai. Fazendo todo momento fazendo o haicai. Bons, maus, isso não tem importância. Minha vida é o haicaística. Como mostrei, eu sempre tá carregando um papel com lápis. Todo momento quando é o tenho transitoriedade, fixa aqui agora um verso com kigo.]
私は俳諧が好きです。俳諧を愛しています。全ての瞬間、俳諧を作っています。よい、悪い、それは重要なことではありません。私の人生は俳諧的でした。さっき見てもらったように、私は常に紙に鉛筆を走り取ります。一過性の全ての瞬間は季語と共に韻を見つめます。

(中略)

[A natureza muda sempre, igualmente, a minha vida também muda a todo o momento. Então como o haicaísta fixa aqui e agora, estou vivendo aqui e agora.]
自然はいつも平等に変わり、私の人生も全ての瞬間変化しています。そして俳人が今ここに見つめるように、私は今ここに生きています。

[O ano fenecendo...
preocupação nenhuma: 
só penso em haiku !]
年の暮
何の懸念もない
ただ俳句のことを考えている

中矢温◆「…」、「:」、「!」とか使うのは日本の俳句との表記の違いとしても楽しいですね。

[Amigos me tratam de mestre, mas eu não tenho capacidade para ser o mestre. Apenasmente sou discípulo fiel de Bashô.]
友人たちは先生として私を気にかけてくれたが、私は師匠でいるだけの能力はありませんでした。私は芭蕉の忠実な弟子でしかありません。
[Muito obrigado]
ありがとうございました。

中矢温◆念腹ののちは日本人移民自体も減っているし、移民2世にとってきっと日本語っていうのは俳句としてやるものではなくなってしまっていたんですけど、このようにポルトガル語での俳句とつながり、haicaiとなることによって系譜として今にいたるのかなっていうのが私のざっくりとした理解でした。長くなってすみません…!

〔2〕につづく

佐藤念腹

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