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2017落選展を読む 3 「青本瑞季 みづぎはの記憶」 上田信治

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2017落選展を読む 
3「青本瑞季 みづぎはの記憶」

上田信治


青本瑞季 みづぎはの記憶 ≫読む



野遊びのきれいな耳についてゆく

髪を短くしている人の、後ろから見るとめだつ耳。耳は皮膚がうすくてエロティックなパーツであり、季語「野遊び」のウラ本意は「ちょっと異界まで」なので、この人は、コミュニケーションがとれないその人のあとを、奧へ奧へとついていってしまう。

痣がちの四肢を余せり夏館

四肢をもて余すとは思春期の謂いであって、その皮膚が白く痣がちであるゆえに、夏館を出られず退屈をしているとなれば、それはほとんど「お嬢様」と言っていいような、いたいたしく、ナルシスティックな主人公である。

虹見せてくる眼球はすこし丘

眼球は、たしかにひとつの光学的機構であって、わたしよりもセカイの側に属するのかもしれない。「丘」すなわち地形的スケールの巨大な眼球によって、わたしはセカイの一部として、放下したように虹を見せられている。

むずかしいことを勇敢に試みている書き手。

現実と半ば切れ、半ばつながった言葉で、心理的なものや抽象的なものを描こうとしている。

上に挙げた句は、肉体のパーツをてこに、「それ」を架構し、手渡すことに成功している。

「それ」とは、言葉でたちあげた、この世にない、あやうい細工物のようななにかだ。

いまアニメでやってる市川春子の「宝石の国」みたいな(ト言ったらほめすぎかもしれないけど)つくりものの世界。

夕暮れの桜海老なり目をなくし
灼けながらばらばらに来る犬の脚
風車西の市場の違ふ匂ひ
こゑは鋭利にくちびるを濡れ夏終はる
逝く秋がまぶしい海としてわかる

目をなくした桜海老や、ばらばらの犬は、かわいい。西の市場の書かれていないストーリーは、おもしろそう。「鋭利に…濡れ」「まぶしい…わかる」のつながりはよく分かる。

ただ、ほんとうにバランスだけで成り立っているような書き方なので、ひとつミスると世界が立ち上がらないし、読み手によりかかる部分も大きくなる。〈春の雷本の屍臭が書庫の中〉〈描きぶりが絵になる人で花のまへ〉〈ぼんやりと蟻の集まる墓のうら〉などは、この人にしてはベタだろう。逆に〈青鷺はビル光のなか展けてゐる〉などは、読み切れなかった。

打率とか、歩留まりを言い出したら、はじまらない方法なのかもしれないけれど、この人の「読める」句で数がそろったら、そりゃあすごいんじゃないかと期待させるスケールの大きさがある。

永き日を部屋まで海が照つてゐる

永き日「を」と書いたら、主体が現れなければいけないところを、肩透かしして、これも放下の感覚。「逝く秋が」と対句になっていて、海光が、春は部屋まで来てくれて、秋はまぶしく行ってしまう。これはおぼえてしまいそうな、二つの句。

2017角川俳句賞「落選展」


後記+プロフィール 556号

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no.556/2017-12-17 profile

■滝川直広 たきがわ・なおひろ
1967年生。藍生俳句会会員。
来夏創刊の俳句誌「いぶき」編集長

■ロビン・D・ギル robin d. gill
俳号・敬愚。ロビン・ギルとして一連の著作(日本語)で80年代の軽薄な日本人論をぶっ飛ばしてから、その自然主義にあった俳句の世界へと心移り、今度、 robin d. gillとして、やはり一連の著作が、俳句(主に俳諧)をめぐる。海鼠句千句もある480 頁のRise, Ye Sea Slugs!(2003), 蝿句同じ数あるが自然科学がすくない小本 Fly-ku!(2004)。今までほとんど翻訳されず新年部の句ばかり(20季題、2千句)のThe Fifth Season(2007)。桜、花見をめぐる三千句も超える740 頁のCherry Blossom Epiphany (2007).和文すべて入っているから、日本語の勉強、又、日本人読者にとって逆に英語の勉強のためになる。ブライスの大業につぐ、その翻訳の大河ドラ マが、スポンサーを見つけなければ、いつまで引き続くのか、心配。ご支持を願いたい。敬愚と号してbbsで句をいじけるが、のこしたい句のほとんどが、紙切れか、その時に読んだ本の表紙の裏側にあるから、失くす前に、人生の締め切りの前に、そいつを集め、選べ、直す暇が見つけるかどうか、さだかではない。 サイト「PARAVERSE ORG」

■佐藤文香 さとう・あやか
1985年生まれ。句集『海藻標本』『君に目があり見開かれ』。アンソロジー『天の川銀河発電所』ほか。

久留島元 くるしま・はじめ
1985年1月11日生。「船団」会員。第七回鬼貫青春俳句大賞受賞。2012年~、柿衛文庫「俳句ラボ」講師。blog「曾呂利亭雑記」

■藤井あかり ふじい・あかり
1980年神奈川県生まれ。2008年「椋」入会、石田郷子に師事。2016年、句集『封緘』にて第39回俳人協会新人賞受賞。

■鈴木茂雄 すずき・しげお
1950年大阪生まれ。堺市在住。「きっこのハイヒール」「KoteKote-句-Love」所属。
☆Blog 「ハイク・カプセル」

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

5句作品 握手 村田篠

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握手 村田篠

風邪すこし残りて財布買ひにけり
免税と書かれた窓の煤払ふ
左右から別の音楽クリスマス
冬晴や巣鴨プリズン跡に猫
手袋を脱いで握手のあたたかき

5句作品 接吻 岡田由季

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接吻 岡田由季

剥製の多すぎる部屋冬ぬくし
裸木となりても鳥を匿へり
採掘の助手と接吻耳袋
湯ざめしてキシワダワニとなる背中
冬ざれの汀に尻尾垂らしをり

5句作品 抱擁 西原天気

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抱擁 西原天気

板状にひろがる寒さ日比谷口
こゑとこゑ砂のごとくに十二月
夜遊びは夜空のやうな毛皮着て
くちびるをたどりて冬の森のなか
コートごとぎゆつてしたいけどがまん

10句作品 朝はパン 上田信治

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朝はパン 上田信治

鳩とガスタンクもうすぐクリスマス
指あかく見えない棘や触ればある
きりん草枯れ靡きつつまぶしさよ
北風が一方向へ人を押す
北風が橋の全てを巻き包む
北風にとぶ鳩土手を吹き上がる
タクシーの会社のありぬ冬の月
ハンガーを捨てるきれいな冬休み
石蕗の花そのうへに寝室の窓
朝はパン飛んでゐる白鳥を見る

10句作品 パサージュの鯨 福田若之

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パサージュの鯨 福田若之

夢ながら罪深くへ下りる鯨
のぼせると鯨が背景に軋む
鯨に幽閉された頭取ネクタイピン
ひとつではない無表情の鯨の再来
太陽の廃液に打たれる鯨
欲する眼やがて鯨が尾をひねる
書く愉悦跳ねて鯨の仰向けに
触れたそのそれらをではなくす鯨
去る鯨焚書の火がたわむからむ
鯨その心臓がまだ柔く動く

後記+プロフィール 557号

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Under construction.


no.557/2017-12-24 profile

■彌榮浩樹 みえ・こうき
1965年鹿児島生まれ。1998年「銀化」創立とともに参加、中原道夫に師事。第二回銀化新人賞受賞。銀化同人。句集『鶏』(2010 ふらんす堂)。2011年「1%の俳句」で群像新人文学賞評論部門を受賞。

■橋本 直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。BlogTedious Lecture

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」
 
西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ「続ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記」

福田若之 ふくだ・わかゆき 
1991年東京生まれ。「群青」、「オルガン」に参加。句集に『自生地』(東京四季出版、2017年)。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。 

【週俳11月の俳句を読む】異変 大塚凱

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【週俳11月の俳句を読む】
異変

大塚凱


初冬や西でだらだら遊びたし 西村麒麟

この「初冬」のおおらかな付け具合とフレーズの抜き加減が、やはりかねてからの西村麒麟の魅力に違いはない。しかし、西村麒麟の俳句に、わずかな異変が起こっている気がしつつある。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの 同
秋の夜の重石再び樽の上   同

「全く」と語調をととのえた上で着目しているのは、鳴かない虫。その視点自体は従来からの持ち味ではあるものの、虚しさや哀れみを湛えている比較的情の濃い句だ(もちろん、語調自体はなめらかで全く激情的ではないものの)。掲句下段の「再び」も同様、当該の副詞によって連続性、敢えて過剰に言えば永遠性への漸近を感じる。この書きぶりは、副詞に呼び出された用言の力によって景色だけではない新たな次元を加えている、と分析できるだろう。次元を加えるという意味合いでは、本作は「空間」への志向が作者の従来よりも高まっているように感じられる。

栗の秋八王子から出て来いよ 同
林檎の実すれすれを行くバスに乗り 同
我のゐる二階に気付く秋の人 同

いずれも、句の肝は空間の認知にある。「栗の秋」と前置きした上で、「八王子から出て来」るというイメージを想起させる鳥瞰。「林檎の実すれすれ」というミクロな空間把握。「我のゐる二階」という内界に対して、「秋の人」という外的な”異物”が認知されるという構造。本連作の冒頭に通底するテーマは、臨界に対する意識である。<一ページ又一ページ良夜かな>以降、作者の意識は「空間」だけでなく「時間」へも拡張していく。

焚火して浮かび来るもの沈むもの 西村麒麟

この「焚火して」の入りは、西村麒麟が従来の手法と異なった方向で、作品の重層性を引き出そうと試みているように感じられる。前号「【週俳11月の俳句を読む】さあらぬ(http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/12/11_15.html)」で藤井あかりが「火や風の勢いにより、燃えながらふっと浮かんだり沈んだりするもの。そんな景を超え、胸に浮かんでは沈む何かにもつながってゆく」と評した通り、「浮かぶ/沈む」の空間イメージから「おもかげ」の次元へと抽象をスライドさせうる書き方をしている。前後の<蟷螂は古き書物の如く枯れ>は「枯れ」へと橋を渡す比喩の常套さ、<水洟やテレビの中を滝流れ>は上五と下五の連想の強さのあまり句としては成功していないように思えるが、いずれにしても前述の志向を持ち合わせているだろう。

僕は予感している。本作は西村麒麟からの寡黙な示唆である。

西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 
小野あらた 対角線 10句 ≫読む
第552号 2017年11月19日
安岡麻佑 もらふ火 10句 ≫読む
第553号 2017年11月26日
柴田健 土の音 10句 ≫読む

〔今週号の表紙〕第557号 港の夕陽 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第557号 港の夕陽

西原天気

神戸港に夕陽が沈むところ。

世の中にはガントリークレーン(港にあるキリンみたいなやつ)マニアもいらっしゃるようですが、むこうのほうに並んでいます。画像をクリック、大きくして、お楽しみください。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 第31回 アーサ・キット「サンタ・ベイビー」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
第31回 アーサ・キット「サンタ・ベイビー」

天気●クリスマスですねぇ。

憲武●ですねぇ。

天気●クリスマスなんてぜんぜん興味ないんだけど、まあ世間に合わせてクリスマスソングを取り上げます。

憲武●パチパチパチパチ(拍手)



天気●アーサ・キット(Eartha Kitt/1927 – 2008)は、「Sho-Jo-Ji(The Hungry Raccoon)」(証城寺の狸囃子)やトルコの民謡風「ウスクダラ」とか「セ・シ・ボン」とかワールドワイドな選曲で知られる歌手。

憲武●細野さんの影響でシングル持ってました。エキゾチック・サウンドとしてね。hungry raccoon。B面はウスクダラだったかな。

天気●私は、父親のレコード、4曲入りのシングル盤サイズで知った歌手。


憲武●このクリスマスソングもよいですね。ベスト盤出てたら買おうかな。

天気●しっとり感・ねっとり感がなかなかいいんですよね。

憲武●しびれます。ストリングスとホーン・セクションの兼ね合い絶妙。

天気●と、曲についてはこれくらいなんですが、たまには俳句の話をしましょうか。いちおう『週刊俳句』ですし。

憲武●そうですね。たまにはいいですね。

天気●クリスマスの句をおたがい3句ずつ挙げるという趣向で、まず、

東京を歩いてメリークリスマス  今井杏太郎

この句に尽きます、クリスマス句は。何の工夫もないように見えて、東京の聖夜そのもの。その夜の光や音が読者に向かって一挙に押し寄せます。

憲武●いろんな東京の街が浮かびます。んー、ぼくは、

美容室せまくてクリスマスツリー   下田実花

この美容室、ヘアーサロンではなくて、あくまでも美容院でなきゃダメです。パーマ屋とも呼ばれてた頃の。あの、頭に被る御釜のような、チブル星人のような、ヘアドライヤーが置かれて、ごちゃごちゃっとした店内が、パーっと広がります。

天気●小さなパーマ屋に大きなツリー。いいですね。

憲武●外ではスーパーかどこかのジングルベルが鳴り響いていて。下田実花なので、ちょいと粋な風情も漂い、高揚感を感じます。

天気●いわゆる昭和のクリスマスイヴ。私の2句目は、去年の句集『フラワーズ・カンフー』から、

トナカイの翼よあれがドヤの灯だ  小津夜景

憲武●うーん、どうもジェームス・スチュアートを思い出しちゃう。「翼よ! あれが巴里の灯だ」の。

天気●「パリの灯」ならぬ「ドヤの灯」。これはある意味、クリスマスソングの王道。ピース・オン・アースの世界です。

憲武●「素晴らしき哉、人生!」なども思い出します。

天気●フランク・キャプラ監督、こちらもジェームズ・ステュアートですね。

憲武●そうそう。

天気●視座がすごい。上空からのクリスマス俯瞰。詠み手はサンタクロースかよ? っていう、ね。

憲武●たしかに。でもサンタのトナカイに翼あったかな。

天気●俳句の主体の変容・変転に関して、石原ユキオさんは「憑依俳句」といって、他者が乗り移るというタイプ。それとは対照的に、夜景さんは、この句に限らず「トランス」。どこかに飛んでいってしまう。憑依とトランスは、現象としては似ていても、動きは逆。巫女にも憑依型とトランス型があるそうです。

憲武●ふーむ。乗り移られるタイプと乗り移るタイプと。

天気●乗り移る、というか、視座の移動、魂の移動。「地に足をつけない」タイプの句を、この二分法で整理してみるのも面白いかもしれませんよ。

憲武●2句目は、

サンタクロース大きな足を脱いでゐる  大石雄鬼

イベントかセールを終えて、着ぐるみのサンタクロースを脱いでるところですね。中の人は意外にも女性だったりして。

天気●「大きな足」への着目。ああ、滋味、ありますねえ。私の3句目は、

定食で生きる男のクリスマス  中嶋いづる

クリスマスの週末、フランス料理やらイタリア料理のディナーは、しゃらくさい。外食なら、やっぱり定食ですよ、定食。値段はまちがっても4桁行ってはいけない。この句、ほんと、泣かせます。小洒落た店に食事に行ったりプレゼント買ったり、チャラチャラしたのに用はない。私はだんぜん、この「定食で生きる男」の味方です。

憲武●「定食で生きる男」にシンパシーを感じます。

天気●まあ、憲武さんも私もフランス料理ってガラじゃない。定食です。

憲武●3句目は、

クリスマス音痴静かに歌い出せり  蒲生貨車夫

やはりこの時期、賛美歌かゆっくりとしたクリスマスソングでしょうかね。もしかしたら自画像かもしれませんね。ペーソスを感じます。音痴は静かに歌いだすものです。

天気●ですね。ラヴ&ピース!


(最終回まで、あと970夜) 
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

肉化するダコツ④ 葉むらより逃げ去るばかり熟れ蜜柑 彌榮浩樹

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肉化するダコツ④
葉むらより逃げ去るばかり熟れ蜜柑

彌榮浩樹



俳句について大切なことは、すべて蛇笏に教わった(やや大袈裟だが)。
それをめぐる極私的考察、その4回目。

掲句、まず目につくのが、擬人法だ。
樹に生っている蜜柑がまるで葉叢から逃げ去りそうだ、という表現・イメージは、ぎょっとする奇想でありつつ、さもありなんと納得させるものでもある。だが、この句を「ああ擬人法だなあ。なるほど言われてみると実感があるなあ」と納得するだけでは、おさまりがつかない気がする。そうした納得を乗り越えてはみ出す、<霊的>な迫力・不気味さがこの句にはあるのだ。

俳句における擬人法とは何か?
そうした問いを、この句は僕に突き付けてくる。

というのも、例えば小説や詩における擬人法と、俳句の擬人法とは、本質的に仕組み・効果が異なるはずもないのに、わずか十七音の俳句においては、掲句のように“擬人法が作品のすべて”になりうる点で<決定的・致命的>なのだ。ここには、単に、表現技法としての擬人法という理解では見逃してしまう、たいへん重要な俳句作品特有の機微が露呈している、と思うのだ。

その一つは、<オノマトペ化>としての側面である(前回このことは詳しく検討したが、やはり再度ふれなくてはならない)。擬人法だというだけであれば、掲句の、「逃げ去るばかり」は、「逃げ去るやうな」等の言い換えができるはずだ(音数も変わらないから五七五の定型を乱すこともない)。「より」も含めた操作を、いくつか加えてみよう。

a 葉むらより逃げ去るばかり熟れ蜜柑 ・・・ 掲句
b 葉むらより逃げ去るやうな熟れ蜜柑
c 葉むらから逃げ去りさうな熟れ蜜柑
d 葉むらから逃げ去りたくて熟れ蜜柑

どうだろうか?

bやcの方が口語風の言葉遣いになっているから、こちらの方が親しみやすいと感じる人もいるかもしれない。
しかし、端的に言って、bやcは軽い。だからこそ、嘘っぽい。修辞法が修辞のための方法で終わっている。
そんな印象を受けるのは(abcの<意味>は変わらないのだから)、aの「より」「ばかり」という助詞のオノマトペ的な働きが、bcで失われてしまったからだということになる。

逆に言えば、aという俳句作品では、その中の「より」「ばかり」という言葉の音韻の響きあるいは見た目の文字面の印象が、読者の体感に<触感>として迫ってくる、ということだ。
「葉・むら(群)・より・逃げ・去る・ばかり・熟・蜜柑」という言葉の擦れ合い・重なり合い。この句の実在感、リアリティ、迫力、不気味さの秘密はそこに(も)ある。ラ行音のくねりながらの繰り返しが蛇のくねりのようにこの句に生動感を与え、「ばかり」の「ば」が頽廃といおうか「熟」の崩れに通じる量感を与え、座五の「熟蜜柑」の重さが一句全体の触感の錘として働く。その結果、一句全体が、言葉の上のフィクションを超えた確かな存在物の感触(その色、あるいは形状、実の表面の凹凸)を感じさせるものになっている。

そうしたオノマトペ的な<触感の機微>が、bやcでは失われているために、座五の「熟れ蜜柑」も、とってつけたような説明に堕している。薄っぺらいという印象はそこから来るのだろう。
むしろ、座五の季語を「熟」さないものに替えて、

e 葉むらから逃げ去りさうな青蜜柑

とでもすれば、bやcよりも<触感のつじつま>は合うが、今度は逆に「逃げ去」る感じがしなくなり、単なる奇を衒っただけの納得性・リアリティを失った措辞に堕してしまう。
(・・・でたらめにいじったのだが、dは、けっこうイケるような気もするが、どうだろうか?aよりは肌理のなめらかな「熟れ蜜柑」が見えてくる気も・・・。「から」「たくて」の明るさ・艶やかさ・切なさが、偶然、オノマトペとしてうまく機能しているのかもしれない・・・)

俳句作品における擬人法とは、まさにここがキモなのだ、と僕は考える。
つまり、体感に差し迫る、という意味での<触感>のリアリティの発生、だ。

僕たち人間が生きる上で、いのちがあるもの・動くものは、そうではないものに比べて、より深刻・切実に感じる対象となりうる。
無生物・動きのないもの・意志を持たないものが、意志を持って生物的に動くことは、それが僕たちのいのちを脅かす領域に侵入してきたということであり、それを恐い・不気味と(あるいは愛おしい・切ないと)体感するのが、僕たちにとって当然なのだ。

「逃げ去るばかり」は、理性的に<解釈>すれば「(本当はそうではないのだが)まるで逃げ去るように見える」ということになるのだが、俳句作品としては「逃げ去るばかり」という擬人法的な把握・表現による<生命感の迫り出し>がそのまま読者へ与える<触感>になっている、ということである。
「熟れ蜜柑」の<霊>を感じさせる、それがこの句の擬人法なのだ。

そして、俳句作品においては、「なぜそうなのか?」「だからどうなんだ?」といった、擬人法によって描写しようとしているものごとをめぐる説明など必要ない、のだ。
何かを表現するための手法としての擬人法ではなく、擬人法そのものを(鯛焼きにおける餡のように)中核にした一句。これを、ただただ味わい、快・不快を堪能すればよいのである。
それがすべて。これが、俳句作品なのである。

他の蛇笏の擬人法・直喩の句を、いくつか。
どれにも<霊>を僕は感じる。

雪山を匐ひまはりゐる谺かな
いきいきと細目かがやく雛かな
山寺の扉(と)に雲あそぶ彼岸かな
採る茄子の手籠にきゆァとなきにけり(←この句は、来夏に詳しく検討するつもりです)




























俳句の自然 子規への遡行 60 橋本直

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俳句の自然 子規への遡行 60

橋本 直
初出『若竹』2016年1月号 (一部改変がある)

子規は「切れ」の分類につづき、「は・ば・に・へ・と・ど・を・か・の・や・て・も」の十二字の句末の「止め」について収集、分類している。以下、これらについて概観する。

まず、「は止」は下位分類として、①「には=へは=とは」、②「名詞よりツヾク=春夏」、③「名詞よりツヾク=秋冬」、④上記以外に分けられている。まず①は十四句あるが、一種類ずつ例を引く。

  あら玉の馬も泥障を惜むには  嵐雪
  干瓢を太刀の尾にして都へは  自悦
  摘菜せし友を其の烟とは    也有

「泥障」は「あおり」と読む。鞍の下に敷く布で馬がはねる泥で衣服が汚れるのを防ぐもの。馬も新年には自ら泥汚れを惜しむ、という趣であろう。「には・へは・とは」に共通するのは、口語的に言いさして終わる表現になるということであるので、句末で余韻を残したり、言外に真意を匂わせようとすることになろう。②は八句③は九句ある。これも数例をあげる。

 ②花よりも猶芽独活の春の紅は   杉風
  卯の花に寒き日も有山里は   几董
 ③鐘つきよ階子に立て見る菊は  其角
  水音も鮎さびけりな山里は   嵐雪

杉風の句は変則的だが十七音。芽独活の紅さを花に勝ると賞したもの。其角の句は独特でわかりにくいが、鐘の撞かれる部分の模様を菊に、鐘全体の格子模様を階子に見立てたものかと思う。嵐雪句の「鮎さび」は「さび鮎(落ち鮎)」を動詞でつかったもの。「花の色はうつりにけりな~」の趣を鄙びた山里に置き換えたか。さらに、この形で思い出すのは、子規の句(「寒山落木」巻二所収)の「母の詞自ら句になりて」という前書きをもつ明治二十六年の作、

  毎年よ彼岸の入に寒いのは

であろう。つまり子規の母親から何気なく口をついてでた言葉が自然に俳句の形になっていたということで一句とされたものである。つまり、この形は先の場合同様、口語的になる傾向をもつのだが、同時に、「は」が主格を導く副助詞であることから、すべて倒置の句になっている。 

④は①~③以外で九句分類されているが、現在の文法の用法から見ると名詞に当たるものも含めて分類されている。例えば、

  麻にそふ荵冬よ離れ苦しさは  楚常 
  吉野のみか梅の杉田もこれは〱 吟江

一句目の「苦しさ」は、現在の文法では形容詞「苦しい」の名詞化した用法になる。二句目は「吉野の桜のみではなく、杉田の梅(現在の横浜市にあった梅の名所)も、これはこれは素晴らしいものだ」の意味。「これは〱」は、一語の感動詞ともとれるが、「これは」の連語であり「これ」は代名詞である。判断が微妙なところだが、子規は名詞ではないと判断したのであろう。その他を接続品詞ごとに例出すると、

  鯉もけふ伏見の桃に登るかは  亀世
  春雨や物読まぬ身のさりとては 虚白
  鶯の音にふくるゝか折々は   蓼太
  子やせがむ砧の音の乱るゝは  山之

一句目の「かは」は疑問の係助詞であろう。わかりにくい句だが、伏見の桃の花の見事さを流れる滝に見立てたもの。芭蕉の「我が衣に伏見の桃の雫せよ」(「野ざらし紀行」)を踏まえたものか。二句目「さりとて」は一語の接続詞。三句目の「折々」には名詞と副詞の用法があり紛らわしいが、倒置で「ふくるゝ」を修飾する副詞とみるのが妥当だろう。四句目の「乱るゝ」は動詞「乱る」の連体形。この句の上五の「子やせがむ」の形は係り結びだが、形の上では前回みた、上五に「や」があるが五音目ではないものにも該当するものの、子規はこの句をそこへ分類していない。後で係り結びにも関係する呼応の結びの分類がいくつかあるのだが、そちらにもなく、気がつかなかったのか、分かっていて後回しにするうちにそのままになったのかはわからない。

次に「ば止」めについて。子規は①「ば」の前の語の母音が「ア」か、②①以外かで下位分類を行っている。前者が十二句、後者が十三句である。まず①から数句例出する。

  夕立や田をみめぐりの神ならば  其角
  菊さきぬ母の此世にましまさば  朋水
  雪国へもうおいきやるかさらば〱 嘨山

「ば」も「は」と同様に倒置になる形であり、活用語がア母音の活用と接続するので、ほぼ仮定形の用法となる。一句目は「三圍雨乞」と前書。其角が干ばつの折、三圍(みめぐり)神社で雨乞いのためにこの句を詠んだところ、たちまち雨が降ったなどといういわくのある句でもある。二句目「ましまさば」は「いらっしゃるとしたら」。普通の仮定形だが、古歌の反実仮想を意識しているかもしれない。三句目は例外的なものであり、別れの言葉「さらば」で終わるために、仮定形ではない。次に②も数句引く。

  夏ながら五条につゞく山なれば  乙由
  魨汁やさて火をともしよく見れば 子曳

こちらは活用語の已然形に「ば」がつく順接確定条件の用法となり、分類句ではすべて原因理由の意味であった。

週刊俳句 第557号 2017年12月24日

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第557号
2017年12月24日



上田信治 朝はパン 10句 ≫読む

福田若之 パサージュの鯨 10句 ≫読む
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肉化するダコツ④
葉むらより逃げ去るばかり熟れ蜜柑……彌榮浩樹 ≫読む

俳句の自然 子規への遡行 60……橋本 直 ≫読む

【週俳11月の俳句を読む】
大塚凱 異変 ≫読む

……………………………………………
村田 篠 握手 5句 ≫読む

西原天気 抱擁 5句 ≫読む

岡田由季 接吻 5句 ≫読む
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中嶋憲武西原天気の音楽千夜一夜】
第31回 アーサ・キット「サンタ・ベイビー」 ≫読む

〔今週号の表紙〕第557号 港の夕陽……西原天気 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……福田若之 ≫読む


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

後記+プロフィール 558号

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後記 ◆ 岡田由季


いよいよ、大晦日ですね。

2017年最終号の、週刊俳句をお届けします。今年も一年間、ご愛読ありがとうございました。

個人的には、2017年後半から週刊俳句の当番に加わり、初めての年末年始を迎えることになりました。2018年新年は、続々と届く新年詠に、お正月気分を味わうことになるのでしょうか。楽しみなような、怖いような……。いえいえ、楽しみです。

実は最初に当番の打診があった時、週俳には意欲的な若手メンバーがいるのに、自分のような、マイペースに俳句と向き合っている者が役に立つのか不安で、少し悩みました。けれど、週刊俳句は、確かに意欲的な若手のものでもあるけれど、そうではない、様々なスタンスの俳句愛好者のものでもあると思いなおし、とりあえずやってみることにしました。

まだ参加して半年で、これと言って何をしたわけでもないですが、いろいろな方に刺激を受け、楽しく過ごすことができています。自分の適性や能力に無いことをしようとしても上手くはいきませんから、これからも、自分にできる範囲で関わっていければと思っています。

それでは皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.558/2017-12-31 profile

■佐藤文香 さとう・あやか 1985年生まれ。句集『海藻標本』『君に目があり見開かれ』。blog「さとうあやかとボク」  

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」

福田若之 ふくだ・わかゆき 
1991年東京生まれ。「群青」、「オルガン」に参加。句集に『自生地』(東京四季出版、2017年)。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。 


■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ「続ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記」
 
西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter



〔今週号の表紙〕第558号 アンモナイト 岡田由季

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〔今週号の表紙〕
第558号 アンモナイト

岡田由季


アンモナイトの化石は、たいていの方がご覧になったことがあり、見れば「ああ、アンモナイトだな」と判るのではないでしょうか。

けれど、その身の部分(軟体部?)は、ほとんど残っていないそうですね。イカのように泳ぐ姿のイラストを見かけることがありますが、それも想像図でしかないようです。

実物を見たら、江戸時代の絵師が想像で描いた 虎のように、近い、けれど惜しい、ということになるのかもしれません。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 第32回 バーナード・ハーマン「サイコ組曲」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
第32回 バーナード・ハーマン「サイコ組曲」



憲武●今年も終わろうとしていますねえ。

天気●ますねえ。

憲武●大晦日にはオーケストラが相応しいかと。

天気●はい。そうですよね。このところ毎年楽しみにしているのが、元日のNHKでやるウィーン・フィルのコンサート。あれ、時差のせいで、新春ということになってるけど、実際にはジルベスター(大晦日)コンサートなんですよね。

憲武●ということでバーナード・ハーマンの「サイコ組曲」です。



憲武●バーナード・ハーマンはアメリカの作曲家で、主に映画音楽を手がけた人です。オーソン・ウェルズの「市民ケーン」からマーティン・スコセッシの「タクシードライバー」まで幅広く手がけてます。とりわけアルフレッド・ヒッチコックとの関係で有名ですね。

天気●「市民ケーン」が1941年、「タクシードライバー」が1976年ですから、じつに35年間、第一線だったわけです。

憲武●この曲、フルストリングスのオーケストラですね。改めてこの映像を観て、意外な感じがしました。すべて弦楽器のみで演奏されてたことが。

天気●映画音楽の細部までは記憶にないですからね。

憲武●印象的な流れるようなストリングスが美しいです。

天気●はい。

憲武●「サイコ」は1960年の映画で、当時としては珍しく、途中入場禁止の映画だったんですね。今では当たり前の完全入替制の方式を取った。それほどヒッチコックが予備知識なしで観てほしい映画なんですね。

天気●むかしは映画の途中でバンバン入場してましたね。

憲武●退場もバンバンしてました。途中入場して観たところまで観て出るっていう。曲の後半で、高音を短くキュインキュインと演奏するところは、有名なシャワー室のシークエンスに使用されてます。

天気●「サイコ」といえば、あのシーン。

憲武●フランソワ・トリュフォーがインタビューしたヒッチコックの『映画術』(1981年/晶文社)によると、ジャネット・リーの拘束期間が3週間だったそうで、シャワー室のたった45秒のシークエンスのために一週間かけて撮影してます。なんと三分の一の時間をかけて撮影されてるんです。

天気●おお! 名シーンとして後世に残ることを確信していたかのような!

憲武●カメラのポジションも70回変えたと、ヒッチコックが誇らしげに語ってます。細部へのこだわりが名作を生むんですね。

天気●カメラマンはじめスタッフは大変だ。

憲武●そうです。照明から音声からすべて一緒に動きますからね。バーナード・ハーマンは、これだけ質の高い作品を仕上げていながら、作曲賞が一回だけとアカデミー賞には、あまり縁がなかったんです。ハーマンの芸術家としての志しとは裏腹に、世間では映画音楽はよくて当然という見方をしていた。本人にとってみればこれはツラいですよ。

天気●1941年に「悪魔の金」で受賞して、それっきりなんですね。ちなみに、前年受賞のアルフレッド・ニューマンは、ランディ・ニューマンの伯父さんです。

憲武●1975年の暮れに「タクシードライバー」の仕事でロスアンジェルスのスタジオに立ち寄った時、スピルバーグが表敬訪問に来て、バーナード・ハーマンの音楽を褒め称えたそうなんですが、これを聞いたハーマンは、「だったら君はどうしてジョン・ウィリアムズばかり使うんだ!」と怒鳴ったそうです。この言葉、ハーマンの心の中の様々な鬱憤ややるせなさや怒りが現れてると思います。

天気●そんなこと言うからじゃないですか(笑)。気難しい人だったのかな?

憲武●正直というか大人気ないというか。で、録音を終えたあと、ホテルの部屋で心臓発作で亡くなるんです。ひとりで。バーナード・ハーマンってねぇ。と、様々なことを思いつつ、よいお年を!

天気●ええぇ! そんな悲しく、やるせない話で終わる? よいお年を! 憲武さんもみなさんも。



(最終回まで、あと969夜) 
(次回は西原天気の推薦曲)

週刊俳句2017年アンソロジー 61名61句

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週刊俳句2017年アンソロジー 
6161


みづかきの昏さにたんぽぽの綿毛  青本瑞季  第524号

外套のボタンの取れし日のニュース  青柳 飛  第508号

虫籠の中の日暮や爪楊枝  生駒大祐  第526号

茅舎忌の天象儀から光の粒  伊藤蕃果  第544号

朝はパン飛んでゐる白鳥を見る  上田信治  第557号

晩春の唾液を溜めるかたつむり  丑丸敬史  第516号

ちぎれそうな月が男の上にあり  上森敦代  第547号

関節の音立てている立葵  岡田耕治  第537号

湯ざめしてキシワダワニとなる背中  岡田由季  第557号

ひよこやめなくてよろしい四畳半  岡村知昭  第511号

あたたかき指もて拾ふ朴落葉  小関菜都子  第508号

引き鶴を仕込みし甕にござりけり  小津夜景  第521号

富有柿対角線の走りけり  小野あらた  第551号

空蟬がゐて被爆樹の添木かな  樫本由貴  第537号

おほさじの砂糖を均す昭和の日  上川拓真  第522号

鶴眠る紅絹の色なる夢を見て  岸本由香  第554号

チューリップにやにや笑う星野源  木田智美  第518号

暖房のゆるく実験控え室  桐木知実  第554号

何度でも切られてままごとの人参  西生ゆかり  第509号

くちびるをたどりて冬の森のなか  西原天気  第557号

文明や野焼を遠くキスをして  坂入菜月  第513号

屑籠に捨て風船やなほも浮く   榮 猿丸  第515号

大きくて軽くて遠足の鞄  阪西敦子  第526号

けさらんぱさらん黒くない外套を着て  佐藤智子  第515号

枯草の隙間を細く氷りけり  佐藤文香  第526号

枯れ草や日差しは白くなる琵琶湖  柴田 健  第553号

船酔ひののこるからだに蝶の影  杉山久子  第526号

あをぞらは花鳥を育て神の留守  鈴木総史  第555号

朝霧は置き傘の柄に及びをり  鈴木陽子  第541号

亜細亜にてマネキン並び黴び始む  関 悦史  第521号

そとうみに澪の失せたる薊かな  瀬名杏香  第520号

おぼろ夜の浴槽ほそながい画集  高橋洋子  第531号

旧暦一月六日
ゆふぎりき たれ を なには の ゆめ で まつ  高山れおな  第526号

廃屋をこはさぬやうに照らす月  滝川直広  第556号

歯科衛生士野村さんとの関係性  瀧村小奈生  第510号

卯の花くたし面会謝絶の兄へ羽音  竹岡一郎  第535号

鶯が浴室うずまきのホテル  田島健一  第514号

天井へとどく棚の書夜の蟬  柘植史子  第538号

家ありて町の始まる落し水  豊永裕美  第541号

空想科学小説おでん煮てくださる  中嶋憲武  第511号

狐から鍵をもらつてゆつくり回す  中村安伸  第509号

栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟  第551号

春雪のやうにペンネームを使ふ  野住朋可  第514号

進めなめくじ芸術はお前のために  野名美咲  第523号

錠剤の刻印文字のおぼろにて  伴場とく子  第517号

去る鯨焚書の火がたわむからむ  福田若之  第557号

鴨川の澄んで何となく平凡  藤井なお子  第548号

うつくしき帯を垂らしてみせ朧  藤本る衣  第512号

篁に蜂あつまりて濃うなりぬ  堀下 翔  第519号

フラメンコスタジオに置かれた兎  松井真吾  第554号

爪を切るあいだ背中にある泉  三宅桃子  第539号

手袋を脱いで握手のあたたかき  村田 篠  第557号

青空の青が剝がれる烏瓜  牟礼 鯨  第545号

鳶色に地球は老いぬ女郎蜘蛛  森澤 程  第543号

陶土あたためる向かひに山眠る  安岡麻佑  第552号

首都おのが光に照りぬ秋の雨  柳元佑太  第542号

黙読のときにほほ笑む夜長かな  矢野公雄  第540号

あたらしい記憶きつと鶫だらう  山岸由佳  第546号

夏痩せの妻と喧嘩や殴らねど  山口優夢  第539号

にんげんに育つて浮いて秋の岸  山田耕司  第526号

臘月の日にあらはれし蚊それから  依光陽子  第526号


(西原天気・謹撰)

2018年 新年詠 大募集

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2018年 新年詠大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2018年11日(月)0:00~15日(金) 24:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

第2回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ

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第2回 円錐新鋭作品賞作品募集のお知らせ

未発表の俳句作品20句をお送りください(多行作品は10句)。
今年は20句を対象とします。ご注意ください!
締め切り2018年215日(木)

年齢・俳句歴の制限はありません。

受賞作品は「円錐」77号(2018年4月末日刊行予定)に掲載。

選者
澤 好摩
山田耕司
樋口由紀子(川柳作家)

35句全体での賞はもちろん、1句がとびぬけて面白いなどという場合のための賞も用意する予定。

宛先 「円錐編集部」 kojikojiyamada@gmail.com

ホームページ http://ooburoshiki.com/haikuensui/

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