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あとがきの冒険 第17回 会える・ときに・会える 時実新子『新子流川柳入門』のあとがき

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あとがきの冒険 第17回
会える・ときに・会える
時実新子新子流川柳入門』のあとがき

柳本々々


以前、時実新子さんの直筆の葉書をみせていただたいことがあるのだが、そこには「人は会えるときには会えるのです」と書かれてあった。

私は家に帰るとすぐに勇気のノートにその言葉を記した。「人は会えるときには会えるのです」

時実さんが繰り返し述べていたことばに「一句一姿」というものがある。
川柳はもともと一句一姿(いっし)の立姿です。一句で立ち、すべてを語るものなのです。(時実新子「川柳と生きる」『新子流川柳入門』ネスコ、1995年)
「句」に「姿」のすべてが出るのだ、という考え方。もっと言えば、〈ことば〉から〈姿〉が立ち上がってくるということ。

まず、ことばがあって、姿が決まる。これは「人は会えるときには会えるのです」という先ほどのことば自体もそうである。いい言葉だけれど、なにが〈いい〉のか少し注意深く読んでみよう。まず「会える」が反復されている。「会える」という同じことばが二度反復されることで、〈(わたしの)会える〉が〈(あなたの)会える〉につながっていく。

しかも韻の「る」でも構造的につながっていく。「会える」の「る」はもうひとつの「会える」の「る」とつながりあい、ことばの上で共同体を育んでいく。「会える」という言葉自体が「会える」に出会い、つながりあう構造になっているのだ。

「会えるときには会える」は、まず言葉の構造のなかで〈出会え〉ている。だから、わたしたちは、この言葉を言葉として信じられる。

会えるときには会えるという感情的なメッセージ性を支えているのは実はクールな言葉の構造に裏打ちされているのだ。そしてその両方が揃ってはじめて言説の強度が成立する。

ちょっと時実さんの句を引用してみよう。

  目の前に水晶玉がある逢える  時実新子

  何だ何だと大きな月が昇りくる  〃

  菜の花菜の花子供でも産もうかな  〃

  女が女を見ているとさみしいね  〃

ここにあるのはメッセージ性を支える言語構造、韻による補強である。繰り返される「る」・「だ」・「な」・「み」。新子句はメッセージ性《だけ》をとらえられがちだが、それよりもまして、そのメッセージ性を支える《韻の技術》がある。

新子さんの川柳にとって《韻》とはなんだろう。それは一貫性としての意志なのではないかとおもう。葉書の文言もそうだが、反復されることにより、そこにはじめて語り手の主体と意志がたちあらわれる。姿、が。

ことばから姿がたちあがるとはそういうことなのではないかと思う。韻というシスマティックな言語技術によりながらも、しかしそこをふりきれてあるメッセージ性の同時成立。

あとがきを引用して終わる。
まず私は、「あなた」に向かって一対一でお話しました。私があなたの目から目を外らさなかったように、あなたも私の目を見て熱心に聞いてくださいました。……それがあなたの川柳です。
(時実新子「あとがき」『新子流川柳入門』ネスコ、1995年 所収)




評論で探る新しい俳句のかたち(4) それ、作り手の論理で俳句を語っていません? 藤田哲史

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評論で探る新しい俳句のかたち(4)
それ、作り手の論理で俳句を語っていません?

藤田哲史


「近代俳句と現代俳句の違いは構造により詩性を表す意図があるか否か」にある、と書いた前回記事。このあたり、もう少し書き足してみようと思う。

先週の記事で、「取り合わせ」という用語を使ったのだけれど、決して私は「取り合わせ」という技法で近代俳句と現代俳句を区分したいわけではない。この「取り合わせ」は、近代俳句以前、少なくとも芭蕉までさかのぼることもできる作り方だ。そんな古っぽい技法の有無で俳句の近代/現代を区分できるとは考えてはいない。

むしろ、この連載は、そういった方法論に極力触れずに、結果として存在する作品から表現を語る、という目標をもって書いている。俳句はつまるところ言葉でしかない。特定の人にしか伝わらない文脈はありうるし、俳句を作った方がわかりよくなる、というのはありうる。けれど、俳句を言葉以上の何かが律することなどあってはならない。

表現全体を的確に捉えるため、方法論でなく、語彙、文体、構造といった点から表現を捉えていこう―——というのが、この連載の要なのだ。

先週の「週刊俳句」の記事で、正岡子規・高浜虚子・山口誓子などの作品を並記して、全て同じ構造をしていると主張したところ、その「週刊俳句」後記で福田若之さんから、金子兜太の「造型俳句六章」をふまえると、映画におけるエイゼンシュテインの衝突法のモンタージュを俳句の構成に関連付けた誓子は「現代俳句」の側の作家ではないか、との指摘があった。

ただ、ここでの山口誓子の「構成」も結果としての作品の構造ではなく、方法論の一つだろう。繰り返しになるけれど、この連載は方法論で表現を語ることはしない。だからこそ、この文章では、ことさら作家別に区分けをすることもしない。同じ作家のものであっても、ある作品はAで、もう一つの作品はBらしい、といった判断もありうる。

ちなみに、この指摘のよりどころとなった「造形俳句六章」は、昭和36年発表の金子兜太による俳句評論なのだけれど、この評論の目的の1つに、正岡子規以降の俳句表現方法論の最新版として「造型」があることを示すことがあった。

私はこの評論が現在も有効と思わない。正岡子規が新聞「日本」掲載の「俳諧大要」で俳句の文学宣言をしたのが明治28年(1895年)。金子兜太が雑誌「俳句」に「造型俳句六章」を書いたのが昭和36年(1961年)で、この66年後だ。今は、2016年。その「造型俳句六章」から55年目にあたる。「造型俳句六章」執筆当時の金子兜太は、この55年間の俳句表現の歩みを全く知らない。

と、ここで掘り下げていきたいのは、この連載の肝となる俳句の構造と呼ぶものの正体だ。次回以降、さしあたって、「前衛俳句」の作家たちの作品と鑑賞文から俳句の構造について探っていってみたい。

奇人怪人俳人(14) 詩人俳人・平井照敏  今井 聖

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奇人怪人俳人(14)
詩人俳人・平井照敏
(ひらい・しょうびん)

今井 聖
『街』第122号より転載

「僕の家で句会をやってるんですが、来てみませんか」

一九七一年一二月、初めて行った「寒雷」の句会で平井照敏さんが声を掛けてくれなかったら僕はどんな雑誌に所属しどんな俳句を作っていただろうか。想像もつかない。ただ、どこに行こうと俳句を作っていたことは確かだ。なぜならその時点で、それしか自分にはすることは何もなかったのだから。

その年三月僕は明治学院に入学して上京して来たのだった。

その前年には、二浪目に住んでいた京都から、大阪の天狼の句会に山口誓子を(見に)行き、その目的は果たした。

上京したのだから、次には、まず念願の加藤楸邨を見て、次に中村草田男を見に行くつもりだった。

僕が高校時代に憧れた俳人。まずもってこの三人の句会には出てみたかった。もう一人居た憧れの人、石田波郷は二年前に亡くなっていた。

照敏さんの自宅は蒲田にあった。

青山女子短大での教職で加藤楸邨と同僚になった照敏さんは、当時、既に『エヴァの家族』という詩集を出していた学者詩人。学者詩人という言い方はおかしいけれど現実。詩人革命家と自称したのは確か啄木だったか。

学者にあらずんば詩人にあらずという状況がこの当時からずっと続いている。もちろん例外はあって、その例外の方こそ本物だと門外漢は思うのだけれど。

東大仏文科出でパリへの留学も了えたこの典型的な学者詩人は、職場で楸邨に惹かれ俳句に魅力を見出し、寒雷に投句し、この年に森澄雄さんのあとを受けて編集長となっていた。

彼は、フランスの詩人「イブ・ボンヌホア」の訳者であり、日本への紹介者としても知られる。自分の研究対象、ボンヌホアの作品と俳句に共通点を見出したのも俳句を書き出した大きな動機だったらしい。

照敏さんは僕を可愛がってくれた。月に何度か句会があり、寒雷のメンバーの何人かが出席していた。句会の日以外の日でも僕は 彼の家を訪れて、奥さんの手料理をごちそうになった。ソフトな語り口で、優しい印象だったが、強烈な自負心も隠さなかった。自宅句会の席で、

「来月は、ここに石原吉郎さんを呼びましょう」とことも無げに言う。

その話こそ実現しなかったが、親しかったさまざまな高名な詩人の話をしてくれた。木原孝一さんや清岡卓行さんのこと。

入れ代り立ち代り俳人が訪れた。当時、寒雷の編集部にいた、石寒太さん、小檜山繁子さん。関西から訪れた岡井省二さんともここで初めて出会った。

「寒雷にルネッサンスを」が照敏さん発案の当時のスローガンだった。

七二年九月号は「寒雷」三五〇号記念号、そこに昂揚した照敏さんの後記がある。
「寒雷」三五〇号を記念する北海道の全国大会は大成功だった。(中略)「寒雷」の新しい渦が大きくめぐりはじめたと感じたのはぼくだけではなかったろう。ぼくは毎晩二時、三時までおしかける若手に句会攻めにされ、ふらふらになりながらこの寒雷再生の渦をさらに激しく、さらに力強いものに育てていかなくてはならぬと思った。が渦はすでにまきはじめていた。ぼくはその渦にのみこまれてゆくを自分を嬉しいと思った。
当時の「寒雷」の東京句会の主要メンバーは、楸邨夫妻、編集部を始め、秋山牧車、佐久間東城、牧ひでを、並木鏡太郎(嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」の映画監督)、久保田月鈴子、川崎展宏、猪俣千代子さんらが常連。田川飛旅子さんや、桜井博道さんらが準常連といったところ。和知喜八さんや相葉有流さん、まだ同人ではなかった長野の矢島渚男さんや博多の姜基東(カンキドン)さん(今の「俳句界」社長)も遠くから時折顔を見せた。異色のメンバーとしては、河童の漫画家清水昆さん(俳号孤音)、小林多喜二夫人の森熊ふじ子さんら。

とにかく、男臭い句会だった。句会のあとは必ず居酒屋に立ち寄る。楸邨選に入った人をお祝いするという名目で、その実、選に入らなかった大多数の愚痴のオン・パレード。

議論が白熱し、ときには掴み合い寸前までいく。口角泡を飛ばして議論をすることが、座を交えた人への誠実な挨拶というふうな当時の社会通念があったような気がする。

議論の中で、皆、師を「楸邨、楸邨」と呼び捨てにした。誰かが「楸邨先生は」というと、「楸邨を先生などと呼ぶのは寒雷ではモグリだ」などと怒鳴られる始末。

こういう雰囲気は、それまでの僕の句会遍歴の中には無かった。

その理由を今になってつくづく意義深く考えている。

「寒雷」には、現場の労働に携わっている人が多かった。

楸邨の周辺には、照敏さんもそうだが、金子兜太、久保田月鈴子、田川飛旅子(初期には澤木欣一、原子公平)など東大卒の各界のエリートがいた。楸邨の出身校東京文理大(現筑波大)卒の教職者も多かったけれど、それらにも増して、現場の労働に携わるいわゆるブルーカラーの人たちが多くいた。

農業、漁業、養蜂業、板前、美容師、国鉄の運転士、炭鉱での採掘業務、鉄の精錬、トラックの運転手等々。

また視覚や肢体に障害のある人や桜井博道、小檜山繁子、平沢美佐子、野口大輔さんなど、長く結核療養所で過ごした人たちも多かった。

このことの意味は当然楸邨の俳句についての考え方とつながっている。

楸邨が「馬酔木」から離れたのは、美しい色調を取り入れた印象画ふうの外景描写に飽き足らず、「人間」を描きたかったためと言われる。

「俳句の中に人間が生きるように」。

楸邨自身が言ったことばであることは間違いない。しかし、その意味するところは、かなり誤解をされているように思う。

山本健吉が名づけた「人間探求派」という呼称にあまりにも強烈なインパクトがあったため、このコピー自体がひとり歩きしてしまい、楸邨や「寒雷」にはいつも「人間」という言葉がつきまとう。

「人間探求派」、観念派楸邨。人間、つまりヒューマン、そしてヒューマニズム。
これらの連想や印象がもたらしたものは楸邨俳句の本質や「寒雷」登場の意義とずれていたのだと最近になって特に感じている。

楸邨が希求したのは、人間が生きている現実の中で、直接、人や事物や事柄から五感で受け取る「気息」や「息吹」や「体感」。

蓄積された情趣や先入観や既存のロマンを抜けたところにある、その時その刹那の「リアル」そのもの。

人間の生きる意義とか、人間かく在るべしという「教訓」を俳句で述べることなどではない。むしろ、そういう観念とは対極にある一回性の対象との出会い。つまり新しい自分との邂逅。

花鳥諷詠は、固定的な俳句的情緒を季語の本意という名目にすりかえ、一方で「新興俳句」は「言葉」の本質に触れねばと声高に啓蒙しながらシュールレアリスムやオートマティスムなど近代自由詩の従来的手法を俳句形式に縮刷することに躍起となった。

花鳥諷詠にとって、「秋の蝶」は「いわゆる」弱々しい蝶であらねばならず、新興俳句の中の「兵」や「戦争」も「概念」としての埒を出ない。西東三鬼や三橋敏雄が空想で書いた「戦火想望俳句」というのがいい例である。聞いてもいない機関銃の音を詠い、見てもいない最前線の戦闘をアタマの中で活写する。そこにあるのは「いわゆる」戦争。

つまり、両者とも「いわゆる」付きの定番概念。

楸邨が、現場の労働者の労働実感や療養者の切実さから受け取ろうとしたのは、概念ではない「リアル」。

昭和三十年代から四十年代にかけての加藤楸邨選の一般投句欄、「寒雷集」の巻頭作品の中から具体的に見てみよう。

起てぬ身に金魚の尾鰭絶えず動く  岸川和子

青桃や今欲しきもの今告げたし  矢部栄子

岸川さん、矢部さんは療養者。これらの作のあと、まもなく夭逝。

雪の坑車へ大き鑿岩機抱き運ぶ  福島昌美

蛙けろけろほら吹き坑夫三太の忌  野宮猛夫

福島さん、野宮さんは炭鉱坑内作業に従事。

露の熊笹北斗より風湧きおこる  伊藤霜楓

伊藤さんは富士山山頂の測候所職員。

鰯雲頭に機関士の来し方満つ  田角瑞芳

泉飲んで機缶(かま)蒸れの臍息づけり  鈴木正治

田角さん、鈴木さんは国鉄機関士。

髪も紅も突つ込む蕎麦の湯気の中  秦鈴絵

秦さんは美容師。

太刀魚の立ち泳ぐさま傘で言ふ  加藤精一

加藤さんは板前。

これらの句の切実感を見てほしい。

現場の人たちの実感がこころを打つのは、作者が「現場の人」だからではない。傍観者的態度では把握できないリアルさに満ちているからだ。

これらの俳句がともすれば、「職場俳句」とか、敷衍して「社会性俳句」の名を冠せられるのは、正しい理解とは言えない。楸邨登場の意義ともずれて来ている。

現場のナマの実感つまりリアリズムが、しだいに、「社会性」という名の政治性(党派性)やべたべたのヒューマニズムに転化して受け止められていく。それは党派性へと導く意図のあった俳人古澤太穂さんなどのマルキストや多くの自称リベラリスト、そして、その違いをはっきりさせらなかった楸邨自身にも原因がある。

そもそも論理的であり、情の深い体質をもつ楸邨は、ナマの実感を詠んでも、それがヒューマニズムや隠喩に転化してゆくのを抑えられない。

読者が、楸邨のリアル志向を「教訓」や「箴言」にしてしまうのは楸邨自身の体質のせいもあるのだ。しかし、楸邨が志したのは、そういう転化してゆくリアリズムではなく、この人たちが、身体を通して「感じた」即時的なポエジーだった。

東京句会に出席して何度目かに、同人会長の秋山牧車さんが、「寒雷」の戦前の号を何冊か僕にくれた。勉強しろという意味だったのだろう。

牧車さんは、戦前に「寒雷」に入会した当時は大本営の陸軍情報参謀。もともと「馬醉木」に居たが十五年の「寒雷」創刊に馳せ参じたのだった。

戦後、楸邨が草田男から戦争責任の問題について公開の質問を受けたとき、その質問項目のいくつかは、軍人高官を結社内に置いて、雑誌存続等の便宜を図ったのではないかということに関する内容。つまり牧車さんのことを言っていたのだ(戦前、「寒雷」には他にも清水清山中将や本田功中佐らの軍人高官もいたが、情報参謀として文化的に影響力のあったのは牧車さんだったため)。

楸邨は草田男の問いにやはり公開できちんと応えているが、牧車さんはこのことで楸邨や「寒雷」に多大な責任を感じ、戦後の一時期には私財を投じて「寒雷」の維持に奔走した。

牧車さんの呉れた「寒雷」旧号には、「寒雷」とは無縁と思われた有名俳人が多く登場していた。

十六年十月号創刊号の一般選寒雷集次巻頭は永田耕衣。(当時は軍二)

少年工玉葱は地に一つ一つ  永田耕衣

十七年三月号二句欄に能村登四郎。

寒すずめ瓦斯の火ひとつひとつ点きぬ  能村登四郎

十七年九月号一句欄に八木林之助。

胡桃茂り徴兵検査身にせまる  八木林之助

十八年十月、十一号各一句欄に藤田湘子。

吊革の細き電車に歸省かな  藤田湘子

寝返へれば庭にもうとき残暑かな

十八年十月号に中島斌雄(当時中島健雄)。

紅芙蓉ゆれゐてしろき蚊帳に覚む  中島斌雄

他にも外山滋比古という名前も見える。

戦前のごく一時期の「寒雷」を開いただけで、これである。戦後からの長い時期を見れば、どれほど多くの俳人が「寒雷」を通り抜けたことだろう。

戦前の国策による俳誌統合を、牧車さんらの肝煎りで狡猾にもまぬがれた「寒雷」が、統合された新興俳句系の雑誌に拠るべきであった多くの有為の俳人を吸収した、というのが高柳重信さんの固執していた見解で、昭和四十年代から、この見解による「寒雷」攻撃を、自分が編集する雑誌「俳句研究」で繰り広げていたのを思い出す。

「寒雷」が俳誌統合をまぬがれたのは事実だし、新興俳句系の俳誌が廃刊に追い込まれたのも事実だが、その事実の推移に、「寒雷」の側のなんらかの政治力が働いていたという事実はない。

それよりも、新興俳句運動が先細りになったのは、その運動の内実自体に原因があったと重信さんは考えなかったのか。

照敏さんの句会では、早稲田の学生の豊田秀明さん、国学院の大塚青爾さんと句座を交えた。

このメンバーに石川桂郎に師事していたやはり国学院の島谷征良さんを加え、関東学生俳句連盟が作られた記憶がある。この集会に一度出たがそれっきりになってしまった。当時の学生運動の熾烈さがあり、そこへの共感から、「学生」と名前のついた組織が、どういう形であれ運動に関わらないことのうしろめたさがあったからだ。

日大闘争では、日大の「釣り同好会」が勇名を馳せた。

釣り同好会の幟が機動隊とのゲバルトの最前線に張りついていたのだ。「関東学生俳句連盟」とて、何か有効なことをやるべきだというジレンマが僕の中にあった。

現在、島谷さんは「一葦」を主宰し、この年に寒雷巻頭を獲った大塚さんはその後消息不明、豊田さんは大橋巨泉さんの娘さんと結婚され、去年他界された。

照敏さんは、自宅句会のメンバーで「山繭」という同人誌を作っていた。小檜山さんや寒太さんも入っていて、豊田さんや大塚さんや僕もそれに加わった。

しかし、照敏さんの流麗、明快な論旨に比して、彼の作品ははっきり言って僕は好きになれなかった。

初期の句で自選にも入れておられる、

万緑や鴉の目玉もりあがる

雲雀落ち天に金粉残りけり

紅椿おくれて芽ぐむ木を信ず

生き作り鯉の目にらむまだにらむ

機智はある。それもあまり新鮮ではない機智が。

それより、何よりも現実から受けとる切実な実感がない。言葉の緊張感が感じられないのだ。俳句はこうあらねばという意識が即時的で素朴な実感をひん曲げている。

要するに言葉に対する運動神経のごときが不足。

寒雷会員は加藤楸邨というひとりの指導者に師事しているのであって、そういう意味では僕も照敏さんも同等の仲間であり、作風がお互いに違うのは当然のことと考えてよい。
ただ、なかなかそう建前どおりにはいかない。

照敏さんには、同人誌「山繭」を拡大発展させて主宰誌にしようとする意図があった。

それは近くにいる誰の目にも明白だった。

そしてその意図が見えること自体は決して不自然なことではなかった。

金子兜太、澤木欣一、森澄雄、和知喜八、古澤太穂、原子公平、久保田月鈴子、斎藤美規、熊谷愛子、小野蒙古風、原田喬等の俳誌主宰者は寒雷出身である。「寒雷」に投句経験があるというだけの自称弟子まで入れると正確な数がつかめないほどの主宰誌が「寒雷」から独立している。

力のある俳人が多かったことがその理由なのだろうが、同人や会員の集合離散にまったく楸邨が無関心だったせいでもある。寒雷では、何もかも、楸邨批判でさえ自由だった。だから破門などということも一件もなかった。

その前年、昭和四五年に森澄雄さんが創刊した「杉」もご他聞にもれず、十数年間も寒雷の編集長をやってきた森さんの人望もあり、むしろ楸邨の祝福を受けるかたちで出発したのだが、寒雷の主要同人や有力会員が根こそぎと言っていいほど数多く参加したため、同人の一部から反発があった。

寒雷誌上に古参の久保田月鈴子さん(現代俳句協会幹事長でもあった)が、「松だか杉だか知らないが」という「杉」の人集めに対する皮肉を書いて物議を醸したことがある。
楸邨もこれには困ったのだろう。句会で「森くんを応援してあげて欲しい。そして寒雷一本で頑張るという人も大いに頑張って欲しい」という異例の発言があったのを覚えている。

そんな中での現役編集長照敏さんの「山繭」だった。

照敏さんは、僕や早稲田俳句会の豊田秀明さんを可愛がってくれていた。

僕らを子飼いとして、来たるべき自分の主宰誌の中核に据えるつもりでいたに違いない。

そのことを僕らは感じ取っていた。しかし、それは、僕にとっては、むしろ迷惑な思惑だった。

同人誌「山繭」が照敏さん主宰誌に変わる前に自分の意志をはっきり告げなければならない。

そこで僕は照敏さんに手紙を書いた。

僕は山口誓子を最大に評価していて、その呪縛からの脱出口を探るために「寒雷」に来た。俳句性の核心は、イメージが鋭く断絶しところに散る火花にある。僕はそういう前提を置いて楸邨を学んでいるので、あなたの句柄の流麗な文体と機智は僕の志向するところではない。

そんな文面だった。もっと失礼なことも書いた気がする。

あなたには才能を感じないとも。

僕の方があるとまでは書いたかどうか。

怖いものは何もなかった。受験をはじめあらゆることがうまくいかなかった劣等感や焦燥感の裏返しが、俳句という一点に向ってのプライドを滑稽なまでに肥大化させていた。

文体の好みが違っても、一緒にやることはできます。

照敏さんから優しく論理的な返事がきたが、彼とはそれきりになった。

彼はその後一年で、公務多忙を理由に編集長を辞める。

「寒雷」の古参の人たちと相容れなかったという噂もあった。結局、彼は編集長ばかりか、寒雷同人も辞し、逃れるように退会して、「山繭」を改め「槙」を創刊することになる。編集長在任は三年であった。

そのこと以降二〇〇三年に照敏さんが亡くなられるまで、一切の交信はなかった。
照敏さんの、あの自信に満ちた、それでいて、純粋な子供のような笑顔を思い出すと、何か、ほろ苦い、申し訳ないような複雑な気持ちが湧いてくる。

(了)


平井照敏作品抄

金木犀の香の中の一昇天者

雲雀落ち天に金粉残りけり

万緑や鴉の目玉もりあがる

雲雀落ち天に金粉残りけり

紅椿おくれて芽ぐむ木を信ず

生き作り鯉の目にらむまだにらむ

ふと咲けば山茶花の散りはじめかな

死顔が満月になるまで歩く

いつの日も冬野の真中帰りくる

雪解けといふ愉しさを来りけり

秋風やきのふはしろきさるすべり

みな去れば冬大空のごときかな

木下闇抜け人間の闇の中

河鹿とはまろべる珠のごときもの

フリードリヒ・ニーチェのごとき雷雨かな

うりなすびきびとうがんと病みにけり

旅人に終の旅あり夏暁

「はる」といふことばの春がきてをりぬ



「街」俳句の会 (主宰・今井聖)サイト ≫見る

週刊俳句 第503号 2016年12月11日

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第503号
2016年12月11日

2016 角川俳句賞落選展≫見る
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奇人怪人俳人(14) 
詩人俳人・平井照敏
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評論で探る新しい俳句のかたち〔4〕
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あとがきの冒険 第17
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〔今週号の表紙〕第503号 上高地の河童橋から
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後記+プロフィール 第504号

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後記 ● 村田 篠


久しぶりに通常運転に戻り、第504号をお届けします。

今週の10句作品は、「週刊俳句」の元当番としておなじみであり、今年第3回攝津幸彦賞を受賞した生駒大祐さん。落選展、学生特集、500号記念号とさまざまな特集が続きましたので、特集以外では2ヶ月ぶりの10句作品になりました。

そしてふと気がつけば、今年もあと1号を残すばかりです。

みなさま、どうぞ風邪などにお気を付けて、ご多忙の歳末を乗り切られますように。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。

no.504/2016-12-18 profile

■生駒大祐 いこま・だいすけ
1987年三重県生まれ。「天為」。「手紙」「クプラス」「オルガン」。「週刊俳句」。ustream番組「Haiku Drive」。第3回攝津幸彦賞。 

柳本々々  やぎもと・もともと
かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com 

■藤田哲史 ふじた・さとし
1987年三重県伊賀生まれ。2006年東大学生俳句会に参加。2007年俳句結社「澤」に入会。2009年澤新人賞受賞、同年俳句アンソロジー『新撰21』に参加。現在無所属。生駒大祐と俳句系ウェブメディア「Haiku Drive」を不定期更新中(ちゃんとやれ)。 

■角谷昌子 かくたに・まさこ
「未来図」同人。俳人協会幹事、国際俳句交流協会評議員、日本文芸家協会会員。詩誌「日本未来派」所属。句集に『奔流』『源流』。

 ■矢野玲奈 やの・れいな
 「天為」「玉藻」同人。句集に『森を離れて』。

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」

〔今週号の表紙〕第504号 山下公園 矢野玲奈

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〔今週号の表紙〕
第504号 山下公園

矢野玲奈

三歳児のムスコを連れて、山下公園へ。

空を見上げ、海を眺めることが出来た。

ほんの数分のこと。

ムスコの手を掴みながら、写真が撮れた。

ほんの数秒のこと。

そんな休日。


週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

【八田木枯の一句】金屏のうしろの襖あいてをり  西村麒麟

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【八田木枯の一句】
金屏のうしろの襖あいてをり

西村麒麟


金屏のうしろの襖あいてをり     八田木枯

「八田木枯少年期句集」より。

 

襖がどの程度開いているのかは、書かれていない情報なので、読者次第。全開でも良いし、ほんの少しでも良い。

どちらにしても金屏の奥、襖の向こう側の空間は変わらないはずなのに、不思議と面白さが変わってくるのではないだろうか。

襖が全開なら、その前の金屏に奇妙な違和感があるだろうし、襖が少しだけあいているのなら、その隙間の暗さは異界へと繋がる扉のようにも見える。

なんでもない日常を、少し奇妙に感じることは、愉快な遊びだ。



【八田木枯の一句】惜しまざるものありや年惜しみけり  角谷昌子

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【八田木枯の一句】
惜しまざるものありや年惜しみけり

角谷昌子


惜しまざるものありや年惜しみけり     八田木枯

「鏡」3号より。『八田木枯全句集』所収。       

木枯最晩年のこの句、この世の中に「惜しまざるものありや」との問いかけは、読者に向けられているというより、自分自身の心の奥底に呼び掛けているようでもある。下五の畳み掛けるような「年惜しみけり」は自問自答の軽やかさではなく、己の生涯を回顧した末の重量が掛かっている。だが「けり」の詠嘆は単なる感慨に終わっていない。木枯は重篤な肺の病という、逃れようのない運命を負いながら、しみじみと来し方を振り返っている。そこには悲壮感はなく、安易な諦念もなく、淡々と事実を受け入れる創作者としての立ち位置が浮かび上がる。細りゆくいのちを客観的に見つめながら、最期まで俳句を作り続けた木枯の心の灯を手囲いで守るような、こまやかな気息がある。

この句は木枯にしては、独自の個性が淡い句と言えよう。「惜しまざるものありやなし」の余韻を曳きながら、「惜しみけり」と下五にそっと置いたところに、万感の思いが籠る。

「鏡」3号の同時発表作に〈梟や父恋へば母重なり来〉〈天啓や鶴の卵はあをびかり〉〈鶴の子を見失ひたる夜汽車かな〉〈手鞠つく数のあまたをつきにけり〉など華麗な見せ場の多い句に比べると、掲句〈惜しまざるものありや年惜しみけり〉は、ふと深く吐いた息のように地味だが読者の心にしみいってくる。

木枯は延命治療を拒み、ご長女の夕刈さんに看取られ、平成24年(2012)3月19日、枯れきって最期を自宅で迎えた。亡くなる前に書いた言葉が「白扇落ちた」だった。木枯自身が「白扇」となってすうっと谿底へ落ちてゆくイメージは、寂しいがどこか華やいでいる。闇ではなく、白扇は光を返しながら、ひらひらと宙で舞い続ける。永遠の時空で舞う扇は、白く輝く。「光」を懼れ「闇」を愛した木枯は、この世を「惜しみ」ながら、泉下でも扇をかざしながら、俳句を作っているのだろうか。

2015年3月から、長きに亘って木枯俳句に毎月お付き合いいただき、ありがとうございました。鑑賞を執筆できて誠に嬉しいことでした。これがきっかけで、木枯俳句に興味を持っていただけましたら幸いです。




評論で探る新しい俳句のかたち(5) 「前衛俳句」が難解である理由 藤田哲史

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評論で探る新しい俳句のかたち(5)
「前衛俳句」が難解である理由

藤田哲史


華麗な墓原女陰あらわに村眠り   金子兜太

ここに挙げたのは、昭和30年代、「前衛俳句」全盛の時代の作品だ。金子兜太の自解によると、「抽象的な論理の糸目と具体的な風景との交錯したおぼろげな構図」のある作品とのことだが、いったい、印象明瞭な近代俳句と異なる「前衛俳句」は、どんな言語観から生まれたものなのだろうか。難解という形容で語られる「前衛俳句」は、「イメージ」「暗喩」「象徴」「あいまい」などのような言葉で評されてきた。ここで、あらためて、いくつかの作品について分析を試みてみたい。

まずは、冒頭に挙げた「華麗な墓原~」の作品。一見字余りで名詞が詰め込まれて、とっつきにくい感じもするけれど、この作品の大まかな構成は、墓原と村の対照にある。ここでは、季語がないことも少し脇においておく。意味のうえでの構造は、言ってみれば対句だ。墓原が暗示するのは死、一方の村が暗示するのは生。もっと補完して説明すれば、墓原の後部において、なんらかの動詞(穏当なものを挙げれば「あり」など)が省略されていて、修飾部・名詞・動詞の3つの部分からなる連なりが2つ対置されている、と見ることもできるだろうか。

①華麗な    + 墓原 + (省略された動詞)
②女陰あらわに + 村  +  眠り

ここで①と②を比較してみると、全体として対称的な構成なのにもかかわらず、修飾部分に大きな違いがある。①の修飾部「華麗な」が、抽象的な語彙であるのに対して、②の修飾部「女陰あらわに」と具象的な語彙が用いられている。この「女陰あらわに」が、作品全体構成の均整を崩すことによって、読者の注意を喚起する。しかも、このフレーズが「墓原」と「村」といった遠景をイメージさせる語句の間に挿入されていることで、ある眼前の景色を現したもの、という読み方が斥けられることにもなる。

この修飾部における具象的な語彙の挿入は、「前衛俳句」以前において見られた語彙の組み合わせ、たとえば、

夏草に汽罐車の車輪来て止る   山口誓子
七月の青嶺まぢかく熔鑛炉    山口誓子

における、「夏草」と「汽罐車の車輪」、「青嶺」と「熔鑛炉」の組み合わせとを比較すると、大分に様子が異なる。誓子の作品では、「汽罐車」「熔鑛炉」といった当時としては新奇な語彙が、季語と巧みに組みあわされ、ある視点からの観察を追体験させるような構成をとっている。これに対し、金子兜太の「華麗な墓原~」の作品で、「華麗な」と対置させられた「女陰」は、もはや「墓原」や「村」と同一の時間・視点から捉えられないものだ。この修飾句は、村の性のありようを具体化しつつ、一方で比喩としてのはたらきをも期待されることになる。

広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み   赤尾兜子

赤尾兜子のこの作品はどうだろう。この作品も構成から把握してみれば、「広場における裂けた木」という前段と「塩のまわりに塩軋み」という後段に分かれて成り立っていることがわかる。この作品の前段における「木」、は雷か台風か、何かの原因で裂けてしまい、やがて枯死してしまう存在だ。後段における「塩」もまた、塩化ナトリウムという一物質だ。作品を通して感じられる印象は、無機的、非人間的といえる(「今日の俳句」で金子兜太はこの作品を「虚無」と言い表している)。

とはいえ、この作品を一語漏らさず説明するのはむずかしい。その原因の一つが、最後の一語「軋み」にある。「軋み」という語彙により、「塩」が塩湖や岩塩層のようなスケールの大きな塩でなく、より微細な、塩の粒子の集まりを強く連想させる。これにより、前段と後段が意味のうえで直接的につながっているのではなく(あるいは、つながっているばかりではなく)、前段の主題を全く別の言葉により言い換えられている、あるいは前段に対する比喩としてのはたらいている―――などの関係性が推察されることになる。

しかしながら、困ったことに、前段と後段との関係性を明らかにするヒントは作品からは得られない。つまり、読み手は、前段と後段の関係性について全ての可能性を意識しながら読み解くことを強いられる。


印象明瞭であることを斥けること。むしろ、それによって言葉の詩的はたらきを引き出すこと。「前衛俳句」を読み解く鍵は、おそらくこのあたりにある。

あとがきの冒険 第18回 辛袋・ひたい加熱・病み主将 吉田戦車『惡い笛 エハイク2』のあとがき 柳本々々

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あとがきの冒険 第18回
辛袋・ひたい加熱・病み主将
吉田戦車惡い笛 エハイク2』のあとがき

柳本々々


さいきん出たばかりの歌誌『かばん』(2016年12月号)の特集「描く短歌」の特集チーフを務めさせていただいたのだが、刊行されたあとにふいに思い出したのが私が〈絵と短詩〉をめぐる事柄に考えをめぐらせるようになったのは吉田戦車さんの『エハイク』(装幀は祖父江慎さん)がきっかけだったのではないか、ということだった。

この本は、吉田さんのハイク(俳句)に吉田さんのエ(絵)がついた絵俳句集なのだが、たとえば、

  辛袋/ひたい加熱の/病み主将  吉田戦車

という吉田さん特有のシュールな575句に添えて、高熱の主将がレトルトカレー(辛)の袋をひたいにのせてうなされる絵が描かれている。

リーダー・熱・汗・カレーという過剰な〈あつくるしさ〉を含めて、いつもの吉田戦車カラーが遺憾なく発揮されている本だ(たぶん戦車さんのひとつの特徴は、〈必要以上の暑苦しさ〉だと思う)。

この本のいいところは、〈シュール〉とはなにかを考えさせられることにある。たとえばこの句で言えば、「からぶくろ」や「ひたいかねつ」「やみしゅしょう」と造語をつくりだし、《無理矢理》、575に突っ込んでいく。

ところがその《無理矢理》つくられてしまった「からぶくろ」「ひたいかねつ」「やみしゅしょう」はひとつの添えられた絵によって《成立》してしまうのだ。

絵はどんな非合理な言語をも納得させてしまう不思議な説得力がある(それは非言語や非概念をイメージに置換することをギャグに据えた『伝染るんです。』において証明されてきたことだ)。

ということは、シュールとは実は非合理的な言語実験というよりも、先行した合理的イメージだと言えるのではないだろうか。

つまり、わたしたちにはあらかじめ合理的なイメージがあって、しかしそれを言語に翻訳したしゅんかん、〈シュール〉が生まれるのだと。

たとえばわたしたちはなにか難解な句があると、〈実験的〉だと言って説明を終えてしまうことがある。しかしそれがどれくらい〈実験的〉なのかは吉田戦車のイメージレベルを通して一度再考する余地もあるのではないだろうか。絵にしてみれば、うん、そうか、と言えるものでもあるのかもしれないのだから。
たよれる、得がたい相棒と思っているからこそあえていうが「どうでもいいだろうそんなの」と普通の人なら思うようなことに、異常なまでにこだわるのが祖父江慎だ。
読点や鍵かっこが半角になっており祖父江さんから〈わざわざ〉読みにくくされている吉田さんの「あとがき」。祖父江さんの「どうでもいいだろうそんなの」なこだわりが遺憾なく発揮された「あとがき」であり、やはり『伝染るんです。』からお馴染みの〈意味のないあとがき〉である。

「あとがき」において一切俳句にはふれておらず、この本の装幀を担当した祖父江さんの話〈のみ〉に終始して終わる。つまり「どうでもいいだろうそんなの」と「あとがき」で書いた吉田さんの「あとがき」自身が〈どうでもいいだろうそんなの〉が生きられた「あとがき」になっている。

しかし、考えてみれば、吉田さんも祖父江さんも『伝染るんです。』の頃から真剣に〈どうでもいいだろうそんなの〉と向き合い、成立させてきたのである。

そしてだからこそ本書から教わるものは、短詩をわたしたちが読む際に〈どうでもいだろうそんなの〉と一見思うようなことを〈わざわざ〉経由してみる勇気だ。

  奇プランを/光るまなこで/そぶえしん  吉田戦車

短詩を読むときに、どのように「奇プラン」を密輸できるだろうか。

たとえば実験句にみえるような句や歌でもなにかに翻訳したときにナチュラルになってしまうような状況がないかどうかあえて「どうでもいいだろうそんなの」をやってみる勇気がひつようかもしれない。今回の私の記事も「どうでもいいだろうそんなの」と言われるかもしれない。しかし、やってみたのである。

もちろんやったらやったで「どうでもいいだろうそんなの」と言われることもあるだろう。じっさい、私もよくいわれる。でも、そこでめげてはいけない。「どうでもいいだろうそんなの」を続けていると「どうでもいいんだろうかそんなの」と「ん」や「か」をつけてくる奇特なひとがあらわれることがある。

あらわれたら、どうするのか。私も、まだ、そこまではわからない。

(吉田戦車「あとがき」『惡い笛 エハイク2』フリースタイル、2004年 所収)


10句作品 榛 生駒大祐

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榛   生駒大祐

ぶつからず揺れて互ひを恋ふ木かな
榛といふ名前に生まれさへすれば
犀として長寿 菜つ葉のみぞれ炊き
ピアノ線もて天球に吊らるる日
闇白し幹が奥へと縦に続き
たとへば彼方の鳥たちを呼び戻す指笛
落ちそしてとほく梢とかよへる葉
切岸と君から発せられる声
今があり枝が何本も刺さつた壷があり
シュワキマセリ水中のもの不可視なり

週刊俳句 第504号 2016年12月18日

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第504号
2016年12月18日

2016 角川俳句賞落選展 ≫見る
「石田波郷新人賞」落選展 ≫見る


生駒大祐  10句 ≫読む
……………………………………………

あとがきの冒険 第18
辛袋・ひたい加熱・病み主将
吉田戦車『惡い笛 エハイク2』のあとがき
……柳本々々 ≫読む

評論で探る新しい俳句のかたち〔5〕
「前衛俳句」が難解である理由……藤田哲史 ≫読む

八田木枯の一句
惜しまざるものありや年惜しみけり……角谷昌子 ≫読む
金屏のうしろの襖あいてをり……西村麒麟 ≫読む

〔今週号の表紙〕第504号 山下公園……矢野玲奈 ≫読む


後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む



第一回 「円錐」新鋭作品賞・作品募集のお知らせ≫見る

2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る

新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ≫見る

  

後記+プロフィール 第505号

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後記 ● 西原天気


今年2016年最後の号をお届けします。

今日は25日。今年を振り返る人もいれば、クリスマス気分に浸っている人もいる。世間も週刊俳句も同じです。



八田木枯の一句」は、この号掲載の記事でいったん終了いたします。2014年5月にスタート、角谷昌子さん、太田うさぎさん、西村麒麟さん、田中惣一郎さん(2016年3月から6月まで)、私が交替で執筆。およそ2年半続けてきました。

なお、同人誌『鏡』では毎号、寺澤一雄さんが八田木枯さんの一句を取り上げて論じていらっしゃいます。

『鏡』は八田木枯さんが最後に在籍した同人で、木枯さんが亡くなったあとは、その遺志を継ぐという側面もあろうかと、私なりに理解しています。小誌でシリーズ「八田木枯の一句」をスタートさせる折、執筆陣は「『鏡』同人以外から」と考えました(今だから明かすという自分ひとりの楽屋話です)。『鏡』は『鏡』でりっぱに木枯さんの句業を世に広めることをされるだろう、だから、週俳は『鏡」とは別のメンバーで、目的を同じうしたい。こう考えたのでありました。



恒例の新年詠の応募要項はこちら↓
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/12/2017.html

来年は1月1日がちょうど日曜日。新年詠の掲載は松が明けてからの1月8日号になります。年が明けないうちに(つまり年末までに)新年詠を用意するという、俳句業界の奇妙な慣習に乗っかるつもりがないので、どうしてもこうなります。ご理解賜りますようお願い申し上げます。



それではまた次の日曜日、元日にお会いしましょう。


no.505/2016-12-25 profile

■佐藤文香 さとう・あやか
1985年生まれ。句集『海藻標本』『君に目があり見開かれ』。blog「さとうあやかとボク」 

■太田うさぎ おおた・うさぎ
1963年東京生まれ。「豆の木」「雷魚」会員。「なんぢや」同人。現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。

柳本々々  やぎもと・もともと
かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com 

■藤田哲史 ふじた・さとし
1987年三重県伊賀生まれ。2006年東大学生俳句会に参加。2007年俳句結社「澤」に入会。2009年澤新人賞受賞、同年俳句アンソロジー『新撰21』に参加。現在無所属。生駒大祐と俳句系ウェブメディア「Haiku Drive」を不定期更新中(ちゃんとやれ)。 

■大石雄鬼 おおいし・ゆうき
1958年生まれ、埼玉県育ち。現代俳句協会会員、「陸」同人、「豆の木」所属、1996年に現代俳句協会新人賞。2008年前に豆の木賞。

■宮本佳世乃 みやもと・かよの
1974年東京生れ。2015年、「オルガン」を始動。「炎環」「豆の木」。句集『鳥飛ぶ仕組み』。


■松本千鶴 まつもと・ちづる
1990年徳島県生まれ。東京都在住。「狩」所属。コピーライター。

なかはられいこ
1988年、時実新子の『有夫恋』で川柳と出会う。1998年、文芸メーリングリスト「ラエティティア」に参加。2001年、倉富洋子と二人誌『WE ARE!』創刊(1号~5号)。2004年3月、歌人の荻原裕幸氏、丸山進氏らと「ねじまき句会」を立ち上げる。2010年、朝日新聞「東海柳壇」選者。第一句集『散華詩集』(1993年、川柳みどり会)、第二句集『脱衣場のアリス』(2001年、北冬舎)、共著『現代川柳の精鋭たち』(2000年、北宋社)。

■松本てふこ まつもと・てふこ
1981年生まれ。2000年、作句開始。04年「童子」入会。新童賞、童子賞を受賞。09年、『新撰21』に北大路翼論を、10年『超新撰21』に柴田千晶論を執筆。11年、『俳コレ』に入集(いずれも邑書林)。

■生駒大祐 いこま・だいすけ
1987年三重県生まれ。「天為」。「手紙」「クプラス」「オルガン」。「週刊俳句」。ustream番組「Haiku Drive」。第3回攝津幸彦賞。 

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「ku+」、「オルガン」に参加。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter 

2017年 新年詠 大募集

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2017年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2017年11日(日)~16日(金) 24:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

〔今週号の表紙〕第505号 靴音 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第505号 靴音

西原天気


靴音なんて、意識しないかぎり聞こえてはいない。靴音をいっさい聞かなくても暮らせますし。

でもね、聞いてみると、おもしろいのですよ。当然ながら、いろいろな音、なので。

靴の違いだけじゃあありません。体重や歩幅や歩く速度、あるいは靴が着地する角度とか、それぞれで音が変わる。

ちなみに、長年近くで暮らしてきた人の靴音は聞き分けられます。ウソだと思うなら、試してみるといいです。


週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら


【八田木枯の一句】道はみな空に靡けり年の暮 太田うさぎ

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【八田木枯の一句】
道はみな空に靡けり年の暮

太田うさぎ


道はみな空に靡けり年の暮     八田木枯


『鏡騒』(2010年)より。

仕事納めも無事済んで正月休みに入ったビジネス街を歩く。ふだん見慣れた景色がどことなく清浄感を漂わせている。立ち並ぶビルは念入りに清掃され、玄関には立派な門松。でも、その為ばかりではない。歩を運ぶうち、ああそうかと気づく。車も人影も頗る少ないのだ。

道路は彼方まで見渡せて、その果てに空が広がっている。まるで空から伸びて空へ吸い込まれていくようだ。一年もまたこんな道なのかもしれない。すべての道を空へ収めて、間もなく新しい年が来る。



【週俳10月11月の俳句を読む】「学生特集」を読む なかはられいこ

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【週俳10月11月の俳句を読む】
「学生特集」を読む

なかはられいこ


若いひとの作品を読むという、川柳の世界ではなかなかできない体験をさせていただいた。なぜ川柳ではできないのかといえば、若いひとがいないからだ。こう書くと身もふたもないけれど、諦めでもなく、開き直りでもなく、それはそれでいいのかもしれないと思う。「若い」のメリットは書き手としての残り時間の長さにある。二十歳で始めて三十歳でやめるのと、四十歳で始めて八十歳で死ぬまで続けるのとでは、後者のほうに価値があるとわたしは思うのだ。

秋の灯をザッハトルテが照り返す  平井湊

焦点はザッハトルテにあるのに、珈琲と読みかけの本がある場面を自動的に想起してしまった。その際、本はカフカの『城』であればなおよろしい。と思いつつ、そうした景色を読み手に補完させ、現出させるちからがこの句にはあるのだろうとも思う。では、そのちからはどこにあるのだろう。ザッハトルテの重厚感もさることながら、やはり「秋」という季語にあるのではないだろうか。付きすぎなのかどうかはわたしにはわからないけれど、一句全体が全力で秋を表現しているようにみえておもしろかった。

肉入れて波の立つなり芋煮会  斉藤志歩

いちいちおしゃれな「ザッハトルテ」とは対照的に、庶民的な、どちらかといえば野暮ったくなりがちな「芋煮会」という言葉をうまくコントロールしているなあと感心する。しかも「肉」である。こういう場面では、「ここで、いよいよ肉の投入です!」なんて実況するヤツが必ず一人二人いたりする。「波」は鍋の中にも鍋の外にも立つのだ。おそるべし、肉の威力。

朝寒や植物園にそつと鳥  野名紅里

冬の朝、植物園にそっと鳥が来ていた、というだけの句なのに惹かれる。「そつと鳥」にぐっとくる。朝のキーンとはりつめた冷たい空気と静けさが、読んだ瞬間、胸にひろがった。鳥、としか書かれていない鳥への愛のようなものがふつふつと沸き起こるのを、ひとごとのように観察している自分がいて、ちょっとふしぎな気分になった。俳句には十七音という制約がある。制約のなかでせいいっぱいあらがうとき、ひとを惹きつける作品がうまれるのだろう。「そつと鳥」と止めたときの作者の、やさしく注意深い手つきが見えるような一句だと思う。


加藤静夫 失敬 10句 ≫読む

第497号 学生特集号
樫本由貴 確かなあはひ 10句 ≫読む
野名紅里 そつと鳥 10句 ≫読む
福井拓也 冬が来るまでに 10句 ≫読む

第498号 学生特集号
斉藤志歩 馬の貌 10句 ≫読む
平井湊 梨は惑星 10句 ≫読む

【週俳10月11月の俳句を読む】かはゆい 宮本佳世乃

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【週俳10月11月の俳句を読む】
かはゆい

宮本佳世乃


身体より心が寒いので失敬  加藤静夫

先日、近所の川を散歩していたら、帽子を被った年配のサラリーマンが金網を超えて向うの林に渡ろうとしていました。

けれども見える範囲に道はなく、仕方がないので金網を越えるのを諦めた男は、とぼとぼ消えるように去っていったんです。

未だに彼がどこから現れたのか分からない。

「失敬」という言葉は日常ではあまり聞きません。

たぶん同世代でも、上の世代でもそういう言葉を用いる人と共にいないからでしょう。

「失敬」って、なんとなく紳士的でもあり、なんとなくレトロ感を呼び起こさせる。

この言葉の軽さがいいと思いました。

身なりのよい年配の男性が「失敬」と残して去る原因は「心が寒い」から。

気の置けない仲間と一杯やり、少し心が寒くなったとか、失恋とか、もしくは金網を越えられなかったから、とか。

この十七音をそばで聞いたら、かはゆいなぁなどと思ってしまいそうです(失敬)。


塔といふ涼しきものや原爆以後  樫本由貴

木の実降る限りこの川原爆以後  同

S・ベケットに「ゴドーを待ちながら」という戯曲があります。

男二人が「ゴドー」を待っている。ゴドーとは何なのか、本当に来るのか、誰も知らない。ただ、待っている。そこに少年が登場してゴドーさんは来られないと告げる。

二人は、じゃあ行くか、ああ行こうといいながら、動かない。

そして幕。

連作を読んで、「ゴドーを待ちながら」を思い出しました。


加藤静夫 失敬 10句 ≫読む

第497号 学生特集号
樫本由貴 確かなあはひ 10句 ≫読む
野名紅里 そつと鳥 10句 ≫読む
福井拓也 冬が来るまでに 10句 ≫読む

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【週俳10月11月の俳句を読む】「学生俳句」を考える 松本千鶴

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【週俳10月11月の俳句を読む】
「学生俳句」を考える

松本千鶴


学生俳句。実にご無沙汰な響きである。数年前までは、私にもその肩書きがあり、学内でH2Oという俳句サークルを後輩と一緒に立ち上げたり、学生俳句チャンピオンに参加したりと、「学生俳句」らしい日々を送っていた。

が、作品の面で、これこそが学生俳句だ!というものがつくれたかというと、正直微妙である。やはり、上手いと褒められたい、大人っぽい俳句をつくりたいという思いが先行し、季語や句材選びの時点で渋目のものをチョイスしてしまうことが多かった。もちろん、悪いことではないのだけれど。でも、そうして出来上がったものが自分の内側から素直に湧き出た言葉なのかを考えたとき、後ろめたさを感じずにはいられなかった。

広告コピーの世界には、「時代の中の隠れた飢餓を狙う」という考え方がある。みんなが何となく言葉にできないで思っていることを、誰よりも早く言語化することを意味する。これは俳句にも、特に学生俳句で活かせる考え方だと思う。

それは決して、見栄えが斬新であるとか、ワードが今っぽいとか、そういうことではない。今を生きる、10代20代の自分が感じたことを、俳句界内外を含め、どれだけ多くの人たちに伝わる言葉にできるか。そこに、俳句人口の若返り以外に「学生俳句」が存在する理由がある気がする。

※前段がかなり長くなってしまったが、学生俳句経験者として、何か伝えられればと思い、お節介ながら書かせていただきました。


特集からは、各人2句選ばせてもらった。


朝や僧まづかげろふを掃いてゆく  樫本由貴

実にきっちりと寺の周りを掃いていく僧侶の姿が目に浮かぶ。仏教において、掃除は心を洗い清め、功徳を積むための修行のひとつなのだそう。「かげろふ」を掃くときも、きっと敬意を払いながら、ていねいにていねいに掃いているのだろう。

早退や街は銀杏の重さして  樫本由貴

「早退」とは、真っ当な理由があったとしても、どこかうしろめたさを感じてしまう行為である。そんな気分とはうらはらに、堂々と黄金色を放つ街の銀杏。平常時であれば、美しく感じるはずの風景を、「重さ」と認識する作者の感覚が実にリアルだと思った。


試着室の鏡の中の秋思かな  野名紅里

「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。」というコピーがある。ファッションビル・ルミネの広告で使われたものだ。ここでの「秋思」も、恋愛のことだろうか。服を変え、立ち方を変え、鏡の中の自分と相談する中で、また一段と秋思が深まっていく様子が伺える。

切実な嘘なら許す柿たわわ  野名紅里

誰から吐かれた嘘なのか、とても気になる。「切実な嘘」であるなら、その隠し方も尋常ではなかったはずだ。なのに許してしまう。むしろ、切実であるなら許すということは、それだけ関係を崩したくない間柄なのだろうか。近くで実っているであろう柿も、不思議な存在感を放っている。


いわし雲微熱の指の長さかな  福井拓也

熱に浮かされて、変な行動をとってしまうというのはままある話。この句の場合も、思わず指の長さを確かめたくなったのだろうか。思えば、いわし雲も変な雲である。普段は大きなかたまりの雲が、秋になっただけで、あんなに細切れになってしまうのだから。人と天候の変な現象を結びつけ、不思議なバランスを保った一句。


あるこほる流るる曼珠沙華は白  福井拓也

ずいぶんヘベレケに、気持ち良く酔ってそうな一句。「あるこほる」と平仮名で一文字ずつ開いているのが効いている。白い曼珠沙華の存在感も、酔った時のふわふわとした危なげな感じと響き合っていると思った。


友とゐて友の姉来る草紅葉  斉藤志歩

友人とは親しくても、友人の兄弟姉妹とまで親しいとは限らない。この句の場合は、おそらくあまり親しくなかったのだろう。友の姉が来た時の、一瞬空気がピンと張ったような感じと、草紅葉の平和的な彩りのギャップが面白いと思った。

籠を開ければこほろぎの匂ひ濃し  斉藤志歩

「こほろぎの匂ひ濃し」がすごく共感できる。あの何とも言い難い、むわっとした小さな命の匂い。しかもまた、それが濃いのだ。籠が開かれるまでのドキドキ感と、匂いを嗅いだ瞬間の驚きがよく伝わってくる。


秋の灯をザッハトルテが照り返す  平井湊

秋に入り、少し肌寒くなると、チョコレートのようなこっくりとした甘いものがほしくなる。ザッハトルテなんか最高だろう。それこそクラシックでも流しながら、団欒しているのだろうか。潤みを帯びてつやつやと光るザッハトルテが目に浮かぶ。

秋霖や物書くにリハビリが要る  平井湊

秋で長雨ときたら、物を書くには絶好の機会。しかし、長らく執筆から離れていたのだろうか、思うように筆が進まない。それが「リハビリが要る」ほどであると、素直に認めているところが良いと思った。負の事柄を切り取っていながらも、どこか抜け感のある一句。


加藤静夫 失敬 10句 ≫読む

第497号 学生特集号
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【週俳10月11月の俳句を読む】楽しかったです 松本てふこ

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【週俳10月11月の俳句を読む】
楽しかったです

松本てふこ


早退や街は銀杏の重さして  樫本由貴

この句の作中主体はきっと普段は健康体なのだろう、上五からは非日常への不安と微かな心の浮き立ちが伝わる。人気のない住宅地を縫うように歩いた私自身の早退の記憶もよみがえる。かすかな湿り、臭いなどからくるイメージも含めて「街」を銀杏にだぶらせているのかなと想像すると共感と不思議さ、両方を感じる。


いわし雲微熱の指の長さかな  福井拓也

十三夜おほきなおほきな砂時計

「学生俳句特集」の仕掛人である堀下翔が「里」2016年12月号の時評欄でも紹介していた作家である。堀下の「おれが見つけた作家だぞ」という、静かな意気込みを感じる。

時評欄での万太郎作品との類似点の指摘が非常に興味深かったので気になった方は是非「里」を何らかの方法で手に入れて欲しいのだが、今回の週俳での作品で、堀下の時評欄を読んだ際に自分なりに掴んだつもりだった彼の作品の傾向がまた分からなくなった。

題材の選び方か、はたまた秋の季感によるものか、湿度や潤いは少なく、作品の舞台は日本ではないのかな、とすら思った。時に渋みのある季語を用いながら、どこか日本の情緒とは異なった美意識で切り込んでいる印象があり、ふとした色気と謎が垣間見えて楽しく惑った。

肉入れて波の立つなり芋煮会  斉藤志歩

ごつん、ごつんと石のように言葉がぶつかり合う句が多く、読みながらちょっと驚いている自分がいた。そのぶつかりあいをおかしみにつなげられると、この作家は強い。この句は肉の質感が確かなところと「なり」の妙に力が入っているところが肝というか、チャーミング。

火恋し画集の海のみな日暮れ  平井湊

19世紀のイギリスの画家・ターナーの絵を連想した。画集の中に広がる海の黄昏を眺めながら、自分の中にあったある気持ちがゆっくりと終わっていくのを作中主体はひとりかみしめているのだろう。


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