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週刊俳句 第663号 2020年1月4日

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663
202014





2020年週刊俳句新年詠


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後記+プロフィール663

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後記 ◆ 上田信治

あけまして、おめでとうございます。

恒例の新年詠特集をお送りいたします。
お楽しみいただければ幸甚です。

今年は、142名のご参加をいただきました。
誠にありがとうございます。



今年もよろしくお願いいたします。

いったいどんな年になるんでしょうか。
2020年、もうすでに、並の年では終わりそうにないですね。

ちなみに、前回のぞろ目の1919年は、ベルサイユ条約が結ばれて、ナチスが結党して、日本では関東軍というものが生まれて、アメリカでは禁酒法が施行されてと、まあ、めちゃくちゃな年。

年の終わりには、こんなもんですんでよかったね、と、無事を祝いあいましょう、ぜひ。



 それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。

no.663/2020-1-5 profile

2020新年詠ご投句の皆様

矢作十志夫 やはぎ・としお
昭和23年生まれ。「あだち野」同人・編集長

ゆなな子 ゆななこ
小樽市生まれ。屍派のドラッグ部門担当。猫と会話ができます。

渕上信子 ふちがみ・のぶこ
豈同人

藤崎幸恵
1936年蠍座生れ。「街」同人。

中山奈々 なかやま・なな
1986年5月生まれ。「百鳥」同人。

岸本由香 きしもと・ゆか
平成20年現代俳句協会新人賞受賞

市川綿帽子 いちかわ・わたぼうし
1976年神奈川県生まれ。無所属。俳人協会会員。市川恵子名義で詩も書いています。

宇井十間 うい・とげん

齋藤朝比古 さいとう・あさひこ
1965年東京生れ。1993年より石寒太に師事。「炎環」同人。「豆の木」副代表。第21回(2006年度)俳句研究賞。

西川火尖 にしかわ・かせん
1984年京都市生まれ。「炎環」同人。石寒太に師事。「子連れ句会」問合せ先。詩歌俳同人、Qai〈クヮイ〉参加。

竹内宗一郎 たけうち・そういちろう
1959年鳥取県生まれ。「天為」同人。「街」同人・編集長。

笹岡大刀 ささおか・だいと 
「藍花」創刊二十周年記念合同句集『かちいろに』(2015年・藍花俳句会)に参加。「藍花」「鷹」を経て、現在、結社無所属。少しの間、澁谷道にも師事。

鈴木茂雄 すずき・しげお
1950年大阪生まれ/「きっこのハイヒール」「KoteKote-句-Love」所属/Blog 「ハイク・カプセル」https://twilog.org/haiku_capsule

マイマイ まいまい
1966年生まれ。句集に『翼竜系統樹』(2013)、『宇宙開闢(ビッグバン)以降』(2016)

岡田一実 おかだ・かずみ
1976年生まれ。第3回芝不器男俳句新人賞にて城戸朱理奨励賞。第32回現代俳句新人賞。第11回小野市詩歌文学賞。「らん」同人。句集に『境界ーborderー』(2014)『新装丁版 小鳥』(2015)『記憶における沼とその他の在処』(2018)

赤羽根めぐみ  あかばね・めぐみ
秋尾敏に師事。「軸」同人。現代俳句協会会員。全国俳誌協会常任幹事。第35回現代俳句新人賞。

KAZU
屍派。刑務所にて俳句に出会い俳句のカッコよさを知りました。

五十嵐秀彦 いがらし・ひでひこ
1956年生れ。札幌市在住。現代俳句協会理事、俳人協会会員、「藍生」会員、「雪華」
同人。俳句集団【itak】代表。第23回(2003年度)現代俳句評論賞。

玉田憲子 たまだ・のりこ
1948年秋田県生まれ。群馬在住。「街」「はるもにあ」所属。句集『chalaza(カラザ)』。

すずきみのる 1955年生まれ。「参」「汀」「城」所属。句集に『遊歩』。

赤野四羽 あかの・よつば
1977年生まれ、現代俳句協会青年部。句集『夜蟻』。

Fよしと えふよしと
1950年、札幌生まれ
Itak・雪華同人・現代俳句協会会員

広渡敬雄 ひろわたり・たかお
1951年福岡県生まれ、「沖」蒼茫集同人、「塔の会」幹事、
俳人協会会員。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。
『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。
2012年角川俳句賞受賞。2017年千葉県俳句大賞準賞。
2017年7月より、「俳壇」にて「日本の樹木」連載中。

平野皓大 ひらの・こうた
1998年生まれ。神奈川育ち。2019年より「古志」所属。

中矢温 なかや・のどか
1999年愛媛県松山市生まれ。東京都在住。大学2年生。

飯田冬眞 いいだ・とうま
1966年札幌市生まれ。「豈」 「未来図」 同人。俳人協会会員。句集『時効』

大島雄作(おおしま・ゆうさく)
1982年作句開始。「沖」入会、能村登四郎に師事。
2007年、「青垣」を創刊し、代表。
句集は「寝袋」「青垣」「鮎苗」「春風」「一滴」
第9回俳句研究賞受賞。

杉原祐之 すぎはら・ゆうし
1979年東京都生まれ。「山茶花」「夏潮」に所属。
句集『先つぽへ』。

中内火星 なかうち・かせい
東京都区現代俳句協会所属。俳句はじめて十年ちょっと。

杉田菜穂 すぎた・なほ
1980年生まれ。「運河」同人、俳人協会会員。
句集に、『夏帽子』(角川学芸出版、2010年)、『砂の輝き』(KADOKAWA、2014年)がある。

谷口智行 たにぐち・ともゆき

森青萄
1952年北海道生まれ。小熊座同人。ブログ「空見日和」。

西生ゆかり さいしょう・ゆかり
1984年生まれ。第1回「街」未来区賞。第3回「円錐」新鋭作品賞白桃賞。第3回新鋭俳句賞準賞。

曾根 毅 そね・つよし
1974年生まれ。「LOTUS」同人。現代俳句協会会員。句集『花修』(深夜叢書社)。
共著『新興俳句アンソロジー』(現代俳句協会青年部編・ふらんす堂)。

クズウジュンイチ
1969年生。「奎」所属。「仮名句会」「スパルタ句会」等で活動。

今朝 けさ
1968年生まれ。「澤」所属。

池田澄子 いけだ・すみこ
「豈」「船団」同人。

篠崎央子 しのざき・ひさこ
1975年茨城県生まれ。「未来図」同人。
朝日俳句新人賞奨励賞受賞(2005年)。未来図賞受賞(2018年)。
共著『超新撰21』(2010年)。2020年句集出版予定!!

高山れおな

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「オルガン」に参加。第一句集、『自生地』(東京四季出版、2017年)にて第6回与謝蕪村賞新人賞受賞。第二句集、『二つ折りにされた二枚の紙と二つの留め金からなる一冊の蝶』(私家版、2017年)。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。

隠岐灌木 おき・かんぼく
1948年生まれ。大阪在住。「きっこのハイヒールひよこ組」所属。

青木ともじ

岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。「炎環」同人。「豆の木」「ユプシロン」参加。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」

八鍬爽風 やくわ・そうふう
1998年生まれ、北海道在住。

吉平たもつ よしひら・たもつ
1946年生まれ。現代俳句協会、新俳句人連盟所属。俳人「九条の会」事務局員。

森脇由美子  もりわき・ゆみこ
俳人協会会員。松の花。

髙木小都 たかぎ・こと
蒼海俳句会。

石原日月 いしはら・じつげつ
1946年愛媛県生。無所属。「逸」参加。句集『翔ぶ母』。

三島ちとせ みしま・ちとせ
北海道出身、1988年生まれ
メール句会【月詠の会】 運営

小林かんな こばやし・かんな
1965年生まれ。現代俳句協会会員。

犬星星人 いぬぼし・せいじん
1987年生まれ。蒼海俳句会所属。

大井恒行 おおい・つねゆき
1948年12月、山口県生まれ。「豈」同人。

山口昭男 やまぐち・あきお
昭和30年(1955年)4月22日・兵庫県生まれ 
波多野爽波、田中裕明に師事 「秋草」創刊主宰 
句集『書信』『讀本』『木簡』 第六十九回読売文学賞受賞

柏柳明子 かしわやなぎ・あきこ
1972年横浜市生まれ。「炎環」同人。「豆の木」「蘖通信」参加。第30回現代俳句新人賞。第18回炎環賞。句集『揮発』(現代俳句協会、2015)。

阪野基道 ばんの・もとみち
船団の会 現代俳句協会 短歌「未来」所属

九堂夜想 くどう・やそう
1970年、青森県生まれ。「LOTUS」編集人。句集『アラベスク』(六花書林)。

西山ゆりこ にしやま・ゆりこ
結社「駒草」所属 
句集『ゴールデンウィーク』

月波与生 つきなみ・よじょう
1961年生まれ。川柳書いてます。2020年4月新柳誌「川柳の話」刊行予定です。

小川軽舟 おがわ・けいしゅう
1961年生まれ。1986年「鷹」入会、藤田湘子に師事。
編集長を経て2005年より「鷹」主宰。

橋本直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人。Blog「Tedious Lecture」 http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/

浅沼璞 あさぬま・はく
1957年生れ。「無心」代表。句集に『塗中録』(左右社)。評論集に『俳句・連句REMIX』(東京四季出版)など。

高梨章 たかなし・あきら
「仮名句会」参加。

金子 敦 かねこ・あつし
1959年神奈川県生まれ。句集『猫』『砂糖壺』『冬夕焼』『乗船券』『音符』。1997年第11回俳壇賞受賞。「出航」同人。俳人協会会員。

月野ぽぽな つきの・ぽぽな
1965年長野県生まれ。ニューヨーク市在住。「海原」同人。現代俳句協会会員。第28回現代俳句新人賞、第63回角川俳句賞受賞。月野ぽぽなフェイスブック:http://www.facebook.com/PoponaTsukino

柘植史子
1952年生まれ。第60回角川俳句賞受賞。俳句同人誌「ふう」所属。句集に「レノンの忌」「雨の梯子」。

生駒大祐 いこま・だいすけ
1987年三重生まれ。『天為』『オルガン』『クプラス』などを経て現在無所属。イベントユニット「真空社」社員。

村上瑠璃甫 むらかみ・るりほ
大阪府出身、大阪府在住。蒼海俳句会会員。

神保と志ゆき じんぼ・としゆき
1976年生まれ。「蒼海」。

阪西敦子 さかにし・あつこ
1977年逗子生れ、『ホトトギス』同人、『円虹』所属。

斎藤悦子 さいとう・えつこ
1950年広島生まれ。「街」同人

中西亮太 なかにし・りょうた
1992年生まれ。「艀」を経て、現在「円座」「秋草」所属。

藤尾ゆげ
1963年生まれ。「街」同人。

野口裕 のぐち・ゆたか
1952年生まれ。京阪神のあちこちの句会に出没、と言いたいところだが、京大阪がだんだん遠く感じるようになってきた。
句集「のほほんと」。俳句と資本主義は相性が悪いので、本に値段は付いているがすべて配布している。連絡あれば、お送りします。
アドレス yutakanoguti@mail.goo.ne.jp

村越 敦 むらこし・あつし
1990年東京都生まれ。「澤」同人。

武智しのぶ たけち・しのぶ
1957年生まれ。

津川絵理子 つがわ・えりこ
1968年兵庫県生れ 1991年南風入会。鷲谷七菜子、山上樹実雄に師事。句集に『和音』『はじまりの樹』など

しなだしん
「青山(せいざん)」編集長/俳人協会幹事/「塔の会」幹事

小川楓子 おがわ・ふうこ
「舞」所属。共著に『超新撰21』『俳コレ』『天の川銀河発電所』。

前北かおる まえきた・かおる
「夏潮」会員。日本伝統俳句協会関東支部千葉部会長。毎年秋に成田山新勝寺で吟行会を行っています。

堀本裕樹 ほりもと・ゆうき

岡村知昭 おかむら・ともあき
1973年滋賀県生まれ。「豈」「狼」「蛮」所属。句集に『然るべく』(草原詩社)、共著に『俳コレ』(邑書林)。

瀬名杏香 せな・きょうか
1997年北海道生まれ。「椋」会員、石田郷子に師事。

宇志やまと うし・やまと
長野県生まれ 「銀漢」同人 第三回「俳句四季新人賞」受賞 俳人協会会員 

常盤 優 ときわ・ゆう
2005年「炎環」入会。2009年「炎環」同人。句集『いきものの息』(2017年紅書房)

ハードエッジ
日本生れ。twitter専業俳人。角川俳句賞マタオチタ。

箱森裕美 はこもり・ひろみ
栃木市生まれ。炎環、紫、詩歌句同人Qai〈クヮイ〉 所属

内村恭子 うちむら・きょうこ
「天為」同人、俳人協会会員、国際俳句交流協会会員

藤田俊 ふじた・しゅん
1980年生まれ。兵庫県在住。「船団の会」会員。現代俳句協会会員。

細村星一郎 ほそむら・せいいちろう
2000年生まれ。「奎」同人、「慶應俳句会」代表。第16回鬼貫青春俳句大賞受賞。

鈴木健司 すずき・けんじ
1970年横浜市生まれ。「炎環」同人。「豆の木」参加。第23回炎環新人賞。

千野千佳 ちの・ちか
蒼海俳句会。

龍翔 りゅうしょう
1983年生まれ。歌人。

黒岩徳将 くろいわ・とくまさ
1990年生まれ。「いつき組」「街」。

彌榮浩樹 みえ・こうき
「銀化」同人

紀本 直美 きもとなおみ
船団会員。句集『さくさくさくらミルフィーユ』『八月の終電』(創風社出版)。紀本直美の俳句ブログ。Twitter:@kimotonaomi

依光正樹 よりみつ・まさき  
「クンツァイト」主宰。

依光陽子 よりみつ・ようこ  
「クンツァイト」所属。第44回(1998)角川俳句賞。
共著『俳コレ』他。

望月とし江 もちづき・としえ
1958年生まれ。「澤」編集長。共著『くらしのこよみ』

松本てふこ

宮﨑莉々香 みやざき・りりか
1996年高知生まれ。

下坂速穂 しもさか・すみほ
1963年生。句集「眼光」。「クンツァイト」「秀」所属。

岡本飛び地 おかもと・とびち
1984年愛媛県生まれ。無所属。

小久保佳世子 こくぼ・かよこ
街同人。句集『アングル』

高橋透水 たかはし・とうすい
所属結社 「銀漢」・「炎環」・「_座」
インターネット句会、商業誌等に定期的に投句。退職(六十歳)後、結社に所属し本格的に俳句を始める。昭和二十二年生れ。新潟県出身。

雪我狂流 ゆきが・ふる
旭化成の街延岡生まれ

松野苑子 まつの・そのこ
長男誕生の年から俳句を始める。
「好日」「坂」「鷹」を経て、現在「街」同人会会長。俳人協会会員。
第8回俳句朝日賞準賞。第62回角川俳句賞。句集『誕生花』『真水(さみづ)』
ブログ「俳句の苑」https://sun.ap.teacup.com/sono/

大西主計 おおにし・かずえ
1954年生まれ。銀化・街所属。

田邉大学 たなべ・だいがく
2000年生まれ、大阪府在住。俳句雑誌「奎」同人。

鴇田智哉 ときた・ともや
1969年木更津生れ。「魚座」「雲」を経て結社無所属。
句集に『こゑふたつ』(2005年)、『凧と円柱』(2014年)。

若林哲哉 わかばやし・てつや
1998年生まれ。「南風」所属、「奎」同人。句集『掬ふ』(マルコボ.コム)。

楠本奇蹄 くすもと・きてい
2017年より暫定句会、「豆の木」参加。

関悦史

西村麒麟 にしむら・きりん
昭和58年生まれ。「古志」同人。

山岸由佳 やまぎし・ゆか
1977年生まれ。「炎環」「豆の木」。第33回現代俳句新人賞。

森崎公平 もりさき・こうへい 
1989年生まれ。無所属。

近恵 こん けい
1964年青森県出身 「炎環」同人「豆の木」「ロマネコンティ」「尻子玉」参加。第31回現代俳句新人賞受賞 合同句集炎環叢書『きざし』

宮本佳世乃 みやもと・かよの
1974年生まれ。「炎環」「豆の木」「オルガン」に所属。第35回現代俳句新人賞。
句集に2012年『鳥飛ぶ仕組み』、2019年『三〇一号室』。

北川美美 きたがわ・びび
1963年生。
「面」「豈」同人。「俳句新空間」共同発行人。 
WEP俳句新空間「『眞神』考」連載。

鈴木牛後 すずき・ぎゅうご
1961年北海道生まれ、北海道在住。
藍生、雪華、イタック。第64回角川俳句賞受賞。第3句集「にれかめる」発売中。

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

大塚凱 おおつか・がい

田中惣一郎 たなか・そういちろう 
1991年岐阜県生まれ。

仲田陽子 なかた・ようこ
1969年京都市生まれ。現代俳句協会会員。「寒雷」を経て無所属。2018年「ユプシロン」に参加。

石地まゆみ・いしぢまゆみ
1959年東京生まれ。
「未来図」編集同人。
句集『赤き弓』、共著『新現代俳句最前線』
「WEB三和書籍」にて「人のいとなみ自然のいとなみー時を織りなす季語」を連載中。

姫子松一樹 ひめこまつ・かずき
1999年大阪市生まれ。伊勢育ち、京都在住。『青垣』学生会員。

小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

森 瑞穂 もり・みずほ
1972年生まれ。「香雨」同人。俳人協会会員。
第32回村上鬼城賞「新人賞」、「第1回新雨賞」受賞。

琳譜 りんぷ
無所属

小池康生 こいけ・やすお
「銀化」同人。「奎」代表。句集「旧の渚」

林雅樹 はやし・まさき
1960年生 澤同人

山田耕司 やまだ・こうじ
1967年生まれ・句集『不純』(左右社)・「円錐」編集人

常原拓 つねはら・たく
1979年神戸生まれ。
2016年「秋草」入会、山口昭男に師事。

青島玄武 あおしま・はるたつ
熊本市出身、在住。1975年(昭和50年)3月生まれ。2002年(平成14年)作句開始。2003年(平成15年)、『握手』の磯貝碧蹄館に師事。2年後に同人。師の没後は無所属。邑書林刊『新撰21』に選ばれなかったほうの『新撰21』世代。現代俳句協会会員。熊本県現代俳句協会幹事。

佐復桂 さまた・かつら
1979年生まれ
堀本裕樹主宰の「蒼海」会員。

小林鮎美 こばやし・あゆみ
1986年群馬県生まれ。「群青」同人。俳人協会会員。

近江文代 おうみ・ふみよ
1967年生まれ。「船団」会員、「野火」同人。現代俳句協会会員。

島田牙城

ごしゅもり

堀田季何

上田信治

後記+プロフィール664

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後記 ◆ 西原天気


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no.664/2020-1-12 profile

中田美子 なかた・よしこ
1991年より俳句を始める。桂信子・宇多喜代子に師事。句集「惑星」(2002年)。2018年11月「ユプシロン」刊行に参加。

■対中いずみ たいなか・いずみ
1956年生まれ。田中裕明に師事。第20回俳句研究賞受賞。「静かな場所」代表、「椋」会員。句集に『冬菫』『巣箱』『水瓶』。

小野裕三 おの・ゆうぞう
1968年、大分県生まれ。「海原」「豆の木」所属。現代俳句協会評論賞、現代俳句協会新人賞佳作。2018年から2020年までロンドンに滞在し、英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集に『メキシコ料理店』(角川書店)、『超新撰21』(共著・邑書林)。YuzoOno.blog

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter 

〔今週号の表紙〕第664号 冬芽 西原天気

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第664号 冬芽

西原天気

ていねいによく手入れされた薔薇もいいのですが、放っておかれた薔薇も、なかなか良いなあ、と思いながら散歩しています。次の開花に向けて小さな芽を備えているとなれば、なおさら。

ちなみに、この写真はアナログカメラとポジフィルムで撮影。フィルムの癖が色合いに出るのが愉しい。へたくそがいいかげんにシャッターを押しても、フィルムやレンズがそれら自体の個性を出してくれる。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細はこちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜  ビートルズ「アイ・ウィル」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
ビートルズ「アイ・ウィル」


天気●前回に続いて、ポール牧、もといポール・マッカートニーの「この一曲」です。ビートルズで「アイ・ウィル」をどうぞ。



天気●小唄というか鼻歌というか、ちっちゃなかわいらしい歌をさらっと歌うの、巧いんですよね、この人。

憲武●なにしろ、あの「イエスタデイ」を夢の中で作っちゃった人ですからね。この曲もササッと書いたような感じありますね。

天気●うん、名曲。

憲武●冒頭の「フノ~(who knows)」から、グッと引き込まれてしまいますよね。メロディがメロディを呼んでいくような感じ。

天気●いわゆる白ジャケ、2枚組の「ザ・ビートルズ」(1968年)のB面8曲目です。この曲ね、当時、45回転でかけたりもしたんです。33.3回転ではゆったりとしたラヴソング。回転数が上がると、調子が良くって、キュートさが増します。ポールの声も高くなるしね。

憲武●キュートという点では、ポールの口ベースも、ジョンの叩く木片もチャカポコしててキュート。

天気●45回転にしたとき不自然になるかならないかくらいのテンポとピッチなんです、この原曲、というか、もともとの演奏は。

憲武●SPでは72回転なんてのもありましたっけが。

天気●親の世代でしょ? 私の世代にはなかったような気が。

憲武●えーと、なにかのアニメか特撮もので、あったような記憶があるんです。その時72回転なんかあるんだ! と思ったのは覚えています。なんだっけかな? 「妖術武芸帳」かな? 忘れました!

天気●へえ、そうなんですね。プレーヤーが対応してなかった記憶があるんですが、それはともかく、レコードがCDになった時点で、こういう回転数を変えてみる遊びは、特殊な機材がないと出来なくなりました。

憲武●スクラッチもレコードだからこそ出来たんですよね。

天気●レコードは不便な点もあったけど、たのしいところもたくさんありましたね。


(最終回まで、あと874夜)
(次回は中嶋憲武が推す1曲)

【週俳12月の俳句を読む】淡い殻のようなもの 小野裕三

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 【週俳12月の俳句を読む】
淡い殻のようなもの

小野裕三



実験のための明かりや冬景色 井口可奈

実験とは、人々の生活の何かを物理的に改善するために行われる。それは「近代」を象徴する概念かも知れない。人類を取り巻く物理的環境は、世紀ごと、世代ごと、年ごと、夜ごとに絶えず人類自身の手によって改善されるべきだ、という暗黙の考え方がそこにはあるようだ。そうならば、実験の明かりも美徳と見える。しかし、人類がもたらした地球の気候変動を目にする時、物理的進歩を追求することは本当に正しいのかとも思う。冬景色の大きな静けさが、そんな人類史的な問いにもつながる美しい景色の対比を生み出す。


冬浜にゆるやかに散り一家かな 松本てふこ

それが夏の浜なら、話はまったく異なる。一家は泳いだり、裸で砂に寝そべったり、ビーチボールで遊んだり、砂の城を作ったり、といろんなことができただろう。だが寒い冬の浜で一家ができることはおそらく、ただゆるやかに歩き回ること。その意味でこの句は、決して景色の躍動や広がりを作り出しはしない。しかし一方でこの句は、多くの人々の共通の記憶の中にある夏の浜の躍動感と、作者の目の前にあるだろう実在の冬の浜を的確に対照するし、「ゆるやか」という表現がそのバランスを支えている。


壁一枚へだてクリスマスは眠る 浅沼璞

壁一枚で隔てられたクリスマス。微かな音も聞こえるだろうし、隣の部屋の動きや気配も感じ取れるのだろう。誰かがその部屋で寝ているのだろうか。そうかも知れないし、あるいは人はいないのかも知れない。そこにはクリスマスツリーやいくつかの飾り物があるだけだとしよう。とすると、そこに眠るのはクリスマスという時間そのものだ。多くの人に幸せをもたらす時間そのものが、その到来を待たれつつ今まさに眠っているのだ。


棒鱈はにせものらしいそうらしい 樋口由紀子

この句は、下五が面白い。ある意味で言わずもがなというか、無意味な繰り返しでしかない。とは言え、それはまず句の中に心地よい反復のリズムを作る。上五中七と下五の発話者が同一人物なのかはこの句からは定かではない。別人物が同意しているのかも知れないし、あるいは同一人物の中で畳み掛けるように思考が響いているのかも知れない。そのようなモノローグや思考の反響の仕方が、個人個人が持つ淡い殻のようなものを思わせ、それゆえになんとも現代の時代性を感じさせる。


果汁一パーセントのジュース冬の星 相子智恵

果汁100%ジュースならね、意味があると思いますよ。あるいは少し譲って、50%や20%でもいいでしょう。でも、1%ってどうですか? いやあ、製造者としてもナチュラルなものを作るのにまったく興味がなかったわけじゃないんですよ、って、まるでそんな言い訳みたい。となると哲学議論のようで、1%の意図はまったく意図がないのよりもマシなのか、などなどと考えたり。でも、冬の星が輝く宇宙全体の大きさから考えたら、そもそも地球や人類なんて1%どころか、はるか小数点以下の存在比率なわけで、——と、このオントロジー論議はしばらく続きそうです。


推敲の果てに海鼠の句が残る 福田若之

この句は、人々の生活や自然について詳しくは描写していない。ただ、作者が海鼠について何か俳句を書いたのだろうという事実だけが示される。という状況を俳句にした、いわば「メタ俳句」で、そこでは原句である海鼠俳句についての手かがりは一切提示されない。となると、ただ海鼠の存在感がここでは純化されるだけだ。ちなみに、海鼠は英語で「sea cucumber」、つまり「海のキュウリ」と言うらしい。身も蓋もない比喩だが、その感覚、なぜかこの句の感覚に似ている。


時雨をり内勤の日のカーディガン
 岡田由季

ここで描かれた状況は、いかにも劇的なものではない。冬の雨。出かけることもなく事務作業をするオフィス。軽く羽織ったカーディガン。コートやジャンパーでもなく、カーディガン。派手に見た目を競うわけでもなく、防寒性に突出しているわけでもなく、どちらかというと日常性に溶け込んだ実用性がカーディガンという衣服の持ち味。でも、そんな日常性に溶け込んだ実用性にも詩はある。あ、それってまさに俳句のことか。


 井口可奈 好きだと決めたから愛します 10句 ≫読む
松本てふこ 家族旅行 10句 ≫読む
浅沼 璞 冬季十韻 10句 ≫読む
樋口由紀子 もうすぐお正月 10句 ≫読む
相子智恵 少年 10句 ≫読む
福田若之 推敲 10句 ≫読む
岡田由季 内勤 10句 ≫読む


空へゆく階段 №22 解題 対中いずみ

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空へゆく階段 №22 解題

対中いずみ


「ゆう」2号には中原道夫氏が一文を寄せている。〈君もてる早蕨籠に降りそめし〉〈秋袷すでに蔓ものなども引き〉などを挙げた上で「何と脆弱なうつくしさよ。言葉の楼閣に昇りゆく恍惚とした気分が早くから私を捉えて離さなかった。ずっと歳下であるにも拘わらずこの老成振り、成熟感に嫉妬を覚えたものだ。波多野爽波をして『茫洋として人を誘うかと思えば、極めて繊細なところもあって読む物を魅了する』(『花間一壺』)と言わしめた田中裕明の作品の特長は、脆く毀れそうなまでのリリシズムである。虚子――爽波――裕明という師系を思うとき、更に更に磨き澄まされたものを感じる。それは裾窄まりという意ではなく、より純化の方向へ歩んでいる、先師の爽波より俗なものを取り去っているといういい方が相応しい」と裕明句の特長を述べている。

この号の裕明句は以下の通り。太字は『夜の客人』所収。

 冬ざれ

マクベスの魔女は三人龍の玉

思はざる道に出でけり年の暮

屏風一双勅使むかへし間にあれば

冬座敷海山とほくへだてけり

枯蔓の次の先年おもはずよ

木枯やいつも前かがみのサルトル

冬木立まつすぐにゆく力あれ

日当れば巖のごとき霜の宿

そのひとの亡けれど冬のあたたかに

冬ざれや人を悼みて文字を書く


田中裕明 ゆうの言葉

【空へゆく階段】№22 ゆうの言葉 田中裕明

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【空へゆく階段】№22
ゆうの言葉

田中裕明
「ゆう」2000年2月号・掲載

年末、雑事にまぎれてこの「ゆうの言葉」を書けないでいるうちに、新年をむかえました。元日の朝、これを書いています。本年もよろしくお願いします。

二〇〇〇年の俳句、と言っても何も新しいところはない、と言えばその通りなのですが、毎年毎年あらたな気持で俳句にむかいあいたいと思います。自然を大切に、自然の中の自分を大切に、俳句を詠みたいものです。


水鳥のしづかに月を震はせて  麻

繊細な作品です。月の光の中で水鳥が何羽か身を寄せあっています。水鳥の存在が月光を震わせているかのように感じられたのでしょう。

逆に月光が水鳥を震わせているようなところもあって、不思議な雰囲気をもった作品となっています。良質のポエジーがあります。


日沈む方へ歩きて日短か  尚毅

季語をいかに新しく用いるか、はたらかせるかというところに、作者は注力しています。それもできるだけ肩に力を入れずにさりげなく。二物衝撃とは違う俳句の作りようも確かにあります。

理屈や意味のない世界が、詩の本来の世界です。


繪も壺もかたみの露の館かな  満喜子

大きな館があって、そこに先人の遺した繪と壺があるという事実を述べたものですが、「かたみの露の館かな」と表現することでふくらみが増しました。


かりがねや手紙を書いて読みかへす  刀根夫

かりがねという季語も、俳句に詠みつくされています。「雁やのこるものみな美しき」「雁の束の間に蕎麦刈られけり」という石田波郷の作品は私の初学のころからの愛唱句です。しかしながら、掲出句もそれらの名句に負けない作者の思いが感じられます。

こういう季語に挑戦してみることも、大切なことだと思いました。


末枯れてなほ花が咲く蝶が来る  定生

こういう句の面白さを説明するのはむずかしい。よく物を見て作られた作品だと言うことはできます。ただ写生がよくできているから面白いのかというと、そうばかりでないようにも思われます。少し古風なかんじがあって面白さが出ているようなところもあります。


しやつくりはさびし綿虫沸く夕べ  啓子

創刊号の「ゆうの言葉」に取り上げた啓子さんの作品は「年棚の下のひとりは淋しかり」でした。この号でもまた淋しい俳句を取り上げ、これが啓子作品への最後の選後評になることが残念でなりません。

もともと明るい、気の晴れるような作品も見せてくれる作者であっただけに、病いがそれを許さなかったのかと悲しい思いです。

掲出句、しずかに己れを見つめているようすが心にしみます。


一扇と共に古りけり枇杷の花  敦子

若いころから心に掛けていた扇も、いまは古扇と呼ぶべきすがたで、それと同じく我もまたという心境でしょうか。枇杷の花が数日のうちに古びたように思われるという読み方あって、そちらも面白く思いました。いずれにしても季語との配合に、句の内容とは別に新鮮なものを感じます。


夕べ訪ひ母茫々と着ぶくれて  青鳥花

言葉は多少舌足らずなところがありますが、作者の気持ちは十分にこめられています。その逆よりすっとよいことです。


ひんやりと赤子のまぶた返り花  文子

ちぢれたような返り花の花びらと、眠る赤ん坊の小さなまぶたに細い糸が通っているようです。

たいへんに感覚的だけれども、読者を納得させるだけの季語のはたらきがあります。こういう作品に触れると、あらためて季語の本意ということを考え直してみたいという誘惑にかられます。


木の国の木のみな濡るる神の留守  雅子

どうも私たちの俳句は小さい景色の中に詩を発見することが多いようです。それはそれで良いところがありますが、ときには大景を詠んでみたいもの。作品も紀州に旅して、そういう思いにかられたのでしょうか。

「木の国の木のみな濡るる」という作者らしからぬ大づかみな描写が、句柄を大きくしました。


【句集を読む】夢の本棚 中尾寿美子『舞童台』を読む 中田美子

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【句集を読む】
夢の本棚
中尾寿美子『舞童台』を読む

中田美子


七月や深井戸に水起ちあがり   『舞童台』

さらさらと水遠ざかる夏蒲団

眼帯の中は海なり桜桃忌

鰯雲しづかに塔の動く日よ



俳人中尾寿美子は一九一四年生まれ。一九八九年に亡くなるまでに、『天沼』『狩立』『草の花』『舞童台』『老虎灘』『新座』という六冊の句集を残した。掲出の四句はいずれも第四句集『舞童台』のもので、どれも水やら布団やら眼帯やら、目の前のありふれたものたちがある瞬間、とんでもなく遠いところへ飛躍していくような、不思議な違和感に満ちた作品たちである。

句集『舞童台』は一九八一年刊。秋元不死男「氷海」、鷹羽狩行「狩」同人であった彼女が永田耕衣「琴座」へ転じた直後の句集である。秋元不死男門から永田耕衣門へ、というのは俳人の経歴としては異例の振幅であるが、そのことがそのまま作品にも反映されていて、俳句そのもののダイナミックな世界観が読者を圧倒する。それまでの作品がいわば「序・破・急」の「序」であるとすれば、この句集はまさに「破」、そして第五句集『老虎灘』で中尾寿美子は「急」へ、と進んでゆく。私が知る限り、こんなことはめったに起こらない。稀有な俳人なのだ。

そんな俳人中尾寿美子のたぐいまれな感性は、処女句集『天沼』で、すでに忘れがたい印象を読者に与えている。


ガラス植ゑし塀の月光猫あゆむ   『天沼』

金魚玉仮縫の針全身に

猫が吐くまみどりの草遠枯野


私がこの三句を目にした時、中尾寿美子はすでに亡くなっていたが、その新鮮で独特な感覚に強い印象を受けたことをはっきりと覚えている。変り映えのしない毎日、おだやかであるはずの日常にありながら、いつも見てはいけないものを見てしまう作家のまなざし。美しさややさしさのただなかにある時ですら、全身で感じずにはいられない痛み、というようなものが十七文字の中にあふれ出す。

その後の作品を知った今、はっきりと思うのは、最初に書いたことと矛盾するようだが、一見大きく変容したように見える中尾寿美子の世界は、実は最初から全く変わってはいない、ということだ。俳人としての修練や磨き上げられた感性は、彼女の作品に自由とより大きな世界を支える力を与えた。そうして彼女は彼女のまま、より高く、より大きく飛翔したというだけなのだった。

興味深く思ったのは、師秋元不死男が、『天沼』の序文で、彼女の作品の変化についてすでに述べていることだ。秋元は、「彼女のこれからの、まだ長い句作生活を思うと、その変化に対して私は大いに期待と興味をかける」と書き、さらに「作家は変貌しなくてはならない。いや、変貌すべきものだ。」と続けている。師として、彼女の資質が、どこか遠いところ、別のなにものかを志向していることを、うっすらと見通していたのではないだろうか。

余談になるが、同じ序文の中には秋元の、女流俳人についての実に痛快な一説がある。いわく「女流俳人―わけても主婦―といえば、今も家庭的な俳句をつくるのが特質のように云われている」が、これは「私に云わせれば、家庭的女性を好む男性が俳壇に多いからだ。」そして「これは詩の問題とは、直接、何のかかわりはない」。

その後、第ニ句集『狩立』の序文に、秋元は中尾について「このひとの作には、どこか資質的なうまさをおもわせるものがある」と書いている。皮肉ないい方になるが、私から見れば、秋元は、それだけではなかったにしても、結局、「うまい」作品を書く作家を好む俳人であった。中尾寿美子が秋元の死後、「破」を求めて、永田耕衣を師に選んだ理由も、そのあたりにあったのではないだろうか。


走るのが好きで走れば芒かな    『舞童台』

はればれと水のむ吾れは芹の類

こころねの深きところに龍の玉



中尾寿美子はまた、自身が変容する作家だ。走っているうちに芒になり、水をのんで芹になる。心というものがどこにあるのかは知らないが、胸だか頭だかのどこかには龍の玉。書きようによっては猟奇的になるような鋭い感覚も、彼女の作品の中ではいつも明るい。『舞童台』を上梓するまでには大きな病気もしたということだが、そういうこととはかかわりなく、健康で力強いところがある。この強さはやがて、第五句集『老虎灘』で、さらに彼女を豊かで、大きな世界に導くことになる。


奥の間に坐れば桜咲きにけり   『舞童台』

次の間にときどき滝をかけておく 『老虎灘』


『舞童台』の後、中尾家の奥の間は目を閉じて夢みる場所から、どうやら天地創造の実験室になったかのようだ。でもあれこれ騒ぎ立ててはいけない。当の本人は、あれは滝の絵ですよ、あなた何言っているの、なんて涼しい顔をするに違いないのだから。


余生とは菜の花に手がとどくなり 『舞童台』


俳人は、すぐ目の前にあって、でも決して手の届かない菜の花を、いつも追い求めている。ささやかな日常の風景を切り取るところから始まって前に進み、五感を研ぎ澄まし、夢みることを怠らなかった中尾寿美子。いつも自分自身であり続け、なお変容し続けた俳人の余生には、輝かしいまでに健康的な菜の花が咲き誇っている。 


『舞童台』 五十句

山彦の相逢ひにけり栗の花

血を流す幹のありけり松の花

七月や深井戸に水起ちあがり

さらさらと水遠ざかる夏蒲団

樫鳥やたなごころなど晴れわたり

夜は海が近くまでくる仏の座

冬の山一の鳥居をくぐりけり


蝶々のあしあと残る山の空

暮の春ひとさし指に指されける

おぼろ夜の柱の茂ることあらむ

春の杉唄の途中を忘れけり

押入に泣きごゑしまふ花祭

蓑虫の逆立ちあゆむ都かな

びしょ濡れのたましひ一つ草市に

海夕焼そよぐ三人四人かな

眼帯の中は海なり桜桃忌

忽然と炎昼になる鏡かな

階段の途中にて寒明けにけり

夕顔は月よりすこし明るけれ

雨あしのみるみる真葛原となり

鰯雲しづかに塔の動く日よ

走るのが好きで走れば芒かな

風呂敷の中は晴れたり実山椒

たましひに偏りにけり青蜜柑

眼の中も暮れてしまへば葱畑

寒玉子朝のはじめを泪ぐみ

余生とは菜の花に手がとどくなり

いちまいの若葉で見えぬ父のこと

蟻として転倒したり夢の中

炎昼のまんなかに猫笑ひおり

七十にならば見ゆべし牡丹の根

白髪にいますれすれの晩夏かな

あさがほの種になりたる媼かな

一っ家は秋の蛾を入れ遊ぶなり

かりがねや眼の玉ふたつ傷もなし

老人もときには走る石蕗の花

はればれと水のむ吾れは芹の類

葉桜や家出をおもひ家にゐる

愛はいま冬の菫にさしかかり

こころねの深きところに龍の玉

奥の間に坐れば桜咲きにけり

骨壺のときどき動く松の芯

桃ひとつ吾が前にある漫(すずろ)かな

蟬鳴くや吾が体内に海は在り

老人のそよそよとゐる鳥居かな

一人なら走つて通る紫蘇畑

末黒野をたぐりよすれば男かな

魂にぶつかりし虻忘れめや

うつぶせに倒れて春を愉しまむ

目は眉のあたりに在りぬ早苗月





週刊俳句 第664号 2020年1月12日

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664
2020112



第四回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ


【句集を読む】
夢の本棚
中尾寿美子舞童台』を読む……中田美子 ≫読む

【空へゆく階段】
 №22 ゆうの言葉……田中裕明 ≫読む
 解題……対中いずみ ≫読む

 【週俳12月の俳句を読む】
小野裕三 淡い殻のようなもの ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
ビートルズ「アイ・ウィル」 ≫読む

〔今週号の表紙〕冬芽……西原天気 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……西原天気 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 ちあきなおみ「雨に濡れた慕情」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
ちあきなおみ「雨に濡れた慕情」


憲武●という訳で今週から、ちあきなおみの一番おススメという企画です。ぼくはこの曲ですね。「雨に濡れた慕情」。


憲武●この曲、ちあきなおみのデビュー曲なんですね。1969年です。1969年というと、欧米ではロックフェスの「ウッドストック」があり、ビートルズは「アビイ・ロード」でラストを締めくくり、入れ替わるようにレッド・ツェッペリン、キング・クリムゾン、グランド・ファンク・レイルロード、オールマン・ブラザーズ・バンドなどが次々とデビュー。わが国では、由紀さおり「夜明けのスキャット」、いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」内山田洋とクールファイブ「長崎は今日も雨だった」などがヒット、アンドレ・カンドレ(のちの井上陽水)が「カンドレ・マンドレ」でひっそりとデビューと、実に混沌とした状況下でのデビューですね。

天気●そんななか、ボジョー、なわけですね。

憲武●ちあきなおみの情感を込めた歌い方とジャズアレンジがいいんですよね。ピアノとギターの掛け合いが特徴的です。一部ではジャズ歌謡と呼ばれてるらしいです。

天気●ジャズ? ピアノが歌の合間にフレーズを挟んでくるからですかねえ。ベースはこの頃歌謡曲に多かったエイトビートだし、どこをとってもジャズじゃないような。

憲武●その頃はジャズという言葉の応用範囲は広かったようです。

天気●雰囲気ということですね。歌謡曲語彙。数あるブルース、淡谷のり子をはじめ曲名にブルースの入った曲にブルースは1曲もないのと同じ。これは日本的換骨奪胎。悪いことじゃないです。

憲武●発売日が6月10日で、梅雨入りを意識してたんでしょうかね。雨降りの頃、よく流れてた印象が強いんです。当時、ぼくは小学3、4年でしたけど、学校の帰りかなんかに、道にトラックが止まっていて、運転席のドアが開いてるんです。そのラジオかテープかで、この曲が聞こえてきて、ちょうどサビの部分の「すーきでわか~れた~」のところだったんですが、そのちあきなおみの高音と、エンジンのアイドリング音と濡れたアスファルトの上の油膜の虹色が印象的に記憶に残っていて、今でも好きな曲なんですね。

天気●設定が揃いましたね。なんか凝った映画っぽい。

憲武●ぼくは、ちあきなおみというと、「儚い」というイメージがあって、とても個性的な歌い手だと思ってます。もっと歌っていてほしい感じです。


(最終回まで、あと873夜)
(次回は西原天気が推すちあきなおみの1曲)

10句作品 山本真也 マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー

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山本真也 マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー

猪鍋をつつくポールとオノヨーコ
 

木守柿ジョンが残らず取ってしまう
 

冬の鹿ギターはすすり泣いていて
 

十二月八日のドアノブを回す
 

くまあなにこもるP.S.アイ・ラヴ・ユー
 

初富士を駆け下りて来るリンゴかな
 

ブライアン・エプスタインの事務始
 

鯛焼をダコタハウスに持ち帰り
 

鮟鱇を獲るぞイエローサブマリン
 

番鴛鴦曲がりくねった川をゆく

〔今週号の表紙〕第665号 氷柱 吉平たもつ

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〔今週号の表紙〕第665号 氷柱

吉平たもつ


あしがくぼの氷柱は、埼玉県秩父郡横瀬町芦ヶ久保の兵ノ沢(ひょうのさわ)地区に毎年1月上旬〜2月下旬に横瀬町観光産業振興協会氷柱部会の主催、町民ボランティアにより製氷・運営されている。川から汲み上げた水を、山林の斜面にホースやスプリンクラーで散水して氷柱を作る。氷柱が直接触れることができる近い距離にあり、実際に氷柱に触れることができるのが特徴である。(出典:Wikipedia

写真は、数年前に撮影したものだが、今年は気温の高い日が続いており、凍った氷柱が溶けてしまい現在は氷柱が全くない状況になっているようだ。




週俳ではトップ写真を募集しています。詳細はこちら

2020新年詠 訂正とお詫び

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【訂正とお詫び】

第663号(1月4日)掲載の2020年週刊俳句新年詠において、期日内にご投句いただいたにもかかわらず、いなだ豆乃助さんの作品が抜けておりました。訂正してお詫び申し上げます。

2020年週刊俳句新年詠

【週俳12月の俳句を読む】その結果として 鈴木茂雄

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【週俳12月の俳句を読む】
その結果として

鈴木茂雄



読者の観点から言うと、新聞俳壇の特選句に対する選評は極めて短すぎる。せめて、ツイッター(140字)に収まる程度のコメントが欲しい。そう思うのは、選を得た当の作者だけではないだろう。とはいえ、作者について情報量の少ない作品の鑑賞文に原稿用紙1枚(400文字)を費やすのは、場合によっては長い(諄い)と感じるかも知れない。大岡信著『折々のうた』所収の詩歌鑑賞の各短章は、引用する作品を含めておよそ200文字である。当初、それは大岡信が新聞の文芸欄で割り当てられた紙面だったが、考え方によっては、この限られたスペースは俳句や短歌を語る場所として、意外と理想的な空間だったのかも知れない。これは「長短随意に」という週刊俳句の本欄の原稿を書くたびに思うことである。


セーターの模様にはあらわれない情  井口加奈

この「セーター」の色はおそらく赤に違いない。「あらわれない」と表現することによって、作者はありありとその心情を吐露して憚らない。中句から下句に仕掛けた句跨りという俳句的技法によって、「情」という言葉から巧みに屈折感を引き出すのに成功している。真っ赤なセーターを想像することによって、薔薇の模様が浮き出るように作品はさらに鮮明になる。繰り返して読むと、「あらわ(平常では外から見えないものや内部にひそんでいるものが表面に現れているさま。/むき出しなさま。)」という言葉まで内蔵されているのがわかる。


子供にも旅荷ありけり石蕗の花  松本てふこ

思わず、そうそう、と頷いてしまった。こういう作品に余計な詮索は要らない。わが子の幼いころの様子を思い出した。孫娘がアンパンマンのリュックを背負っている姿も。同じ「子供」でも「にも」という言葉からは幼い子という限定が見て取れ、それによって「旅荷」も自ずから幼い子のそれを彷彿とさせてくれる。子供にだってこれが非日常であるということは、充分過ぎるほど感じ取っているはずだ。季語の効用、つまり「石蕗の花」が果たす役割も忘れてはならないだろう。‬


スリッパのあまたぬがれて神の留守  浅沼璞

季語の「神の留守」は陰暦十月の異名、日本の神社に鎮座する神々が出雲大社へ旅に出るため、全国にある神社の神様が不在になる月。物語は、いきなりスリッパが散乱している光景から始まる。脱ぎ散らかされた「スリッパ」は、なぜか色とりどりの蛍光色を発していて、この光景自体がすでに何かの不在を暗示している。そこに「神の留守」という季語が置かれると、その不在の対象は、集会場に集まっていた近隣住民ではなくて、まるで神々のそれだと思わせるリアリティ感が湧いてくる。‬


重箱の底は開かなくなっている  樋口由紀子

詩は理屈を嫌うので解説めいたことは言いたくないが、この重箱の句は、最初の「重箱の底は」までは普通の事柄を述べていて、「開かなくなっている」というこのフレーズ自体もまた普通の事柄なのに、ふたつの事柄をひとつに繋ぐと、まるであり得ないことがいかにもあり得る事柄のように、重箱の底の開閉について述べている。開かなくなっている、と。理屈で語ると、重箱の底が蓋のように開くも開かないもないのだが、そう言い返せないものを持っているのは、そこに作者が仕掛けた言葉のレトリックが働いている証拠に他ならない。‬


壁面緑化宙吊りの枯草も  相子智恵

一読、二酸化酸素対策とか地球温暖化対策という問題が浮上するが、一番身近な問題としてはヒートアイランド対策だろう。一概に「壁面緑化」といっても集客を目的とした商業施設などでは、インテリアのフェイクグリーンを使用している場合もあるが、この作品の緑は生の植物だろう。「枯草」がよくそのことを物語っている。その中に枯れた草をを配することによって、描かれた周囲の緑は事実よりさらに色鮮やかなものとなる。「も」の一語に示した写生力が「壁面緑化」という抽象的な言葉を「宙吊りの枯草」と同化させる。


推敲の果てに海鼠の句が残る  福田若之

実作者だったら理解できるのではないか。推敲の果てに残るものは海鼠どころではない。推敲に推敲を重ねた結果、くたくたに煮立った湯豆腐か蒟蒻のような、初句とは似ても似つかない、すが入った作品に仕上がることはよくあることだ。むしろその方が多いのではないか。海鼠は「体は円筒形で左右相称。体の先端は多くの触手を伴った口が開き、後端は肛門となる。」と、海鼠のことを詳しく調べようとしたが、よくよく読み返すと、この作品はあれこれ推敲し、その結果として「海鼠の句」が出来たのだと言っているようにも聞こえる。‬


冬の蜂バブル期の服死蔵せり  岡田由季

冬になって気温が低くなると、蜂の動きはだんだん鈍くなる。村上鬼城の句「冬蜂の死にどころなく歩きけり」はその生態をよく描写している。だが、揚句の「冬の蜂」が鬼城のそれと異なるのは、そこに自身を投影しているところである。「バブル期」とは1980年代後半から1990年代初頭の日本の好況期のことをいうが、この冬の蜂を目にしたとき、ふと作者はその時代に購めた「服」のことを思ったのだろう。蜂の黒い胴体に黄色いまだら模様は、バブル期に流行ったファッションを彷彿とさせるものがあるが、それもいまでは箪笥の肥やしになっているようだ。


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【週俳12月の俳句を読む】観賞で俳句の種蒔 おもしろ珍観賞 河本かおり

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【週俳12月の俳句を読む】
観賞で俳句の種蒔 おもしろ珍観賞

河本かおり



俳句って面白いよ! 始めてみない? 句集読むだけでもいいよ。友人に俳句の良さを伝えようとするけど、俳句って難しいとか意味が解らないという返事ばかり。俳句歴五年の筆者もいまだによく解らないのだから未経験者はさもありなん。

そこで一読してよくわからなかった句について読み下していく様をありのままに書いていこうと思う。ありきたりな観賞になりそう句は秀作であっても省いた。無知と無教養で恥を晒すことになるかもしれないが、句会で数多の珍回答と失言を繰り返してきたのだから今さら失うものはないのだ! うん、たぶん…。


つめたさにチューブ引き絞って余る  井口可奈

正月太りでダイエットに余念がない筆者の脳裏に浮かんだのはゴムチューブを使ったダイエット方法。スカートのウエストが余るようになりたい!でもこれ、引き絞っているのはチューブだよね。これでいいのか?このトレーニング方法はチューブを伸ばすんだし。それに冷たさがどう響くのだ?この読みは違うみたい。

他の読みを思案する。冷たいチューブってあるのかな?そうだ!歯磨きのチューブ!朝の洗面所の冷えきった空気でかちかちになったチューブ。歯磨きは残り少なく力を入れて引き絞らねば。悴んだ手は思うに任せず思いのほか出てしまった歯磨き。わずかに残った歯磨きを根こそぎ絞り出して余ってしまった。あーあ、歯磨き買ってこなくちゃ。

里神楽手懐けられてしまう犬   同

「付かず離れず」とよく言うが、この句の場合はどうだろう?間違いなく近くはない。でも里神楽と犬がどう響くのだ?

里神楽でイメージするのは田舎とか鄙びたとか閉鎖的なコミュニティ。そこに犬。手懐けられてしまうというマイナスイメージ。しまうは過去形ではないからまだ手懐けられてはいない。犬に自己投影した葛藤と反抗心か?穏やかな生活に飼い慣らされるな!手懐けられてなるものか!


十二月八日朝餉に味海苔が  松本てふこ

下五の「が」をどう読もうか? 味海苔があって嬉しいのか? 味海苔がないと続くのか? 家族旅行に出発する朝の慌ただしい光景を「が」で終わることで生き生きと浮かびあがらせる。

冬浜にゆるやかに散り一家かな  同

各々が自分の行きたい場所へ行く。されど一家。家族なのだ。

レノン忌や貝殻砂に埋めなほし  同

ジョンレノンは青春の一ページ。貝殻を拾ってみたものの持って帰ってもゴミになるだけ。ひとしきり眺めて砂に埋めなおす。埋めなおす行為と埋葬のイメージがリンクして青春の墓標となるのだ。


神様がゐないみなとみらいライン  浅沼 璞

神と対義するものは科学。関東圏の地理に不慣れな筆者であるが、未来都市の景色が思い浮かぶ。

つぶらなる丘の小春の子供たち  同

つぶらなるの位置の是非。筆者は丘、小春、子供たち、全てにかかると読んで是。


数の子に似ているもののあたりまで  樋口由紀子

似ているもの? 人工の数の子なのだろうか。数の子が比喩なのだろうか。その答は後にある棒鱈の句で。

棒鱈はにせものらしいそうらしい  同

そうなのか?数の子に続き棒鱈も。おせちの材料は偽物ばかりではないか。

雑炊と雑煮のあいだ間違えて  同

どんなふうに間違ったんだ。気になる! 気になる!

重箱の底は開かなくなっている  同

開いたら落とすよね。おせちバラバラ事件発生!


太き咳して幼年は少年に  相子智恵

幼年期の終わりって何歳ぐらいかな? 高音のか弱いコンコンいう咳から太い低音のゴホゴホいう咳に変わる頃。

果汁一パーセントのジュース冬の星  同

果汁一パーセントって食品表示法ではジュースって呼んだらダメよ。100パーセントだけがジュース。話はそれたが体に良くはなさそう。綺麗な色の栄養のない甘い水。冴えた冬の星と響いてせつない。 


寂しみは鯛焼きの鰓その陰り  福田若之

鯛焼きをかくも詩情豊かに描けるとは。福田さんの目には特殊フィルターが装備されているのか。筆者もそのフィルターがほしい。

曰く座の文芸だとかなべこわし  同

俳人はとかく俳句談義が好き。宴会の席でも例外ではない。

なべこわし? 乱闘か? いくら意見が違っても鍋で殴ってはいかん。まて、落ち着け。

季語らしきものは他にないから「なべこわし」は季語かな?検索すると三冬の季語で鍋を壊して取り合うほど美味しい魚だそうだ。

「こわす」はブレイクスルー、座の文芸とよく響く。


綿虫の印刷すこしずれてゐる  岡田由季

初学のころから今も筆者を悩ませる「の」の使い方。軽い切れとして「の」を使う場合があるらしい。切れがあるとすると掲句は取り合わせの句ということになる。切れがないとすると綿虫の印刷なのだから綿虫の実物は存在しないことになる。ならば解りやすく切れ字の「や」を使えばよいのだが、そうとも限らないからややこしい。

切れ字やを使うとずれた印刷は何が書かれていてもよい。しかし、作者はずれた綿虫の文字に実物の綿虫を重ねたのではなかろうか。ふわふわと飛ぶだぶって見える綿虫の様をずれた印刷の文字の綿虫と呼応させる。切れて切れない「の」なのだ。



拙文を最後まで読んでいただきありがとうございます。

観賞は自由、読みは読者に委ねられています。初心者の読みは時にベテランに刺激を与え、ベテランの読みは初心者に俳句の妙味を教える。

俳句ってほんとにいいものですね。

ではまた、どこかの句会で会いましょう。


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【週俳12月の俳句を読む】しあわせの青い鳥 小久保佳世子

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【週俳12月の俳句を読む】
しあわせの青い鳥

小久保佳世子



かわせみが雪の景色の枝に待つ  福田若之

この句から原石鼎の《雪に来て見事な鳥の黙りをる》を思い出したのは、どちらも背景が雪で鳥が擬人化されているからでしょうか。石鼎句の鳥の名前は分かりませんが、かわせみだったかもしれません。石鼎句も掲句も鳥の静かな意志のようなものが感じられ、雪世界の凛とした空気が伝わってきます。

かわせみは夏の季語とされていますが、辺りが落葉した冬場のほうが出会いやすい気がします。雪後のかわせみを偶々見たことがあり、それは正に中村草田男の《はつきりと翡翠色にとびにけり》を再現した景色として印象に残っています。

ところで掲句の「待つ」ですが、餌を待っているともとれますが、或いはしあわせを求めて青い鳥を探す作者を待っているのかもしれません。遠いしあわせへの切実な希求を詠んだ同じ作者の《ヒヤシンスしあわせがどうしても要る》とセットで読むと枝で待つ青い鳥に作者はまだ出会っていない、そんな気がしてきます。

雪の景色は、いよいよ深い沈黙に包まれてゆくようです。


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【週俳12月の俳句を読む】季語のよろしさ 中村遥

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【週俳12月の俳句を読む】
季語のよろしさ

中村 遥



十二月八日朝餉に味海苔が    松本てふこ
 
味付け海苔と焼き海苔。関西は味付け海苔が一般的で庶民的な感じを持つ。私も子供の頃は味付け海苔で育ちそれを好んだが、今は焼き海苔の方が好きだ。年齢に因るものだろうか。

掲句、いつもと変わらぬ味付け海苔のある朝食。何でもない景の中のひとつのモノの切り取り。それが季語太平洋戦争開戦の日〈十二月八日〉と関わって、平凡な日常の中では気づかぬ平和を改めて感じさせてくれる一句である。

〈が〉が気になった。単に〈十二月八日〉と〈朝食の味海苔〉のふたつを衝撃させても十七音には整うのだが、作者は〈が〉にこだわっているように感じた。この一語〈が〉に作者の表現したい思いがあるのだろう。


子供にも旅荷ありけり石蕗の花   同
 
最近の家族旅行の際は子供もそれぞれが自身の荷物を持つのが常識なのだろうか。子供がその旅で必要なものを荷作りさせるのもひとつの教育なのだろう。まだしっかりと歩けない子が小さなリュックを背負っているのを見たことがある。何が入っているのかと尋ねれば紙おしめだと言われた事を思い出す。

さて、この句の季語は石蕗の花。石蕗の花は寒い時期に咲く花。茎をしっかりとまっすぐに立てて咲く花。密やかに黄を尽くして咲く花。人に例えるならば、控えめでありながら自身の意思を貫き通す人生後半の女性、そんなイメージを私は持つ。 子供に似つかわしい冬の季語と言えば、冬たんぽぽとか冬菫などが思い浮かぶが、子供と石蕗の花の取り合わせに少なからず驚きがあった。

花の季語を取り合わせるのは難しいと私の属する結社ではよく言われる。何の花と取り合わせても一句としては成り立つのではないか、絶対にこの花の季語でないといけないのか、他の花の季語でも成立するのではないかと問われれば、その絶対は揺らぐからだろう。

私の場合、一元句は別として、花の季語との取り合わせの句が出来上がるのは、季語と季語以外のフレーズが一度に授かる時のみだけかもしれない。先にフレーズが出来上がってあれこれと季語に悩んでしまったら完成は遠い。つまり季語が動いてしまうと思うからだ。


スリッパのあまたぬがれて神の留守 浅沼 璞

季語の中にはその季語を使うことで一句の六割方が出来上がるという季語がある。神の留守という季語もそういう季語であると思う。佳句となすにはあとの四割に依るという事だ。

脱ぎ捨てられているスリッパの景が見えて来る。何故か乱雑さも覗われる。スリッパを履いて廊下から畳の間に上がった大勢の人々の何かの集まり。そんな景を思う。乱雑なスリッパのリアルな描写と神の留守の取り合わせ、なにかおかしみさえ感られる。

そして、ちょうどその頃、出雲へ集結されているであろう八百万の神々も、もしかしたら同じように等と思ってしまうから不思議である。

因みに陰暦十月、神々は出雲に集まるけれど留守番をする神様もいるそうで、それは恵比寿神だそうだ。「えべっさん」と呼ばれて関西では大変馴染の深い商売繁盛の神様。一月には宵戎、本戎、残り福と三日間も続く「えべっさん」と親しまれている神事がある。


信楽の狸を撫でて年忘れ    岡田由季
 
信楽の狸といえば、昭和天皇が信楽を行幸された際、人口の少ない土地柄、陶製の狸に日の丸を持たせ沿道に並ばせて歓迎されたことに、天皇が感激されその狸を歌に詠んだことから有名になったとか。そして今、NHKの朝ドラ「スカーレット」でも信楽が舞台である。

 
陶製のこの狸は蕎麦屋とかの店先に立っているのをよく見かける。なんとも愛嬌のある福を呼ぶ縁起物だ。それを撫でて年忘れ、ほっこりとした和やかさが滲む一句である。



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【週俳12月の俳句を読む】雑読雑考3 瀬戸正洋

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【週俳12月の俳句を読む】
雑読雑考3

瀬戸正洋



句集「星糞」谷口智行(2019年12月20日、邑書林刊)の「あとがき」に、
私はある時期、那智勝浦町八幡神社の社務所で毎月一回開かれる「古事記を読む会」に参加した。
とある。本居宣長は、三十五年の歳月をかけて「古事記」を読んだ。その年、つまり、「古事記伝」脱稿の年に、浅間山が大噴火した。(「ふることのふみをらよめばいにしへのてぶりこととひききみるごとし」本居宣長)

句集「星糞」より二句、

長き夜の夢にふることぶみのこと  谷口智行

ふんだんに星糞浴びて秋津島  同

彼が、「熊野大学俳句部」に、入会したのは、西暦1993年である。彼は、二十七年間、「熊野」を読みつづけた。そして、現在も、読んでいる。「熊野」を読みつづけなくては、「熊野」を、詠むことはできないのだとおもう。

それにしても、「星糞」とは……。古代人のおおらかさを感じてしまうことばである。



「好きだと決めたから愛します」という。私は、こんな生き方が好きである。自分で、そう決めたから、そうする。つまり、百パーセントではないのである。まだ、すこし、迷っている。自分で自分を励まし一歩を踏みだそうとしている。人生とは、そういうものだと思う。「愛すると決めたから愛します」でないところにもひかれる。

セーターの模様にはあらわれない情  井口可奈

恋愛のはじめは、「情」が同じになることだ。あなたの苦しみがわかる。かなしみが理解できるということだ。確かに、セーターの模様に、「情」を感じることができるのならば、ホンモノに近づきはじめたということなのかも知れない。

つめたさにチューブ引き絞って余る  井口可奈

余ることは、たいせつなことだとおもう。余らないということは、誰かが、何かが、悪いのである。つめたさとは、水のつめたさなのか。こころのつめたさなのか。あなたのつめたさなのか。とにかく、チューブは、引き絞ってみなければならないのである。

里神楽手懐けられてしまう犬  井口可奈

手懐けようとするものはいない。手懐けられてしまっていると、勝手に思いこんでいるだけのことなのである。思いこむということは、その先を、左右することなのである。

神さまもひとも、神楽がすきなのである。

指をさす手前で逃げる冬の鳥  井口可奈

気配を感じただけで逃げてしまったのである。それほど、思いつめて悩むことはないのである。本当のことは、ことばでなくても十分につたわるということを、逆の方法で表現しているのかも知れない。

湯豆腐の豆腐揺らして遊びけり  井口可奈

遊びとは、こころを満たすためにする行為である。豆腐を揺らすことが遊びであるとおもった。それで、十分に、こころは満たされているのである。

実験のための明かりや冬景色  井口可奈

文部省唱歌のイメージよりも、空しさ、あるいは、さびしさを感じてしまう。実験というかたいことばのせいなのかも知れない。実験のためのとしたことで、ますます、空しさ、さびしさを感じてしまう。

目覚めないコールドスリープ鯨来る  井口可奈

目覚めることができなかったとしたら、眠ったままだとしたら、それはそれでいいのかも知れない。そのとき、目覚めることができなかったら、などと考える必要は何もないとおもう。

目覚めないのであるから、それだけのことなのである。そんなことより、何故、鯨は来るのかということにおもいを馳せることのほうがたいせつであるような気がする。

この人に見せる歯ならび十二月  井口可奈

知ってほしい。興味をもってほしいのである。十二月としたことで、せっぱつまっているような気もする。歯ならびを見せるか否か。そんなことでも、ひとは追いつめられるものなのである。

きみならばできる葉牡丹押し広げる  井口可奈

不本意な励ましである。葉牡丹にしてみれば、たまったものではない。放っておいてほしいとおもっている。ひとつのことに、こだわると、まわりが見えなくなってしまう。自重すべきことなのかも知れない。

冬霧やスワンボートに囲まれて  井口可奈

冬霧とは何であるのか。味方か敵か、善か悪か。とにかく、スワンボートで湖に漕ぎだす。いつのまにか、湖は、悩むひとたちであふれている。

大雪を妻もくもくと荷造りす  松本てふこ

離れたところから自分をながめている。何もいわず、荷造りに励んでいる。ただ、こころには、何らかの、わだかまりがあるのかも知れない。

十二月八日朝餉に味海苔が  松本てふこ

「十二月八日」とは、太宰治の短編小説の題名である。十二月八日は、太宰夫妻にとっては、ひとつのはじまりの日であった。

十二月八日は、太平洋戦争のはじまった日である。ジョン・レノンが射殺された日でもある。

朝餉に、味海苔を食べる。日常である。だが、災難は、ひと知れず、背後から、何気なく訪れるものなのである。油断してはいけない。身がまえて生きていかなくてはならないのである。

保安検査場よろよろと着ぶくれて  松本てふこ

検査が強化されるのは、しかたのないことだとおもう。これからも、ますます、複雑になっていくのだとおもう。

ただ、着ぶくれて、よろよろするのは老人の特権なのである。どんなところであっても、十分に、着ぶくれて、よろよろすべきなのである。

子供にも旅荷ありけり石蕗の花  松本てふこ

幸せな風景である。だが、孤独を感じたり、不安を覚えたりするのは、こんなときなのである。

自分が、耐えて生きてきたように、この子らも、石蕗の花のように生きていくことができるのだろうかなどとおもっている。

冬浜にゆるやかに散り一家かな  松本てふこ

ゆるやかに散りとは、いい表現だとおもう。自由なのである。束縛などなにもないのである。冬浜だからなのだとおもう。自然に美しくないものはひとつもない。美しいから、自然というのかも知れない。

レノン忌や貝殻砂に埋めなほし  松本てふこ

埋めなおすことに意義があるのである。十二月の砂なのである。当然、目のまえには、十二月の海がひろがっている。

海辺の街のアパートのラジオで、ジョン・レノンが射殺されたことを知った。ラジオで、某シンガーソングライターは、「正しく生きようとすると、殺されてしまうのかも知れない」などといっていた。四十年以上もまえのことである。

貝殻を、砂に、埋めなおすことができるということは、幸せなことなのかも知れない。

幼稚園バス冬紅葉横切りぬ  松本てふこ

冬紅葉のなかを幼稚園の送迎バスが走っている。若葉を横切るのではなく、冬紅葉のなかを横切っていくことに、何かを感じたのかも知れない。

しばらく行くと、幼稚園の扉はひらき、園長先生は、園児たちを迎える。

避寒地のガードレールやよく汚れ  松本てふこ

昔ならば、沼津あたりの別荘ということになるのかも知れない。御用邸もある。そういえば、沼津の御用邸で句会をしたこともあった。半紙に墨で、「**俳句会」会場と書かれて貼ってあった。

現代ならば、沖縄、台湾、東南アジア、グアム、ハワイとなるのだろう。避寒地など行ったことのない私にとって、ガードレールがよく汚れている理由はわからない。

旅に来てシャンプー安しシクラメン  松本てふこ

年金だけで生きていくつもりである。山村くらしだと、それが可能なのである。旅に出ることなどあきらめている。シクラメンの鉢を買うことなどあきらめている。すこしでも安いシャンプーを買わなければならないことは知っている。

冬帽の夫が佇む渚かな  松本てふこ

海を見ているのである。海を見ている夫の背を見ているのである。何故、冬帽をかぶっているのかとおもう。うしろすがたは、そのひとの真実のすがたを見せてくれるのかも知れない。

スリッパのあまたぬがれて神の留守  浅沼 璞

神さまは、スリッパを履いていなさるのだ。神さまは、誰にたいしても公平なのである。

スリッパとは、足をすべらすように入れて履くものである。ぬいたままのスリッパをながめながら、明日のことを考えている。

神様がゐないみなとみらいライン  浅沼 璞

みなとみらいラインは、ホームへむかうエスカレーターが長い。深く沈んでいくような気がする。いくら、振りかえってみても、確かに、神さまは、いらっしゃらない。みなとみらいラインは、馬車道、日本大通り、元町・中華街へとつづく。

大根ひき虫歯できしりきしりとす  浅沼 璞

歯の強くこすれあう音である。当然、歯は痛いのである。大根を引くまえに、やらなければならないことは、いくらでもあるのだ。

小春日のほこりとなりぬ蓄音機  浅沼 璞

蓄音機は、ほこりとなった。小春日ならば、なおさらのことなのである。針を落とすと聴こえる雑音。すてたものではないとおもう。

つぶらなる丘の小春の子供たち  浅沼 璞

子どもたちがかわいいのは、あたりまえのことである。おだやかであたたかい日の、丘のうえの、子どもたちがかわいいのは、あたりまえのことである。つぶらなるとは、それらを象徴していることばなのである。

鼻先をみんな聖樹へふり返る  浅沼 璞

誰もが聖樹を見ている。ふり返るひともいる。誰もが、聖樹を見つづけていたら、それは、それで怖い光景だとおもう。ふりかえるひとが、ひとりぐらいいることを知ると、安堵感をおぼえたりもする。

つけ髭のぶらさがりをる聖夜かな  浅沼 璞

つけ髭だとわかることは、安心なことなのである。ぶらさがっているとわかることは、安心なことなのである。聖夜であれば、なおさらなことなのである。

壁一枚へだてクリスマスは眠る  浅沼 璞

一枚の壁はたいせつなものなのである。なぜならば眠ることができるからである。誰もが、ふと、われにかえるときがある。だから、一枚の壁はたいせつなものなのである。

駅ホーム端へ端へとゆくコート  浅沼 璞

最前列の車両に乗りたいのかも知れない。最後尾の車両に乗りたいのかも知れない。中途半端な車両はごめんこうむりたいのである。コートを着ていればなおさらのことなのである。

すかすかのジャンパーなびかする軍港  浅沼 璞

軍港では、とにかく、何でも、なびかせなければならないのである。「すかすかのジャンパー」を着るとは。何か、批判しているような、見下しているような気がしないわけでもない。

ちょっとした隙に溢れるお屠蘇かな  樋口由紀子

隙があるということは、たいせつなことなのである。ちょっとした隙をみせることは、生きるための知恵なのである。杯から溢れたのは、ただの酒ではない。お屠蘇なのである。不老長寿の効があるといわれている、お正月の祝い酒が、ちょっとした隙を見つけたのである。杯から溢れたのである。こころが溢れたのである。めでたいことだとおもう。

数の子に似ているもののあたりまで  樋口由紀子

似ているものは偉大である。似せようとする精神がすばらしいとおもう。だから、引きかえすのである。やさしさは、たいせつなことなのである。せめて、年のはじめくらいは、やさしくあってほしいとおもう。

黒豆の覚悟を決めた艶っぽさ  樋口由紀子

覚悟を決めたからこその艶っぽさなのである。世のなか、覚悟を決めていないひとであふれている。だから、たのしいのである。だが、ときどき、覚悟を決めることなく、ふわふわと生きていて、いいのかとおもったりもする。

明日なら好きになれそう紅白膾  樋口由紀子

からだによさそうだから遠慮しておこうとは、見あげたものである。にんじんと大根に塩と酢と砂糖と醤油。無敵である。

だが、明日になれば、そのときも「明日なら好きになれそう」などといっているような気もする。

栗きんとんバツ一だとかバツ二とか  樋口由紀子

栗きんとんを食べている。男だろうが女だろうが、おとなだろうが子どもだろうが、関係ないのである。当然、「バツ」云々などということは、何の問題もない。遠慮する必要など何もないのである。今年一年が決まってしまうのだという、こころいきで食べてしまえばいいのである。

棒鱈はにせものらしいそうらしい  樋口由紀子

にせものが好きである。何も、わからないのに、ホンモノだといいはるひとも好きである。何もかもが、にせもの、にせものにかこまれた生活。しあわせとは、このようなものなのだと確信している。

雑炊と雑煮のあいだ間違えて  樋口由紀子

「雑」とは、ひとがらを表すことばである。もちろん、炊くのは、ひとである。煮るのも、ひとである。ひととひとのあいだにいるのは、ひとである。間違えるのもひとである。「雑」とは、あこがれのことばである。

重箱の底は開かなくなっている  樋口由紀子

重箱の底が開くと、こぼれてしまうから、開かなくなっているのである。そんなことは、誰でもわかっている。

底の開く重箱をつくるひとに、会わなければならない。底の開く重箱を手にしなければならないのだ。

凩や石もて潰す貝の殻  相子智恵

貝の殻は、かつて、貨幣、装飾品、日用品、玩具、薬用、魔除けなどに使われていた。

だが、この貝の殻は、石で潰される。ただ、それだけのことなのである。凩が、そう仕向けているのである。石が、そう仕向けているのである。世のなかが、そう仕向けているのである。

壁面緑化宙吊りの枯草も  相子智恵

壁面を緑化することにより、ヒートアイランド現象の軽減、空気の清浄化。さらには、緑を見ることによる心理的・生理的な効果などがあげられる。ひとや地球にやさしいのだという。

枯草は宙吊りにされ、ベランダに干されているのだろう。まだ、緑色が、残っているのかも知れない。宙吊りには、「ちぐはぐな」、「違和感がある」などという意もある。やさしさとは、何であるのか、考えている。

京寒し五山の火床(ほど)を遠く見て  相子智恵

五山の火床を遠くに見て、五山の送り火におもいを馳せている。それにしても、
何故、京都の冬は、こんなにも寒いのかとおもう。

しぐるるや大学を抜け相国寺  相子智恵

相国寺とは、臨済宗相国寺派の大本山である。南には、同志社大学がある。大学を抜けることが近道なのかも知れない。それとも、散歩のコースなのかも知れない。

冬のはじめのころ、振ったりやんだりする小雨のことを、しぐれという。

太き咳して幼年は少年に  相子智恵

五歳までを幼年という。十四歳までが少年、三十歳までを青年という。咳とは、気道内に異物が混入することを防ぎ、逆に、気道内の遺物を排除するためのからだの動きであるという。咳も、幼年から少年へと成長していくのである。

少年は自転車愛す冬紅葉  相子智恵

冬紅葉のなか、少年は、自転車に乗っている。はじめて、ひとりで、ペダルを漕ぐことができたのかも知れない。

凩も楽し自転車立漕ぎに  相子智恵

少年は、自転車を立って漕ぐ。立って漕ぐことが嬉しいのである。少年は、自慢げに、何度も、母親に、凩に、ふりかえるのだ。

結露の窓に落書きあまた十二月  相子智恵

結露の窓に、誰かが落書をした。書きはじめたらとまらなくなってしまう。誰かが書きはじめたら、誰もが書きたくなってしまったのだ。

「いたずら」書きでいっぱいの十二月の窓は、やさしさであふれているのだ。

果汁一パーセントのジュース冬の星  相子智恵

果汁一パーセントとは、無果汁であることと同じである。私たちが、子どもの頃は、粉末ジュースがあった。水に溶かさずに舐めたりもした。とても、懐かしい気がする。

少年期に、おもいを馳せる。冬は、空気が澄んでいる。星のかたちが、くっきりと見える。よくここまで、無事に生きて来ることができた。「運」がよかったからだとおもっている。

ゆでたまご黄身みどりなす聖夜かな  相子智恵

たまごが過熱されたことにより発生した硫化水素。それが黄身の鉄分と反応してできたものがみどりいろに見えるのだ。聖夜であるから、黄身が、みどりいろに見えるのだ。

事実(真実)は、知らないことのほうがいい。夢は、持ちつづけていかなければならないとおもう。

夜明け前の上り電車を待つ厚着  福田若之

たいせつな用事があり都心へ向かうのかも知れない。それとも、遊び過ぎて終電に間に合わなくなり、始発電車で自宅へ帰ろうとしているのかも知れない。夜明け前のホームには、やさしいひとたちであふれている。

雨漏りをやがては氷柱とも思う  福田若之

ものごとは、負にむかって進んでいる。精神も、世のなかも、何もかもが。あたかも、ひとが死にむかって歩いていることと同じように。だから、氷柱になるためには、それなりの決意と努力が必要なのである。

寂しみは鯛焼きの鰓その陰り  福田若之

鯛の鰓ではない。鯛焼きの鰓なのである。寂しみは、その陰りだという。鯛焼きの鰓にも存在する理由はある。誰もが、寂しみを噛みしめながら生きていくのだとおもう。

三日月を冴えた水面に風が研ぐ  福田若之

三日月を、鋭く切れるようにすることは、どういうことなのだろうか。三日月を、冴えた水面において、風で研ぐということは、どういうことなのだろうか。

かわせみが雪の景色の枝に待つ  福田若之

かわせみでなくても、待つことは大切なことである。力んでみてもしかたのないことだ。ただ、祈ることである。雪は、しんしんと降りつづいている。

筆を執りながらに咳をこぼす夜  福田若之

老人は、夜に文章を書くことはない。からだのためなのである。太陽を感じながら文章を書くのである。すこしくらいの咳は、こぼしてもかまわない。太陽を全身に感じながら、貧しい文章を書きつづけていくのである。

とっぷりと濡れて仕上がる焼き林檎  福田若之

とっぷりと濡れたのは人生なのである。人生を仕上げるためには、林檎を焼かなければならないのである。他のものを、いくら焼いても、何のやくにもたたない。林檎を焼かなければならないのである。

推敲の果てに海鼠の句が残る  福田若之

苦労することはたいせつなことである。結果、何かが残るということは幸せなことなのである。懸命に生きてみても何も残らないのが人生なのである。何も残らず、何もわからず、死んでいくのが人生なのである。

曰く座の文芸だとかなべこわし  福田若之

「なべこわし」という魚がいる。「なべこわし」という料理がある。座の文芸というものがある。

ただ、集まって笑いながら酒を飲めばいいのだとおもう。

地吹雪にまた僕の影見あたらない  福田若之

影があるということは、生きているあかしである。影が見あたらなくなるということは、死が近づいてきているということなのかも知れない。地吹雪と影との関係は、そういうことなのである。それも、生きていきたいと願っているのである。

水仙花机汚さぬ花として  岡田由季

机のうえは汚れるものなのである。だから、一輪挿しに水仙を投げこんだのである。これは、あくまでも、自分自身への戒めのためなのだとおもう。

エコカーの音無きことも神無月  岡田由季

エコカーは、静かである。静かであることはいいことなのかも知れない。悪いことなのかも知れない。エコカーに乗って日本国中を旅することも楽しいことなのかも知れない。

冬桜猫消えてゐる倉庫裏  岡田由季

猫はどこにでもいる。どこにいても、すぐにいなくなる。冬桜が咲いていても同様である。倉庫裏にいても同様である。猫は、ひとが考えているよりも不自由であるのだとおもう。

マスクして試用期間のあとすこし  岡田由季

マスクとは、やさしさの象徴である。使用期間でなくても、使用期間が終わろうとも、必要なものなのである。「あとすこし」とは、自分を励ますことばである。勇気をつけようとすることばである。やさしさには、勇気がいるのだとおもう。

降誕祭ワカケホンセイインコ群れ  岡田由季

「群れ」とあるので、野生化してしまったものなのだろう。「群れ」とは、同一種の集団でもある。複数種の集団でもある。

「群れ」て生きることに、誰もが疲れている。自由に生きたくて「群れ」ることに、誰もが疲れている。降誕を祝う祭りの日であっても、「群れ」なくてはならないことに、誰もが疲れている。

指ばかり動かしてゐる師走かな  岡田由季

指を動かすことなど、とうの昔に忘れてしまった。師走になると指を動かさなければならないことも、忘れてしまった。

忘れてしまうことは、幸せなことなのだとおもう。何もしないことも、幸せなことなのだとおもう。

冬の蜂バブル期の服死蔵せり  岡田由季

むだにしまい込んでおくことを「死蔵」という。「死蔵」とは、作者自身のことなのだとおもう。

私には、バブル期はなかった。冬の蜂に刺されたこともなかった。

信楽の狸を撫でて年忘れ  岡田由季

年忘れとは、その年の「苦労」、「災難」を忘れることである。「苦労」、「災難」を忘れるためには、信楽焼きの狸はふさわしいのだ。その狸を撫でることは正しい行為なのである。

時雨をり内勤の日のカーディガン  岡田由季

事務服には、カーディガン。何故、こんなにふさわしいのかとおもうくらいである。時雨れている日であれば、なおさら、手ばなせなくなる。事務所の椅子の背にかけられたカーディガンには、何ともいえないあたたかさがある。昭和のあたたかさがある。

綿虫の印刷すこしずれてゐる  岡田由季

印刷がすこしずれているのは、綿虫のせいなのである。駐車場から事務所にむかって歩く。綿虫が頬のあたりを通りすぎる。そんな日は、必ず、印刷がずれているのである。



「須藤徹全句集」(ぶるうまりん俳句会2019年12月26日刊)が、でき上がった。山田千里、生駒清治をはじめとする同人諸兄の努力によるものである。これで、「ぶるうまりん」同人による、「ぶるうまりん」の仕事は、ひと息ついたということになるのかも知れない。

JR大磯駅から、国道一号線に向かって坂道を下ると、大磯町立図書館がある。かつて、その手前に、「マリンブルー」という珈琲店があった。白い木造のテラスがあり、そこで、珈琲を飲んだことなどおもいだしている。


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後記+プロフィール665

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後記 ◆ 福田若之

「作中主体」というのは、おそらく短歌の側から俳句の批評に入ってきた言葉なのだろうと思います。

よそのジャンルにはそのジャンルなりの批評の歴史があるのでしょうから、それについては何をいうつもりもないのですが、俳句の批評において「作中主体」という言葉を用いることに、僕もこのごろあらためて違和感をつのらせています。

ただし、句の「作者」とは別の何らかの「主体」を想定することを、不要ないし無用だと主張したいわけではありません。
 


言葉は、現象世界の原理ではなく、言葉そのものの原理に従うものです。そして、その意味では、あらゆる句は虚構だといえます。俳句も、川柳も、ことわざも、あいさつも、ひとりごとも、小誌の後記においてはおなじみの「それではまた、次の日曜日にお会いしましょう」も、その意味では虚構です。

ここでいう虚構とは、噓ということではありません。噓とのかかわりでいうならば、ここでいう虚構とは、むしろ、僕たちが場合によっては嘘をつくことを可能にする、その前提条件のようなものと考えられます。

そして、言葉が虚構だというかぎりにおいて、言葉によって表された主体が、その言葉を発した人物の実体と完全に合致しないということもまた、そのひとが噓をつこうがつくまいが、当然起こりうるでしょう。



むしろ気になるのは、「作中」という枕詞のほうです。

句の主体は、ほんとうに「作中」のものなのでしょうか。そもそも、作られた句の「中」と「外」とはどのように分別されるのでしょうか。

句を評するときに「作中主体」という言葉を適用することによって、僕たちは《句とは主体のおさまる器である》という命題を、そのつど暗黙のうちに肯定し、希薄に共有していくことになります。しかし、句を何らかの入れものに喩えるこうした言いまわし自体が、結果的にひとつの理論的な虚構を前提してしまうことはあきらかでしょう。

そもそも、句の生成以前に身体の存在を認めるとしても、句の生成以前にその句の主体を認めることはできるのでしょうか。

もし、句の主体というものを、そのつど句の言葉によって成立するものだと考えるならば、ひとがこれまで「作中主体」と呼んできたものは、通常、すくなくとも俳句の批評においては、「作者」に対して、ただ単に「主体」と述べるだけで事足りるように思われます。



つい、またややこしいことを書いてしまいました。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.665/2019-1-19 profile

山本真也 やまもと・しんや
画家。「氷室」「船団」会員。句友に付けられた渾名は与謝不遜。
俳句・短歌を共通言語に、ダンサー・ミュージシャン・蛇使い・白蟻塚研究者・仏文学者等、多ジャンルのメンバーが集う「301」を運営、月例ワークショップ開催、2019年末に作品集『301vol.2ダダダダウッピー』出版。


■柴田千晶 しばた・ちあき
1960年横須賀生。「街」同人。句集『赤き毛皮』(金雀枝舎)、共著『超新撰21』『再読 波多野爽波』(どちらも邑書林)。詩集『生家へ』(思潮社)など。映画脚本「ひとりね」。https://twitter.com/hiniesta2010


■鈴木茂雄 すずき・しげお
1950年大阪生まれ。堺市在住。「きっこのハイヒール」「KoteKote-句-Love」所属。 ☆Blog 「ハイク・カプセル」 

■河本かおり 

■小久保佳世子 こくぼ・かよこ
「街」同人。句集『アングル』(2010年/金雀枝舎)。

■中村遥 なかむら・はるか
1954年兵庫県生まれ、神戸在住。「斧」新人賞、結社賞受賞、「斧」同人、編集員。第8回朝日俳句新人賞準賞受賞。句集に「海岳」。 

■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』、2016年に『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』を上梓。

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「オルガン」に参加。第一句集、『自生地』(東京四季出版、2017年)にて第6回与謝蕪村賞新人賞受賞。第二句集、『二つ折りにされた二枚の紙と二つの留め金からなる一冊の蝶』(私家版、2017年)。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。

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