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週刊俳句 第648号 2019年9月22日

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648
2019922




鈴木健司 蓑虫の不在 10句 ≫読む
…………………………………………

【句集を読む】
死と友情
生駒大祐句集『水界園丁』の方法について(後編)
……上田信治 (22日午後更新)

【週俳8月の俳句を読む】
うにがわえりも 季語の令和的更新 ≫読む

山岸由佳 言葉からの距離 ≫読む

仲田陽子 どこか別の場所 ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
ホール&オーツ「do what you want be what you are」 ≫読む

〔今週号の表紙〕第648号 はね橋……岡本遊凪
 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……岡田由季 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る


【週俳8月の俳句を読む】言葉の力、言葉の引き出し 大石雄鬼

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【週俳8月の俳句を読む】
言葉の力、言葉の引き出し

大石雄鬼


サンダルの匂う百円ショップかな  菅原はなめ

できあがった俳句を見れば、素直な自然に出た俳句、と思ってしまうが、こういう俳句を作るのは私にはとってもむずかしい。たとえば、百円ショップに行って、俳句関係なしに「おっ、サンダルの匂いがしている」などと思わないだろうし、百円ショップで俳句を作ろうとして「サンダルの匂い」はまず出てこない。そもそも「百円ショップ」で俳句を作ろうとしていない。俳句のことを考えていて、「サンダル売り場に偶然居て、匂いを感じ、その瞬間それを俳句にしようとした」ことは、けっこうハードルが高いような気がする。たしかに、百円ショップには、ゴム製のサンダルが並んでいて、ゴムの匂いがしていることには、説得力がある。それが百円ショップの普遍的象徴とすら思えてしまう。さらにそこからすこし海の匂いのようなものが感じとられれば、この句は俳句として成立する。ならば「ビーチサンダル」とすれば、完成度は高くなるような気がするが、「サンダル」という無季感、「さりげなさ」感は捨てがたい。なにか発見しようとしている今回の他の作品と比較して、このなにもなさげな感じが良いような、やはり物足りないような。やはり、季語(象徴的な物)の力が必要か。いや、このままでよいか。

昼寝して下り電車のなかにいた  菅原はなめ

「下り」がよい。都落ち、下野ということが無意識に頭に浮かぶ。「夢は枯野をかけ廻る」的な昼寝。「兵どもが夢の跡」的な昼寝。さりげない光景、生活の俳句であるがゆえに、「下り電車」が象徴的な微光を放っている。先の「サンダル」でよかったかどうか自信がないが、こちらの「下り電車」はうまく嵌っている。ちなみに私には、「下り」が「腹が下る」を連想させ、肉体的不安感も感じたのだが、それは私だけかもしれない。


万緑や写生の人の背の曲がり  玉貫らら

万緑を写生しようとして、前のめりになっている感じ。万緑の力によって、背(背骨)が曲がっていってしまったような面白さ。屋外で見かける写生をしている人は、椅子が低いせいなのか、ほぼ猫背。そのさまは、目の前の光景にのめりこみ、光景に落っこちていき、溶け込んでいくかのようだと、この句を見て、「写生の人」の姿が私の中で固まった。「猫背」ではつまらないが、「背の曲がり」という即物的表現が、万緑とあいまって魅力的なものとなった。

断層に木の根の這ひて風死せり  玉貫らら

「断層」に入り込んだ木の根。長い時代を反映した「地層」であっても面白いかと思ったが、さらにそれがずれ動いた「断層」にまでしたところが、面白くしている。地球内部の大きな自然とその上で営む小さな自然。そのふれあいが楽しい。ただ、「風死せり」はどうか。死も断層もネガティブな世界。もったいないかなと思う。


小鳥来る鍍金工場の明り窓  倉田有希

ひぐらしの声しあしせに耳小骨  倉田有希

これは読み手の私の責任なのだが、鍍金とか耳小骨という言葉が、私の言葉の引き出しの中にない。たとえば「鍍金」ではなく「メッキ」であったり、「耳小骨」でなく「内耳」であったら、私はこの句をすっと受け入れられたと思う。もちろん語句の意味は、辞書で調べればわかるのだが、もともと引き出しになかった場合、実感として受け取ることが出来ない。「季語」であれば、ほとんどを引き出しの中に入れている。読書量の少ない私は、「季語」以外の守備範囲が狭い。引き出しが少ない。あまり俳句で使用しない語句の発見はとても大事だが、引き出しにない語句は俳句の中で輝けない。「鍍金」や「耳小骨」の引き出しがないことは私の責任であり、この句を評価する者に値しないのだが、一般論として語句の引き出し(ただ、意味を知っているということではなく、体に染み込んでいる語句かどうか)は、大事だと思う。生活の上でのこなれた言葉を、新たに俳句に引き込むことは喜びであり、何にも増して重要なことだが、「体に染み込んでいる語句、こなれた言葉」という観点は、「垢のついた言葉」とは別次元で重要だと思う。


菅原はなめ しなやかぱちん 10句 ≫読む
642 2019811
倉田有希 単焦点レンズ 10句 ≫読む
玉貴らら 断層 10句 ≫読む

句集を読む 死と友情 生駒大祐『水界園丁』の方法について(後編) 上田信治

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句集を読む

死と友情
生駒大祐『水界園丁』の方法について(後編)

上田信治



4.『水界園丁』の方法の新しさ

金子(兜太) 僕は俳句、短歌っていう短定型詩は、もじり、本歌取りの集積を基本に置いてできてると思う。
(左近) だから本歌取り、やめてほしいんです。
金子 いや、駄目です。これは日本短詩形の興味尽きない伝統なんです(…)本歌取りを、どううまく定型に使って、今後やっていくかというところに、一つの宿題があると思ってるわけです。
 引用の織物になってくると、何が失われてくるかというと、本歌を作った人の、僕の言葉を使うと、宇宙とか神様との付き合いの瑞々しい厳しさが、薄れちゃうわけですよ(…)
金子 ええ。よくわかります。わかりますがね、違う言い方をすると、本歌取りをすることによって、いまの魂のカケラみたいなものを受け継ぎながら、カケラですよ、自分の魂が生かせる場合があるんですよ。

(鼎談「21世紀の俳句を考える」(出席|金子兜太・三橋敏雄・宗左近 単行本『21世紀の俳句』1996)
金子兜太は、折に触れ「もじり」「本歌取り」が、俳句にとっても重要であることを語り、自作としては〈よく眠る夢の枯野が青むまで〉のような、芭蕉のもじりがあるけれど、本人も「宿題」と言っているように、多分に理念先行的な発言だったようだ。

現代俳句において、本歌取り、引用という文脈で語られる作家というと、まずは、阿部青鞋。

かたつむり踏まれしのちは天の如し 阿部青鞋
我むかし踏みつぶしたる蝸牛かな 鬼貫

あとは、加藤郁乎、高山れおなくらいだろうか(*1)。



しかし引用は、文芸・詩歌の伝統の一部だ。
古今東西のあらゆる文學作品に廣義の本歌取りの範疇に入らぬ作はない。
事、日本の詩歌に限っても、後世數知れぬ歌人の本歌取り作品の本歌となつて神格化され、あるいは完膚なきまでに食ひ荒された萬葉集の、その代表歌人の一人、柿本人麿の作品にしたところで、六朝後期から初唐にかけての絢爛たる支那の詞華を本歌にしてゐるし、六朝詩は前 漢・後漢文學といふ傑出した本歌を有ち、漢は周の、周は殷のと本歌の源を探つて行くなら、つひに、行きつくところは「言は神なりき」のその神以外考へられまい。

塚本邦雄「本歌取りについて」(『花月五百年』所収)
日本の詩歌の歴史には、その本歌取りの手法を開花させた「新古今和歌集」があり、さらに、俳諧は、貞門、談林はいうに及ばず、蕉風が本格化した後もなお、安東次男がその評釈において、
「こういう句は、独合点な解釈をきめるよりも、まず作者の謎掛の趣向をよく見定めることが大切だ」(『連句入門』所収、元禄六年「夷講の巻」評釈より)
と書くように(謎掛け!)、まず古典の教養を媒介にした付け合いをベースに展開された。



しかし、俳句は正岡子規の改革によって、シリアスな近代文学として生まれ直し、現代に到るまで、引用、あるいは本歌取りという方法を、ほぼ忘却してきた。

つまり、生駒大祐が、引用という方法を集中的に展開することは(歴史的な根拠はあるけれど)現代俳人としては「変わり種」に属する。

しかも、彼は、それを言語遊戯としてではなく、近現代のシリアスな俳句のトーンで、美や自己表出の価値を信じている人の書き方で、書いている。さらに、彼がプレテキストとするのは、主に現代俳句の秀句である。

高山れおなや加藤郁乎が、アンチ近代かつ超モダンな精神性をもって江戸俳諧に遊ぶのとは異なり、生駒は(まじめに)現代俳句を継承し、その少し先へ進もうとしている。巨人の肩に乗る、という喩えがあるけれど、生駒は、俳句の先人が斃れた地点から歩き始めようとしているようだ。

そして、連歌や俳諧が、古典の知識を共有するサークルにおいて生産されたように、生駒は、無意識にかもしれないが、現代俳句への憧憬を共有する読み手を「仮想」して書いている。そのサークルには、生駒自身と私たちの多くが含まれている。

それは、気がついてみれば、誰もやっていなかった新しい方法だ。



直接のプレテキストを持たない句も、おそらくは、俳句の言葉から言葉を得て書かれているし、ものの言い方、フレージングは、複数の俳人の声調を参照して作られている。そして、語彙は、彼によって生きられた時間からではなく、抽象的な言語空間から選ばれている。

先行句がありそうな気がするけれど、ない、という句が多い。要するに、彼の句の言葉には、引用された言葉の徴がある(これは、れおな、郁乎にも言えることだ)。

それらのことを、ここでは「引用的」と呼ぶことにする。


5.「引用的」であることからくる特性

彼の俳句の言葉が「引用的」であることから発する特性を、列挙してみる。

実体性の希薄さ
僕はあまりものを見ないで作るんですよ。言葉から俳句を生みだす試みをやっている。
例えば、あるおもしろいと感じた言葉があるとして、言語空間上の抽象度を上げることで自分が感じた面白さを抽象的に獲得する。その抽象度を再び下げて別の言葉に着地させる。
こういう作り方も僕は一種の写生だと勝手に思っています。

(前掲「ねむらない樹」座談会)
言葉から言葉を、俳句から俳句を作っているのだから、私たちが生きるこの世界と言葉の結びつきは弱くなる。言葉が、人間の自然性からいったん剥離されて、俳句内部のニュアンスと関係性からなる、人工的な俳句言語に移植されるのだ。

昼眠るため文ひらく鳥の恋 生駒大祐

この句は、おそらく次のような句との関係において、書かれている。

ねそべりて手紙を開く子規忌かな 田中裕明『夜の客人』2005
雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし 飯田龍太『春の道』1971

生駒句の「」と、裕明句の「手紙」。生駒句の「」と、龍太句の「日暮れ」。先行句と比べて、生駒句の言葉の実体性の希薄さはどうだろう。

裕明の「手紙」は、たしかに何かが書いてある。龍太の「雪の日暮れ」には空気感がある。生駒の句の言葉は、全てが、俳句のなかで見られている夢のようだ。

もっとも、この句は「鳥の恋」の付きかたによって抽象的になっているので、作者は、これまで見てきた他の句と同様に、また、複雑になるほうを選択しているだけだ、とも言える。


複雑さ

作者は、書くことの細部を、「操作」と「レイヤー」という言葉をつかって説明する。
「「翡翠」と「復讐」という強い言葉を合わせた操作は、具体的な意味でくっついたというよりは、抽象的な言語空間上の距離が近かったからだと思うんです。抽象度の高いレイヤーに作者の主観がある。そのあたりの感覚が(服部さんは自分に)似ていると思いますね」

(前掲「ねむらない樹」座談会より〈わたくしが復讐と呼ぶきらめきが通り雨くぐり脱けて翡翠 服部真里子〉について)
「レイヤー」というのは、だいたい、複雑なことを問題のレベルごとに区分けして処理するという意味だ。「操作」というのは、彼が、書くことのプロセスを、そのように分化し意識化しつつ、行っているということだろう。

「翡翠」と「復讐」が近いという話から想像するなら、彼の思考には、「滅法」という言葉と「里芋」という言葉が似ている、という言語に対する無意識的選好のレイヤーがあり、「滅法好き」という言葉から想起された〈酢昆布が好きで椿が満開で 波多野爽波〉〈コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希〉といった句が「型」として置かれるレイヤーがある。それらの階層は、読者からは見えないけれど、見えるところには「里芋」が好きな作中のキャラクターが設定される、ヒューマンな想像力が仕事をするレイヤーがある。

それらの判断の総体から、読者に手渡される「何ものか」を先取りし、遡行して、諸要素を17音に布置していくのが、彼にとっての「書く」行為なのだろう。

しかも、そのような空中戦のどこかで、彼は、さらに「操作」を加え、一句の複雑さを増すという工程の必要を感じるらしい。

昼眠るため文ひらく鳥の恋〉の句の〈鳥の恋〉には、直感的に分かる不自然さがある。

たとえば「遠蛙」とでもしてくれれば、その人のいる場所が空間として成立し、すんなり眠れそうなのだけれど、それでは、句の時空が一元的になってしまい、作者は不満なのだろう。

おそらくこの「鳥の恋」の選択には、先行する二句の作者による〈暗幕の向う明るし鳥の恋 田中裕明〉と〈百千鳥雄蘂雌蕊を囃すなり 飯田龍太〉が影響している。

しかし、裕明と龍太の句の重心は「鳥の恋」と「百千鳥」にあって、全体がそれと釣り合うように構成されているけれど、生駒の「鳥の恋」は「」に内容を充填することなく、コラージュのような人工的手ざわりと複雑性を生じさせている(*2)。

彼の方法は、レイヤーを増やし操作的に扱うことによって、一句をどこまでも、複雑にしてしまう。


現代性

彼の句の複雑さは、現代性あるいは同時代性の要請によるものではないかと思う。

「引用的」な方法は、しばしば擬古典性に向かう。

たとえば歴史上の全盛期の作品を最上のものとして、その再現を企図する作者は、現代にも多く存在する。その「新しさ」の拒絶と、過去の理想への立てこもりを、正統的、かつ反時代的で過激な創作姿勢として、評価することもできる。

しかし、そのような表現を、さらに未来の人が読んだら、どうだろう。無駄なことをしている、と思う場合もあるのではないか。

生駒は「引用的」に書きながら、つるんとしたレプリカ(複製品)を作ってしまわないために、わざと完成度を脱臼させる必要があったのだ、と考えてみたい。

鳴るごとく冬来たりなば水少し 生駒大祐
曜変天目茶碗枯れた日の差すかな 〃
暇すでに園丁の域百日紅 〃

水少し」の、舌っ足らずさ加減。「枯れた日の差すかな」の字余り、ろれつが回っていないかのような語法のあやしさ。「」の一語にあらわれる、現代口語のニュアンス。

それらは、複雑に構成された、予定調和からのはみ出しであり、作者の手の跡であり、意図された傷である。

俳句らしさのトーンとマナーのコントロール下にある、一見端正な言葉の連なりに、そうやって、彼は、かすかなノイズのような(しかし、気づいてしまえば紛れもない)私性と、ユーモアを忍ばせる。

そのような工程をへて、彼の書くものは、俳句の現在に属する作品となり、時代精神を共有する読者に向けて書かれることの意味を見出す(*3)。


6.まじめに考える彼 ──「継承性」と「普遍性」

しかし、これら*4を俳句であるという前提で読んだ時、僕は奇妙な歪さを感じるのを禁じ得ない。この感覚は一体なんなのだろうか。

その問いに答えるために、あえて僕は別の問いを立ててみる。すなわち、「俳句の必要条件は何か」。この場合あるいは、「一行詩と俳句を分けるものはなんなのだろうか」と限定してもよい。

僕にとっての「その言葉が俳句であるかどうか」の必要条件は「継承性があること」である。継承性とは、その作品が過去の俳句作品から何かを引き継いで一句を成立させているということだ。

生駒大祐「受賞作を読む/俳句が俳句であったために」(『2017年版俳誌要覧』東京四季出版より)
「継承性」は、彼のオリジナルの概念だろう。

それが俳句であるか否かを分けるのが「継承性」であるという論理には、直感的に納得できるものがある。

しかし、彼は、上につづく文で「継承性」が俳句の試金石となると考える理由として「暗黙の約束事を使うと上手くいくことの説明になる」「そう判断することが、納得を得やすく容易だ」という2点をあげて、自分のアイディアを上手く説明できていない。

彼は、いつも、俳句の書き手として、それを、内部からまじめに考えている。

だから「継承性」についても、外形的定義(例:五七五で季語がある)でも、制度的定義(例:俳句という制度の内部で書かれる)でもなく(そんなことは誰でも言える)本質論的定義として「俳句とは、過去の俳句から何かを引き継いでいる感じを与えるものである」という形で、直感していたはずなのだ。

では、もし「継承性」というアイディアの射程を最も遠く想定したら、継承される「何か」とは、何か。



先人は、その継承される「何か」を知っていた。

私たちも、何となく知ってはいるので、俳句が「書けて」いるけれど、その「何か」を、もっと深く掴むことができれば、より俳句の本質に近づくことができるのかもしれない。

俳句が内包するなにか一つの要素(季語とか、抒情とか、切れとか)を、俳句の「必要条件」と定めてしまえば、それに当てはまらない俳句を説明できなくなる。だからその「何か」は、明言しようとすれば(本質論がすべてそうであるように)「俳句性」とか「俳句らしさ」とか、そういうトートロジーに帰着せざるを得ない。

しかし、ある書き手は、その「何か」を、あらかじめ深く知っていたかのように、いきなりそれを書き始める。それは、ある人たちにとっては、自明のものであるらしい。

対して、時間をかけて自己形成を遂げた書き手である生駒は、その「何か」を、作品の「引用性」を高めていく過程で、掴んでいったのではないか。


ヴァルター・ベンヤミンは『翻訳家の課題』(*5) の中で、言語間の翻訳を行うときに為されるべき課題について論じている。
ベンヤミンによれば、翻訳とは、原作によってすでに明らかにされたことをただ別の言語に表し直す行為ではない。
むしろ、翻訳とは、原作の意図を異なる言語によって志向する行為であり、翻訳が可能であること(翻訳可能性)を示すことによって、それぞれの言語に隠されている「真の言語」を指し示す行為である。

『二つの「この世界の片隅に」 マンガ、アニメーションの声と動作』細馬宏通(2017青土社刊)
ちょうど、読みはじめた本にこんな一節があって、ああ、これが、彼がやっていることだ、と思った。

彼は、過去の俳句の響きあう場に耳をすませ、キャッチした声を、自分の言葉に「翻訳」するようにして、書く。

一句が丸ごとメロディとして飛び込んでくることもあるし、何十という句の残響が、彼にそれを書かせることもあるだろう。

そのとき、先人の句と彼の句は、ベンヤミンの言う「真の言語」を、共有する。

そうやって共有されていく「何か」こそ、彼が「継承性」という言葉で表現したものに違いない。

彼は、先人の型に合わせて歌いながら、その俳句的な肉体とでもいうべき「何か」を、継承したのだ。



もう一つ、彼の発言を引用する。
今回合評鼎談に参加させていただくにあたり、僕が個人的に抱いていたテーマは「現代の俳句において普遍性をどう捉えるか」であった。

僕の信条では、俳句が歴史の風雪に耐えて後世まで生き残るためには普遍性が不可欠である。今年初めまでの僕にとって、普遍性は一般性あるいは被共感性とほぼ同義であり、普遍性を追い求めることは月並や過去の類想との闘いであった。

このテーマを巡っての 鼎談でのやり取りの中では、片山由美子氏の「若い人は『普通』を恐れるでしょう。普通ではないことをやらないとダメなんだと。じゃあ俳句にとって普通とは何か、これは大事なことだと思うのです」という発言もあった。
私の考えでは、これは若い作家のみならず現代の多くの作家にとって考える価値のあるテーマであり、これを考えることは現代の俳句のあり方の一側面を照らし出すことになるのではないだろうか。

生駒大祐「合評鼎談総集編 今年の秀句を振り返る/俳句における普遍性について」(『2018年版角川俳句年鑑』より)
今年初め」というのは、先に挙げた『俳誌要覧』の執筆時期のおよそ一年後にあたる。

片山由美子の言う「普通」は、生駒に例の「継承性」の核にある「何か」を純化したものとして、受け取られただろう(片山は「普通でないこと」の追求を無意味化する強度をもった「普通」のことを言っているのだから、そういうことになる)。

いっぽう「普遍性」は、その追求によって「歴史の風雪に耐えて後世まで生き残」り、同時に「月並や過去の類想との闘い」(レプリカ性の拒否!)を可能にするものとされている。

つまり彼の言う「普遍性」は、「継承性」と対になるかたちで、延長線上に構想されている、と考えることが可能だ。

── 俳句には、ジャンル全体を通じて継承される本質があるけれど、個々の作品でそれを追求し純化することは、一般性や被共感性を失うことにもつながる。

しかし、もっとも偉大な俳句(継承されるべき本質にもっとも近いと考えうる俳句)が、普遍性を獲得し歴史の風雪に耐えたのだとすれば、俳句性の純化と普遍性の獲得、そして月並や類想との闘いは、ひとつの課題として解決しうるはずだ ──と、彼の思考を想像してみた。

なぜ、そんな想像が可能か(やっていいか)といえば、俳句作りの専門性において高度であるということと、泣いてしまうような抒情の両立こそが、『水界園丁』という句集の達成だからだ。


7.『水界園丁』の達成(その、ほんの一部)

ここから、すこし、鑑賞のようなことをするけれど、これまでのように、あまり先行句のことばかりを、書かないようにしよう。

芍薬の夢をはなれて雲平ら 生駒大祐

なにか先行句があるだろうかと、あれこれ考えたけれど、そんなことはどうでもよくなる、玉のようなカンペキ感のある句。

人のいない景(と読んだほうが、この句の美しさに適う)。芍薬の、ぼってりした姿と色彩という花自体が、夢、しかもそれは、芍薬の見ている夢なのだ。花の夢が気化して、五月の空をのぼってゆくと、そこには平らな雲がある。白い雲かもしれないけれど、うっすらと紅みを帯びた雲かもしれない。色と形がいろいろあって、面白く、美しい。

彼の句が複雑性の追求をやめるとき、その句は、甘やかな抒情に到る。たとえば、それは、

雨は野をせつなくさせて梨の花 〃
雲は雨後輝かされて冷し葛 〃

のような句だ。こうして並べてみると、この〈冷し葛〉は、花として描かれているのだ、とわかる。

ゐて見えぬにはとり鳴けば唐辛子 〃

私はその家に「にはとり」が居ることを、知っていたのか? 知らなかったのか? どちらにしても「にはとり」は、いきなり鳴いて、ここは「にはとり」が鳴いた家になった。起こったことは、すべて一つのことだった。ところで、この「唐辛子」は、本当にあったのだろうか(と、自分は、この句から、禅の公案のような感触を受け取った)。

水中に轍ありけりいなびかり 〃

水中につづく轍には、あちらの世界への入り口という隠喩が見え隠れしている(映画「千と千尋の神隠し」の、湖に続く線路の記憶もあるかもしれない)。いなびかりで水面が光れば、いっしゅん、その入り口はとじるけれど、逆に、この世に死の気配が満ちる。あるいは、視点は水中にあって、轍という車輪の立体的陰画が、アニメーションの雷のようにカッと白黒反転することをイメージすることも可能だ。

ここにあげたような句には、先行句がありそうで、たぶんない。



疼痛のたとへば花の水面かな 〃

型は〈橙のいはゆる贋の記憶かな 田中裕明〉『櫻姫譚』を「写し書き」しているけれど、心はむしろ、水に触れることと痛みを通して、

詩の神のやはらかな指秋の水 田中裕明『夜の客人』

と共鳴している。

なぜ「詩の神」の句に痛みがあるかいうと、この句は「発病」と前書のある〈爽やかに俳句の神に愛されて 裕明〉『夜の客人』とつながっていて、神に愛され過ぎたものは夭折するという物語のうちにあるからだ。

裕明の(そして生駒の)頭には、樋口一葉の「日記」の最後に書かれていたという言葉「我れは人の世に痛苦と失望とをなくさめんためにうまれ来つる詩のかみの子なり」があったとも考えられる(裕明の二句を収める『夜の客人』のエピグラフには、一葉の「嬉しきは月の夜の客人」にはじまる一文が引かれている)。

(その人の)痛みを思うとき、落ちた花びらが水にふれることを思う。花びらが水面をうめるとき、その生はどのようなものとしてあるのか、と。

先行句と交響する関係、思いの深さ、引き出されたイメージの美しさ、いずれも申し分なく、俳句の本歌取りの典型となるような一句。



秋淋し日月ともにひとつゆゑ 生駒大祐

この句は、芝不器男俳句新人賞の選考会で、選考委員の中村和弘に、激賞された。

これにも、元句がある。

日月や走鳥類の淋しさに 三橋敏雄 『真神』1973

が、それだ。

この敏雄の句も、非常にふしぎな句だ。「日月」の運行する天地の中心にあって、駝鳥とかエミューの類の鳥が淋しい生きものであることに、思いをはせた──というのだけれど。

じっと見ているうちに、この句もまた、芭蕉の絶唱、

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

の句の上に、重ね書きされているのかもしれないと思った(*6)。

芭蕉の晩年の寂寥感を託された「雲に鳥」に心を寄せて、敏雄は、天空をめぐる「日月」のもと永遠に走り続ける走鳥類の淋しさを、唱和したのではなかったか。

その想像を許してもらえれば、生駒の句が「秋淋し」と切り出されるのは、芭蕉への「返り」であると見える。そして、生駒は、二人の句から、天体の運行だけを残して「鳥」を消してしまった!

日月ともにひとつゆゑ」は、人間が月と太陽が1個ずつしかないことを恨んでいるのではない。思いの主体は天体であり、日と月が、互いにとってただ一つのものであること、宇宙にその相手だけであることに、つくづくと(うっとりと、と言ってもいいかもしれない)感じ入っているのだ。

敏雄や芭蕉の句と並べて、十分に「あっていい」丈高さに、驚かされる。この句は、私たちの時代の「名句」のひとつに、数えられるのではないだろうか。



秋淋し」の句、そして前編で触れた〈もう一度言ふ蕪提げ逢ひに来よ〉に加え、

窓の雪料理に皿も尽くる頃
友失せぬ欅を楡を置き去りに
ぶつからず揺れて互ひを恋ふ木かな
五月来る甍づたひに靴を手に
汝まるで吾白鯉匂ふしづけさの


のような句を見ると、生駒のもっとも大切なモチーフに、友情があることがよく分かる。

くわえて「前編」に引用した、

高屋窓秋の「鳥世界」の連作
さるすべりしろばなちらす夢違ひ 飯島晴子
ゆめ二つ全く違う蕗のたう 赤尾兜子
死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ 藤田湘子
綿虫やそこは屍が出でゆく門 石田波郷
渚にて金沢のこと菊のこと 田中裕明
詩の神のやはらかな指秋の水 〃

のような句に共通する傾向と、それに深く共鳴してしまう彼のことを思う。

この句集には他にも〈もの音や人のいまはの皿小鉢 敏雄〉〈父の忌にあやめの橋をわたりけり 永田耕衣〉〈大雷雨鬱王と会ふあさの夢 赤尾兜子〉〈大雷雨ぺんぺん草は立ち向ふ 藤田湘子〉〈冬木の枝しだいに細し終に無し 正木浩一〉を連想させる句がある。

彼は、これらの句に現れた、死のイメージに惹きつけられてはいないか。

死と友情か、と思った(*7)。


誰かが俳句を作り、別の誰かがそれを読み、何かが伝達されるというコミュニケーションの最適化問題において、考えを深めてゆきたい。
(「俳句界」2019年3月号 座談会「平成俳句とその後を語る」より)
俳句が、何かを伝達するコミュニケーションなのだとしたら、彼が得た、その「最適」解とは、なにか。

彼にとって、それは、その素質のもっともナイーブなものを手渡すことであったのだろう。

もっともナイーブなものとは、友情への憧れや、死のイメージに惹かれることや、〈芍薬の夢をはなれて雲平ら〉のような抒情や、そういったものだ。

それは、彼が今日までに培った心的要素の配合から生まれる、彼だけがこの世に持ち込めるものだ。それを、純度高く伝達することが、もっとも新奇性と唯一性を高める(月並や類想から隔絶したものにする)方法であるのは、当然だろう。

彼の「実体性を希薄にすること」「引用的に書くこと」「複雑にすること」「操作的に書くこと」などの方法は、いわゆる内容が何もなくても、要素間のふくざつな照応関係を生じさせる書き方だった。

そうしてつくられた高度に構造化された意味の空白に、人のもっとも私的な「生きてきた感想」(*8)が、抽象的な何者かの声として響く。それは、俳句という方法の不思議だ、としか言いようがない。

それは『水界園丁』という句集のエッセンスであり、彼が敬愛する作家たちが、そのピークにおいて成し遂げてきたことでもある。



ひぐまの子梢を愛す愛しあふ 生駒大祐

異質な句。この句には、本当に驚いた。

2012年に小誌「週刊俳句」に掲載された100句のうちの一句(*9)。

ひぐまの子が二匹いて、梢を愛したり、互いに愛しあったりする、とも読めるし、ひぐまと梢が愛しあうとも読める。この句は、二重に読めて、それでいいのだと思う。自分が一頭なのか二頭なのか分からなくなるくらい、本能として愛するし、愛し合いたいんだ、ひぐまの子たる自分たちは ── と。

これもある意味、友情の句だと思うけれど、孤独だから人恋しいと言うのではなく、自分たちが、はじめから愛の子であることを、高らかに歌いあげている。

なんて、心が深いんだ、と感嘆した。



『水界園丁』は、ここ数年でいえば、『凧と円柱』(鴇田智哉)『君に目があり見開かれ』(佐藤文香)『天使の涎』(北大路翼)『フラワーズカンフー』(小津夜景)『自生地』(福田若之)『記憶における沼とその他の在処』(岡田一実)などに続く、一冊ごとに俳句の新しい世界を開く、コンセプチュアルなたくらみと、詩としての強度を持った句集だ。

きっと詩や短歌の読み手を楽しませるだろうけれど、自分の本音を言えば、俳句の「中」の人が、この句集に、驚いてくれればいいと思っている。

本稿に取り上げたのは、この句集の達成の、ほんの一面に過ぎない。

これ以上、自分が、言葉を費やす必要もないだろう。

ぜひ、ご一読を。そして、お会いすることがあったら、この良さを語り合いましょう。

(了)


*1
日の春をさすがいづこも野は厠 高山れおな
日の春をさすがは鶴の歩みかな 其角

牡丹ていつくに蕪村ずること二三片 加藤郁乎
牡丹散てうちかさなりぬ二三片 蕪村

正直、れおな、郁乎の二人のフレーズの由来を探ることは、自分の能力に余る。高山句について『天の川銀河発電所』の解説対談で、其角の句の存在を忘れて語ってしまったことは、まあ、一生の痛恨事。

あと(と、さりげなく話を変えるけれど)岸本尚毅には、虚子ほか「ホトトギス」の俳人の、発想やフレーズを、さりげなく利用した句が多い。

月光はとめどなけれど流れ星 岸本尚毅
大海のうしほはあれど旱かな 高浜虚子

生駒の〈刈稲の光はあれど散蓮華〉〈星空にときをりの稲光かな〉には、この句の残響がある。

また、例外として、

折るふねは白い大きな紙のふね 渡辺白泉
居る船は白い大きな黴の船 三橋敏雄

水遊びする子に手紙くることなく 波多野爽波
水遊びする子に先生から手紙 田中裕明

のような、師に向けたオマージュのような本歌取りがある。

*2 彼が、だれかから来たメールを開いて、薄い恋のムードのなか眠ろうとしているという読みは可能だ。

*3 成功する擬古典的な表現は、過去に対する強い否定のモメントをはらんでいるのではないかと思う。田中裕明の、そういう意味での先鋭性については、よく知られるようになった。裕明は、無意識とも見えるやりかたで、一筆で、それを達成してしまうわけだけれど、生駒は、その現代性を、複数の工程をへて、また別の新しさを持った形で、実現している。

*4 第十五回俳句四季大賞受賞作である『石牟礼道子全句集』を評するために、前提条件を確認しようとしている一節。けっきょく石牟礼の句について、彼は、1行詩として高く評価しつつ、これは「俳句ではない」という判断を下す。

*5「ベンヤミン・アンソロジー」(河出書房新社)

*6 〈此秋は〉の句には、ただ今と、全人生と、永遠の、三つの時間が一つの場面に描き込まれている(…)頭上の雲と二重写しに、年が波のように「寄る」ことが見え、鳥は、下五の凝縮された語法によって現在に嵌めこまれ、永遠に静止している。(上田信治「龍太はなぜそれを言ってくれないのか」「ku+ 1号」より)

*7 健康には、気をつけてほしい。

*8ワタシは自分の娘に「芸術ってなに?」と聞かれた時、とっさに「生きて来た感想だよ」とわかり易すぎる答えを言って呆れられたが、よくよく考えるとまったくそのとおりだとも思います。(いがらしみきお「原千代さんのこと」合同句集『水の星』2011より)

*9 
http://weekly-haiku.blogspot.com/2012/07/272-201278.html

彼の作品を見るたびに驚くようになったのは、2014年くらいからという記憶があるのだけれど、「週刊俳句」にアーカイブされている、角川俳句賞応募作や、特別作品を見ると、そのずっと前から、彼の発表作品にはずいぶん「大当り」があって、自分は、彼のやっていることが、本当に理解できていなかったんだと反省している。





後記とプロフィール649

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後記 ◆ 西原天気


ラグビー日本が世界ランク第2位のアイルランドに勝利した興奮さめやらぬうちに週俳更新。あまりに話の質やスケールが違いすぎて、言っている自分でもわけがわかりませんが、とにかく、めでたいです。



通信関係の工事で、若者がわが家に来訪。鼻がむず痒そうなので、「ひょっとして猫アレルギー?」「そうなんです」「ごめんね」「いえ。他にも。花粉もハウスダストも、ぜんぶダメ」「食べ物は?」「それも。くだものはほとんど食べられないです」

ああ、お気の毒に。

「人生、損してますね」

そんなことないよ。なんだか曖昧な感じでそう告げたが、もっと大声で言うべきだったと、あとから反省かつ後悔。「そんなことない! アレルギーはたいへんだろうけど、人生、行って来い。いろんな素晴らしいものを手に入れてるし、これから手に入れますよ! きっと!」と大声で。 



それではまた次の日曜日(消費税がもう上がっているのですね。切手は84円と63円か。間違えないようにしなきゃ。それにしても消費税増税。どうしてこんなバカなことをやるのでしょう)、サモア戦の数時間後にお会いしましょう。


no.649/2019-9-29 profile

■対中いずみ たいなか・いずみ
1956年生まれ。田中裕明に師事。第20回俳句研究賞受賞。「静かな場所」代表、「椋」会員。句集に『冬菫』『巣箱』『水瓶』。

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。句集『フラワーズカンフー』 。ブログ「フラワーズ・カンフー

■岡本遊凪 おかもと・ゆうなぎ

1949年福井県生まれ、大阪府在住、(一社)日本連句協会会員、「川柳北田辺」会員、「川柳スパイラル」会員。 

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

〔今週号の表紙〕第649号 稲田 岡本遊凪

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〔今週号の表紙〕
第649号 稲田

岡本遊凪



『週刊俳句』第636号・6月30日掲載の青田が稲田(稲の波)となりました。

ご存知のように、日本では三千年来栽培され、我々の常食料として、品種改良され、今日に至っております。新米は特に美味しいですね。

この時期になると雀の活動も活発になり、声も一段と高く聞こえてきたりします。

昔、外国人が一面の稲穂を見て黄金の国として、ジパングと呼んだのかも知れませんね。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 キッド・コアラ「ムーン・リヴァー」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
キッド・コアラ「ムーン・リヴァー」


天気●秋なので、「ムーン・リヴァー」を聴いてみようと思うんですが、偉大なスタンダードなので、歌も演奏もそれこそ腐るほどあります。どうせなら、変わったもの、変態的にユニークなもということで、これ。


天気●キッド・コアラという人、よく知らないのですが、中国系カナダ人で、ターンテーブリスト。DJじゃなくて、ターンテーブリスト。そんな範疇があること自体、恥ずかしながら初めて知ったのですが、なるほど、ターンテーブル操作を駆使する。

憲武●ううむ。ターンテーブリスト。初めて聞きました。。手塚眞が自らヴィジュアリストと名乗ったのを聞いた以来の衝撃です。こういった人たちは元来DJと簡単に呼ばれていましたよね。

天気●詳しいことはわからないし、知らないのですが、いろいろな音源を混ぜるんじゃなくて、オードリー・ヘップバーン版を素敵に捻じ曲げていく。

憲武●捻じ曲がってます。相当な頻度で。アヴァンギャルドのようでもある。

天気●途中の間奏部分は、捻じ曲げ方がすごくて、盛り上がります。歌は、それほど捻じ曲げるわけにはいかないでしょうから。ヘップバーンですしね。

憲武●いや、それはもう。捻じ曲げてもらっては困ります。リスペクトがないと。オードリー・ヘプバーン扮するホリー・ゴライトリーが、窓辺に座ってギターをつま弾きながら歌うシーンがすぐ浮かびますしね。ラストは雨の中なんですけど、泣けました。

天気●70年代までの音楽体験で止まっていて、以降は、きほんそれを一生聴いて暮らせる感じ。新しい(ってことはないか?)ものはほとんど知らないのですが、当世のDJプレイもサンプリングもかなり好きなんですよね。

憲武●ぼくも好きですよ。友人の結婚パーティーで、ターンテーブルを用意して後輩と2人でDJやったこともあります。Tokyo suisui clubというユニット名で。恥ずかしい!

天気●音楽は引用、と思っているので、それを先鋭化すれば、サンプリングとかそのへんに行き着く。ついでにいえば、俳句も言葉も引用なので、そのへんは自分の中でつながるのかも。

憲武●なるほど。

天気●で、ムーン・リヴァーですが、ああ、もう、これはもう、名曲。胸がいっぱいになります。


(最終回まで、あと886夜) 
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

【句集を読む】とかくこの世は 小川軽舟『朝晩』の二句 小津夜景

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【句集を読む】
とかくこの世は
小川軽舟朝晩』の二句

小津夜景


食べたり飲んだり吸ったり嗅いだりにまつわる好き嫌いは人前で話すのが難しい。だいたいその種のことに興味があり、かつ日々楽しんでいる人は、本当のところを他人に明かしたくなんてないだろう(とかくこの世は言うにはばかられる話が多いのだ)。そんな中、ニコチン愛好は隠している人が少ないという意味でたわいない嗜好にちがいない。

八月や古書にしふねき煙草の香    小川軽舟

〈しふねき〉という文語の趣きが〈古書〉や〈煙草〉に似つかわしい。また〈しつこい〉と口語で書くよりもヤニの執念ぶかさがよく伝わって、なんだか典雅な愛念すらも醸し出している。なかなか効果的な文語の挿し入れ方だ。

秋風の遺影煙草をうまさうに    小川軽舟

〈秋風〉の漂白性と〈遺影〉にかがよう過去への憧憬。この流れで登場する一服はたしかに格別に〈うまさう〉である。

「あのさ、軽舟さんの秋風の煙草の句、あるじゃん」
「うん」
「あの句の遺影って誰だろう」
「市川崑がオツじゃない?  僕はそう想像したよ」

昨日、ある人とこんな会話を交わした。さっそく市川崑の遺影を見てみると、なんともいえず強そうで、優しく、茶目っ気たっぷりの表情をしている。

ああ。私にとって、軽舟さんのあの句の良さは、たばこはおしゃれとか、たばこはカッコいいといった価値観が通用した昭和の記憶の愛惜にあるのではなく、「人間とはくだらないものだ、だがそのくださなさのどこが悪いのか」という声がどこかから聞こえてくるところにあるのだ。そんなこと、ひとことも書いてはいないのだけれど……。市川崑の表情を眺めつつ、私はこう思った。

人間のおろかさやくだらなさとは、ただシンプルにおろかさやくだらなさであって、善や悪のあずかりしらない襞をもつ。もちろん背徳性に興奮をおぼえるといった世間依存型の快楽もありはするけれど、ほんらい趣味嗜好にまつわる人間の感性は道徳と一切関係がない。



小川軽舟『朝晩』はいわゆる「標準世帯」を守りつつ、横浜の自宅を離れて関西の鉄道会社に単身赴任する著者が、日々の暮らしをていねいに綴った句集である。
私の人生は私の世代の標準的なものである。あえて境涯俳句と呼べるような特色はない。しかし、平成も終わろうとする今、かつての標準がもはや標準でなくなっていることに気づいた。私の平凡な人生は、過ぎ去ろうとする時代の平凡だった。だからこそ書き留める意味もあるだろう(小川軽舟『朝晩』あとがきより)。
作者が書くのだから、おおむね本当なのだろう。けれどもこの句集はそんな「おおむね」からこぼれおちる趣味嗜好をちらりと感じさせもして、そこに私は興味をおぼえた。もちろんその部分を作者がはっきりと詠んでいるわけではない。とかくこの世は言うにはばかられる話が多いのである。




【空へゆく階段】№18 ゆうの言葉 田中裕明

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【空へゆく階段】№18
ゆうの言葉

田中裕明
「ゆう」2000年1月号・掲載

これから毎号、ゆう作品の選後評を「ゆうの言葉」と題して書いてゆきます。

新しい俳誌をはじめるに当たって、大上段に理念や綱領を掲げるつもりはありませんが俳句に対して真面目に向かいあいたいと思います。

新しい俳句ということを考えてゆきたい、新しい俳句を作ることによって新しい自分に出会いたい、そういうことを考えています。


ときじくのいかづち鳴つて冷ややかに  尚毅

季語の新鮮な用いようということが、新しい俳句を考えるうえで大切でしょう。この作品など、まさにそういう季語の用法がなされています。ことさらに奇抜な季語や、二物衝撃が一句の中にあるわけではありません。日本語としては無理な藝当をさせずに読者に深い感銘を与えるような季語を据えること。「さきほどの雨またの雨爽やかに 爽波」に似た据え方ですが、ときじくのいかづちという古語がたいへんに生きています。


梢の日すぐに動きぬ籾筵  朱人

高い木の梢のところにあった太陽が知らぬ間に動いていたという季語が安定しています。叙景のたしかな力をもった作品です。


おのづから径は身巾に雪ばんば  紀子

歩いているうちに野の径がだんだん細くなってくる。あたりに人の姿もない。そのうちに径は人がすれちがうこともできないくらい細くなってしまった。心細いとも淋しいとも言わなくても、それが伝わるところが手柄でしょう。雪ばんばは嘱目かもしれませんが、作者みずからが選んだ季語と思われます。


妻の音あらぬ一夜や吾亦紅  明澄

「妻の音」と認識したところに作者独特の視点を感じます。家事にともなう音、ひそやかでつつましい音そのものが妻という存在なのだとこの句は言っています。その点が「妻二タ夜あらず二タ夜の天の川 草田男」と違う年輪をもっています。


閉ぢし眼の前にその人返り花  昭男

この作者の句作りの特徴は、その自在さにあります。非常に骨格のかっちりした写生句もあれば、季語をバネにして想像力を存分にはたらかせた句もあります。いろいろな人生経験を積んで想像力による作品も厚みをましてきました。閉ぢし眼の前にそのひととあれば読者は、またそこから自分の想像をひろげることもできます。ひろやかなふところを持った作品です。


茶の花の全きがごと癒えたまへ  喜代子

親しい人の病いにさいして、思いをそのままに叙した作品ではありますが、作者らしい詩情が自然にそなわっています。茶の花の全きがごとという上十二が、和歌の序詞のように癒えたまへに掛かっているところも作品としては見るべきところですが、ここではただ詩情をのみ鑑賞しましょう。


色鳥のまつ先に来し一丁目  せいじ

下五の一丁目におかしみがあります。季節のおとずれを作者は敏感にとらえていて、それが一句全体の速度にあらわれています。


親しさのへんろ装束返り花  秀子

ただ遍路といえば春の季語で、歳時記には秋遍路という言葉もおさめられています。現代ならば初冬であっても遍路を見ることがあるでしょう。作者は高松の人ですから、一年を通じて遍路というものを身近に感じていると思われます。なればこそ返り花という季語も自然に即くわけです。


箒草この世の雨をいなしをり  章夫

いなすは「去なす」と書くのでしょうか。相撲用語にもあります。この世の雨をかわして、軽くあしらうほどの意味でしょう。相撲の言葉でもあるせいか、人間くさい感じがします。「箒草この世の雨をはじきをり」などと比べてみればあきらかです。そこに作者の持味とおもしろみがあります。


年棚の下のひとりは淋しかり  啓子

「淋しい」とか「悲しい」は、俳句では禁句のように言われています。しかし基本的には俳句に使ってはいけない言葉などないと考えます。だから句会では「ケースバイケースです」と言っています。どうも、それではわからない、使っていいのか悪いのかはっきりしてくれという方もありますが、一律に言うことはできません。この作品の場合も気持が濃くあらわれてはいますが、それを横から眺めているもう一人の自分がいるので流れてしまわないのです。だからよいのです。


解題:対中いずみ

空へゆく階段 №18 解題 対中いずみ

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空へゆく階段 №18 解題

対中いずみ


「ゆう」創刊号の選後評において、「俳句に対して真面目に向かいあいたいと思います」と言った。また、「新しい俳句ということを考えてゆきたい、新しい俳句を作ることによって新しい自分に出会いたい」とも言った。シンプルな言葉で、田中裕明の俳句観の芯を語っている。この言葉通りの俳誌運営だったと思う。

創刊号の裕明句は以下の通り。太字は句集収録句。

 帰り花

秋の蝶ひとつふたつと軽くなる

たとへばコスモス花の好みを問はれれば

遠き人ゆつくり歩む芋の秋

稲架解きて柿の木蔭の濃かりけり

団栗につめたくありて昼の月(句集『先生から手紙』には〈つめたくありぬ〉)

木の瘤の腥くある時雨かな

一輪の火を焚きてある時雨かな

凍蝶のもどりのみちのうつろかな

帰り花隠れて棲むといふことは

青空も身も冷ゆるゆゑ帰り花


田中裕明 ゆうの言葉

【歩けば異界】⑦別海(べっかい) 柴田千晶

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【歩けば異界】⑦
別海(べっかい)

柴田千晶
初出:『俳壇』2017年9月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

広大な湿地帯に立ち枯れたトドマツの林が見える。これがトドワラか。白骨が散乱しているような風景に言葉を失う。この世の果てと呼ばれる地に立つと死がひたひたと爪先を濡らしてくる。

トドワラは北海道東部に位置する日本最大の砂嘴(さし)、野付半島の中ほど、別海町の飛び地にある。かつては原生林だったが、地盤沈下による海水浸水や海面上昇によりトドマツは枯死し始め、樹齢百年を超えるトドマツは今も腐食し続けている。しだいに風化消滅し、いずれは何もない湿原と化してしまうという。

湿原の地平線に一本離れて立つ電信柱のようなトドマツ。

あれは死んだ父かもしれない。

父は昔、北海道に小さな土地を買ったらしいのだが、その土地がどこにあるのか私は知らない。家も建てられない湿原みたいな土地を騙されて買ったのだと、母は父を詰っていたが、二人の死後にその土地の権利書が見つかることはなかった。父が買ったという幻の土地が荒涼とした風景と重なる。

別海という地名に、私はなぜ呼ばれたのか。

江戸時代、野付半島には鰊漁の番屋が六十軒ほど立ち並び、国後島への渡航拠点として幕府が設置した野付通行屋の辺りには、キラクという幻の歓楽街があったと言い伝えられている。一晩中明かりが点っていたという遊郭は、鰊漁の男たちや商人たちで賑わっていたのだろう。

呼んだのは父だろうか、それともキラクの遊女たちだろうか。

ハマナス、クロユリ、エゾカンゾウが地を這うように咲く半島に、父が買った幻の土地がきっとある。湿地帯に敷かれた竜骨に似た木道を行けば、半島の果てにキラクが蘇り、一夜限りの遊郭の赤い灯が点る。

別海は別界か——。

婚活サイトで知り合った男たちが、次々と不審な死を遂げた「首都圏連続不審死事件」の容疑者として逮捕され、死刑囚となった木嶋佳苗が育ったのも別海町だ。別海はキジカナ(木嶋佳苗)という怪物(モンスター)を生んだ町。

性と死が、白く立ち枯れたトドマツの姿をして、やがて湿原に沈んでゆく。

 野の涯へ鴉のような受話器置く  西川徹郎

週刊俳句 第649 号 2019年9月29日

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649
2019929



【歩けば異界】⑦
別海(べっかい)……柴田千晶 ≫読む

空へゆく階段】№18
ゆうの言葉……田中裕明 ≫読む
 解題……対中いずみ ≫読む

【句集を読む】
とかくこの世は
小川軽舟『朝晩』の二句……小津夜景 ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
キッド・コアラ「ムーン・リヴァー」 ≫読む

〔今週号の表紙〕第649号 稲田……岡本遊凪 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……西原天気 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
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〔今週号の表紙〕第650号 パリ東駅 野木まりお

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〔今週号の表紙〕
第650号 パリ東駅

野木まりお



フランス本土はその形からレグザゴーヌ(六角形)と呼ばれる。その各地方に向けた国鉄のターミナル駅がパリには六つあり、それぞれ行き先の匂いが漂っている気が、私にはする。写真はドイツ方面への列車が出る東駅。他の駅に比べると最も質素な駅かもしれない。発着駅は終着駅。ドイツ国境の街ストラスブールから、夜九時近くに帰り着いた時の空の色。まだ秋である。パリに帰ると書きながら、ここは本当に私が帰る所だろうかと何時も考える。空の色は美しく少し寂しい。



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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 キャンディーズ「危い土曜日」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
キャンディーズ「危い土曜日」


憲武●月明かりをよく感じる季節になって来ました。という訳でキャンディーズで「危い土曜日」。


憲武●この曲が流行ってた頃、ぼくは中学生で、キャンディーズなんて、けっ!って感じだったですね。当時スージー・クアトロ命!みたいな感じでしたので。

天気●「キャン・ザ・キャン」。ヒットしましたね。

憲武●「ワイルド・ワン」とかね。30代の初めくらいから、キャンディーズ再発見みたいなことで、アルバムを聴いていったんです。で、この曲って、すごいなと思って。ベースラインが快感なんです。

天気●おお、そこでスージー・クアトロにつながるわけですね。

憲武●そうなんです。ベースの音が好きなんですね。ポール・マッカートニー、ジョン・ポール・ジョーンズ、マーカス・ミラー、スタンリー・クラーク、細野晴臣、みんな好きです。で、キャンディーズですが、作詞、故安井かずみ。故加藤和彦の奥さんですね。作曲、森田公一。編曲、竜崎孝路。3枚めのシングルです。竜崎孝路のアレンジがいいんですね。

天気●ソウルっぽいですね。管のせいもあって。

憲武●週休二日制が導入される前の時代ですから、土曜日って特別な日だったんですね。この曲のほかにも、土曜日をタイトルにしたものがあります。

天気●例えば?

憲武●黛ジュンの「土曜日の夜何かが起きる」、ピンキーとキラーズの「土曜日はいちばん」などです。

天気●なるほどなるほど。

憲武●キャンディーズというヴォーカルグループは、コーラスがいいのでいつも安心して聴けます。バックバンドはMMPという人たちで、全員お揃いのツナギ着てます。ダウンタウンブギウギバンドへのオマージュでしょうか。ホーンセクションの三人が立って演奏してますが、カッコいい。この人たち、のちのスペクトラムですね。

天気●ああ、そうなんですか。スペクトラムは、当時としては先進的なバンドでした。

憲武●このシングルの発売日と、田中好子の命日が、確か同じだったと思います。2011年の4月でした。田中好子は死の寸前にそのことを思い出したでしょうか?


(最終回まで、あと885夜) 
(次回は西原天気の推薦曲)

【七七七五の話】第4回 愁と怨 小池純代

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【七七七五の話】
4回 愁と怨

小池純代


日本の連歌連句の起源をどこに求めるか諸説あり、そのうちのひとつに中国の聯句も数えられる。聯句の起源もまた諸説あって分岐点がたくさんある。受けて返して放つという言語運動が、みなさんともかく好きなのだろう。

李賀の「独吟聯句」は百句からなる聯句。男女二人の掛け合いを両吟に仕立てたもの。登場するのは遊び人の宋玉と彼の言葉敵、嬌嬈。遊里を舞台にした口説合戦である。ごく一部を引く。

 沽酒待新豊 宋玉
 短珮愁填粟

 長絃怨削菘 嬌嬈
 曲池眠乳鴨

宋玉の「短珮愁填粟」を嬌嬈が「長絃怨削菘」と受けている。「愁」も対して「怨」を持ち出すところに感情の濃淡の差がほの見える。「珮」は帯の飾り玉のこと。「短珮:長絃」「填:削」「粟:菘」、びっしりと対をなす。対を蝶番にして延々百句五十韻が続く。

対のみならず、押韻、典拠、一字一語一韻一句から無数のニューロンが突き出していて、言葉の要素が互いに照らし合い、映し合う。そんなネットワークが密であればあるほど、風通しがよく感じられるのが不思議。李賀だからなのか、漢詩だからなのか、言葉だからなのか。

ちなみに「曲池眠乳鴨」には「小閣睡娃僮」が続く。曲がった池は小さな部屋に、眠る子鴨は睡る童子にそれぞれ変貌する。前世の面影を残しながら生まれ変わり死に変わりする。そこは日本の連句に近いだろうか。

この「独吟聯句」の舞台と人物は、俚謡のモードに合うのではないか。原詩の風通しもいいことだし、上七中七下七座五の二十六音に移しかえてみた。
酔ふか酔はぬかいろまち小笹愁ひほつほつ灯す頃
怨みつらつらつのらす端唄水に流して浮かぶ鴨
すべてを掬って三四・四三・三四・五に収めるのはもとより無理。ひとつふたつの経絡と空隙を拾ってつなげるに留まった。言うまでもなく意訳ではない。

どどいつ贔屓のポール・クローデルに「三声のカンタータ」がある。年齢も境遇もばらばらの三人の女性の不定型の短句で構成されている詩劇だ。作者の晩年の言葉「一人の人間のなかには、幾つもの心の流れがある」には聯句、連句につながる流れ、また、東洋の俗曲に及ぶ流れもあったのではなかろうか。

再録にあたって 高山れおな

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再録にあたって

高山れおな

ここに再録した田中道雄氏の論文「〝古池や〟型発句の完成 ―芭蕉の切字用法の一として―」は、昭和四四年(一九六九)二月一五日発行の佐賀大学文理学部紀要「文学論集」第一〇号が初出である。

拙著『切字と切れ』を執筆するに際し、切字とは何かを理解するための基盤を与えてくれたのは、この田中氏の論文と川本皓嗣氏「切字論」、藤原マリ子氏「切字小考―切字論の再検証」「『切字』機能考」という四つの論文であった。

川本氏の「切字論」は発表時(一九九七年)にかなり話題となり、それが収録されたムックの入手も比較的簡単であるし、また藤原氏の所説についてはこのたび刊行された川本氏の新著『俳諧の詩学』に所収の「新切字論」がそれを反映したものとなっている。

これに対して、田中論文はすぐれた内容を持っているにもかかわらず、単行本等に収録されなかったためもあり、ほとんど活用されないまま今日に至っている。拙著では、第三章第二節でかなり詳しくその内容にふれているが、広く全容にふれていただくに如くはなしと、田中氏のお許しを得て、ここに全文を再録した。

田中氏の論文はひと言で言えば、「や」の使用法の歴史について統計を踏まえつつ分析したものである。「かな」が連歌時代から今日に至るまで、句末で言い切ることを第一義として、ほぼ同じ用法と機能を保持しているのに対して、「や」は時代によって相貌を大きく変化させた切字である。田中論文は、連歌時代から近世初頭までのその変化の相を実証的に追跡して間然するところがない。ただし、「や」の機能面については断切性の深浅という基準を重視して、それ以外のこまかなニュアンスの識別にはさほど踏み込んでいない(ふれていないわけではないが)。その点については藤原氏や松岡満夫氏の諸論文を合わせて参照するとより深い理解が得られるであろう。専門論文であるから平易とまでいうつもりはないが、田中氏の文章は全体に明快であり、必ずしも切字に興味のない人でも、俳諧成立の歴史をたどるという観点から楽しめ、また裨益されるところがあると思う。

田中道雄氏は佐賀大学名誉教授。昭和七年(一九三二)生まれ。佐賀大学文理学部卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学、専攻は近世文学である。本論文執筆時には三十代で、論文末尾にあるように北九州工業大学助教授の職にあり、その後、佐賀大学、別府大学などで教鞭を執られた。著書に『蕉風復興運動と蕪村』(二〇〇〇年 岩波書店)、『天明俳諧集』全八巻(共編 一九九一年 臨川書店)、『新日本古典文学大系73 天明俳諧集』(共著 一九九八年 岩波書店)などがある。

*再録にあたり、傍点の打たれた文字は太字で示し、古句・古文の引用で用いられた二字分の踊り字は通常の文字で記した。またF形式をF型式と記す場合があったが、F形式で統一した。また、明らかな誤植一ヶ所を正した。

再録 〝古池や―〟型発句の完成 ―芭蕉の切字用法の一として― 田中道雄

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再録
〝古池や―〟型発句の完成
―芭蕉の切字用法の一として―

田中道雄


一 はじめに

人口にもっとも膾炙した俳諧の発句は、おそらくは芭蕉の

古池や蛙飛こむ水の音

であろうが【註一】、このことは、かように上五を体言と切字「や」で仕立て、句末を体言で止める形が、俳諧の発句の典型的な構成様式として人々に理解されている事実を背後に持つ。長屋の御隠居が一句ひねる情景では、季語に「や」を付けた上五を二三度口号むのが常套だし、現代の俳人は、それだけにことさらこの形を嫌うようである。

ところでこの形式(今仮に、「古池や―」型、また略してF形式と名づけておこう)も、これが文学的事象である限り、その成立に至る歴史的過程を辿ることができる。結論を先に言えば、それは連歌以来の伝統を経て俳諧に持ち込まれ、芭蕉によって質的に完成されたものであった。芭蕉のすぐれた句にはこの形式が多く、しかも後年ほどこれを重視し、発句の約半数は切字に「や」を、さらにその半数以上がF形式を用いている。芭蕉におけるこの「上五や」用法の発見を鋭く指摘されたのは山本健吉氏であったが、氏は次のように述べられた。
「や」といふ感嘆詞(乃至助詞)の持つ深い含蓄を発見したのが俳諧、ことに正風の発句であったと思はれるのである。(中略)「や」と置いて、作者によって切取られた客観世界の実在感を、はっきりと指し示す、詩人的認識の在り場所を冒頭確かに教へるのだ。だから、これに続く七五は、そのやうな認識、そのやうな実在感の具象化であり、言はばリフレーンであり、「もどき」に過ぎないのだ。初五によって示された力強い、大胆な、即時的・断定的・直覚的把握が、七五によって示された具象的・細叙的な反省された把握によって上塗りされ、この二重映しの上に微妙なハーモニーを醸し出すのだ。
だから「古池」の句は、厳密に言へば二つのものの取合せではなく、一つの主題の反復であり、積重ねであると言ふべきである。「行く春や鳥啼き魚の目は泪」「夏草や兵どもが夢の跡」「明ぼのや白魚白きこと一寸」「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」「荒海や佐渡に横たふ天の川」「秋風や藪も畑も不破の関」「淋しさや華のあたりのあすならふ」など皆さうである。
(「俳諧についての十八章」六、「や」についての考察)
上五の体言で提示された主題は、中七・座五の叙述によって具象化される。ただし、上五末の「や」が作る断切は、論理性を一旦棄却して表現に空白を与え、これが座五の体言による断切と照応する時、再び深層に意味結合を復活し、同時に余情を生むのである。二句一章の屈折的表現を俳諧発句の特質と見、その解明の一法としてF形式に焦点をあて、芭蕉の完成に至るまでの小史を素描してみよう。


二 連歌から俳諧へ

外形だけから言えば、F形式は既に連歌も宗祇以前の時代において成立していた【註三】。その技法上の可能性が充分に開発された芭蕉の時点までおよそ二百年間、この形式は量的に増大し、質的に変転する。勿論それは、発句構成様式の時代的変化に基くが、その大勢の把握は、一句の眼目である切字用法の変遷につくのが捷径であろう。それにはまた、きめあらい観察ながら、まず統計によるのが便利と思い、以下は切字用法の計数的調査を軸として論を進める【註四】

Ⅰ表およびⅠ図は、連歌から俳諧に至る数点の句集【註五】について調査した、「切字の種類別に見た使用頻度の変化」【註六】を示すが、一見して大凡次の傾向を見取ることができる。

    連歌から俳諧へと移るにつれて、それまで最も多用された「かな」は著しく減少し、これに反比例して漸増した「や」が、かつて「かな」が占めた地位を奪う。

この現象を理解するには、引き続いて「切字の一句中における位置の変化」【註七】を示したⅡ表およびⅡ図を見ておかねばならない。ここでは次のように言える。(「上五切れ」とは、切字が上五の句末または内部にあることを示す。他も同様。)

    連歌から俳諧へと移るにつれて、それまで最も多用された「座五切れ」は著しく減少し、これに反比例して「中七切れ」と「上五切れ」との和が漸増する。

Ⅰ表Ⅱ表

およびⅠ図Ⅱ図

    によって、「や」の増加が、切字位置の上五また中七への移動に伴う種類の変化に由来
することが明らかとなった。逆に、「や」の増加が切字位置の変化をもたらしたとも考え得るが、むしろこの二現象は、相関し合って成ったと見做すのが正しいであろう。俳諧時代へと移るにつれ、独立したジャンルとして単独の発句制作が次第に重視されて行くのを思うと、脇句との断絶を明示する「座五切れ」より、一句の姿に変化あらしめる「上五切れ」「中七切れ」が増加するのは自然の成り行きであったろう。また同じ理由から、自由に位置を選べる「や」が好まれもしたろう。

「座五切れ」の減少は「かな」の忌避にも基く。「かな」は、簡便に句の下限を示す符号として短連歌時代から多用され【註八】、和歌以来の主情的詠嘆性を濃く残した二音の重い切字であった。位置も固定された「かな」にくらべ、「や」はいかにも俳諧にふさわしい軽快さを特質として増えたのである。右の統計によれば、「や」増加の端緒は宗祇の時代にあった。〝切字〟なる用語ができ【註九】、〝十八の切字〟や季語が整備された連歌文芸の確立期だったことは注意されてよい。この時代に切字は、発句完結の要件としてのみでなく、発句表現に及ぼすその修辞的効果も意識され始めたと想像できるからである。ただしそれも、心敬(?)が『馬上集』で「大方切れると云て。十八の切字侍るとなん。しかあれとも愚老は大略かなと留り侍り」と述べるのを見ると、充分に一般化されたとは言い難い。

したがって、①②の傾向も決して一般に意識されるはずはなく、近世を待たねばならぬのである。『天水抄』(貞徳)に掲げられた「まつハきれたり先ハきれたり/習あれや哉とハとめぬ発句して」なる前句付は、まさにその意識化を示すものであった。指導者のかかる認識あって、傾向は一層促進されたであろう。よってここで大まかに集約するなら、連歌は「かな」による「座五切れ」を、俳諧は「や」による「上五切れ」「中七切れ」を重視したと言える。「上五切れ」「中七切れ」は一句の内側に断切を作るから、発句の歴史は、連歌の一句一章から俳諧の二句一章の時代へ移ったとも説明できよう。


三 座五へ係る「や」

前章で見たように、連歌時代においてF形式は決して多くはなかった。しかし、完成へ向かってここで用意された幾何かの達成を見逃すわけにはいかない。連歌における「や」の用法などを、今少し見て置こう。

『白髪集』では、俳諧にも踏襲された次のような「や」の分類がなされている。

連歌やに七の次第
きるや  散花や嵐につれて迷ふらん
中のや  鳥帰る雲や霞に日の入て
すてや  かくしても身のあるへきと思ひきや
疑のや  思へはや鴉鳴まてとまるらん
はのや  今はゝやとはしと月に鳥鳴て
すみのや 思ふやと逢夜も人を疑ひて
口合のや 月や花より見る色のふかみ草

例句を見ても、その断切は決して深くなく、「中のや」「口合のや」など、むしろ句に抑揚やアクセントを置くもののごとく思われる。このうち、F形式に使われるのは、勿論「きるや」であり【註一〇】、また「疑のや」がこれに準ずることも、後続の解説「切や うたかひものにもかよふへし。又知ぬにも似たり。……疑のや うたかひなからとかめて。底に悦たる詞也。」から明らかである。この二つは確かに他と比べて断切が深い。しかし俳諧のそれには決して及ばない。その理由を、右記事の最後に求めることができる。

此内のやにて。にてと留る分。中のや。はのや。すみのや。
らんと とまる分。切や。疑のや。

係助詞「や」は、未だ充分その係り機能を残しているのである。「や」はいわゆる〝押へ字〟であり、座五の特定語に係って始めて効果を発揮する。従って「や」に至った読者の心には、常に句末への連続が予想されるわけであり、断切は真の断切とはなり得ない。むしろ前もって座五の断切を予告して、その断切をより強化する点にこそ本質は存するのであろう。『宗砌返札』に「山さびし日影はよ所にうつるらん……只何ともしてやの字を入候はでは、覧とはね候ばやと存候歟。山寒し日影やよ所にうつるらん、と候はんずるこそ道理も風躰も可然候へ。」と述べるのは、その一証と思われる。

ここでしばらく問題を他に転じよう。同じ『宗砌田舎状』には「五月雨は峰の松風谷の水」「あなたうと春の日みがく玉津嶋」の例句をあげ、「五もじ(註、ここでは座五のこと)にて切候。」と記す箇所があるが、この二句は後に「大まはし」と称する技法の証句としてしばしば引き合いに出されるものである。後者について同書は、「あなと申詞にて」切れるとするが、『一紙品定之灌頂』では、ただ「物の名は二三あれば、発句はきるゝ事也」としか述べていない。言切られた体言が持つ断切性への理解が、作者達に次第に深まっていることをここで指摘したいのである。しかも、単に切字なくして切れるという句意の完結に関してだけでなく、その余情効果を意識するに至つた点を注目して置きたいのである。『宗祇発句判詞』は、「松かぜもほに出る秋を荻の声/此荻の声、切れざるよし申人侍りき、……詞をいひのこしたる所に切るゝ心侍るものをと、愚意に(はふかく)おぼゆ」と記すが、これは「多くの心を含ておさへけることはなれは、切字をかゝへけるにや」(春夢草)ということになるのであろう。(太字は黒丸傍点)

ところでF形式とは、体言におけるこのような断切および余情醸成の効果が認識されて行くにつれ、体言が次第に〝留め字〟の「らん」に置換されて行って成立したものと思われる。そうなればまた、そこには様々な語彙選択の余地も生じるからである。ところで、係り行くべき留め字を失った「や」は、そこでしばらく躊躇らわねばならぬことになる。そこに生じた瞬時の空隙は、はからずも句末の断切に出会ってさらに深まる。『雨夜記』が「余情の句」として、「あなたうと」の句に続いて「さす花や瓶の上なる山桜」を挙げるのは、このF形式の可能性を充分に暗示するかのようである。ただし当初においては、『梅薫抄』で「霰路やあやおり乱る冬の雲(空)」が、「あなとふと」と並んで「是等の発句、……初心のときなどいだすべからず」とされるように、未だ上手の作者に限られることが多かったらしい。


四 貞門から談林へ

俳諧史の展開にそってF形式の成長を見るには、やはり「や」を中心として、その増加を位置の変化に関連づけながら観察するのが有効な方法と思われる。

そこで、諸句集【註一一】について「「や」の使用頻度と位置の変化」【註一二】を調査したⅢ表およびⅢ図AA’ラインを御覧いただきたい。ここではまず、次の三点が指摘できるであろう。

    貞門から談林へと移るにつれて、「や」はさらに漸増し、『玉海集』から延宝期末まではほぼ等しい五〇%内外となる。

    そして、「や」は天和期以後激減する。

    談林時代に入ると、「や」の内でも「上五末や」が急速に増え、その漸増傾向は元禄期まで続く。

Ⅲ表
Ⅲ図


    は①の現象の継続発展と解されるが、④⑤をどう説明すべきであろうか。これらの考察
に先立ち、いま一度、貞門の「や」を検討しておこう。

貞門で増加傾向を一層高めた「や」は、その大部分が中七に置かれていた。従って⑤は、貞門から談林への過程を、「中七や」から「上五や」への変化として捉えるのを許すかに見える。しかしここで、貞門を「中七や」の時代と規定するのはいささか軽率に過ぎるようだ。連歌時代もまた「中七や」が多かったからである。ここで、貞門における「や」の内訳を調べてみよう。確かにⅣ表を見ると「中七や」は多い。しかも「中七末や」が大幅に増えたことは明らかである。しかし「上五や」の欄を見ると、「上五末や」もほぼ同じ増加率で増えており、わずかに「中七末や」の増え方が多いとはいえ、それをもって顕著な傾向とは決して見做せないのである(=現象())。ではなぜ「中七や」が多いのか、その理由は一に「中七内のや」(『白髪集』でいう「中のや」など、中七内部に位置する「や」)の存続に帰せれる。その使用率は連歌のそれとほぼ等しく、

    談林時代にはいって「中七内のや」は激減する【註一三】

のと、まさに対照的である(=現象())。

Ⅳ表
統計から見た右の二現象は、貞門独自の「や」の用法の不在を想像させはしまいか。作法書が「発句の切字……以上連歌のごとく成べき歟」(増補はなひ草)というのも、これを証するかのようである。例えば現象(二)であるが、この「や」は連歌における「や」の代表的用法として、使用率は全句の五〇%にも及んでいた。俳諧がより俳諧らしくなるにつれ、忌避され消滅の方向へ歩む(決して消滅はしないが)のは自然の趨勢だったと察せられ、それだけにまた、貞門の発句は連歌らしさを残していたと言えよう。思えば貞門時代は、未だすべてについて連歌の影響色濃く、連歌壇俳壇の一致も近年指摘されているが、新様式に慣れぬ作者達は、連歌との区別に意識的に「や」を多用したとはいうものの、用法の実態はまだ連歌に近かったのではあるまいか。『毛吹草』に「てにをは計をはいかいめかして心はみな連歌にひとし」とする批評は、この間の事情をも物語るであろう。

ここで貞門についてもう一つ加えるなら、「や」を含めたすべての切字につき「中七切れ」が多かったことが言える。座五に体言を据える傾向は「かな」の減少に反比例して進行していたから、急増した季語の処理に慣れぬ作者達が、これを座五に置いた結果、おのずと中七末に切字が来ることが殖えたためと思われる。

ここで漸く⑤の解釈に戻ろう。談林時代にはいって、「や」の用法には明らかに実質的な変化が現れた。「中七や」は句内句末ともに減少し、「や」はひとえに上五末へと集中する。ここに始めて、俳諧独自の「や」の用法が出現したが、その際座五はほとんど体言で終ったから、統計的にはF形式はここで成立したと言える。すなわち、俳諧独自のパターンとしてのF形式の成立は、切字「や」が俳諧独自の用法を獲得するのと相俟って実現したのであった。こう見れば、F形式が俳諧史において以後長く使用されるのも頷けよう。ここで⑤の現象が成った要因を考えてみる。

それには二つの方向があったと思われる。本来相互に作用し合って一現象を成したものであるが、強いて区別すれば、第一は意識的にその表現効果を狙った積極的要因であり、第二は流行の新句風がもたらした消極的要因である。前者については、一にまず音勢上よりした口拍子のよさ、軽快さが挙げられる。冒頭五音で句切って下に続く時、そこには快いリズムが生じる。このことは、寛文期の『佐夜中山集』『時勢粧』において、「諷取り」の部の「上五末や」が他の部のそれより遥かに多い事実(Ⅴ表参照)が暗示的である。談林俳諧の音律上の軽快性については既に指摘されているが、これは「上五末や」の増加とも無関係ではない。ではなぜ、上五末で切ると快いリズムが生じるのであろうか。それは『撃蒙抄』にも「自余は五七の間にて切べし」と記すように、和歌の七五調に慣れたリズム感が、連歌を通して俳諧にも流れ込んでいるためと思われる。試みに、連歌俳諧を問わず「中七切れ」また「座五切れ」の句を見るがよい。ほとんど例外なく、上五末に浅い休止があるのを認め得るであろう【註一四】。逆に「上五切れ」の場合は、中七末に小休止を置くことを必ずしも要しないのである。かように、十七音においては五・七五と切るのが最も自然な音律をなすのであるが、これは談林俳諧までは強く意識されなかった。それまでの「や」が作る浅い断切では、「中七切れ」の場合にできる二ヶ所の断切は句を三分せず、さほど目や耳に障りはしなかった。しかし後述する如く、談林において「や」の断切は深くなる。その深い「や」は、発見された最もふさわしい一ヶ所を求めて上五へ集中したのであろう。二は、第二の消極的要因と一層有機的に絡み合って表裏をなすものであるが、冒頭に短かく鋭く提示することによって生じる、鮮明なイメージ効果である。「正月や先ヅきよき物あら筵」の句を評して、「正月の五文字に力あるべし」(宇陀法師)と言った「力」とは、音の響きのほかにこのような効果もさしてのことであろう。発想の契機となる季題を冒頭におけば、鑑賞の際の導入は容易になるであろうし、奇抜な語であれば注意も引きやすいであろう。貞門から談林へと移るにつれ、キャッチ・ワードともいうべき印象鮮明な語を上五に置く傾向は、次第に進行するようで、「上五末や」の増加もこれと軌を一にする。また、その「や」の上に置かれる語として単一の名詞が多く選ばれるに至るのも、これを裏付けるであろう。「呼び出すや(=名所のや)」なる用語の発生も、以上のことをよく説明している。第二の要因については次章で論ずることにしよう。

Ⅴ表

五 雅俗イメージの対照


談林発句の作風のうち、当面の論述のため重視すべきは、俗語の増加がもたらした俳諧性の変質にあると思われる。貞門から談林へと移るにつれ、一七音中に占める俗語素材の比率は急速に増大するが、これは貞門の、縁語や掛詞また雅文中に配された俗語の違和感といった用語中心の面白さを、談林の雅俗のイメージの違和感が生み出す面白さへと転化して行った。これを実例で示すため、ここで遡って連歌以来のF形式の句を見てみることとしよう。F形式を選ぶのは、同じ形式であるほど変容が理解しやすいと思うからである。句の選択は恣意によった。(太字は黒丸傍点)

青柳や春の宮井の手向草 (宗祇発句集)

連歌であるから勿論すべて雅語で仕立てられ、和歌的美意識でもって〝集合された全体のイメージ〟(以下イメジャリーと呼ぶ)が統一されている。また「や」の断切が深くないのは、その前後の論理が一貫し、「や」を「は」に換えさえすれば、語法的な連続が可能となり一文章化され得るからである。またこの句の場合、「や」はコピュラ(繫辞)の機能さえ果しており、連歌発句のすべてが同様というわけではないが、〝同一主題の反復〟である芭蕉のF形式の原型をなすものとして注意される。F型式→F形式と正した、以下同)

撫子や夏野の原の落し種  守武

俗語「落し種」が撫子の縁語となって俳諧化される。しかし、イメジャリーは優しい雅の世界を失っていない。

春雨やかすむ木のめのかけ薬(犬子集)

俗語「かけ薬」と掛詞「め(芽と目)」で俳諧化。やはり、自然諷詠のイメジャリーを基調として俳諧があり、しかもその俳諧性は「めのかけ薬」の修辞にあるのであって、そのイメージにあるのではない。「や」の用法も連歌に近いが、不調和な俗語が露頭してイメジャリーの統一を破りつつある点に貞門らしさが認められる。

薬子やなめて味はふあめか舌(佐夜中山集)
書そめやこゝろいそいそ筆の海(同)

寛文期にはいるとイメジャリーは次第に連歌的な世界から遠ざかる。それはおそらく、一句中に俗語が増えたためと思われ、「や」も心なしか断切を深める。しかし、俳諧化したかに見えるイメジャリーは充分には明確でない。まだ掛詞「あめか舌(天か下)」縁語「いそ―海」のごとき貞門の修辞技法を残すゆえであろう。それにしても、かような俳風の兆候は興味ぶかい。重頼自身は「何やかや道具多きは馬のせに台所荷か付も見苦し」(佐夜中山集、俳学之大概)と諭したが、大勢は無自覚的ながら新しきへと向いつつあったのである。後に荷兮が「さよの中山集より発句の風躰はなばなしくせられたり」(橋守)と記すのが想起されよう。

若水や腰たはむまで荷棒(江戸蛇之鮓)
蓬莱や米高うして武家の春(俳諧雑巾)

談林に至ると貞門的修辞法は払拭され、明らかに俗的イメージ乃至イメジャリーの横溢が感じられる。ここではもう、俗語は単に用語としての面白みを訴えるに止まらず、俗的イメージ乃至イメジャリー形象の素材として機能している。しかも雅俗のイメージは「や」を隔てて対置され、両者の齟齬懸隔甚しい対応、すなわち荘子流の寓言に新たな俳諧性が見出される。その結果、「や」の断切は深まり質的に機能を変化せざるを得ない。「や」は、対比される雅俗イメージのパラドックス【註一五】斬新さを際立てる魔術師であり、二重力の支点となるのである。(漸新→斬新と正した)

ここで問題をもとに戻すと、かかるイメージの対比的構成において、最も効果的であったのがF形式であったと思われる。既に見たように、「や」は本来の係り機能をもって座五と呼応しようとするが、語法的連続性を失ったここに至り、イメージにおいてのみよく照応の効果を発揮するのである。そしてその際の「や」の位置としては、中七末に置かれるより、座五から適当に離れた上五末の方が好ましいであろう。F形式はかかる理由を背景に、簡易な技法として談林において急速に増加して行った【註一六】。そして様々なヴァラエティーを生んで表現手法を豊富にしたのである。中でも、上五に意表をついた俗語を置く次の形式など顕著に現れ、談林的特色を形成して行く。

質札や何どの月切ころもがへ(誹諧当世男)
白味噌や雪につゝめる鴬菜(俳諧三部抄)

「や」は、七五へあたかも謎解きの如き期待を抱かせ、読者の興をそそるのである。ここに生ずるわずかな間隙こそ、パラドキシカルな対比をいやが上にも引き立てる秘密なのである。

以上見てきたように、⑤の現象の主たる要因は、談林俳諧が俗的イメジャリーの形象に努力したことにある。この事実は、俳諧が近世の純粋詩へ昇華する不可欠の前提を解決したものとして評価すべきであろう。彼等は、今言うイメージやイメジャリーにそのまま相当する用語を持たなかったが、その事実は充分自覚していたものと思われる。「俳諧といふ事、世間にはあれたる様の詞をいふとおもへり。さらにしからず。只おもひよらぬ風情をよめるを、俳諧といふ也。」(近来俳諧風躰抄)と彼等が言う時、「詞」に対立する「風情」は、詩的感興の素因としてのイメージやイメジャリーを当然予想し、これを含むこともあり得たのではあるまいか。とすれば彼等は、「風情を詞にあらハし一句をかざり一句の本心に大きなる俳言の道具をてつしりと入たきものなり 風情計にてハ句よハくなる事有 しかあれ共詞にて俳言をもたす事一句にてもあらは物わらひなるへし 古風のやまひ是ならん」(詠句大概)とも述べていた。単に俳言を用いたというだけでは古風であり、その俳言が全体の句趣形成に参与してこそ、新俳諧の一句は仕立てられるというのであろう。そのためには、「大きなる俳言の道具をてつしりと」また数多く投入することが要請されるようになる。延宝末年から生じた字余りや漢詩文調の流行が、かかる傾向の延長上に位することは言うまでもない。単純な思考をもってすれば、豊富にイメージ内容を詰め込まれた一句の句姿の安定をはかるため、切字はおのずとその位置を句の上方に求めたようにも思われる。

六 芭蕉の場合

ようやく最初に掲げた芭蕉に帰ることにしよう。芭蕉もまた時代の人である限りにおいて時の俳風の内に育ち、極端にそれからはずれるものではなかった。しかしなお、次の如き独自な傾向を示すのを看過するわけにはいかない。以下は、「芭蕉の「や」使用の年次的変化」【註一七】を示すため、Ⅵ表によってⅢ図にBB’ラインを書き加え、これをAA’ラインと比較して得た観察結果である。

Ⅵ表

    延宝三~五年までの「や」の頻度は、同時代の一般傾向にほぼ等しい。

    延宝六~八年において「や」の使用は突如激減し、この傾向は貞享元年まで続く。この現象は一般傾向より徹底し、時間的にも先行したかに見える。

    貞享二~三年以後、再びゆるやかな「や」の増加が見られ、晩年まで続く。これに反し、一般傾向にはこの回復現象が見られない。

また、特に「上五末や」の使用については次の事実が見取れる。

    延宝三~五年において、芭蕉も同時代人と同様に「上五末や」に強い関心を示した。

    延宝六~八年には「上五末や」使用を急に減少させる。

    天和元~三年に再び「上五末や」使用は50%台に回復し、以後晩年までほぼこの使用率が維持されて安定する。これに反し一般傾向は、「や」の使用率が低下するにもかかわらず貞享以後も「上五末や」使用率の漸増を続かせる。

詳述するまでもなく、⑧は⑪に起因するものであった。芭蕉における切字「や」の使用は、転換期である延宝末年から貞享初年に至る期間を中にはさんで、初期・中期・晩期に分ち得るであろう。

初期はF形式体得の時期であった。芭蕉も同時代人同様これを駆使し、「や」の前後に分極化された雅俗両イメージのパラドックスを楽しんだ。しかも

天秤や京江戸かけて千代の春(誹諧当世男)
武蔵野や一寸ほどな鹿の声(同)

の如く、この形式の効果を充分に発揮した佳句が多い。ことに、広と小、視覚と聴覚を対比させた後者など、「古池や」の句の原型とさえ言える。

中期は、反省と模索とそしてF形式再生の時期であった。この形式が持つ技法上の可能性が十全に開花した時期であるから、これをもって長いF形式の歴史における完成期とも呼べるであろう。

談林俳諧における安易なF形式の乱用は、たちまちその類型化を来し、やがて陳腐なものとなる。逸早く芭蕉はこれに気付き、F形式の多用を控え、切字「や」の句は減った。これが⑪⑧の現象である。やがて一般もこれに追随する(④の現象)が、芭蕉その人に限っても、文芸上の深刻な反省模索期に入る前、既に技法において談林風に反省を加える事実は注意されてよい。ともかくこの時期の当初、「や」はすこぶる激減した。あたかもこの時流行した字余りや漢詩文調の異体が、F形式を含めた過去の類型を破壊し、その忌避の傾向を押し進めたのは勿論である。この空白期を体験して始めてF形式は再生した。新たなF形式は、談林のそれといかに異なったのであろうか。

その準備はすでに延宝末年から始まっていた。『ほのぼの立』で順也は、芭蕉の

枯枝に烏とまりたるや秋の暮

を掲げて「当風」と賞し、従来の「中にぶらりの句」とは異なると評した。この句の特色は、季語「秋の暮」が他の部分と極めてよく調和し、全体として俗的世界にイメジャリーが統一された点に見出される。貞門から談林にかけて、俳諧性は専ら素材相互の違和感に求められた。詞からイメージに移っても、その本質は変っていない。しかし俳諧が滑稽ではあっても詩である限り、素材相互のあまりな不調和は、詩としての全一な凝集を妨るものでしかない。すなわち、蕉風の樹立もまたF形式の再生も、かかる反省の上に実現したのであった。

⑨の現象の開始は、この認識に立った詩法の確立を示すものである。山本氏が挙げられた数句のうち、「秋風や」と「明ぼのや」の二句は貞享元年の作であるが、この〝野ざらしの旅〟の前後、芭蕉の手によってF形式は文芸的完成を見たのであった。その特質は、談林の不調和性を脱してイメジャリーを統一し、破綻なき詩を形象した点に認められるが、なおかつ重要なことは、同時に談林が達成したパラドキシカルなイメージ対応の技法を継承し、これを発展せしめたこと、すなわち断絶的統一を実現したことであった。すなわち、「や」の両側に配置されたイメージは、異質ではあるが談林の如く殊更対立を好むのではなく、そこに内的な親和関係を有することが求められるのである。「や」が作る断切は、談林ではイメージの不調和がそれを深めたが、芭蕉ではイメージの質と次元の差違がそれを深めることになる。従って深い断切を残しつつも、かえってそこにイメージ相互の微妙な内的感応(照応)を生むことになるのである。これはまさに、新たな詩性の誕生であった。この高度な詩法が、漢詩文調の体験を経て獲得されたものであること【註一八】は言うまでもないが、芭蕉に談林の経験なく、また連歌以来の伝統なくして果してこれを樹立し得たかは疑わしい。やはり、芭蕉は談林に学び伝統を継いで、これを超克したのであった。談林が努めたイメージ乃至素材の量的凝縮を芭蕉は質的凝縮へと転じたのであり、連歌の雅的同質イメジャリーの統一性に学んで、芭蕉は俗的異質異次元イメジャリーの統一性の実現に成功したのであった。「や」の機能についても同じ様に言えるであろう。談林で論理の飛躍をもたらした切れの深い「や」に、芭蕉は余情の深みを見出したのである。またその「や」を利用して、連歌の単層的イメジャリーに匹敵する屈折的重層的イメジャリーの発句文芸を成立させたのであった。

さて、芭蕉の「や」使用の晩期は、その展開と応用の時期であった。一般傾向がすっかりF形式と「や」を敬遠する頃、⑫に見るごとく芭蕉は自信をもってその使用を増やして行った。F形式の量的盛況を談林とするなら、今やF形式は質的全盛を迎えることとなる。山本氏が挙げられた数句が、すべて元禄初年までの作であることは意味深い。芭蕉は自らが発見したこの手法を、この時期縦横に駆使するかのようである。しかし、一旦完成を見た形式を安穏に墨守するには、芭蕉の探求心はあまりにも激しかった。新しみを華とし、発句上手と称される芭蕉は、F形式で体験した手法を多様に応用し、新たなスタイルを分化して行ったようである。今その過程の詳細を明らめ得ぬが、大まかに言えば次のように言えるであろう。

一は、晩年の軽みの俳風に近づくにつれ、F形式が作る断切の深さに警戒が払われて来たことである。例えば、没年の作、

朝露によごれて涼し瓜の泥(笈日記)
白菊の目に立てて見る塵もなし(同)

が、真蹟ではそれぞれ「朝露や」「白菊や」であったことなど、その一例ではあるまいか。とは言っても、F形式を避け始めたのでは決してない。乱用を戒め、より繊細な配慮が加えられたということなのである。その数が減ってないし、深い感動を表明する際には、「この道を」を改めて、

此道や行人なしに秋の暮(其便)

とする如き例も見られるのである。しかし、総じて断切が浅く、句作りがおとなしくなる傾向が認められる。

二は、異質または異次元イメージのパラドックスを用いず、同質イメージによるイメジャリーの統一をはかる句が見えることである。

鴬や竹の子藪に老を鳴(炭俵)

この「や」は、連歌で見たコピュラ機能を持ち、論理は素直に七五へ流れて行く。宗祇が雅語でなした同質イメジャリーの統一を、芭蕉は俗語で験してみたのである。

菊の香や奈良にハ古き仏達(追善之日記)

この句の上五は、「古池や」に代表されるF形式の典型のそれとは異なる。七五が、「蛙飛こむ水の音」が「古池」の世界の一部であったごとき、同一主題の繰り返しではないからだ。二素材の次元の差違にもかかわらず、その位相が鑑賞者の意識に稀薄なのは、両者が同時に同一視界内に把握された対象ではなく、それぞれが別箇の世界を領有しながら、素材相互の強い親和力のため、情調においてかえって新たな純一世界を形象し得たためと思われる。更に言えば、上五はしばしば発想の契機をなすものであるが、この句の七五が上五から触発されたものはイメージの同質性ということのみであって、上五に対し何らイメージの所属性乃至類縁性を有しないという点である。この場合の二つの素材は、一方が認識された時、かつて認識され、作者の詩嚢中に眠り続けていた他の一方が突如として意識表層へ躍り出で、結合を遂げるのである。(凡兆の「下京や雪つむ上のよるの雨」の上五が、七五より後に案じすえられたという『去来抄』の挿話も、かかる制作過程をいうのであろう。)ここで、同じ上五を持つ前年の作、

菊の香や庭に切たる履の底(続猿蓑)

と比較してみよう。この七五も同一主題の繰返しとは言えぬものの、七五が上五の場面に所属する点において、その発想をかなり上五に負うている。上五(題の場合が多い)から想起されて七五が出、一句が成る場合、同一世界を重層化するため、異質イメージの配置や次元の懸隔が必要となる。その背行する二要素の均衡の上、分極化される二素材の遠心性の上に見出される統一美、ここにパラドックスの詩性はあった。これに対して晩年の芭蕉は、同質イメージの重層による、求心的渾一化をも試みたと言えよう。この場合F形式は、談林の創始したパラドックスの美学から解放され、イメージの重層性屈折性のみをその本質的機能として残すこととなる。そしてむしろ、イメージより表象の重層を実現することとなるのである。連句における匂付の発句における実践と思える【註一九】が、「や」は、やはりこの場合もその秘密を生み出す折点として生き続けるのである。

「や」に関するものではないが、芭蕉が到達した発句表現について土芳は次のように記していた。
発句の事は行て帰る心の味也。たとへば、山里は萬歳おそし梅の花といふ類なり。山里は萬歳おそしといひはなして、むめは咲るといふ心のごとくに行て帰るの心発句也。山里は萬歳の遅といふ斗のひとへは平句の位なり。先師も発句は取合ものと知るべしと云侍るよし、ある俳書にも侍る也。題の中より出る事はすくなき也。もし出ても大様ふるしと也。(くろさうし)
「行て帰るの心」とはつまり屈折的、重層的表現を言うのであろう。「取合」とは素材またはイメージの配合または照応をさすが、これは異質の場合も同質の場合もあるであろう。「こがねを打のべたるやうに……よく取合する」(去来抄)とはその統一性をいうのである。最後の「題の中より云々」はいかなる事か。『宇陀法師』にも「題の中より出る事は、よき事はたまたまにて」とあるが、おそらくは発想の範囲を拡大せよとの謂であろう。F形式の到達も、かかる認識を踏まえてのことと思われる。発句技法の真髄を体得した時、芭蕉にとってすべての切字は、F形式を含めてすべて自家薬籠中のものとなっていた。「きれ字に用る時は、四十八字皆切字なり」(去来抄)とは、その深い自信を示すものであろう。一般が「や」を忌避し、わずかに用いる場合は専らF形式という固定観念を脱し得ぬ頃(⑨⑫参照)、芭蕉はすでに種々様々な「や」を用いていたのである。


七 むすび

芭蕉が達成した俳諧のすべては、その後の俳諧史に大きく影響する。切字「や」の用法も、蕉風復興を叫ぶ天明期以後の俳人達にはかなり正しく理解されたようである。例えば『俳諧天爾波抄』(富士谷御杖)は次のように記している。

文月や六日もつねの夜には似ず  芭蕉
これらいづれも正例なり。この文月やの句は地名ならねど、文月の六日といふべきをといひし句なれば、同じ例なりと知るべし。これより転じて、の字の下をば上とはつゞかぬ事をもよめり。
広沢やひとりしぐるゝ沼太郎  史邦
松しまや鶴に身をかれほとゝぎす  曽良
  (中略)
古池やかはづとびこむ水の音  芭蕉
これら此例なり。……は、他のものゝつきそひがたき心をいふ也。……連俳にては、正例よりも此例なるをむねとする事、さらにこのみての事にあらず、やむことをえざる勢によれり。その故といふは、哥は、もじ数おほくして、いかなる事をも正しくいはるれども、連俳は、字数すくなければ、いかにもして、ひとつのてにはに、多くの心をこもらせ、詞をはぶかざれば、句をなしがたきが故に、此転倒を正例のごとくつかふ也。(赤字部分は傍線)

「上五末や」の本質を極めて正確に解説したものと言えよう。かかる理論的解明は、芭蕉の作品とともに近世後期俳人の実作に充分寄与したことと思われる。蕪村一人についてみても、その句集には

朝露や村千軒の市の音
虫干や甥の僧問ふ東大寺

などのF形式のほか、

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど

のごとき新たな感性を示した、柔軟で多様な「や」の用法が登場する。自己の句境に応じて自由な探究を続けた芭蕉の態度を、天明の詩人は遺産として受け継いだのであろう。そしてまた、近代へと伝えるのである。(北九州工業大学助教授)

一、志田義秀博士「人口に膾炙してゐる俳句」(『俳文学の考察』収)三三一ページ。
二、新潮叢書『俳句の世界』一四四ページ。
三、『竹林抄』の「松風やしたに秋ふく荻のこゑ」など。
四、この方法をとるものに、先に野中常雄氏「切字を中心とした俳句表現の変遷」(『連歌俳諧研究』七・八合併号)がある。
五、各句集の使用テキストは次の通り。
菟玖波集―日本古典全書、竹林抄・園塵―続群書類従、宗祇発句集・芭蕉発句集―岩波文庫、犬子集―俳諧文庫、玉海集―日本俳書大系。
六、切字の種類によって所収句を分類し、その実数、およびそれの調査句数に対する百分比の二つを掲げた(図は百分比のみ)。ただし「や」については、他の切字と併用される場合もすべてその実数に加えた。
七、切字の一句中における位置によって所収句を分類し、前項同様に処理した。
八、『俊頼髄脳』に、発句の完結性を説いて、「夏の夜をみぢかきものといひそめし」を「夏の夜をみぢかきものと思ふかな」と改めさせる記事が見える。また、後の『連歌諸体秘伝抄』にも、「かなと云候ては何なる発句にても候へ、難なく候よし先達も申されし、能々相伝すべき子細也」とある。
九、宗砌の『密伝抄』には「切てには」の語が見えるから、〝切字〟の定着はそれ以後と思われる。
一〇、『宇陀法師』(李由・許六)に至って、ようやく、「切や」の用法にF形式の句(芭蕉の「朝顔や昼は鎖おろす門の垣」)が掲げられた。
一一、各句集の使用テキストは次の通り。
   佐夜中山集・千宜理記・坂東太郎―板本、誹諧時勢粧―尾形仂氏蔵写本、俳諧三部抄―近世文学未刊本叢書、江戸新道・江戸弁慶―俳諧文庫、その他―日本俳書大系。
一二、「や」の使用頻度の変化については、「や」を含む句の実数、およびそれの調査句数に対する百分比の二つを掲げた。「や」の位置の変化については、上五句末に「や」を含む句の実数、およびそれの「や」を含む句の実数に対する百分比の二つを掲げて示した(共に図は百分比のみ)。
一三、この傾向は、寛文期の重頼関係俳書から兆し始める。『佐夜中山集』諷取の部―「や」一三二句中二三句。『時勢粧』―一〇七句中一九句。
一四、岡崎義恵氏も「五七・五と切れる場合でも、音律的には五で先づ小休止を置いて七五とつづけるのが一般的な味ひ方のやうである。」(『芸術としての俳諧』一八ページ)と述べておられる。
一五、川崎寿彦氏『分析批評入門』の用語を借りた。
一六、既に寛文四年刊の『蠅打』では、「右五句共に、大きに初心躰也」とするうちの四句まで、F形式またはこれに類する句を挙げている。
一七、尾形氏等編『定本芭蕉大成』の本位句について、註一二のような処理を施した。
一八、小西甚一氏が、「や」を境とした実・虚また虚・実の形を漢詩表現の影響と説かれるなどその一例。(『文学』三一ノ九所収「兵どもが夢のあと」―芭蕉句分析批評の試み・2―一〇三ページ以下)
一九、横沢三郎氏も「菊の香や…古き仏達」の句を例として、「両者の象徴する情調のとり合せ」を指摘される。(創元社版『芭蕉講座』二「にほひ・うつり・ひびき」七三ページ)

高山れおな『切字と切れ』を読む ネタバレが嫌な方は読まないでください 相子智恵

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高山れおな『切字と切れ』を読む
ネタバレが嫌な方は読まないでください

相子智恵

高山れおなの初評論集『切字と切れ』(邑書林・2019年8月)が出た。(何冊目の評論集だっけ?と奥付を見てみたら、意外にも初めてだった。氏が運営していた伝説の俳句評論ブログ「俳句空間―豈Weekly」の切れ味鋭い評論の印象が強くて、勝手に本を出している気になっていたのだ。あのブログで何冊分になるのだろう……)

ということで、書評を書こうと思ったのだけれど、これが案外難しい。いや、内容が難しいのではなく(むしろ、かなり読みやすく工夫されている)いかに「ネタバレ」をせずに書けるかということが難しいのだ。というのも、本書は本格的な評論集でありながら、切字の誕生から現代へと続く「壮大な歴史ミステリー」のような面白さがあって、ぐいぐい引き込まれてしまう。ネタバレしたらもったいないのである。

そんな本なので、まだ読んでおらず、ネタバレせずに楽しみたい方は、ここから先は読まないことを強くおすすめします。

●なぜ、今「切字と切れ」なのか?

そもそも、なぜ高山は「切字と切れ」をテーマに本を書こうと考えたのだろうか。長くなるが「はじめに」から引いてみたい。

平成年間の俳句の世界の特徴とは、とかんがえてみる。

すぐに思いつくのは、しばしばいわれてきた「平成無風」のフレーズである。「無風」の語にこめられたニュアンスにはいくつかの側面があるとして、昭和、特にその中期までの俳句界にあったような論作両面にわたる展開のダイナミズムが、昭和末年、さらに平成に入ってからは失われてしまったという認識がその大きな部分を占めるのはたしかだろう。一方で、俳句研究者の青木亮人はこの時代には、〈俳句史上、最も「平均値」の高い句が詠まれ続けているかに感じられます〉と述べている。まとめれば、波風たたずいまひとつ面白くないが、作品を作る技術はそれなりの高さでたもたれているということになるだろうか。(中略)私としてはそこに、平成とは人びとがなぜか「切れ」に過大な夢を見た時代であった、という一項をつけくわえておきたいと思う。
『切字と切れ』(以下同)P10)

「切れに過大な夢?」私はここで、疑問符がついた。私にとって「切れ」は夢も何も、「最初からそこにある当たり前のもの」だったからだ。藤田湘子の『20週俳句入門』(初版:立風書房・1993年)が(これ、名著です)俳句人生のスタートだった私にとっては「定型、季語、切字」はワンセットであり、特段「過大」に感じたことはなかったのだ。しかし、高山はこう書く。
若い人たち、あるいは若くなくても俳句歴の比較的浅い人たちの中には、切字/切れが、俳句の世界において一貫して季語や五七五定型と同様に重視され、議論され続けてきたと思っている向きがあるかもしれないが、少なくとも近現代の俳句史にあっては決してそんなことはなかった。(中略)切れだけをテーマにした大規模な入門特集がくりかえし組まれるなどという切れの前景化は、あくまで二〇〇〇年前後からこちら、元号でいえば平成中後期に特有の現象なのだ。
特有といえばもう一つ、この時期に用語が「切字」優勢から「切れ」優勢にきりかわったのも見逃せない変化である。九〇年代前半までの雑誌記事では、本文中では切れという言葉も使われたにせよ、見出し語はほとんどが切字であった。ところが先の記事タイトルの列挙を見ればわかるとおり、二〇〇〇年代には見出し語においても、切れの方が主流となったのである。(P195・196)
私が俳句を始めたのが一九九六年だから、まさに「切れの前景化」の時代に俳句を始めたことになる。だからワンセットが当たり前だったのだ。これには目から鱗だった。ちなみにこの本を読んでいるところに届いた今月の角川「俳句」10月号の大特集は「名句の『切れ』に学ぶ作句法」で、「おー、本当に切字じゃなくて『切れ』って言ってるじゃん!」と妙に感動した。

切字に人びとが込めた「夢」とは何か、「切字」が「切れ」に変わっていったのはなぜか、そのミステリーは本書をお読みください。

切字は一句の完結か?それとも修辞か?

切字の発生から現代まで、あらゆる角度から切字を俯瞰して、切字とは何かを読み解いていく本書は、平安・鎌倉の連歌における切字の誕生から芭蕉の俳諧までの「第一部 切字の歴史」と、子規から兜太に至るまで、また国語学者の切字・切れ論を読み解く「第二部 切字から切れへ」の二部構成になっている。第二部の方が今に近いぶん、当然馴染みも深いのだけれど、逆に芭蕉以前の連歌にまで遡る切字論を読む機会は少ないからこそ、第一部が新鮮で面白かった。
短連歌時代におけるその意義(切字の意義:筆者注)は曖昧といえば曖昧で、どこまでも感覚的な“なんとなくその方が連歌っぽい”といった程度のものだった。この曖昧さの感触は、内容を変えながらも、意識と形式の両面で「切れ/切字」にのちのちまで(平成まで!)付きまとうことになる。しかしともかく、前句は必ず言い切るというスタイルが定着した結果、短歌の合作ではない連歌というジャンルが自立したにはちがいない。(P30)
古人の切字論の曖昧さは、まさに高山のいう〈古拙愛すべし〉なのだが、それが現代にまで付きまとうことになると思うと、遠い目をするほかはない。

中世から近世にかけて、注目すべきは、芭蕉をもって完成をみた初五末に置かれる「や」の切字である。
中世から近世にかけて、切字をめぐって現実の作品の上に生じた最大の出来事は何かと言えば、それは結局、一句の途中(とりわけ初五末)に「や」を置き、句末を体言で留めるという、こんにちに至るまで俳句の典型とみなされている表現形態が確立し、もっとも自然発生的・根源的な句末の「かな」留めによる表現形態を凌駕する勢力へと成長したことであった。(P108)
そもそも切字とは、何から何を切るのかと言えば、俳諧の「発句」から「脇句」を切るためにシステム化されていったものであった。それが芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」に見られるような初五末の「や」の使用が、句末の「かな」の使用を凌駕していく過程で、切字は〈発句完結の要件〉と同時に、〈発句表現に及ぼす修辞的効果〉が意識されるようになる。これが今日の切字の論争や人々が切れに夢を抱くことにまでつながっていくのだが……スリリングで面白いので、ここから先は本書を(以下略)。

「古池や」の句の面白さがわからない人、必読!

私が本書の白眉だと思うのが、第一部第四章の「古池句精読」だ。芭蕉の

古池や蛙飛び込む水の音

を、文字通り精緻に読み解いていくのであるが、それは、以下のような疑問に端を発する。
俳句にさして興味のない人にとっては、この句のとりつくしまのなさはそれがそのまま俳句との距離を意味するだろうし、それでなんの問題もない。しかし、俳句に多少以上の興味をもつものには、よりによってなぜこの句がいちばん有名な芭蕉作品なのかは一つの違和感としてのこる。(P131・132)
私もこの古池句のよさが、実はまったくピンときていなかった一人だったので(そういう人、多いのでは?)、この章は本当に面白かった。

違和感をそのままにしないのが高山である。膨大な論考を読みあさり、この句が「蕉風開眼」と言われる必然性を探ってゆく。その過程は見事で、まるで古池句の謎を一つ一つ解いていくミステリー小説を読んでいるかのようだった。この一句のために出てくる参考文献は、注釈によれば44(一冊の中の別ページも含む)にものぼる。それを経て書かれる「古池句読解の要旨」はもう、まるで名探偵の最後の語りみたいだ。目から鱗が何枚剥がれ落ちたことか。ネタバレしてしまうので、これ以上は書けないけれど、とにかく痺れます。

切字は「賢者の石」なのか?

近現代の切字・切れに関する各人の論考を読んでいく第二部「切字から切れへ」にも少し触れておくと、新興俳句の中で切字はどう扱われたかについて、加藤楸邨の切字に対する態度を紹介したうえで語られた部分が、耳が痛かった。
こうした実証的な根拠と、みずから制作にしたがう者としての実感に立って書かれたのが、先に引いた楸邨の(切字:筆者注)分析であった。そこには自分(たち)が俳句作者として何をしたいのかの理想と意欲があり、それを前提として実践と理論を結びつける反省がなされている。平成の俳句界における切字/切れの言説においてもっとも遺憾な点は、歴史的な知識の不足には目をつぶるとしても、自分たちが現時点でどのような俳句を書きたいのかという理想とほとんど結びついていないことだろう。(中略)そこでは切字/切れが、錬金術における「賢者の石」のごとき効能をもった神秘的な何ものかとして期待されており、切字説(切れ説)はおおむねその効能書きとして存在している(P219)
これはトリックスター的かつ王道の評論集だ(歴史に残る本だと思う、本当に)。

本書は帯に〈総合的切字論 57年ぶりの登場〉とある通り、本格的な「評論」であるが、同時に「ブックガイド」でもあり「切字の入門書」でもあると思う。

ブックガイドというのは、本書には参考文献として膨大な数の論考が出てくるのだが、参考文献の註釈が巻末にまとめてではなく、各章の末尾に置かれており、思い立ったらすぐに一次資料に当たれるように工夫されている。そのうえ〈註二 『俳諧提要』は、国会図書館の所蔵本がインターネットに公開されている。〉(P251)など、文献名だけではなく、読者がその本に出合いやすい情報を提示してくれているのだ。しかし、ここまでびっしり参考文献を読んで書かれた労作はそうはないので、後代の実作者、研究者が「切字・切れ」について述べる際は、必ずこの評論集を通過することになるのではないか。そういう意味でも本書は歴史に残る一書である。

次に入門書と書いたのは、難しい内容を読みやすく説明することに、高山が心を砕いているからである。例えば近代以前の論考における「古文」の本文とその現代語訳の置き方ひとつとっても、通常は古文を先に出して、現代語訳を後にすることが多いが、現代語訳から先に書く。ちょっとしたことなのだが、(切字を使う割には)古文にそれほど明るくなく、さらに評論もあまり読まない私たち怠惰な俳句実作者でも、読む勢いが削がれないで一気に読めてしまう。

また、〈『八雲御抄』は、順徳天皇が当時の歌論を修正した大著で、承久三年(一二二一)以前に大綱が成り(つまり二十四歳くらいまでに書いたことになる。超秀才!)〉(P18)のような随所にある突っ込みで、妙に先人が身近に感じられてくる。そうした高山ならではの語り口で、裾野を歩き始めたと思ったら、読み終わった頃には、いきなり富士山頂に連れて行かれるのだ。

これらの工夫は、実は同じく帯に〈「切れ」が俳句の本質でもなければ伝統でもなく、1960~70年代に切字説から派生した一種の虚妄であることをあきらかにする。平成俳壇を覆った脅迫観念を打破する画期的論考!〉とあるように、「そろそろ、本当の切字の話をしよう。そして切れに対する不毛な夢に決着をつけて、次に行こう」という、我々同時代の怠惰な実作者に対する苛立ちであり、呼びかけでもあるのだろう。この綿密に織り上げられた、壮大な「ちゃぶ台返し」の後から、令和俳壇は始まらなければならない。なかなかハードではあるが。

それから、評論集を読むことに慣れた人なら、参考文献が多い分、高山自身の論が少ないと感じる向きもあるかもしれない。しかしそれは間違っている。だってこの本、全編に渡って高山そのものではないか。この本のあり方そのものが、彼の「論」だ。

つまり本書は、古今の文学、芸術の世界に潜っていって先人たちと遊びつつ、それでいてメタ的な視点も決して失わず、古今の世界を往還するように俳句を作ってきた高山の俳句作品と、全く同じ態度と手法で書かれているのである。まさに、〈自分(たち)が俳句作者として何をしたいのかの理想と意欲があり、それを前提として実践と理論を結びつけ〉た評論である。

本書は、現代俳句界のトリックスター、高山にしか書けないユニークで歴史に残る一書であると同時に、どこまでも怠惰な実作者である一読者の私は、単純にこういう本、もっと出してほしいなあ(あ、個人的には「季語と季感」とか読みたいです)とか、思ってしまうのである。

10句作品 はつ恋考 田中惣一郎

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はつ恋考 田中惣一郎

はや草の露白しとふ歩みけり
わが睨み別烏や退りをる
葦の舟神話のために未来あれ
野も花も新しからず秋茜
初恋よどこ澄む水の夕つ方
覚めがてに秋水が流るるものか
火不入の一献いかに秋の暮
後の世の業にぞ後の村雨は
てのひらを懐しうする火もがな
もみぢ且つちる桜木の巷かな

週刊俳句 第650号 2019年10月6日

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650
2019106



特集『切字と切れ』


田中惣一郎 はつ恋考 10句 ≫読む

島田牙城 under construction
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【書評】
高山れおな『切字と切れ』を読む
ネタバレが嫌な方は読まないでください

……相子智恵 ≫読む

川本皓嗣『俳諧の詩学』を読む
……高山れおな ※次号掲載予定

【長大な座談会】
「切字・切れ」をめぐる諸々
……筑紫磐井高山れおな青木亮人上田信治(司会)
 ≫読む

【再録】
〝古池や―〟型発句の完成 
―芭蕉の切字用法の一として―  

……田中道雄 ≫読む

再録にあたって
……高山れおな ≫読む

………………………………………… 

【七七七五の話】
4回 愁と怨

……小池純代 ≫読む


中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
キャンディーズ「危い土曜日」 ≫読む

 
〔今週号の表紙〕第650号 パリ東駅……野木まりお ≫読む


後記+執筆者プロフィール……上田信治 ≫読む



新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

Article 5

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【長大な座談会】
「切字・切れ」をめぐる諸々

……筑紫磐井高山れおな青木亮人上田信治(司会)


ご挨拶



上田信治:この秋は、元号の切替りだったからというわけでもないでしょうが、俳句の世界では「切字/切れ」論が、にわかに盛り上がりました。



高山れおなさん『切字と切れ』、「新切字論」を含む川本皓嗣さんの『俳諧の詩学』の刊行があり、それらを受けて「豈」62号で特集「現代俳句の古い問題『切字と切れは大問題か』」。



またそれらとは別に角川「俳句」では恒例の(?)切れ特集を、「大特集 名句の『切れ』に学ぶ作句法」と題して、組んでいます。



いい機会なので、さまざまな立場から「切字/切れ」論の、論点の洗い出しと交通整理をお願いし、俳句界の「切字/切れ」論の水準を、一気に引き上げよう、なんなら、最終解決を提示しよう、と。合わせて、上掲の文献、それぞれのプロモーションにも努めましょう、と。そういう主旨で、座談会が企画されました。



まずは、ご参加のみなさん、自己紹介が必要という面子でもないんですが、挨拶がわりに、それぞれの「切字/切れ」観、「切字/切れ」と日頃、どういうスタンスで、お付き合いされているかを、お教えいただけますでしょうか。


1.それぞれの「切字/切れ」観


「切字だって日本語なのですから」(高山)



高山れおな:私は作品に切字を使うこと自体は、最初からわりと抵抗がなかったですね。理由は簡単で、芭蕉や蕪村が好きだったから、彼らの俳句のいちばん特徴的で、いちばん真似しやすい部分を真似したのだろうと思います。



本にも書きましたが、「俳句空間」で最初に活字になった10句からして十八切字を7句まで使っています。そのうち「や」を使ったのが、



花散るや阿鼻叫喚の箸あまた

惑星や椿の家に笑ひ満ち

麦秋や江戸へ江戸へと象を曳き



3句。23歳の若書きで、句の出来はさておき、切字の使い方には特に問題はないでしょう。



当たり前ですが、ちょっと擬古的な性格があるといっても、切字だって日本語なのですから初心者だって使うこと自体は難しくない。虚子の最初の単著である『俳句入門』(1897年)に、〈「けり」にすべきか「かな」にすべきかは、其の時の語呂、調子の暗梅にて定まることにして、こは初学のものといへども大体に於て誤まることなし〉という例によって身も蓋もない記述がありますが、全くその通りだと思います。



上田:実作する分には、感覚で書いて、不自由を感じないものだ、と。



高山:ただ、この3句、見ての通り、句末が体言止めではなく、副詞と動詞の連用止めになっています。頑張って上五末の「や」は使ったものの、句末を体言止めにする古典形式は自分には硬すぎると当時感じていたことを、おぼろげに覚えています。





「あ、切れの問題、解決してる」(上田)



上田:私は、俳句を書き始めてすぐの時期に『芭蕉解体新書』(1997)に載っていた川本皓嗣さんの「切字論」を、たまたま読んで、



「あ、切れの問題、解決してる」と。



それ以来、特に、何も考える必要を感じてきませんでした。



川本先生の「切字論」詳しくは、高山さんの『俳諧の詩学』書評に譲りますが、句の途中にある切字も(「係り結び」的にはたらいて)一句を句末で切るのだ、というのがポイントです。



これは画期的なアイディアで、先生の代表作でもある前著『日本詩歌の伝統』では、まだ提出されていなかった。



これと、大野晋の「係り結び」は倒置法なんだという論と、山田(孝雄)文法の喚体句という論を「混ぜ」ますと、〈蛸壺やはかなき夢を夏の月〉が、途中の「や」をもって句末で切れるということが、感覚として納得できます。



参考:カレル・フィアラ「古典の係り結びと現代語の文型」






「あと100年後ぐらいには注目される」(筑紫)



筑紫磐井:私の場合、時々切字について書いていますが、変な視点で書いています。



連歌は原始1行書きであった、だから原始の連歌については切字も切れもなかった、連歌が生まれたから切字が要請されるようになったのではない、2行書き表記が発見されてから、切字が生まれた、とか、連歌は575/77以外に57/577の切れ方もあるとか。



当面の皆さんの切字論の役に一向立たないことばかりです。ただ、今は役に立たないでも根本的な問いかけですので、あと100年後ぐらいには注目されるのではないかと思います。



こんな斜視的見方をしているので、高山さんや仁平(勝)さんのような体系化はしていません。その代わり変な話や落とし穴は山ほど用意しました。



今回お話する内容は、頁の都合で「豈」の特集で書き漏らした話をそのまま載せていますので、特集の記事と併せて読んで頂けるとありがたいです。





「俳諧を主張するものがない時代の現象」(青木)



青木亮人:私は実作の問題というより古典俳諧研究として「切字・切れ」論と出会ったのが最初でした。



大学院の頃は古典俳諧研究の集いに顔を出すことが多く、自然と俳諧や連歌の論文を読んでいたのですが、特に上野洋三先生という方が凄いと思いました。



その上野先生の論を読んでいると、ある時、切字や切れを作品解釈から独立して論じていないことに気付きました。作品解釈の中でしか「切れ」云々と述べておらず、しかも「切れ続き」等の変わった表現で論じている。



上野先生は、浅野信氏の『切字の研究』の発想自体が誤謬として、浅野氏の「文が切れる、ということをも少し正確にいうならば、あらゆる語・句・文がそこで切れて独立した文になる」(『切字の研究』)に対し、次のように述べたことがあります。



 切字が、そこで「独立した文」をつくり「叙述の完結」をなしとげるものならば、一章の末尾以外に置かれた切字は、それ以前の部分(甲)を完結したとして、とり残されるそれ以後の部分(乙)は、一章において何なのか。だれでも気付くことだが、乙は「切れ」を介して直ちに甲との或る関係に入るのであり、「切れ」の果たす役割は、甲を完結するのではなく、甲乙両項の関係をつくる、むしろ連続するところに見出されるのである。



 したがって問題は、むしろ連続の側にある。といっていいすぎであるならば、裁断と同様の重みをもって連続にある。連続する両項の関係づけにこそ、切字ならぬ切れの役割はあるというべきである。陳述は、その関係においてあらわれるというべきである。(上野洋三「切字断章」、『鑑賞日本古典文学33巻 俳句・俳諧』角川書店、昭和52



切字や切れ云々は、個々の一句の中で「裁断=連続」がいかになされるかを見届けるのが問題というわけです。



上野先生は、例えば貞門や談林の後に現われた芭蕉の「切れ」の本質を、和歌・漢詩の雅語や本情に対する俳諧性のありようを示す一端と論を進め、そこに芭蕉の「行きて帰る心」をつなげて論じているのですが、そのあたりは割愛するとして、少なくとも芭蕉等の「切字・切れ」云々は「裁断=連続」としての雅語・本情と俳言・俳諧性のせめぎあいの問題として論じられていました。



その後、これは凄いと感じた他の研究者の論文を読むと、俳諧の本質を明らかにしようと作品解釈から独立させて「切れ」のみを論じたり、和歌や漢詩の規範を捨象した俳諧の「切れ」を論じることがほぼなかったので、私自身、「切れ」の理論的な論をあまり熱心に追わなかったのが正直なところです。



例えば、



 むら雲やさながら月の笠袋 (『犬子集』、貞門最初の選集)

 荒海や佐渡に横たふ天の河 芭蕉

 

こういった二句を形式的に同一に近い「や」として分類して論じるタイプにあまり関心がなくなってしまった、という感じでしょうか(それがいいことかどうかは分かりませんが……)。



ただ、それとハウツー的に切字の重要性を語る入門書の存在に対する興味は別問題で、例えば私は長い間明治の俳諧宗匠の資料群を読みこんだ時期があったのですが、高山さんが著書で「中世の闇」と仰ったような支離滅裂な入門書は明治期にもかなり出板されていて、その現象自体は研究的にとても面白いと感じ、「凄いことになっているな」と目が輝いたものです(笑)。



そういう入門書は文法についても一通りの説明があったりするわけで、つまり切字を使うかどうか、文法的に正しいかどうかといった以外に俳諧を主張するものがない時代の現象なのかもしれない、と感じたものです。



その点、平成の「切字・切れ」特集は近代俳句の遺産(高山さんの『切字と切れ』最終章、325pあたり)の延命装置として総合誌の誌面を飾っているのだろうと感じていました。



後述しますが、『切字と切れ』がとても面白かったのは、「切字・切れ」が俳句の特徴として要請されること自体の意味や理由、その発生や発展、歴史性そのものを実証的に問い直そうとした点です。

 

高山:上野先生の「切字断章」は私も読みまして、すごいと思う部分もいろいろありました。1977年のものですから、やはり「切れ」という用語が1960年代の浅野信を先蹤として70年代に一部で広まって行った事例の一つという意味では拙論にとって好都合な面もあったのですが、どうもさばききれないところがあって、本では触れませんでした。



じつは上野先生は、「や」の位置と「切れ」の位置がずれるケースを指摘しているんですね。ところが、それらの「や」が〈一章における切れの位置にもないものとして、切字であることすらおぼつかない〉というふうにまとめてしまっていて、これはやはり川本切字論以前の切字理解ということになります。



あと、根本的な問題としては、「裁断=連続」というのは真理でしょうけど、しかし、それは言語一般の性質とも言えそうです。口頭語であろうと書記言語であろうと、「文」は無数の「裁断=連続」を含んでいます。流れてゆく言葉を裁断し、かつ連続させなければ言語行為自体がなりたたない。上野先生の論じ方は過度の一般化を含んでおり、ゆえに芭蕉の俳句という具体的な作品の読解を離れて「切字/切れ」を対象化できなかったように思えます。


もうひとつ、上野先生は本質的に芭蕉の発句の話しかしていないではないかというのがありました。それ以前の貞門・談林についての記述も、乱暴に要約すれば芭蕉のレトリックはすごいというお話に収斂してしまう。上野先生に限らず、形式の話をする時に、芭蕉句のみを事例にして俳句とはこういうものだとあれこれ言うのは危険です。芭蕉は古典であり規範である一方で、表現史上の特異点ではないかと思うからです。


青木:それはあると思います。芭蕉、蕪村あたりはかなり例外的で、一般的には今や埋もれてしまった宗匠や俳人たちの句に時代の本質といいますか、当時のごく一般的な俳句観があったと思います。その点、私は芭蕉句を謳い上げる上野先生の筆致にやられてしまって(笑)、目が眩んでしまったのかもしれません。



高山:さて、自分と「切字/切れ」との付き合いというところに戻ると、最初にそれらしい発言をしたのは、やはり本に書いたように、復本一郎氏の『俳句と川柳』が出た直後に、「図書新聞」の俳句時評で取り上げた時ですね。



それは2000年の129日号でしたが、じつは同年の1021日号でまたしても書いてる。こんどは「俳句研究」に載った「切字の復権」という鼎談(大石悦子×今井聖×小川軽舟)が対象で、うーん、今読むと何言ってるのかよくわかりません(笑)。



復本本についてはストレートに論理の無理を指摘しただけですが、「切字の復権」評の方は、3人の発言の紹介・批判と自分の制作の方向性の表明が入り混じっておりまして、



〈最も正統的でありながら、近現代の俳句において忌避されてきた強い〝や〟。この古めかしい切字に象徴されるナニモノカをして、この反動の形式が、現在という《新しい中世》にふさわしく振る舞うための発条とすること。〉



とか書いてます。おまえ何言ってんだって感じでもあるし、青春だなとも思います。いちおう補っておくと、「新しい中世」という言葉は冷戦後の世界政治の、一強プラス多極化状況をさす用語として1990年代に使われていたと記憶していますが。



その後、「豈weekly200896日号で「俳誌雑読 其の一 『切れ』の大問題とは復本・長谷川問題ならずや」という時評を書いてまして、この時、今回の本で言ったようなことを、単なる思いつきとして述べています。この時は思いつきだったものを、改めて調べなおして本にしたとも言えば言える。10年越しの宿題を、いちおう片付けたことになるでしょうか。


2.高山れおな『切字と切れ』について


上田:まずは、高山れおな『切字と切れ』から、いきましょう。それぞれ、ご感想などを、お願いできますでしょうか。





「平成期のキレキレ論やハウツー的な世界」(青木) 



青木:帯文にもあるように、「平成とは人びとがなぜか「切れ」に過大な夢を見た時代であった」(「はじめに」)という認識に則って論じた点がとにかく面白かったです。



冷静に「切字・切れ」(以下、青木発言では「キレキレ」と略)論自体を評する過程そのものが、各時代のキレキレ論が色々と偏っていたり、破綻していたことの証左になっているという手続きがスリリングでした。



平成俳句の特徴をきちんと論じている点も興味深かったです。



平成俳句が当然と信じている価値観や発想がある時期に発生した流行や感覚だったり、また自然かつ公平と信じている判断が実は時代や環境等に強く影響された偏りのあるジャッジだったりするかもしれない。そういう風に平成期のキレキレ論や他のハウツー的な世界を捉える論点自体が面白かった。特に最終章の「平成の終わりと俳句の夢」の325-326pで語られた指摘は至言に感じられます。



高山:ありがとうございます。俳句に限らず、ある時代の価値観が、過去にさかのぼって普遍的な真理のように錯覚されることはよくあるわけで、切れにも同様のことが言えるのではないかなと思います。



正岡子規が「俳句」という言葉を発明したわけでも普及させたわけでもないことは、秋尾敏氏の論考などによって現在ではさすがに常識になっているのかなと思いますが、以前、驚いたのは、飯田蛇笏が昭和初期の文章で、「俳句」という言葉は子規が発明したとさらっと書いていたことです。



蛇笏は、子規の晩年にあたる明治30年代の前半には旧制中学で俳句に関心を持ち始めていたということですから、俳句という言葉の一般化の進行をリアルタイムでは知らないまでも、それが生じた時期からのタイムラグはごくわずかなはずですよね。旧派の俳人がたくさんいる状況も肌で知っていたわけです。それでいてそんなことを述べてしまう。記憶=歴史って簡単に捏造されてしまうんだなと思いました。



青木:平成期のキレキレ論の脚光の浴び方を追っていく際、総合誌の特集が「切字」から「切れ」に論点が移っているという指摘も示唆的でした。特集が年々重なるにつれて変化を付けるためなのか、精神論になっているのか、両方かもしれませんが、平成期らしいなと感じました。



論の内容ではなく、論じ方についてですが、研究論文的な手続きでありながら、さっぱりした江戸っ子的ツッコミや啖呵が随所に織りこまれて、そのバランスが読み物として面白かったです。文体の運動神経がいい、というか。テキパキした躍動感があるんですよね。



上田:先行研究について書かれていても、むやみと面白い。文体の問題でもありますし、内容が先へ先へと停滞しないで進むから、ということでもありますよね。



青木:はい。先ほどの研究論文的な「手続き」というのは、筆者自身と他者の論や意見を峻別して論じている点で、引用元や出典の明記、つまり先行研究の積み重ねをそれなりに追いつつ、自分の新しい知見をプラスして論じようとしている点が俳句評論としては珍しいと感じました。



学術論文では当然で、というよりそれをスキップした学術論文は論文と見なされないことが多いのですが、俳句界では評者がいいと思った先行研究や元ネタ、アイディア等をいずれも自分の意見としてまとめる場合が割合多く、それを知らない読者が読むと内容がいずれも論者の創意に見えてしまうため、研究や論点の蓄積が難しい。



その点、本書は珍しいと感じましたし、誠実な本とも感じました。



そのような手続きが自然に身についている筆者ゆえに、キレキレ論の歴史的経緯を追いつつ、その時代ごとの論自体がそれぞれ何らかの偏りや価値観を抱えていたことを論じられたと思いますし、そうでなければ「各時代の論を論じる」発想は出にくいと思うので、当然といえば当然なのですが。



いずれにせよ、学術論文の感覚が身についてしまっている私としては手続きや内容ともに興味深い一書でした。





「いや蛙は音をたてますよと言われてしまった」(高山)



高山:私は研究者ではないですし、文法に強いわけでもなく、ある意味では手にあまることをあえてやっているという自覚がありました。



最も恐怖だったのが、著者本人と担当編集者(つまり島田牙城さんですが)の2人だけで校閲しなくてはならないこと。勤めの関係で、本格的な校閲がどういうものか、よく知っていますのでなおさらです。今のところパッと見てわかる誤植は2か所しか見つけてないので、他にも誤植やら文法記述の誤りやら、あったとしてもまだましな方かとは思いますが。



しかし、がっくしきたこともあります。古池や蛙飛び込む水の音を読解した章で、蛙は水に飛び込むとき音をたてないという、尾形仂・嵐山光三郎両氏の説に依拠して論を進めたのですが、蜜柑山のため池のほとりで育った橋本直さんと、この頃、上田さんの句会でご一緒しているクズウジュンイチさんに、いや蛙は音をたてますよと言われてしまった。



クズウさんはナチュラリストですから、蛙の種類と状況別のいろいろなケースについて説明してくださいましたね。いや、私も文献だけに頼らず、蛙の観察に出かけねばとは思いはしたのですが、果さぬままにしてしまってこのていたらく。もちろん、キレキレの本筋とは異なる小トピックスではあるのですが、自分でおもしろがって書いたところなのでちと無念でございます。



上田:とはいえ第四章の「古池句精読」は、この本の白眉の一つでしょう。晩春ではなく、啓蟄の候の作句ともとれる、ということ。「古池」という、この句以外に見当たらない言葉についての考察比較。「飛ぶ蛙」という発想は談林そのものだという論の紹介。



そして、なにより、その蛙を追い回して、水に飛び込ませていたある風流人が、滑稽として書き込まれていたのだという意外と説得力のある説……ま、その説得力の一部に「水の音」が関わってくるのですが、ともかく面白いので、ぜひ、本書に当たってください。青木さん、すいません、お続け下さい。




「ステキな劇薬だな、と思いました」(青木)



青木:いえいえ、ありがとうございます。そういえば、総合誌の特集などを見ていつも不思議だったのが、個々の句の解釈と切り離したところで「切れ」が一種の概念や思想のように語られることがあった点でした。



実作者の信念の吐露としてはいいかもしれませんが、それがハウツー的な特集で見受けられたりするので、読者側はどのように受け止めているのだろう、とも思いましたし、お互いに自身がかかわる俳句ジャンルには他ジャンルにはない「切れ」という固有の特徴があると信じたい時期なのかも、とも感じることもありました。



文法や切字、季語といったもの以外に「俳句」と信じられるものが減ってきた時代の裏返しともいえるわけで、そのあたりを高山さんは鮮やかに指摘されていて、その意味でも『切字と切れ』はなかなかステキな劇薬だな、と思いました。



上田:「俳句」と信じられるものが減ってきた時代、という見方、面白いです。その裏返しとして「切れ」が概念化して、なにか思想の源泉のように扱われる。



高山:上の語が下の語に掛かるか掛からないかを識別するのに切れるとか切れないとか動詞でいうのは結構だと思いますし必要なことです。が、名詞で「切れ」の語を持ち出すととたんに、おっしゃるような不必要な概念化が生じてしまいます。



じつは「切れ」が意味するところについて充分なコンセンサスが形成されているわけでもないのに、一見、便利で何かわかったような気がするものだから、合切袋のようにいろんな要素が投げこまれて、果ては「実存」とか「宇宙開」とか口走る人まで出てきてしまう。



そこまで病膏肓に入るケースは少ないにせよ、一句鑑賞のような場面でも、「切れ」という言葉が不用意に出てくるものは総じてレベルが低い印象は受けますね。それは、対象となっている句から遊離した思念を走らせている兆候ですから、偏見ではないと思います。




「中立では全くありません」(高山)



青木:今回の本では主に一句独立の発句がメインでしたけど、歌仙や五十韻、百韻での発句の切れ云々について、今回お調べになった研究等で興味深いものなどありましたでしょうか。



あと、大雑把な括りですが、連歌と俳諧における「切れ」の要素の大きな違いといったものを論じた先行研究などありましたでしょうか。



高山:それに近いのは、田中道雄氏、藤原マリ子氏の論文でしょうか。こんどの川本先生の「新切字論」もそのあたりを重点的に調べなおされています。田中先生の論文は、「週刊俳句」の同じ号で再録しましたのでぜひお読みください。おもしろいと思いますよ。



しかし、それにしても痛感したのは、自分は連歌についてなんも知らないなということです。今回、付け焼刃で百韻連歌なども少々読んだわけですけど、これは猛烈に難しいものですね。近世俳諧のことだってたいして知りやしませんが、連歌は段違いに難しいと思いました。



近世俳諧の難しさは事項というか、単語を知ってるとか知らないとかが主だと思いますけど、連歌は用語はむしろ雅語に限定されていますから、知っている言葉がほとんどです。



難しいのは言い回し、発想のあや。ほとんど全ての句(発句と平句とを問わず)に本歌があり、本意・本情が張り付いている。なるほどこれに比べれば俳諧連歌は簡単で、だからこそ初期俳諧の時代、俳諧は連歌への一階梯という扱いだったのだということが少しは実感できました。



上田:どれだけ高度な遊びが、私たちの知る俳諧の前史としてあって、それが消失したか、ということですね。なるほど。



高山:『切字と切れ』は、自分としては切字と切れをめぐる歴史読み物の体裁で書こうとしたので、ハウツー本的といいますか、こうしましょう、ああしましょう式の物言いは極力しないように心がけました。



とはいえ中立では全くありません。帯にある〈平成俳壇を覆った強迫観念を打破する〉という惹句はシャレでもなんでもなく、一貫してそれが目標でした。



一方で、客観性は担保する必要がある。しかし、こちらも、特に中近世の切字説の読解など、十全の自信があるわけではありません。天保時代の北元という人の切字説など、翻刻こそあっても、内容に踏み込んだのはあるいは私が初めてかも知れない。それなりにやれてるとは思うものの、不審があったら、あるいは興味があったら、みなさんそれぞれすぐ確認できるようにという意味でも出典註はうるさいほど付けました。



上田:「切字」というトピックをめぐって俳諧史のおさらいができる。勉強になるし、読み物としての魅力は十分です。



しかし、本書の同時代的あるいは歴史的意義は、青木さんも言われたように、最終ページ近く「切れ」神話の解体終了宣言のような部分「多くの俳人が、切れをめぐるさまざまな、文字通りの『夢』を語りはじめる」にはじまる「平成の終わりと俳句の夢」という一節にある。



ある若い書き手と話していて『切字と切れ』は、「『角川俳句』的なものにメスを入れた歴史的著作なんではないか」ということを言っていて、彼もそういうことを感じたんじゃないかと思いました。




高山:「『角川俳句』的なものにメスを入れた」というのはよくわかりませんが、筑紫さんの「俳句上達」主義批判を参照している部分があるのは確かで、上田さんの今のおまとめは著者としてはうれしいです。


しかし、俳句界全体の平均的なリテラシーは、お三方よりはだいぶ低いわけで、読者の半分くらいは誤読するんじゃないかと私は疑っていますが。



つまり、高山は切字とか切れというのは大切なものだと言っていると受け取られるのではないかということです。実際、献本に対する礼状の中には、強い誤読の気配を感じさせるものもありまして。



上田:タイトルだけで、味方だと思われるということは、ありそうですね。



筑紫:『切字と切れ』は力作ですが、高山さんが書けば書くほど「切れ」の言説が増えて、逆に「切れ」が一種の権威化しないか心配です。



早い話、『切字と切れ』は余りにも長いので読みきれず中途半端に消化するために、この本は「切れ」の実用的入門書だと誤解している人がかなりいるようですね。むかし『資本論』を資本家が労働者を収奪して金儲けするためのHow to本だと理解している人がいました。まあ、それも案外正しかったのですが。



高山:『定型詩学の原理』の著者に、余りにも長いなどと言われるのは心外ですが、書物の運命としてはありそうなことですね。





「秋山って男は知っていますか?」(筑紫)



筑紫:非常に末梢的なようにみえますが、現俳壇の全貌がよく分かる記述があります。



『切字と切れ』198頁の注5に、「1990年代前半の『俳句』誌における各種入門特集において切字の項目にあてられた頁数を挙げる」とあります。力作のデータですが、なぜ19902月~19964月なのかが問題です。数字としてのきりはいいですが問題はもう少し深いところにあるようです。



高山:ええと、いちおう申しておきますと、今回、そうした記事調査は、基本的には総合誌に限定し、結社誌には手を出してません。そして、「俳句」や「俳句研究」の目次は全部チェックしています。



筑紫さんが言った註の記事列挙が19902月~19964月の範囲になっているのは、まさに秋山流の入門特集で切字の記事があったのがこの範囲だったからです。最初に年ありきで、きりが良い1990年からのデータを載せたわけではありません。そして1997年以降の大規模化したキレキレ記事は註ではなく、193195ページの本文に列挙しました。



上田:1999年の復本一郎『俳句と川柳』以後、「切れ」という鍵用語が一気にトレンドになり、総合誌は「切れ」をタイトルにした入門特集を、連発しはじめる、というご指摘ですね。



筑紫:秋山の特集の総目次を作ってみると面白いですよ。秋山みのるは角川書店の「俳句」の編集にあたり19872月から19948月まで独自の俳句上達法特集を毎号飽きることなく続けました(途中から「結社の時代」とネーミングしていますが)。角川書店の「俳句」のドル箱となった特集企画でした。実はそれが高山さんが挙げた切字特集の時代と重なるのです。1990年以前のデータも入れるとぴったり合います。



秋山の俳句上達法特集の最初は、季語や旅吟の上達法でしたが、2年目辺りから数個のテーマで順次廻し、その重要な一つが「切字」であったのです。その後の数年間は切字の時代といってよかったし、それによって俳壇の大家・中堅・若手の洗脳が進んだようです。



その証拠に、秋山が編集長になる前は「俳句」で切字の記事はほとんど無く、編集長を退任したあとは多少の余韻はありましたがどんどん減少しました。また「俳句」以外の総合誌はほとんど切字特集はやっていなかったように思います(少なくともこれほど沢山は)。



秋山は雑誌編集の天才であるとともに、俳壇を堕落させた張本人です。賞賛を籠めて「悪魔」と言ってもいいです。



例えばその入門特集では、錚々たる大家一人一人に僅か1/2頁で切字を論じさせたりしています。今回の「俳句」の大特集(一人当り46頁)と比較してみて下さい。全く馬鹿にしていますよね。私が一番情けなく思ったのは、俳句入門の極意を阿波野青畝・加藤楸邨・飯田龍太に1頁で書く特集を依頼しているのを見た時です。多分、飯田龍太が俳壇に絶望し、「雲母」を廃刊し、俳壇から引退した理由は秋山にあると思います。その意味で俳壇史に残る人でした。



ただ、同時代人として付き合ったので非常になつかしい人ではあります。敵ではあっても私のことは好きだったようです。ここまで言って何ですが、皆さんは、秋山って男は知っていますか?



上田:いわゆる「俳句上達法の時代」を作った、そして「結社の時代」というキャンペーンを仕掛けた人として。磐井さんが書かなかったら、忘れられてしまった方かも知れない。



高山:いちどだけ秋山氏を目撃したことがあります。角川春樹が山本健吉賞を受賞した際の贈賞式で、場所は山の上ホテルじゃなかったかな。天才かどうかは存じませんが、キャラが濃くてあの春樹氏に全くひけをとらないのには驚きました。辺見じゅん氏もいましたけどこれも濃かった。車椅子の森澄雄が賞を与えるんですが、ちょっとしたヴァルプルギスの夜でした。



青木:関西にいた頃、実作者の方とお話していると、いわゆる秋山時代を語る方は多かったですね。バーで俳句の話をするうちに喧嘩になりかけたとか(笑)、当時の誌面がかなり変わったのがはっきり分かった、とか。



今、仰った「切字特集時代=秋山編集時代」というご指摘は、高山さんが引いたアウトラインにいわば肉付けしていくような感じで、とても重要に感じます。



筑紫:「切れ」が広く普及したのが1999年の復本さんの『俳句と川柳』が原因だとすると、「切字ブーム」と「切れブーム」は、仕掛け人から見てもはっきり分けて考えた方がいいと思います。



高山:仕掛け人が違うから「切字ブーム」と「切れブーム」を分けよというのは首肯しかねます。復本さんの本の影響力は大きかったとはいえ、その影響力自体、それ以前からの流れに乗ったからこそのものです。



秋山氏の路線が一定程度の成功を収めたのは、大衆の側に需要があったからです。仕掛け人が全ての流れをコントロールできるなら、秋山氏は死ぬまで編集長をやっていたはずでしょう。



筑紫:大衆の声があったから「切字ブーム」になったわけではないように思います。

たしかに俳句上達法そのものは大衆の声があったかも知れませんが、俳句上達法の中で季語や吟行、添削などを挙げてゆくのは至極常識的でしょうが、切字を入れたのは秋山の独創だと思います。なぜなら明治以降、秋山まで切字ブームは存在しなかったからです。切字を(あってもなくてもいい)盲腸から致命的内臓系に変えたのは秋山です、秋山をあなどってはいけないですね。矢張り悪魔のような存在です。

秋山時代を以て「文学としての俳句」は滅んだと思っています。1994年8月に「俳句」の編集長は退任しましたが(これは前年8月の角川春樹氏のコカイン逮捕事件をめぐる角川書店内の暗闘でしょう、俳句史・俳壇史的には関係ないと思います)、逆にいえば、『俳句』の編集長はクビになっても、彼の作りだした切字ブーム、その派生の切れブームは連綿と続き、平成が終わった令和にまで引きずって、我々をこんなに騒ぎ廻らせているわけです、みんな秋山の天才のせいでしょう。

秋山は言います「雑誌編集者の勝負の分かれ道は、「新しいキャッチフレーズ」を発見できるかどうかにかかっている」「わたくしの場合は、自らのたてたフレーズをすぐに打ち壊していくのが、商業雑誌の仕事であった」。

〈俳句上達法〉の名称より〈結社の時代〉の名称の方が一世を風靡しましたが、晩年には「もはや『結社の時代』は終った」といいます。こうした機敏さが、切字ブームにも影響しているのではないかと思います。

 「切字ブーム」と「切れブーム」を分けるのはおかしいといわれますが、上に述べたように「切字ブーム」は秋山という独創的個性が単独で作りだした幻想であると考えます。俳句一般大衆や、俳壇ジャーナリズムは余り関与していないと思います。一方「切れブーム」は、秋山の「切字ブーム」が作りだした派生ブームですが、ただ、今回の「俳句」特集で見て分かるように、初心者向けには、いったん「切字」に落とさないと「切れ」は論じにくいことから分かるように、秋山なくしては「切れブーム」が生まれなかったことは確かでしょう。





「現在書きたいテーマは3つあります」(高山)



上田:すでに、だいぶ長大になりつつありますが、もう一言ずつお願いします。



筑紫:高山さんが評論集を出すと決めたときに呼び出されて相談を受けました。すでに豈Weekly等であちこちに喧嘩を売り、論客として名を馳せていたから申し分ないと思ったのですが、『切字と切れ』と聞いて「?」と思いました。



確かに当世風論争で結構ですが、この本で高山さんが密かに企図しているように俳壇から「切れ」が殲滅された場合、この本の価値は後世どこにあると考えればいいのかな、と考えたのです。巨人軍がいなくなったあとのアンチ巨人軍はどこに行くのかな、という感想でもあります。



もちろんこれは第2部についての感想で、第1部は堂々とした切字論だから、川本、仁平と堂々とやり合えばいいし、勉強になることが多かったです。



青木:最終章末尾の一文に「今や、平成の三十年間がほったらかしにしてきた主題や主体の問題こそが、あらためて議題にあがらなくてはなるまい」と記されていました。平成期が等閑視した「主題」「主体の問題」とはどのようなものなのでしょう。



高山:あそこは勢いでああいう書き方になっていますが、まずは自分自身の問題だと思っています。特に「主題」の方で、これから自分は何を書くのかという素朴かつ切実な問題があります。



そこから翻って俳句界全体を見回しても、平成の30年間はどちらかといえば「どう書くか」の追求に血道を挙げた時代で、「何を書くか」は等閑に付されたというか、要するに主題=季題で済ませようとした時代だったのではないかと思います。



逆に主題=季題で済ませている人たちが「どう書くか」を追求したところで、「俳句上達」以外の指針が出てくるはずはなく、その流れで切字とか切れといったつまらないテーマが妙に前景にせり上がってきたのではないかというのが私の見立てです。



「何を書くか」と「どう書くか」がリンクして展開していた昭和の特に前中期と、平成で大きく異なる点ではないでしょうか。



そしてその結果、平成の最後に何が起こったかというと、金子兜太の勝利です。「何を書くか」と「どう書くか」をリンクさせていた時代の中核選手の最後の生き残りによって、「俳句上達」の選手たちが、のきなみ足払いをかけられてひっくり返ってしまったというか……



断っておきますと、私は金子兜太は好きですよ。しかし、だからと言って平成が金子兜太の時代だったはずがない。兜太で平成を代表させてしまうような袋小路へ陥ってしまった、我々がみんなで形作っている、批評的あるいは社会的な枠組は常識的におかしいと思う。……という直観が拙著の末尾の記述の背景にあります。



で、自分としてどうするかですが、文章の方で現在書きたいテーマは3つあります。



1     連作論

2     攝津幸彦と仁平勝と筑紫磐井 団子三兄弟序説

3     過去50年間の俳句史



1の連作は、現在ではそもそも存在しないものとされているのですが、実際は隠れキリシタンのように伏在しています。必然的に新興俳句時代の議論や実作を振り返ることになりますし、短歌への目配りも必要になります。また、主題無しの連作はあり得ず、五七五で一句作るのとは違う次元で制作主体が自己と向き合うこともおのずから要請されます。



2の3人組は、もちろん私自身の個人的な関係性によって選ばれているわけですが、昭和末年を代表する新進にして前衛残党だった人と、なんだかんだ平成の俳句批評を牽引してきた2人という顔ぶれですから、思いのほか多彩な問題系を引き出せるのではないかと。まあ、勘でございます。



で、1、2を踏まえて最終的に3になだれこんで、ここ50年間の俳句の表現、俳句の社会に何が起こったのかということを書きたいと思うわけです。



本の方では「平成無風」というフレーズを話の流れを作る道具として使いましたが、本当になにも起こらなかったと思っているわけではもちろんない。ただ、まだそこで起こったことを歴史化する作業がなされていない。なのでやろうと。



が、私も忙しうございまして、果たしていつ書けるやらというか、それ以前にいつ勉強できるやらと茫然としている次第です。今は青木さんがいろいろなところで近過去の歴史、たとえば辻桃子の『俳句って、たのしい』の意味などお書きになっているのを拝見して感嘆しながら、自分もいつか書きたいなと思っている段階です。



青木:「だからと言って平成が金子兜太の時代だったはずがない。兜太で平成を代表させてしまうような袋小路へ陥ってしまった」という指摘は興味深いです。「平成無風」の裏返しともいえるわけですし。私の見立てでは、平成期は昭和期俳句の財産を時代へ継承していく時期で、いわば初代・二代目の蓄積を次へつなげる三代目・四代目的な立場かな、と。令和期も引き続きそうなのかどうかは分かりませんが、その象徴の一つとして平成期の金子兜太ブームを捉えるととても興味深いです。



私が以前から書かせてもらっている「円座」での辻桃子論や1970~90年代の俳句論ですが、内容以外の俗世的な諸々の事情で現在ストップ状態になっていまして、ぜひ高山さんの戦後俳句史、拝見したいです。







3.「豈62号」特集『切字と切れは大問題か』について





「みなさん「飛ばして」ますよね」(上田)



上田:つづいて「豈」誌の特集に移ります。高山さんは、本一冊書かれたあとですから、楽しく自句自解をされている(「自句自解切字之弁」)わけですが、川本さん、筑紫さん、仁平さんは、みなさん「飛ばして」らっしゃいますよね。



筑紫:「飛ばす」ってなんですか?



上田:川本さんの「切字とは何か、何だったのか」では、連歌・俳諧の作法書における「切字」の特別視や目録化が「幅広い愛好家への普及をめざしたものだったのではないか」と、書かれていて。これ、要するに(さっきの筑紫さんの言い方で言えば)みんな、秋山編集長だったんだ、ってことですよね? 



他にも「句中のどこにでも切字一つありさえすれば」発句ということになっていたのは、身分の高い人も多かったであろう初心者や中級者のためとか。



「けり」が「や・かな」と同列視されるのは、古典由来ではない、石田波郷はなんでそれを言ったのだろう、という疑問とか。短い文章で、どんどんアイディアが提示されることにも驚きますし、識見があるというのは、なんと過激で遠慮のないものなのか、と。



高山:しかし、川本先生の文章の末尾の方にある、「続々と新しい季語が開発されているように、他にもっと現代的な響きをもつ切字を案出することもできよう」という意見はいかがかと思いますけどね。



切字が真に切字である時代は連歌とともに終わったのであって、俳諧時代の切字は実体としては要するに修辞のうちのテニハ的な部分にすぎない。それを明らかにしたのがまさに川本先生のお仕事だったのに……。現代的なレトリックを続々と開発せよというのならもっともですが、現代的な切字の案出というのは意味がないでしょう。



上田:なるほど。



高山:近現代の「や」とか「かな」というのは、さしずめフランスの旧貴族のようなものですよ。貴族制度はなくなっても、オルレアン公爵とかパリ伯爵とか、社会的慣習として称号は生きていて、血統に対する敬意やスノビズムも残っている。



旧切字貴族の公爵が「や」「かな」で、「けり」は成り上がりの子爵くらいなものでしょうか。「もなし」「もがな」は昔はたいへんな権門だった侯爵なんだけど、すっかり落ちぶれて庶民並みの貧乏になってるんですな。「ぞ」「か」「し」は伯爵で、今や「けり」の後塵を拝しつつもまずまず体面は守っている。で、旧切字貴族も旧フランス貴族と同様に領地も特権も持たず、法律上の位置付けもない。切字と言ったってそれはあくまで称号の話でしかないわけです。



上田:川本さんの言われているのは、筑紫さんが「『切字・切れ』よさようなら、「文体」よ今日は」で言われている「文体」の話ではありますね。



その筑紫さんが同文中で書かれている「私はレンキストではなく俳人」なので、後句とか、それとの切断とか、どうでもいい、とか。



つづけて筑紫さんが、さりげなく「例えば『や』が、前句(五七五)が俳句らしさを持つための言葉だというなら、はっきりそういえばいいのだ」と書かれていて、それも、重要な論点だと思います。波郷の切字論などは、そういう「らしさ」のレベルの問題ではないかと。



さらに、仁平さんの「『切れ』よ、さらば」に、自分は、吉本隆明の「文学について理論めいたことを語るとすれば巨匠のように語るか、あるいは普遍的に語る以外にはない」を原点とするものであるから、れおなが何を言おうが、五七五定型の「本質論」にしか興味がないのだ、とか。



青木:その点、論者の信念がストレートに出ていて、書きたいことを書いた感じがあって、読んでいて面白かったです。信念というのは、「書きたいこと」と「書くべきこと」が混じり合っている、というか。個人的に印象深かったのは、仁平さんの最後の一節、「そろそろ別れどきかな。」で終わるところ。色々あってもつれたりしながらも細々と長く続いた男女が互いの関係に疲れてしまい、そろそろ別れを想うみたいな感じで(笑)、逆にそういう風に「切れ」との関係を感じる実作者の方もいるのだな、というのが興味深かった。



上田:はい。これらの書きっぷりを、感想として「飛ばして」いるなあw、と。







「『平句』というのは差別用語ですよね」(筑紫)



筑紫:なるほど、では飛ばさないで言いましょうか(笑)、「豈」の特集は高邁な理想がありそうにみせつつ、実は『切字と切れ』の販売促進キャンペーンなんです(笑)。



人選は高山れおな。誰が引き受けてくれるか、どんな内容になるかは全く分かりませんでした。皆さん真面目に論じていただけたのは感動しました。



上田:けっきょく皆さん、平成の俳句論壇でいう「切れ」論を無効化するベクトルで、一致しているのが、面白かった。



筑紫:一つだけ不満が。仁平勝が平句説を取り上げ、虚子は平句だ、自分は今後平句を目ざしているというのは勝手ですが、他人(特に私)を決めつけるのは止めてほしいですね(笑)。



確かに私の先生の能村登四郎は切字も余り使わず、切れのない句も多いですが、これは能村登四郎だけの特色ではなく、昭和22年~24年の馬酔木の新人群の特色で、当時一世を風靡したのは、切字、切れのない句の



見えねども片蔭をゆくわれの翳 秋野弘

春愁のむしろちまたの人群に  岡野由次



等の句でした。ここに挙げた句は、当時の登四郎や湘子などの句よりはすぐれていると思います。



こういう作風がすでに確立していたので、いくら切字派の波郷が馬酔木に復帰しても(23年)、切字は誰も使わなかったようです。



連句がなくなったので余り差別していう必要もありませんが(と言いつつ矢張り「平句」というのは差別用語ですよね。使う側でなく使われる側からすると)、強いていえば、「平句」などではなく、「切字・切れのない立句」を目ざしていると言って下さい、仁平さん! 

上田:筑紫さんの文章のタイトル「「文体」よ、こんにちは」の「文体」について、お話いただけますか?



筑紫:訳のわからない「切れ」ではない、適切な用語を提案した方がいいと思い、それで「文体」と言ってみたものです。



川本さんの本でもその表現はあるようですし、「文体論協会」の機関誌に「切字」を論じた立派な論文が載っているくらいですから、余り問題はないでしょう。



文体の中に、切字もあれば、切れもあり、F形式もあれば、「田楽」構造(後述)もある、多行があれば、分かち書きもある、2句1章も、1句1章、冠句付け(冒頭5文字で必ず切る)もある。それらを相対的に見た方が理解が深まるし、実作にも役立つでしょう。



麿、変? 高山れおな

吾と無  筑紫磐井



などは、切れ論で批評するのは無理(そもそもそんなことをする意味がありませんから)で、むしろ強いて言えば文体論的に解釈するのでしょうね。



上田:文体と切字の関係は、どう位置づけられますか?



筑紫:「切字」「切れ」は一見「時代の文体」のようにも思えますが、個人の文体に落としてみるともっと面白いです。近代俳句において最も挑戦的な表現者であった作者は河東碧梧桐でした。ただ、『春夏秋冬』『続春夏秋冬』『新傾向句集』時代ですら碧梧桐は虚子と大して変わらない「かな」の愛用者です。



ところが、『八年間』と言う句集(大正4年~13年の作品)1冊で驚くべき変貌を遂げます。この句集を年代順に見ると、当初虚子以上に「かな」を頻繁に使用していましたが、急速に「かな」が減少し「けり」「り」が増加し、やがて切字は一切用いず、最後は口語表現に変わっていきます。詠む内容に応じて文体変化が連動したのです。



その節目を見ると、大正4年に長谷川如是閑と多くの部隊を編成して北アルプス踏破の冒険に出て、自然の見方ががらりと変わったのです。第2の節目は大正7年の支那旅行です。作家は文体を選択できると思いこんでいますが、むしろ俳句の内容、作者の関心・視点によって使われる文体が異なってしまうと見た方がいいかも知れません。これはもう切字・切れを超越した問題です。



かな時代:布団二つ敷けば大佐渡小佐渡かな

けり時代:雪田をすべり来る全き旭となれり

無切字時代:客間のうたた寝のよれよれの白服

口語時代:麦秋の馬に乗る皆が長い足を垂れた





「仁平切れ論は、ここにきて破綻したのでは」(高山)



高山:またしても訂正からはじめますと、「豈」特集の筆者の人選は確かに私がしましたが、特集してくれとは頼んでません。「週刊俳句」にはこちらから持ち掛けましたけど、「豈」の特集は筑紫さんから出た話です。



動機は販促ではなく、筑紫さんが炎上好きだからでしょう。



「俳句新空間」の特集告知に対して、田島健一氏が「煽りすぎ」とツイートしてましたが、私もひそかに胸を痛めておりました。「豈weekly」も十年一昔で、今は人に喧嘩を売ったりする元気はないです。



と言った舌の根も乾かぬうちになんですけど、仁平さんの「『切れ』よ、さらば」は、私も突っ込みどころの多い文章だと思いました。要するに仁平切れ論は、ここへ来てはっきりと論理的に破綻してしまったのではないかということですが。



私の理解では仁平さんの切れは、直接には句末での脇からの切断のことであり、発句が連句から独立して俳句となって以降もその意味での切れの性質が形式のうちに保存されているということでした。〈俳句が「切れ」を必要とするのは、「五・七・五という音数律そのものの不安定さ」によるもの〉であり、〈そうした定型の本質を「俳句は短歌にくらべて相対的にみじかいのではなく、絶対的に不安定なのだ」〉というわけです。



つまり、仁平的な切れというのは、そもそも切字や句切れの有無とはかかわりのない概念だったはずです。実際、仁平さんは『詩的ナショナリズム』の中で、



手と足をもいだ丸太にしてかえし 鶴彬

繃帯を巻かれ巨大な兵となる 渡辺白泉



の両句を比較して、前者は川柳であって切れがなく、後者は俳句で切れがある、その結果としての表現の違いは……というふうに論じていたわけです。



ところが今や仁平さんは、虚子の梅雨傘をさげて丸ビル通り抜けとか婦長來て瓶の櫻をなほし行き「切れ」のない句であるとして、「平句体」と名づけたなんて言うわけです。



しかし、そもそも論として仁平さんの切れは、先ほどの鶴彬・渡辺白泉の比較を見ればわかる通り、切字・句切れの有る無しとは関係がない概念なのだから、虚子のこれらの句に切れが無いとする筋合いはないはずです。これらの句もまた、〈五・七・五という音数律そのものの不安定さ〉を帯びた〈絶対的に不安定〉な形式として俳句なのであり、切れがあるということでなければおかしい。まさか、白泉の句は句末が終止形だから切れがあり、虚子の句は連用止めだから切れが無いのだとでも言うつもりですかね。



結局、仁平さんは自分の切れ概念を、切字や句切れの有無というところに退行させてしまったわけです。



「平句体」という呼称もよくないですね。『虚子の近代』で使っていた「〈句日記〉体」の方がいいと思います。



平句には短句もあるし、切字が入ることもざらにある一方で季語は必須の要件ではない。何より前句を受けるのが平句の本質ですが、挙がっている虚子の句も、ハマって作っているという仁平さん自身の句も当然ながら前句とは何の関係もないはず。



仁平さんが言うところの「平句体」の本質は、要するに日常とベタに地続きの意識のうちに、言葉を定型律に流し込むことで微かに発動する詩的なおもしろみ、みたいなことでしょう。だとすればまさに句による日記であり、「〈句日記〉体」でいいじゃないですか。

というような発言を読んで、おまえ(たち)の注文に応えて力稿を寄せてくれたのに、あれこれ言うとは失礼じゃないかと感じられる向きがあるかも知れません。しかし、それは違います。占星術師が川本先生、仁平さんという星の動きを観察して記述しているのです。いわば2019年秋の「星界からの報告」です。ちなみに筑紫星は、煙幕による遮蔽がほどこされており、観察できませんでした。悪魔の力が働いていると思われます。。

 
青木:「平句体」か「句日記体」かはものすごく重要な指摘で、「平句体」とすると、江戸俳諧の歌仙の世界から近代俳句が(論上は)つながっているという認識の上での判断となるでしょうし、「句日記体」と見なすと、俳句界では、主宰虚子の個人雑誌という位置付けの「ホトトギス」で連載された主宰動向の報告も兼ねた日記のスタイル、という認識になる。



どちらが正しいかというのではなく、「切れ」の有無の歴史性を踏まえる論としてどちらの語を使用して論じるかは、「切れ」や虚子を捉える上で大きな違いになる気がしました。





4.「俳句」201910月号「特集 名句の『切れ』に学ぶ作句法」について





「まあ、注文が入ったらああいう書き方になる」(筑紫)



高山:今回の「俳句」の「名句の『切れ』に学ぶ作句法」では、山西雅子さんが、「総論『切れ』とは何か? 一句を成就させるもの」を担当しています。



さすがに山西さんだけあって特に変なことは書いてないですけど、しかしこの文章、実際は切れの話ではなくて切字の話ですよね。



筑紫:「切れ」特集と言うより「切字」特集でしたね。まあ、注文が入ったらああいう書き方になるのは当然で、山西さんも頑張っているのがよく分かりました。「豈」の特集のような注文がいったら同じ人でも全然別なことを書いたでしょうね。



高山:切れ特集の総論を注文されたわけだから切れという語を使わざるを得ないんだけど、切れという言葉を使わなくても成立しそうだし、実際そうした方が論旨もすっきりしたのではないでしょうか。切れという言葉を使わずに、主要な切字使用のパターンついて、その機能を説明すれば用は足りる内容のように思います。



筑紫:その意味では秋山の30年前の編集が今もって続いているような気がしました。考えてみると「切字」特集の編集モデルは秋山が作りましたが、「切れ」特集の編集モデルなど、抽象的な切れについては、座談会で参加者が放談する以外にやりようがないように思います。



確かに1999年以降「俳句」からは「切字」特集は絶滅しましたが、実は「切れ」特集は切字を踏まえて特集を組み立てている(先ず何種類かの切字に分割して、それごとに切れを論じさせる)に過ぎない気がします。



特に今回の「俳句」10月号の特集ではそう言えます。我々は既に亡くなった秋山の怨霊の下で、今なお生きている感じがしました。その意味でも、矢張り偉い男だったと思います。



「俳句」編集長の立木さんが、5月号の編集後記で、入社したばかりの立木さんが見ていると、秋山が女性スタッフ二人を連れて蕎麦屋に行くために往来の途絶えるのを待っていた、「どこか不良中年達みたいでカッコよかった」と書いていますが、俳壇を「俳句」が牛耳れる古きよき時代だったのでしょうね。これは雑談。



高山:2000年以降、「俳句」や「俳壇」が盛んに切れ特集を組んできたことは拙著でふれましたが、それらの特集に登場する筆者の態度も一様ではありません。復本一郎、長谷川櫂、恩田侑布子といった方々はもちろん勇躍して書いてますけど、迷惑気というか、かなり困惑気味に書いている人もいます。



最も冷静端的なのが片山由美子氏(「俳句」20043月号 「切字と切れ」特集で総論「現代俳句における切れの認識」を執筆)で、これはやはり切字に冷淡な山口誓子~鷹羽狩行という系譜につらなる人なればこそでしょう。



山西さんは困惑はしてないまでも、ノリノリで書いているわけではないのは確かですよね。




●「機械的な読み/詠みが軋みをたてる」(青木)



高山:切れという語の問題を離れて単純にいかがかと思える点を、まあ、あんまり意味はないですけど、少しだけ指摘しておきます。



いちばん驚いたのは、柏原眠雨さんの「『や』の効果 詠嘆と配合」でしょうか。〈もともと切字が考案されたのは、連歌において第一句(発句)のみに求められる完結性(独立性)を担保するための句末の切れの語としてであったから、「けり」や「かな」の切字と同じように句末を「や」で切る形はごく自然であった。……「や」が句末に来ても、不自然であるどころか実は本来の用法だったことになる〉とありますが、前半の切字の発生史の理解はいいとして、後半の「や」が句末に来るのが「本来の用法だった」というのはすごい。とにかくすごい。



鶴岡加苗「『けり』の効果 『気づき』から『詠嘆』まで」では、〈硯洗ふ墨あをあをと流れけり 橋本多佳子〉〈かたつむり肉(しし)を余さず仕舞ひけり 小原啄葉〉といった句を、二句一章・一物仕立てで〈上五のあとにも軽い切れが入ってい〉る句としてカテゴライズしています。



しかし、これは韻律上の休止の話としては適合的ですが、「硯洗ふ」が終止形で独立句になっているのに対して、「かたつむり」は「仕舞ひけり」の主語なのですから、意味上、構文上の働きは異なります。



鶴岡さんに続いて登場する伊藤伊那男さんは、〈私は間も切れの一つであると思っている〉と述べていて、鶴岡さんも同じ立場ということになるのでしょうが、韻律上の間=休止と意味・構文の切断を切れの語でまとめてしまうのは、典型的な合切袋の例で、私ははなはだ疑問です。



筑紫:むかし、山本健吉が波郷の



雁の束の間に蕎麦かられけり



の最初の「の」に切字と同じ効果を見ていると先輩から聞きました。



当代で言うとここに「切れ」があると言うことなのでしょうか。若干頭に引っかかっていたので『現代俳句』で確認するとそんなことは一言も言っていませんでした。



意味の上ではもちろん修飾ではないとしても、リズムの上では修飾に近く、むしろそれは枕詞や序詞のような軽快な効果を感じさせるのです。「雁の」は半ば虚辞であり、半ば実辞であるという感じであります。・・・このような微妙なテニヲハの用い方を素人は決してするものではありません。」が正確な言い方でした。



分かりにくくはありますが、流石に健吉らしい着眼です。当代で言えば粗雑に「切れ」と言ってしまうところを、文体論で解釈すればもう少し奥深いものになります。と言うより、一句一句で文体論は異なる意味と機能を与えてゆくことになるのです。



高山:いや、まったく。「俳句」の特集に戻りますと、伊藤伊那男さんの「『や・かな・けり』以外の切れ 芭蕉の『切れ』」は、いきなり〈宗祇が……十八の切字を整えた〉とかましておいて、「ぞ」によって生じる切れの例として、〈寒けれど二人寐る夜ぞ/頼もしき〉〈夢よりも現の鷹ぞ/頼母しき〉というふうにスラッシュを入れて芭蕉の句を引いています。川本皓嗣先生の「切字論」さえ読んでいないことがわかります。



また、「よ」の用例として四句を挙げ、〈相手に念を押して確かめたり、命令する「よ」である〉と説明しています。でも挙がっている句の「よ」は全て、下二段活用・上二段活用の動詞の命令形の語尾です。〈命令する〉という働きの説明は間違ってないとしてもそれは動詞の命令形なんだから当然です。提示の仕方からすると間投助詞のつもりで「よ」を立項しているように見えるんですが、そのあたりの識別に注意しておかなくていいのか。


青木:個人的には、鴇田(智哉)さんの論が興味深かった。実作の現場でいかに使うか、読むかというハウツーものの括りの中で、鴇田さんが読解を粘り強く例示しながら「こうかもしれない、ああかもしれない、しかしこうだろう」といった論を進めつつ、その論タイトルが「機械ではなく」というのが印象的でした。語るにつれて、また「切れ」の読みの可能性にこだわるにつれて、「俳句」特集テーマが前提としている「機械」的な読み方・詠み方が軋みを立てる、というか。


高山:そうですね。柏原さん、鶴岡さん、伊藤さんの文章に不充分なところがあっても、それは要するに相対的な知識の多寡によるもので、特に奥行きのある論点にはなりません。鴇田さんの文章がはらむ問題はそれらとは異なるものだと思いますが、しかし、これについて述べると長くなりそうなので、川本先生の『俳諧の詩学』を書評する後ろに続けて書くことにします。




5.いっこうにまとまらないまとめ(仮)



上田:まったく、まとまる気配がないわけですが(笑)、まだ読んで下さっている読者もいると思いますので、言い残したと思われることを、お願いします。





「これを「田楽構造」と名づけましょう」(筑紫)



筑紫:「かな」「けり」などの切字論は余り皆さん異議はないと思いますが、切れがさまざまに考え方が分かれるのはもっぱら「や」という切字のせい(「切れ」でもあると思います)だと思います。「豈」の特集では、二条良基『連理秘抄』と宗砌『密伝抄』の提示している切字一覧の過不足を確認し、この2つの書物(つまり時代)の間で切字「や」が生まれたと言いました。



「や」の切字を使う発句は、結びが名詞止めとなっていますから、本来名詞止めで充分下句の切断の効果があるわけです。「や」はそれを補強しているだけだと思います。つまり「や」が切字でもあり、かつ「切字」ではない時代が過渡的にあったと思っています。



色々文法機能が論じられていますが、当時の歌人は文法など知らなかったと思います。その点では現代の俳人でも同様です。それでも短歌俳句は作れます。というか今もって究極の文法など存在していないかも知れません。これから文法にアインシュタインが出てきてニュートン文法を転覆する可能性もないわけではありません。



しかし「構造」だけは見てすぐ判るので、ある程度「や」の構造は知っておくべきでしょう。



古池や蛙飛び込む水の音



これを「F形式(構造)」[Fは「古池や」です]と呼んで、俳句の切字の展開を論じられているのが田中道雄氏ですが、しかし上に述べた、切字「や」の誕生の時は別の構造が主流だったようです。



『九州問答』(二条良基)

花や雪嵐の上の朝ぐもり 

波や散る潮の満ち干の玉あられ

『初心求詠集』(宗砌)

月や舟けふとる梶の初瀨川

月や峰かけ谷々の夕涼み

花や雲見し面影の龍田山

月や海名もひとしほの水の秋



これを、名詞3つ(たとえば第1句は、花、雪、朝ぐもり)が串に刺さっている形に似ているので、「田楽構造」と名づけましょう。



当時F構造はまだ切字と認められなかった、これだけは確かで、田楽構造であることが大事であったのでしょう。この構造を見ると歌人は安心するわけです。それでも、良基一派はこれを切字と認めず、宗砌一派は切字と認めたという東大派対京大派のような学派の争いがあったと思います。



高山さんのように詳細な資料に当たっているわけではないのでいい加減なところも混じりますが、これが私の直感です。



高山:不毛の切字・切れ説とは思いつつ、わいわいやっているといろいろアイディアが出てきますね。「や」(「ぞ」もかも知れません)の切字化が田楽構造に発しているというのは、もしかすると切字説の谷山・志村予想かも知れない。





川本「基底部・干渉部」説、復本「首部と飛躍切部」説について  



筑紫:川本評論集をおくればせながら読ませて頂きました。私への謝辞が書いてあったので、今回の「豈」の特集の事かと思っていたら、昔「俳句教養講座」で切字論を書くようお願いしたことのお礼のようです。ただまだこのときは、新切字論は完成していなかったようです。



私も近いうちに『俳諧の詩学』と高山さんのと併せて紹介させてもらおうと思っていますが、書評としては高山さんに紹介をお願いすることとしましょう。



それでちょっとわかっていたら教えてほしいのですが、川本先生の「基底部と干渉部」は、復本さんの「首部と飛躍切部」と合致するのですか、異なるのですか。川本先生、引き続きこの本でも「基底部と干渉部」は使っていますが、前の本ほど力説していない感じです。恐らくここを詰めると川本説からも「切れ」の必要性が出そうな感じがするのですが。



高山:復本先生の首部・飛躍切部説と川本先生の基底部・干渉部説はよく似てますよね。しかし、『俳句と川柳』ではその辺の断りはなく、前々から不審でした。



もちろん両者は厳密には違っていて、川本さんの方は誇張や矛盾で和歌的な美学を異化するのが基底部、それに読み取りの方向を与えるのが干渉部ということ。しかし、ほんとのところ、この考え方は芭蕉には相当程度に適合的かも知れませんが、誓子や素十の句をこれで読めるのでしょうか。



復本さんの方は最初から切れありきで、ぶっちゃけて言うと切れの上が首部で、切れの下が飛躍切部ということですよね。切れを客観化すると言い条、一種のトートロジーじゃないかと拙著では書きました。



私は別に切れが「無い」と言っているわけではなく、みなさん言ってることがばらばらじゃないの、そんな言葉は使わない方がいいんじゃないですかと申しております。屏風から虎を追い出して下さったら捕まえるのにやぶさかではございません。



基底部・干渉部説から切れが出てくるのではないかというのは、定義の問題ではないでしょうか。両部の接点を切れと定義すればそれは切れでしょう。



しかし、「揚羽蝶花魁草にぶら下がる」や「蟋蟀が深き地中をのぞき込む」を基底部・干渉部に分けられるのかどうか。こんどの「俳句」の特集で鴇田さんは「水枕ガバリと寒い海がある」に切れがあるとしてますが、そしてそれは無理だろうと私は思いますが、基底部・干渉部に分けることは可能なのかどうか。



ご質問のポイントは結局、基底部・干渉部説の勢力範囲はどこまで及ぶのか、「吾と無」のような極端なケースは除外するとして、通常の定型発句・俳句の全体を覆うものなのかどうかに帰結するような気がいたしますが。



私にはそうは思えませんけど、仮に全体を覆っていた場合でも、過半とは申しませんが決して少なくない句について基底部・干渉部の見分けは非常に難しいものになると予想します。よって、復本さんが『名歌名句辞典』を作る際に俳人たちに例句の切れを示させようとしてうまくゆかなようなことになるのでは。



それと、今、時実新子のアンソロジーが枕元にありますが、ざっと四分の一くらいの句は二句一章的な構成に見えますから、復本理論(「切れ」の有無で俳句と川柳が峻別できるとする)はやっぱりダメなんじゃないですかね。



筑紫:ありがとうございます。



似たような感想を持たれているので、座談会を進めるにあたって安心しました。



ただ川本先生は、謝辞で「俳句の文体論的・構造主義的考察の可能性に目を開かれたのは、復本一郎『笑いと謎』」と言っていますので、復本さんに敬意を表されてはいるようです、その著作権的な先後関係は当事者しかわからないでしょう(「歯切れのいい俳句論」と言っているようにやや舌足らずと見られているかもしれませんが)。



実は川本説では「切れ」をどのように考えているのか分からなかったので、切れは「副次的」に説かれているのかと思いました。そのポイントが「提示部+干渉部」にあるように思ったものです。つまり、川本説は、復本説と違い、あらかじめ切れがあると言う前提ではなく(結果は似ていますが)、



名句の解釈機能の発見=大半の句に「提示部+干渉部」がある自ずと切れが存在する



という道筋で切れ説につながるように思いました。


ただ川本説には大前提があるわけで、〈大半の句に「提示部+干渉部」がある〉ということは、〈一部の句に「提示部+干渉部」がない――提示部が無い句はないでしょうから、干渉部が無い句がある〉ということを許容していると思います(干渉部がないことが名句でないと言うことになりません)。たとえば、誰が見てもわかるのが、



鎌倉右大臣実朝の忌なりけり 迷堂



等がその典型です。すると、およそ俳句には



「干渉部」を要請する名句

「干渉部」を要請しない名句



の二種類があることになるわけです。「切れ」のあるなしよりこの方が実用的な気がします。


そして実は、――ここが最も大事なことですが――(ここ10年ほどの)現代俳句は、の中間とでもいうべき、



「干渉部」を内面化し、「干渉部」を見せない詠法



が増加しているのではないかと思います。私の場合もそうであるし、高山さんの句にもそんな感じをうけます。仁平さんが「平句」で言いたいことは同じようなところにある気がします。


我々の句では手前味噌であるなら、



ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 若之



等はどうでしょうかね(もともと彼の句集『自生地』全体が干渉部が内部化しているようです)。若い作家は変な切れ論に毒されない方がいいかと思います。



川本論の面白いところは大半が芭蕉を論じているのですが、実はこれは全部私(自分)の句の評価ではないかと考えてみた方がよほど面白くなることです。川本さんには(芭蕉と筑紫を同一視するなどとはと)心外かもしれませんが、その方が詩学の普遍性が出るような気がします。


まあご異論もあると思いますが、川本説の「提示部+干渉部」をもって切れ説に変えると言うのも十分生産的であると思います。



高山:干渉部の内面化というのはおもしろい視点ですが、しかし、福田さんのヒヤシンスの句自体はさしあたり、「しあわせがどうしても要る」が基底部で、「ヒヤシンス」が干渉部なんではないですか。



この句の発表直後に私が「詩客」のブログに書いた鑑賞をご参照いただきたいですが、この中七下五は日本語として変にねじれた強迫的な表現であり、川本先生が言う誇張法の一種として基底部の資格ありです。ヒヤシンスは種類については季節柄から選ばれてますが、本質的に重要なのは草の花であることで、手向けの花として読みの方向付けをしています(直接には震災の死者を悼んでいる)。つまり干渉部の資格ありです。



問題は、この読解は川本先生の試験には合格するでしょうけど、悪い冗談のようにしか感じられないことです。



ここに、比較文学者と実作者のスタンスの違いがあろうかと思います。川本先生が芭蕉の句を分析している限り違和感はあまりないですが、近現代の句に基底部・干渉部説を当てはめると、それが成立する場合でもなんだかバカバカしい気がするのです。



それは近代まして現代の句は、作るにせよ読むにせよ、良いのか悪いのか、良いならどこが、悪いならどこがという価値判断を待っているのであって、基底部だ干渉部だという分析を待ってるわけではないからでしょう。



近世の句が価値判断の対象にならないわけではないけど、とはいえやはりそれは歴史資料です。暗中模索している当事者としては、基底部・干渉部?  知るかっ、て感じは否めないですね。逆に言えば、誓子や素十は(子規や虚碧も)、まだ我われの中で充分歴史資料にはなってないということかも知れません。




昭和二十年代の「天狼」



青木:先ほどの「平句」問題で筑紫さんがチラッと仰った昭和20年代の「馬酔木」の話や、また今高山さんが仰った誓子や素十等の近代俳句云々でいえば、例えば誓子らの新興俳句は、「切字」と「切れ」を分離させて認識しようとする傾向があるかに感じます。



そういえば、今回の座談会にあたって、どんな風にやりとりしようと皆さんで話していたところ、ふと筑紫さんが「馬酔木」云々の流れで「そういえば「天狼」の雑詠欄はどんな感じだったのでしょう、何かご存じですか」と仰って、私もどうなのだろうと昭和20年代あたりの「天狼」をパラパラめくったのですが、やはり雑詠欄に切字は相当少なく、それも下五の「かな」「けり」はほぼ見ない。同人欄も同じです。



他にも、上五に「や」が使えそうなところでもあえて用いず、「の・に」等で逃げ切っている感じがある。「天狼」系の表現法でよくあげられるのが、上五の「~の」が曖昧、というのがあって、実際に「天狼」を知る同時代の方(「天狼」内外)からもよくうかがった話ですが、おそらく「~や」を避けようとした結果なのでしょう。



しかし、「切れ」は取り合せや二物衝撃というニュアンスで重視している感じもあって、これは大雑把な括りですが、新興俳句系は、「切字」と「切れ」を分離させて把握したがる傾向があるかもしれません。波郷の「鶴」系の韻文精神な雰囲気はその反転の結果で、根は同じようなものの気がします。ちなみに、「ホトトギス」は一致してもよし、せずともよしと融通無碍な感じがあります。



「天狼」的な「切字」と「切れ」の分離は、平成期の俳誌特集の「切字」から「切れ」へという流れとやや異なっていて、どちらかといえば一周回った「鶴」的な韻文精神の強調、という感じもします。



ただ、これは俳句史的な話なので、川本先生が展開されている概念的な話とは異なりますが、皆さんの話をうかがって思いついた、という感じです。



筑紫:私の思い付きに付き合って、わざわざお調べ頂きありがとうございます。やっぱり「天狼」も切字(当然「や」も)は少ないと言うのは予想通りでした。



反ホトトギスの、東西の雄――「馬酔木」と「天狼」がそうであれば、戦後の俳壇の風潮も何となく伺えます。



青木さんの「新興俳句系は、「切字」と「切れ」を分離させて把握したがる傾向がある」は非常に興味深いご指摘です。「馬酔木」はご指摘の点でどうなっているか確認していませんが、副詞・形容詞・助詞で修辞してゆく馬酔木は、少し違うかもしれません(「天狼」は動詞、名詞で詠みあげてゆくような気もします)。「馬酔木:は、切字を使わず、切れも余り示さないという特徴があるかもしれません。

 

もしそうだとすると、新興俳句の文体、「天狼」の文体、「馬酔木」の文体と見てゆく方が、少なくとも切れを探すよりは生産的かもしれません。



非常に無責任な好い方ですが、それぞれの文体の違う中で相互批評はどう成り立っていくのかというのも、実作者として興味深いです



高山:新興俳句系は、「切字」と「切れ」を分離させて把握したがる傾向がある」という捉え方はどうなんでしょうね。実作者たちは要するに切字を使わずに表現しようとした、文体という用語を借りるなら、切字を使わない文体を創出しようとしたのではないでしょうか。もちろんその際は、リズムやら句切れやら取り合わせやら、いろいろな要素を意識したことと思いますが、それを「「切字」と「切れ」の分離」と言う場合、彼らは「切れ」を明確に概念化していたのでしょうか。



そうではなくて、彼らの試行錯誤がもたらした作品の状況に対して、「切字精神」という絶望(?)の言葉で応じたのが切字の使徒・浅野信であり、70年代以降、「切れ」という言葉で事態を捕まえようとした人たちが続いて現われたというふうに拙著では論じました。しかしそのことは、昭和20年代の作者たちが「「切字」と「切れ」を分離させて把握」していたことを意味するのでしょうか。彼らは明確には認識していなかっただろうが、現在からはそう見えるということなら、その現在における「切れ」の定義が問題になります。どうも筑紫さんが話を広げすぎたせいで、将棋で言うところの千日手に陥りかけているように思えますが。

上田:かれこれ一週間にわたる座談会、たいへんありがとうございました。

そろそろ、ご家族が捜索願を出されていることと思いますので、解散いたしましょう。みなさま、どうもありがとうございました。

(座談会はメールで、おこなわれました)


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