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【句集を読む】結像と確かさと描写の賞味期限 鈴木牛後『にれかめる』の一句 西原天気

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【句集を読む】
結像と確かさと描写の賞味期限
鈴木牛後にれかめる』の一句

西原天気


牛が飲む水をクローバまはるまはる  鈴木牛後

桶だろうか。人が水を飲むときには起こり得ない景が/出来事があらわれる。クローバ一片から、周囲だか近くだかの自然(草原)まで見え、その動きから牛の口や喉の動きが見え、句全体に生命感がみなぎる。

作者は酪農を生業とし、同句集には、《天高し風のかたちに牛の尿》《牛の産むこゑ春暁を撓ませて》、長くこの作者の代表句となるであろう《牛死せり片眼は蒲公英に触れて》など、掲句のほかにも牛を読んだ句が多い。

残雪の消ゆる間際の透けゐたる》《蛇の尾を踏めば地を打つ蛇の腹》、季語の扱いについて一歩踏み込んだ感のある《蜘蛛の囲の蜘蛛ごと餌ごと窓凍つる》など、詠む場所はほぼ生活圏に限定され、例えば、街の風物はほとんど出てこない。読者にとって句群の背景が明瞭で、句ごとに像が結びやすい。

その特徴と無関係ではないと思うだが、句集を通して、オノマトペが頻出し、彩に副詞が多い。これは《描写》を作句の柱としているからだろう。嘱目(暮らしの中で目に触れるもの)を描こうとする熱意が伝わる。

俳句と描写の関係は、微妙な、かつおそらく根本的なテーマ。ある人にとって、俳句は描写以外の何物でもない(自明の目的)。一方、ある人にとって、描写に《とどまる》句は《景に過ぎない》。描写と非=描写・半=描写のあいだには深い溝が存在する。ただ、それは好悪の別ではあっても、評価の基準ではないだろう。

句集名になった「にれかむ」は反芻の意。句集『にれかめる』の描写の句を、数年後に反芻して、そのとき味わいがどうか、滋味が深いまま残るのかどうかは、まずは読者たる私に属する事柄。句集『にれかめる』は現時点で、舞台/対象のよく絞られたドキュメンタリーのような句集。



【週俳7月の俳句を読む】それぞれの眼に映るもの 佐々木紺

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【週俳7月の俳句を読む】
それぞれの眼に映るもの

佐々木紺


宙を欲る鯨に海は搏たれたり 神山刻

上5に絶妙な説得力がある。鯨や鯱が海面を飛び出してジャンプする写真を誰もが見たことがあると思うが、あれは宙を欲していたのか、そうか、と納得してしまう。宙と書くことで単なる中空でもなく、宇宙を含むようにも見える。海は搏たれたり、と尾で海面を打つ音まで聞こえてきそうな迫力。

平坦なヒューヘフナーの裸かな
 神山刻

ヘ、ヒ、ヘ、ハ、とh行の音韻があり、読み下してもふしゅー、と気が抜けるような感覚。どんな人かは知らなくても、この句のなかのヒューヘフナーはなんだか平凡で、ややかわいそうで、そこが少しかわいい。ヒュー・ヘフナー氏は往年のPLAY BOY誌の創刊者であり、多くの女性たちを魅力的な鑑賞作品として世に出してきた人だが、まさかこのように自分の裸の句が作られ、消費されるとは思ってもいなかっただろう。


頬杖の温度毛虫を焼く温度 楠本奇蹄
 
私はこの人の句が一番分からなくて、しかし面白いと思った。

一読すると頬杖の温度と毛虫を焼く温度が同じくらい、と取れる。もちろん比喩として。
毛虫を焼く温度というのは他の生き物を殺すくらいだから、少なくとも不快な温度だろう。頬杖をつき、あえて目の前のことには気がないように装っているが、頬の熱が不快なまでに上がってくる。虫を殺せるくらいに。そこにはなんとなく、健やかでない欲望の気配を感じる。


水掻きの退化していく昼寝覚 瀬戸優理子

夜に眠り朝起きるときとは違って、昼寝から覚めたときにはふしぎな喪失感が伴う。心地よく豊かだった時間が、一瞬ではかなくほろほろと喪われる淋しさ、心もとなさ。幼児が昼寝から目覚めて泣く気持ちが、私にはよくわかる。

さっきまで人間ではないものとしてしなやかに泳いでいたのに、かがやく銀色の水掻きでなみなみと水を動かせたのに、それが夢だったことに気づく。しかし両手にはたしかに水掻き(であったもの)の感覚が残っている。その喪失感は、たしかに昼寝覚とひびきあう。


祖母の語の軟化せはしく夏座蒲団  岩瀬花恵

これは自分の読み方が合っているのかあまり自信がないのだが、帰省して久しぶりに話す祖母の言葉が、以前厳しかった人がやさしくなったというよりは、認知症などが急に進んだために平易な話し方になってしまったというように読めた。「語の軟化」だけでここまで読むのは読みすぎなのかもしれないが、せはしく、というところでひっかかってしまった。夏座布団はさらりとした生地で、なつかしさとやや頼りないような切なさがある。

感情は錆びて記憶に香水に  岩瀬花恵

とても好きな句。錆びて、というところにもかすかな晩夏の匂いがあるように思う。感情は生のままではなく変性して、こびりつく剥がせない光のように、記憶にも香水にも纏わっている。



岩瀬花恵 そこそこの湯豆腐 10句 ≫読む
638号 2019714
神山刻 真芯 10句 ≫読む
瀬戸優理子 卵抱く 10句 ≫読む
楠本奇蹄 中年 10句 ≫読む

【空へゆく階段】№17 創刊のことば 田中裕明

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【空へゆく階段】№17
創刊のことば

田中裕明
「ゆう」2000年1月号・掲載

俳誌「ゆう」を創刊します。

波多野爽波先生の目指した季語の本意と写生を軸に、日本の伝統詩としての俳句を作ってゆきたいと考えています。

そこで大切にしたいのは詩情ということ。

孤独な創作の産物である俳句が、人に伝わるのも詩情がそこにあるからです。


いまあらためて、俳句とは何だろう、俳句にとって自分とは何だろう。そう問いかけてみることを私自身も、また皆さんにもお願いしたいと思います。現代の社会の一員として生きているのと同時に、詩人として生きているのですから。

そして、この「ゆう」が二十世紀の俳句と二十一世紀の俳句を結ぶ架橋となればと考えます。


≫解題:対中いずみ

空へゆく階段 №17 解題 対中いずみ

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空へゆく階段 №17 解題

対中いずみ


「ゆう」創刊号は16頁の薄い冊子である。外部からは宇多喜代子さんが「不惑四十のとき」という文章を寄せて下さった。「田中裕明には、他に拠って動こうとする意思がないし、やすやすと他の影響を受けるということもない。ヌーボーとしていて、あれで自分の思った通りにしか動かない」とその人となりを描写し、作品については「淡いのだけど、独特の芯がある」「独特の現代感覚がある」と評している。


≫田中裕明 創刊のことば

10句作品 断層 玉貴らら

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断層 玉貴らら

真白き豪雨宵山の四条
祭鱧産科医院の消えてをり
弾痕は維新の名残蔦青葉
菜箸に赤きとこあり凌霄花
万緑や写生の人の背の曲がり
裁判所左右対称アイスティー
断層に木の根の這ひて風死せり
意図せずに踏み抜くごきかぶりの音
保護犬と籠いつぱいの玉ねぎと
何もなき亀甲墓に南瓜置く


週刊俳句 第644号 2019年8月24日

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644
2019824




玉貴らら 断層 10句 ≫読む
…………………………………………

空へゆく階段】№17
創刊のことば……田中裕明 ≫読む
 解題……対中いずみ ≫読む
 
【句集を読む】
結像と確かさと描写の賞味期限
鈴木牛後『にれかめる』の一句……西原天気 ≫読む

【週俳7月の俳句を読む】
佐々木紺 それぞれの眼に映るもの ≫読む
 
中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
ロジャー・ニコルズ「ラヴ・ソー・ファイン」 ≫読む

〔今週号の表紙〕第644号 ペリカンフライト……岡田由季 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……岡田由季 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

〔今週号の表紙〕第645号 ウチワヤンマ 岡田由季

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〔今週号の表紙〕
第645号 ウチワヤンマ

岡田由季



色合いはオニヤンマに似ているけれど、止まり方が違う。オニヤンマは草などを掴んでぶらさがるように止まり、このように水平な体勢では止まりません。

サナエトンボ科の、コオニヤンマかな?と思い、詳しい方に尋ねたら、「尻尾のところがお扇状に広がっているから、ウチワヤンマ」とのことでした。

なるほど、広がっていますね。

鳥を見に出かけたものの、何も会えないときがあります。そんな日に、目を留めた水辺の蜻蛉です。






週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら



10句作品 水を注ぐ 若林哲哉

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水を注ぐ 若林哲哉

窓といふ窓開いてゐる昼寝覚 
父の髪母より長しねぢれ花
揚花火果てて砂漠の匂ひかな
出目金や天津飯の全き円
太腿に缶挟みをる油照
パイナップル喉をとげとげしく通る
おとがひのゆつくり乾く扇子かな
蟬しぐれコーラの泡のせり上がる
肌脱の男と水を注ぎあへり
標本の鯨の眼窩夏の果

10句作品 蟬の時間 五十嵐秀彦

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蟬の時間 五十嵐秀彦

大河往く黒蝶の遠きサイゴン
頸椎の組糸ほつれゆく炎暑
炎天や母さん死はまだ怖いですか
踏切は植民の鐘浜蓮華
蟬の時間聞こえなくなるまで涅槃
迸る滝にヒト科をかがやかす
アルゼンチン・タンゴ窓辺に置く桔梗
満潮の香にあぢさゐの朽ちゆけり
鶏頭や終りし時がはみ出して
反世界色の日暮や秋薔薇

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 Sweet Sensation「Sad Sweet Dreamer」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
Sweet Sensation「Sad Sweet Dreamer」


天気●ええっと、本日は、Sweet Sensationの「Sad Sweet Dreamer」という1974年の曲。


天気●見た目やサウンドはモータウンかフィラデルフィア・ソウル。ところがイギリス・マンチェスター出身という、ちょっと変わりのソウル・コーラス・グループです。

憲武●フィンガー5っぽくもありますね。メガネのせいかな。

天気●リードボーカルのMarcel Kingは、当時17歳。高音が少年。ちょっとマイケル・ジャクソンぽくもあります。この人たち、兄弟じゃないんですが、こう並ぶと、ジャクソンズっぽくもある。

憲武●8人編成ですね。このころ、この曲、TBSラジオでスポット的にCM流してた記憶あります。

天気●失恋の歌ですが、曲はもうね、すごく甘くて、切ない。タイトルどおり、サッドでスウィート。ドリーマーとは言うんですが、夢見るというより、単に泣き虫。涙で枕を濡らして、「忘れられないよー」と嘆き続けてます。

憲武●邦題は「夢見る片思い」。このころ、ドリームは一つのキーワードであったようです。曲のタイトルによく使われてる。

天気●ポップスは、夢見るお年頃の少年少女がメインターゲットですからね。  


(最終回まで、あと890夜) 
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

【句集を読む】あのふわっとした 中嶋憲武『祝日たちのために』の一句 西原天気

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【句集を読む】
あのふわっとした
中嶋憲武祝日たちのために』の一句

西原天気


サンドウィッチの匂ひのなかの蜃気楼  中嶋憲武

サンドウィッチは、まずパンの香りがしてほしい。中身が、「実のある」カツであっても、たよりない卵であっても、オーソドックスにハムであっても、またバターやマスタードよりも、まずはパンの香り。ふわっとやわらかく(少なくとも私を)幸せにしてくれる香り。

さて、掲句。通常は遠く眺める蜃気楼を、「匂い」の内部に置いたところが、この句の眼目だろう。匂いは、感覚器にとって相当な近距離にあるから、なおさら、この位置関係やスケールの逆転・転倒が際立つ。

蜃気楼の扱いは、実景/現実から遠く、いわゆる心象めく。が、これは俳句においてめずらしいことではない。蜃気楼の現場に作者がいることよりも、蜃気楼が《作者の現場》に、どのように存在するのかに、(読者の)意識を集中させれば、この句の肌理、たよりないことこのうえない、でも、なんだかふんわりと幸せな(幸せとまで言っていいのか?=自問)感触に出会える。



『祝日たちのために』は、俳句120句と散文と銅版画13点より成り、いずれも著者の手によるもの。

「散文」と記されているが(あとがき)、たぶんにポエティックで散文詩とでも呼んだほうがいい(散文と散文詩の違いがどうとかこうとかは置いておいて)。緊張・稠密などを属性とする点、著者・中嶋憲武がこれまで『週刊俳句』誌上に発表してきた散文〔*〕の筆致やムードとは、まったく違う。

収載の銅版画は具象・説明から遠く、その緊張感に引っ張られるように(というよりもトーンが調整されたのだろう)、俳句も、いわゆる「わかりやすさ」とは距離を置いたもの。粗雑な二分法・ラベリングでは「難解」とされる句群。私には「とっかかりのない」句が多いが、同時に、「底割れ」した句は見当たらない。「あとがき」によれば、ツイッターに一定期間投下した530句から120句に絞ったとのことで、選句の目が効いているということだろう。

この『祝日たちのために』は、全体として、カジュアルな物言いになるが、「しょってる」感じ。多くの句集が、喩えれば作者のスナップショットを集めた個人アルバムの様相なのに対して、スタジオのストロボのなかで作者がポージングした感じ。どちらがよくてどちらが悪いという話ではなく。


〔*〕中嶋憲武 「スズキさん」 「日曜のサンデー」 



【七七七五の話】第3回 路の沙汰 小池純代

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【七七七五の話】
3回 路の沙汰

小池純代


「どどいつ」と呼ばれることの多い七七七五の歌句で古典と目される句のほとんどは作者不明。産み落とされたことばがひとりほのぼのと光を放っている。

『詩経』にも似た発光がある。歌謡同士、通うものがあるのだろう。たとえば「遵大路」は心変わりした相手を深追いする歌。素材も形式もどどいつっぽい。

 遵大路兮
 摻執子之袪兮
 無我惡兮
 不寁故也

 遵大路兮
 摻執子之手兮
 無我魗兮
 不寁好也

七七七五で翻案してみた。

  袖を引いたら
  すげなくされた
  花の末枯(すがり)の
  おほどほり

  すがりついたら
  ふりはらはれた
  恋の尽(すがり)の
  おほどほり

未練がましい狂態なのか、手練れの嬌態なのか、未練がましい手練れの媚態なのか、巫山戯ているだけなのか、それは知らない。

前半の「遵大路兮 摻執子之袪兮」は叙事、後半の「無我惡兮 不寁故也」は叙情の直叙と言えるだろうか。町の往来で袖をつかんでの一言をちゃんとした訳で読んでいただこう。
悪く思わないでね。昔の女にすげないのだもの。吉川幸次郎訳
うとましく思わないでふるいなじみの仲なのに白川静訳
私を憎んで下さるな故(ふる)い仲ではないかいな目加田誠訳
長い年月なじんだものをなぜにあたしがさうにくい海音寺潮五郎訳

さらりと口語、やや五音七音、ほぼ七五調、完全に七七七五、という順番である。

【歩けば異界】⑥ 七夕野 柴田千晶

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【歩けば異界】⑥
七夕野(しちせきの)

柴田千晶
初出:『俳壇』2017年8月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

子供の頃から、ときおり夢に現れる見知らぬ男がいる。

初めて夢に現れたのは、確か七歳のときだった。

私はバスに乗っていた。買ってもらったばかりのリカちゃん人形を握りしめて、父と母の間に立っていた。しだいに車内が混み合ってきて、強引に降りようとする乗客に揉みくちゃにされ、はっと気づいた時には私の手からリカちゃんが消えていた。母に叱られながら足もとを探したけれど落ちていない。だれかが、あっと声を上げた。窓の外に、リカちゃんを手にした若い男が見えた。その男はグレーの作業服を着ていた。男は痩せていて顔色が悪く、荒木一郎に少し似ていた。

その後も、一年に一度くらいの割合で、男は私の夢に現れた。

二十三歳の夏、私は青森でその男を見かけた。

青森県五所川原市金木町川倉七夕野(しちせきの)にある「川倉賽の河原地蔵尊」の霊場で。川倉地蔵尊では、旧暦の六月二十二日から二十四日に例大祭が開かれる。私が訪ねたのも例大祭の一日だった。

地獄の入口を思わせる山門の左右には、「賽乃河原」「地蔵尊堂」と書かれた板が掛かっていた。賽の河原には、化粧を施され艶やかな着物を着せられた二千体の地蔵が祀られているという。

境内には地蔵堂と人形堂がある。大きな雛壇に地蔵が祀られている地蔵堂も圧巻であったが、人形堂は更に凄かった。ぬいぐるみや人形が祀られているその奥に、硝子ケースに納められた花嫁人形がずらりと並んでいたのだ。花嫁人形には、亡くなった人の写真が添えられていた。

津軽地方には幽婚の慣わしがある。未婚のまま死んだ子供に、死後に花嫁を迎えてやり、成仏を願う。人形は死者の花嫁だ。

と、硝子ケースの中の一枚の写真に目が止まった。私の夢にたびたび現れるあの男が、飛行服姿で写っていた。写真には「平井幸男・享年二十一」と記されていた。写真に添えられた花嫁人形の顔は、あの日私が落としたリカちゃんに似ていた。

奇妙な気分で演芸場のある広場に向かうと、舞台では股旅姿の女が、津軽じょんがら節を唄っていた。その場の賑やかな雰囲気に疲れて、演芸場の裏に廻ってみると、景色が一変した。

掘建て小屋に莚を敷き、老いたイタコが並んで口寄せをしている。老女たちの津軽弁を聞いていると、夢の男が、いいえ平井さんが、なぜ私の夢に現れるのか聞いてみたい気もした。

だが、もう帰らなければ。

死者たちの七夕野に、じょんがら節が低く流れている。

 サングラス掛くれば吾に霊界見ゆ  三好潤子



週刊俳句 第645号 2019年9月1日

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645
201991




五十嵐秀彦 蟬の時間 10句 ≫読む

若林哲哉 水を注ぐ 10句 ≫読む
…………………………………………

【七七七五の話】
第3回 路の沙汰……小池純代 ≫読む

【歩けば異界】⑥
七夕野……柴田千晶 ≫読む

【句集を読む】
あのふわっとした
中島憲武『祝日たちのために』の一句……西原天気 ≫読む

中嶋憲武✕西原天気音楽千夜一夜
Sweet Sensation「Sad Sweet Dreamer」 ≫読む

〔今週号の表紙〕第645号 ウチワヤンマ……岡田由季 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……福田若之 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編子規に学ぶ俳句365日のお知らせ≫見る
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後記+プロフィール645

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後記 ◆ 福田若之


僕の頭のなかで、クロゴキブリは、まごうかたなくゴキブリという位置づけなのですが、チャバネゴキブリは、どちらかというと、コオロギやらマツムシやら、そのへんの昆虫により近い位置づけなのだなあと、思ったことでした。つまり、カマドウマあたりにかなり近い。あくまでも、僕の頭のなかでのぼんやりした位置づけの話ですよ。

しかし、なぜなのか。もしかすると、子どものころに読んでいた、(正確な名前は思い出せないのだけれど)『野山の昆虫』というふうなタイトルの文庫サイズの小図鑑に、ウマオイとかノコギリクワガタとかキアゲハとかの写真と並んで、草の葉に乗っかったモリチャバネゴキブリの写真がナチュラルに載っていたことが、いまに響いているのかもしれません。

チャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ属モリチャバネゴキブリがチャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ属チャバネゴキブリとは別種のゴキブリだということは、そのころの僕の頭のなかにはなくて、森にいるチャバネゴキブリがモリチャバネゴキブリなのだろうと、思いこんでいました。へぇ、チャバネゴキブリというのは、雑木林や森に棲んでいる虫なんだ、と、そんなふうに思ったんですね。ごきぶりホイホイを、たとえば山小屋に仕掛ける場合があって、チャバネゴキブリというのはそういうところで捕まるゴキブリなのだろう、と、思ったんです。当時住んでいた家にはクロゴキブリしか出なかった。

そんな具合だから、いまでも家の廊下にチャバネゴキブリがいるのを見つけたりすることがあると、なんだか新鮮な心持ちがします。そろそろ鳴く虫の季節ですね。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.645/2019-9-1 profile 

■五十嵐秀彦 いがらし・ひでひこ
1956年生れ。札幌市在住。現代俳句協会理事、俳人協会会員、「藍生」会員、「雪華」
同人。俳句集団【itak】代表。第23回(2003年度)現代俳句評論賞。

■若林哲哉 わかばやし・てつや
1998年生まれ。俳句雑誌『奎』同人、「金沢大学俳句会」代表、俳句雑誌『WHAT』編集部。

■小池純代 こいけ・すみよ
1955年生まれ。歌集『雅族』(1991年)、『苔桃の酒』(1994年)、『梅園』(2002年)。

柴田千晶 しばた・ちあき
1960年横須賀生。「街」同人。句集『赤き毛皮』(金雀枝舎)、共著『超新撰21』『再読 波多野爽波』(どちらも邑書林)。詩集『生家へ』(思潮社)など。映画脚本「ひとりね」。https://twitter.com/hiniesta2010

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「オルガン」に参加。第一句集、『自生地』(東京四季出版、2017年)にて第6回与謝蕪村賞新人賞受賞。第二句集、『二つ折りにされた二枚の紙と二つの留め金からなる一冊の蝶』(私家版、2017年)。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。

後記+プロフィール646

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後記 ◆ 村田 篠


(Under Construction)


no.645/2019-9-1 profile 

クズウジュンイチ
1969年群馬生まれ。「街」「奎」「いつき組」。NPO法人主宰。

■小久保佳世子 こくぼ・かよこ
「街」同人。句集『アングル』(2010年/金雀枝舎)。

■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』、2016年に『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』を上梓。

■小西瞬夏 こにし・しゅんか
1962年生まれ。『海原』同人。現代俳句協会会員。

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。句集『リボン』(2017)共編著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」

〔今週号の表紙〕第646号 ピスタチオ 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第646号 ピスタチオ

西原天気


剝く→食べる、剝く→食べる、剝く→食べる。止まらなくなるのは、落花生などもそうですが、自分の手で、自分の指で剝く、という行為が入っているせいです。ひとつずつ剝くので、いつ終わってもいいのですが、いつ終わってもいいとなると、いつまで続けてもいいということにもなり、止まらなくなります。

一方、やめられないとまらない♪ は「カルビーかっぱえびせん」で、こちらには剝くという手順はついてこない。おそらくこちらは、単に食い意地が張って、やめられないだけです。




週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 大貫妙子「横顔」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
大貫妙子「横顔」


憲武●プロフィールを書けと言われて、あまり書く内容がないなあと感じてるこの頃ですけど、大貫妙子で「横顔」です。この曲はいいっ。


憲武●言わずと知れた大貫妙子、ター坊ですけど、この人、シュガー・ベイブの頃から、なんとなく秋って感じのする人で、秋でも初秋って感じですかね。

天気●ター坊って言うんですか? いや、言われないと知らない。……秋って感じはわかります。

憲武●デビューアルバムの発売の翌年、ライブ観に行ってね、アンコールがあるじゃないですか。惜しみなく拍手して。で、やっと出て来たと思ったら、ひとこと。「歌いませんから」。それでも拍手する人がいて。

天気●粘着質。

憲武●その人に向かって、「歌いませんからっ」って言って。こわい人って印象持ちました。充分、歌い尽くしましたんで、アンコールには応えられないってことだったと思いますけどね。

天気●今で言うツンデレ?

憲武●学生の頃はライブを、よく10人くらいで観に行ってて、まあ、YMOとかムーンライダーズとか、その周辺のアーティストなんですけど、大貫妙子もよく行きました。それでだんだん秋の人だなって印象を強めて行って。

天気●さらに秋っぽくなってったってわけですね、大貫さんは。

憲武●これも、外せない曲です。最初の「と〜」の歌い出しあたりからウルウルしちゃいますよ。


憲武●竹内まりやもファーストアルバムで、カヴァーしていますね。いま、60代半ばですが、相変わらずのご活躍です。そろそろ新譜出して欲しいですね。 


(最終回まで、あと889夜) 
(次回は西原天気の推薦曲)

【週俳8月の俳句を読む】言葉にすると消えてしまう、この世界のリアル 小西瞬夏

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【週俳8月の俳句を読む】
言葉にすると消えてしまう、この世界のリアル

小西瞬夏


夏蝶をカフカの残骸と思う  菅原はなめ

カフカと言えば『変身』を頭に浮かべる。ある朝目覚めると巨大な虫になっていた男と、その家族の顛末を描く物語。その虫は、醜い毒虫ということになっているが、ドイツ語の原文は Ungeziefer となっており、これは鳥や小動物なども含む有害生物全般を意味する単語であるらしい。カフカは出版の際、「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」と注文をつけていたそうだ。カフカにとってこの「虫」は「虫」であって実際の「虫」ではない。富澤赤黄男が「蝶はまさに『蝶』であるが、『その蝶』ではない」と言ったように。この作者にとってのカフカの「虫」、自分という存在、そのなかでも醜い部分、人に見られたくない部分は、夏蝶のような存在なのだ。色がはっきりとしていて少し大きく存在感のある夏蝶。妖艶な姿でもあるけれど、建設的な生命力、自己肯定感を漂わせる。

「残骸」という措辞はやや直接的で観念的ではあるが、混沌とした内的世界を表現する。「~を~と思う」という散文的で、ふっと口にした心のつぶやきのような口語表現は、この内容に即している。

カフカの小説が下敷きになっていることで、実存主義の匂いを感じながら、同時に現代を生きる一人の人間の独り言を聞いてしまったようで、心がざわついた。


こほろぎの仮死を見てゐるペトリ皿  倉田有希

夏が過ぎ涼しくなってくると、なんとなく何かを眺めてぼんやりと物思いに耽ることが増えてくる。その「何か」というのは、山だったり、海だったり、空だったり、森の緑だったり、人や動物ということもあるだろう。今、時間を共にするそれらの生命をリアルに感じることで、自分の生を確かめようとしているのか。

この作者のその「何か」は「こおろぎ」である。そして、その「仮死」である。死んでしまっているのではなく、今だけ仮に死んでいる、しかし生き返り、そのあとは生きていかなければならないのだ。それでもたった今、目の前のこおろぎは死んでいる。からだを縮こまらせてじっとしている。そして舞台は草原や裏庭、またはてのひらのような場所ではなく「ペトリ皿」なのである。このこおろぎの命は、何かの実験として観察されている。そして瀕死の状態なのである。

それをただ見ている、ということを俳句に言いとめただけのこの作品からは、言葉では説明しきれないものが漂ってくる。それは、言葉にしてしまうと、きっと消えてしまうのであろう。


裁判所左右対称アイスティー  玉貴らら

私の住む町にも、近くに大きな裁判所がある。このなかで繰り広げられているであろう、人間と人間の争い。夫婦の軋轢であったり、交通事故の処理であったり、相続の争いであったり…人間という生き物の弱さや、目をそむけたくなるような醜い部分が渦巻いている場所でもある。そんな中の様子とは裏腹に、裁判所の外観は整然としていて破たんがない。そんなことが、中の混沌を余計に際立たせるようでもある。それに取り合わされたのは「アイスティー」だ。癖のない、すっきりとしたその飲み物を、近くのカフェで飲んでいるのだろうか。そこから見える裁判所を何気なく見ている。ただ、「見る」などの動詞は何もないので、そのような景を押し付けられることはない。そこには裁判所とアイスティーがあるだけで、唯一の作者の感覚として「左右対称」が置かれてあるだけだ。それらの言葉が不思議に響きあい、この世界のあるリアリティを切り取っている。


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【週俳8月の俳句を読む】相和丘陵にて(五) 瀬戸正洋

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【週俳8月の俳句を読む】
相和丘陵にて(五)

瀬戸正洋


島村利正を読んでいる。

「秩父愁色」新潮社、昭和52年7月15日刊。「妙高の秋」中央公論社、昭和54年6月30日刊。「霧のなかの声」新潮社、昭和57年3月20日刊。「清流譜」中央公論社、昭和57年7月20日刊。随筆集「多摩川断想」花曜社、昭和58年11月25日刊、の五冊である。「清流譜」は遺作集、「多摩川断想」も遺作集であり唯一の随筆集でもある。五冊とも初版本で書きこみも皆無である。

書店で「多摩川断想」を見つけた。「師と私と-瀧井孝作」に興味を覚えた。「清流譜」は、「瀧井孝作全集」の月報に十二回連載された作品である。装幀は小池邦夫であった。「妙高の秋」は、中公文庫でももっていたはずなのだが見つからなかった。



しなやかに猫の重心なつやすみ  菅原はなめ

なつやすみとは思い出である。それも子どものころの思い出である。「ラジオ体操は見かけなくなりましたね」と接骨医はいった。腰痛の治療で通っているので、そんなはなしになったのである。

猫はしなやかなのである。弾力に富んでいるのである。うらやましいかぎりである。老人に重心などあるのだろうか。老人にとっての重心は拡散してしまっている。いつも、ふらふらしている。拡散がおわったときに老人は死ぬのだとおもう。

サンダルの匂う百円ショップかな  菅原はなめ

百円ショップに対する批判、サンダルへの批判であるのかも知れない。

早朝の海辺の百円ショップの風景。あかるい店内に海水浴、あるいは、地引網等で来た家族づれが立ち寄っている。ビーチサンダルを忘れてしまったのかも知れない。一日だけ間にあわせることができれば、百円でじゅうぶんなのであると考えている。

獏はいつ眠るのだろう夏の雨  菅原はなめ

獏は眠らないのである。ひとのゆめをたべるためには眠ってなどいられないのである。獏は悪夢をたべてくれる。だが、現実はたべてはくれない。現実をたべてこその獏なのだなどとおもったりもする。

ストローを行ったり来たりソーダ水  菅原はなめ

ソーダ水とは、作者自身のことなのである。ストローを行ったり来たりすることこそ人生そのものなのである。ソーダ水を注文する。ウエイトレスは、あのはじける泡とみどりいろの液体を持ってくる。アイスクリームをのせてみることも悪くはないとおもったりしている。

昼寝して下り電車のなかにいた  菅原はなめ

昼寝は下り電車がよく似合う。大事な要件が待っている上り電車だと、おちおち、昼寝などできないだろうとおもう。要件も無事に終了し帰宅のための電車に乗り込んだのである。幸運にも席を確保することができたのである。

私にとっては、小田急線新宿駅発急行小田原行の車中の昼寝ということになるのかも知れない。

夏蝶をカフカの残骸と思う  菅原はなめ

夏らしい強くはげしい蝶のことを「夏蝶」だという。「残骸」とは、役に立たないほど破壊されたもの、殺されて捨て置かれた死体とあった。

カフカについて語るひとをみかけるが、そんなときは、そのひとをじっとみつめることにしている。私はカフカのことは知らない。写真は見たことがある。作品名も知っている。ただ、それだけのことである。

地球また宇宙の一部飛び込みす  菅原はなめ

日本人のひとりである。地球に生息する人類のひとりである。崖からであっても、防波堤からであっても、ひとは飛び込まなくてはならないのである。海へ飛び込むのである。宇宙にむかって飛び込むのである。ひとは、無理をしなくては生きてはいけないのである。

海獣の皮膚の手ざわり水着脱ぐ  菅原はなめ

海獣とは、クジラ、アシカ、アザラシ、ラッコ、ジュゴン、マナティーなどの海に生息する哺乳類である。その皮膚にふれたことはないとおもう。それでも、水着を脱いだとき海獣の皮膚であることを感じたのである。不思議なことのような気もするが、海獣の皮膚であると確信したのである。

夏の果パイロンひとつ置いてあり  菅原はなめ

置きわすれたものなのかも知れない。パイロンがひとつ道ばたにある。道ばたにパイロンは似合う。誰も気にとめないぐらい似あう。月日がたつにつれてパイロンは自分の居場所を決める。季節はめぐり埃で汚れたパイロンは、その場所でふたたび夏の季節をむかえるのである。

ガラケーをぱちんと閉じて夏終わる  菅原はなめ

夏が終わることにほっとしたのである。秋の訪れることを待ちのぞんでいたのである。ガラケーをぱちんと閉じたのである。じぶんの思いどおりにことがはこんだのかも知れない。あたらしい季節にはあたらしい何かが待っていることに期待をもたなくてはならない。

白墨を舐めて無口な人の秋  倉田有希

舐めるにはゆっくり味わうという意味がある。白墨とは黒板に書くために使うチョークのことである。

ものを書くひとの饒舌には胡散臭さがつきまとう。書くのなら黙っていればいいのとおもう。鉛筆と原稿用紙、萬年筆と手帳、筆と半紙、白墨と黒板。季節は秋、碌なものしか書くことができないとおもいながらも頭と手を動かすのである。

旋盤の金屑天の川になる  倉田有希

金屑(カナクズ)なのである。金の屑ではない。金の屑は屑ではない。金である。空にあるものは私たちの暮しと何らかのつながりがなくてはならない。「旋盤の金屑」こそ、天の川にならなくてならないものなのである。「旋盤の金屑」を思いきって空に放りなげる。天の川は、おおそらをゆったりと流れている。

新涼のノギスは人真似鳥の貌  倉田有希

絵画には模写がある。文学には書き写すという方法がある。子どもはおとなの真似をする。ノギスの使い方も見ておぼえるのである。

新涼とはすずしいこころもちのことである。夕がた縁側に腰おろしていると庭に舞いおりてくる。聴き惚れてしまうような鳴きごえをする野鳥もいる。ひとの視線などおかまいなしに自由に声高に美しく鳴きつづけている。

鳴きごえを真似るとはどういうことなのだろう。ノギスを使ってどう考えればいいのだろう。難問であるとおもっている。

小鳥来る鍍金工場の明り窓  倉田有希

鍍金工場と自然をつなぐものは明り窓である。明り窓とは、採光を目的としてもうけられた窓である。明り窓のさきからは何かがうごくような気配がする。ひとにとってたいせつなものは小鳥などではない。明り窓なのである。明り窓のさきにあるものなのである。

骨髄の絵を描かせれば柘榴かな  倉田有希

何故、「骨髄の絵を描かせれば」なのか。何故、それが「柘榴」なのか。理由はかならずあるのである。俳句は、他人のために作るのではない。自分のために作るのである。もうひとりの自分と折り合いをつけるために、そのことばをえらんだのである。他人に理解をもとめることは不要なことなのである。

こほろぎの仮死を見てゐるペトリ皿  倉田有希

ペトリ皿のなかの蟋蟀を見ている。それも仮死の蟋蟀を見ているのである。何かの餌なのかも知れない。餌は、蟋蟀ばかりだとペットもあきてしまうだろう。ひとはわがままである。ペットもわがままなのである。とどのつまりは、ひともペットも空腹であるということがたいせつなのである。

真鰯のたくさん釣れて尿酸値  倉田有希

尿酸値といえば痛風である。マイワシはからだにいいといわれているがプリン体をおおく含んでいる。マイワシを習慣的にたべることは尿酸値を上げる原因にもなる。

真鰯のたくさん釣れることは悪いことではない。ちからを抜いて生きることも必要なのである。すこしぐらい尿酸値が上がってもかまわないだろう。気楽に生きることはたいせつなのである。

ひぐらしの声しあはせに耳小骨  倉田有希

ひぐらしをきくことができたのは、耳小骨のおかげなのである。耳小骨が鼓膜につたわった振動を内耳に伝えてくれたから感じることができたのである。しあわせであると感じたのは、ひぐらしの声につつまれているからなのである。

相和丘陵でひぐらしが鳴きはじめたのは7月24日であった。

百舌鳥鳴いて鳴いて単焦点レンズ  倉田有希

単焦点レンズというとボケた写真をイメージする。ボケとは、老化に伴う記憶障害や判断力の低下などの症状である。ボケている世のなかをボケていることを知らずに生きることがつらいのである。ひとは、ボケなくてはならないのである。ボケなくては、しあわせな老後などやってくるはずがないのである。鳴いて鳴いてというリフレインが、それを象徴している。鵙は猛禽類である。ギチギチという鳴き声は決して美しくはない。
 
写真機は嘘をつきます秋桜  倉田有希

嘘をつきますの「吐く」とは、口からでるということである。誰もが、意識、無意識にかかわらず嘘をつく。ひとがこしらえた写真機が嘘をつかないわけがないのである。

写真が嘘をつくのは、ひとがかかわっているからである。目のまえにひろがっている秋桜をながめて美しい、それは真実である、などと安心してながめているひとの気が知れない。

真白き豪雨宵山の四条  玉貴らら

真白き豪雨、そんなときもあるのだろう。千年以上もつづく祭なのだから何があっても、それが「宵山」なのである。空は自由である。空はわがままなのである。私は宵山のことは何も知らない。

宵山というと「宵々山コンサート」になってしまう。YouTubeで高石ともやとザ・ナターシャ・セブンの「街」を聴いてみる。何もかもが、誰も彼もが、若かった。老人の感想は、いつもその程度のものなのである。

祭鱧産科医院の消えてをり  玉貴らら

祇園祭のころの鱧を「祭鱧」という。祭り膳に欠かせないところから、そういう名がついたのだそうだ。つまり、祭鱧とは歴史のことなのである。「産科医院」のなくなっていたことも歴史なのである。思い出さなくてはならない歴史なのである。思い出せなければ「産科医院」は、かげも形もなくなってしまうのである。

弾痕は維新の名残蔦青葉  玉貴らら

私たちのあずかり知らぬところで時代はうごいている。政変とは地殻変動のようなものなのである。一瞬のできごとである。気づいたときは何もかもが終っている。世の中は、いつも戦時であるとおもう。

「名残」とは、その気配や影響が残っていること。蔦青葉は、涼しげで美しいというよりも、廃墟(真実)をかくしているものなのかも知れない。

菜箸に赤きとこあり凌霄花  玉貴らら

調理、盛り付け、取り分けなどに使われる。持ち手のところが赤く塗られている菜箸もある。菜箸が長いのは、調理中の熱から手先の火傷を予防するためのものだという。凌霄花は、ももいろの花が咲く。花の蜜により、指さきがかぶれたり、目にはいると炎症を起こしたりもする。凌霄花の蜜には毒がある。

菜箸の赤と凌霄花のももいろには何の関係があるのだろう。何の関係もないところで存在しているのである。日常とは、そういったものなのだろうとおもう。

万緑や写生の人の背の曲がり  玉貴らら

大景を描こうとしているひとの背なかが曲がっている。自画像であるのかも知れない。万緑のまえに立ち、ちからのかぎり挑んでいるつもりであっても、他人からみればこのようなものなのである。自分のことはよくわからないものだ。他人には見透かされてしまっている。自分に酔うことなど止めた方がいいに決まっているのだ。

裁判所左右対称アイスティー  玉貴らら

裁判所が左右対称であるとは、「ひとは平等である」ということを象徴しているような気にさせる。要するに、ひとのからんだできごとのなかには決して平等なものはない。ひとのちからではどうすることのできないできごとのなかでは誰もが平等なのである。

アイスコーヒーを飲む程度の軽さこそ、人生にはふさわしく、たいせつなことなのである。

断層に木の根の這ひて風死せり  玉貴らら

断層、断層運動、嫌なことばである。木の根が這うとは、けな気なはなしである。空しいことだが、それは正しい行為なのである。ひとも同じような行為をしている。あたりまえのことなのである。生きていくということとは空しいことなのである。

空しさとは風のことなのである。止んでしまった風のことなのである。暑さのなか風が止んでしまうことを「風死す」という。風にも「生き死に」があるのだとおもうとほっとする。
 
意図せずに踏み抜くごきかぶりの音  玉貴らら

深く踏みこむことを「踏み抜く」という。ごきかぶりが嫌いなのである。そのごきかぶりを踏み抜いた自分が許せないのである。無意識のうちにしてしまった自分が許せないのである。ごきかぶりのつぶれた音の気もちわるさが許せないのである。

気づいたか気づかないかが重要な問題なのである。ひとは気づかずに、ごきかぶりを踏み抜いている。ひとのこころを踏み抜いている。何も気づかずに生きていく。それは、それで幸せなことなのだとおもう。
 
保護犬と籠いつぱいの玉ねぎと  玉貴らら

無責任なひとがいるということなのだろう。犬には「ひと」がいる。ひとには「**」がいる。「**」とは、ひとのちからではどうすることもできない何かなのである。「**」には、隠すことなどできない。「**」は、何もかも知っているのである。

ひとは、からだにいいからなどといいながら、スライスした玉ねぎに、マヨネーズ、あるいは、ドレッシングなどをかけて食べたりしている。

何もなき亀甲墓に南瓜置く  玉貴らら

亀甲墓とは沖縄県にみられる墓様式であるという。訪れたのには訳があるのかも知れない。南瓜を置いたことにも訳があるのかも知れない。

菩提寺は、「R寺」である。集落の東側にある。元旦、お彼岸、お盆、お施餓鬼、年末、法事などのときに出かける。お墓からは自宅が見える。旧生命保険会社の本社ビルが見える。その先に、箱根連山、そして、富士山が見える。



夜中に老妻に起こされた。テレビを見ていたら、子ネズミが足元を通りすぎていったのだという。翌朝、憮然とした顔でネズミをはやく捕まえろという。ネズミを捕るには、粘着テープや捕獲ガゴをつかうのだが、どれだけたいへんなことなのかを知らない。

粘着テープで捕まえたネズミをたき火のなかに放りこんだとき「キュゥ」と鳴いたのにはまいった。捕獲ガゴにかかったネズミを小川に沈めるときは目を合わさず、捕獲カゴごと放りなげる。しばらくして、それを取りにいくのである。

「ぶるうまりん句会」のあと、何故か、そんな話になった。井東泉が、「捕ったネズミは、裏山へでも持っていって放してやればいいのよ」といった。それは名案だとおもった。こころの底から名案だとおもった。自宅からネズミを追いだせさえすればいいのである。


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