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【句集を読む】根幹を見つめた沈黙の時間 鷲巣正徳句集『ダ・ヴィンチの翼』 小久保佳世子

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【句集を読む】
根幹を見つめた沈黙の時間
鷲巣正徳句集『ダ・ヴィンチの翼

小久保佳世子


鷲巣正徳さんは大学時代の友人舘山誠さんに連れられ、ふらっと「街」の句会に現れたと記憶しています。館山さんと鷲巣さんを繋ぐキーワードは、吉本隆明の『最後の親鸞』だったと伺ったことがあり、大学時代から定年間近まで続く男の友情の底流にあるという『最後の親鸞』とはどんなものかと当時読んでみたりもしました。その後、舘山さんは古文書研究に向かい俳句から遠ざかってしまいましたが、逆に鷲巣さんは精力的に俳句作りに邁進、様々な句会に参加されるようになったという印象があります。

俳句と出会い本当に楽しそうだった数年後のある日「難病と診断されてしまいました」というショートメールが届き、それからしばらくして「命あるかぎり俳句を作ってゆきます」という言葉が忘れられないメールを頂きました。

作者の個人的な情報を抜きに俳句そのものを鑑賞する態度が好きですが、句集『ダ・ヴィンチの翼』はどうしても作者の境涯に思いが行ってしまいました。と言っても境涯俳句の重さ暗さはなく、モノに語らせる鷲巣正徳俳句の知性、品性に胸を打たれる思いがありました。

鷲巣さんは、俳句の始まりのころから牛、犬、猫、鳥、昆虫など生き物をよく詠んでいて特に牛の俳句の数は目立ちます。

星月夜どしやと子牛の産まれたる

牛の擦る柱艶艶蔦紅葉

これらの句には、牛に親しんでいないと生まれない言葉の真実があります。

猫の尾の箪笥より垂れ秋うらら

柚子湯出てぞりと腓に猫の舌

ゑのころや電車見るのが好きな犬

猫や犬と暮らす日常の一コマが活写されていて、もしかして鷲巣さんは犬猫たちと同じ次元にいる幸福を知っている方なのでは、とも思うのです。

国債売る背広に汗の翅模様

事務引継ぎ自分の匂ひ消して冬

俗社会のなかで鷲巣さんのような純粋な方は生きづらかったかもしれない、と余計なことを思ってしまいました。それはかつて『最後の親鸞』(吉本隆明)に救われたと聞いたからかもしれません。

生きむとて気管切らるる秋の暮

繋がれてゐても銀河と交信す

もしここに白鳥来れば乗つて行く

凍蝶を我が身と思ふ月日かな

かなかなを聞きつつ行けば透明に

夕焼を掬つて妻の髪飾らむ

ダ・ヴィンチの翼で翔ける冬銀河

病によって不自由になってゆく全てを静かに受入れ、鷲巣さんの詩境はますます澄んで深い俳句となって結実していったようです。

『ダ・ヴィンチの翼』を読んで、「言語のほんとうの幹と根になるものは、沈黙なんだということです」という吉本隆明の言葉を思い出しました。枝葉ではなく根幹を見つめた沈黙の時間を鷲巣さんは知っていて、吉本のこの言葉の意味するところを深く理解されているに違いありません。

それは、お見舞いに伺った折の鷲巣さんの笑顔の透徹した美しさに触れて強く実感されたのでした。


鷲巣正徳句集『ダ・ヴィンチの翼』2019年7月/私家版



句集を読む プレテキストと複雑 生駒大祐『水界園丁』の方法について(前編)

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句集を読む

プレテキストと複雑
生駒大祐『水界園丁』の方法について(前編)

上田信治

生駒大祐『水界園丁』には、先行句の存在を、思わせる句がある。

いちど気がつくと、どんどん見つかってしまう。

それは模倣でもパロディでもなく、作者は、明確な方法意識とアドリブ的な変奏によって、俳句の新しい「書き方」を作りつつあるのだ ── ということを書きます。


1. 先行句の存在(信じようと、信じまいと)

ある句について、他の句との類似性を指摘することは、いろいろと「はばかり」のあることだ。

「二番煎じ」の指摘であれば、句の価値の引き下げになる。

また、先行句との関係を強調する読みは、それをシンプルに享受していた読者を、疎外し「傷つける」。

あるいは、その先行句を、作者がまったく意識していない、あるいは納得しない、ということもありうる。その場合、自分は「何かヘンな電波でも、受信していたのか」との誹りをまぬがれえない。

しかし、この人の句は、たまたまそうなっているのではなく、明らかに「そう」書かれている。だから、その方法について「分かってもらう」ことは、作品がより本質に近く受容されるために、必要だと思う。



句集には、先人の句に、後句をつけ、句兄弟を作っているような句が多くある。

 みちのくの星入り氷柱われに呉れよ 鷹羽狩行『誕生』(1965)
 吾に呉るるなら冬草に綴ぢし書を 生駒大祐

 アスファルト輝き鯖の旬が来る 岸本尚毅『舜』(1992)
 道ばたや鰆の旬のゆきとどき 生駒大祐

 真白なる箱をおもへり法師蟬 田中裕明『夜の客人』(2005)
 真白き箱折紙の蟬を入れる箱 生駒大祐

(まだ、たくさんあるので、探してみてください)

このような、内容レベルで「踏んでいる」句は、『水界園丁』では、軽いほうの句に属する。作者は、先人の句にあとからハモるように、唱和することを楽しんでいるのだと思う。



自分が、先行句の存在という言い方で言おうとしているのは、たとえば、次のような関係の二句のことだ。

 もう一度言ふ蕪提げ逢ひに来よ 生駒大祐
 蓮池の一面枯や訪ね来よ 藤田哲史『新撰21』(2009)

読者は「『来よ』しか合ってないw」と思われるだろうか。

しかし、この二人は高校・大学を通じての友人同士で、藤田が先に俳人として注目されて、といった経緯があり、そして、生駒の句集の何ページか後には、このような句がある。

 枯蓮を手に誰か来る水世界 生駒大祐

遠くから、親しい人に「逢いに来ればいいのに」と心で呼びかけている二つの句と、非現実の世界に誰かがやってくる、という句。「」と「枯蓮」の句だけならそうは見えないけれど、藤田の「蓮池」の句をはさんで、三つの句はつながっていて、照らし合っている。

 太陽へ鳥のいざなひ鳥世界 高屋窓秋『ひかりの地』(1976)
 月星の燃えゐし一夜鳥世界 〃

「枯蓮」の句の「水世界」は、高屋窓秋の「鳥世界」の言い換えだろう。

窓秋の連作は絶対的な孤独を思わせる内容だけれど、生駒の「水世界」は(「鳥世界」の非人間性と不気味さを重ね焼きにしつつ)なお、人の訪れを待っている。

見渡すかぎりの「水世界」のむこうから、枯蓮を手に、ぴたぴたと歩いてくる人がいて、それは懐かしい人なのだ。

のっけから濃厚な「ストーリー読み」になってしまって、俳句は「プレーンテキスト」(「オルガン」8号)と標榜する作者には申し訳ない。しかし、彼の句のいくつかは、こうして読み解かれることを、待っていると思う。彼は、それらの句を、ポエジーと同時に遊戯精神を働かせ、パズルを組み立てるようにして書いているはずだからだ。


2.「写し書き」(トレーシング)の方法

『水界園丁』は、非常にいい句集だ。同時代の作品から抜き出た異質性があり、私たちの時代の「名句」となることを予感させるいくつもの句がある。

とはいえ、一見、さほどでもない句もある。

 平日は偶々太き冬木の枝 生駒大祐

一句の重心は「平日」の一語にかかっているけれど、無内容をねらって平坦になりすぎたか、「偶々」の一語に意外性はあるがそこまで成功していないようだ ── くらいに思っていたのだけれど、句集を繰り返し読むうち、この句が、

 初夢のいきなり太き蝶の腹 宇佐美魚目『草心』(1989)

を下敷きに書かれている可能性に気がついた。

初夢(新年) → 平日」「いきなり偶々」「太き」「蝶の腹冬木の枝」と、音数も品詞も意味も、上から下まできれいに対応している。

とすれば、この句は「いきなり」と「偶々」が対比されていると読める。初夢は「いきなり」だったけれど、今日は、もっとゆったりとした視線で「偶々」その枝を眺めた、太い枝だった、そういう「平日」だったのだ、と。

いったん先行句の存在を知って読むと、ぱっとしないように思えた「偶々」が、もう動かない。

 水の世は凍鶴もまたにぎやかし 生駒大祐 

ふしぎと記憶してしまう句だ。彼の句には、内容はさておき、ともかく口の端に上らせると気持ちがよく、憶えやすいところがある。しかし「にぎやかし」という名詞が「水の世は〜また」を受けるためには「にぎやかし(のひとつであるような場所だ)」と言葉を足す必要があって、構文的にはむしろ、がちゃがちゃしている──と思っていたら、

 君が居にねこじやらしまた似つかはし 田中裕明『櫻姫譚』(1992)

という句を、思い出した。見ての通り、これも、単語単位できれいに「踏まれている」。

このように、先行句の全体(または一部)の語順や品詞の配列を引用するような書き方を、仮に「写し書き」(トレーシング)と呼びたい。それは、森澄雄が、芭蕉の〈初秋や海も青田のひとみどり〉の中七下五から〈田を植ゑて空も近江の水ぐもり〉を創作したような方法だ(*1)。

「にぎやか」から派生した「にぎやかす」という動詞から派生した「にぎやかし」というややこしい名詞は、裕明の「似つかはし」という形容詞に引っぱられて出てきたと考えると分かりやすい(「水の世」は、下五を「似つかはし」に置き換えても意味が通じる)。

生駒は、ここで先行句の音や型だけを抜き出して、自句の下敷きにする、ということをしていると考えられる(無意識の引用として行われた可能性もある)。

もっとも、裕明の「ねこじゃらし」の句は、若き小澤實が、耕衣にあやかって、自室に雑草を飾っていたことへの挨拶句なのだそうで(*2)、そのことは、友情のモチーフを大切にする生駒にとてもふさわしい。もし、そこに無意識の通底があるとすれば、〈水の世〉は、〈水世界〉とも共通する、孤独や淋しさの表徴なのかもしれない。



先行句を「写し書き」した句が、プレテキストと同質かつ(価値として)同等以下であれば、それは、なぞりであり模倣だということになるだろう。

しかし、生駒は、先行句のリズムや展開(合わせて「気息」と呼んでもいい)を、サンプリングのように抜き出して、その上に、新たな質と価値を持つテキストを構成することに、確信をもっているようだ。

 松の葉が氷に降るよ夢ふたつ 生駒大祐 
 さるすべりしろばなちらす夢違ひ 飯島晴子『朱田』(1976)

晴子の句は「さるすべりしろばなちらす」という無内容に近い言葉の連なりからこぼれ出たような「夢違ひ」へと飛躍する。生駒は、同じく上五中七を(植物の説明)→(動詞)と展開し「夢違ひ」の位置には、

 ゆめ二つ全く違う蕗のたう 赤尾兜子『玄玄』(1982)

から引いたと思われる「夢ふたつ」という語を当てた。(*3

雪を割ってあらわれる「蕗のたう」のイメージから「」と「松の葉」が生まれたのかもしれないし、むしろ、兜子の句のパラフレーズを試みて晴子句のリズムと展開が召喚されたとも考えられる。

生駒句の重心は「降るよ」の「よ」にかかっているけれど、それは、彼が、晴子と兜子の句に表れる「夢/ゆめ」という言葉の持つ哀しみに移入して、こぼした言葉ではないかと思う。

 霜の野を立つくろがねの梯子かな 生駒大祐
 死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ 藤田湘子『てんてん』(2006)

湘子の句の、朝焼けの赤のイメージと、ア音の反復の、調子の高さに対し、生駒の句はモノクロームに沈潜している。そして、両方の句に〈くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 蛇笏〉が響いている。

湘子と同じく「野に」とせず「野を」としたのは、言葉がイメージと1対1に対応し、描写に一元化することを、回避したのだろう。先に挙げた「平日」と「凍鶴」の句も、先行句と同じ「平日の」「水の世に」であれば、通常の助詞の受け方になるのだけれど、あえて「平日は」「水の世は」としている。そうやって、彼は、一句の複雑性を増やしている。

 空すでに夕立の態度文を書く 生駒大祐
 雲すでに秋の意匠に腐心せる 中原道夫

こんな組み合わせもある。

「すでに」は〈春すでに高嶺未婚のつばくらめ 飯田龍太〉のように「四季+すでに」というふうに使われることの多い語だけれど、中原はそれを「雲すでに」と一回ひねり、そしてその雲は「秋の意匠」に(つまり「秋すでに」の状態を作ろうと)腐心しているのだと、もう一回ひねった。

生駒句は、中原句の「秋の意匠」を「夕立の態度」にパラフレーズしているのだけれど、しかし「夕立の態度」とは何ごとであろうか。自分はこの「態度」という語の選択に、たまたまそこにあったから、パッと掴んだというような、アドリブ性を感じる。前に挙げた「偶々」も「にぎやかし」もそうだ。

彼の語選択には、しばしば偶然の感触がある。それは、まず、型を優先させる書法からくるものかもしれない。

[態度:物事に対したときに感じたり考えたりしたことが、言葉・表情・動作などに現れたもの](デジタル大辞泉)

つまり、空は空で何かを感じているらしいけれど、自分は、手紙を書くのだ、と。夕立になれば、その手紙は出せないかもしれないという、コミュニケーションの齟齬が暗示されてもいる。

さらに細かく見れば、龍太句も中原句も「すでに」と調子高く切り出したあと一呼吸入れて、あとはその勢いで歌いきっているけれど、生駒句は、中七でさらに切って構成を重層化している(そのために、呼吸としては、三段切れに近い印象になっている)。

生駒の書法は、一見、端正という印象を与えるが、彼は、選択肢があれば、常に複雑になるほうを選択するため、しばしば、がちゃがちゃしていたり、つんのめるように展開したりする。

そのアドリブ的でアクシデンタルな書法と、それが生む異化効果は、彼の句の特徴のひとつだ。


3.季語・キーワードを介しての照応

短歌ムック「眠らない樹 vol.2」(2019.2)所収の座談会「俳句と短歌と」(出席:生駒大祐・大塚凱・服部真里子・堂園昌彦)は、短歌と俳句の書き手がそれぞれの方法について比較しつつ論じ合ったもので、生駒は、自身の俳句について、このように発言している。

引用1(〈里芋が滅法好きで手を叩く〉について)あれは副詞の「滅法」がスタート地点になっています。句の書くに「滅法」をおもしろがる感覚があって句にしました。こうしたときに型が非常に重要で、この作り方をすればあるレベルの句になるというものがある。良い型は積極的に取り入れます」

引用2「ある句や歌が成功しているとすれば言葉を適切に選んでそこに構成したという操作の過程そのものに手柄がある。主張したい意味はその俳句のゴールポストに過ぎない」

引用3「そこにはリアリティを作品上でどう担保するかという問題がある。完全な虚構ではなくて現実がどこかにあるのだと担保するのが、短歌においては私性で、俳句においては季語なんです。季語は非常にうまいシステムで、言語空間・時空間双方において句を拡張してくれる。季語を通して自然と通じることに加え、過去の名句が重層的に背負われるからです。参照性があり、過去への読みの窓が開いている。現在と過去が二重写しになっていて、リアリティーや物語を担保している」

引用4(〈わたくしが復讐と呼ぶきらめきが通り雨くぐり脱けて翡翠 服部真里子〉について)肉体を持った人間がいるというよりも、意識だけがそこにある虚な感じがする(…)「翡翠」と「復讐」という強い言葉を合わせて操作は、具体的な意味でくっついたというよりは、抽象的な言語空間上の距離が近かったからだと思うんです。抽象度の高いレイヤーに作者の主観がある。そのあたりの感覚が(自分に)似ていると思いますね」

ここでは、彼の手の内が、きわめて率直に語られている。



引用1の「型」についての発言は、まさに「写し書き」(トレーシング)の方法の説明になっている。

前節で挙げた作例を見れば、過去の秀句において、その一句の一回性の表出であると考えられていたような、音と展開のパターンが、彼には再現可能な「型」として意識されていることが分かる。

引用3の「季語」を通して「過去の名句が重層的に背負われる」という発言は、季語についての一般的な内容ともとれるけれど、彼の句が、季語を通じて特定の先行句を想起させることによって、より深い内容と構造を獲得していることを示唆している。

今節では、そのような、季語(およびキーワード)を通じての、先行句との関係を見ていきたい。

前節の例にも増して、思い込みが暴走してしまうリスクは高いのだけれど、裏がとれている句もある。



 綿虫の間遠き光ばかり来ぬ 生駒大祐

美しい句だ。遠くから弱い光が来て、浮遊する白という、綿虫の本質的なありようを見せる。「間遠き」は、距離と時間が離れている、という形容だけれど「間遠き光ばかり」と言った場合、逆から言えば、間近き光、つまり手もとや自室を照らす灯りはない、という意味だろうか。光は遍在するものだから、遠くからばかりで近くのそれがない、ということは(「綿虫」といえば昼だけれど)逆に、まわりはほぼ闇、と読んだ方が、いいのかもしれない。

ところで、この「ばかり」は、どう読めるか。「背の高い人ばかり来る」と言った場合、それは「そこを何人かの人が通ることになっているが、それは背の高い人ばかりだった」
という意味になる。そういう光……?だとすれば「間遠き」は、遠くから、そして、間隔を置いてという二重の意味で書かれているのだろうか。

(自分がプレテキストがあるのだろうかと、考え始めるのは、だいたい、このような読み切れなさのある句だ)

 綿虫やそこは屍が出でゆく門 石田波郷『惜命』(1950)

生駒が、季語→過去の名句の連想を重視していると知り、綿虫といえば……と、この句を思い出した。

つまり生駒句の「間遠き光」とは、ひょっとすると、波郷の句の「屍が出でゆく門」が開くたびに、見える光なのではないか。

死後の世界は常夜というけれど、逆に自分のいるこの世が薄闇で、遠くにあるその門が開くときだけ、あちらの世界の光がかすかに届く。そのとき見えるふわふわした綿虫だけが、自分が、こちら側にいることの証しのようだ、と。

ここまで踏み込んだら、ふつうは「読み過ぎ」と言われても仕方ないだろう。しかし『水界園丁』の句には、一見、書かれていないことが、先行句を借りて書き込まれている、というのが、自分の解釈なのだ。

こんな句もある。

 死を思ひ寒晴半歩下がりけり 生駒大祐

時間を表す四音の言葉が、助詞抜きで中七に挿入される型は〈時計屋の時計春の夜どれがほんと 久保田万太郎〉からか。しかし、死を思って/寒晴に/半歩下がった、というこの句の三つの要素は、統一的な心像をつくることに失敗しているように思える。

 寒晴やあはれ舞妓の背の高き 飯島晴子『寒晴』(1990)

しかし、生駒句には、晴子のこの名高い句の「寒晴」が響いているのだと思った(*4)。

だとすれば「半歩」下がることについての読みは、こうなる。「寒晴」のなか、死についての想念がよぎったとき、自分は晴子の句の、背の高い舞妓を見た。逆光のなか、半ばシルエットのそれは、恐ろしいものだった。自分は、舞妓とその長く引く影をおそれて(三歩下がって師の影を踏まず)あとずさった、と。(*5

驚くべきことに、生駒は、季語を介して過去の名句を想起させるのみならず、その句と自分の句の時空をつなげてしまう。

綿虫」の句も「寒晴」の句もそうだし、次の句もそうだ。

 覚えつつ渚の秋を遠くゆく 生駒大祐

この「覚えつつ」(=自然と思い起こしつつ)は何を対象とするのか。句末まで読めば、「いま(そこを)遠く(はなれた場所を)ゆきつつある「渚の秋」のこと」と取ることが可能になるのだけれど、その心許ない迂回路を見つけるまで、「覚えつつ」は目的語を探してさまよう。上五のあとの、やや深い間を利用して、それが「書き忘れられたかのような」印象を与えることが、この句の不思議さの中心にある。

 渚にて金沢のこと菊のこと 田中裕明『花間一壺』(1985)

」で秋ということしか合っていないけれど、生駒のような書き手が「」と書くとき、この句を全く意識しないことはありえない。だから、「覚えつつ」の対象は、どうしても、この句の裕明のことだと思われる。

裕明は、渚に座って、懐かしい秋のことを話している。生駒の句の中の人は、裕明のいる「」のことを思いつつ、自分の今を、過ぎてゆく。

「渚」と「秋」というキーワードを通して、裕明の句の時空と、生駒の句の時空はつながっていて、この句の場合は、そのつながっているということ自体が、句の内容になっている。



ここまで『水界園丁』の、先行句をプレテキストとする方法について、見てきた。

以下の節(次週掲載予定)では、まず、その方法の持つ意義を確認したい。

多いとはいえ、『水界園丁』の先行句を持つ句の占める割合は、20%以下だと思うので、続いては、その他の(先行句が見当たらない)句にも共通する、生駒の方法意識について考えたい。

さらに、自分が、この句集の達成であると考える、いくつかの句を紹介したい。

(つづく)


*1 森澄雄の「写し書き」については、こちらを。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2017/05/blog-post_74.html

*2「「ねこじやらしまた」の「また」がうれしい。この細やかな呼吸が裕明のものだ。「似つかはし」きものは「ねこじやらし」だけではない、としてくれているのだ。」(小澤實/『田中裕明全句集』「栞」より)

*3 兜子の「夢ふたつ」は遺稿から、死後、刊行された全句集に収録された。兜子の「夢ふたつ」の句じたいが、晴子の句への応答だったのかもしれない。

*4 作者自身から「死を思ひ」の句の「寒晴」は、晴子の句の「寒晴」だと聞いた。ただし、ここに挙げたほとんどの「読み」の妥当性は確認していない。

10句作品 杉 檜 クズウジュンイチ

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杉 檜  クズウジュンイチ

立秋や老いて十指のあたたかく
蜩の声は曲がらじ杉檜
静かなばつた口から泡を噴いてゐる
いなごあたかも銃撃の砂埃
棋士の指反つて小皿の黒葡萄
鵙鳴いて襟が合成皮革かな
同じ田に椋鳥同じ木に帰る
紫は通草に染みて卵焼き
やさしくて指をしたたるレモン汁
死にながら墜ちて櫟の実なりけり

週刊俳句 第646号 2019年9月8日

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646
201998




クズウジュンイチ 杉 檜 10句 ≫読む
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〔今週号の表紙〕第647号 イソシギ 岡田由季

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〔今週号の表紙〕
第647号 イソシギ


岡田由季



イソシギ。私の住んでいるあたりでは、海辺だけではなく、川やため池でも見かける。目にする機会は、シギ類の中では多い方だ。

「いそしぎ」というと、私の場合、まず映画音楽が思い浮かぶ。映画自体はちゃんと見た記憶はない。実際に鳥が、映画のストーリーのなかに登場するらしいのだけれど、その鳥はイソシギではなくハマシギではないか、という記述をいくつかのサイトで見た。原題『The Sandpiper』はシギの意なのでどちらも含まれる。映画を見る機会があったら、確認してみようと思う。


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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 キンクス「Autumn Almanac」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
キンクス「Autumn Almanac」


天気●秋の歳時記みたいな曲を、ということで、キンクス「オータム・アルマナック」。


憲武●この曲、"yes,yes,yes"のあたりで、ああ、聞いたことある!って誰もが思うんじゃないでしょうか。ラジオではよく流れてたような気がしますが。シングルしか出てないですからね。レイモンド・ダグラス・デイヴィスの呟くような歌い方、秋っぽい。というかこの曲全体が秋っぽいのかな。

天気●まあ、とはいえ、出だしこそ、「夜が明けたら、露(季語!)に濡れた生け垣から毛虫(季が違う?)が♪」と歳時記っぽいのですが、後半は、土曜日にサッカー、日曜日にローストビーフ、休暇はブラックプール(英国西海岸の保養地)と、俳句っぽくはない。

憲武●食べ物がよく出て来ますよね。カラント・バンとか。ブドウパンのことですか。それとこの歌詞ですけど、

Oh! my poor rheumatic back!
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac
Oh, my autumn almanac
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac

背中のリューマチが痛む。それも私の秋の暦の一部。って。この季節表現。こういう人、多いんじゃないですか。

天気●リウマチの背中あたりがたぶんに俳句的でね。レイ・デイヴィス/ザ・キンクスはきわめて俳句的と思ってるんですよ。詳しくは、別の機会に譲りますけど。


(最終回まで、あと888夜) 
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

【週俳8月の俳句を読む】ものの表、ものの奥 藤本夕衣

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【週俳8月の俳句を読む】
ものの表、ものの奥

藤本夕衣


旋盤の金屑天の川になる  倉田有希

小鳥来る鍍金工場の明り窓  同

一句目、切断された金属の無数の破片は、工場を包む闇のその奥にある無数の星と共鳴する。二句目、薄暗い工場に小さくあけられた明り取りの窓は、小鳥たちのくる空を映している。どちらの句も、金属を加工する工場が舞台で、ごつごつとした機械に、金属の板、金具や工具といった無機質なものばかりが想像される。けれど、無機質なものが、だからといって無表情なわけではない。金属板を切断する音は、悲鳴のようにも聞こえるし、切断された後の金屑は、命の欠片のようにみえるかもしれない。そう受け取るからこそ、薄暗い工場の窓に小鳥の気配を感じる。「俳句」という詩型と向き合い、ものの表にある表情を見逃さず、ものの奥を捉える。こうした句に出会うと、私は、普段、いったいどれだけのものを見落としているのだろう、とはっとさせられる。


菅原はなめ しなやかぱちん 10句 ≫読む
642 2019811
倉田有希 単焦点レンズ 10句 ≫読む
玉貴らら 断層 10句 ≫読む

【週俳8月の俳句を読む】爽快さ 田邉大学

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【週俳8月の俳句を読む】
爽快さ

田邉大学


俳句は俳句として完成されてるのに鑑賞それを別言語で言い換えるからな…

この文章を書く数日前、友達とそんな話をしていた。確かに俳句のなかには、言語化するのが難しい魅力を持つ句や、言語化すると陳腐になってしまう壊れやすい詩性を持つ句もある。それでもその句にしっくりあった鑑賞を発見すると、句のそれまでどう言えば良いかわからなかった魅力的な部分がするりと紐解けて見えてくることがあり、その句をもっと好きになることができる。数学の問題を解くような爽快さが鑑賞という行為にはある。その爽快さを味わうためにこれからもどんどん鑑賞して、じっくり言語化していきたいと思った。


しなやかに猫の重心なつやすみ  菅原はなめ

ネコ科のしなやかさは動物の中でも有数のものだろう。あえてネコの「重心」にまで注目することによって、さらにしなやかさに補正が入る。縁側で丸まって休む猫の身体つきのしなやかさ、ブロック塀や屋根などを渡り歩く様子のしなやかさ、様々な「しなやか」を想像させてくれる。不思議なのは、なぜ「なつやすみ」がこの句に合うのかだろう。単に漢字の「夏休み」ではいけない。開かれてひらがなの「なつやすみ」でないと休暇の自由な感じ、のびのびとした感じを演出できない、そして何よりしなやかさが演出できないのだ。そう思うと、「なつやすみ」の文字が何だかたくさんのしなやかな猫のようにも思えてきた。

地球また宇宙の一部飛び込みす  同

上五中七の大胆なフレーズに大胆な飛び込みがよく響きあう。飛び込みの一瞬、宇宙から地球を俯瞰しているようなそんな印象すら受け、地球や宇宙、プールなどに共通する青さまでも鮮明に感じさせる。「地球また」の「また」に思うのは、飛び込んでいる作者自身も宇宙の一部であるということ。どこにいても変わらないだろうその事実に少し安心感を覚えた。

海獣の皮膚の手ざわり水着脱ぐ  同

海プールから上がった後の水着のざらざらとした感触がおしゃれに描写されている。「手ざわり」「水着脱ぐ」の間に何も言葉を挟まないことによって、句全体にむしろリアリティが出ているように思う。水中では身体を包み込み一体感のあった水着も、水から一度上がってしまえば海獣の手ざわりの別のものになってしまう、そのような中に、儚さにも似た穏やかなエロシチズムを感じた。


ひぐらしの声しあはせに耳小骨  倉田有希

耳小骨は中耳内に存在する、鼓膜に音を伝えるための小さな骨。そんな小さな骨が「しあはせ」になるまでひぐらしの鳴き声が届いている。夏の日中、煩く聞こえるセミの鳴き声も秋の夕方の涼やかな時間ともなれば心地良く聞こえる。一方で、作者の耳小骨の心地良さとは対照的にひぐらしの鳴き声特有の哀愁、ひぐらしという蝉自体の生命はかなさにも想像が及ぶ。そんなふうに思うのも旧かなの「しあはせ」の効果か。

百舌鳴いて鳴いて単焦点レンズ  同

今回、特に鑑賞の難しかった句。「鳴いて」の繰り返しを単に二回鳴いたと取るだけでは面白くない。ここはあえて鳴いたのは一回で、ひとつ目の「鳴いて」、とふたつ目の「鳴いて」は同じものと取ってみたい。始めの「百舌鳥鳴いて」と次の「鳴いて」の間に一呼吸置くことになる。そうすると、この一句の中で「鳴いて」の繰り返しが切字の「や」のような効果をもたらしてくれることに気付く。「単焦点レンズ」まで読み下したあとにまた「鳴いて鳴いて」に戻ってきたくなるような、そんな面白さがある、不思議な句だと思った。

写真機は嘘をつきます秋桜  同

カメラは見たものをそのまま写すことができる。一方で、カメラによって切り取られたその瞬間は必ずしも真実であるとは限らない。悲しい気分のときでもカメラを向けられれば笑わないといけなかったり、またその逆もありうる。そのような写真機の残酷さを「嘘をつきます」の口語表現で和らげ、嘘をつくということすら愛せるような気持ちにさせてくれる。そのような印象を受けるのは秋桜という、明るく、それでも秋特有のふわりとした淋しさを持つ季語ならではだろう。


真白き豪雨宵山の四条  玉貫らら

宵山のときの四条の賑わいは凄まじい。山鉾を始め、露店などが立ち並び、周囲は観光客でごった返している。そんなときに豪雨に遭った。観光客が一斉に地下や周囲の建物に避難する。筆者は人混みがあまり得意ではないので実際に遭遇したいか、と問われれば微妙だが、浴衣の人々の早く雨がやむことを期待する会話や、露店のテントに当たって弾ける雨粒の音などまでが想像される。宵山の京都ならではの光景だと思った。

弾痕は維新の名残青蔦葉  同

京都に暮らしていれば、明治維新に限らず、様々な歴史を感じることがある。教科書に載っている史実がそのまま私達の生きる時代にまで繋がっていることを思い知る。ここでいう「維新の名残」は禁門の変の際の蛤御門の弾痕や、鳥羽伏見の戦いの際の魚三楼の弾痕などであろう。「青蔦葉」はそのまま、歴史的建造物自体の様子でもあり、これまでもそしてこれからも途切れることなく続いていく私たちの歴史のメタファーとまで受け取って良いかもしれない。

保護犬と籠いつぱいの玉ねぎと  同

玉ねぎには独特の哀しさと力強さがあると思う。玉ねぎにしかないフォルムと、生のときは辛味があり加熱すると甘くなるという変化、さつまいもやかぼちゃとは異なる温もりと安心感があるように感じる。そんな野菜が籠いつぱいにあることと、「保護犬」が取り合わされることによって、保護犬が持つ孤独と、保護されたという安心、ふたつの部分が響き合ってくる。似たような部分を持つふたつの名詞だからこそ「と」で結ばれて、次に繋がる余韻が残るのだと思う。。


菅原はなめ しなやかぱちん 10句 ≫読む
642 2019811
倉田有希 単焦点レンズ 10句 ≫読む
玉貴らら 断層 10句 ≫読む

【句集を読む】それっきり 雪我狂我『アラバマの月』の一句 西原天気

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【句集を読む】
それっきり
雪我狂我アラバマの月』の一句

西原天気


椎茸の傘を広げてそれつきり  雪我狂我

松茸と違って、椎茸は、傘がひらいても商品価値が下がるわけでもなく、おそらくなんらかの処理が施されて食されるわけですが、「それっきり」と言われると、みょうに哀しい景色として、胸に迫ってきます。

不思議です。

これはきっと、食やら包装やら流通やらといった脈絡が抜け落ちた状態だからこその感慨でありましょう。


雪我狂我句集『アラバマの月』(2019年9月/私家版)















【句集を読む】酷薄 津田ひびき『街騒』の一句 西原天気

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【句集を読む】
酷薄
津田ひびき街騒』の一句

西原天気


火事跡の巻けば奏でるオルゴール  津田ひびき

筐体は材質がまちまちなのでともかくとして、シリンダー部分は金属製なので、たしかに焼け残る。火事跡をつぶさに見たことがないが、かたちをとどめて焼け残るものは、ざまざまあるのだろう。

火事のあと、静謐とまでは言わないまでも、燃えているあいだ、消火するあいだの喧騒はすでになく、オルゴールの小さな音もはっきり聞き取れるくらいには静かだ。

火災の直後に、オルゴールを巻いてみる、巻いてみたら鳴った、という事態に、私たちの感情は、どう動くのか。つまり、そこに、悲痛を見て取るのか、美しさを感じるのか。句は、そこまでは言わない。感情は、読者の事柄だ。その、知ったことかといった無縁、読者との《距離》こそが、俳句のもつ《酷薄》かもしれない。作者が酷薄であろうとなかろうと、ある種の事実の提示、出来事の切り取りはしばしば酷薄なそぶりとなる。


津田ひびき句集『街騒』2018年2月/ふらんす堂

【句集を読む】頻発するカタストロフ 樋口由紀子『めるくまーる』を読む 西原天気

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【句集を読む】
頻発するカタストロフ
樋口由紀子めるくまーる』を読む

西原天気


中近東(The Near and Middle East)の語についてかねがね思っている不思議は、ヨーロッパ視点のこの用語が、極東(The Far East)でも日本語としてしかり定着していること。訳語なんだからべつに不思議でもなんでもないとも向きもありましょうが、ちょっと気にかかってきたのですよ。

で、すこし調べてみると、中近東に含まれる地域や国ははっきり決まっているわけではなくて、文脈によって多少変化するらしいが、ともかく、それは、日本を中心に据えた世界地図上では、左手のほうに、ヨーロッパやアフリカまでは行かない左手にほうにひろがる地域であることにはまちがいなく、つまり、そうしたぼんやりとした認識。もちろんニュースで伝わることもたくさんあるが。

前転で近づいてくる中近東  樋口由紀子

句は、川柳にせよ俳句にせよ、書いてあることをそのまま受け取り、イメージするのが、読者たる私の流儀なので、中近東が前転をするところをイメージする、像にする。地図上の二次元のイメージしかなかった中近東を「前転」させるのは簡単ではないが、できないことはない。

(前転というからには肉体が欲しいが、中近東の肉体というもん、きわけて想像しにくい)

(それでも一所懸命、アタマのなかに、その図を展開させる。読者たる私のつとめとして)

スケール的には壮大で、それこそ地球規模。前転で、私のいる場所に近づいてくれば、インドや東南アジア、さらには中国南部が押しつぶされる。これはカタストロフ以外のなにものでもない。

見たことのない、かつてなかったような(それこそ未曾有)景色が、この句によってもたらされるわけで、それこそが、この句の本分と思ってまちがいない。

ところで、この句に限ったことではなく、樋口由紀子『めるくまーる』においては、しばしばカタストロフが起こる。前述の前転中近東的なたぐいとは限らない。それまでの秩序、世の中の秩序、認識の秩序、ことばの秩序が破壊されるという意味で、カタストロフ。

ゆっくりと春の小川がでたらめに 同》といった天変地異に限らず、ざまざまな様態と機序をもちつつ、例えば、

一晩だけ預かっている大きな足  同

…もまた、読者たる私のなかの、なんらかの部分を破壊・崩落させ、大変動をもたらす。

(現実として読めば、これはもう、刑事事件のたぐいです。ですが、そういうことではないだろう、きっと。しかしながら、では、なんなのだ?)

このような、この句集においては、例えば、

なにもない部屋に卵を置いてくる  同

この「卵」は、時限装置、とんでもないことが起こる仕掛けのようににも思えてくる。

なお、念のために、いまさら言えば、この種の破壊・崩壊は、悪いことではぜんぜんない。っつうか、素晴らしいことですよね。既存の認識や感情、感慨に上塗りするような句とは遠い、つまり、私たちのそれまでの状態に寄り添って、慰安してくれるような句(おなじみの共感に類する句の働き)では味わえないような体験こそが、『めるくまーる』を読むということだろう。

結論。ちょっともとに戻ると、中近東はめったに前転しない。今回が世界初の前転だろう。

(つづくかもしれない)


樋口由紀子『めるくまーる』2018年11月/ふらんんす堂

週刊俳句 第647号 2019年9月15日

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647
2019915





【句集を読む】
頻発するカタストロフ
樋口由紀子『めるくまーる』を読む……西原天気
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酷薄
津田ひびき『街騒』の一句……西原天気 
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それっきり
雪我狂我『アラバマの月』の一句……西原天気 
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【週俳8月の俳句を読む】
田邉大学 爽快さ ≫読む

藤本夕衣 ものの表、ものの奥 ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
キンクス「Autumn Almanac」 ≫読む


〔今週号の表紙〕第647号 イソシギ……岡田由季
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後記+執筆者プロフィール……上田信治 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

後記+プロフィール647

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後記 ◆ 上田信治

今週は『水界園丁』句集評の後編を予告していたのですが、間に合いませんでした。すいません。

それだけ、奥深い、言うべきことの多い句集なのです。来週には、必ず。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.646/2019-9-15 profile 

■藤本夕衣 ふじもと・ゆい
昭和54年生まれ。愛知県出身。平成十六年「ゆう」に入会し、田中裕明に師事。平成十七年「ゆう」終刊後、「晨」、「泉」に入会し、大峯あきら、綾部仁喜に師事。平成十八年 「静かな場所」同人参加、第一句集『風水』(私家版)上梓。平成三十一年 第二句集『遠くの声』(ふらんす堂)上梓。現在、「晨」同人、俳人協会会員。

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。句集『リボン』(2017)共編著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。



後記+プロフィール648

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後記 ◆ 岡田由季

under construction



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.648/2019-9-22 profile 
■鈴木健司 すずき・けんじ 
1970年生まれ。「炎環」同人、「豆の木」参加。2018年第二十三回炎環新人賞。

■うにがわえりも うにがわ・えりも
1995年生まれ。2016年、「好きな女の子ができて」(30句)第13回鬼貫青春俳句大賞。2019年、「指に風」(20句)で第4回宝井其角顕彰晋翁忌俳句俳文大賞三席。東北若手俳人集『むじな』に参加。歌人としては、「かばん」「塔」に所属。

■山岸由佳 やまぎし・ゆか 1977年長野県生まれ。1977年長野県生まれ。「炎環」「豆の木」同人。第33回現代俳句新人賞受賞。

■仲田陽子  なかた・ようこ
1969年京都市生まれ。現代俳句協会会員。「寒雷」を経て無所属。

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。句集『リボン』(2017)共編著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」





〔今週号の表紙〕第648号 はね橋 岡本遊凪

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〔今週号の表紙〕
第648号 はね橋


岡本遊凪



本州との九州での玄関口であり、古くから交通の要所となっている門司港のはね橋(ブルーウイングもじ)です。最近でのキャッチフレーズには「恋人の聖地」とも呼ばれています。ちょうど、開いていた両翼の橋が閉じられるところでした。後方には下関の海峡ゆめタワーが見えています。

こちらの門司港レトロ展望室から見た関門橋画像もご覧下さい。



関門海峡のこの辺りは、壇ノ浦の古戦場でもあります。 そうそう、バナナが台湾から多く輸入された港でもあるらしいです。

バナナの叩き売りもこの門司港からとか…。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら


中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 ホール&オーツ「do what you want be what you are」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
ホール&オーツ「do what you want be what you are」


憲武●あいにく家内は里へ帰っていて、目玉焼きくらい、僕が作りましょうっていう週末を過ごしています。という訳で全国のユカちゃんに捧げます。Daryl Hall & John Oatesで「do what you want be what you are」。


憲武●この人たち、「rich girl」とか「you make my dreams」とか「kiss on my list」とか、メロディアスでポップな曲も多くあるんですけど、真骨頂なのは、こうしたバラードでしょうかね。

天気●マイナー(短調)のスロー・ブルースですね。ライブ向きの曲かも。そういえば、ヒット曲は「I Can't Go For That」とか「Private Eyes」なんかも含め、テンポが早い目の曲が多いみたいですね。

憲武●多いと思います。個人的には僕は81年発表のアルバム"private eyes"くらいまでしか聴いてないんですけどね。高校から大学2年くらいの時代です。it's a laughとかwait for meのヒットから聴き始めたので、聴いてた期間は短いんです。

天気●私もそう。よく耳にしたけど(よく流れてたんでしょうね、どこかしこで)、アルバムを持っていたかというと、記憶にない。あ、そうだ。数年前に聴いた「Our Kind of Soul」(2004年)が、えらく良かったですよ。ソウル曲のカヴァーばかりのアルバム。

憲武●へー。それ知らんかっとってんちんとんしゃん。まあ16、7からはたちくらいまでの心情に刺さってきた感じあります。ま、多くは恋愛絡みなんですが。

天気●ほぉほぉ。まあ、その年頃は、恋愛とセックスが脳内の9割を占めますからね。で、5パーセントくらいが音楽。

憲武●つぎの曲もそうしたチクチク来るような感じの曲で、大学時代の淡い恋のイメージですね。"sara smile"。

天気●おセンチ。


憲武●一緒に歌っちゃいましたが。コーラスもしますよ。ちょっとこう肌寒いような感じの季節になってくると、思い出す曲です。


(最終回まで、あと887夜) 
(次回は西原天気の推薦曲)

【週俳8月の俳句を読む】季語の令和的更新 うにがわえりも

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【週俳8月の俳句を読む】
季語の令和的更新

うにがわえりも


菅原はなめ「しなやかぱちん」

不思議なタイトルの一連だなと思い読み進めたところ、最後の最後で意味が分かった。《しなやかに猫の重心なつやすみ》という句ではじまり、《ガラケーをぱちんと閉じて夏終わる》で終わるからだ。一句一句の完成度はもちろん重要なのだが、十句まとめて読み味わったときにどれだけ楽しめるかということに意識的な一連であると読んだ。《ストローを行ったり来たりソーダ水》等やや緩い句もあるが、十句一連として読んでいくと不思議とそれも気にならなかった。この感覚は、短歌の連作にも関係するところがあるなと思った。

十句のなかで一番面白いと思った句は、《サンダルの匂う百円ショップかな》。サンダルは履くものなので、履く人や履く場面についての句ができやすいと思うのだが、今回はサンダルの匂いにフォーカスした。サンダルの匂いが履き心地に直接影響することはないと思うので、どうでもいい些細なことなのかもしれないが、これまであまり注目していなかったものの見方をしたことで、「サンダル」という季語が「令和的に」更新されたように感じた。


倉田有希「単焦点レンズ」

「白墨」「旋盤」「ノギス」「鍍金工場」などの語が、独特な雰囲気を醸し出している一連だった。

一連で最も面白いと思った句は、《旋盤の金屑天の川になる》。「旋盤の金屑」という人工的なものが、「天の川」という自然のものと重なり合ったところがこの句のポイントであり魅力でもある。こういった方法論は《新涼のノギスは人真似鳥の貌》にも見られる。金属質なノギスが、「新涼」という季語によって生き物のように動き出したのだ。


玉貴らら「断層」

8月の3作品のうち、鑑賞が最も難しかった。句の後半に季語を置くことで一句が閉じ、読者の入り込む隙があまりないような感じだろうか。出だしは京都をテーマにした句群かと思いきや、タイトルである《断層に木の根の這ひて風死せり》との関連も見えづらく、これは一連として読むのではなく一句ずつ独立したものとして読み味わったほうが作者の意図に近づけるのではないかと考えながら読んだ。

最も印象的だった句は、《裁判所左右対称アイスティー》。おそらくこれは「裁判所〈は〉左右対称〈であるよ〉/アイスティー」という風に読むのだろうと自分の中では理解したつもりだが、それにしても「アイスティー」のところがわからない。瀬戸正洋さんや小西瞬夏さんによる先行の鑑賞にもあたってみたが、正直わたしの中ではまだ腑に落ちていない。

そんな中、この感覚こそが「季語の令和的更新」なのかなと思った。平成(あるいは昭和)の感覚では、ついていけない季語の世界がここにはある。「わからない」句との出会いや、どこかでひっそりと行われている「季語の令和的更新」を、いつも面白がっていられるわたしでありたいと思う今日この頃だ。


菅原はなめ しなやかぱちん 10句 ≫読む
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倉田有希 単焦点レンズ 10句 ≫読む
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【週俳8月の俳句を読む】言葉からの距離 山岸由佳

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【週俳8月の俳句を読む】
言葉からの距離

山岸由佳


祭鱧産科医院の消えてをり  玉貴らら

祭鱧を食しながら、かつてあったはずの産科医院のことを思い出したのだろうか。産科医院が消えると書かれると、まるで命が産まれる場所、命そのものが消えてしまったようにさえも思われてくる。

さて、祭鱧とは、京都の祇園祭の頃の鱧のことであるが、祇園祭の起源を遡ると、平安時代前期に、京で疫病が流行した際、神泉苑(中京区)に、66本の鉾を立て、祇園の神を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされるそうだ。祭りには日常とは異なる華やかさがあるが、生きるための祈りや鎮魂の儀式であり、死の世界とは切り離せない。

また、自然のエネルギーと祭の荘厳さが一つとなり、幻想的な世界をつくりあげている一句目の「真白き豪雨宵山の四条」と合わせて読むと、祭の最中に建物自体がふっと消えてしまったような感覚に陥る。


百舌鳥鳴いて鳴いて単焦点レンズ 倉田有希

百舌がしきりに鳴いているなか、レンズを覗いている作者。単焦点レンズとは焦点距離の決まったレンズのこと。ズームがついていないため、構図を決めるのに、自分の足で近づいたり遠くはなれたりと撮影の対象までの立ち位置を決めることになる。聴覚と視覚に加え、距離というものがこの句から自ずと浮かんでくる訳であるが、作者がどこに居て、何にレンズを向けているのかは定かではない。

百舌鳥鳴いての「鳴いて」が二回繰り返されることで、百舌鳥の世界にぐんと引き込まれるのだが、次に「単焦点レンズ」と軽く突き放されることで、読み手もまた、この句の中で立ち尽くすことになる。必死に鳴いている百舌鳥のあはれさがそこはかとなく漂う中、ファインダーを一人覗いているまっすぐな眼差しと、また眼前にある言葉と一定の距離をとりながら。


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【週俳8月の俳句を読む】どこか別の場所 仲田陽子

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【週俳8月の俳句を読む】
どこか別の場所

仲田陽子


ストローを行ったり来たりソーダ水   菅原はなめ

この場合自分が飲んでいるストローではなくて、テーブルを挟んで座る女性の口に吸い上げられるストローであってほしい。そしてこのソーダ水はメロンソーダフロートであってほしいし、絶対に缶詰の赤いさくらんぼが添えられていてほしい。

視覚的な鮮やかさと若干のエロスを飽きず見ていたくなる。


夏の果パイロンひとつ置いてあり   菅原はなめ

何処に置いてあるとは書いてない。例えば駐車場に赤いパイロンがぽつんと置いてあって、ふと自分自身と重なったのだ。夏の果とはいろんなやり残したことを思い出させる。


ひぐらしの声しあはせに耳小骨   倉田有希

ひぐらしも耳小骨も私は見たことがない。でも、ひぐらしの鳴き声を知っているし、耳小骨があることで音が聞こえることを知っている。

ひぐらしはノスタルジーを誘う季語であるから「しあはせに」と書かれていることでちょっとした不幸を滲ませる。日々の小さな幸せをより大切に思えたり、当たり前と思いがちな傲慢さに気づかされる。感謝したくなる一句である。


百舌鳥鳴いて鳴いて単焦点レンズ   倉田有希

カメラを趣味にしている友人によれば野鳥の撮影は難しいのだそう。なので数打ちゃ当たる方式でたくさん撮るのだとか。百舌鳥の鳴き声にカメラを構え、百舌鳥が必ず止まる枝にじっと焦点を当てて狙っている姿が浮かんでくる。

「鳴いて鳴いて」とリフレインさせる技巧が単焦点レンズへの視点のこだわりを感じさせる。


真白き豪雨宵山の四条   玉貴らら

京都市民にとって祇園祭の宵山に降る雨は梅雨明け間近を告げる雨であるということは周知のことであり、少し大袈裟にいえば平安時代から続く祭の決まりごとなのである。

四条通りは午後六時から歩行者天国となり祭客で賑わう。そこへ雷を伴う激しい雨が降る。建物や地下道に避難する人、傘をさして見物を続ける人、それまでいた群衆をすべて消し祇園囃子をも消してしまう豪雨。

作者はそんな光景を思い浮かべながら毎年恒例のこの雨を四条通りではないどこか別の場所から眺めているような気がする。


弾痕は維新の名残蔦青葉   玉貴らら

京都御所の蛤御門の弾痕だろうか。令和の時代になっても維新の名残はあちらこちらで見つけることができる。そして蔦青葉、何かに絡みついて伸びる植物にどこか不気味さを覚える。蔦が覆い隠したとしても消えない傷跡が残っているのである。


裁判所左右対称アイスティー
   玉貴らら

いかにも平等で公平な判決を下してくれそうな裁判所ではないか。アイスティーの清涼感もほどよく好感。


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10句作品 蓑虫の不在 鈴木健司

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蓑虫の不在  鈴木健司

着火からはじまる宴竹の春
釣瓶落し少し怠惰になる轍
旧友のこと思ふなり鳥威
肉厚な林檎の皮を弄ぶ
三日月の枕を高くしてゐたり
言ひ訳はいらない蓑虫の不在
稲妻や回送列車の薄笑ひ
足元にからまつてゐる秋思かな
木の実落つ明日閉店の喫茶店
三角を繋ぎて秋の野に至る
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