↧
2016「石田波郷新人賞」落選展 1. 鯨 青木ともじ
↧
2016「石田波郷新人賞」落選展 2. こゑなく 樫本由貴
2016「石田波郷新人賞」落選展
2. こゑなく 樫本由貴
一日の明易きこと耳鳴りす
この夏の木に窪があり木が匂ふ
連れ立ちて茂りを過ぎぬたましひも
はつ夏を来て風のなき飛行場
あぢさゐのいつもむかうに見えにけり
雲ひとすぢ瞼すゞしく歩む馬
その中のものみな薄し梅雨の部屋
茄子が吸ふ油にけふの夕陽かな
冬瓜を入れて都会の鍋狭し
口笛や秋光荒き川ほとり
秋の野へ汽車を知らざる子供たち
沿線へカンナ咲かせて雨の家
初時雨きのふの酒を吐きにけり
手袋の何を待つともなく毛玉
そここゝに寒椿ある朝の闇
おそ春の花を購ふ暮らしかな
血は流れ水は溜まつて春の癌
乳呑み子のこゑなく遊ぶ日永かな
平成を菜飯の塩の輝きぬ
読み捨てて本はベッドに鳥雲に
●
●
2. こゑなく 樫本由貴
一日の明易きこと耳鳴りす
この夏の木に窪があり木が匂ふ
連れ立ちて茂りを過ぎぬたましひも
はつ夏を来て風のなき飛行場
あぢさゐのいつもむかうに見えにけり
雲ひとすぢ瞼すゞしく歩む馬
その中のものみな薄し梅雨の部屋
茄子が吸ふ油にけふの夕陽かな
冬瓜を入れて都会の鍋狭し
口笛や秋光荒き川ほとり
秋の野へ汽車を知らざる子供たち
沿線へカンナ咲かせて雨の家
初時雨きのふの酒を吐きにけり
手袋の何を待つともなく毛玉
そここゝに寒椿ある朝の闇
おそ春の花を購ふ暮らしかな
血は流れ水は溜まつて春の癌
乳呑み子のこゑなく遊ぶ日永かな
平成を菜飯の塩の輝きぬ
読み捨てて本はベッドに鳥雲に
●
↧
↧
2016「石田波郷新人賞」落選展 3. 心にも 黒岩徳将
↧
2016「石田波郷新人賞」落選展 4. 光 新藤生糸
↧
2016「石田波郷新人賞」落選展 5. 死してなほ 森優希乃
2016「石田波郷新人賞」落選展
5. 死してなほ 森優希乃
残雪やポストへひかり入れてやる
心臓のまづ生まれたる春霞
卒業の朝をはかれる水平器
春滝へ着くまで大樹しか触れぬ
死してなほ象舎へ入らんと落花
誕生はずぶ濡るること夏の星
たちまちに影遅れ出す蜥蜴かな
雨に気付いてほうたるを見失ふ
水中花今も化石の生まれゆく
夕立のおはりを知つてゐる遊具
空蝉のいまだに羽化を待つかたち
風となり切れぬ糸瓜のかるさかな
台風来大樹のやうな弦楽器
胃カメラのどこまで至りたる無月
長電話檸檬をもう一度絞る
木枯や麻酔もうすぐ消えるやう
いま鳥の留まつたらうか風邪の部屋
焼藷を剥き終へ指の淋しなる
書初の並べて干されゐる呼吸
夜の雨閉ぢ込め蝋梅の眩し
●
●
5. 死してなほ 森優希乃
残雪やポストへひかり入れてやる
心臓のまづ生まれたる春霞
卒業の朝をはかれる水平器
春滝へ着くまで大樹しか触れぬ
死してなほ象舎へ入らんと落花
誕生はずぶ濡るること夏の星
たちまちに影遅れ出す蜥蜴かな
雨に気付いてほうたるを見失ふ
水中花今も化石の生まれゆく
夕立のおはりを知つてゐる遊具
空蝉のいまだに羽化を待つかたち
風となり切れぬ糸瓜のかるさかな
台風来大樹のやうな弦楽器
胃カメラのどこまで至りたる無月
長電話檸檬をもう一度絞る
木枯や麻酔もうすぐ消えるやう
いま鳥の留まつたらうか風邪の部屋
焼藷を剥き終へ指の淋しなる
書初の並べて干されゐる呼吸
夜の雨閉ぢ込め蝋梅の眩し
●
↧
↧
2016「石田波郷新人賞」落選展 6. 水路 柳元佑太
↧
2016「石田波郷新人賞」落選展 7. パスタの光 若林哲哉
↧
評論で探る新しい俳句のかたち(3) 近代俳句と現代俳句の違いを20字以内で説明しなさい、的な 藤田哲史
評論で探る新しい俳句のかたち(3)
近代俳句と現代俳句の違いを20字以内で説明しなさい、的な
藤田哲史
よく似ている2つの俳句がある。
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太
蟹歩き亡き人宛てにまだ来る文 波多野爽波
かたや「前衛」、かたや「伝統」の枠で捉えらえる俳人だけれど、死を主題として「蟹」を鍵に終末的なイメージを与える点でよく通じあっている。ともに大正生まれで、昭和の東京オリンピック開催前、「労働者の権利」「組合」という言葉がしっかりと効きめがあった(であろう)時代の作品。
金子兜太は「俳句造型論」で知られる前衛俳句の旗手の1人。社会性の強い作品は他にもあって、掲出句のほか「銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく」もその1つだろうか。いっぽう虚子門下で、「俳句スポーツ説」「多作多捨」で知られる波多野爽波は、鍛錬による作句を意識して創作に向かった。昭和30年代ごろ前衛俳句作家たちと交わっていたからか、その影響もあるのだろうか。ちなみに金子兜太の「蟹」は、昭和30年刊行の『少年』に収録されていて、波多野爽波の「蟹」は昭和35年の作。波多野爽波に発想の出どころをぜひ訊ねてみたかった。
実のところ、構造から言えば、金子兜太の作品であっても、波多野爽波の作品であっても、近代俳句らしさなど微塵もない。「蟹」という季語とのいわゆる「取り合わせ」は、はっきりと現代俳句らしい構造をもっている。
(この2句以外にも昭和30年代とそれ以降の作品を詳細に見ていけば、ここに挙げた俳句構造が、派閥を問わず現在の俳句に受け継がれていっていることがわかるのだけれど、その説明はここでは省いておきたい)
近代俳句と現代俳句の違いを、かなりかなり大ざっぱに断定してしまえば、構造により詩性を表す意図があるか否かにある。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
流れゆく大根の葉の早さかな 高濱虚子
夏草に汽罐車の車輪来て止る 山口誓子
あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ 三橋敏雄
河東碧梧桐の印象明瞭な作品が近代俳句の代表格で、「写生」という文脈なしに作品を当たっていけば、三橋敏雄の作品のような新興俳句の作家たちの作品も含められるかもしれない。おそらく彼らの目指した詩性に(もちろん目指すところは各々に違いはあったろうけれど)「取り合わせ」による俳句らしさは必須でもなんでもなく、「取り合わせ」なしでも近代俳句を語ることができるだろう。
彼らは措辞に細心を注意を払ったし、内容以上の詩性の存在も信じていただろう。けれど、構造そのものに俳句の新しさがある、なんてことはほとんど意識していなかったんじゃなかろうか。
万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり 奥坂まや
2005年刊行の句集にあるこの作品も、「前衛俳句」とその時代が構造による詩性の表現を発見しなければ、まったく理解されないことになっていたんでは、と思うのです。つくづく。
誤解しないでほしいのは、近代俳句を貶める気は全くないということだ。むしろ、俳句のハウツー本を読めば必ずといっていいほどどの本にも載っている「取り合わせ」が、今、あまりにも当たり前の技術になってしまっているがために、本当に表現に必須のものかどうかを問う機会があまりに少ないんじゃなかろうか。俳句即季語とその他の言葉の取り合わせ、もいい。けれど、それだけでもない。そういったことを近代俳句の秀句たちは改めて教えてくれる。
近代俳句と現代俳句の違いを20字以内で説明しなさい、的な
藤田哲史
よく似ている2つの俳句がある。
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太
蟹歩き亡き人宛てにまだ来る文 波多野爽波
かたや「前衛」、かたや「伝統」の枠で捉えらえる俳人だけれど、死を主題として「蟹」を鍵に終末的なイメージを与える点でよく通じあっている。ともに大正生まれで、昭和の東京オリンピック開催前、「労働者の権利」「組合」という言葉がしっかりと効きめがあった(であろう)時代の作品。
金子兜太は「俳句造型論」で知られる前衛俳句の旗手の1人。社会性の強い作品は他にもあって、掲出句のほか「銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく」もその1つだろうか。いっぽう虚子門下で、「俳句スポーツ説」「多作多捨」で知られる波多野爽波は、鍛錬による作句を意識して創作に向かった。昭和30年代ごろ前衛俳句作家たちと交わっていたからか、その影響もあるのだろうか。ちなみに金子兜太の「蟹」は、昭和30年刊行の『少年』に収録されていて、波多野爽波の「蟹」は昭和35年の作。波多野爽波に発想の出どころをぜひ訊ねてみたかった。
実のところ、構造から言えば、金子兜太の作品であっても、波多野爽波の作品であっても、近代俳句らしさなど微塵もない。「蟹」という季語とのいわゆる「取り合わせ」は、はっきりと現代俳句らしい構造をもっている。
(この2句以外にも昭和30年代とそれ以降の作品を詳細に見ていけば、ここに挙げた俳句構造が、派閥を問わず現在の俳句に受け継がれていっていることがわかるのだけれど、その説明はここでは省いておきたい)
近代俳句と現代俳句の違いを、かなりかなり大ざっぱに断定してしまえば、構造により詩性を表す意図があるか否かにある。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
流れゆく大根の葉の早さかな 高濱虚子
夏草に汽罐車の車輪来て止る 山口誓子
あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ 三橋敏雄
河東碧梧桐の印象明瞭な作品が近代俳句の代表格で、「写生」という文脈なしに作品を当たっていけば、三橋敏雄の作品のような新興俳句の作家たちの作品も含められるかもしれない。おそらく彼らの目指した詩性に(もちろん目指すところは各々に違いはあったろうけれど)「取り合わせ」による俳句らしさは必須でもなんでもなく、「取り合わせ」なしでも近代俳句を語ることができるだろう。
彼らは措辞に細心を注意を払ったし、内容以上の詩性の存在も信じていただろう。けれど、構造そのものに俳句の新しさがある、なんてことはほとんど意識していなかったんじゃなかろうか。
万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり 奥坂まや
2005年刊行の句集にあるこの作品も、「前衛俳句」とその時代が構造による詩性の表現を発見しなければ、まったく理解されないことになっていたんでは、と思うのです。つくづく。
誤解しないでほしいのは、近代俳句を貶める気は全くないということだ。むしろ、俳句のハウツー本を読めば必ずといっていいほどどの本にも載っている「取り合わせ」が、今、あまりにも当たり前の技術になってしまっているがために、本当に表現に必須のものかどうかを問う機会があまりに少ないんじゃなかろうか。俳句即季語とその他の言葉の取り合わせ、もいい。けれど、それだけでもない。そういったことを近代俳句の秀句たちは改めて教えてくれる。
↧
2016「石田波郷新人賞」落選展 8. 背に 吉川創揮
↧
↧
【八田木枯の一句】雪來るか星のひかりに抱かるる星 西原天気
【八田木枯の一句】
雪來るか星のひかりに抱かるる星
西原天気
雪來るか星のひかりに抱かるる星 八田木枯
恒星と惑星の関係と読むこともできるが、隣り合った星と星、夜空を眺めて感得されたものと読みたい。
空を見上げているその視線であれば、「來る」の語の選択は的確(雪は空から「来る」のだ)。
下は、五音にもできるが、六音。ここにもはからいがある。
調べ(音だけを言うのではない。意味と音の交響)をしつらえるための配慮が、句のそこここに見える。
ポッと出てくる句の愉しみも、俳句にはあるが、句の素(もと)が出てきてから一句に定着するまでを、理と情をもって、きちんと制御する。八田木枯は、つねにそれができる作家だったと思う。
掲句は『雷魚』第7号(汗馬楽鈔周辺)より。
雪來るか星のひかりに抱かるる星
西原天気
雪來るか星のひかりに抱かるる星 八田木枯
恒星と惑星の関係と読むこともできるが、隣り合った星と星、夜空を眺めて感得されたものと読みたい。
空を見上げているその視線であれば、「來る」の語の選択は的確(雪は空から「来る」のだ)。
下は、五音にもできるが、六音。ここにもはからいがある。
調べ(音だけを言うのではない。意味と音の交響)をしつらえるための配慮が、句のそこここに見える。
ポッと出てくる句の愉しみも、俳句にはあるが、句の素(もと)が出てきてから一句に定着するまでを、理と情をもって、きちんと制御する。八田木枯は、つねにそれができる作家だったと思う。
掲句は『雷魚』第7号(汗馬楽鈔周辺)より。
↧
あとがきの冒険 第16回 コンセプト・ピンク・ビクトリー 山田航『桜前線開架宣言』のあとがき 柳本々々
あとがきの冒険 第16回
コンセプト・ピンク・ビクトリー
山田航『桜前線開架宣言』のあとがき
柳本々々
コンセプト・ピンク・ビクトリー
山田航『桜前線開架宣言』のあとがき
柳本々々
山田航さんの現代短歌アンソロジー『桜前線開架宣言』についてはこれまで何度か書いてきたのでこれまでのものとは少し違う話をしてみようと思う。
いつも現代短歌を読むときに、うーんどこから出発したらいいんだろう、と思ったときはこの山田さんの本を取り出してくるのだが、この本の構成でひとつおもしろいのが、各歌人のサブタイトルとしてその歌人の短歌の上の句や下の句を《そのまま》使っているということだ。
たとえば中澤系さんの章のサブタイトルは「理解できない人は下がって」。これは中澤さんの歌である「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」の下の句を《そのまま》抜いたものだが、《そのまま》抜くだけでその歌人のコンセプトが《わかってしまう》というのはひとつの〈発見〉だと思う。だから、中澤系さんのコンセプトはたとえばこうだ。《わたしの短歌が理解できない人は下がって》。
短歌というものは、ある一部分を《適切に/恣意的に》抜き出せば、その歌人のコンセプトを一挙に引き出すことができる(場合がある)。それがわたしがこのアンソロジーから学んだことのひとつである。
前回の八上桐子さん達の〈時実新子アンソロジー〉でも述べたことだけれど、アンソロジーには編者の〈偏愛〉がなければ、読者は問いかけられないのではないかと、思うことがある。その意味で、〈編者〉は《偏者》なのである。そして偏愛をもった偏者/編者は読者にも偏愛をもって読んでもらおうとする。偏ってもらうために。そしてその偏りを吟味してもらうために。その意味で、〈偏り〉はあなたの氷った海を砕く斧になる。
その意味で本書は各歌人のコンセプトをきちんと提示している。だから読者は吟味することができる。中澤系さんのコンセプトはそうかもしれない、そうじゃないかもしれないと。そういう読者のあらかじめの期待を宙づりにしてこそのアンソロジーだとも、おもうのだ。
だからショッキング・ピンクの刺すような色の本書の表紙はあなたを《まずもって》試しているのかもしれない。わたしはこういう本です。偏っています。でもその偏りのなかであなたに感じてほしいものがある。こちらも本気です。読みますか、と。
わたしは読んだ。あなたは、どうするか。
そうだ。あとがきをまだ引用していなかった。だから本アンソロジーの「あとがき」の最後の一文を引用して今回の文章を終わりにしよう。この「あとがき」の最後の一文を読んでいろんなことを考えるはずだ。少なくともわたしは考えた。いろんな《偏り》のことを。「勝ち」負けとはなにかを。「二十一世紀」とはなにかを。アンソロジーは《あえて》あなたを挑発し、試す。そしてあなたに《価値判断》を問う。
いつも現代短歌を読むときに、うーんどこから出発したらいいんだろう、と思ったときはこの山田さんの本を取り出してくるのだが、この本の構成でひとつおもしろいのが、各歌人のサブタイトルとしてその歌人の短歌の上の句や下の句を《そのまま》使っているということだ。
たとえば中澤系さんの章のサブタイトルは「理解できない人は下がって」。これは中澤さんの歌である「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」の下の句を《そのまま》抜いたものだが、《そのまま》抜くだけでその歌人のコンセプトが《わかってしまう》というのはひとつの〈発見〉だと思う。だから、中澤系さんのコンセプトはたとえばこうだ。《わたしの短歌が理解できない人は下がって》。
短歌というものは、ある一部分を《適切に/恣意的に》抜き出せば、その歌人のコンセプトを一挙に引き出すことができる(場合がある)。それがわたしがこのアンソロジーから学んだことのひとつである。
前回の八上桐子さん達の〈時実新子アンソロジー〉でも述べたことだけれど、アンソロジーには編者の〈偏愛〉がなければ、読者は問いかけられないのではないかと、思うことがある。その意味で、〈編者〉は《偏者》なのである。そして偏愛をもった偏者/編者は読者にも偏愛をもって読んでもらおうとする。偏ってもらうために。そしてその偏りを吟味してもらうために。その意味で、〈偏り〉はあなたの氷った海を砕く斧になる。
要するに私は、読者である我々を大いに刺激するような書物だけを読むべきだと思うのだ。我々の読んでいる本が、頭をぶん殴られた時のように我々を揺り動かし目覚めさせるものでないとしたら、一体全体、何でそんなものをわざわざ読む必要があるというのか?……本当に必要なのは、ものすごく大変な痛々しいまでの不幸、自分以上に愛している人物の死のように我々を打ちのめす本、人間の住んでいる場所から遠く離れた森へ追放されて自殺する時のようなそんな気持ちを抱かせる本なのだ。書物とは、我々の内にある凍った海原を突き刺す斧でなければならないのだ、そう僕は信じている。(フランツ・カフカ「友人オスカー・ポラックに宛てた書簡」1904年)「頭をぶん殴」り「打ちのめ」し「追放」する〈偏り〉からこそ、いつも新しい地平が生まれるのではないか。わたしたちは〈未来の復習〉をするためにアンソロジーを読むのではなくて、〈過去の予習〉をするためにアンソロジーを読むのだから。
その意味で本書は各歌人のコンセプトをきちんと提示している。だから読者は吟味することができる。中澤系さんのコンセプトはそうかもしれない、そうじゃないかもしれないと。そういう読者のあらかじめの期待を宙づりにしてこそのアンソロジーだとも、おもうのだ。
だからショッキング・ピンクの刺すような色の本書の表紙はあなたを《まずもって》試しているのかもしれない。わたしはこういう本です。偏っています。でもその偏りのなかであなたに感じてほしいものがある。こちらも本気です。読みますか、と。
わたしは読んだ。あなたは、どうするか。
そうだ。あとがきをまだ引用していなかった。だから本アンソロジーの「あとがき」の最後の一文を引用して今回の文章を終わりにしよう。この「あとがき」の最後の一文を読んでいろんなことを考えるはずだ。少なくともわたしは考えた。いろんな《偏り》のことを。「勝ち」負けとはなにかを。「二十一世紀」とはなにかを。アンソロジーは《あえて》あなたを挑発し、試す。そしてあなたに《価値判断》を問う。
二十一世紀は短歌が勝ちます。(山田航「あとがき」『桜前線開架宣言』左右社、2015年 所収)
↧
ボブ・ディランと俳句 平山雄一
ボブ・ディランと俳句
平山雄一
ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞のニュースを聞いて、とても嬉しかった。僕はディランの長年のファンであり、最も影響を受けたアーティストだからだ。
ただし、高校時代に初めてディランを聞いたときは、歌詞の難解さに圧倒された。アメリカ人でさえディランの歌詞は分かりにくいと言われているので、日本の高校生にとっては当然のことだった。しかし音楽が有り難いのは、言葉の意味が分からなくても、ディランが人生の真実を歌っていることが僕にも直感できたことだった。
そうして今回、受賞を機にディランを聴き直してみて発見したのは、ディランの歌を俳句を読むつもりで聴いてみると、高校時代より遥かに身近に感じられたことだった。驚くことにディランの歌と俳句には多くの共通点があり、それをよすがに聴くと、高校生のときには気付かなかったディランの歌の面白さや深さがわかるようになっていた。
なので、もしノーベル賞をキッカケにディランに興味を抱いた俳人がいるのなら、ディランの歌を俳句で読み解いてみることを勧めたい。俳人は、俳句に触れたことのない人よりずっと早くディランの本質に迫ることができると思う。
これまでのノーベル賞受賞者の大半は、密室で作業する研究者や文学者で占められてきた。だがディランは75歳になる今も精力的にコンサート・ツアーを行なっていて、大勢の人の前でのライブ・パフォーマンスを続けている。これだけ多くの人々から拍手喝采を受けたノーベル賞受賞者は、前代未聞だろう。
聴衆がいないと成立しないのは、ポピュラー音楽の宿命だ。そして俳句もまた、鑑賞者がいて初めて成り立つ文芸である。ポピュラー音楽家は、「伝わらなくてもいい」や「わかってもらわなくていい」という立場は絶対に取らない。俳人も同じである。だからこそ俳人に、ディランの歌に触れてほしいと思う。
俳句とディランの共通点は、まず歌詞も俳句も韻文であることだ。簡潔な表現の中に膨大な情報量を蔵し、飛躍するイメージを韻(ライム)の力で聴き手の脳内に定着させることができる。
また、ディランの歌詞も俳句も、結論を言わないところで成り立っている。ディランの有名な「風に吹かれて」のサビは、♪答は風に吹かれている♪と結ばれている。歌の内容をどう受け取るかを、聴き手(読み手)に委ねている。その結果、混沌や不在といった“世の中の深淵”を描くことに成功している。
月いづこ鐘はしづみて海の底 松尾芭蕉
江戸時代の俳句としては、超モダンな響きがある。「月」も「鐘」も見えないのに、この二つの物が“海の底”で確かに出会っている。こうした描写が、ディランにもある。♪誰も痛みを感じない。今夜、俺が雨の中に立ちつくしていても♪(「Just Like a Woman=女の如く」より)は、芭蕉の描いた“不在の感覚”に非常に近い。
ディランはシュルレアリスムの詩からの影響が強いとされている。ロートレアモンの「解剖台の上での、ミシンとこうもり傘の偶発的な出会い」という有名なフレーズは、企業や個人名鑑の広告欄からランダムに抜き出された言葉で構成したとされているが、その作詩の方法にディランが挑戦した映像が残されている。
若い頃のディランを撮ったドキュメント映画『ノー・ディレクション・ホーム』(2005年公開 マーティン・スコセッシ監督)には、街に立ち並ぶ広告看板からディランが即興で詩を読み取っていくシーンが収められている。
「求む/タバコを売る店」
「求む/犬をシャンプーして送り届けてくれる店」
「求む/手数料で動物や小鳥の売買をする店」
これらの看板を前に、ディランは即興で詩を組み立てる。
「風呂を洗い、タバコを届けてくれる人/大募集」
「動物にタバコを/小鳥に手数料を」
と次々に読み替えていく。
これらの機知に富んだフレーズは、ディランの歌詞の中でよく見かけるタイプのものだ。
そして俳句にも、こうした“物と物とのぶつかり合い”の句が多くある。
渡り鳥見えますとメニュー渡さるる 今井聖
大きな湖のそばのレストランでの句だろうか。渡り鳥とメニューの出会いが、意外でもあり、新鮮でもある。解釈はすべて読み手に委ねられ、句の中には結論も説明もない。意外さと新鮮さが同居しているのは、ディランの「動物にタバコを/小鳥に手数料を」の手法に似ている。それこそ「渡り鳥にメニューを」と読み替えたくなる一句だ。
今井聖はシュルレアリスムの俳人ではないが、一見関連性のない事象から詩(ポエジー)を読み取る方法論には、ディランとの共通性を感じる。その他、聖の句には「日が差してをり刈田からピアノまで」、「鰐の背に日の当たりをり風邪兆す」、「乾鮭の眼窩に星を嵌めて寝る」などがあり、リアルでありながらディランと似た超然とした響きがある。
ディランの初期の傑作に「I Want You=アイ・ウォント・ユー」という曲がある。その歌い出しはこうだ。
♪やましい葬儀屋はため息をつく 淋しい手回しオルガン弾きは泣く 銀のサキソフォンは君を断るべきだと言う ひび割れたベルと洗いざらしのホーンは僕の顔に軽蔑を吹きつける 君を失うために僕は生まれて来たんじゃない 君が欲しい 君が欲しい♪。
ディランは“I Want You”のひと言を伝えるために、葬儀屋やサキソフォンを動員して混沌を演出する。意味のありそうでなさそうな語の連なりが、突然“君が欲しい”というテーマに集約される。“I Want You”は、論理的に導かれた結論ではない。いきなりテーマとして放り出されている。井上陽水の「傘がない」は、これとよく似た手法を取っている。
関係性のよくわからない情景描写の後に、歌の核心となるテーマを突然さらけ出す手法は、“人に受ける”ことを前提としたポップソングを作る上で有効なやり方だ。そして、一見無関係な情景描写に、作家の個性が出る。ディランも陽水も、情景描写とテーマに関係性があるかないかに関して、俳句でいう「付く・付かない」と同じ判断基準を用いているように思われる。
コスモスなどやさしく咲けど死ねないよ 鈴木しづ子
は、“死ねないよ”を伝えるために、直接は関連性のないコスモスを描いている。読み手に自分の気持ちを伝えるために、この句の作者の施した工夫は、賞賛に価するものだ。やさしく咲くコスモスと死の組み合わせは、意外性と切実さが両立している。
ディランはシュルレアリスムと並んで、アメリカのフォークソングの伝統も重んじていた。それらのフォークソングの多くは、名もない貧しい人々、農民や労働者の生活の記録であった。ディランは恐ろしい程の記憶力を持っていて、レコードを1、2度聞いただけで憶えてしまう特技があった。少年時代にディランは夥しい量のフォークソングのレコードを聴き漁り、歌作りの糧とした。つまりディランは、アメリカの民のリアルな生活実態に精通していた。そうしたリアルとシュルレアリスムとの狭間に身を置いて、彼は歌を作っていたのだった。
それゆえディランは、創作を超える現実があることをよく知っている。「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、ディランの幻想的な作風は、幻想に逃げ込むところから生まれたものではない。小説より奇妙な現実を、彼は描こうとしていたのではないかと僕は思う。それがディランの歌詞と俳句の類似性に繋がっていく。
たとえば《水打てば夏蝶そこに生れけり 虚子》は、ある種の幻視である。また《泉の底に一本の匙夏了る 飯島晴子》も同じだろう。
「水打てば」の句は、打ち水から蝶が生まれたのかのように見えたという比喩であるはずなのに、虚子は断定として言い切っている。これが短詩の力であり、魅力なのだ。
また「泉」の句は、本当に泉の底に匙があったのかどうかは問題ではない。これもまた、リアルとシュルレアリスムの狭間にある一句だ。ディランもこうした幻視や断定の表現をしばしば使っている
さらに例を挙げれば、北大路翼の田中裕明賞受賞作『天使の涎』の中にも、同様の句が多数収録されている。
ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点 北大路翼
ワカサギの世界を抜ける穴一つ 同
倒れても首振つてゐる扇風機 同
これらのリアリズムとシュルレアリスムの狭間にある表現の解釈は、聴き手(読み手)に委ねられ、聴き手の中でイメージが昇華されるのを待っている。
話を最初に戻すならば、ポピュラー歌手であるディランは、歌の自由な解釈をずっと聴き手に委ねてきた。委ねられた聴き手は、自由の素晴らしさと恐怖を同時に感じながら、ディランの歌を味わう。この文学的行為こそが、今回の受賞の理由なのだと思う。
このディランの受賞が、俳句などの短詩作品がノーベル文学賞にノミネートされる可能性につながればいいと思う。
最後にディランの音楽的側面についても少し言及しておきたい。
近年のディランのライブを観る限り、歌からはメロディが消え、ほとんど呪文か浪花節のような語りに近いものになっている。しかし、それでもディランは優れたメロディメーカーだと断言する。彼の歌を他のアーティストがカバーすると、美しいメロディが忽然とあぶり出されるからだ。ピーター・ポール&マリーの「風に吹かれて」やザ・バーズの「ミスター・タンブリ・マン」を聴けば、誰もが納得するだろう。
この素晴らしい旋律と、歌詞の韻律が合わさってディラン作品は成り立っている。だからこそ説得力がある。現在のディランの歌唱は、極限まで削ぎ落とされた究極の歌なのかもしれない。その削ぎ落し方もまた、俳句に通じている。
僕の最も好きなディランのアルバムは、1966年にリリースされたアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』だ。この稿を読んでディランに興味を持った人には、できれば彼の歌を聴いて欲しい。
終わりにディラン・ソングの歌詞の一部の和訳を挙げておく。
平山雄一
ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞のニュースを聞いて、とても嬉しかった。僕はディランの長年のファンであり、最も影響を受けたアーティストだからだ。
ただし、高校時代に初めてディランを聞いたときは、歌詞の難解さに圧倒された。アメリカ人でさえディランの歌詞は分かりにくいと言われているので、日本の高校生にとっては当然のことだった。しかし音楽が有り難いのは、言葉の意味が分からなくても、ディランが人生の真実を歌っていることが僕にも直感できたことだった。
そうして今回、受賞を機にディランを聴き直してみて発見したのは、ディランの歌を俳句を読むつもりで聴いてみると、高校時代より遥かに身近に感じられたことだった。驚くことにディランの歌と俳句には多くの共通点があり、それをよすがに聴くと、高校生のときには気付かなかったディランの歌の面白さや深さがわかるようになっていた。
なので、もしノーベル賞をキッカケにディランに興味を抱いた俳人がいるのなら、ディランの歌を俳句で読み解いてみることを勧めたい。俳人は、俳句に触れたことのない人よりずっと早くディランの本質に迫ることができると思う。
これまでのノーベル賞受賞者の大半は、密室で作業する研究者や文学者で占められてきた。だがディランは75歳になる今も精力的にコンサート・ツアーを行なっていて、大勢の人の前でのライブ・パフォーマンスを続けている。これだけ多くの人々から拍手喝采を受けたノーベル賞受賞者は、前代未聞だろう。
聴衆がいないと成立しないのは、ポピュラー音楽の宿命だ。そして俳句もまた、鑑賞者がいて初めて成り立つ文芸である。ポピュラー音楽家は、「伝わらなくてもいい」や「わかってもらわなくていい」という立場は絶対に取らない。俳人も同じである。だからこそ俳人に、ディランの歌に触れてほしいと思う。
俳句とディランの共通点は、まず歌詞も俳句も韻文であることだ。簡潔な表現の中に膨大な情報量を蔵し、飛躍するイメージを韻(ライム)の力で聴き手の脳内に定着させることができる。
また、ディランの歌詞も俳句も、結論を言わないところで成り立っている。ディランの有名な「風に吹かれて」のサビは、♪答は風に吹かれている♪と結ばれている。歌の内容をどう受け取るかを、聴き手(読み手)に委ねている。その結果、混沌や不在といった“世の中の深淵”を描くことに成功している。
月いづこ鐘はしづみて海の底 松尾芭蕉
江戸時代の俳句としては、超モダンな響きがある。「月」も「鐘」も見えないのに、この二つの物が“海の底”で確かに出会っている。こうした描写が、ディランにもある。♪誰も痛みを感じない。今夜、俺が雨の中に立ちつくしていても♪(「Just Like a Woman=女の如く」より)は、芭蕉の描いた“不在の感覚”に非常に近い。
ディランはシュルレアリスムの詩からの影響が強いとされている。ロートレアモンの「解剖台の上での、ミシンとこうもり傘の偶発的な出会い」という有名なフレーズは、企業や個人名鑑の広告欄からランダムに抜き出された言葉で構成したとされているが、その作詩の方法にディランが挑戦した映像が残されている。
若い頃のディランを撮ったドキュメント映画『ノー・ディレクション・ホーム』(2005年公開 マーティン・スコセッシ監督)には、街に立ち並ぶ広告看板からディランが即興で詩を読み取っていくシーンが収められている。
「求む/タバコを売る店」
「求む/犬をシャンプーして送り届けてくれる店」
「求む/手数料で動物や小鳥の売買をする店」
これらの看板を前に、ディランは即興で詩を組み立てる。
「風呂を洗い、タバコを届けてくれる人/大募集」
「動物にタバコを/小鳥に手数料を」
と次々に読み替えていく。
これらの機知に富んだフレーズは、ディランの歌詞の中でよく見かけるタイプのものだ。
そして俳句にも、こうした“物と物とのぶつかり合い”の句が多くある。
渡り鳥見えますとメニュー渡さるる 今井聖
大きな湖のそばのレストランでの句だろうか。渡り鳥とメニューの出会いが、意外でもあり、新鮮でもある。解釈はすべて読み手に委ねられ、句の中には結論も説明もない。意外さと新鮮さが同居しているのは、ディランの「動物にタバコを/小鳥に手数料を」の手法に似ている。それこそ「渡り鳥にメニューを」と読み替えたくなる一句だ。
今井聖はシュルレアリスムの俳人ではないが、一見関連性のない事象から詩(ポエジー)を読み取る方法論には、ディランとの共通性を感じる。その他、聖の句には「日が差してをり刈田からピアノまで」、「鰐の背に日の当たりをり風邪兆す」、「乾鮭の眼窩に星を嵌めて寝る」などがあり、リアルでありながらディランと似た超然とした響きがある。
ディランの初期の傑作に「I Want You=アイ・ウォント・ユー」という曲がある。その歌い出しはこうだ。
♪やましい葬儀屋はため息をつく 淋しい手回しオルガン弾きは泣く 銀のサキソフォンは君を断るべきだと言う ひび割れたベルと洗いざらしのホーンは僕の顔に軽蔑を吹きつける 君を失うために僕は生まれて来たんじゃない 君が欲しい 君が欲しい♪。
ディランは“I Want You”のひと言を伝えるために、葬儀屋やサキソフォンを動員して混沌を演出する。意味のありそうでなさそうな語の連なりが、突然“君が欲しい”というテーマに集約される。“I Want You”は、論理的に導かれた結論ではない。いきなりテーマとして放り出されている。井上陽水の「傘がない」は、これとよく似た手法を取っている。
関係性のよくわからない情景描写の後に、歌の核心となるテーマを突然さらけ出す手法は、“人に受ける”ことを前提としたポップソングを作る上で有効なやり方だ。そして、一見無関係な情景描写に、作家の個性が出る。ディランも陽水も、情景描写とテーマに関係性があるかないかに関して、俳句でいう「付く・付かない」と同じ判断基準を用いているように思われる。
コスモスなどやさしく咲けど死ねないよ 鈴木しづ子
は、“死ねないよ”を伝えるために、直接は関連性のないコスモスを描いている。読み手に自分の気持ちを伝えるために、この句の作者の施した工夫は、賞賛に価するものだ。やさしく咲くコスモスと死の組み合わせは、意外性と切実さが両立している。
ディランはシュルレアリスムと並んで、アメリカのフォークソングの伝統も重んじていた。それらのフォークソングの多くは、名もない貧しい人々、農民や労働者の生活の記録であった。ディランは恐ろしい程の記憶力を持っていて、レコードを1、2度聞いただけで憶えてしまう特技があった。少年時代にディランは夥しい量のフォークソングのレコードを聴き漁り、歌作りの糧とした。つまりディランは、アメリカの民のリアルな生活実態に精通していた。そうしたリアルとシュルレアリスムとの狭間に身を置いて、彼は歌を作っていたのだった。
それゆえディランは、創作を超える現実があることをよく知っている。「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、ディランの幻想的な作風は、幻想に逃げ込むところから生まれたものではない。小説より奇妙な現実を、彼は描こうとしていたのではないかと僕は思う。それがディランの歌詞と俳句の類似性に繋がっていく。
たとえば《水打てば夏蝶そこに生れけり 虚子》は、ある種の幻視である。また《泉の底に一本の匙夏了る 飯島晴子》も同じだろう。
「水打てば」の句は、打ち水から蝶が生まれたのかのように見えたという比喩であるはずなのに、虚子は断定として言い切っている。これが短詩の力であり、魅力なのだ。
また「泉」の句は、本当に泉の底に匙があったのかどうかは問題ではない。これもまた、リアルとシュルレアリスムの狭間にある一句だ。ディランもこうした幻視や断定の表現をしばしば使っている
さらに例を挙げれば、北大路翼の田中裕明賞受賞作『天使の涎』の中にも、同様の句が多数収録されている。
ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点 北大路翼
ワカサギの世界を抜ける穴一つ 同
倒れても首振つてゐる扇風機 同
これらのリアリズムとシュルレアリスムの狭間にある表現の解釈は、聴き手(読み手)に委ねられ、聴き手の中でイメージが昇華されるのを待っている。
話を最初に戻すならば、ポピュラー歌手であるディランは、歌の自由な解釈をずっと聴き手に委ねてきた。委ねられた聴き手は、自由の素晴らしさと恐怖を同時に感じながら、ディランの歌を味わう。この文学的行為こそが、今回の受賞の理由なのだと思う。
このディランの受賞が、俳句などの短詩作品がノーベル文学賞にノミネートされる可能性につながればいいと思う。
最後にディランの音楽的側面についても少し言及しておきたい。
近年のディランのライブを観る限り、歌からはメロディが消え、ほとんど呪文か浪花節のような語りに近いものになっている。しかし、それでもディランは優れたメロディメーカーだと断言する。彼の歌を他のアーティストがカバーすると、美しいメロディが忽然とあぶり出されるからだ。ピーター・ポール&マリーの「風に吹かれて」やザ・バーズの「ミスター・タンブリ・マン」を聴けば、誰もが納得するだろう。
この素晴らしい旋律と、歌詞の韻律が合わさってディラン作品は成り立っている。だからこそ説得力がある。現在のディランの歌唱は、極限まで削ぎ落とされた究極の歌なのかもしれない。その削ぎ落し方もまた、俳句に通じている。
僕の最も好きなディランのアルバムは、1966年にリリースされたアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』だ。この稿を読んでディランに興味を持った人には、できれば彼の歌を聴いて欲しい。
終わりにディラン・ソングの歌詞の一部の和訳を挙げておく。
Desolation Row=廃墟の街
♪アインシュタインがロビン・フッドに変装して、トランクに思い出を詰め、
嫉妬深い坊さんを道連れに、この道を一時間前に行った。
彼は実に嫌みったらしく煙草をねだり、排水管の匂いを嗅ぎ、
それからアルファベットを唱えながら立ち去ったのさ。
君はもはや彼を気にも留めないだろうが、彼はその昔、エレキバイオリン弾きとして有名だった、廃墟の街でね♪
↧
後記+プロフィール 第502号
後記 ● 福田若之
今号では、「石田波郷新人賞」落選展をお届けします。
●
先週号から、平成九年度俳句会作品集『九集』についてのお知らせを掲載しております。ご予約締め切りは12月10日(土)までとのことですから、お早めに。お申し込み方法については、当該記事をご参照ください。
●
藤田哲史さんの連載が第三回を迎えました。今回の論は、いわゆる「取り合わせ」の技法の有無によって近代俳句と現代俳句を区分するというもの。
ただ、これはいくらなんでもちょっと無理筋な気が……。少なくとも、この枠組みでいくと、映画におけるエイゼンシュテインの衝突法のモンタージュを一句の構成法に関連付けた山口誓子は、「現代俳句」の側の人として語られないと、おかしい。金子兜太「造型俳句六章」の二章III節の終わりに、まさしく誓子の構成法のことが書いてあります。
ここで、「造型俳句六章」の描く俳句史をおおざっぱに確認すると、まず、描写のうちでも直叙法を用いる個我の主観の表現として子規・虚子らの近代俳句は出発するが、それが「花鳥諷詠」論に前後する時期に諷詠的傾向へと堕落する。こうした状況から、描写としての構成法である外向的構成を用いる個我の主観の表現として、秋櫻子・誓子らの新興俳句が登場。それが、批評的傾向をもつ鳳作らの作品を経て、描写否定の構成法である内向的構成を用いた三鬼、赤黄男、窓秋らによる主体の表現へと発展する。また一方では、この新興俳句運動と並行して、構成法に反駁しながら諷詠的傾向を乗り越えようとする立場から、草田男・楸邨らによる、技法論をもたない個我の主観の表現としての象徴的傾向が現れる。そして、これらの傾向から、主体の明確な自覚にもとづいて内向的構成を用いる表現としての造型が導かれる、といった具合。個々の用語に対して兜太が独自に与えている定義については、原文を参照していただくことにして、とりあえず、「造型俳句六章」の俳句史はこういった言葉でもって紡がれています。
そして、そこに、たとえば、「図式的にいえば、個我は近代の内実であり、主体は現代のそれである、といって差支えないと思います」という言葉があって、「造型俳句六章」においては、近代俳句と現代俳句の境目が新興俳句の爛熟期に求められていることが分かります。ちなみに、兜太のいう「個我」と「主体」の区別をごく簡単に整理すると、自分が自分であることの確認を問題としているのが「個我」で、自分が他に対して何者であるのかを問題にしているのが「主体」。後者がより発展した状態として語られていることは、言うまでもありません。
思うのは、俳句を作る人の内実というものがあって、それがある手法を用いることで(あるいは手法を用いないことで)句において表出される、ということが前提とされていた時代における、その時代自身のための俳句史は、これでひとまずけりがついてしまっているのではないか、ということ。「個我」はあたりまえのように自覚的な「主体」へ向かうように方向づけられているし、「描写」は「構成」へと方向づけられている。だから、「造型」を自覚的な主体による内向的構成と捉えるなら、行きつくところは「造型」以外にありえない。
したがって、〈内実の表出〉とは別の切り口から歴史を捉えなおすのでなければ、「造型俳句六章」をまるごと片付けることはできないといえます。それも、単に〈内実の表出〉という視点を無視するというのではなく、これまでの俳句史において重要なことがらは実のところ〈内実の表出〉ではなかったのだということを積極的に示すのでなければならないわけです。もちろん、その糸口は戦後の俳句・俳論にごろごろ転がっている。完市とか、重信とか。ごろごろ。
あと、一つ付け加えるなら、たとえば、「造型俳句六章」の俳句史は、徹頭徹尾、男だけで成り立っています。「造型俳句六章」は、つまるところ、そういう作られた俳句史でしかないわけで、脇から突き崩すことも、できないことはないに違いありません。
●
なんか、また要らんことを書いた気がしますが……。
●
いただいて、読んで、読んだままになっている句集ばかりで、申し訳ないことばかりしています。何か書きたいと思いながら、どうにも手も首も手首も回らない。そんな年の瀬です。来年の春には、どうにか。
●
街では早くもクリスマスの飾りなどを見かけるようになってきました。太宰の小説では「メリイクリスマス」が好きで、この時期になると、僕は太宰の名前を思いだします。
●
それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
no.502/2016-12-4 profile
「2016石田波郷新人賞落選展」参加者のプロフィールは、こちら
■平山雄一 ひらやま・ゆういち
1953年生まれ。1987年より、吉田鴻司に師事。2003年、 第一句集『天の扉』を上梓。2006年より、超結社句会“わらがみ句会”代表。結社誌『鴻』で俳句エッセイ「ON THE STREET」を連載中。ロックやコミックスなどのポップカルチャーと、俳句の共通点を探求している。 公式Web OPEN http://www.yuichihirayama.jp公式Facebookページ https://www.facebook.com/yuichihirayama.jp/
■藤田哲史 ふじた・さとし
1987年三重県伊賀生まれ。2006年東大学生俳句会に参加。2007年俳句結社「澤」に入会。2009年澤新人賞受賞、同年俳句アンソロジー『新撰21』に参加。現在無所属。生駒大祐と俳句系ウェブメディア「Haiku Drive」を不定期更新中(ちゃんとやれ)。
■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』を上梓。
■藤原暢子 ふじわら・ようこ
1978年鳥取生まれ。岡山育ち。東京在住。「魚座」を経て「雲」所属。旅人。祭女。
■西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter
■福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「ku+」、「オルガン」に参加。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。
今号では、「石田波郷新人賞」落選展をお届けします。
●
先週号から、平成九年度俳句会作品集『九集』についてのお知らせを掲載しております。ご予約締め切りは12月10日(土)までとのことですから、お早めに。お申し込み方法については、当該記事をご参照ください。
●
藤田哲史さんの連載が第三回を迎えました。今回の論は、いわゆる「取り合わせ」の技法の有無によって近代俳句と現代俳句を区分するというもの。
ただ、これはいくらなんでもちょっと無理筋な気が……。少なくとも、この枠組みでいくと、映画におけるエイゼンシュテインの衝突法のモンタージュを一句の構成法に関連付けた山口誓子は、「現代俳句」の側の人として語られないと、おかしい。金子兜太「造型俳句六章」の二章III節の終わりに、まさしく誓子の構成法のことが書いてあります。
ここで、「造型俳句六章」の描く俳句史をおおざっぱに確認すると、まず、描写のうちでも直叙法を用いる個我の主観の表現として子規・虚子らの近代俳句は出発するが、それが「花鳥諷詠」論に前後する時期に諷詠的傾向へと堕落する。こうした状況から、描写としての構成法である外向的構成を用いる個我の主観の表現として、秋櫻子・誓子らの新興俳句が登場。それが、批評的傾向をもつ鳳作らの作品を経て、描写否定の構成法である内向的構成を用いた三鬼、赤黄男、窓秋らによる主体の表現へと発展する。また一方では、この新興俳句運動と並行して、構成法に反駁しながら諷詠的傾向を乗り越えようとする立場から、草田男・楸邨らによる、技法論をもたない個我の主観の表現としての象徴的傾向が現れる。そして、これらの傾向から、主体の明確な自覚にもとづいて内向的構成を用いる表現としての造型が導かれる、といった具合。個々の用語に対して兜太が独自に与えている定義については、原文を参照していただくことにして、とりあえず、「造型俳句六章」の俳句史はこういった言葉でもって紡がれています。
そして、そこに、たとえば、「図式的にいえば、個我は近代の内実であり、主体は現代のそれである、といって差支えないと思います」という言葉があって、「造型俳句六章」においては、近代俳句と現代俳句の境目が新興俳句の爛熟期に求められていることが分かります。ちなみに、兜太のいう「個我」と「主体」の区別をごく簡単に整理すると、自分が自分であることの確認を問題としているのが「個我」で、自分が他に対して何者であるのかを問題にしているのが「主体」。後者がより発展した状態として語られていることは、言うまでもありません。
思うのは、俳句を作る人の内実というものがあって、それがある手法を用いることで(あるいは手法を用いないことで)句において表出される、ということが前提とされていた時代における、その時代自身のための俳句史は、これでひとまずけりがついてしまっているのではないか、ということ。「個我」はあたりまえのように自覚的な「主体」へ向かうように方向づけられているし、「描写」は「構成」へと方向づけられている。だから、「造型」を自覚的な主体による内向的構成と捉えるなら、行きつくところは「造型」以外にありえない。
したがって、〈内実の表出〉とは別の切り口から歴史を捉えなおすのでなければ、「造型俳句六章」をまるごと片付けることはできないといえます。それも、単に〈内実の表出〉という視点を無視するというのではなく、これまでの俳句史において重要なことがらは実のところ〈内実の表出〉ではなかったのだということを積極的に示すのでなければならないわけです。もちろん、その糸口は戦後の俳句・俳論にごろごろ転がっている。完市とか、重信とか。ごろごろ。
あと、一つ付け加えるなら、たとえば、「造型俳句六章」の俳句史は、徹頭徹尾、男だけで成り立っています。「造型俳句六章」は、つまるところ、そういう作られた俳句史でしかないわけで、脇から突き崩すことも、できないことはないに違いありません。
●
なんか、また要らんことを書いた気がしますが……。
●
いただいて、読んで、読んだままになっている句集ばかりで、申し訳ないことばかりしています。何か書きたいと思いながら、どうにも手も首も手首も回らない。そんな年の瀬です。来年の春には、どうにか。
●
街では早くもクリスマスの飾りなどを見かけるようになってきました。太宰の小説では「メリイクリスマス」が好きで、この時期になると、僕は太宰の名前を思いだします。
●
それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
「2016石田波郷新人賞落選展」参加者のプロフィールは、こちら
■平山雄一 ひらやま・ゆういち
1953年生まれ。1987年より、吉田鴻司に師事。2003年、 第一句集『天の扉』を上梓。2006年より、超結社句会“わらがみ句会”代表。結社誌『鴻』で俳句エッセイ「ON THE STREET」を連載中。ロックやコミックスなどのポップカルチャーと、俳句の共通点を探求している。 公式Web OPEN http://www.yuichihirayama.jp公式Facebookページ https://www.facebook.com/yuichihirayama.jp/
■藤田哲史 ふじた・さとし
1987年三重県伊賀生まれ。2006年東大学生俳句会に参加。2007年俳句結社「澤」に入会。2009年澤新人賞受賞、同年俳句アンソロジー『新撰21』に参加。現在無所属。生駒大祐と俳句系ウェブメディア「Haiku Drive」を不定期更新中(ちゃんとやれ)。
■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』を上梓。
■藤原暢子 ふじわら・ようこ
1978年鳥取生まれ。岡山育ち。東京在住。「魚座」を経て「雲」所属。旅人。祭女。
■西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter
■福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「ku+」、「オルガン」に参加。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。
↧
↧
週刊俳句 第502号 2016年12月4日
第502号
2016年12月4日
2016「石田波郷新人賞」落選展
1.青木ともじ 2.樫本由貴 3.黒岩徳将 4.新藤生糸
5.森優希乃 6.柳元佑太 7.若林哲哉 8.吉川創揮
≫2016石田波郷新人賞落選展ページへ
……………………………………………
2016年12月4日
1.青木ともじ 2.樫本由貴 3.黒岩徳将 4.新藤生糸
5.森優希乃 6.柳元佑太 7.若林哲哉 8.吉川創揮
≫2016石田波郷新人賞落選展ページへ
……………………………………………
■ボブ・ディランと俳句……平山雄一 ≫読む
……藤田哲史 ≫読む
■あとがきの冒険 第16回
コンセプト・ピンク・ビクトリー
山田航『桜前線開架宣言』のあとがき……柳本々々 ≫読む
■八田木枯の一句
■評論で探る新しい俳句のかたち〔3〕
近代俳句と現代俳句の違いを20字以内で説明しなさい、的な……藤田哲史 ≫読む
■あとがきの冒険 第16回
コンセプト・ピンク・ビクトリー
山田航『桜前線開架宣言』のあとがき……柳本々々 ≫読む
■八田木枯の一句
雪來るか星のひかりに抱かるる星……西原天気 ≫読む
発行予定のお知らせ ≫見る
〔今週号の表紙〕第502号 ご利益……藤原暢子 ≫読む
■後記+執筆者プロフィール……福田若之 ≫読む
↧
〔今週号の表紙〕第503号 上高地の河童橋から 山中西放
〔今週号の表紙〕
第503号 上高地の河童橋から
山中西放
第503号 上高地の河童橋から
山中西放
いずこへ出掛けても外人の声で溢れている時代になった。車両進入を制限している秘境上高地でさえも例外ではない。
上條嘉門次をガイドに、ウォルター・ウェストンが前穂高岳に登頂したのは1893年。この山はまだ開かれて120余年しか経たず、登山基地上高地は今なお厚く保護され美しい自然を残している。
新しい急坂な釜トンネルを抜けた、上高地に着いたのは朝、摂氏0度以下の寒さだったが幸運にも青空があった。絶景が逃げないうちにと穂高を撮りまくった。やがてすぐ穂高の後ろに雲が出て、その後は雲と雪の稜線の撮影の定まらぬまま、これは束の間に享受出来た写真である。
上條嘉門次をガイドに、ウォルター・ウェストンが前穂高岳に登頂したのは1893年。この山はまだ開かれて120余年しか経たず、登山基地上高地は今なお厚く保護され美しい自然を残している。
新しい急坂な釜トンネルを抜けた、上高地に着いたのは朝、摂氏0度以下の寒さだったが幸運にも青空があった。絶景が逃げないうちにと穂高を撮りまくった。やがてすぐ穂高の後ろに雲が出て、その後は雲と雪の稜線の撮影の定まらぬまま、これは束の間に享受出来た写真である。
●
週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら
↧
第一回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ
第一回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ
●未発表の俳句作品35句をお送りください(多行作品は20句)。
●締め切り2017年2月15日(水)
●年齢・俳句歴の制限はありません。
●受賞作品は「円錐」73号(2017年4月末日刊行予定)に掲載。
●選者
澤 好摩
山田耕司
高柳蕗子(歌人)
35句全体での賞はもちろん、1句がとびぬけて面白いなどという場合のための賞も用意する予定。
●宛先 「円錐編集部」 kojikojiyamada@gmail.com
●未発表の俳句作品35句をお送りください(多行作品は20句)。
●締め切り2017年2月15日(水)
●年齢・俳句歴の制限はありません。
●受賞作品は「円錐」73号(2017年4月末日刊行予定)に掲載。
●選者
澤 好摩
山田耕司
高柳蕗子(歌人)
35句全体での賞はもちろん、1句がとびぬけて面白いなどという場合のための賞も用意する予定。
●宛先 「円錐編集部」 kojikojiyamada@gmail.com
↧
【週俳10月11月の俳句を読む】スタートライン 対中いずみ
【週俳10月11月の俳句を読む】
スタートライン
対中いずみ
第497号・第498号、堀下翔まるごとプロデュース学生特集号を面白く拝読した。堀下氏は、「こんなに甘やかされて若手は大丈夫なのだろうかと僕自身心配なのですが」と前置きしつつ、全国の学生俳人たちを網羅して紹介して下さった。
「甘やかされて」、とは、学生という篩いだけで作品発表の場を与えられることへの恥じらいかもしれない。マラソン中継などでも、スタートラインには大勢の顔が並ぶ。誰もが目を輝かせているが、数十分も走ると、やがて先頭集団ができてくる。そこから、入賞を狙う人はさらに絞られ、ゴールテープを切る人はたった一人だ。どの世界でも何らかの篩いがかかる。息長くつづけることも、良き指導者や仲間に恵まれることも、日頃の鍛錬を欠かさないことも、たくさんのことが必要になってくる。
混ぜるたび湯気新たなる茸飯 野名紅里
ご飯が炊きあがった。甘辛く煮た具材と混ぜ合わせる。そのたびにほこほこと湯気が立つ。ただそれだけのことだけれど、その目でたしかに見て、その五官でたしかに感じている。
だから、読み手は追体験ができてすこし幸せな気持ちになる。
水澄みて口笛吹けばそれも澄む 野名紅里
秋に入り、気温が下がってくると、空も空気も水も澄んでくる。水が澄んでくるとこちらの気持ちも澄んでくる。口笛の音色も澄んでくる。夏の暑さから解放された気持ちの良さが素直に詠まれている。
消化器の剥き出しにある文化祭 野名紅里
学内の一景。何かの事故に備えてところどころに配置されている消化器。俳人の目は、いつもと違うモノの出現に敏感だ。
月光を知る公園のかたちかな 野名紅里
こちらは月の光を得てはじめて感じ取った公園の姿。昼間とは明らかに違う輪郭なのだ。夜の闇と月光がなせる技を、俳句という短い詩にのせて掬い取って見せてくれた。
朝寒や植物園にそつと鳥 野名紅里
植物園にはけっこういろんな鳥が来るが、主役はあくまで樹木や草花。だから「そつと鳥」。ここに「朝寒」の季語を置けること、しなやかな感性だと思う。「そつと鳥」の措辞はタイトルにもなっているが、初々しく可憐。
この作者は、季語そのものを詠もうとしている姿勢が清々しい。安易な見立てや言葉つきだけで一句を仕立てようとしていない。言葉以前に、一句の芯になるところの把握がある。それはささやかな発見であっても貴重なことだ。その把握や発見が、句の質感となり、鮮度となる。ほんの少しの違和や差異を見止める目があることもいい。平明であるが類型をわずかに抜け出している。作者がほんとうに感じたことを詠んでいるからだろう。良きスタートを切っておられると思う。
スタートライン
対中いずみ
第497号・第498号、堀下翔まるごとプロデュース学生特集号を面白く拝読した。堀下氏は、「こんなに甘やかされて若手は大丈夫なのだろうかと僕自身心配なのですが」と前置きしつつ、全国の学生俳人たちを網羅して紹介して下さった。
「甘やかされて」、とは、学生という篩いだけで作品発表の場を与えられることへの恥じらいかもしれない。マラソン中継などでも、スタートラインには大勢の顔が並ぶ。誰もが目を輝かせているが、数十分も走ると、やがて先頭集団ができてくる。そこから、入賞を狙う人はさらに絞られ、ゴールテープを切る人はたった一人だ。どの世界でも何らかの篩いがかかる。息長くつづけることも、良き指導者や仲間に恵まれることも、日頃の鍛錬を欠かさないことも、たくさんのことが必要になってくる。
混ぜるたび湯気新たなる茸飯 野名紅里
ご飯が炊きあがった。甘辛く煮た具材と混ぜ合わせる。そのたびにほこほこと湯気が立つ。ただそれだけのことだけれど、その目でたしかに見て、その五官でたしかに感じている。
だから、読み手は追体験ができてすこし幸せな気持ちになる。
水澄みて口笛吹けばそれも澄む 野名紅里
秋に入り、気温が下がってくると、空も空気も水も澄んでくる。水が澄んでくるとこちらの気持ちも澄んでくる。口笛の音色も澄んでくる。夏の暑さから解放された気持ちの良さが素直に詠まれている。
消化器の剥き出しにある文化祭 野名紅里
学内の一景。何かの事故に備えてところどころに配置されている消化器。俳人の目は、いつもと違うモノの出現に敏感だ。
月光を知る公園のかたちかな 野名紅里
こちらは月の光を得てはじめて感じ取った公園の姿。昼間とは明らかに違う輪郭なのだ。夜の闇と月光がなせる技を、俳句という短い詩にのせて掬い取って見せてくれた。
朝寒や植物園にそつと鳥 野名紅里
植物園にはけっこういろんな鳥が来るが、主役はあくまで樹木や草花。だから「そつと鳥」。ここに「朝寒」の季語を置けること、しなやかな感性だと思う。「そつと鳥」の措辞はタイトルにもなっているが、初々しく可憐。
この作者は、季語そのものを詠もうとしている姿勢が清々しい。安易な見立てや言葉つきだけで一句を仕立てようとしていない。言葉以前に、一句の芯になるところの把握がある。それはささやかな発見であっても貴重なことだ。その把握や発見が、句の質感となり、鮮度となる。ほんの少しの違和や差異を見止める目があることもいい。平明であるが類型をわずかに抜け出している。作者がほんとうに感じたことを詠んでいるからだろう。良きスタートを切っておられると思う。
第497号 学生特集号
第498号 学生特集号
↧
↧
【週俳10月11月の俳句を読む】俳句形式の力 曾根毅
【週俳10月11月の俳句を読む】
俳句形式の力
曾根 毅
産めよ増やせよのあげくの露の玉 加藤静夫
「産めよ増やせよ」とは、1941年に閣議決定された人口政策確立綱項に基づくスローガン。昨今の高齢化社会にも繋がっている。露の玉は、その背景と時代の流れを象徴し、一句に奥行を与えるのに実に適した機能を果たしている。昭和を俯瞰する平成の秀句に違いない。しかし、だからこそ私はこの狙いすましたような下五の据え方が気になる。極みのようなこの季語の用法に、パターンとしての行き詰まりを垣間見る思いがしている。
つとめての紅葉を下に安芸の橋 樫本由貴
花カンナからりと生けて授乳室 〃
この二句に共通する面白さとして、「つとめての」と「からりと」という一句の中の何気ない言葉の斡旋がある。そこには、「確かなあはひ」とでもいうべき静謐な空間が感じられる。句意もさることながら、調べに心情を通わせるものの表わし方に、この作者の持ち味を見た。
消火器の剥き出しにある文化祭 野名紅里
消火器は本来、非常時に誰もがすぐに使用できるように、あからさまな場所に設置されるべきものだ。そのことに踏み込んで、誇張した表現と受け取れる。日常にあって非常を思わせる真っ赤な消火器。その存在が、文化祭という非日常の空間の中でイメージとしてクロスした。一瞬の違和感が、表現としての誇張を呼び込んだのではないだろうか。作者の明るさと繊細さが通底しているように思う。
あるこほる流るる曼珠沙華は白 福井拓也
あるこほるは、眼前にあらわな形で流れている。それを認識するということは、確かな臭いを伴っているか、自身に関係する行為の内にあるということだろう。近くに白い曼珠沙華がある。曼珠沙華といえば鮮やかな赤色のイメージが強い。そのイメージの赤を、白の現実に頭の中で上塗りして、曼珠沙華であることを確かめたくなるような妙な感覚を伴う。「あるこほる」のひらがな書きによる柔らかい言葉のニュアンスと、白い曼珠沙華との感覚的な二物衝撃。
かりがねや展望台の窓の罅 斉藤志歩
言葉が感覚に直接訴えかけてくる。展望台の窓越しに雁の行方を見ているという情況は、平易でイメージし易い。この句の場合、「罅」がその風景と心情に介在して、一句に奥行を与えている。他の10句の中にも、「馬」や「友」「肉」「顎」などの語に同様の効果が感じられた。ポイントとなるこの屈折が、どれも実直な感覚として受け取れるところに個性を見る。
湯上がりの人の剥きたる林檎ぬくし 平井 湊
林檎に宿る熱は、湯上りの人が纏う静かな時間であるとともに、剥いて差し出す相手のために捧げられたかけがえのない時間でもある。そして林檎は双方の思いを繋ぐ。散文として読めば、湯上りで火照った熱が、林檎を介して伝わったということになるのだろうか。ここにも俳句形式の力がある。
俳句形式の力
曾根 毅
産めよ増やせよのあげくの露の玉 加藤静夫
「産めよ増やせよ」とは、1941年に閣議決定された人口政策確立綱項に基づくスローガン。昨今の高齢化社会にも繋がっている。露の玉は、その背景と時代の流れを象徴し、一句に奥行を与えるのに実に適した機能を果たしている。昭和を俯瞰する平成の秀句に違いない。しかし、だからこそ私はこの狙いすましたような下五の据え方が気になる。極みのようなこの季語の用法に、パターンとしての行き詰まりを垣間見る思いがしている。
つとめての紅葉を下に安芸の橋 樫本由貴
花カンナからりと生けて授乳室 〃
この二句に共通する面白さとして、「つとめての」と「からりと」という一句の中の何気ない言葉の斡旋がある。そこには、「確かなあはひ」とでもいうべき静謐な空間が感じられる。句意もさることながら、調べに心情を通わせるものの表わし方に、この作者の持ち味を見た。
消火器の剥き出しにある文化祭 野名紅里
消火器は本来、非常時に誰もがすぐに使用できるように、あからさまな場所に設置されるべきものだ。そのことに踏み込んで、誇張した表現と受け取れる。日常にあって非常を思わせる真っ赤な消火器。その存在が、文化祭という非日常の空間の中でイメージとしてクロスした。一瞬の違和感が、表現としての誇張を呼び込んだのではないだろうか。作者の明るさと繊細さが通底しているように思う。
あるこほる流るる曼珠沙華は白 福井拓也
あるこほるは、眼前にあらわな形で流れている。それを認識するということは、確かな臭いを伴っているか、自身に関係する行為の内にあるということだろう。近くに白い曼珠沙華がある。曼珠沙華といえば鮮やかな赤色のイメージが強い。そのイメージの赤を、白の現実に頭の中で上塗りして、曼珠沙華であることを確かめたくなるような妙な感覚を伴う。「あるこほる」のひらがな書きによる柔らかい言葉のニュアンスと、白い曼珠沙華との感覚的な二物衝撃。
かりがねや展望台の窓の罅 斉藤志歩
言葉が感覚に直接訴えかけてくる。展望台の窓越しに雁の行方を見ているという情況は、平易でイメージし易い。この句の場合、「罅」がその風景と心情に介在して、一句に奥行を与えている。他の10句の中にも、「馬」や「友」「肉」「顎」などの語に同様の効果が感じられた。ポイントとなるこの屈折が、どれも実直な感覚として受け取れるところに個性を見る。
湯上がりの人の剥きたる林檎ぬくし 平井 湊
林檎に宿る熱は、湯上りの人が纏う静かな時間であるとともに、剥いて差し出す相手のために捧げられたかけがえのない時間でもある。そして林檎は双方の思いを繋ぐ。散文として読めば、湯上りで火照った熱が、林檎を介して伝わったということになるのだろうか。ここにも俳句形式の力がある。
第497号 学生特集号
第498号 学生特集号
↧
【週俳10月11月の俳句を読む】学生特集号、前・後篇を読む 遠藤由樹子
【週俳10月11月の俳句を読む】
学生特集号、前・後篇を読む
遠藤由樹子
私はたぶん年齢というものをあまり意識せず生きてきて、あれあれよと言う内に来年は六十歳になる。この特集の作者たちとは四十歳前後の年齢の開きがあるのだけれども、そういうことは特段、頭を過ぎらない。人は生まれたその時から等しく年をとる。つまり遥か彼方に過ぎ去った時代ではあるが、私もかつては若かった(凡庸な歌の歌詞みたいだけれども)。その頃と変わったかといえば、案外変わっていない。むろん、頭の中はだんだん錆びついてきているが、錆びついていない部分もある。作品鑑賞とは何ら関係のない個人的な呟きだが、せっかくだからせめて、自分のこの呑気さ加減が痛ましさを帯びるまで俳句を作り続けられたらと願っている。
話が脱線しそうなので、琴線に触れた点、触発された点について、拙い感想を書かせていただく。一見しなやかではあるが、学生である以上に作家であるという自負を持って詠まれた俳句の数々であろうから。
樫本由貴「確かなあはひ」
〈塔といふ涼しきものや原爆以後〉で始まり、〈木の実降る限りこの川原爆以後〉で終わる一連の作品。この十句に描かれているさまざまな場面の人のいとなみは、1945年8月6日以後、広島で刻まれ続けている時間の延長だ。それを作者は〈確かなあはひ〉という。〈あはひ〉とは文字通りに理解するなら、ものとものとの間、そして時と時の間である。今、私たちが生きているこの日常は、人智を越えたうねりのどこかの点景に過ぎないのだろう。そう思うと、〈空をして確かなあはひ雁の飛ぶ〉の句の中の、おそらく透きとおるように青いであろう雁渡る空の存在感が確かなものになってゆく。〈朝や僧まづかげろふを掃いてゆく〉〈火葬場のけふを紅葉の坂なりけり〉〈花カンナからりと生けて授乳室〉などに描かれているのは、生と死がないまぜにある日常だ。
この作品は一句一句を鑑賞するというより、五感を澄まして、十句全体から発せられるものを受けとめるべきという気がする。メッセージに陥ることを細心に避けた〈確かなあはひ〉 の描く世界は重層的だ。失い難いものは常に微かな危機をはらんでいる。
野名紅里「そつと鳥」
とてもよく使われる評言かもしれないが〈そつと鳥〉の作品はなべて瑞々しい。
それぞれの句から零れ落ちる等身大のビビッドな詩情に魅かれた。作者自身の現実の若さが瑞々しい句として結実している。そしてもちろん、作者自身が若いという事と、作品自体が若い詩情を蔵していることは似て非なることでもある。この瑞々しさはあくまでも作者個人の持って生まれた資質だろう。
その良質な個性がよく表れている〈月光に知る公園のかたちかな〉と表題の句でもある〈朝寒や植物園にそつと鳥〉の二句。立ち去りがたい気持ちになる作品だ。何をもって世界と呼ぶのかは人それぞれだろうが、この二句はある静かな世界のありようを確かに伝える。侵しがたいというほど大げさではなく、そこにい合わせた事を幸運に感じて、守りたいという気持ちにさせられる世界だ。
〈パレットの端に石榴のいろ作る〉〈消火器の剥き出しにある文化祭〉の二句。何気ないようだが、句の中に盛る内容に過不足がなく、それでいて独自の視点がある。〈切実な嘘なら許す柿たわわ〉にも惹かれた。句の鑑賞から逸れるけれども、嘘は許さないより、許せる方がよい。
福井拓也「冬が来るまでに」
〈冬が来るまでに〉の十句を読んで、連想の妙を感じた。先ず一句それぞれの中に意味性を絶つような飛躍、或いは言葉から言葉への連想がある。さらに、完全に独立している一句一句の間にも表立ってはいないがイメージの連鎖があり、集合体としての魅力があるのだ。おそらく言葉に対する感度を常に磨いている作者なのだろう。
例えば〈旅人はギリシヤの木槿銀時計〉〈とんばうとなりときどきは日の流れ〉〈燃ゆるならてのひら月の便りかな〉などは、法則を介在させない言葉のつながりが詩性を獲得していて魅力的だ。〈傾くと露とは軽き眠りかな〉〈秋風を誘へる笛の小さかり〉などの読み手に琴線にすっと届く句もまた、表現の精度が高い。そして思いがけないような優しさが滲む。
私が最も惹かれたのは、十句の掉尾に置かれた〈歩くほど砂漠へと冬隣かな〉。砂漠が何かを暗示しているなどと考える必要はないだろう。文字通り茫漠たる砂漠を思い描けばよいのだ。この句には説明のつかない良さがあると思う。言い換えれば、詩としての力があるのだ。
斉藤志歩「馬の貌」
屈折の無さが魅力的で、句柄が大きいと先ず感じた。句柄が大きいというのは何も気宇壮大なことを詠もうとしているとかではなく、十七文字の読み下し方に言い切る力強さがあるということだ。堅実に身の回りの出来事を題材にしながら、一句の世界は豊かで広い。俳句という詩形と相性がよい作家の句を読む時に抱く気持ちよさがあるのだ。大切に伸ばすべき個性だと思う。
〈朝寒やおとなの馬の貌をして〉〈蜻蛉に肉の貧しき躯かな〉の二句は、言われてみれば誰もがうなずきたくなる把握だが、類想感がない。鮮度がとてもよいのだ。対象を切り取る角度がこの作者独自のもので且つ、自然だ。馬の貌を思い浮かべてみた。馬齢に拘わらず、その顔立ちはほっそりと引き締まり、聡明そうだ。朝寒の大気の中に、仔馬から若駒になろうとする馬が立っている。〈おとなの馬の貌をして〉の一語に対象への愛情が宿る。蜻蛉の句には痛快感がある。言われてみれば本当に、肉など全くついてない貧しい躯だ。
〈肉入れて波の立つなり芋煮会〉〈かりがねや展望台の窓の罅〉〈籠を開ければこほろぎの匂ひ濃し〉の三句も確かな句で、この作者ならではの伸びやかさがある。
平井 湊「梨は惑星」
題材は多岐にわたり、一句一句の印象が鮮明である。作者の俳句を詠む若々しい勢いが、読み手に読む喜びを与えるとでもいえばよいのか、読後感が心地よい。この作者もまた、俳句の骨法との相性がよいのだ。若くして俳句のリズムが身についている。選ぶべくして俳句を選んだのだろう。
〈爽やかに号砲を撃ち直しけり〉〈星流る港と灯台のあひだ〉の二句には広やかな抒情性がある。真青な秋空の下、撃ち直した号砲が周囲に響く。爽やかな波動が句の中に広がってゆく。〈港と灯台のあひだ〉と詠んだことで、句の中におのずから夜の海の確かな存在感も感じられる。省略のきいた表現が生きている。
〈酔つてゐて惑星に似た梨を買ふ〉〈湯上がりの人の剝きたる林檎ぬくし〉の二句は、実感を伴った作者独自の発見である。特に二句目の、湯上がりの体温を林檎に感じるという把握にはオリジナリティ―があるのではないか。
〈秋霖や物書くにリハビリが要る〉〈火恋し画集の海のみな日暮れ〉のどこか陰翳を帯びた世界も魅力的であった。
学生特集号、前・後篇を読む
遠藤由樹子
私はたぶん年齢というものをあまり意識せず生きてきて、あれあれよと言う内に来年は六十歳になる。この特集の作者たちとは四十歳前後の年齢の開きがあるのだけれども、そういうことは特段、頭を過ぎらない。人は生まれたその時から等しく年をとる。つまり遥か彼方に過ぎ去った時代ではあるが、私もかつては若かった(凡庸な歌の歌詞みたいだけれども)。その頃と変わったかといえば、案外変わっていない。むろん、頭の中はだんだん錆びついてきているが、錆びついていない部分もある。作品鑑賞とは何ら関係のない個人的な呟きだが、せっかくだからせめて、自分のこの呑気さ加減が痛ましさを帯びるまで俳句を作り続けられたらと願っている。
話が脱線しそうなので、琴線に触れた点、触発された点について、拙い感想を書かせていただく。一見しなやかではあるが、学生である以上に作家であるという自負を持って詠まれた俳句の数々であろうから。
樫本由貴「確かなあはひ」
〈塔といふ涼しきものや原爆以後〉で始まり、〈木の実降る限りこの川原爆以後〉で終わる一連の作品。この十句に描かれているさまざまな場面の人のいとなみは、1945年8月6日以後、広島で刻まれ続けている時間の延長だ。それを作者は〈確かなあはひ〉という。〈あはひ〉とは文字通りに理解するなら、ものとものとの間、そして時と時の間である。今、私たちが生きているこの日常は、人智を越えたうねりのどこかの点景に過ぎないのだろう。そう思うと、〈空をして確かなあはひ雁の飛ぶ〉の句の中の、おそらく透きとおるように青いであろう雁渡る空の存在感が確かなものになってゆく。〈朝や僧まづかげろふを掃いてゆく〉〈火葬場のけふを紅葉の坂なりけり〉〈花カンナからりと生けて授乳室〉などに描かれているのは、生と死がないまぜにある日常だ。
この作品は一句一句を鑑賞するというより、五感を澄まして、十句全体から発せられるものを受けとめるべきという気がする。メッセージに陥ることを細心に避けた〈確かなあはひ〉 の描く世界は重層的だ。失い難いものは常に微かな危機をはらんでいる。
野名紅里「そつと鳥」
とてもよく使われる評言かもしれないが〈そつと鳥〉の作品はなべて瑞々しい。
それぞれの句から零れ落ちる等身大のビビッドな詩情に魅かれた。作者自身の現実の若さが瑞々しい句として結実している。そしてもちろん、作者自身が若いという事と、作品自体が若い詩情を蔵していることは似て非なることでもある。この瑞々しさはあくまでも作者個人の持って生まれた資質だろう。
その良質な個性がよく表れている〈月光に知る公園のかたちかな〉と表題の句でもある〈朝寒や植物園にそつと鳥〉の二句。立ち去りがたい気持ちになる作品だ。何をもって世界と呼ぶのかは人それぞれだろうが、この二句はある静かな世界のありようを確かに伝える。侵しがたいというほど大げさではなく、そこにい合わせた事を幸運に感じて、守りたいという気持ちにさせられる世界だ。
〈パレットの端に石榴のいろ作る〉〈消火器の剥き出しにある文化祭〉の二句。何気ないようだが、句の中に盛る内容に過不足がなく、それでいて独自の視点がある。〈切実な嘘なら許す柿たわわ〉にも惹かれた。句の鑑賞から逸れるけれども、嘘は許さないより、許せる方がよい。
福井拓也「冬が来るまでに」
〈冬が来るまでに〉の十句を読んで、連想の妙を感じた。先ず一句それぞれの中に意味性を絶つような飛躍、或いは言葉から言葉への連想がある。さらに、完全に独立している一句一句の間にも表立ってはいないがイメージの連鎖があり、集合体としての魅力があるのだ。おそらく言葉に対する感度を常に磨いている作者なのだろう。
例えば〈旅人はギリシヤの木槿銀時計〉〈とんばうとなりときどきは日の流れ〉〈燃ゆるならてのひら月の便りかな〉などは、法則を介在させない言葉のつながりが詩性を獲得していて魅力的だ。〈傾くと露とは軽き眠りかな〉〈秋風を誘へる笛の小さかり〉などの読み手に琴線にすっと届く句もまた、表現の精度が高い。そして思いがけないような優しさが滲む。
私が最も惹かれたのは、十句の掉尾に置かれた〈歩くほど砂漠へと冬隣かな〉。砂漠が何かを暗示しているなどと考える必要はないだろう。文字通り茫漠たる砂漠を思い描けばよいのだ。この句には説明のつかない良さがあると思う。言い換えれば、詩としての力があるのだ。
斉藤志歩「馬の貌」
屈折の無さが魅力的で、句柄が大きいと先ず感じた。句柄が大きいというのは何も気宇壮大なことを詠もうとしているとかではなく、十七文字の読み下し方に言い切る力強さがあるということだ。堅実に身の回りの出来事を題材にしながら、一句の世界は豊かで広い。俳句という詩形と相性がよい作家の句を読む時に抱く気持ちよさがあるのだ。大切に伸ばすべき個性だと思う。
〈朝寒やおとなの馬の貌をして〉〈蜻蛉に肉の貧しき躯かな〉の二句は、言われてみれば誰もがうなずきたくなる把握だが、類想感がない。鮮度がとてもよいのだ。対象を切り取る角度がこの作者独自のもので且つ、自然だ。馬の貌を思い浮かべてみた。馬齢に拘わらず、その顔立ちはほっそりと引き締まり、聡明そうだ。朝寒の大気の中に、仔馬から若駒になろうとする馬が立っている。〈おとなの馬の貌をして〉の一語に対象への愛情が宿る。蜻蛉の句には痛快感がある。言われてみれば本当に、肉など全くついてない貧しい躯だ。
〈肉入れて波の立つなり芋煮会〉〈かりがねや展望台の窓の罅〉〈籠を開ければこほろぎの匂ひ濃し〉の三句も確かな句で、この作者ならではの伸びやかさがある。
平井 湊「梨は惑星」
題材は多岐にわたり、一句一句の印象が鮮明である。作者の俳句を詠む若々しい勢いが、読み手に読む喜びを与えるとでもいえばよいのか、読後感が心地よい。この作者もまた、俳句の骨法との相性がよいのだ。若くして俳句のリズムが身についている。選ぶべくして俳句を選んだのだろう。
〈爽やかに号砲を撃ち直しけり〉〈星流る港と灯台のあひだ〉の二句には広やかな抒情性がある。真青な秋空の下、撃ち直した号砲が周囲に響く。爽やかな波動が句の中に広がってゆく。〈港と灯台のあひだ〉と詠んだことで、句の中におのずから夜の海の確かな存在感も感じられる。省略のきいた表現が生きている。
〈酔つてゐて惑星に似た梨を買ふ〉〈湯上がりの人の剝きたる林檎ぬくし〉の二句は、実感を伴った作者独自の発見である。特に二句目の、湯上がりの体温を林檎に感じるという把握にはオリジナリティ―があるのではないか。
〈秋霖や物書くにリハビリが要る〉〈火恋し画集の海のみな日暮れ〉のどこか陰翳を帯びた世界も魅力的であった。
第497号 学生特集号
第498号 学生特集号
↧
【週俳10月11月の俳句を読む】指一本だけが 山田耕司
【週俳10月11月の俳句を読む】
指一本だけが
山田耕司
見回して放屁一発秋の山 加藤静夫
そもそも聖なるものを俗なるところへと引きずり込むのが俳諧の腕の見せどころだったのだが、季語などはほっておくと軽々に茶化すこともはばかられる聖なるものとして扱われることもあり、なかなか気が抜けない。そうした「ありがたい方向へのうわすべり」のようなものは、形式が因習化したりすることで促進されるようで、歳時記を金科玉条とするノリで見れば、「秋の暮」なんて、伏し拝むような気持ちで深読みする人も少なくないのではないか。あえてそんな「うわすべり」を逆手に取ることもまた、俳句の面白みであるともいえるのだが。
「秋の山」という聖に対して、いかにも「放屁」が俗として配置されていると読むフシもあるだろうが、むしろ「見回して」のほうに俗があるという読み方の方が好みである。「楼門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな...」とキメるのは(あちらは桜だけど)、風景を見回してのことだ。石川五右衛門は南禅寺の楼門の上に一人で陣取っているわけだし、そもそもこの傑物、人の目なんて気にするような「小せえ」男のはずがない。一方、この句の〈見回して〉は、〈あたりの人の目をうかがいながら〉という人の営みの俗が示されているのだろうし、それでこそ俳句らしい顔つきが句に漂い始める。
まあ、いろいろうがった理屈を述べてみたところで、「放屁」は「放屁」で、これが句の器を小さく限定してしまっていることには違いないのだが。
塔といふ涼しきものや原爆以後 樫本由貴
〈原爆以後〉は、時間区分を説明する情報として提示されているわけであるまい。そこには、現実の被爆地や被爆者という客体ではなく、むしろ原爆投下以降の人類の思考にもたらされたざわめきや歪みのようなものが託されているのであろう。であるからこそ、この「塔」にもまた、静寂や秩序の喩としての性質がほどこされることになる。およそこのような認識は、俳句を社会的な批評性を託すメディアとして扱うことにもなりかねない。読者の方が勝手に都合の良い意味をくみ出してしまうのである(いうまでもなくその読者の一人として、句の作者も含まれてしまうことも)。この句における「涼しきもの」が、原爆の炎の対極としての意を託されているのだとしたら、まさしく、句は情報に解体されてしまうことだろう。しかし、「や」という俳句形式ならではの措辞を梃子の支点として、テーマが「涼し」という季語に注がれているようでもあり、そのことによって、この季語に新しい側面をもたらそうという意欲のようなものが句の眼目になっているとも読める。思うに、作者は、このような修辞の試行錯誤を自覚的に行う資質にあり、句を意味の集合体である情報の位相からむしろ引き剥がそうという意欲を持つ人なのではないかと、掲出されている他の句なども拝読しながら想像した。
切実な嘘なら許す柿たわわ 野名紅里
「たわわ」ということばは、それこそ、たいしたこだわりもなく使用され受け取られるものではあろうが、しみじみみるとそこはかとなく奇妙な気配を備えている。まあ、そう捉えることで「切実な嘘なら許す」という考え方に対する批評という立ち位置を「柿たわわ」に与えてみることにした。「切実な嘘」の「切実」とは何のどのような状況を指すのだかわからないけれど、とはいうものの「切実な嘘なら許す」には、「だから写実にしとけって言ったじゃん」という本道へと俳人を揺り戻そうとする契機の匂いがする。もはや慣用句のような趣において、人を特定の方向へと誘導してしまうのだ。それが〈「たわわ」の慣用性と、どっこいどっこいなんじゃないの〉というのが、それなりな批評性になりうるというヨミだ。しかし、このフレーズを、作者が本気でありがたいものだと思っている可能性もあり、そうなると、「柿たわわ」は、そのメソッドによってもたらされる豊穣のようなものを暗示しているようであり、ちょっと冴えない。
いわし雲微熱の指の長さかな 福井拓也
指一本だけが微熱を発しているのではないだろう。発熱することで意識の上に顕在化した身体を、さらに、部分として即物的にとらえなおそうとしての「微熱の指の長さ」と読んだ。「指」が最適なのかはあやぶむむきもあるだろうが、仮に「鼻の高さ」などでは慣用的な意味合いが余計な仕事をしてしまうだろうし、性器などを持ち出したら、句としての面白みがベタベタのネタサイドに落ちてしまう可能性があるわけだし、こういう斡旋はなかなか難しい。普段は機能と不可分に捉えられる「指」を「長さ」という評価において即物化する、その眼差しにおいて見つめ直す「いわし雲」。気象現象という物理的機能でもなく、抒情の拠り所という物語る上での機能でもなく、むしろ、何かの役に立ちそうな側面を排除した上で「いわし雲」を扱っているわけだが、そうした言葉のさばき方に、俳句への姿勢が豊かに見えているように思えた。
かりがねや展望台の窓の罅 斉藤志歩
「かりがね」は、いうまでもなく雁を指すのだが、それがどのような状態の雁を想起させるかは、言葉の内実として規定されているわけではない。であるからこそ、どういう側面を導き出すかが、作品としての面白みにつながる。展望台の窓というからにはある程度の高さにある窓であり、そう簡単に開閉できるものではないだろう。それにヒビがある。ここから、「たまにはぶつかってくることがあるんですよね、雁が。こないだも激突しちゃって、こんなところに、ほら、ヒビが」というようなヨミが広がるとしたら、句は一気に収縮し、情報の連なりとなってしまうことだろう。それでは、せっかく「や」で膨らませた甲斐がない。ある程度の高さの窓、人の営みにまつわるものはおおむねその向こうにはなく、ただ空が広がるばかり。ヒビは、物質の破損というよりは、やや抽象的にさえ感じる平面の上での図形として認識される。一群が飛ぶV字の編隊などを想起すれば、「かりがね」との詩的な回路は開通するだろう。ま、これは、かなり恣意的なヨミではあるが。格助詞連体修飾の「の」がふたつでは、表現に揺らぎが乏しく、ちょっともったいない、とも思った。
酔つてゐて惑星に似た梨を買ふ 平井湊
「酔つてゐ」ることが、ふと「梨を買ふ」行為につながったのか、梨が「惑星に似た」感覚を持つに至ったのか、その辺は定かではない。なんといっても気に入ったのは、この句を擁しつつ、一群の作品のタイトルを「梨は惑星」とまとめたところ。
ものごとの因果関係の条理からのふらりとした離れ方が面白いな、と、「台風一過両耳をよく洗ふ」を読んで思った次第。
指一本だけが
山田耕司
見回して放屁一発秋の山 加藤静夫
そもそも聖なるものを俗なるところへと引きずり込むのが俳諧の腕の見せどころだったのだが、季語などはほっておくと軽々に茶化すこともはばかられる聖なるものとして扱われることもあり、なかなか気が抜けない。そうした「ありがたい方向へのうわすべり」のようなものは、形式が因習化したりすることで促進されるようで、歳時記を金科玉条とするノリで見れば、「秋の暮」なんて、伏し拝むような気持ちで深読みする人も少なくないのではないか。あえてそんな「うわすべり」を逆手に取ることもまた、俳句の面白みであるともいえるのだが。
「秋の山」という聖に対して、いかにも「放屁」が俗として配置されていると読むフシもあるだろうが、むしろ「見回して」のほうに俗があるという読み方の方が好みである。「楼門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな...」とキメるのは(あちらは桜だけど)、風景を見回してのことだ。石川五右衛門は南禅寺の楼門の上に一人で陣取っているわけだし、そもそもこの傑物、人の目なんて気にするような「小せえ」男のはずがない。一方、この句の〈見回して〉は、〈あたりの人の目をうかがいながら〉という人の営みの俗が示されているのだろうし、それでこそ俳句らしい顔つきが句に漂い始める。
まあ、いろいろうがった理屈を述べてみたところで、「放屁」は「放屁」で、これが句の器を小さく限定してしまっていることには違いないのだが。
塔といふ涼しきものや原爆以後 樫本由貴
〈原爆以後〉は、時間区分を説明する情報として提示されているわけであるまい。そこには、現実の被爆地や被爆者という客体ではなく、むしろ原爆投下以降の人類の思考にもたらされたざわめきや歪みのようなものが託されているのであろう。であるからこそ、この「塔」にもまた、静寂や秩序の喩としての性質がほどこされることになる。およそこのような認識は、俳句を社会的な批評性を託すメディアとして扱うことにもなりかねない。読者の方が勝手に都合の良い意味をくみ出してしまうのである(いうまでもなくその読者の一人として、句の作者も含まれてしまうことも)。この句における「涼しきもの」が、原爆の炎の対極としての意を託されているのだとしたら、まさしく、句は情報に解体されてしまうことだろう。しかし、「や」という俳句形式ならではの措辞を梃子の支点として、テーマが「涼し」という季語に注がれているようでもあり、そのことによって、この季語に新しい側面をもたらそうという意欲のようなものが句の眼目になっているとも読める。思うに、作者は、このような修辞の試行錯誤を自覚的に行う資質にあり、句を意味の集合体である情報の位相からむしろ引き剥がそうという意欲を持つ人なのではないかと、掲出されている他の句なども拝読しながら想像した。
切実な嘘なら許す柿たわわ 野名紅里
「たわわ」ということばは、それこそ、たいしたこだわりもなく使用され受け取られるものではあろうが、しみじみみるとそこはかとなく奇妙な気配を備えている。まあ、そう捉えることで「切実な嘘なら許す」という考え方に対する批評という立ち位置を「柿たわわ」に与えてみることにした。「切実な嘘」の「切実」とは何のどのような状況を指すのだかわからないけれど、とはいうものの「切実な嘘なら許す」には、「だから写実にしとけって言ったじゃん」という本道へと俳人を揺り戻そうとする契機の匂いがする。もはや慣用句のような趣において、人を特定の方向へと誘導してしまうのだ。それが〈「たわわ」の慣用性と、どっこいどっこいなんじゃないの〉というのが、それなりな批評性になりうるというヨミだ。しかし、このフレーズを、作者が本気でありがたいものだと思っている可能性もあり、そうなると、「柿たわわ」は、そのメソッドによってもたらされる豊穣のようなものを暗示しているようであり、ちょっと冴えない。
いわし雲微熱の指の長さかな 福井拓也
指一本だけが微熱を発しているのではないだろう。発熱することで意識の上に顕在化した身体を、さらに、部分として即物的にとらえなおそうとしての「微熱の指の長さ」と読んだ。「指」が最適なのかはあやぶむむきもあるだろうが、仮に「鼻の高さ」などでは慣用的な意味合いが余計な仕事をしてしまうだろうし、性器などを持ち出したら、句としての面白みがベタベタのネタサイドに落ちてしまう可能性があるわけだし、こういう斡旋はなかなか難しい。普段は機能と不可分に捉えられる「指」を「長さ」という評価において即物化する、その眼差しにおいて見つめ直す「いわし雲」。気象現象という物理的機能でもなく、抒情の拠り所という物語る上での機能でもなく、むしろ、何かの役に立ちそうな側面を排除した上で「いわし雲」を扱っているわけだが、そうした言葉のさばき方に、俳句への姿勢が豊かに見えているように思えた。
かりがねや展望台の窓の罅 斉藤志歩
「かりがね」は、いうまでもなく雁を指すのだが、それがどのような状態の雁を想起させるかは、言葉の内実として規定されているわけではない。であるからこそ、どういう側面を導き出すかが、作品としての面白みにつながる。展望台の窓というからにはある程度の高さにある窓であり、そう簡単に開閉できるものではないだろう。それにヒビがある。ここから、「たまにはぶつかってくることがあるんですよね、雁が。こないだも激突しちゃって、こんなところに、ほら、ヒビが」というようなヨミが広がるとしたら、句は一気に収縮し、情報の連なりとなってしまうことだろう。それでは、せっかく「や」で膨らませた甲斐がない。ある程度の高さの窓、人の営みにまつわるものはおおむねその向こうにはなく、ただ空が広がるばかり。ヒビは、物質の破損というよりは、やや抽象的にさえ感じる平面の上での図形として認識される。一群が飛ぶV字の編隊などを想起すれば、「かりがね」との詩的な回路は開通するだろう。ま、これは、かなり恣意的なヨミではあるが。格助詞連体修飾の「の」がふたつでは、表現に揺らぎが乏しく、ちょっともったいない、とも思った。
酔つてゐて惑星に似た梨を買ふ 平井湊
「酔つてゐ」ることが、ふと「梨を買ふ」行為につながったのか、梨が「惑星に似た」感覚を持つに至ったのか、その辺は定かではない。なんといっても気に入ったのは、この句を擁しつつ、一群の作品のタイトルを「梨は惑星」とまとめたところ。
ものごとの因果関係の条理からのふらりとした離れ方が面白いな、と、「台風一過両耳をよく洗ふ」を読んで思った次第。
第497号 学生特集号
第498号 学生特集号
↧