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週刊俳句 第665号 2020年1月19日

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665
2020119



第四回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ


山本真也 マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー 10句 ≫読む
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2020新年詠 訂正とお詫び ≫読む 
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 【週俳12月の俳句を読む】
鈴木茂雄 その結果として ≫読む
河本かおり 観賞で俳句の種蒔 おもしろ珍観賞 ≫読む
小久保佳世子 しあわせの青い鳥 ≫読む
中村遥 季語のよろしさ ≫読む
瀬戸正洋 雑読雑考3 ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
ちあきなおみ「雨に濡れた慕情」 ≫読む

〔今週号の表紙〕氷柱……吉平たもつ ≫読む

後記+執筆者プロフィール……福田若之 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る


〔今週号の表紙〕第666号 むきだし 西原天気

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〔今週号の表紙〕第666号 むきだし

西原天気


蛍光灯が1本切れたけれど(自分の部屋の話ね)、支障はないので、そのままにして、やがてもう1本切れ、さらに切れ、さすがに取り替えるか、と、カバーをはずす。カバーには虫(夏のあいだに光に誘われて入り込んだのですね。ちょっと俳句っぽい)の死骸だらけ。カバーもきれいに洗わなければ。

しかし、待てよ。カバーが無い状態も、なかなかいい。中身がむきだしでまる見え、というのも、いいものだ。つるりと白いカバーよりも、見ていて飽きない(観賞用の内部ではないけれど)。そのままにしておくことにした。

ただ、蛍光灯1本は、すこし暗いかもしれない。まあ、それもよし。補充を買うのは、暗さに耐えきれなくなってからでいいでしょう。

ラヴ&ピース!



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細はこちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 ちあきなおみ「夜間飛行」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
ちあきなおみ「夜間飛行」


天気●前回に続いて、ちあきなおみです。ほんといい歌手ですよね。カヴァーアルバム「港が見える丘」(1985年)は名盤中の名盤。アナログレコードでそれこそ擦り切れるくらい聴きました。でも、1曲を推すとなれば、カヴァーじゃなくて、これ。


天気●「夜間飛行」(1973年/吉田旺作詞、中村泰士作曲、高田弘編曲)。大ヒット曲「喝采」と同じ作詞・作曲・編曲で、その翌年のリリース。曲調はちょっと近いのですが、夜間飛行のほうが洒落てる感じがします。音も歌唱も。

憲武●「喝采」の次になんかあったと思うんですよね。うーんと、あっ、「劇場」って曲がありました。この曲も同じ作家です。なんか似てますよね。テイストが。

天気●前奏のストリングスの繰り返しフレーズが、なんだか離陸前とか低空飛行の感じ(街の灯が見える高度)がしてね。

憲武●そうですね。言われてみれば。その辺は計算してあるんでしょうかね。

天気●あと、間奏のギター(トレモロ・エフェクトが当時としても懐かしい)から、フランス語のナレーション。意味を調べると、「皆様、まもなくオルリーに到着いたします。パリの夜景をお楽しみください。当機をご利用いただきましてありがとうございます。よいご旅行を。ありがとうございます。さようなら」って、機内放送そのまま。なのに、なんだかじんわり来るのは、フランス語効果? 飛行機効果?

憲武●フランス語だけでも、かなりじんわり来ますけど、飛行機と相乗効果がありますね。ドラマチックになっちゃう。曲間のフランス語って、イエロー・マジック・オーケストラの「中国女」もそうですが、ドラマチックな感じを出しますね。

天気●前回憲武さんが推した「雨に濡れた慕情」や「夜へ急ぐ人」(1977年)、「矢切の渡し」(1976年)、細川たかしよりもこっちが先らしい。素晴らしい歌唱なんですよね)など、いわば「和」の情緒を歌うのも巧いんですが、ちょっとハイカラな、でも懐かしい感じの「洋」もいいんですよね、ちあきなおみは。それがうまく生かされたのが最初に挙げたアルバム「港が見える丘」ともいえるのですが。

憲武●それ、聴いてないんですよね。ハイカラな、懐かしい感じの「洋」って、70年代特有なのではないかと。そんなにちょいと海外へ行ける時代じゃなかったですからね。兼高かおる見て、ただただ憧れていたような。

天気●引退(1992年)して久しいですが、ずっと愛聴されていく歌手なんでしょうね。私もこれから先、ときどき聴いてみるんだろうなあ。


最終回まで、あと872夜)
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

【歩けば異界】⑨ 黄金町(こがねちょう) 柴田千晶

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【歩けば異界】⑨
黄金町(こがねちょう)

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年12月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

黄金町は、京浜急行電鉄の黄金町駅から日の出町駅にかけての大岡川沿い一帯の細長い町で、大岡川の両岸の桜並木は観光名所となっている。

かつては川沿いに捺染工場が立ち、女たちが川の水で横浜スカーフを染めていたという。赤や緑のインクで染まった川面に、いつしか風俗店やラブホテルのネオンが滲むようになり、桜並木の上に、ストリップ小屋「黄金劇場」の看板が煌煌と灯っていたこともある。

黄金町駅の高架下、初黄町内会のゲートが掛かる路地には、「ちょんの間」と呼ばれる木造二階建ての小さな店が密集していた。表向きは飲食店だが店の奥や二階は売春のための小部屋となっており、最盛期には約250店舗に、千人以上の娼婦がいたという。

半間ほどの間口の店には、原色のビニールの庇が掛かり、そこに「君子」「レモン」「太陽」「水香」「桃太郎」などの屋号が同じ行書体であっさりと描かれていた。赤い照明のこぼれる間口には、ぎりぎりまで肌を露出した異国の女たちが佇み、路地に迷い込んで来る男たちに声をかけていた。

倶楽部の奥寝室在るや雪ちらつく 鈴木しづ子

まだOLをしていた頃、私は通勤電車の窓からこの風景をいつも見ていた。電車がこの辺りに差し掛かると、つと窓に身を寄せて路地を覗き込んだ。

或る夕刻、路地にいつもの女たちの姿は無く、軒並ぶ原色の庇の下に切断されたような女の脚だけがぼおっと浮かんでいた。

ぴったりと閉じられた無表情な女の脚だけが、ひっそりと闇に並んでいた。

私が惹かれる性と死の匂いが、この路地にもあった。

だが、この風景を見ることはもうできない。

2005年1月、神奈川県警による違法飲食店「バイバイ作戦」が実施され、ちょんの間は消滅し、異国の女たちも姿を消した。

今、路地には、ちょんの間を改装したカフェやアトリエが並んでいる。

明るくきれいになった高架下を歩いていると、消えてしまった路地の風景を思い出す。この喪失感は何処から来るのだろうか。

路地を抜けて大岡川に出る。

向こう岸に、赤い髪の女がひとりたたずんでいる。

くりかへす他郷の冬や髪長く    しづ子

後記+プロフィール666

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後記 ◆ 岡田由季

週刊俳句 第666号です。

666・・・オーメンだ!と、反射的に思ってしまいました。『オーメン』は、何十年も前の、私が小学生の頃の映画ですが、こういう、たわいもないことは記憶から消えないものですね。覚えていようと思うことはどんどん忘れてしまうというのに。記憶って、不思議です。




それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.666/2020-1-26 profile

■柴田千晶 しばた・ちあき
1960年横須賀生。「街」同人。句集『赤き毛皮』(金雀枝舎)、共著『超新撰21』『再読 波多野爽波』(どちらも邑書林)。詩集『生家へ』(思潮社)など。映画脚本「ひとりね」。https://twitter.com/hiniesta2010

吉川わる きっかわ・わる
1965年生まれ。「都市」所属。

遠藤由樹子 えんどう・ゆきこ
1957年東京都生れ。第61回角川俳句賞受賞。句集に『濾過』。俳人協会幹事。

瀧村小奈生 たきむら・こなお
2004年からねじまき句会で川柳を書き始める。川柳・ねじまき句会、連句・桃雅会所属。


中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

 岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。「炎環」同人。「豆の木」「ユプシロン」参加。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」






「俳句」アンケートに見る“自分” 吉川わる

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『俳句』アンケートに見る“自分”

吉川わる

『都市』2019年6月号から加筆のうえ転載

『俳句』(角川学芸出版)は「俳句とは○○○○○○○○○〇のようなものである」というアンケートを実施し、平成31年3月号に俳人1,200人の回答を掲載しているが、その背景や結果の集約はない。そこで、この稿ではアンケートから見えてくるものを紐解いてみたい。

まず、すべての回答をエクセルに入力し、頻出の言葉(検索ワード)を含む回答を抽出、さらにその中に気になる言葉があれば、すべての回答からまた抽出するということを繰り返した。例えば、“鏡”で抽出した回答の中に“自分”という言葉が出てくれば、“自分”を含む回答を抽出してみる。その結果をまとめたのが次の表であり、括弧書きは同じ意味の言葉とみなして抽出数に加えたものである。


回答は「鏡」(複数回答。表記はママ、以下同じ)のみという場合もあれば、「自分を映す鏡」(複数回答)のようにセンテンスのこともある。ランキング上位の“自分”、“心”、“自然”、“人生”、“命”、“生きる”といった言葉は主にセンテンスの頭に使われており、これは主体が誰なのかということを表している。すなわち、鏡に映るのは、自分なのか、自然なのかということだ。

表を見ると“自分”を含む回答が最も多いのだが、2位の“心”も「心を写す鏡」(複数回答)のように主に自分の心という意味で使われており、“生きる”も「生きる証」(複数回答)というような回答が半数近くを占めることから自分のことと言えよう。また、“人生”には普遍的な意味合いもあるが、そこには当然、自分も含まれることになる。それに対して、“命”はすべての生命のことであり、“自然”は無生物をも含む大きな存在であるが、“自然”を含む回答の半数近くが「自然と人間の共生の詩」(有馬朗人。敬称略、以下同じ)、「自然との共感装置」(奥坂まや)というように“と(の)”で繋がるセンテンスになっており、後者については“自分と”が省略されていると考えられることから、意図しているのは自然と自分との関係ということになる。つまり、これらの回答に共通しているのは俳句に自分が存在しているということであるが、センテンスのお尻にくる言葉からみると、自分というものの位置付けは一様とは言えない。

6位の“鏡”については、“自分”を含む回答が16、“心”を含む回答が5(“自分”との重複を除く)あり、「鏡」(前掲)のみの10を除けば、映るのはほぼ自分ということになる。また、“映(写)す”は14あるのに対し、“写る”は一つしかなく、自分を映すことに能動的だ。筆者は、俳句は自分を詠むものではないが結果として滲み出ることはあるというように考えているのだが、それとは異なる意識を読み取ることができる。ただ、鏡とは必ずしも自分が思っているようには映らないものであり、“影”、“自分探し”のように、俳句にもう一人の自分、未知なる自分を見るという感覚があるのだろう。これと対照的なのが“自分史”であり、句集を想定しているのかも知れないが、散文のそれは人に見せる前提で主観的に書かれるイメージが強く、脚色されることはあっても未知の自分は存在しない。一方、“日記”は日々の記録ということであるが、見せる前提のものではなく、もう一人の自分がいてもおかしくない。

さらに検索ワードを見ていこう。4位の“詩”については、「有季定型自然を詠む詩」(稲畑汀子)から「念いの丈を述べる詩」(疋田芳一)まで幅が広いが、いずれも俳句は詩であるという共通認識がある。26位の“文学”にも同じことが言えよう。

9位の“友”は詠まれた内容ではなく、「大切な友達」(星野高士)というように俳句が自分の支えだということである。“薬”、“ご飯”、“杖”、“水”もこれに類するものであり、“力”も「生きる力」(複数回答)というように使われている。なお、“薬”に“麻薬”(複数回答)が含まれているのは意味深長だ。

11位の“言葉”は、「言葉による錬金術」(山地春眠子)、「言葉の組体操」(小野あらた)というように、言葉そのものの組み立てを楽しんでいる回答であり、何を詠むかではなく、詠むことそのものに興味を持っている人たちと言えよう。22位の“遊び”にも「粘土遊び」(矢野玲奈)というように同じニュアンスがある。

14位の“季節・季語”は順当にランクインしたわけであるが、25というのは意外に少ない。“季語”、“季題”、“有季”に絞れば11であり、同じく俳句の重要な要素である“切れ・切れ字”に至ってはゼロだ。もちろん、お題の「のようなもの」に“切れ字”はなじまないのであるが、「有季定型自然を詠む詩」(前掲)のように「のようなもの」はけっこう無視されており、「俳句は切れ字」という回答があってもよかった。

17位の“風”には、“風景”や“風船”などの熟語を含むため、いわゆる気象用語としての“風”は11ということになる。18位の“旅”とともに、芭蕉、そしてその憧れである西行のイメージがあるだろうか。同じく18位の“つぶやき”も俳句のイメージとして納得できるものである。

22位の“日常”と“宇宙”は正反対のもので興味深いが、後者には「十七音の言葉の宇宙」(丸田信宏)というように“小宇宙”という意味の回答も含まれる。前者は「日常生活の句読点」(田中貞雄)というように“日記”に近いだろうか。

さて、これまで分析らしきことをしてきたわけだが、検索ワードを含む回答は重複を除いて全体の五割強に過ぎない。他に「鳥の重さ」(井越芳子)、「百目簞笥」(土肥あき子)など魅力的な回答もあったが、オリジナルなものは分析のしようがない。取り上げた言葉にしても、回答がすべて同じニュアンスに使われているわけでもない。しかしながら、何かしら共通するものがあるからこそ、同じ言葉を使っているのであり、全体の傾向として的外れとは言えないだろう。最後に筆者の感想を述べれば、俳人がこんなにも“自分”というものを意識しているとは思っていなかったのだが、どう感じただろうか。

【週俳12月の俳句を読む】それぞれに冬 遠藤由樹子

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【週俳12月の俳句を読む】
それぞれに冬

遠藤由樹子



実験のための明かりや冬景色  井口可奈

冬の夕べ、明かりのついている研究棟を少し離れた場所から眺めているのか。作者は建物の外から見ていても実験室の場所がわかっている。〈実験のための明かり〉とは文字通り、科学研究の目的の下実験を行うために点されている照明。情緒的な明かりではない意外性が印象を深める。実験室のある建物の周囲には冬景色が広がる。冬木立やよく刈り込まれた枯芝。点在する年代を経た校舎。夜風とも夜気ともつかない冷気。人影は少ない。何となくそんな景色を思い浮かべた。私はどちらかというと情緒纏綿とした人間なので、この句の中の明かりを思い描いてみるだけで、世界の端に心もとなく立っているような気がしてくる。

子供にも旅荷ありけり石蕗の花  松本てふこ

ふたりの娘がまだ小さい頃、旅行に行くときの荷物はこどもの分まで私が揃えて旅行鞄に詰めた。パジャマや着替え、小さな靴下等々。心配事も多いが賑やかな日々。私が詰めた荷物以外にも、こども用のリュックサックに娘たちはそれぞれ大事なもの、どうしても持参しなくてはならないものを詰めていた。ぬいぐるみやお気に入りのタオルケット、ゲームやお菓子、はては手品まで。
石蕗の花の咲く頃の旅。真冬にはまだならない時期の海辺だろうか。石蕗の花は決して派手な花ではないが、明るく鮮やかな黄色の花弁をひろげる。私は日を浴びた石蕗の花に出会うと幸福な気持ちになる。

小春日のほこりとなりぬ蓄音機  浅沼 璞

蓄音機にはレトロという言葉が似合う。エジソンの発明した当初は手動で、エジソンはのちに蓄音機を最も愛する自分の発明と語っている。円盤状のレコードも今や隔世の感があるが、蓄音機といえば更にアンティークの趣を持つ装置。ここに詠まれた蓄音機も長いこと使われていないような気がする。全体に埃を被っているのかもしれない。この句を読むと、蓄音機そのものが〈ほこり〉と化しているような印象を受ける。そして、その〈ほこり〉は決してマイナスなイメージではない。過ぎ去った年月の穏やかな時間の堆積といえばよいか、そんなふうに感じられるのは偏に〈小春日〉という季語によるところが大きい。

黒豆の覚悟を決めた艶つぽさ  樋口由紀子

私はたぶん野暮なのだろう。ふっくらとした黒豆の照りから艶っぽい話を連想したことがないので、面白いことを考え付くなというのが正直な感想。「少しくだけすぎたかしら」などと頓着しない自由さが横溢する一連の作品。お節料理を題材にイメージを膨らませて、お重の中の一品一品をキャラクターに仕立てた趣向のようにも読めて楽しい。バツ一やバツ二の栗きんとんもいれば、にせものらしい棒鱈も登場。棒鱈はさしずめ自称○○のやさ男。お重の中では、ちょっとした人間模様が繰り広げられている。いかがわしくもあり、愛すべきこの世が新しい年を迎える。

凩や石もて潰す貝の殻  相子智恵

凩の吹く寥々とした海辺の光景か。何の為に石で貝の殻を潰しているのだろう。今の時代、目的を持って、つまり何らかの作業として石で貝を潰すということはないような気がする。筋道を立てて考えるというほどではないが、少しばかり物思いながら寒々とした海を背に貝の殻を潰しているのか。石で潰すことのできる強度だから、栄螺とかではなく、比較的割れやすい二枚貝の片割れかもしれない。そもそも貝の殻を潰しているのは誰なのだろう。作者? それともこの作品の表題ともなっている少年? 句の中では〈凩〉と〈貝の殻〉と〈石〉だけがクローズアップされていて、その潔い省略の利かせ方が余韻をもたらす。

寂しみは鯛焼きの鰓その陰り  福田若之

鯛焼きの鰓に寂しみを感じるか否かは人それぞれで、それほど肝心なことではないだろう。この句の中に置かれた〈寂しみ〉という言葉によって、鯛焼きの鰓が俄かに寂しみを帯びた存在になる不思議。この次に鯛焼きを食べる時、私は温もりの残るほの甘い鰓をしげしげと眺めてみるだろう。もしその時、寂しさに似た感情を抱えていたら、この句の〈寂しみ〉の一語が柔らかい痛みを伴って私を包むかもしれない。ぱくぱくと幸せな気分で頬張ったとしても、その気分の中でこの句を反芻してみるだろう。一度、文字となって生み出された言葉は、そうやって一人歩きを始める。

降誕祭ワカケホンセイインコ群れ  岡田由季

空を流れるインコの群を初めて目にして、「この鳥ってもしかしたらインコ?」と驚いたのはずいぶん前のことだ。変哲もない東京の空に生息しているはずのないインコが群れなしていて、心が一瞬弾んだ。長い尾を持つ若草色の鳥たちを単純にきれいだなと仰いだことを覚えている。この鳥の和名がワカケホンセイインコ。ペットとして飼われていたものが野生化して全国的に拡散。果物や農産物を食い荒らしたり、野鳥の巣を乗っ取るなど、少なからず悪影響が出ているらしい。クリスマスの日の冬空を、逞しい流浪の民さながらに群れなしていたのだろう。立ち止まることで、日常が違った光景として目に映ることがある。


 井口可奈 好きだと決めたから愛します 10句 ≫読む
松本てふこ 家族旅行 10句 ≫読む
浅沼 璞 冬季十韻 10句 ≫読む
樋口由紀子 もうすぐお正月 10句 ≫読む
相子智恵 少年 10句 ≫読む
福田若之 推敲 10句 ≫読む
岡田由季 内勤 10句 ≫読む

【週俳12月の俳句を読む】岡田由季「内勤」を読む 瀧村小奈生

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【週俳12月の俳句を読む】
岡田由季「内勤」を読む

瀧村小奈生



水仙花机汚さぬ花として  岡田由季

机に飾られる花として水仙のたたずまいにまさるものはないだろう。まっすぐで、でしゃばらず、品があって静謐だ。おもしろいのは「机汚さぬ花として」という意識の表明である。作者がそう口にすることで、水仙の花を介して読み手との間に通路が開かれる。

エコカーの音無きことも神無月  同

エコカーが滑り出すときの音の無い感じの音。鳩尾のやや浅いところからクワッとくるやつだ。それが十月のある日だったことで「神無月」という言葉を付与され、いつもの風景が特別なものになる。日常と詩の世界の出会いのささやかな感触が好ましい。「音のない音」と書いてみて、そう言えばと思った。これは、川柳を書く私が俳句に対して抱いているイメージに近い。俳句の中では、音が描かれていても世界はしんと静もっている。一方、川柳からはいつだって何某かの声が聞こえてくる。今のところ、あくまでそんな気がするだけの話だが。

降誕祭ワカケホンセイインコ群れ  同

インコの鮮やかな色合いから、まずクリスマスカラーを思い浮かべる。しかも群れているのだから、かなり賑やかだ。それにしても「ワカケホンセイインコ」は言いにくい。「降誕祭」という言い方と相まって、多くの日本人にとって実はそんなに特別でもないはずのクリスマスという日に対するかすかな違和感のようなものも伝わってくる。ところでこの鳥、いったいどんなに特別なインコなのだろうと調べてみると、東京や神奈川では大発生が問題になっているらしい。輪掛本青鸚哥。なんと1000羽以上の群れもあるということだ。怖い。「クリスマス」ではなく「降誕祭」であることにも、さらに納得がいく。

指ばかり動かしてゐる師走かな  同

師走だから忙しいのである。期限内に処理すべき業務のためにキーボードを叩き続ける指。内勤の師走。動き続ける指だけが頭の中に現れて「師走」という言葉と響き合う。かたかたと無音。あくまで「指ばかり」を意識したことによって、「師走」という時間のもつ〈ちょっと違う感じ〉を共有することができる。

冬の蜂バブル期の服死蔵せり  同

時代がもうわからなくなっているのだが、「蜂の一刺し」とか言った女性がいたのは、バブル期のずいぶん前だったろうか。ある日思いがけず、残されていた「バブル期の服」を見つける。意識して残したわけではあるまい。「死蔵」という仰々しい言葉が立ち上がる。針持つ者でありながら力なき「冬の蜂」があしらわれて、哀しさと可笑しみが滲む。

時雨をり内勤の日のカーディガン  同

ちょっとカーディガンを羽織ってオフィスを出る。傘はどうしようかと迷うほどの雨。冬の気配を含む小雨だ。ウール100%ではなくもちろんカシミアでもなく綿混ニットの手触り。冷たい空気と時雨の湿り気を含んだカーディガンの重さが肩にある。「時雨をり」の淡々とした描写が、かえって複雑ないろいろを伝えているように思う。

綿虫の印刷すこしずれてゐる  同

印刷の文字がずれて、綿虫が飛んでいるように見えたのだろうか。綿虫というと美しいが、実物を単体で詳細に見るとそんなによいものでもない。ふわふわとたくさん飛んでいるのをぼんやり眺めての美しさである。この綿虫は印刷がずれたことで現れるのだが、「ずれてゐる」ことの重要性は、この句にかぎったことではない。日常に見聞きし触れるもののひとつひとつを大切にしている作者であればこそ、日々の暮らしの中の小さなずれを見逃さずに捉えることができる。それが17音の言葉になって、読む者の心をつっつくのだ。その感触と句を読み終えたあとの無音の世界を楽しんでいる。


 井口可奈 好きだと決めたから愛します 10句 ≫読む
松本てふこ 家族旅行 10句 ≫読む
浅沼 璞 冬季十韻 10句 ≫読む
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岡田由季 内勤 10句 ≫読む


週刊俳句 第666号 2020年1月26日

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666
2020126


【歩けば異界】⑨
黄金町(こがねちょう)……柴田千晶 ≫読む
    
【俳誌を読む】
『俳句』アンケートに見る“自分”
……吉川わる ≫読む

 【週俳12月の俳句を読む】
遠藤由樹子 それぞれに冬 ≫読む

瀧村小奈生 岡田由季「内勤」を読む ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
ちあきなおみ「夜間飛行」 ≫読む

〔今週号の表紙〕むきだし……西原天気 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……岡田由季 ≫読む


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後記+プロフィール667

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後記 ◆ 村田 篠

(Under Construction)


no.667/2020-2-2 profile

竹岡一郎 たけおか・いちろう
昭和38年8月生まれ。「鷹」月光集同人。句集『蜂の巣マシンガン』(平成23年、ふらんす堂)『ふるさとのはつこひ』(平成27年、ふらんす堂)

■対中いずみ たいなか・いずみ
1956年生まれ。田中裕明に師事。第20回俳句研究賞受賞。「静かな場所」代表、「椋」会員。句集に『冬菫』『巣箱』『水瓶』。

■宮本佳世乃 みやもと・かよの
1974年生まれ。「炎環」「豆の木」「オルガン」に所属。第35回現代俳句新人賞。句集に2012年『鳥飛ぶ仕組み』、2019年『三〇一号室』。

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。「炎環」同人。「豆の木」「ユプシロン」参加。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 サイモンとガーファンクル「フランク・ロイド・ライトへ捧げる歌」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
サイモンとガーファンクル「フランク・ロイド・ライトへ捧げる歌」


憲武●今回からサイモンとガーファンクルの推薦曲ということで、ぼくから行きます。「フランク・ロイド・ライトへ捧げる歌」です。


憲武●原題は「so long, Frank lloyd wright」ですね。

天気●「捧げる歌」という邦題はちょっとヘンですね。「さよなら、フランク・ロイド・ライト」でいいのに。ま、それはともかく、シブい曲を選びましたね。

憲武●ひたすらガーファンクルが「サヨナラサヨナラ」と歌っています。1970年発売の6枚目のアルバム「明日に架ける橋」に収録されてます。

天気●2500万枚売れた大ヒットアルバム。B面2曲目の「ベイビー・ドライバー」が、映画『ベイビー・ドライバー』(2017年/エドガー・ライト監督)で流れたときは、もう絶頂でした。こんなカッコいい曲だったんだあ! と吃驚。

憲武●カントリーっぽい曲ですよね。確かにカッコいいですよ。

天気●はい。ロックンロールでもあるので、ロカビリーですね。

憲武●えー、フランク・ロイド・ライトですが、ボサノバっぽくて好きなんですよね。だからあんまり物悲しい感じがしない。実際はこのあと、活動停止してますから、サイモンからガーファンクルへの別離のメッセージと取る人もいるようです。あ、曲を書いたのはサイモンです。最後の方で"so long already,Artie"と叫んでますね。この叫びのエコー効果もあって空間を感じます。

天気●きれいなメロディ、きれいな響き。

憲武●このアルバムを買ったのは高3の4月頃だったので、個人的には、春を感じる曲です。特に4月のなんというか人にも物事にも馴染めていない感じって、言いますかね。そんなイメージ持ってます。

天気●聴いたときの心情によって、音楽の印象が変わるんですかね。それにして、人生の随所でミスフィット(不適合)を味わってきたんですね。他人のことは言えないけど。

憲武●今でも時々不適合感が。…この曲のなかで「フランク・ロイド・ライト」という名前が3回出てくるんですけど、どれもしっくりしてないような感じがあって、その辺も含めていつまでも魅力的な曲ですよ。 


最終回まで、あと871夜)
(次回は西原天気の推薦曲)

〔今週号の表紙〕第667号 カイツブリ 岡田由季

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〔今週号の表紙〕第667号 カイツブリ

岡田由季



カイツブリを見ていると、潜ったかと思うと、しばらくして、少し離れた場所に浮かびあがってきますよね。何か法則があるのかもしれませんが、どの辺りに顔を出すのか、私には予測がつかないのです。

この写真は、たまたま、近くにぽっと浮かんできたところを撮影したものです。水滴まみれでした。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細はこちら

【句集を読む】穴と棒 大野泰雄『むつつり』を読む 西原天気

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【句集を読む】
穴と棒
大野泰雄むつつり』を読む

西原天気


世の中には「脱力系」と称される(と受動態を使うには局所的すぎるかもしれないが、それはともかく)俳句があって、読んだとたん、なんだか、ふにゃふにゃっとなっちゃう句、ね。まあもちろんいろんなタイプがあるのですが。

パラソルの棒パラソルの穴の中  大野泰雄

腰の入った脱力、覚悟の決まった脱力、という言い方が矛盾を抱えていることは承知で、強度に脱力、というのも矛盾か。力の抜けきった句は、きっているだけに、つまり抜け方の純度が高いので、気持ちがいい。

パラソルは「穴」も込みでパラソルなのだなあ、と、夏の浜辺を思いつつ得心し、だからなんなんだ? といったまるでなにものにも意義や目的があるかのような問いには耳を貸さず、だからなんなんでもない、ただそうあるのだ、と、なにかを伝えるでも伝えないでもなく、在る。そんな句は、洗練された挙措を備えていて、それだけで私(たち)を魅了するに充分なわけです。

ところで、この句を収録した大野泰雄句集『むつつり』(2019年11月30日/夜窓社)は、げによろしき脱力を成分とするほか、だらしのないオトナ(字義通りにしか受け取れないリテラシーの低い人がこれを読んでいるはずはないのですが、いちおう言っておきます。いい意味です)がたくさん出てきます。巫山戯ているのです(いい意味です)。

建国の日や味の素振りたれば  同

酒で口濯ぎ四月を病み抜けり  同

一月のかっぱえびせん鯉に乗り  同

だらしのないオトナ。言い換えれば、いろいろなことを知っている、というのは、知識の話ではなく、暮らすことの重さ・軽さを知っている、簡単にいえば経験豊富なオトナなので、たとえれば、悪いことばかり教えてくれる叔父さん、みたいな感じですか。

打ち下ろす二の腕白き蠅叩  同

じだらくとじだらくの丸裸かな  同

ことほどさように軽妙洒脱な句集なのですが、ウィットや遊びが背後にすっと引いたようなこんな句も妙に心に染みたりします。

うら山にあきつみてきて入院す  同

以上、ごたくばかりを並べましたが、まとめると、《いいかんじの句集》です、『むつつり』は。



【週俳12月の俳句を読む】ひとりではなく 宮本佳世乃

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【週俳12月の俳句を読む】
ひとりではなく

宮本佳世乃



湯豆腐の豆腐揺らして遊びけり  井口加奈

ひとりではなく、ふたりで過ごすゆうらりとした時間。ふたりの関係はいま始まったばかりではなく、少しこなれた頃の寄り添い方。

旅に来てシャンプー安しシクラメン  松本てふこ

旅行連作10句。それほど遠くない海辺への小旅行で、ふらっと温泉に寄った。一回分のシャンプーは安いけれども、おそらくは使いきれない。赤いシクラメンが日常感を醸し出し「安し」を引き立てている。

神様がゐないみなとみらいライン  浅沼 璞

この10句は一句目から十句目までがことばと音で連結されている。神の留守→神様がゐない→きしりきしり→蓄音機のような分かりやすいラインがひとつ。また、ゐる/ゐない、病気/環境、純真/贋物、孤心/陶酔のライン。仕掛けが分かるごとに面白みが増す。
この句は音の楽しさ。たぶん、此処にはこれまでもこれからも神様はいない。

重箱の底は開かなくなっている  樋口由紀子

8句すべてに「そうかも」と思う瞬間がある。ちょっとした隙や、本物(本当)ではないものなどが並ぶことで、正月の非日常さをパネルをひらくように構成していく。日常に対して、非日常はたぶん必要だけれども、いかんせん心はわくわくはしない。もう、とっくに。だって底が開いてしまったら終わっちゃうから。

果汁一パーセントのジュース冬の星  相子智恵

京都の少年か。冬の夜に子どもが飲むジュースはうすくて十分だ。甘いものを飲めればそれで嬉しい。この句は「一」や長音、「ジュウ」が冬の星っぽくって楽しい。

かわせみが雪の景色の枝に待つ  福田若之

たしかに川の付近に行くと、この季節でも翡翠がいるときがある。雪景色のモノクロームみの多い世界では、かわせみさえもモノクロームに寄った色の鳥として、目に映るだろうか。そして、このかわせみの待っている出来事は、やってくるのであろうか。待つという「こと」が目的になってしまったようなこの句からも、10句全体からも、本来の時間とは別の、時間経過のながさを感じた。時間の経過に向けられる、そのときの作者の知覚が思われた。

降誕祭ワカケホンセイインコ群れ  岡田由季

カタカナヒョウキに目を惹いた。ワカケホンセイインコってどんなインコか調べたら、身体が黄緑でくちばしが赤。たとえば夢に出てきたらだいぶ怖い。しかも群れているし。そういう意味では、句のスタイルと内容が一致して、ワカケホンセイインコっぽい。


 井口可奈 好きだと決めたから愛します 10句 ≫読む
松本てふこ 家族旅行 10句 ≫読む
浅沼 璞 冬季十韻 10句 ≫読む
樋口由紀子 もうすぐお正月 10句 ≫読む
相子智恵 少年 10句 ≫読む
福田若之 推敲 10句 ≫読む
岡田由季 内勤 10句 ≫読む

【空へゆく階段】№23 解題 対中いずみ

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【空へゆく階段№23 解題

対中いずみ


「ゆう」4号には、「新季語」という田中裕明の小文が載っている。

「二月十三日、淀川の鵜殿というところへ早春の蘆焼を見にいきました。三三五五あつまって淀川の土手に上れば、すでに大勢の見物の人たちがいます。見物人には三種類あって、カメラマンとバードウォッチング、そして俳人。俳人が一番ものしずかであるように思いましたが、気のせいかもしれません。さてそのあとの句会で問題になったのが、蘆焼は季語か否かということです。歳時記には載っていませんが、野焼・山焼と同じ春の季語としてもおかしくはないはず。何十年か先の歳時記に備えて今のうちに例句を作っておきましょうと話をしました。どういう手続きで季語として認知されるのかという質問もありましたが、手続きは一つしかありません。良い句を作ること。」

蘆焼はいまだに春の歳時記には載っていないが、裕明は「鵜殿蘆焼」の前書きをつけて〈蘆焼くや鳥はこの世のこゑをだし〉を『夜の客人』に収録している。

4号の裕明句は以下の通り。太字は句集収録句。

  春寒し

供待にひとりしぐれの明るかり

桃咲きて前触れなしに来るが友

高齢をうやまひ地虫出でにけり

蒲公英やひとり小さき日本人

すすみゆく畦火に人のかかはらず

アトリエに白布ひろげて春寒し

 鵜殿蘆焼
亡き人にまじりて蘆を焼きにけり

蘆焼くや鳥はこの世のこゑをだし

葦原といふ鳥の巣を焼きにけり

蘆を焼く長き濤音おもひけり


≫田中裕明 ゆうの言葉

【空へゆく階段】№23 ゆうの言葉 田中裕明

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【空へゆく階段】№23
ゆうの言葉

田中裕明
「ゆう」2000年4月号・掲載

龍の玉影を離れてゐたりけり  昭男

龍の玉の微妙な存在をとらえることに成功しました。現実の龍の玉を見れば、別の姿態が見られるのかもしれませんが、読み手にとってはこれ以上のありようは考えられなくなります。それが詩の力でしょう。

水餅や櫻は暮るることはやく  喜代子

日々のくらしに密着した櫻の木のすがたが想像されます。水餅という季語のもたらした世界です。ある意味で世帯じみた季語ですが、そこに澄んだ空間を創りだしたのは、作者ならではの持ち味にほかありません。

子と同じ高さで離す追儺かな  麻

小さい子供の母親が、かがむようにして、子供の耳もとに口を近づけて何か話しかけているのでしょうか。やさしい気持が一句にあふれているようです。場所は追儺寺。子供の興奮した表情も浮かんできます。

寺の子の下校しづかや雪催  明澄

「下校しづかや」とありますが、この作品自体がものしずかな顔つきをしています。いわゆる、けれんみのない俳句と言えます。雪催という季語も、投げ出したようでいて、全体をつつみこむように感じられます。

喪の日々をひらすら乾く干菜かな  敦子

近しい人が亡くなって、喪に服している日常の生活をこのように表現した俳句は、いままでになかったでしょう。

ひたすらに乾く干菜は作者自身の思いをも象徴しています。きびしい抒情があります。

海見えてゐるだけのこと冬櫻  刀根夫

小高いところに冬櫻の木があって、そこから海が見える。それだけのことだと作者は言いますが、なかなかそれだけのことではありません。

昨年、本当にいろいろな角度から冬櫻を詠いつづけた作者ならではの詩情が一句にうかがわれます。寂しい冬櫻の花を描いて、人物の気持にまで及びました。

さまざまな探梅をして逝きし人  満喜子

その人との思い出はいろいろとあります。冬の野に梅を探ったことも。考えてみれば、その人自身、いろいろな探梅をされたことでしょう。さまざまの場所や天候に。

そして、その人もいまはいないと、言いさして言いつぐんだところに、作者の万感あふれる悲しみがつよくひびいています。

振り返るたびに石蓴の色遠く  尚毅

早春の海辺で時間を過ごして、帰ってゆくところでしょうか。海辺の景物に気持が残っていないわけでもないという微妙なところ。

「色遠く」という一句の止め方が、たいへんにうまく、こういう句はなかなかできません。

寒林の影あきらかに延び来たり  朱人

寒林も爽波先生の好きな季語でした。

取合わせでなく、寒林そのもので一句を成すことは爽波先生のお気持によく適うことのように思われます。

もちろん、取合わせの俳句がわるいわけではありませんが。

歌仙絵の屏風のひとり見たらぬ  洋子

この句も、椹木啓子さんを悼む作品。

ゆう作品の中にその名のないことが、たいへん寂しく思われます。

遠出して小さき厄を落しけり  泉

わざわざ遠出をして小さな厄払いをしたというところに面白みがあります。

水仙をもて水仙を挿し替うる  章夫

この句、水仙という季語がうごきません。こういう確かな句づくりが大切に思われます。


≫解題:対中いずみ

鴨と玉虫 西村麒麟を読む 竹岡一郎

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鴨と玉虫 西村麒麟を読む

竹岡一郎


西村麒麟が角川俳句賞を受賞したのを聞いて、句集「鴨」を一年も前に恵贈されていたことを思い出した。全く読んでいなかった事も。

私事だが、あの当時、母の死からまだ二か月足らずで、とても本など読んでいる暇は無かった。遅まきながら読んでみた。

景の見せ方に特色がある。平易に景を読ませるようでいて、実は巧みに認識させていない。

見えてゐて京都が遠し絵双六  西村麒麟(以下同)

遠くはないだろう、絵双六なのだから。それを遠いと知覚するとは、作者は絵双六の平面世界に立っているという事だ。もしも見えているのが実際の京都なら、作者は、江戸と京の距離が絵双六のようにしか感じられぬ上空から、鳥瞰している事になる。知覚し認識する立ち位置がはっきりしないという、ズレが面白い。

鳥帰る縄の如きを連れ立ちて

長く連なる鳥の群の、先頭の一羽以外は、何か判らぬ縄の如きものとして認識されている。なぜ先頭の一羽のみが、鳥として認識されるのか。群れを導いてゆく意志を以って飛ぶからだろう。その意志の力が、鳥を鳥として、地上からの眼にも認識させるのだ。

無き如く小さき川や飛ぶ螢

暗闇の中で、川は地面と区別がつかない。螢は川によって生きるから、川と地面の判別がついているのだろうが、人間には判別がつかない。無い、と思えば無い。だが川は確かに有る、との主張を、飛ぶ螢から漸く知る。

古草として半分は食はれずに

何が古草を食べているのか、はっきりとしない。牛や馬だろうが、物凄く変なモノが食べているのかもしれぬ。古草は季語であるから、作者自身の暗喩と読む事も可能だ。そうなると、食べるものと食べられるものとの関係がもはや収拾つかず、あとはただ半分残された、古いふわりとした塊があるばかり。

けふの月下からぽんと押され出て

「けふの」は「今日只今」の意を負っていると見た。押され出た只今の瞬間を表している。押され出たのは作者だろうが、どこに押され出たのだろう。そして誰に、何に押し出されたのだろう。自分の意志と関わりなく、いきなり普段の場ではない何処かに出てしまった感を抱いている作者だ。「ぽんと」が良い。長閑な不安感、を良く表現している。

露の世の全ての露が落ちる時

小林一茶の「露の世は露の世ながらさりながら」を踏まえ、一茶の句が亡き子と嘆く妻を詠うのに対し、掲句はこの儚い世全ての終わり、生きとし生けるもの一切の知覚と認識が滅びる時を暗示している。恐ろしい句だ。

金魚死後だらだらとある暑さかな

いつまでも惜別の情を引き摺っている自分を「暑さ」と突き放していると思う。これは妙に泣ける句。「たかが金魚」といわれかねない世にあって、金魚の死を夏中引き摺っている作者は、優しいのか。金魚の死にさえも折れそうになる心を何とか支えて、敢えてだらだらと暑がっている、そうしないと生きて行けぬ。そんな気持ちなら、良く解る。

寒鯛のどこを切つても美しき

仄かに桜色の肉と白い骨の断面が、金太郎飴のようにどこまでも続く。素十の「甘草の芽のとびとびのひとならび」の魚バージョンか。掲句は言葉をリフレインさせずして、景をリフレインさせている。「美しき」と言われれば、成程そうも見えようが、同時に生臭くもある。美とは生臭いものだ、と言われているようだ。

箱一杯に蟷螂の怒り満つ

螳螂の斧、なる言葉を思う。季語は作者である、と読むなら、箱は作者の生きている範囲だろう。「一杯」と言っても、所詮は螳螂を容れるに足る箱だ。ここに作者の諦観を読み、それはそれで立派だと思うのだ。

雛納め肌ある場所を撫でてをり

普通、雛人形の肌の部分は絶対に触らない。汚れると取り返しがつかないからだ。その肌の部分をわざわざ撫でている。雛との今年の別れを惜しんでいるのだろうが、一寸したタブーである。肌といっても体温がある訳ではない。冷たく硬い肌なのだ。撫でて人肌に成り得ない事を、繰り返し知覚している。幽かに人形愛の匂いがする。

蔵一つ凍らせて行く雪女

小泉八雲の短編では、雪女は我が子を哀れんで、男を許す。情が薄いように見えて、恐ろしく濃い。その雪女が蔵一つを凍らせるとなれば、これは男女の密会に使われてきた蔵だと読みたい。もしかすると蔵の中には、固く抱き合ったまま息絶えた男女が、人形のように白い。初め、雪女は彼方から来て蔵を凍らせて去った、と読んだが、雪女自体が蔵に籠る情念から生まれた、あるいは人間であった女が蔵の中で生まれ変わった、との読みもある。

冬の鳥一生降りて来ぬ如く

腹さえ空かぬなら、翼が動く限り、一生降りて来たくない、とは作者の感慨で、地上の煩わしさを厭うているのだろう。季が冬なのが良い。高空は地上より遥かに寒く、そこにとどまり続けるのも、また辛いからだ。中島みゆきの名曲「かもめはかもめ」も思う。ここで上五の鳥の名を明示せず、何の鳥ともわからぬ鳥としているのは、名とは、地上からの眼差、人間の眼差に属するものだからだ。


角川俳句賞受賞作「玉虫」を読んだが、平易なる方へあまりに傾き過ぎている気がした。

家の中少し歩きて豆をまく

鯛焼をかたかた焼いて忙しき

共に選考委員が取っている句だが、このような句を読むと、作者はとにかく空っぽになりたいのだろうか、長閑な無力さを体現したいのだろうか、と、なぜか茫洋とした悲しさを感じる。この感じは何処かで覚えがあった、と思い出す。

青木亮人氏がBLOG俳句新空間の2017年8月4日【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】「火花よりも柿の葉寿司を開きたし 北斗賞受賞作「思ひ出帳」評」において述べた文章だ。次に引用する。

架空線は相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。(芥川龍之介「或阿呆の一生」

俳人たちの眼には「鋭い火花」が燃えさかり、その火花を一句に宿らせるのがあるべき姿と信じられ、おびただしい実践と失敗が積み重なった末に錬金術のような絶品が生まれた時代が、かつてあったのだ。

しかし、平成期の西村麒麟氏はもはや「紫色の火花」を一句に招こうとは考えていない。

というより、火花を素手で掴むには彼はすでに冷静で、自身の丈が分かっているのだし、何より「俳句」を壊すほどの「火花」は不要である。」

この「自身の丈」とは、魂の「身の丈」を意味するのだと思った時、やはり茫洋とした悲しみを覚えた。呪いの人形の髪や歯が伸びるのは、水ではないが魂は方円の器に従う事の証明だろう。ならば、なぜ魂は、市松人形ではなく、大仏やスフィンクスに憑依しないのか。

同じ論に引用されている、青木氏が西村麒麟の第一句集「鶉」に寄せた「古き良き「月並」」中の一文を挙げる。

「戦後という間延びした「日常」に埋もれることなく「自分を失わないでいる」ためには血を流し、傷付きつつ努力を続けることで「精神の鎖国制度」を打破するしかないと拳を握りしめる姿は、平成年間においては郷愁とともに現れる幻影に近くなった。

崩落のはるかな響きを聞き届けつつ無表情に小さなディスプレイをタップし続ける私たちは、むしろ「固定した日常性」と「鎖国」に浸りつつ甘やかで索漠とした快楽に身を委ねるのみだ。

しかし、それは忌避すべきことなのだろうか。

私たちは天才ではありえない。取るにたらない喜びや不満を味わいつつ、小さな幸せや不幸せが交互に訪れる市井の日々を何とか生きる他ない凡人がささやかに何かを表現したいと願った時、慈しむべき詩形として昔から連綿と愛でられたのは俳句であった。」

慧眼である。これがまさに俳句にとっては、平成が進むにつれて、霧のようにあらゆる間隙から入り込んでいった細やかな呪縛、緩やかに穏やかに生暖かくまとわりつき、にこやかに絶え間なく囁き続け、時に権威や衆に彩られた正しさを謳い、時に網の目のような友情を謳い、時に冷笑と見紛うばかりの「高次の」認知を謳いつつ、骨髄にまで沁み渡るかと思える三十年間の惑わしであった。

その惑わしの呪縛の来たる処を、青木氏は身を呈して暗示してくれている。「私たちは天才ではありえない。」ここでなぜ「私たち」という横並びの代名詞なのか、なぜ「ありえない」という断定なのか、なぜ「私は天才ではない」とは書かれ得なかったのかを、注意深く観る必要があろう。

漸く平成は終わった。やっと終わってくれた。平成と共に、爛熟した果実が音もなく密やかに落ちるように終わった呪縛があるだろう。時間を、鳥瞰された螺旋階段として観るなら、或る一周は終わりを告げ、次の時間が始まりつつある。江戸は漸く終わり、新たな近代が始まる。

整備された舗道ではなく有るか無きかの獣道に臨むあなたへ、堅牢な井戸の底ではなく日本海溝を覗き込むあなたへ、私は言いたいのだ、「あなたは天才でしかありえない」と。この言葉が自分に向けられていると、あなたが胸底わずかにでも思うなら、犀の角のように、天才である事を覚悟せよ。

私が茫洋とした悲しみを覚えたのは、麒麟の句に対してではなく、麒麟の句の周囲から立ち昇る、生ぬるい呪縛の匂いに対してだと思いたい。その匂いもやがて霧散するだろう。

ここが麒麟の過渡期であり、素十のような質実の強靭さへ向かおうとしている途上か、と信じたい。

だから、先ほどあなたに向けた言葉を、私は麒麟にも言いたい。この論の前半で取り上げた「鴨」中の諸々の佳句を書き得た麒麟に、優しくとも犀の角のように在る覚悟をせよ、と言いたいのだ。

「玉虫」から三句挙げる。

炬燵より出て丁寧なご挨拶

あまりにもゆっくりとした動作を思い、そんな風な無力さ、慎ましさ、融通の利かなさに対する、作者の深い愛を感じたりもする。穏やかな老婆の描写だろうか。ほんのりと可笑しい句である。

月光を浴びて膨らむ金魚かな

月光に映えて金魚の赤が膨れ上がるように輝いている、と読めば美しい句だ。月光が黄泉に通じると観て、死んだ金魚が水面に浮いて膨らんでいると読めば、これは惨い句だ。金魚の生死は永遠に判然としない。

いつまでも蝶の切手や冬ごもり

冬ごもりする蝶はいる。凍蝶なら、寒さに削られて、ただでさえ薄い身はどんどん薄くなる。切手の如く薄くなるだろう。切手とは便りに貼る物だ。越冬と閉塞と、凍てに削られる事と、便りへの思いが、「いつまでも」ある。あたかも「冬ごもり」という行為の中で、時間がループするように。

週刊俳句 第667号 2020年2月2日

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667
202022


鴨と玉虫 西村麒麟を読む……竹岡一郎 ≫読む

【空へゆく階段】
 №23 ゆうの言葉……田中裕明 ≫読む
 解題……対中いずみ ≫読む
    
【句集を読む】
穴と棒
大野泰雄『むつつり』を読む……西原天気 ≫読む

 【週俳12月の俳句を読む】
宮本佳世乃 ひとりではなく ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
サイモンとガーファンクル「フランク・ロイド・ライトへ捧げる歌」 ≫読む

〔今週号の表紙〕かいつぶり……岡田由季 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

後記+プロフィール668

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後記 ◆ 西原天気

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no.668/2020-2-9 profile

細村星一郎 ほそむら・せいいちろう
2000年生まれ。「奎」同人、「慶應俳句会」代表。第16回鬼貫青春俳句大賞受賞。

中田 剛 なかた・ごう
1957年生。「翔臨」所属。

■小西瞬夏 こにし・しゅんか
1962年生まれ。『海原』同人。現代俳句協会会員。

■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』、2016年に『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』を上梓。

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

〔今週号の表紙〕第668号 浜名湖 野木まりお

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〔今週号の表紙〕第668号 浜名湖

野木まりお



東京に霙が降った日、浜松に行った。遠州灘を見たかったのだが、浜名湖までで時間切れ。湖からは弁天島が一番海に近い。暗い雲に風が強い。

この空の下で釣りをしている人が一人。鰻ですか? と尋ねたら苦笑しながら、「鰻はこんな釣り方はしません」とのお答え。

しかし、竿の先には魚影が。「ああ、鯉ですね」と言ったら「鯛です」と、竿を上げて見せてくださった。浜名湖は海とつながっているので、海水と思っていいのだそうだ。遠州灘が遠くに見えた。







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