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後記+プロフィール 第555号

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後記 ◆ 村田 篠

(Under Construction)


no.555/2017-12-10 profile

■鈴木総史 すずき・そうし
1996年(平成8年)生まれ。21歳。東京都狛江市在住。現在、立教大学3年生。大学入学を機に、櫂未知子・佐藤郁良に師事、以後本格的に句作を開始する。俳句同人誌「群青」同人、企画部長。「鷹」会員。俳人協会会員。

■トオイダイスケ とおい・だいすけ
1982年栃木県佐野市生まれ。東京都在住。澤俳句会所属。 URL: http://daisuketoi.com Twitter: @daisuketoi

■北村虻曳 きたむら・あぶのぶ
1940年生。俳句雑誌「豈」、「北の句会」、歌会「sora」、「京大俳句会」などに参加。「定型短詩集 雲の模型」冨岡書房(2004年)
ブログ「土塊も襤褸も空へ昇り行く」 http://blog.goo.ne.jp/abunobu

■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』、2016年に『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』を上梓。

■対中いずみ たいなか・いずみ
1956年大阪市生まれ。2000年「ゆう」入会、田中裕明に師事。2005年第20回俳句研究賞受賞。「静かな場所」代表・「椋」同人。句集『冬菫』『巣箱』。

■月野ぽぽな つきの・ぽぽな
1965年長野県生まれ。ニューヨーク市在住。「海程」同人。現代俳句協会会員。第43回海程新人賞、第11回海程会賞、第50回海程賞、第28回現代俳句新人賞、 第63回角川俳句賞受賞。月野ぽぽなフェイスブック:http://www.facebook.com/PoponaTsukino

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ「続ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記」

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

■西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」


〔今週号の表紙〕第555号 干潟 岡田由季

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〔今週号の表紙〕
第555号 干潟

岡田由季





大阪の湾岸部は、ほとんどが埋め立てられ、人工の海岸線になっているが、泉南地域に自然のままの小さな河口干潟が残っている。

自然のままなので、遊歩道も駐車場も無い。ここに行くと、鯔が跳ねていたり、レッドデータの蟹がいたりと、何かしら生き物との出会いがある。この日はカモメがたくさん群れていた。

奥に見えるビルがある場所はりんくうタウンで、そこから5km沖の関西空港島まで橋で繋がっている。りんくうタウンのビーチは、大理石が敷き詰められ、真っ白で美しいが、人工的なもの。

この日のカモメたちは、ユリカモメ、セグロカモメ、ウミネコなどが入り混じっていて、鳴き交わしたり、押し合いへし合いしたり、魚を獲ったりと忙しい。その様子に見とれているうちに、自分の立っている場所に潮が満ちてきて、あわてて退散した。











週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 第29回 市丸「三味線ブギウギ」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
第29回 市丸「三味線ブギウギ」

天気●忘年会シーズンですね。そろそろ。

憲武●世間一般では、そのようですね。

天気●私自身は興味ないんですけどね。宴会などしなくても、どんどん忘れちゃいますから。

憲武●ま、ぼくは飲めないので、いろいろと記憶に留めておきますけど。

天気●というわけで、市丸「三味線ブギウギ」です。



天気●三味線がブギによく合ってる。とくに歌と歌のあいだ、数本のジョジョリンジョ、ジョジョリンジョっていうリフ。

憲武●なんかねー、ロック的なものを感じます。服部良一すごいなぁ。

天気●わりあい本格のホーンアレンジのなか、歌唱・発声はいかにも芸者さん。みごとにハイブリッドです。

憲武●思い出のメロディーなどで、市丸さんよく見てましたけど、子供心にも美人と思いましたね。

天気●笠置シヅ子「東京ブギウギ」が1948年1月発売。ブギが流行して、この「三味線ブギウギ」が翌年1949年。便乗しているわけですが、歌詞には「猫も杓子もブギウギ♪」。皮肉なのか自虐なのかわからないこの歌詞、大好き。

憲武●「踊りゃよくなる ますますよくなる 茄子もカボチャも 景気もよくなる♪」。うーん、この言葉のチョイスいいですね。悪いものも、踊ればよくなるという。

天気●歌詞、いいですよね、「ハローベイビー、シャシャリツシャンシャン♪」とかね。

憲武●ググってみると、なんと浅草の芸者さんだったんですね。そして柳橋に住んでいた。粋だ。


(最終回まで、あと973夜) 
(次回は西原天気の推薦曲)

【週俳11月の俳句を読む】リアリズムから離陸 北村虻曳

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【週俳11月の俳句を読む】
リアリズムから離陸

北村虻曳


この寸評の対象は大学生ぐらいと推定される方から30代前半の方まで、若い人たちの句である。僕の出入りする句会、歌会の平均は60代にはなるだろうからどこが異なるか見てみた。なにしろ、俳句甲子園出場などの人の句を、目を据えて読むのは初めてのことなのだ。

そもそも僕は「赤のまま」が「アカマンマ」で季語なんてことは知らなかった。まあ、この程度の「俳句」知識で読みかつ詠むのが我が俳句だから「詩として読みかつ詠む」と称している。

各人表題付き10句から2,3句ピックアップして感じたことや考えたことを述べる。

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1.『八王子』 西村麒麟
 

我のゐる二階に気付く秋の人

下の道路を歩く人がこちらを見た。こちらは見られない位置にいると思っていたのだが。面白い。こういう役に立たない、普通はすぐ忘れてしまう事を書けるのが俳句なのだろう。

ところで季語・季題という要請を外したとき、「秋の」はどんな働きを持っているのだろう。二階から外を見渡すには、穏やかな春やほっとした秋が良い。また秋を歩く人の目は紅葉や果実を求めてよく周りを見ている。そんな人間がお互いを視認した、ということでそういうチャンスの生まれる「秋」がいいのかな。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの

雌だと鳴かない虫もいるが、ここでは鳴かない雄だろう。上掲句よりもさらに劇的でないものを捉えた。本来鳴くものとして期待されていても、鳴かない。「そう覗きなさるな」。擬(なぞら)えて身につまされるところがある。まあ気楽を装い鼻歌を唄うまでだ。

「秋の夜の重石再び樽の上」
「蟷螂は古き書物の如く枯れ」
「焚火して浮かび来るもの沈むもの」

なども人生論的な裏打ちがありげで無さそな。意味があるとしても、作者が初めからそういう意味を意図して作り始めるのではないだろう。意味は付いて来るならついてこいと。コピーや警句と出発点が異なる。


2.『対角線』 小野あらた

富有柿対角線の走りけり

富有柿は上や下から見ると四角い。その四角の対角線にあたるところに溝が走っている。数学的な言葉を用いて捉えきったので理知的な句として立ち上がった。

「柿切るや種の周りの透けてをり」
になると観察内容の形容がやや凡になる。多くの人が気がついていることをあえて指摘した。でもそのまま正確に述べるところにとどまっている。

しかし物事の隅の微細な形や出来事に目を向けるのが本領の人のようである。

くつついて力のゆるぶ玉の露

一読ではわからぬがこれも観察力の句と見た。流動を、あるいは落下をこらえて、それぞれが頑張っている水滴。その並ぶ二つが何かの力でくっついたとき、はちゃはちゃと喜ぶような動きがある。そのまま落下するかも。僕らもそんな存在だな。仲間ができると緩んでしまうんだ。読むほどに納得がいった。


3.『もらふ火』 安岡麻佑

冬銀河肢体ねぢれて球送る

「球送る」は何か。パスすることだろう。球技の種類はわからない。いやどちらかというと集団演技を思う。冬銀河があるから上方に目が行き、僕には並んで頭上で球を送っている感じがする。それにしても夜に健全な運動とはパラドキシカル、尋常ではない。まさか球=魂ではあるまい。

そこで「肢体ねぢれ」の異様な力をより汲むとする。肢体は恐ろしくも銀河の肢体である。銀河が蠕動して球を送るのである。銀河産卵! これではちょっと重くなるかな。冬銀河の肢体とするなら、下の句を変え別の句にする方が一層面白そう。

死なぬ日の影を放ちて大枯野

「自分が死なない日」ととると自分がすでに死んでいるも同然になる。すると「そういう自分が野に影を放つ」という読みさえ引き出され、またすごい光景になる。しかしこの読み、「の」を「は」に変えないとやや苦しい。これはやはり読み込み過ぎで「日が死なない」のであろう。

日は落ちきってしまわない。そこからいろいろな物の影が夕方の野に向かって放射状に伸びている。無駄のない無音の絶景である。
俳句は助詞一つでガラリと変わる結構怖い遊びである。

寝台車冬の雲より遠ざかる

寝台車は高級なツアー用を除いて無くなりつつあるようだ。寝台を降りて窓外を覗くのだろうか。あるいは寝台に横になったまま先程見た光景を反芻するのか。野を走る寝台列車のパースペクティブと運動感が込められている。このオブジェにとらわれない空間感覚が持ち味である。

4.『土の音』 柴田健

三日月を京都タワーに乗せにけり

「気ぃつけやっしゃ」。「落っことすなよ」。
美は確率的に最もありそうなバランスにこそ宿るという退屈な説を読んだことがある。それに反する不安定で、有難い構図である。言葉にはどんな芸当でも可能なのだ。「乗せにけり」の主格は、一般語法で言えば作者自身のようだが、自然や神などと取る解釈も可能だろう。英語の it のように。

ところで季語はどれだと調べると「三日月」だそうだ。すると別の季節に使うな、他に季語を同居させるなとかいうことになる。こんなものにまで制限をかけるのかと、季語体制の占取欲には恐れ入る。

いや、これはこの作品について述べたのではない。作者もこの句では季語の働きを強く意識しているのではないだろう。やはり形態と位置の面白さだ。早い話が満月よりよく似合うではないか。

コーヒーを片手にマフラー忘れたる

もう一方の手はポケットかな、半端な立ち飲み姿。忘れたマフラーでも句に温かみが加わる。「花も紅葉も無かり」けることの華やかさのように。それにしても炬燵とマフラーとは回顧を好む人だ。上の「京都タワー」や
「炬燵からレディ・マドンナ聞きにけり」
もそれなりにレトロ。

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以上、今回編集者より要請された4人の俳句はいずれも有季定型であり、言葉面(づら)はとてもなだらかでわかりやすい。僕も原則定型であるが、有季派ではない。定型もこだわるわけではないのだが、あてどがなくて定型となってしまう。だから俳人がどういう形を選んでも構わないのだが、やはりなにがしかの逸脱が欲しい。意味内容で言えば、例えば汚れていることは、短歌的価値からの逸脱のよく知られた方法である。ここに取り上げた人たちの無用性、些少性、デペイズマンなどもそうした試みであろう。僕としてはわずかでもいいから意識的な逸脱を期待する。

自分でこんな句を作ってみたいと感じたのは安岡麻佑の「大枯野」の句。この人
「魚影ごとこほりて湖のうるはしく」
なども、リアリズムから離陸していると思われた。

西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 
小野あらた 対角線 10句 ≫読む
第552号 2017年11月19日
安岡麻佑 もらふ火 10句 ≫読む
第553号 2017年11月26日
柴田健 土の音 10句 ≫読む

【週俳11月の俳句を読む】全句雑感 瀬戸正洋

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【週俳11月の俳句を読む】
全句雑感

瀬戸正洋


無学な老いぼれが若者たちと話をする場合、知識を振りかざしたり、理屈をこね回しても困った顔をされるのがおちなのである。単純であること、自分を曝け出すこと、そうすれば、すこしぐらいは相手にしてくれる。若者たちは時間をそれなりに持っているので、老人とは、話の方向や角度が違っているのである。老人は自分たちの時間が少ないことを知っている。老人は、日だまりで傷を舐めあい熱いお茶でも啜っているのが分相応なのである。老人はやさしいのである。そして、そのやさしさは日々色褪せていく。

栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟

栗が好きなのである。秋になると栗は爆ぜる。イガを破って自分の意思で出て来るのである。その栗に向かって「八王子から出て来いよ」と言っているのだ。もう一歩足を延ばして「私の住む街まで出て来いよ」と言っているのである。

林檎の実すれすれを行くバスに乗り  西村麒麟

果樹園の横を路線バスは走っている。対向車が来ると運転手は左側に寄せる。林檎の実はバスに接触するか否かぎりぎりのところに生っている。バスと接触すると傷ものになり商品として不適格となる。バスの運転手は加害者である。もちろん、乗客も加害者である。たとえ、林檎が道路に出ていても、林檎は被害者なのである。このようなことは、この世の中、いくらでもあることなのである。

我のゐる二階に気付く秋の人  西村麒麟

秋の人に気付いて欲しいと思っている。冬の人にも、春の人にも、夏の人にも気付いて欲しくないのである。「我のゐる二階」に気付くのは、たとえ、雪が降っているにしても、春風が吹いているにしても秋の人でなければならないのである。

一ページ又一ページ良夜かな  西村麒麟

良夜とは本を読むのにふさわしい夜なのである。途中で止めようと思っても、止めることのできないほど面白い本はある。だが、老人になると読書が続かなくなる。五、六ページ、十分程度がやっとなのである。つまり、通勤電車のなかの三駅間くらいがちょうどいい読書時間なのである。それも、何度も読み古した本がいい。新しい本は全く意欲が湧かないのである。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの  西村麒麟

虫籠の中には鳴く虫もいれば鳴かない虫もいる。作者は鳴かない虫に興味があるのである。鳴かない虫が好きなのである。確かに、はじめの頃は鳴き声に聞き惚れたりもするが、時が経つととその鳴き声をうざいと感じるようになる。人も同じなのである。特に、老人。たとえ、言いたいことがやまほどあろうが、うつむいて黙っていた方がいいと思うし、そうしたいと願う。

秋の夜の重石再び樽の上  西村麒麟

漬け具合を確かめたあと樽に蓋をして、再度、重石を乗せたということなのか。山村暮しをしているが、野菜を漬けたことがないのでよくわからない。秋に収穫したものを漬けるのだから秋の夜にその作業をする。正しい生活には毒はない。

初冬や西でだらだら遊びたし  西村麒麟

日々の暮らしが嫌になったのである。東に住んでいる人だから西で遊びたいのだろう。本格的な冬になる前に、多忙な年末を迎える前に、すこしのんびりしたいと考えたのである。若者だからこう考えるのである。老人にしてみれば、日々の暮しそのものが既に「だらだら」なのである。

蟷螂は古き書物の如く枯れ  西村麒麟

あたりが枯れゆくに従って保護色の枯葉色になり死に至る。古い書物も同じようなものだといえばそんな気にもなってくる。色のはなしだと思うが、よくよく考えてみれば、書棚のすべての書物が死んでいるのである。だから、あんな色をしているのである。書棚の色をみれば一目瞭然なのである。読まない書物は死んでいるのである。箱入り袴付き初版本の創作集をいくらビニール袋で密閉して保存しておいても色あせてくるのである。

焚火して浮かび来るもの沈むもの  西村麒麟

キャンプファイヤーの残り火は美しさの極みであると思っている。規模は違うにしても夕方の焚火、日が暮れてからの残り火もことのほか美しい。原稿用紙、あるいは、紙の束を燃していると、炎はかぜを起こし火の付いた紙は浮かんだり沈んだり飛んでいったりする。

水洟やテレビの中を滝流れ  西村麒麟

観光地を巡る旅番組ではなく、これはサスペンスドラマなのである。滝の近くで人が殺される、暗闇の中での滝音。殺人に水洟はつきものなのである。生活が乱れていないときは気楽に観ることができても、乱れていると「悪」の部分が胸に堪える。サスペンスドラマは生活のバロメーターなのである。滝壺に落ちた死体は下流に向かって流れていく。

富有柿対角線の走りけり  小野あらた

「対角線の走りけり」が解らなかった。対角線上をひとが走るのか、対角線がひとのごとく走るのか。対角線のことばかり考えていると富有柿のことはどうでもよくなってくる。考えるのに邪魔な富有柿は食べてしまえばいいのだと思ったりしている。

柿切るや種の周りの透けてをり  小野あらた

多角形の隣り合わない二つの角の頂点を結ぶ線分を対角線だとしても柿を切ったとすればよかったのかも知れない。柿を四分の一に切ったのである。とすれば包丁の刃が走ったのだ。ところで、柿の種は確かに周りが透けている。誰もが知っていることを、あらためて言葉にされるとうまいなと思う。「細かいことが気になる」とは、サスペンスドラマの主人公Sの科白である。Sは、細かいことに気付くことによって事件を解決していく。作者も人生の諸問題をこのような「気付き」により解決していくのだと思う。作者の実生活も見てみたい。

くつついて力のゆるぶ玉の露  小野あらた

葉のうえの玉の露は、何かに触れるたびに、壊れたり、おおきくなったり、くっついたりする。そのくっついた玉の露を力のゆるぶとしたのである。壊れることを心配していた作者の緊張も、当然のごとく弛んでいる。

朴落葉まだらに雨の染み込めり  小野あらた

朴の落葉もよくよく見れば色の変化もあり濃淡もある。雨の日ならばなおさらである。傘を差して雑木林を散策する。雨の日の雑木林はこころを穏やかにしてくれる。都会に戻れば、雑踏のなかを掻き分け、人間関係に疲れ、金儲けに身も心もすり減らすのである。

赤のまま車の通るたび揺れて  小野あらた

道端に赤のまんまが咲いている。狭い道なのだろう。車が通るたびにその花は揺れている。当然、作者の脳髄の全ては赤のまんまであるから車が通るたびに作者自身も揺れているのだ。赤のまんまといっしょに。

バイパスの途切れてゐたる豊の秋  小野あらた

バイパスは途切れているとは工事中ということなのだろう。パワーショベルは田畑を均し、ダンプカーは砂埃をあげて走っている。秋の田をに置かれた一本の長方形の茶色い無粋なオブジェ。稲のよく実っていることが虚しく感じられる風景でもある。

空つぽのスコアボードや秋の蝶  小野あらた

河川敷、あるいは公園に隣接する野球場なのだろう。試合ははじまったばかりである。鉄枠のスコアボードには、回を追うごとに数字をはめ込んでいく。気が付くと、どこからか秋の蝶がグランドにまぎれ込みスコアボードの七回あたりにとまる。熱戦にはほど遠いのどかな休日の草野球である。

秋麗団子のたれの固まれり  小野あらた

非日常であるから、このようなことに気付くのだと書きたいが、この作者の場合は日常でも気付いてしまうのだろう。観光地のみやげもの売り場や参道ではない。もちろん、コンビニでもなく老舗の和菓子店のみたらし団子なのだろうと思う。うららかに晴れ渡る秋の日差しのもと、この団子を作者は誰とほおばるのだろう。

水瓶の縁に反りたる紅葉かな  小野あらた

寺社なのかも知れない。広葉樹の下におおきな水瓶があり、それを囲むような紅葉。その端のところまで枝が下りてきていて、その枝の紅葉が反っているのだ。反っているのだから、この紅葉はもうすぐ落ちてしまうのだと思う。

木の実降る神社の脇の停留所  小野あらた

テレビドラマや映画でよく見かける風景である。神社の脇に停留所がありバスを待っている。境内にも停留所のまわりにも木の実が無数に落ちている。踏みたくなくても踏んでしまうのだ。踏めば音がする。子どもの頃から思っているのだが誰も団栗を食べない。不味いのだろうと思いながら木の実を踏みカシャカシャという音を楽しんでいる。

冬銀河肢体ねぢれて球送る  安岡麻佑

ラグビー、あるいはサッカー、フットサルか。冬銀河の下、ナイター設備のあるグランドである。肢体ねぢれてとは不自然な姿勢ということだ。そんな姿勢で味方にボールを送ったのである。寒々としてはっきりとしない冬の天の川と不自然な姿勢で球を出すこととが、何となく繋がっているような気がする。

黙禱の眠りにも似て銀狐  安岡麻佑

祈禱とは神仏に禱(祈)ること。黙禱とは黙ってそれをすること。禱るとは自分自身を知ることである。この作品の場合は「眠りにも似て」が難しい。ひとは黙禱することで自分自身を知る。だが、銀狐は何もしなくても自分自身を知ることができるのだ。つまり、銀狐に比べてひとは、何と薄っぺらで浅はかなのであろうか。

死なぬ日の影を放ちて大枯野  安岡麻佑

時は止まっていない。死なぬ日とは生きているということなのである。自分に絡まりついているすべての影、もちろん、そのすべての光も放つのである。大枯野としたことで滅ぶという意味合いも含まれるのかも知れない。もしかしたら、死んでしまってもいいのかななどと思っているのかも知れない。これは、平凡な暮らしのなかであっても、どこかに隠れていて、いつでも顔を持ち上げてくる感情なのかも知れない。

木の葉雨犀の背の縮まつて皺  安岡麻佑

私は木の葉雨の音が好きだ。風が吹くといっせいに散るのである。山の畑で農作業をしているときなど思わず振り返ってしまう。この作品の場合は動物園あたりか。そして、聴覚よりも視覚。風吹いて木の葉が犀に向かって落ちてきたのである。そのとき、犀は動き、犀の背中は縮まり皺ができたように見えたのであった。

たまゆらの灯にもらふ火や初時雨  安岡麻佑

近世のたびびとのイメージである。たまゆらの灯とはみじかいあいだ灯っている火。だとすると、たびびとが寺社の燈明から火をいただき、その火を何かに利用するということなのか。冬のはじめ、ぱらぱらと降る雨のことを時雨という。たまゆらの灯もわびしさの範ちゅうなのかも知れない。

魚影ごとこほりて湖のうるはしく  安岡麻佑

これは作者のイメージなのだと思う。泳ぐ魚の群れが湖ごと氷ってしまう。それが湖としての正しい美しさであると。たとえば、水槽のなかに氷がはっていてそのなかの魚も氷っている。作者は、その氷のかたまりを誰にも渡したくない。たとえ、その欠片であっても渡したくない。そんな気持ちになっているのかも知れない。

寝台車冬の雲より遠ざかる  安岡麻佑

東の空にぽっかりと満月が出ている。冬の雲のかたまりがところどころにあり流れている。寝台車は西へと下るのである。冬の雲から遠ざかっていくのは寝台車とそれに乗っている作者。そして、気持ちの悪いほどの暖房のあたたかさと音とかぜ。

神の留守林間に夫見失ふ  安岡麻佑

見失うことが正しいのである。見続けていると疲れてしまう。見続けられている方も疲れてしまう。ほどほどがいいのである。都会の雑踏の中で見失ったのではない。林の中で見失ったのである。神様も出雲へお出かけになられたのであるから、これでいいのである。

繋ぐ手を入れ替へてカトレアを抱く  安岡麻佑

幸福であるということなのである。あなたの手も私の手も、あなたも私もカトレアも何もかもを抱きしめているということなのである。もちろん、作者の人生そのものも抱きしめているのである。そして、当然、抱きしめられていることにもなる。

陶土あたためる向かひに山眠る  安岡麻佑

七輪陶芸のことを知った。手間はかかるようだが素焼きと本焼きとがあるのだそうだ。この場合はあたためるとあるので素焼きなのかも知れない。向かいに山とあるので山村の一軒家なのかも知れない。山眠るとは冬の山を擬人化したものである。

三日月を京都タワーに乗せにけり  柴田健

自分のしたことではないが、自分がしたのだと思ったり、自分がしたのだと言ってしまうことは多々ある。たまたま、自分のいるところ、その季節によって、京都タワーのうえに三日月が乗っているように見えたのである。軽い虚勢のようなものは誰もが持っているし、それを張ることも、たまには必要なことなのである。それにしても、何故、京都には三日月が似合うのだろう。

紅葉散るほど進みゆく時間かな  柴田健

紅葉が散っているのを眺めながら、自分自身も確実に死に向かって時を刻んでいることを実感したのである。美しいものに出会うとひとは必ず、自身の死について思いを巡らす。たとえば、さくらの季節、あと何回自分はさくらを見ることができるのだろうかと思うように。

枯れ草や日差しは白くなる琵琶湖  柴田健

晴れていた琵琶湖がうすい雲にだんだんおおわれていく。そんな推移を表現しているのかと思う。「枯れ草や」が、日差しは白くにほどよく重なっているように思える。

鴨川の冷たき土の音を聞く  柴田健

鴨川の河原の土を叩いたら冷たい音がしたのである。どんな音がしたのかわからないが確かに冷たい音がしたと感じたのである。当然、思っていた音とは異なっていたのだ。ひとも土も何も変わらない。返ってくる動作、返ってくる言葉、返ってくる音、想定外のことばかりなのである。疲れることばかりなのである。だから、ひとと会うことは嫌なのである。

雪雲は子連れの竜となりにけり  柴田健

雪雲とは乱層雲のことである。乱層雲は動きが激しく不気味さを感じることがある。その変化の不気味さから子連れの竜を視てしまったのだと思う。子連れの竜と確信したのだと思う。もちろん、視た(確信した)のは一瞬であり、そのあとは当然のように大雪となったのである。

コーヒーを片手にマフラー忘れたる  柴田健

このコーヒーは、おそらく、コンビニのコーヒーなのであろう。マフラーをテーブルに置きボタンを押しコーヒーを落とす。ミルクを入れて蓋をして店から出ようとしたときにマフラーを忘れたことに気付いたのである。

炬燵からレディ・マドンナ聞きにけり  柴田健

ザ・ビートルズといえば様々な思い出が甦ってくる。この懐かしさを味わうことは精神的健康にとてもいいのだそうだ。炬燵から聞いたのであるからラジオとか意思に関係なく流れて来たのだと思う。「レディ・マドンナ」を耳がつかまえたとき、作者の耳には経験した中のいちばんよい演奏が思い出される。当然、その頃のともだちとの楽しい思い出も蘇ってくる。

残されし選挙ポスターごと寒く  柴田健

自信に満ち溢れた笑顔の人間の顔のポスターである。それが、選挙の終ったあとの事務所の机の上に置かれている。私のようなぼんくらの老人には何もわからないが、ホンモノの写真家の眼には「嘘」が視えているはずなのである。どう考えても温かいはずはなく寒いに決まっている。

月冴ゆやローマの信徒への手紙  柴田健

美術全集、あるいは歴史書のなかに「ローマ信徒への手紙」があり、ながめたり、あるいは読んだりしているうちに作者はその手紙を書いた人物になりきってしまっている。窓の外には鏡のように澄んだ月が見える。作者はローマの月にも思いを馳せている。

なぞなぞの答へサンタクロースかな  柴田健

子どもは真剣なのである。いろいろな手段で何が欲しいのかを訴えている。そんなことは父も母もお見通しなのである。そこには、やさしい眼差しがあるだけだ。クリスマスの夜、子どものまくらもとには、子どもの欲しかったものがサンタクロースからのプレゼントとして置かれる。


西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 
小野あらた 対角線 10句 ≫読む
第552号 2017年11月19日
安岡麻佑 もらふ火 10句 ≫読む
第553号 2017年11月26日
柴田健 土の音 10句 ≫読む 

【週俳11月の俳句を読む】死なぬ日 月野ぽぽな

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【週俳11月の俳句を読む】
死なぬ日

月野ぽぽな


林檎の実すれすれを行くバスに乗り  西村麒麟

おそらく林檎畑の林檎の木に成っている林檎の実。掲句のような状態でバスが通るのはどんな場合だろう。たとえば林檎狩りツアー。林檎畑の近くを、林檎の実すれすれに行くのなら、当たったり傷つけたりしないようにそれはそれはゆっくり走っていくはず。
バスに乗っている句中の其の人はバスの窓側の席。熟れた林檎の実の形や色や、その肌の様子がゆっくりと目の前を過ぎてゆく。と想像しているうちにまるで自分がそのバスに乗っているような気分になってくる。<すれすれ>という表現が引き出す臨場感がこの句の魅力だ。もうほとんど目的地。バスを降ればきっとあたり一面林檎の匂い。さあ、林檎三昧の一日を楽しもう。



富有柿対角線の走りけり  小野あらた

マンハッタンには果物や野菜を売るフルーツベンダーと呼ばれる屋台が街角の至るところに見られる。果物で常備されているのは、林檎、バナナ、苺、オレンジ、ブルーベリー、マンゴー等など。ここに秋になると柿が置かれる。英語の名前は「Fuyu Persimmon」。そう富有柿のこと。「甘柿の王様」とも呼ばれる、柿の品種の中で世界一多く生産され世界一多く食べられている柿だという。

さて、この富有柿の形を見てみよう。例えば干し柿で有名な市田柿はヘタの裏の果頂部と呼ばれる部分が尖った紡錘状の形をしているが、富有柿はそれに比べると平たくて四角っぽい。その果頂部の中心から、果実を四角に見立てたときの四隅へ伸びる線のような窪みを<対角線>と言い切ったことで、富有柿の姿の映像を読み手に再現させることに成功している。と、富有柿が食べたくなってきた。ちょっとそこまで買いに出ようか。



死なぬ日の影を放ちて大枯野  安岡麻佑

句中の其の人は広大な枯野にいる。ゆっくりと歩いているのかもしれない。枯野には自分の影。それを<死なぬ日の影>と言っているところが眼目。

其の日を敢えて<死なぬ日>と捉える心理はいったいどういうものだろう。たとえば、生命が絶たれるほどの経験をしたことがあるとか、余命を宣告されたとか、「死」を意識する出来事が身近にあり今日ある「生命」を感じているのだろうか。<影を放ちて>の措辞に香る陰影の混ざった開放感とが響きあう。———毎日の忙しい生活の中では生命のあることを当然と思いがちであるが、実はこれこそ大いなる奇跡———。

その影が放たれている大野原は枯野。仮に「青野」にして見て読む場合に得る感触とは全く違った、静かで深い生命力を顕在化させ、読むほどに味わいが深まってゆく。



三日月を京都タワーに乗せにけり  柴田健

JR京都駅中央口を出るとすぐに目に入るのが、京都タワー。ろうそくを模したとも、灯台をイメージして建てたとも言われるタワーは、京都駅前のシンボル的な存在である。掲句はその京都タワーと三日月との景。筆者は即座に展望部分に腰掛けるようにかな、と思ったが、天辺にそれこそうまく辿り着いているのかもしれない。

見所は「三日月が京都タワーに乗りにけり」ではなく〈三日月を〉〈乗せ〉たと言ったところ。もしも<乗せ>た行為者が作者でそれが省略されていると見れば、「自分が三日月を乗せたんですよ」と読めて、遊び心が浮かび立つ。もうすこし想像をすすめると、個人としての作者の枠を滲み出したもっと大きな存在、創造主と作者が重なり合っているとも。京都が大好きな筆者であるが、思い出してみると、月と京都タワーの共演を意識して見たことはないかもしれない。次の京都訪問の目的がひとつ増えた。


西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 
小野あらた 対角線 10句 ≫読む
第552号 2017年11月19日
安岡麻佑 もらふ火 10句 ≫読む
第553号 2017年11月26日
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【週俳11月の俳句を読む】対角線を見つけて 対中いずみ

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【週俳11月の俳句を読む】
対角線を見つけて

対中いずみ


富有柿対角線の走りけり  小野あらた

柿に対角線を見つけるということ。それは凝視の果てだろうか。それとも瞬時の感受だったろうか。

いずれにせよ、倦んだ大人の眼ではない。赤子のような、童子のような眼で見たら、柿はこういうものでした、と言っている。

そのことの強さ。


「対角線」という認識の一語を掴んで、作者は幸福だっただろう。その達成感をこわさぬように、ごくシンプルな俳句定型を選びとった。

素早く。

余計なものをまぎれこませぬよう。

そのことの強さ。


柿の句といえば、〈いちまいの皮の包める熟柿かな 野見山朱鳥〉が白眉であろうし、〈柿を食う君の音またこりこりと 山口誓子〉〈潰ゆるまで柿は机上に置かれけり 川端茅舎〉〈胸底に柿の実の冷え融けてゆく 篠原梵〉〈柿を剥く十指のすべて柿とあり 斉藤美規〉などがあり、最近では山口昭男さんが〈一本の線より破れゆく熟柿〉(『木簡』)と詠まれたが、掲句はこれらの句を更新し朱鳥句に迫っているのではないだろうか。それが、24歳の若者の手によって成されたことに胸のすくような思いがする。


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【句集を読む】 愛おしく在る可く 上田信治句集『リボン』を読む トオイダイスケ

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【句集を読む】
愛おしく在る可く
上田信治句集『リボン』を読む

トオイダイスケ


保坂和志『もうひとつの季節』(中公文庫)は、同じ著者の『季節の記憶』(中公文庫)の続編として語られることの多い本であるが、私はこの本の最大の魅力は、登場する猫の「茶々丸」がとてつもなく可愛らしく生々しく臨場感を持って描かれていることだと思っている。私が読んだことのあるテキストのなかで描かれた猫では最も可愛く、ひとつひとつの振舞いが本当に生きている、と感じさせられる。さも猫のことばっかり書いてある本であるかのように説明してしまったが、実際はその猫と暮らしている主人公格の父と息子&主人公格の兄と妹が稲村ガ崎で暮す話だ。その中に彼らと同量かそれ以上の存在感を持って(「彼らにとっては存在感があるのだ」と著者が読者に思わせるようにではなく、彼らと同じようにひとつの生きものとして、著者がただ書きたいという気持ちで書いたであろうが故に)茶々丸が生きている。

『リボン』を読んでなぜ『もうひとつの季節』を思い出したかと言うと、『リボン』も生きものがそこに存在している句がたくさんあったと思ったからだ。

とほい海あけがた蠅の生まれけり 上田信治

この句を目にしたとき、この「蠅」を可愛いと思った。かわいい、というよりも、「愛おしく在る可く」描かれている。生まれたての一匹の蠅の新たな生命のかけがえのなさが「とほい海」「あけがた」「生まれけり」に込められてある。

他にも生きものが「可愛く」描かれた句がいくつもあった。

大仏や木にそれぞれの芽のかたち
大き甕てふてふ一つ来て帰る
山々や芋虫は葉を食べてゐる
溶接の火花すずしく油蝉
夏鴉ま上に跳んで塀に載る
紅葉山から蠅がきて部屋に入る
つの出して夜の田螺は悪いもの
絨毯に文鳥のゐてまだ午前
草を踏む犬のはだしも秋めくと
さつきから犬は何見て秋の風
秋の蝸牛雲からひかり八方に
みみず鳴く町にすべての草は濡れ
生きるとは蛸の足には動く疣
あれは鳥雲にリボンをなびかせつ


「大仏や」「それぞれの」、「帰る」、「すずしく」、「ま上」「載る」、「紅葉山」、「つの出して」「夜の」、「絨毯に」「まだ午前」、「はだし」、「秋の風」、「ひかり八方に」、「すべての草は濡れ」、「生きる」、「あれは」。これらの言葉が生きものを確かに存在させて可愛く描いている。短い一句の中のたった一語や二語をもって、季語としての機能を負わされることもある生きものが、目の前のひとつの生きものとしてこんなに可愛く描かれるのはすばらしいことだと思う。


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2017落選展を読む 2 「青島玄武 優しき樹」 上田信治

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2017落選展を読む 
2「青島玄武 優しき樹」

上田信治


青島玄武 優しき樹 ≫読む


魂を鳴り響かせて玉の汗

なんと、大げさなと思う。「玉の汗」だけでも、ちょっと大げさな慣用表現であるのに、しかも「魂を鳴り響かせて」だ。ここには、大げささしかない。

けれど、表現には、毒をもって毒を制するということがあって、この句の主人公は、ロックスターのように美しく、俗っぽく、大げさに、自分はいま、気持ちがいいということを歌っている。

晦日蕎麦どの窓からも星空が

大晦日に蕎麦を食べている。いま窓を開ければ星が見えるだろう。家中のどの窓を開けても、今日の星はきれいだろう、いや、町中のどの窓を開けても、星は見えるよ。どうですか、町のみなさん。

大晦日とクリスマスには、神様の視点を持つ。これも、俗っぽくて大げさな発想だけれど、でも、そういう「良さ」っていうものは、あるわけです。

花は葉に花は優しき樹となりぬ

表題句。「だいじなことなので二度言いました」効果があって、しかも一回目は定型句(季語)、二回目は、主情的にひきのばされて、そこに歌いあげる高揚感が生まれている。この言い方は、ちょっとした発明。ただし、「花」は「樹」になると言えるか、葉桜を「優しい樹」といえるか、という表現上の弱点はある。

伊勢の子は伊勢の桜に遊びけり

この地名はもちろん交換可能に見えるけれど、この人が、目の前にいる子どもたちを肯定し、かつて(おそらく)伊勢の子どもであった自分を肯定する二重性において、ちゃんと鍵がかけられている。つまり、そのときこの人が、伊勢の子どもと桜を言祝いだことは、交換できない。地名のリフレインという手は、先例がなくはないかもしれないけれど、これは、いい句。


2017角川俳句賞「落選展」

10句作品 町暮れて 鈴木総史

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町暮れて  鈴木総史

凍鶴のこゑを旅の荷ととのはず
あをぞらは花鳥を育て神の留守
花枇杷や雨後の墓石の澄みきりぬ
石蕗の花一歩に寺の軋みけり
寒泉を鳥鳴き交はす一日かな
葱畑四五本育ちすぎてをり
帰りけり葱のあをさに眩みつつ
綿虫や町暮れてより塔暮るる
自転車に胴体のある夕焚火
天井の迫つてきたる避寒宿

週刊俳句 第555号 2017年12月10日

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第555号
2017年12月10日


鈴木総史 町暮れて 10句 ≫読む
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【句集を読む】
愛おしく在る可く
上田信治句集『リボン』を読む
……トオイダイスケ ≫読む

「2017落選展」を読む 2
「青島玄武 優しき樹」……上田信治 ≫読む

【週俳11月の俳句を読む】
北村虻曳 リアリズムから離陸 ≫読む

瀬戸正洋 全句雑感 ≫読む

対中いずみ 対角線を見つけて ≫読む

月野ぽぽな 死なぬ日 ≫読む

中嶋憲武西原天気音楽千夜一夜
第29回 市丸「三味線ブギウギ」 ≫読む

〔今週号の表紙〕
第555号 干潟……岡田由季 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む


子規に学ぶ俳句365日』文庫化記念リンク集≫見る
2017 角川俳句賞落選展 ≫見る
2016 「石田波郷新人賞」落選展 ≫見る

新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

週刊俳句 第556号 2017年12月17日

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第556号
2017年12月17日




滝川直広 書体 15句 ≫読む

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煤払といえば我輩も猫である古狂歌の世
 ……robin d. gill(敬愚) ≫読む

【俳苑叢刊を読む】
第20回 森川暁水『淀』
どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(前篇)
 ……佐藤文香 ≫読む

【2017落選展を読む】
3.青本瑞季 みづぎはの記憶
……上田信治 ≫読む

【週俳11月の俳句を読む】
久留島元 俳句的な、あまりに俳句的な ≫読む 
藤井あかり さあらぬ ≫読む 
鈴木茂雄 八王子から ≫読む

中嶋憲武西原天気の音楽千夜一夜】
第30回 エアロスミス「バック・インサドル」
≫読む

〔今週号の表紙〕第556号 グラフィティ
……西原天気 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……上田信治 ≫読む

新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
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〔今週号の表紙〕第556号 グラフィティ 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第556号 グラフィティ

西原天気




日本のグラフィティ(西欧起源の落書きアート)は、どれも途中でほっぽらかしたみたいな感じだ。場所をわきまえないところもある。もちろん、良く出来た完成品もあるようだが(≫画像検索)、そちらはあまり目にしない。

日本には根付かない文化なのかな、と思っていたが、落書きは、未完成でヘタクソなほうが落書きらしいとも言える。ハンパなグラフィティも嫌いではありません(落書きされたビルの関係者はたまったもんじゃないだろうけど)




週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 第30回 エアロスミス「バック・イン・ザ・サドル」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
第30回 エアロスミスバック・イン・ザ・サドル」

憲武●押し詰まって参りました。なんかやはりバタバタとしてますね。年末進行のせいでしょうか。ま、こういう時には大音量の音楽で憂さ晴らしということで、エアロスミスです。



憲武●罰当たりな感じの人たちですね。むかし、あるお方のお家で句会開催っていうんで、メンバーが押しかけたら、そこの家のご母堂様に「山賊みたいな人たちが来た」と言われたという逸話も思い出します。山賊みたいな人たちって感じも。

天気●句会ならまだいいじゃないですか。お通夜で、それを言われた俳句関係者たちを知ってますよ。

憲武●歌詞も相当卑猥です。頼もしい限りです。

天気●ほうほう。

憲武●all the shots tonight とか I'm like a loaded gun とか。発射寸前の銃って分かり易いですね。The girls are soaking wet に、続けて No tongue's drier than mineと来る当たり。これでもかという感じで。

天気●売春宿の歌ですね。これ。

憲武●そうですね。馬に乗って来るんです。西部劇仕立てなんですね。1994年に日本武道館で観たんですけど、伝統ロックという印象を受けました。特にストーンズと、ツェッペリンの良いところを継承してると思ったんです。

天気●ロックバンド~!って感じですね。

憲武●この人たち、もう12、3回来日してるんですよね。宜保愛子似の、ヴォーカルのスティーブン・タイラーは、今年の春ソロで来日しました。かなり日本通で、渋谷センター街での目撃情報もあります。




天気●オーディション番組『アメリカン・アイドル』の審査員ですよね。これで知ってるっていう若い子も多そう。

憲武●アメリカのバンドなんですよね。来年70歳です。体調不良とかいうニュースも伝わって来て、ちょっと心配です。体だけは大切にして下さい。

天気●ほんに、ほんにー。


最終回まで、あと971夜) 
(次回は西原天気の推薦曲)

【週俳11月の俳句を読む】八王子から 鈴木茂雄

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【週俳11月の俳句を読む】
八王子から

鈴木茂雄


栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟

俳句をいくつか同時に発表する際にタイトルを付けるが、その付け方にはふた通りのタイプがある。ひとつは、その作品の主題となる言葉をタイトルにする場合。いまひとつは作品の中から無作為に選んだ語彙や季語をタイトルにする場合である。

ざっと読んだ印象では、この「八王子」というタイトルは後者のようだ。ゆえに一読して引っ掛かったのは「八王子」ではなく冒頭の「栗の秋」。野菜や果物など他にもいろいろと豊富に出回っている季節なのに、なぜ「栗」なのかと立ち止まってしまう。

ひょっとしたら「信州の秋、栗の里」というようなニュースでも目にして、栗といえばこの友人のことが、というふうに八王子という街(「八王子」というと東京都の近郊しか思い浮かばない)に住んでいる友人のことが思い浮かんだのだろうか。

そうすると、友人の里などの栗を連想していることになるが、この散文的な文面から類推すると、「実りの秋、栗もたくさん採れた。ひさしぶりにうちに遊びに来いよ。」というふうにも読める。すると、この栗は作者の側にあるものということになる。

瑣末なことを詮索するようだが、俳句という短い詩形の中に置かれた言葉は、このように一語一語の意味を追うことになる。置かれた位置にも注視して想像することになる。一句の中心的存在となる季語となるとなおさらだ。「栗の秋」とは土地の名産品を賞でる言葉に他ならない。だとすると、これほど率直で分かりやすい挨拶句もないだろう。

林檎の実すれすれを行くバスに乗り  同

この句も極めて散文的だが、上句と中句の間に生じた切字によって、一句は辛うじて抒情的空間を形成する。「すれすれを行くバスに乗り」という情景描写には、林檎の木の枝の先にぶら下がっている「実」に、読者の目を釘づけにさせるデッサン力がある。葉ずれの音が聞こえる。林檎園の間を縫って走行するバスの様子が、鮮やかな映像として浮かび上がる。車窓を眺める作者の横顔まで見えてくるようだ。

我のゐる二階に気付く秋の人  同

最初、「八王子」十句に目を通して漠然とではあるが、この作者は季語派の人だと感じたが、そう確信したのはこの句に出会ったときである。俳句だから作品に季語を投入するのは当然だろうと言われるかもしれないが、そうではなく季語の扱い方にそう感じたと言おうとしている。かつて高柳重信はこう言った。
「早々と俳句に仕立てあげるために、常に一回かぎりの完璧な表現を指向する言葉の意志に逆らってまで、安易に季語を投入したり、強引に五七五の形を整えるようなことは、絶対に許されないのである。」『現代俳句案内』飯田龍太他(編)立風書房
揚句の「秋の人」という表現が安易だと言おうとしているのではない。このことを承知の上で作者の西村麒麟は、なぜ「安易に」と思えるほどのこと(「秋の人」という極めて俳句的ではあるが、散文では大いに違和感を覚える表現)をしたのか、ということについて考えようとしていたのだが、繰り返し読むうちに、その安易にと思えることをあえてしたのではないかというところに、解答を見出せるような気がしてきた。

それは作者が「表現を指向する言葉の意志」に従ったからに他ならなかったからではないか、ということだ。「春」でもなく、「夏」でもなく、ましてや「冬」でもない、「〜に気付く秋の人」とはそういう把握なのだろう。

一ページ又一ページ良夜かな  同

この「一ページ」には何が書いてあるのだろう。それより何のページなのだろう。本だろうか、日記だろうか、それともただのノートなのだろうか。なぜ「また」ではなく「又」という漢字を使ったのだろうと、ここでも引っ掛かる。固いというか、しっかりとページをめくるイメージから考えると、これは本に違いない。

ページをめくる、そしてつぎのページに移る。めくったページ自体が「良夜」のようなものなのだろうか、それとも本を開くと良夜になるのだろうか。いずれにせよ書物と呼ぶに相応しい堅牢な本が月光に浮かぶ。読書家にとっては至極の時間と空間、その感慨を「かな」で示す。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの  同

「住みて」に引っ掛かる。なぜ「棲みて」ではなくて「住みて」なんだろうと、自分の漢字の選び方との相違に引っ掛かる。ここは「(人ではなく虫だから)棲みて」とすべきだろう、と。「全く鳴かぬもの」の「もの」ってなんだろう。いつもこういう読み方になる。なぜ、なぜ、と何回も読み直す。そうしているうちに自然に解(ほど)けて来る。むろん解けずに感覚だけ受け取ることもある。

この句の場合でいうと、虫籠で飼っていたら全く鳴かなくなった虫って一体どんな虫なんだろうと、まずは極めて散文的なところから入ろうとする。それでは俳句を読んだことにはならないか。もっと俳句的なことを考えよう。虫籠の中の闇と虫籠の外の闇、その中にあるものとその外にあるもの、住みて=生、全く鳴かぬもの=死、などなど、と。

秋の夜の重石再び樽の上  同

夕方、樽の中のものを取り出すために退けた「重石」。元に戻すのを忘れていたことを思い出して重い石を「再び樽の上」に戻した。その感触は深夜まで手のひらに残る。季語「秋の夜」は重石を再び樽の上に戻したあとの時間の長さ。

初冬や西でだらだら遊びたし  同

「西で」に引っ掛かる。「だらだら遊びたし」はよくわかる。なぜだらだら遊びたいのかはわからない。「初冬や」と切字に託した作者の感慨がわからない。なぜ初冬だとだらだら遊びたくなるのかという疑問。しかもなぜ西で、という疑問。疑問だらけ。疑問だらけだが、謎だらけとは違う。それぞれひとつひとつは引っ掛かるのに、一句全体を繰り返し読むとそれほど疑問に思わなくなる。それどころかなんとなくわかったような気分になってくるから不思議だ。

蟷螂は古き書物の如く枯れ  同

「枯蟷螂」という季語がある。少し長いが全文引用する。
初冬に褐色のカマキリを見かけることがあり、昔の人はこれを蟷螂も草木と同様に枯れて緑のものが変化したと考えた。しかし、カマキリには緑色と褐色のものがあり、途中から色が変わることはない。「蟷螂枯る」という季語は事実に反するが、季節感を感じさせる言葉として今も使われる。『合本 俳句歳時記』第四版
「古き書物のごとく枯れ」の枯れは、みずみずしさが失われてその機能が衰えることだが、「古き書物のごとく」の方はその「書物」の形状ではなく、乾燥してやがてその機能を保てなくなるであろう紙の質感を色彩で語ろうとしている。そして、そのように「枯れ」と、季語「枯蟷螂」そのものを詠む。「(この)季語は事実に反するが、季節感を感じさせる言葉」をあえて詠む、季語の人。

焚火して浮かび来るもの沈むもの  同

「焚火」というものを見かけなくなってどのぐらいになるだろう。地面にじかにする焚火はむろんのこと、いまではドラム缶の焚火も見かけなくなった。むかしは家の前でもよくやったものだが、揚句は地面にじかにする焚火を詠んだものだろう。火の勢いが強くなると、焚いているものがふわっと浮いて燃え上り、やがて燃え尽きたものは白々として沈んで行く。焚べるものを継ぎ足してはこれを繰り返す。この句もまた季語「焚火」の形態そのものを詠んだもの。

水洟やテレビの中を滝流れ  同

「水洟や」とくれば即座に思い浮かぶのは芥川龍之介の「鼻の先だけ暮れ残る」だが、この句で引っ掛かったのは「滝流れ」の個所。滝は垂直に落ちるものという固定観念が頭にあるものだから、最後の「流れ」で立ち止まってしまった。が、よく考えると、岩を伝って横に滑り落ちて行くような滝があった。それならよくわかる。

揚句は、風邪気味の作者が炬燵の中で寒そうな映像を視ているという、何の変哲もない日常のひとコマだが、次々に映像が流れる「テレビの中」で、なぜ作者は「滝流れ 」を捉えたのかという疑問は、「流れ」という疑問が氷解したことによって、そのまま「水洟」へとあと戻りする。切字「や」でいったん堰き止められた時間の勢いが一気に下の句まで流れ、今度は上の句ヘと戻ることを余儀なくされる。戻る力学がそこに働いているからだろう。


西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 
小野あらた 対角線 10句 ≫読む
第552号 2017年11月19日
安岡麻佑 もらふ火 10句 ≫読む
第553号 2017年11月26日
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【週俳11月の俳句を読む】さあらぬ 藤井あかり

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【週俳11月の俳句を読む】
さあらぬ

藤井あかり


始まりはこんな呼びかけから。

栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟

「出て来いよ」の気軽さと強引さに、つい出て行ってしまう。
行く先に広がるのは、栗の木々のゆたかさ。

林檎の実すれすれを行くバスに乗り  西村麒麟

バスの窓から手を伸ばせば捥げそうな林檎。
心はもう林檎を齧りはじめている。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの  西村麒麟

鳴くものよりも、鳴かないものの方に心が寄ってしまう。
耳奥には沈黙が響いている。

蟷螂は古き書物の如く枯れ  西村麒麟

長い歳月のなか褪せていったかのような蟷螂の枯れ色。
胸中に捲ろうとするとき、枯れの深さは知の深さ。

焚火して浮かび来るもの沈むもの  西村麒麟

火や風の勢いにより、燃えながらふっと浮かんだり沈んだりするもの。
そんな景を超え、胸に浮かんでは沈む何かにもつながってゆく。


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【週俳11月の俳句を読む】俳句的な、あまりに俳句的な 久留島元

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【週俳11月の俳句を読む】
俳句的な、あまりに俳句的な

久留島元


栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟

当たり前の日常が、小さな操作で俳句になる。

操作の方向を「栗の秋」という季語のもつ多幸感にもちこむのが、いつもながら麒麟の国、仙境に誘われる趣。

西村麒麟としてはすでに確立された文体のなかで何を見せるかだが、今回はすこし日常生活の要素が強く、桃源郷を離れ現代より。日記帳めいた句もあるが、この句、八王子だから詩になるのであって、例えば甲斐の国から出て来いよ、などとやってしまったら臭すぎて目も当てられぬ。

八王子から栗の名所へ、うきうきと人を誘い出し、うきうきと自らも出かける作者が浮かぶ。


朴落葉まだらに雨の染み込めり 小野あらた

トリビアルな描写に定評ある作者、このあたりの表現はさすがだが、既知の世界という気もしないではない。

くつついて力のゆるぶ玉の露 小野あらた

同じくトリビアルに季語に向き合った句。

くっついて形のくずれた露玉を「力のゆるぶ」とした表現が巧みだが、同時に口語の「くつついて」の、ちょっと幼い雑な感じがいい味になっている。

定評があるということは、もう次の世界への期待もあるということで、若くして句集を編んだ作者がどこへ進むのかも気になるところだ。


木の葉雨犀の背の縮まつて皺 安岡麻佑

動物園と見れば実景だが、木の葉雨のなか動物園で犀の皺を見ているというのは、奇妙である。その奇妙さが、とても俳句的で、妙なリアリティがある。

冬銀河肢体ねぢれて球送る 安岡麻佑

なんらかの球技かと思うが、なぜ夜中なのだろう。ナイターだろうか、それにしては星空の存在感が大きい。

中七下五のリアルな描写力が見事で、それが際立つだけに背景となる季語とのかかわりがよくわからなかった。

どちらも大きな景の季語にリアルな描写をぶつける、という構成であるが、こちらはやや季語の存在感が勝ちすぎたか。


鴨川の冷たき土の音を聞く 柴田健

晩秋の鴨川、作者は流れる川の、その底の「土の音」が聞こえるほどに川に近い、川端などを歩いているようだ。

観光地も遠くはなく、晴れていれば有名な「等間隔カップル」が並んで、結構人気もあるはずだが、この句の情景は静か。日暮れ時か、青年らしい憂愁のなかにあって辺りの喧騒も聞こえないのか。

京都、滋賀を舞台にした句群、京都に学ぶ学生のはずだが、視点は旅人の、挨拶句に近い。作者の立ち位置が、やや不透明にもみえる。


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小野あらた 対角線 10句 ≫読む
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【俳苑叢刊を読む】 第20回 森川暁水『淀』 どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(前篇) 佐藤文香

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【俳苑叢刊を読む】
第20回 森川暁水『淀』

どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(前篇)

佐藤文香


随分時間が経ってしまった。句集評ということで、軽い気持ちで引き受けたのだが、ほかの執筆者が熱のこもった評論を書くのを見ていて、絶望した。自分にはこういうのは書けないと思った。

しかしこの依頼、本来なら無料でしか記事を依頼しないはずの週刊俳句が、担当の俳苑叢刊の一冊をくださっている。書かないわけにはいかない。ちなみに私の原稿の本来の〆切は2017年7月2日だった。今日は2017年12月15日。ひどい遅延である。現在私は『〆切本』(左右社)のグッズ「〆切守」をリュックにつけているが、つける前からの遅れである。

書こうとは思っていたのだ。この俳苑叢刊というのは文庫サイズで、『淀』は87ページ。1ページ4句立てではあるが、ハンディな一冊である。空いた時間にちょっと読もうと思って、幾度も鞄に入れて持ち出した。たまにページをめくったり、一度も鞄から出さないまま何日か過ぎたりし、この書物自体は汚れ、仲良くなったが、一向に書き出さなかったのは私の不義理と言うほかない。



火曜日、俳句文学館へ行った。今年の大きな仕事がほとんど終わったので、とうとう曉水を読もうと思った。そして、句集評が書けないのならばせめてエッセイを書こうと思い立った。私のまずい文でだめなら、この『淀』をどなたかに託し書き直してもらえばよかろう。



森川曉水の句集は、この『淀』がはじめ出たのは第二句集としてであって、そのほかに第一句集『黴』と第三句集『澪』、第四句集『砌』があった。すべて一文字のタイトルというところに一貫性がある。また、『黴』、『澪』のあとがきによれば、この二冊の装幀その他発案は曉水自身らしい。表具店に奉公していたのはwikipediaにも書いてあるとおりで、のちに工場に勤め、自営となったようだが、もともとが職人気質なのだろうと思われる。と書いてから「俳句研究」の松崎豊「追悼 森川曉水 境涯の作家森川曉水」を読んだら同じことが書いてあった。「俳句研究」何号かは忘れてしまった。これは書くのを渋る私のために田中惣一郎がコピーをとってくれたものだ。

『黴』の高浜虚子による序文に、
彼は一茶と一脈相通じ、自己の境遇を隠さずに吟詠してをるが、併し一茶は貧を憤り権力に反抗する呪詛の傾向が多分にあつたが、曉水君にあつては常に諦めの心持で静かに自己の境遇を反省し、或は蔑みつつも之を笑つて居る、といふ相違がある。
とあって、これもwikipediaに「貧のなかに哀歓を籠めた作風で、高浜虚子より「昭和の一茶」(『黴』序文)と評された。いわゆる境涯俳句に先だつ作家だった」と書かれているのでわざわざここで言う必要もないだろうが、それはそうとして私は以下のような句に惹かれた。

  夜濯をひとりたのしくはじめけり
夜なべしにとんとんあがる二階かな
炭にくる鼠の立つてあるきけり
凍てめしもまたおもしろく食ひにけり
おしろいの夕ともなれば犬を相手
おしろいのはびこり咲いて無事な秋


句集評のなにが苦手かといえば、こうやって句を挙げた途端、いちいち解釈や鑑賞のようなものを付さなければならないことである。これはエッセイなので、各々味わっていただくことにしよう。っていうかふつうに面白くないですかこの人。上田信治『リボン』のなかにも味わいの似た句がある気がする。

生活を詠む人なので奉公についての句も多い。また、ちょうど新婚のころの句集であり、

  自祝結婚
   借りものといへどめでたし金屏風


また、

  われにある妻いとほしやはこべ咲く
風邪わるき妻のひたへに手やり護る


などの句も見られる。私事ながら今年結婚したので、夫の気持ちになって読んでみると自分が可愛く思えてよかった。

と、ここまで書いてすでに疲れてしまったが、まだ『淀』に至っていない。このままだと全句集書かなければならなくなりそうな勢いなので、さきに『淀』以外の句集について書いておくと、第三句集『澪』では、

結婚記念日二句
海苔に酌めば海苔の塵浮く盃
(はい)おもしろ
海苔に酌めばさらに目刺は青き魚
(さかな)

結婚記念日に詠む句がこれというのがいい。下五の「盃おもしろ」「青き魚」の字余りがよく、「おもしろ」は「おもしろし」でないのが関西弁風でおもしろいし、「魚」は「うお」と読まれないようにわざわざルビを振るのがおもしろい。あとは、

葉牡丹に飼へば飼ふほど犬小さき

これなんかかわいそうで好きだった。

第四句集『砌』は、かなりの作品の量なのだが、がつんとくるものは少なく、第一句集にあったモチーフ「おしろい」で

おしろいにこころしづかに居るかなしさ

などがいいと思った。余談だが、

男女の仲あやにかなしも鴨はそら

という句があり、私の名前「あやか」と私の好きな「男女の仲」と「鴨」が入っていて気に入ったので覚えておきたいと思う。

さて、『淀』である。曉水にはすでにこのとき主宰誌「すずしろ」がある。さきに挙げた松崎豊の追悼の文章によれば、「すずしろ」創刊主宰したのは昭和13年10月、38歳のときであるらしい。っていうかもうみんな松崎さんの文章読めばよくね? いやいや、あくまで『淀』のことを書けという話なのだから松崎さんは一旦忘れるべきだ。しかし疲れたのでここまでにする。編集部からの要請は2000字以上であり、ここまでで2140字だ。しかし実はまだちゃんと『淀』を読んでいない。続きは来週。

煤払といえば我輩も猫である古狂歌の世 robin d. gill(敬愚)

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煤払といえば我輩も猫である古狂歌の世

robin d. gill(敬愚)


紙袋あたまへ着せりや煤掃に跡ずさりしてふき回る猫

A paper bag pulled o’er her head, backing from the room,

our pussy hissed and swept about faster than a broom!*

破睡軒辻丸の1812以前の上方狂歌は、単なる描写。想像の目で見る以外に、現在ほとんど毎日ウエブに出くわす可笑しい猫のビデオと変わらない。脚韻をどう踏んでみても、シッと吹き=拭きの機知たる同音が無ければ、気違い猫に過ぎない英訳の負けだ。2018年は毎週あちこちでブログなど投稿して世に宣伝する「名歌にしたい無名歌」の仲間入りまでも甲斐ある狂歌ではなかろうが、たまたま猫の玉が人間も紙袋を鎧に替わって被った徳川の泰平を感謝していた初期江戸の「寄煤払祝」の狂歌の概念的なもじりにもなると思えば、それなりの自然傑作という評価もありうる。因みに、中期江戸にも蕪村の俳友と玉の俳文集『鶉衣』の著者也有(1702-83)にも「寄煤掃祝」の狂歌がある。

豊なる代にすみながら煤掃の今日は身一つ置所無し

In this affluent age, we enjoy a bounty of time & space,

but on Dusting Day, alas, an old man can find no place!

住みながらに煤と縁ある墨も連想するが、「今日は」を「きょうか」(今日が=狂歌)と掛けたくなる敬愚は悪いか。政治的な問題で狂歌の大田南畝が四方赤良としての活動を止めた間もなく、「鶉衣」を刊行したためか、後期江戸の狂歌集にも上記の祝いながら嘆く歌を再掲載した。一茶の句帖に似通った嘆きもあるが、記憶が正しければ老猫と松の本を避難所にしました。米を自分で植えないと罰が当たると自白した句が多かったくせに、煤払を遠慮なくさぼった。敬愚は煤払いに対する気持ちは複雑。工作舎に雇われた年年、大掃除に編集長まで参加する平等は、米国の不平等より高く評価したいが、歌ったり、或いは音楽と共に働く文化人類学で調べたら人間の常なるやり方を忘れて、沈黙の中で必死に肉体労働する事が最低しかも危ない。大掃除中、はじめて下背中がぎっこち腰になった。当の怪我ないし不調を終に直し、しかも防ぐ運動までも開発し発明できたから、長めに見て有難い体験になりましたが、読者諸君に牛の小便より長い道草を食わしては悪かった。

※英訳。「古狂歌」の四冊の本にある狂訳と上記のそれが少々異なる。原歌を読み直す度ごとに翻訳をやり直す。改良になりがちと思いたいが、他人の意見を聞かないと自信多少あるとも確信こそありません。 

※狂歌と俳句。現在は狂歌を諧謔、風刺、落首の類と見なされているから、俳句に携わる人の99%も食わず嫌いだ。芭蕉も愚に返る年まで生き長らえたら、宗長同様に見事の狂歌を詠んだはずです。老化しながら頭の働きというか遊びを保つがための薬で、作句も助かるぞ。週間俳句の読者諸君、please spread the word!  狂歌は本来俳人も好んで詠んだ、つまらない文学ではなかったし、天明の天才一人の異常現象でもなかった、誰でも楽しく接近できるジャンルだ。


  

15句作品 滝川直広 書体

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書体 滝川直広

廃屋をこはさぬやうに照らす月
みのむしの簑を月光漏れてきし
ドックより鉄気(かなけ)のにほひ泡立草
巡礼の次散りさうな紅葉指す
こゑがはりまへの少年石蕗の花
鴨ののる水の中より暮れてきし
帰り花書体のちがふ墓碑と墓誌
短日の意訳のつづく字幕かな
極月の百葉箱の眩しさよ
積み上げて菜屑くすぶる蕪村の忌
遠火事といふ祝祭に染まる空
イヤホンに音の通はぬ冬籠り
初夢の中も単身赴任して
男役大寒の街大股に
寒暁や耳鳴りに耳ふさがれて


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