Quantcast
Channel: 週刊俳句 Haiku Weekly
Viewing all 5946 articles
Browse latest View live

自由律俳句を読む 137 「鉄塊」を読む〔23〕 畠 働猫

$
0
0


自由律俳句を読む 137
「鉄塊」を読む23

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十四回(20145月)から。

この回は私が編集担当で、りんこ氏をゲストとして句会を持った。
招待のりんこ氏を含めても参加者は5名であり、これまでの回と比べても最も少ない人数での句会となった。
りんこ氏とは、Twitterweb句会を通じて知り合うことになったのだが、のちに私の大学時代の友人が結婚した男性の妹であることがわかった。
北海道は広いようで狭いものだ。
りんこ氏の作品(自由律俳句、短歌、随筆など)には、純粋さや瑞々しい感性が溢れており、それをどこか羞恥心にも似たものと私は感じている。
表現者は多かれ少なかれ繊細さを抱えているものと思うが、それを私とは違う切り口で、しかも好ましい形で表現する人である。
その表現方法がどのように変遷したとしても、注目し続けたい存在であり、いずれその自由律俳句について、この記事でまとめたいとも思う。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十四回(20145月)より

居間の畳へ雫垂らす髪も春か 馬場古戸暢
○静かで色っぽい句である。「髪も春か」という表現から、詠み手にとって春とは豊潤で雫のしたたる季節なのだろう。また、洗い髪をそのままに居間に移動できるのは冬の寒さが去ったことを表している。(働猫)

しっとりとしたよい句である。
美しい女性の洗い髪を思う。



真昼の月あり発泡酒のみきれぬ 馬場古戸暢
△いつから飲み続けていたのか。さすがにもういらなくなったのだろう。月とともに意識も消えゆこうとしているのだろう。(働猫)

昨夜始まった酒宴が昼まで続いているのだろうと当時読んでいたのだが、発泡酒でそんなに長く飲めるものかと疑問を持った。
とすれば、昼間から飲み始めたところか。
しかし昼から飲める喜びはここにはない。
「のみきれぬ」のは身体の衰えか、心の疲弊か。



眼鏡きえた夜の君の線だけみゆる 馬場古戸暢
△自分は眼鏡がないとほとんど何も見えない。だから状況はよくわかる。線だけ見る世界は美醜が判別し辛く割と幸福かもしれないと思ったりする。(働猫)

私は眼鏡を外すと超絶美形な素顔を晒すことになる。
(働猫さんは少女漫画宇宙からこの腐敗した世界に堕とされたGod’s childである。)
しかしその素顔のまま、愛する人の顔を見ることはできないのである。
この句はそのジレンマを思い起こさせた。
古戸暢もまたGod’s childなのかもしれない。



菜の花ここにも霧は晴れた 馬場古戸暢
○菜の花の発見と霧が晴れたのとどちらが先かはわからないが、非常にドラマチックな瞬間を切り取ったものと思う。菜の花がまず見えて、それから霧が晴れた。そうして初めて自分が一面の菜の花畑の中にいることがわかった。こんな風に読むのが好みだが、果たしてそんなドラマチックなことが起こりうるものだろうか。想像の景色、あるいは「菜の花」や「霧」を隠喩として読むこともできるか。(働猫)

美しい句である。
隠喩として読むならば、「霧」は不安や悲しみであり、「菜の花」は美しい世界の発見であろう。目が開かれた瞬間、末期の眼の発現であったかもしれない。



君の腹の遠く鳴っとる 馬場古戸暢
△冷戦状態の二人であろうか。言葉もなく姿も見えないが生きていることだけは伝わっている。(働猫)

微かな音を強調することで静寂を表現する伝統的技巧だ。
ただここで詠まれている音は「腹(の音)」。
そばにいてさえ聞こえるかどうかわからぬ微かな音である。
それを遠く聞いている。
常人離れした聴力、あるいは爆音を立てる腹の虫、そう読むこともできよう。
しかしそうではなく、やはりここではこの音を、耳ではなく心で感応したものととらえるべきであろう。
禅である。
遠くにいながらにして、なおも相手の状況を知る。
これこそが愛であろう。愛とは他者を認めること、関心を持つことである。
その究極の状態が、この句に表現されているに違いない。
私にはわかる。にっこり(拈華微笑)。



衝動買いした服のセンスを春の憂いと呼べ 風呂山洋三
△春の陽気に浮かれてしまって失敗した経験は自分にもある。捨てられない春の憂いはタンスの肥やしになっている。(働猫)

あまりにも共感してしまう内容だが、言い尽してしまって「あるある」になってはいないかと思う。



フラミンゴことごとく顔を挿す 風呂山洋三
△無数のフラミンゴの群れが一斉に餌を求めて水面に顔を挿し込んでいるところであろう。舞台は広大なアフリカ大陸か。かつては、「わくわく動物ランド」や「野生の王国」のような良質な動物番組があった。詠み手の意図とは違うのだろうが、この句はそれらのテレビ番組を毎週楽しみに観ていた幼い記憶を刺激し、失ったもの(団欒や無邪気な学校生活など)を思わせ胸苦しくさせる。(働猫)

私にとっていつまでが幸福であったのだろう。
失われたものは失われたがゆえにまばゆく、美しいのだろう。



深夜の窓辺に立つ顔の無い女だ 風呂山洋三
△オカルト句であろうか。そうだとするとひねりがなさすぎるように思う。(働猫)

以前紹介した古戸暢の句に、「橋の上の夜釣りの女か」がある。
(「鉄塊を読む17http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/04/13117.html
同じオカルト句(私が勝手にそう判断しているのだが)であっても、このように想像の余地がなければ心に残らない。
「深夜」「窓辺」「顔の無い」「女」すべてが恐怖を覚えさせる要素でありながら、それらを細かく言い尽してしまっているため、想像の余地がない。
要素を並べてしまっているがゆえに、恐怖の根源となる正体不明性を喪失してしまっているのである。



赤いチューリップ庭のあった証である 風呂山洋三
△チューリップは自生するものだろうか。という疑問から、この赤いチューリップはだれかが植えたものとしてしか読めなくなった。だれかが植えて、そしてその年の内に庭はなくなってしまった。庭は突然無くなり、まだ日がたっていないのだ。火事だろうか。大規模な災害だろうか。戦場となり爆撃を受けたのか。赤いチューリップはそこで命を落とした子供の象徴のようでひどく哀れである。(働猫)

2014年当時で考えると、イスラエルのガザ侵攻、シリア内戦、クリミア危機などが念頭にあったのではないかと思う。
あるいは震災後に芽吹いたチューリップであったものか。
庭の喪失は、家族、団欒の喪失である。
そしてチューリップだけが証であるように、詠者はまったくの他人、無縁の存在としてその景色を見ている。
失った者にも失わずに済んだ者にも等しく時は流れる。
ときに残酷でもあり、ときに救いでもあるその時の流れを、生者は否応なく見つめることになる。
チューリップの長閑やかな可憐さが、かえって残酷に句を彩っている。



黙って炊き出しを啜るこれが戦争体験者だ 風呂山洋三
●いつどこでだれの視点で詠まれているのかわからない。そのためあやふやな雰囲気句になってしまっているように思う。「戦争」は文字通り戦争なのか、大規模災害などの隠喩なのか。過去の太平洋戦争なのか、現在の他国における紛争のことなのか。詠み手の立ち位置や覚悟がはっきりしないため、表層的な句になってしまっているように思う。(働猫)

太平洋戦争を経験した世代が、被災しても泣き言を言わずに炊き出しをすすっている。そんな景を詠んだものかもしれないが、どうにも感動のポイントがずれているようにも思うし、言い尽しているのに何も伝わってこない、どうにももどかしい句である。



またひとが死んだ線路脇でひなげしが揺れる 小笠原玉虫
△他者の死に無関心に生活を続けるという句は新鮮ではないが「ひなげし」がよい。虞美人草の別名は自死した虞姫に由来する。それを象徴的に配しているのだろう。(働猫)

力は山を抜き 気は世を蓋う
時に利あらずして 騅逝かず
騅の逝かざるを奈何せん
虞や虞や 汝を奈何せん

初めて諳んじた漢詩が、この垓下の歌である。
本宮ひろ志の「赤龍王」で憶えた。
滅びゆく者の悲哀と愚かさ、愛情が綯い交ぜとなった美しい詩であると思う。
覇王項羽が追い詰められ、滅びに突き進んでゆく姿と、この句で詠まれているおそらくは自死者とが重なる。巧妙な配置である。



熱いマスクひき剥がしじっと夜を睨んでいる 小笠原玉虫
△咳の夜に運命を憎む様子であろうか。句に熱は感じる。しかしやや冗長である。語選び次第でよりぐっとくる句になるだろう。(働猫)

景はよい。
こうした苦しみはおそらく多くの人が経験したものであろうかと思う。
「熱いマスク」「夜を睨む」辺りがどちらかにしぼるべきであったかと思う。
風呂山の「顔の無い女」もそうであるが、状況をすべて報告されてしまうと読む者は何も想像できない。
それは呈示であって開示ではない。
句は開くべきである。



まだ生きているパンジーを引き抜く自称庭好きよお前は醜い 小笠原玉虫
△これは語りすぎであろう。詠み手の意図が過不足なく伝わりそれ以上も以下もない。(働猫)

これもまた上記の句と同じく語り過ぎである。
わかりやすい言葉で視聴者を誘導しようとするコメンテーターのように、事実の解釈まで押しつけてしまっている。



街灯を壊して歩くガラスの星座踏みしめてゆく 小笠原玉虫
△やっていることは器物損壊で完全に犯罪なのだが、それをなんだか美しく表現してしまっているところに酒の力を感じる。(働猫)

「ガラスの星座」には詩情を感じる。



この街では珍しいきちがいが泣いてる雨降り続ける 小笠原玉虫
△「きちがい」を言葉として使いたかったのだろうと思うが、あまり効果的ではないように思う。おそらくは自分自身を客観視して「きちがい」と表現しているのだろう。その自分の「熱」のようなものを許容してくれない「この街」の冷たさ、そこで感じる疎外感、そういったものを表現したいのだと想像することはできるのだが。(働猫)

この回の玉虫の句にはたしかに「熱」を感じる。
表現したいという欲求が高まっていた時期だったのだろうか。
その溢れ出る情緒がいい加減に抑えられたとき、美しい句が生み出されるのだが、この回ではバランスの悪さが目立つ。
同じ景を現在の玉虫が詠めば、また違った句になるようにも思う



父の知らないパンが美味い りんこ
△背徳感と無邪気さが同居した句である。内緒で買ったパンをいたずらな笑みで食べるのだろう。(働猫)

「父の知らないパン」が実にいい。最近の散文、エッセイでも感じることだが、語選びのセンスが非常によい。
天然という言葉はあまり使いたくないが、これらの語選びがどの程度意識的に行われているものか不明である。
ふわりと飛び込んでかすかな熱を放つような、心の奥にしまいこんだ大切なものや忘れかけていたものを刺激するような言葉。
そんな言葉をどれだけ意識的に選べるものだろう。
末期の眼や原始の眼とも違う、このりんこの眼についても何か私は名前を考えたい。
俳人ではあまりいない。歌人の雪舟えまや兵庫ユカにも時折感じる視座である。



マグカップ恥ずかしいほど割れて目の前に落ちる りんこ
○この羞恥心の表れ方が詠み手の特徴の一つであり、興味深いところだ。この思春期のような過敏さを伴う自意識。無垢や純粋さの表れのようでもあり、微笑ましくも思う。(働猫)

そうこの羞恥なのだ。
歳を重ねて人が失うものの一つが羞恥であろう。
それを今なお持ち得るとすれば、それは句材であり句風となるだろう。
孤独や孤高、不幸を嘆く自由律俳人は溢れているが、羞恥を詠む俳人はあまりいないように思う。
非常に新鮮だ。



電気消す派のきみの骨白かった りんこ
◎「電気消す派」という表現はなかなか色っぽい。性癖はさまざまであるが、「電気消す派」と「電気点けたまま派」とで明確に二分することができる。「消す派」は、視覚を制限することによってより興奮するというタイプの場合もあるだろうが、やはり一般的には羞恥心の表れと考えるべきであろう。そんな羞恥心の持ち主だった人が、今はその骨の白さまで露わにされてしまっている。そのことが故人への憐憫として表れ、さらにはかつての触れ合いや言葉なども想起させるのだろう。物語が凝縮された句である。自分は相手に合わせる派です。どのみち眼鏡はずしたら線しか見えないのでね。(働猫)

「電気消す派」にはやられた。すばらしい。



トイレに流した薬も効いてきて月おぼろ りんこ
△「トイレに流した薬」だけならば、苦い薬を嫌ってこっそり流している子供を想像できるのだが、「効いてきて」とあるからこの句は途端に不穏となる。「トイレに流した」ものを薬ではない別のものとする解釈も可能であるが、「流した」のも「効いてきて」いるのも同じ薬だとすれば、一度体内に取り入れた薬をトイレに流している状況ととれる。例えば、過剰摂取した睡眠薬をトイレで吐いている、とか。「月おぼろ」は朦朧とした意識を表しているだろう。(働猫)

ほかの句から読める無邪気さや明るさを思えば、上記の解釈も前者、つまり子供のころの句と考えたい。
しかし、ここではあえて後者の解釈をとりたい。
りんこの闇の面が表れた句である。
心に闇を持たない者の言葉に人は惹かれることはない。
りんこにの心にはやはり深い闇が揺蕩っているのである。
その闇が羞恥の源泉になっているのかもしれない。
その闇が、様々な屈折を経て外に表されたとき、人の心を温めるような言葉に変換される。これがりんこを稀有の存在としている。
この人もまた修羅である。



素晴らしいおんなだ墓石色のワンピース着て笑む りんこ
△放哉の「すばらしい乳房だ蚊が居る」を思わせる始まりである。「墓石色」という表現には「おんな」への悪意が感じられる。「素晴らしいおんな」という賞賛と「墓石色」という揶揄とで、相手に対するアンビバレントな思いを表現しているのだろう。(働猫)

闇が深い。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
待つ夜の耳を洗う 畠働猫
花雨に濡れて眼鏡はずすべき夜 畠働猫
さよなら揺れてカンパニュラ夜香る 畠働猫
桜咲くかしら痩せた手をとる 畠働猫
年輪を重ねて夜を叫ばず眠る 畠働猫

「桜咲くかしら痩せた手をとる」はこの回で最高得点句となった。
春は昔から好きな季節ではなかったが、大切な人を亡くしたことが、花の季節をさらに憂鬱なものに変えてしまった。
そして何度繰り返しても、死に近い人の前で私は言葉をうまく使えない。
寄り添うこともできない。
後悔ばかりを重ねて生きている。
生きている限り、それは続くのだろう。



次回は、「鉄塊」を読む〔24〕。



第473号 2016年5月15日

$
0
0
第473号
2016年5月15日


2015 角川俳句賞落選展 ≫見る
2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


野間幸恵 雨の木 10句 ≫読む
……………………………………………

俳句の世界遺産登録に向けた動きについて
 ……吉田竜宇 ≫読む

俳句雑誌管見 ソーダ水……堀下翔 ≫読む


【みみず・ぶっくすBOOKS】第6回
『夏目漱石句集』……小津夜景 ≫読む

【週俳4月の俳句を読む】
山田耕司 作者が望んでいる事態ではないだろうけれど ≫読む
近 恵 白という色が ≫読む

連載 八田木枯の一句
ひよろつくは齢ともくわうじやくふうかとも……太田うさぎ ≫読む

自由律俳句を読む 137
「鉄塊」を読む〔23〕 ……畠 働猫 ≫読む

〔今週号の表紙〕第473号 大落古利根川〈埼玉県春日部市〉……中嶋憲武 ≫読む


後記+執筆者プロフィール ……福田若之 ≫読む



 
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る





週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る




 
 ■新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ ≫読む
週俳アーカイヴ(0~199号)≫読む
週俳から相互リンクのお願い≫見る
随時的記事リンクこちら
評判録こちら

後記+プロフィール 第474号

$
0
0
後記 ● 上田信治



すごく好きな動画です。カメラを向けて「あなたが beautiful だと思ったから」と言ったときの相手の反応が、動画におさめられているのですけど、I find you're beautiful と言われたとき、人はほんとうに、ビューティフルなのですよ。

ね。

俳句に似てませんか?

それを言ってから、その美しさに気がつくというのが。




これも、かなり好きなんです。演出家・森田雄三がアマチュアと作った舞台で、舞台で教師の生態を演じているのは、本職の先生なんです。

ね。

俳句に似てませんか?

似てないかw でも、こうやって俳人に俳人を演じてもらったら、きっと面白いですよね。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.474/2016-5-22 profile

■山口優夢 やまぐち・ゆうむ
1985 年、東京生まれ。「銀化」所属。2010年第56回角川俳句賞受賞。句集『残像』(2011)。

■広渡敬雄 ひろわたり・たかお
1951年福岡県生まれ、「沖」同人、「青垣」会員、「塔の会」会員、俳人協会会員。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)。2012年角川俳句賞受賞。

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

■角谷昌子 かくたに・まさこ 「未来図」同人。俳人協会幹事、国際俳句交流協会評議員、日本文芸家協会会員。詩誌「日本未来派」所属。句集に『奔流』『源流』。
畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。

西原天気 さいばら・てんき 1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。「里」「クプラス」所属。

〔今週号の表紙〕第474号 きれいに並んだ放置自転車 西原天気

$
0
0
〔今週号の表紙〕
第474号 きれいに並んだ放置自転車


西原天気

東京・田端駅近くに、整然と縦列駐輪された自転車群。

ところで、昨今は、街のいたるところに駐輪禁止の掲示。すこしのあいだだけ店の前に停めておく、というのも、しづらくなりました。放置自転車は問題だけど、ちょっと不便。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

自由律俳句を読む 138 「鉄塊」を読む〔24〕 畠 働猫

$
0
0

自由律俳句を読む 138
「鉄塊」を読む24

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十五回(20146月)から。

この回はうぐいす氏をゲストに句会が持たれた。
うぐいす氏は、現在は作句の際、吉村一音の俳号で活動している。
前回のりんこ氏は、思春期特有の恥じらいや瑞々しさを特徴としていたが、それとは対照的に、うぐいす氏の句は、しっとりとして成熟した抒情が特徴であるように思う。また、すべての句を拝見しているわけではないのでこれは印象に過ぎないのだが、「弱さ」を詠んだ句が少ないように思う。そこに芯の強さ、しなやかさを感じる。


文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十五回(20146月)より

きのうのカレーぬくめる台所に窓がない うぐいす
△暑さが伝わってくる。カレーの粘性とよどんだ空気とが同じイメージとして相乗的に表現されている。(働猫)

「ぬくめる」という語によどみが強く表れている。
新しい料理をするのでなく、また窓もない世界は停滞し閉鎖的である。
二日目のカレーの美味しさを詠んだ句は数多ありそうだが、そう詠まなかった点がよい。



本音言わぬ女の唇が薄い うぐいす
△薄幸そうです。木村多江いいですよね。(働猫)

唇を引き結び、暗い目をして黙っている女の顔が見える。
鏡を見ている詠者自身なのか、それとも別にそうした対象があったものか。



よく働いた夜の歯磨き粉たっぷり うぐいす
△ささやかなご褒美みたいな言い方だけど、別にうれしくないよね。歯医者さんも歯磨き粉は少量で泡立てない方がよく磨けると言っています。あ、不快なものを口に含むお仕事でしょうか……。(働猫)

金曜の夜という感じがする。拙句「待つ夜の耳を洗う」と同じ状況であれば、婉曲なバレ句ともとれる。



約束は昨日だったビビデバビデブウ うぐいす
○「やくそくーは、きのうだーった、ビビデバビデブー」と読むのが正しかろうか。しかし魔法の言葉に頼るほど切迫した状況ではないのだろう。のんきな印象である。ただ、舞踏会の翌日に来た魔女が言っていると思うとテヘペロではすまない。スケジュール管理のまずさを十分に反省すべきである。(働猫)

これは素晴らしい句。
音楽性に富み、なんとも微笑ましい。
ちびまるこ世界の馬鹿馬鹿しさに通ずるものである。



会えなくなる人の目玉かわいている うぐいす
◎眼を見開いたままの死者というのは非常に凄惨な光景である。今まさに恋人の命を奪い、茫然としている情景を思い浮かべた。凄惨ではあるがそうした情景には愛と美しさをも感じてしまうのだ。(働猫)

これは紛れもなく修羅の句である。悲しみや苦しみの中にあっても、そこから句を拾わずにはおれない。業を感じる。



不幸自慢聞くふりをして見やる紫陽花 小笠原玉虫
△「不幸自慢」と表現した時点で、もう聞く気がないことはわかるため「聞くふり」は余分か。(働猫)

あるいは「聞くふりをして見やる紫陽花」でもよかったか。
聞く気のなかったもの、その対象を読者に委ねることで、句を開くことができる。
ただここではそれを委ねたくない、「不幸自慢」であることを伝えたいという作者の熱が句を閉じたのだろう。



にわかに苛立って鯖を斬首す 小笠原玉虫
△料理は愛情と勢いですよね。(働猫)

この句もまた「苛立って」が不要である。
「にわかに鯖を斬首す」で十分にいらだちは伝わる。
玉虫は様々な句会に精力的に参加し、その句もかなり変化しているように思う。
この頃の玉虫に不足していたものは、読者(受け手)への信頼であろう。
自らの感情を書かずとも伝わるという信頼を、おそらくは句会という場を多く経験し、多くの優れた読み手と出会う中で育てることができたのではないか。



親からの電話だ無視する 小笠原玉虫
△なんだか甘えた感じがします。(働猫)

カラオケ中の女子高生のようである。



飲みすぎた命日の甘い吐瀉物 小笠原玉虫
△人の死も飲む口実にしてしまうのですね。「甘い」がすごくリアルで気持ち悪いな。(働猫)

ゲロ句は小澤温や錆助あたりにやらせておけばよい。
汚物に美を見出す句はできそうでできないものだ。



弱い心を許せと迫るお前切り捨てる 小笠原玉虫
△あたりまえだろうという気がしてしまうのだが、これを句にしたということは、これは詠者にとっては特別なことだったのだろう。これまでは切り捨てられずにいた。頭では理解しながらも互いにだめになっていく共依存の関係から抜け出せないでいたのだろう。やっとその悪循環を断ち切ることができた。だがこの未消化な句を見ている限り、本当に断ち切れたとは思えない。表現者としても生活者としてももう一段上るためには、さらなる自己分析が必要なのではないか。「切り捨てた」なら言ってもいいッ!!ということです。(働猫)

ペッシ ペッシ ペッシ ペッシよォ~~~ということです。



ちょうどよい月のないすきま 十月水名
△「ちょうどよい」のは「月」か「すきま」か。「月」とするならば、言っても仕方のない不平不満を述べていることになる。「すきま」とするなら、月の光からも逃れて闇に隠れたいという後ろ暗さの表れだろう。後者の方が好みであるが、きっとどっちでもいいのだろう。(働猫)

ああ、いい句だなこれ。



出目金黒くて大きすぎるまつり 十月水名
○金魚すくいの水槽の中には、客寄せのため大きな出目金が何匹か泳いでいますよね。子供たちのあこがれの対象であり、また、縁日の持つキラキラドロドロの魔性の象徴でもありますね。ちなみに北海道の縁日で金魚すくいと言えば、和紙を張ったポイではなくモナカが主流であり、実際にはすくえずに参加賞で一匹もらうゲームとなっております。(働猫)

もらっても結局処遇に困ることになるのだが。



正午みたいに広いひらめ 十月水名
●なんとなくわかるようでよくわかりません。じゃあ、かれいは正子かな。(働猫)

逆選こそが十月の句への正しい評価のようにも思える。
その意味でこの句は完成形に近いように思う。



肺の中てふてふつかれている 十月水名
△しうつがひつようよのさ!(手術が必要ですね。)(働猫)

しーうーのあらまんちゅです。



うつぶせても何も変わらなかった 十月水名
△腰痛であろうか。お大事になさってください。(働猫)

人からよく聞く病でなりたくないものに、「花粉症」「ぎっくり腰」「痔」があるのだが、「痔」はすでに経験してしまった。あと二つもいずれなるだろうと思う。ビンゴも近い。



詠めない空に雷雨 馬場古戸暢
△句材は時にこうして与えられるものだ。そしてこの句はそれで「詠めた」句なのか、句材を得たことの報告なのか、どっちなんだろう。メタっぽい思考の迷路に誘われそうだ。(働猫)

メタ句である。



雨にはためく旗と寝入る 馬場古戸暢
△呼ばれた気が。どういう状況なんだろう。雨風の強さはわかります。はためく音を聞きながら入眠していくのでしょう。でも何の旗立ってんだ。国旗?軍旗?あ、大漁旗か?とするとこれは船の上か。明日は時化るだろう。過酷な漁になる。その予感を覚えながら、それに備えて少しでも眠っておこうというのか。漁に命をかける男たちの熱いドラマ。マグロ。ご期待ください。(働猫)

遠く風を聞きながら眠る。
雨音や風の音は不思議とよい睡眠に誘ってくれるものだ。
よい夢が見られただろうか。



首を回すと君が見ていた 馬場古戸暢
△司馬懿みたいに首を180°回せるけど奇異に見られるのでずっと隠していたんでしょうね。秘密を知られたからにはもう殺すか結婚するしかないでしょうな。(働猫)

正体がばれた妖怪のとる道は二つに一つである。



飛び出す猫よそこで止まるな 馬場古戸暢
△猫を思いやれるのは倭国に暮らすものの余裕であろうか。北海道共和国では飛び出すのは鹿か熊であるので、ぶつかればこちらが死ぬ。鹿は強い光を見ると硬直する習性があるため、車のヘッドライトの中立ち止まってしまうのである。(働猫)

3台目に乗った車はランエボだったが、道東から札幌へ向かう日勝峠で鹿とぶつかりフロントが大きく潰れてしまった。鹿はすぐに立ち上がり森の中へ消えた。
何度も言うようだが、北海道は恐ろしい土地である。でも食べ物はおいしいのでどうぞお越しください。7月には文学フリマもあるよ。



笑うて笑うて明日へ眠れん 馬場古戸暢
△楽しい夜だったのだろう。しかし一人に戻るとやはり眠れなかった。一人寝に慣れなかった頃、経験があります。一日の終わりに一人という寂しさ。慣れてしまいたくないものです。(働猫)

一人寝にすっかり慣れてしまった昨今では、眠れない夜にYouTubeでサンドイッチマンや笑い飯の動画を見てしまうことがあり、こうなる。
ご一緒に、ホタテ。



隣から悲鳴のあって夏めく夜だ 風呂山洋三
○ホラーや怪談はかつて夏の風物詩であった。悲鳴が隣人のものか、テレビの中のものかはわからないが、それに夏を感じるという感覚は昭和を生きてきた自分によく馴染む。食卓には西瓜。テレビには稲川淳二か13日の金曜日。「夜」だから「あなたの知らない世界」ではない。新倉イワオ。宜保愛子。池田貴族。みんな死んでしまった。平成世代ならば、隣で事件が起こっているのに無関心な様子ともとれるであろうが、それだとあまりおもしろみはない。(働猫)

団欒の灯、家族、正しい夏の日。
あいかわらず風呂山の切り取る景は、私の失ってしまった優しい世界ばかりである。胸が苦しい。



愚痴聞いている今夜は蒸し暑い 風呂山洋三
△これも「不幸自慢」の句同様、「愚痴」という表現にすでに「聞きたくないもの」という主観が乗せられている。そうするとそのあとの展開「蒸し暑い」も当然のことすぎるように思える。(働猫)

これは上記の評の通りだ。



雨の後の風にタバコの煙乗せた 風呂山洋三
△煙草は吸わないし、むしろ苦手な方だ。それは別にしてこれはきれいな句ですね。長い雨が終わりさわやかな風の中煙草に火を点けたのでしょう。(働猫)

雨上がりの爽快さ。
喫煙者には住みにくい世の中になってきたようだが、句を拾うためにがんばってほしい。



花びら消えた古井戸の闇覗く人のいる 風呂山洋三
△詠者はどこにいるのか。覗いている人を突き落そうと、その後ろに立っているような気がしますね。未遂で済んでいることを祈ります。(働猫)

最近「真田丸」で見たな。



今日のできごと枕に乗せるほくそ笑む 風呂山洋三
△いいことがあった一日なのですね、とかわいらしく読みたいところであるが、鉄塊にそんな心のきれいな詠者はいないはずなので、ここは「ほくそ笑む」という表現に着目しよう。これは本日の企みがうまくいったことを表している。重要書類の数字を改竄し、明日部長が失脚するように仕掛けたとか。友人と遊ぶ約束をして、家の前に落とし穴を掘っておいたとか。あるいは多額な遺産を受け取る目処がたったとか。そういうことなんだろう。違うかい。(働猫)

人生においてほくそ笑んだ経験がない。
私にももう少し人を陥れる才覚があったならば、と思うことがある。
まじめに生きて、雀の涙の生涯賃金を受け取り、支給されることのない年金を支払い続け死んでゆくのだ。
とりあえず落とし穴を掘ることから始めようかとぞ思う。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
蕗あまく煮て少女恋におちゆく 畠働猫
花咲け馬鹿の庭に咲け 畠働猫
ペディキュアに土下座している五月闇 畠働猫
おそろしく水呑んで百合しろく咲く 畠働猫
死ぬまでさびしい風窓が鳴る 畠働猫

「少女」の句を時々詠んでみようと試みるのだが、どうも私にその嗜好がないためかうまくいかない。
おそらくは自分にとって詠む必要のない句材なのだろう。
世の中には多くの表現者があるのだから、自分は自分の詠むべきものを詠めばいいのだ。

私は、自分の詠めない世界観を持つ表現者に出会うと、安心にも似た感情を覚える。
りんこやうぐいすの詠む世界は非常に魅力的である。
しかし、そうした世界を表現することは彼女たちが担うのであって、私の担当ではない。
我々表現者は、それぞれの眼で見える世界の美しさを詠う。そうして世界は遍く詠われてゆく。
私は(もしくは私たち表現者は)、ある種の使命感を持って世界と向き合っているのだと思う。この世界の美しさを余さず詳らかにし、伝えてゆくこと。そのために目を見開き、言葉を磨く。しかしどうしても限界はある。世界のすべてを見ることはできないし、言葉のすべては紡ぎ得ない。
だからこそ、自分とは違う視点で世界を切り取る表現者に出会い、その表現に信頼を寄せることができたとき、無上の幸福を覚えるのである。



次回は、「鉄塊」を読む〔25〕。


【八田木枯の一句】黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒 角谷昌子

$
0
0
【八田木枯の一句】
黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒

角谷昌子


第六句集『鏡騒』(2010年)より。

黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒  八田木枯

我が家では夏になると、揚羽の卵や幼虫を採取して、部屋の中で育てている。揚羽の食樹は蜜柑科の植物(ただし黄揚羽は芹や人参などのセリ科)で、庭の金柑や山椒の葉に卵を産み付けると、なるべく速やかに保護する。さもないと卵は蜘蛛や蝸牛、蟻などに喰われたり、幼虫も天敵の脚長蜂などに襲われてしまう。もしくは、蜂に卵を産み付けられ、寄生されてしまう。せっかく育てた揚羽の羽化を楽しみにしていたのに、やっと蛹から出てきたのは巨大な蜂という事態になるので、気を付けないといけない。

ナミアゲハとクロアゲハの若齢幼虫(孵化して一週間ほどまで)はよく似ている。どちらも黒地に白いまだらの入った鳥の糞そっくりだが、やや色が薄いのが黒揚羽だ。一度脱皮して緑色の終齢幼虫になると、色と柄などの違いがはっきりする。

一般的に揚羽類は、羽化すると日当たりのよい場所で華やかに舞っているが、黒揚羽は陰りある場所、たとえば林の薄暗い木立を縫うようにして飛ぶ。産卵のときも、直射日光を避け、薄日の射すような暗がりを好むようだ。そんな黒揚羽の生態が、ミステリアスな雰囲気を漂わせるのだろう。

〈黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒〉の「鏡」は、大きな姿見のイメージだ。部屋に立てられた鏡は、庭の青葉を映している。そこをすうっと「黑揚羽」が飛び過ぎると、水面が波立つように鏡がざわざわと騒立つ。

黒揚羽は黄泉からの使者のように、かそけき彼の世の気配を曳きながら、喪章の翅をひらめかせる。黒揚羽の影がよぎり、心の底にふっと胸騒ぎが起きると、そのざわめきが鏡にまで伝わってゆく。

鏡には異界が映るのではないか。そんな思いに駆られて鏡を覗きこむと、奥から青白い手が出て引き込まれてしまう。もうすでに部屋に人影はなく、鏡から薄闇が滲み出て、庭の青葉へと煙のように漂い流れてゆく。やがて薄闇が黒揚羽のかたちとなって、まただれかを攫いに木々の間を縫い、何処かへ消えてしまうのだ。


【週俳4月の俳句を読む】俳句の「中味」 上田信治

$
0
0
【週俳4月の俳句を読む】
俳句の「中味」

上田信治



剥がすべき国旗のシール 現代鳥葬 髙田獄舎 
現代鳥葬 到達できぬ惑星を滅ぼし

これは阿呆陀羅経だと思うのですよ。悪い意味ではなく。そういえば日本のロックバンド「人間椅子」にも、阿呆陀羅経という曲がありました。高田さんの作品自体、人間椅子とか椎名林檎の詞ような方向性でもある。

雨を見るフロントガラス花疲 兼城 雄 
飛行機のまつすぐ進む春のくれ

パンの耳買つて花散る夕べかな 引間智亮 
流れゆく人工言語海雲喰う

17音のある部分を使って、フレーズを提示。残りの部分を使って、俳句にする。典型的な方法ではあるのですが、そのとき「何」が俳句になるのが価値あることなのか。

内容に対する納得や共感、季語のイメージが豊かに展開することなどが、価値とされる場合が多いのですが、何が俳句になったんだか、簡単に言えないようなものが、俳句になることが、いちばん価値あることなんじゃないか。

手のひらの水を飲む犬春なかば 満田春日

「何が」という話の続きでいえば、満田さんの10句は春愁の気分がそれに当たるのでしょう。そして、この句の場合、犬の安心しきった頭部を見ている「わたし」に流れる時間を、作者が見ているという、隠れた二重性から、その気分が生まれていると思う。

俳句の「中味」が、フレーズの内容や、季語、あるいは物語などから、直接に生じているのではないところが、尊いわけです。

孵卵器の扉が開いて花ミモザ 満田春日

ミモザの花のあの重ったるい明るさと、孵卵器の人工の光の生む深い影。主人公は、卵のことを意識から飛ばしてしまった? これもやっぱり春愁ですかね。

春風みたいにしますねと美容師笑ふ 工藤玲音 
島民を乗せて彼岸の船つやつや

何が「中味」か、といえば、そう言えてしまう私、か。この私をアイコンとして楽しめるかどうかで、この一連の読者となれるかどうかが分かれるのかもしれない。

おこるひとゐなくて春の雪に尿 淺津大雅

性根がすわったこどもっぽさだ!と思えると楽しい句。

石哭くや贄にたちこめたる霧を 九堂夜想 
前生の霧をししふし言う野巫か
霧をかの命命鳥は血下ろしへ

作者従来の捉えがたさと違って、ここにはマントラのように「キリオ…キリオ…」とつぶやきつづけるシャーマンのような発話主体があって、そのかっこよさが「中味」ですね。



第467号 2016年4月3日
髙田獄舎 現代鳥葬 10句 ≫読む
兼城 雄 大人になる 10句 ≫読む
第468号 2016年4月10日
満田春日 孵卵器 10句 ≫読む
引間智亮 卒 業 10句 ≫読む
第469号 2016年4月17日
工藤玲音 春のワープ 10句 ≫読む
益永涼子 福島から甲子園出場 10句 ≫読む
第470号 2016年4月24日
九堂夜想 キリヲ抄 10句 ≫読む
淺津大雅 休みの日 10句 ≫読む

【みみず・ぶっくすBOOKS】第7回 モーリス・コヨー『ヴェトナムの路上の声、そして俳句』 小津夜景

$
0
0
【みみず・ぶっくすBOOKS】第7回
モーリス・コヨー『ヴェトナムの路上の声、そして俳句』

小津夜景


この世界は多くの不思議な書物に満ちていて、それらに魅了されていたら夢から一度もさめないまま一生を費やしてしまっていた、なんてことがしょっちゅう起こる。

先日たまたま古本屋をのぞいたら、その手の愉快な本をみつけた。タイトルは『ヴェトナムの路上の声、そして俳句』。著者のモーリス・コヨーは1934年ハノイ生まれ、パリ大学およびグラン・ゼコールで教鞭をとっていた言語学者である。

彼の専門言語はロシア語、北京語、モンゴル語、ビルマ語、タガログ語、朝鮮語、日本語など広範囲に及ぶ。またフォークロア研究のための出版社(P.A.F)の設立・代表もしており、本書はこの出版社の企画物らしい。

A4判の本。2€=250円で購入。もともとの値段は45フラン。


本書の前半は、
・ドゥ・フェニス「ハノイの路上における行商人の売り声」
(雑誌『ラ・ルヴュ・アンドシノワーズ』掲載、1925年)
・ベルジェ「サイゴンの路上における歌と売り声」
(雑誌『アンドシーヌ』掲載、1943年)
の再録で、後半にはコヨー自身の論文「口承文学における人間らしさの源としての、文法規則の侵犯」が収められている。


上は「サイゴンの路上における歌と売り声」。鴨の雛の卵、米粉の蒸しパン、さつまいも、自転車に乗った粽売りの歌と呼び声を採取している。


黒大豆の甘いピュレ売り、煎りナッツ売り、西瓜の種売り、毛ばたき売り、筵売り、水売り、新聞売りの呼び声など。


こちらはハノイの景観。人類学固有の、一種の夢心地が溢れ出すかのよう。で、ここからが本書だけの風変わりな特色になるが、こうした心ときめくフィールドワークのところどころに、もうほんとに「一体どういうことよ!?」と呆気に取られるのだけど、なぜか写楽のラクガキが挿入されている。こんな感じで。


こ、こ、これを書いたのはコヨーさん? どうやら彼は絵が大好きらしい。もういっちょ。


何故このようなことが起こったのか? その原因はひとつ。コヨーさんが自身の言語学人生において日本に特別な愛着をもっているからだ。なかでも俳句がお気に入りのようで、本書の論文でも「とにかく言葉に興味があるんだったら俳句に行き着かないとダメよ」的見解(筆者の語学力にはかなり難があるので話半分に聞いてください)を繰り広げつつ、巻末に13頁に及ぶ「コヨー訳、子規句集」を加えるといったフリーダムぶり。(と書いていたら本人に興味が湧いてきた。いつか機会を見つけて「口承文学における人間らしさの源としての、文法規則の侵犯」を翻訳してみよう)。


これがコヨーさんの筆跡。かなり書き慣れた、味のある字。本の見開きレイアウトも愛らしい。




なんて絶妙なバランス! この踊るような、笑うような文字と余白との均衡を眺めていると、コヨーさんが自由と学芸とをこの上なく愛する人物であるのが一目瞭然のような気がしてくる。ご飯を作ってもすごく素敵な盛り付けをしそうだ。おまけとして彼の本をもう一冊、大写しで紹介。


思わずぐっときちゃうような、縦書きのプロポーション。しかもこの妖しい達人めいた筆跡のせいで「紅葉モリス」という筆名までミステリアスな怪人風に感じられ、とてもユーモラス。

今週はこれでおしまい。二冊とも、大好きな人と一緒に、惚れ惚れしたり大笑いしたりしながら読みたくなる本でした。

《参考》

ヴェトナム風米粉の蒸しパン(bánh bò)のつくりかた


成分表70 いい景色 上田信治

$
0
0
成分表70
いい景色

上田信治

「里」2012年10月号より改稿転載


一人で焼き肉を食べることと、一人でよい景色を見ることは、やはり似ていると思った。

冬はスキー場になるその高原は、それ以外の季節、リフトだけ営業して人を山頂まで乗せていく。自分はこれまで自然とか景色などに感受性が低かった気がするのだが、最近は景色がよいと普通に気持ちがよいので、夕方、終了間際のリフトに乗ってみた。

山頂は、誰もいなくて、とてもよい景色だった。

翌日、帰るまで時間があったので、午前中にもう一度同じリフトに乗ってみた。前日と違い、山頂は人が多かった。家族連れや、男女二人で来ている人、犬を連れて来ている人もいるし、バイク乗りらしい男性が二人で来ていたりする。つまり、誰かといっしょに来ている人が多い。そういえば、女性の二人旅が流行した時代もあったし、行楽地で大きな人形を連れた老人を見かけたこともあった。

きっと人にとって、歓びを分かち合うということには、深い意味があるのだろう。

自分も、自分を歓ばせることをして、誰にも「いい景色だね」「美味しいね」と言わずに帰ると、心にすこし澱のようなものが残る。誰かとそれを共有すれば、そういうことはないので、だとすれば、人は、澱を濾過するものとして他の誰かを必要とするのだろうか。

あ、それが「淋しい」ということか。なんという、当たり前の結論。小学六年生のころ、日曜の朝、ああこれがお腹が空くということか、と知ったときのことを思い出した。

人は、人々の一部として生きるものだから、淋しさは、充分にそうでないことの罰かと思ったり、しかし、人には自分の心しか持ちものがないということも本当なので、むしろその澱のほうに何かがあるのではないか、と思ったりもする。

生きている誰かではないものを相手にする時間は、心を言葉少なに空洞に近いものにする(とすると、映画やテレビは誰かの一種だ)。そこに澱が生まれるなら、その屈託は、自分が蟹なら蟹ミソのような、いわば肝心の部分なのではないか。

人のよろこびに必要量のようなものがあるとして、自分で自分を歓ばせるだけでは一人の必要量に足らないので、誰かのよろこびを自分に「足す」。そういうことが、人間にはできるのかもしれない。ほら、独身の人が、急にできた甥や姪の可愛さにはまったりするじゃないですか。

自分もこうして、ひとりで景色を見て生まれた屈託などのことを、誰かに言いたいと思ったのです。

  一にぎりは胡麻がとれそうなうちの胡麻の花かな 荻原井泉水

成分表69 食パン 上田信治

$
0
0
成分表69  
食パン

上田信治

「里」2012年11月号より改稿転載


最近、朝食に、パスコの「超熟」という食パンを食べ続けている。

いまは外国から有名なパン屋が入って来るし、近所にも次々と若い職人が店を開いて、それぞれ大変美味しい。しかし、美味しいパンも続けて食べると飽きるというか当初の感動が減ずるので、これまではパン屋からパン屋へと目先を変え続けていたのだけれど、そういうことはもうやめよう、もうずっとこれ(「超熟」)でいいんじゃないか、という気になったのだ。「超熟」は製法や原料に特徴があり、ヒット商品らしく、実際美味しい。とりあえず数ヶ月食べて飽きていない。ひょっとしたら、飽きるほどには美味しくない、というようなこともあるのかもしれない。

自分は読むものには飽きが来にくいほうなのだけれど、数年前に完結しこの何年か飽きずに再読していたある少女漫画が、はたと面白くなくなっていた。それまで二十回以上読み返してカンペキと思われていた作品が、このあいだ読み返してみたら、何だか底が割れたような気がしてしまったのだ。それは、たぶん自分という読み手の側に起こった変化だ。では何が変わったのかというと、これがよく分からない。

美味しさや面白さに飽きてしまうのは、はじめ「ふつう」のものとの違いを価値と感じ、やがてその驚きに慣れてしまうということだ、と、まずは言える。「スーパードライ」というビールは、始めおどろくほど美味しく感じられたが、しばらくして、それはビールらしくない酎ハイのような味が面白かったからだ、ということが分かってしまった。

意識されたことは、飽きのプロセスにさらされる。

その漫画については、どこが面白くなくなったのかを考えないことにした。意識されてしまった何かかより、かつて感じていた面白さのほうが、きっと、そのものの本質に近い。

大げさな言い方になるけれど、自分は差とか違いではない美味しさというものにあって欲しくて、同じパンを食べ続けている。パンはもともとそれ自体美味しいものだから、それでいいという割り切りもあっていい。

差とか違いではない面白さというものはあるか。

ものに慣れやすい自分が差とか違いを「経由」することを求めているだけで、面白いものもまた、もともとそれ自体面白いのだということはないか。

  正午の海と本の厚さのパン明るし 阿部完市

追記:「超熟」は、その後、あまり美味しくなくなってしまった。自分のせいかパンのせいかは分からないけれど。



成分表68 やさしさ 上田信治

$
0
0
成分表68  
やさしさ

上田信治

「里」2012年11月号より改稿転載


人の思考は、アナロジー、つまり何かと何かは似ているという感じをもとに働くのだそうだ。

永田耕衣が、テレビで料理番組を見ると「稲荷寿司のアゲの油をぬくのに瞬時ゆがく」「麻の実を寿司飯に適量混入する」などの、具体的な人間の知恵がありがたく、涙ぐむと書いていた(『名句入門』)。

涙ぐむと言えば、自分は、女性歌手の若々しくたっぷりと媚態をふくんだ歌を聴くと、ありがたく涙ぐましいような気持ちになる。ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」とか。

ではと思って、少女時代の「ジニ」などを聴いてみると、カッコヨサには打たれるものの、自分がそのカルチャーを共有していないことを強く意識させられる。それは、今の黒人音楽が分からないということと、もう一つ、彼女たちの体現している女性性がよく分からないということで、世代とか年齢によるものなのだろう。最近、日本でにわかに全盛をむかえた女性アイドルグループについては、逆にそのカルチャーが分かりすぎてしまうのだけれど、話がそれた。

  夏蜜柑の種子あつむれば薄緑  川島彷徨子

耕衣の料理番組の話は、この彷徨子の句の短い句評の文中に出てくるものだ。「薄緑」を享受するトリビアリズムは自然の神秘を無限に痛感する「情の世界」に拡大展開する、といった耕衣一流の言い方につづけて稲荷寿司の話になり、この一句に人間の知恵を見て感涙を催さない人は詩人ではない云々と、その文は結ばれている。

夏蜜柑の種子と料理番組の両方にむけて流される涙に共通するものは、根源的なあこがれへ向かう回路が、ただ優しさによって開かれることへの驚きと歓び、そして感謝だ。自分は、勘で、そこに女性歌手の話を持ち出したのだけれど、ぴったり平仄が合っていた。耕衣はそれを、人間の知恵と呼んだ。

ロネッツを聴くと、自分は、ロネッツになりたい、と思う。電車の好きな子供が、新幹線になりたいとか言う、あれだ。ラモーンズが「ベイビー・アイ・ラブ・ユー」をカバーした気持ちが痛いほど分かる。マリリン・モンローにもなりたい。マリリンの詩を書いた詩人もそう思っていたに違いなく、薄緑のみかんの種になりたい気持ちになれば、あんな句が書けるのかと思ったりもする。

俳枕 23 高千穂と種田山頭火 広渡敬雄

$
0
0
俳枕 23
高千穂と種田山頭火

広渡敬雄


高千穂は宮崎県の延岡市から五ヶ瀬川沿いの上流の大分・熊本県境にあり、北に祖母山、傾山を有する神話の故郷である。天孫降臨伝説の地で、高天原、天の岩戸、雲海の眺めが素晴らしい国見が丘やⅤ字型の高千穂渓谷が名高く、高千穂夜神楽でも知られ、歌人若山牧水の故郷東郷町も近い。

分け入つても分け入つても青い山 種田山頭火
秋風の果て牧水の尾鈴山     服部たか子
神々の天降り給ひし地にすみれ  野見山ひふみ
火を焚いて雲海を待つ国見かな  角川春樹
埋火の珠となるまで神楽宿    神尾久美子
荒縄のあらはに見ゆる里神楽   伊藤通明

「分け入つても」の句は、種田山頭火の代表句として有名である。「解くすべもない惑ひを背負つて行乞流転の旅に出た」の前書がある大正十五年四月二十二日の作。熊本市近郊植木の味取観音堂守を捨てて行乞を始め、肥後街道・馬見原から五ヶ瀬を経て高千穂の滝下での作とされる。高千穂神社裏手には、昭和四十七年に山口保明等が建立の句碑がある。

「いつも見える青い山は近づくと又次の青い山が向こうにある。いつもあるのにそこに到達できない淋しさ、もどかしさ、どうにもならない気分」(金子兜太)、「句跨りとリフレインが眼目で旅が永久に続くかの様な安心立命の旅を象徴させる」(鷹羽狩行)、「〈原郷〉を得ない者のこのもどかしさは何だろう」(石寒太)、「禅でいう〈遠山無限碧層々〉と同様に心の惑いも無限に続き解くすべもない。そんな心象風景と実景が二重写しとなっている」(村上護)、「牧水の〈幾山河越え去り行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく〉と同様に旅=遍歴の気持ちに徹している」(山口保明) 、「人間の存在の微小と樹海の持つスケールの大きさ、深さが直截に感じられる」(富田拓也)等々多くの鑑賞がある。

山頭火は、明治十五(一八八二)年、山口県佐波郡(現防府市)生れ、本名は正一。地元有数の富豪であったが、父の遊蕩で十歳の折、母が井戸に投身自殺したことが、終生のトラウマとなった。旧制山口中学を経て早稲田大学に入学するも神経衰弱で退学、家業が傾く中、同四十二年に二十七歳で結婚。地元俳壇で活躍しつつ、荻原井泉水に師事し、その主宰誌「層雲」で自由律俳句を始めた。俳号「山頭火」は、燃え上がる火山、新しい文学への意欲を託したと言われている。

大正五年、種田家は破産し一家離散。妻子を伴って熊本に落ち延び、市内の下通りで古書店(後額縁屋)「雅楽多」を開業した。家業を顧みず、文学立身の夢もあり、単身上京するものの芽は出ず、関東大震災後の混沌もあり帰熊した。

同十三年には泥酔して市電をストップさせたことから禅門に入り、味取観音堂の堂守となった。しかし、一年も満たず山堂独住の淋しさに倦み、堂を捨て一鉢一笠の旅に出た。「層雲」同門の尾崎放哉が小豆島で亡くなった直後の同十五年四月十日であった。

全国にわたり行乞放浪の旅を続け、昭和七(一九三二)年、第一句集『鉢の子』を上梓し、以後第七句集まで刊行。

旅の合間には山口・小郡の「其中庵」、その後山口・湯田温泉「風来居」の仮寓に住み、念願とした伊那の井上井月の墓に詣でた後の同十四年、松山市城北の御幸山麓の「一草庵」に入った。翌十五年、前記七句集を集成した一代句集『草木塔』を上梓。十月十日、本人の希望通りコロリ往生(心臓麻痺)で逝去した。享年五十七歳。

句集『鉢の子』『草木塔』『山行水行』『雑草風景』『柿の葉』『孤寒』『鴉』他膨大な日記、書簡があり、自身で「悪筆の達筆」と称した身心脱落の書も見事である。

「酒豪」ぶりもハンパでなく、本人曰く泥酔への過程は、「まず、ほろほろ、それからふらふら、そしてぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であり、最初の「ほろほろ」の時点で既に三合に達する。酒と俳句については、「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒」と語り、また「芭蕉や一茶のことはあまり考へない、いつも考へるのは、路通や井月のことである。彼らの酒好きや最期のことである」と両人への思慕を吐く。「行乞したゆえに俳句が出来、作句するために行乞した。その表裏一体が山頭火の世界である」(村上護)に尽きる俳人であるが、放哉より格別に心安らぐのは何故であろうか。

句碑の数は五百基を超え、個人文学碑として最多を誇るのも人々を強く引き付け憧れさせ愛される何かがあるからだろう。

鴉啼いてわたしも一人(放哉墓前)
わかれきてつくつくぼうし
まつたく雲がない笠をぬぐ
酔うてこほろぎと寝てゐたよ
どうしようもないわたくしが歩いてゐる
うしろすがたのしぐれてゆくか
笠へぽつとり椿だつた
ひとりの湯がこぼれる
鉄鉢の中へも霰
雪へ雪ふるしづけさにをる
あるけばかつこういそげばかつこう
うどん供へて、母よ、わたしもいただきまする
いちにち物言はず波音
ひとりで焼く餅ひとりでにふくれる
もりもりもりあがる雲へ歩む
お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました(井月墓前)

俳枕 22 箕面と後藤夜半 広渡敬雄

$
0
0
俳枕 22
箕面と後藤夜半

広渡敬雄

箕面市は大阪の北西部。東は茨木市、西は池田市、南は豊中市、北は豊能町に境を接する。箕面山を中心に箕面川、勝尾寺川流域一帯は明治の森国定公園の指定地域で、古くから修験道の霊場の瀧安寺や西国三十三箇所の勝尾寺で知られる。東京の高尾山と共に明治四年に国の公園地の指定を受けた。東海自然歩道の終着地で、有名な大滝には、古来より西行、定家、鴨長明、頼山陽らが訪れ、殊に紅葉の頃は多くの府民で賑わう。

滝の上に水現れて落ちにけり   後藤夜半
紅葉焚けば煙這ひゆく水の上   細見綾子
くるま駆る勝尾寺までの山紅葉  高浜年尾
瀧の面をわが魂の駆け上る    後藤比奈夫
瀧落ちて樹々も大地も眠らせず  西宮 舞

〈滝の上〉の句は昭和四(一九二九)年作で、第一句集『翠黛』に収録されている。高浜虚子選の「日本新名勝俳句」(昭和五年)の最優秀二十句(金賞)となり、「ホトトギス」の昭和六年九月号巻頭の夜半の代表句。大滝の前に句碑がある。

「滝口に現れ落ちる水を、高速度撮影で捉えたかのように活写し、滝の実相を描出。写生はこうありたい」(鷹羽狩行)。「力強い滝が簡潔に描かれ、これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句は他にない」(清水哲男)。「滝が滝である状態の一切がここには描かれ、それ以外にはなにもない。句そのものの姿が一筋の滝のごとく潔く自立している」(西村和子)などの鑑賞があるが、「さして感動もしなければ、夜半の俳人としての真骨頂が窺える句でもなく、虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見える句」(高橋治)との評もある。

後藤夜半は明治二十八(一八九五)年、大阪市北区曽根崎新地に生まれ、本名潤。私塾泊園書院で漢籍を学び、北浜の証券業長門商店に約三十年勤務した。父眞平(俳号古拙)の影響で、明治四十年頃から俳句を始めた。次弟實は、喜多六平太の養子となって喜多流宗家を継ぎ、長弟得三も喜多流能楽師となった。大正十二(一九二三)年より、「ホトトギス」に投句し、虚子に師事。昭和四年、同誌課題句選者となる。「滝」の句で巻頭となった年に、「蘆火」を創刊(同九年病で廃刊)、同七年には「ホトトギス」同人に推挙された。

昭和十五(一九四〇)年、『翠黛』を上梓、戦後は俳句専業となる。同二十三年に「花鳥集」を創刊主宰し、同二十八年に「諷詠」と改めた。同三十七年、第二句集『青き獅子』、同四十三年に第三句集『彩色』を上梓する。同五十一年(一九七六)年八月二十九日、逝去。享年八十一歳。同五十三年、遺句集『底紅』が上梓された。俳話集『入門花鳥諷詠』がある。  

長男は「諷詠」の名誉主宰後藤比奈夫、嫡孫は現主宰後藤立夫。立夫の息女和田華凛も同人である俳句一家である。

「根っからの市井の人で、人の思惑に拘らぬ自在な町人の生き方を貫いた。高悟帰俗と言う言葉を借りれば、高悟のところは、他人の目に曝さないで、俗に帰したところを明るみに出して置く。そういう市井の人の根性を根底に宿している俳人。いわゆる夜半境涯の句も『物の姿』に己が姿を写し、『物の心』を借りて己が心を叙べるのが原点である」(後藤比奈夫)。「夜半の作品にほのめくものは、『色っぽさ』であって『エロチシズム』ではない。都会の人でなく、町の人である」(日野草城)。

「大阪商人としての懐深さと町人文化と称される恐るべき教養を身につけており、表面はごくつましく見せながら、奥の豊かさに恐しさを秘めた、関西の町人たちの実力の程を見せられる感がする。並々ならぬ捨象が夜半俳句の真髄である」(高橋治)。

「自然に対しても、人間に対しても夜半の対象への優しい視線を感じる。人間を、自然を好きだからだろう」(西村麒麟)等の評がある。

宝恵駕の髷がつくりと下り立ちぬ
傘さして都をどりの篝守
花冷や夜はことさらに花白く
風過ぐるまで初蝶の草にあり
国栖人の面をこがす夜振かな
金魚玉天神祭映りそむ
てのひらにのせてくださる柏餅
射干の花大阪は祭月
涼しやとおもひ涼しとおもひけり
端居して遠きところに心置く
今日の月すこしく欠けてありと思ふ
山上憶良を鹿の顔の見き
遠鹿にさらに遠くに鹿のをり
底紅の咲く隣にもまなむすめ
松手入して松風も村雨も
大阪はこのへん柳散るところ
狐火に河内の国のくらさかな
探梅のこころもとなき人数かな
春待つといふ大いなる言葉あり
煤笹の横たへありし神事かな
日短き少彦名(すくなひこな)の祭かな
心消し心灯して冬籠
着ぶくれしわが生涯に到り着く

「名利を求めず、終生人のなさけの機微をうたい、自然への参入に心を澄ました俳壇の聖者」と言われたが、蓋し至言であろう。生涯俳壇上の受賞が全くない俳人であった。

【句集を読む】 高柳克弘 句集『寒林』を読む  カビキラーとステレオタイプ  山口優夢

$
0
0
【句集を読む】高柳克弘 句集『寒林』を読む
カビキラーとステレオタイプ 

山口優夢


見る我に気づかぬ彼ら西瓜割  

夏の海辺の、はしゃぎ回る家族連れや、若者のグループ。そこから少し離れて彼は寝そべっている。「こっちこっち」とか「わ、あぶねえよ」とか言って浜辺の西瓜割りで典型的に盛り上がる彼らの様子を、「我」はじっと見続けている。しかし彼らは見つめている私には気が付かない。なぜか。簡単なことだ。彼らは彼らの中で世界が完結できるほど今を楽しんでいるからだ。

そんな彼らをみつめる「我」の視線を対象化することで、この句では何が生まれるのか。そもそも「我」はなぜ彼らを見つめているのか。そこに「我」の孤独感や疎外感を一足飛びに読み取ろうとするのはやや性急に過ぎるだろう。おそらくその視線には特に意味はないように思う。ただただぼーっと眺めている。でも彼らは気づかない。気づかない、ということに気づいたとき、初めてほんの少しだけ、かすかな感情の動きが生まれることは、あるかもしれない。

「見る」ということ、あるいは世界とは切り離された地点に立っていると感じながら、なおかつ世界に視線を向けること。そうしたことを志向する意志こそが、この句集を支えるベースの力になっているのではないか。

雪投げの母子に我は誰でもなし
見てゐたり黴を殺してゐる泡を

だから、上に挙げている句はどちらかというとそういったベースがむき出しになっているという点で、この句集が志向する句そのものとはちょっと異なっているかもしれない。雪投げの句は、西瓜割の句と同様に楽しそうな母子の様子を少し離れて見ている視線がある。そこであえて「我は誰でもなし」と母子との関係性の構築を否定することで距離を置く。

カビキラー(かどうかは知らないが)の句は、そうした自分と関係なく進行していく物事に対する視線を、人間以外のものに敷衍している。黴を殺している泡、というのは、しかしながら、たとえば「鹿を殺してゐる犬を」とか、「鮭を殺してゐる熊を」というのとは違って、本当に殺しているのかどうかは見ていても判別がつくものではない。正確に言えば、「(黴を殺しているはずの)泡を」見ているのだ。

そう考えると、西瓜割だって雪投げだって、彼が見ることができているのはその外観だけで、それがいかに楽しそうであったとしても本当に楽しんでいるのかどうかまでは見えるわけではない。しかしそれらをあえてステレオタイプ化し(つまり、泡が黴を殺しているかどうか確認のしようがなくてもそれを殺しているのだと受け止めるのと同様に、西瓜割や雪投げをしている人たちはそれを楽しんでいるのだと仮定し)それを見つめる自分との距離感を、一句のテーマに据えている。

あえてのステレオタイプ化は、句集の至るところに散見される。

ヘルメット脱ぎし星空霜にほふ
劇団に芽生えし恋や扇風機
顔寄せてミントにほへる浴衣かな

ドラマか小説の一節のような場面の取り方。「霜にほふ」「扇風機」「浴衣」といった季語の現場感を借りて力尽くで一句に仕立てた印象がある。そしてそれは、いとも軽々と、といったふうに見えるほど、確実に成功を収めている。つまり別の季語が入ったとたんに陳腐で切り捨てられるような内容にもかかわらず、具体的な場面設定を過不足なく行い、五感に訴える要素を持ち、かつ小さじ半分程度の裏切りを秘めているという意味で、いずれの句もほぼこれ以外ないような季語が選択されているのだ。

問題は、こうしたドラマの一節みたいな恋愛感情や季節の感じ方を彼はなぜ一句に昇華させる必要があるのか、ということだ。それに対する僕の回答は、この句集で志向されているのが世界の再構成だから、というものだ。

枯蓮や塔いくつ消え人類史
馬と眠る旅をしたしよ沙羅の花
神は死んだプールの底の白い線
冬青空宇宙飛行士みな短髪
空に風海に潮や渡り鳥

「塔いくつ建て」ではなく「塔いくつ消え」であるところに、ペシミスティックな彼の認識を見てとることができるが、それはともかく、「人類史」を記述しようとし、大時代的な「馬と眠る旅」を持ち出し、ニーチェの言葉に卑近なプールの情景を二重写しにし、宇宙飛行士がみな短髪であることと、空や海が風や潮の流れを常に孕んでいるという事実とをいずれも肉体感を持って描出する。自らの経験や写生を前提とした俳句とはかなり異なる地点に立脚した句がここでは志向されている。

世界の本質や今ここにない何かを希求するために彼は俳句形式を選んだのではないか。俳句の言葉は哲学ほど複雑ではないが、常に季語が具体的な情景を保証するため、彼の再構築する世界が肉体から遠く切り離され遊離してしまうことはない。

そうした句群と並び以下のような彼の生活が垣間見えると考えられる句がある。

ぼーつとしてゐる女がブーツ履く間
欠かすなきレモン未婚の卓上に
新娶秋草猛き家なれど

僕は彼のことを個人的に知っているためにこれらの句が彼のプライベートに結びついていることを知ってしまっているせいもあって、どうしてもこれらの句の作中主体を一人の青年と想定して読んでしまうというところもあるのだが、こうした彼自身がモチーフになっていると容易に読むことの出来る作品群さえ、上の「人類史」や「宇宙飛行士」といった句群と合わせて読むことで相対化されていくのを感じる。すなわち、女がブーツを履く間にぼーっとしているのは彼であってもなくてもいいのだ。そういうことが世の中を見つめる彼の目には映っている、それ以上の意味がこの句の上からははぎ取られてゆく。結果として、これらの句も「人類史」の一環として世界の再構築の一部に組み込まれていく。

こうして再構築されている世界の諸相の中で、人間の恋の営みやもろもろの生活のほとんどはステレオタイプに繰り返されていく。彼の句がステレオタイプなのではない。どうあってもステレオタイプでしかないことまで含めて再構成しようとするからこそ、ステレオタイプが混じり込むのだ。

絵の少女生者憎める冬館
よろこびは過ぎ花園に椅子一つ

彼が再構築したこの句集の世界は、やはり全体として暗いトーンに支配されているように思う。もちろんその中には新娶の喜びや「菜の花や早退の子がバス停に」の句に見られるような明るさもある。しかし「塔いくつ消え」に通じる儚さが上の二句にも通底し、この句集の基調をなしていると僕には見える。それには「寒林」というタイトルも一役買っているかもしれない。

原稿は焼けとカフカや青嵐

世界の再構築は、芸術家の一つの夢でもあろう。彼が「カフカ」という芸術家の人名を持ち出し、「青嵐」という季語を用いるとき、僕にはどうしても思い起こされる句がある。

青嵐ピカソを見つけたのは誰 神野紗希

彼がこの句を意識していたかどうかは知らないが(一つ屋根の下に暮らしていて意識していないということはないと思うけど)、芸術家のありようが主題になっている点でも、この二句は明らかに呼応している。

神野の句は、ピカソの価値を発見した誰かに思いをはせることで自らの価値を誰かに見いだしてほしいという希求も言外に含んでいると僕は読む。一方、カフカの句では、「原稿は焼け」と自らを誰かに発見されたり評価されたりといったことをむしろ拒むような文言が並ぶ。

しかしこれを額面通りに受け取るのは皮相の見解というものではないだろうか。カフカが本当にそう言ったのかは僕は知らないが、そういう言葉が残っているのだとすれば、それ自体が焼かれた原稿の不在を証明してしまうという点で、やはり自らの価値を見いだされたいという希求の裏返しであることは疑いようがない。

自分自身の経験をすら自分から切り離し距離を持った地点からながめることで自らの淋しさで満たされた世界を再構築する彼の屈折した志向性に、「原稿は焼け」という言葉は実は限りなく優しく添い遂げようとしているように、僕には感じられた。

作者は高柳克弘。

第474号 2016年5月22日

$
0
0
第474号
2016年5月22日


2015 角川俳句賞落選展 ≫見る
2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る

【句集を読む】 高柳克弘 句集『寒林』を読む
カビキラーとステレオタイプ
……山口優夢 ≫読む


俳枕〔夏〕……広渡敬雄
22 箕面と後藤夜半 ≫読む
23 高千穂と種田山頭火 ≫読む

成分表……上田信治
68 やさしさ ≫読む
69 食パン ≫読む
70 いい景色 ≫読む

【みみず・ぶっくすBOOKS】第7回
モーリス・コヨー『ヴェトナムの路上の声、そして俳句』
 ……小津夜景 ≫読む

【週俳4月の俳句を読む】
上田信治 俳句の「中味」 ≫読む

連載 八田木枯の一句
黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒……角谷昌子 ≫読む

自由律俳句を読む 138
「鉄塊」を読む〔24〕 ……畠 働猫 ≫読む

〔今週号の表紙〕第474号 きれいに並んだ放置自転車……西原天気 ≫読む


後記+執筆者プロフィール ……上田信治 ≫読む



 
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る





週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る




 
 ■新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ ≫読む
週俳アーカイヴ(0~199号)≫読む
週俳から相互リンクのお願い≫見る
随時的記事リンクこちら
評判録こちら

後記+プロフィール 第475号

$
0
0
後記 ● 西原天気


まずは酒屋でワインを買う。コルクじゃなくて捻って開くタイプがいいです。安いのが多いですかね、このタイプは。安くていいと思います。それとビニールか紙のコップを手に入れる。

夏の夕方、まだ明るさが残るころ、ワイン付きの散歩がオススメです。歩きながら飲むので、なみなみとは注ぎません。サカナは不要。手が忙しくなるのはよくない。どこを歩くかは、ご自由に。歩いて気持ちのいい道をどうぞ。


それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.475/2016-5-29 profile

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

■橋本 直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。「俳句の創作と研究のホームページ」

田中惣一郎 たなか・そういちろう
1991年岐阜県生れ。「里」同人。

畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。

有川澄宏 ありかわ・すみひろ
1933年生まれ。「円座」所属。

西原天気 さいばら・てんき 1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

〔今週号の表紙〕第475号 行々子 有川澄宏

$
0
0
〔今週号の表紙〕
第475号 行々子


有川澄宏

ご承知のように、夏の季語「葭切」の傍題ですが、私が好きなこちらを題名にしました。
夏鳥のオオヨシキリが、「ギョギョシ ギョギョシ」と高い声で鳴くことから、名付けられたと言われているように、5月から7月一杯ぐらいまで鳴き続けます。他に似た鳴き方をする鳥はいません。

写真の「行々子」は、渡良瀬遊水地の葭原で撮った一枚です。一周が山手線に近い、広大な葭原のいたるところで、縄張りを大声で告げていた「行々子」。

多摩川・秋川合流付近など、河川の中流域の葭原でもよく聴いたり見たりしましたが、公害問題の原点と言われる渡良瀬の旧谷中村の近くで、葦の群落に囲まれ、今も鉱毒が残っていると言われる湿地に立って、闘いつづけた田中正造を想い、夏空を仰いでいた一日、そこで撮ったこの景色が忘れられません。

葭切は、古くは葭雀などとも呼ばれていたようですが、「葦切」の語源は、「葦の茎に穴をあけて、虫を食べるから」という説と、ヨシ群生地を繁殖地として営巣することから、「ヨシに限る」から"よしぎり"という名になったという、二説があります。私は葭の群生地以外で出会ったことがないので、強いて言えば後の説です。また「葭」と「葦」の使い分けは難しいですね。

このオオヨシキリは、しばしば1羽のオスに対し複数羽のメスによるハーレムを形成する、一夫多妻の種です。

抱卵は雌に任せて、次のパートナーを求めて昼も夜も鳴き続けます。浮気者と呼ばれようと、子孫をのこすために懸命に鳴くあの赤い口を見ていると、こちらまで、元気になります。最近知ったことですが、動・植物は永い年月をかけて、自己の種が絶滅しないよう、環境の変化に適合出来るように、DNAを変えていくのだそうですね。

私の住む東京多摩地区では、オオヨシキリは、すでに絶滅危惧Ⅱ類になっています。

なお、草原性の鳥カッコウが、託卵をする鳥の一種です。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

自由律俳句を読む 139 「鉄塊」を読む〔25〕 畠働猫

$
0
0
自由律俳句を読む 139
「鉄塊」を読む25

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十六回(20148月)から。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十六回(20148月)より

遠い花火を犬と聞いてる 小笠原玉虫
△なぜ「遠花火犬と聞く」ではないのか。詠み手にとって「遠い」「聞いてる」という状態を強調することが重要だったのだろう。だが、二つの状態を説明してしまったことで焦点がぼけてしまってはいないか。「花火が遠い(=無縁である)」ということが言いたいのか、「犬と聞いている(=犬しかいない、犬だけでいい)」ということが言いたいのか。(働猫)

きっと両方言いたかったのだろう。
最近の記事で触れた「無縁」について、当時の句評ですでに述べている。
「無縁」は自由律俳句における一つのテーマであるのと同時に私自身のテーマでもあるのだろう。
上記の評において私は、「無縁」と「孤独」が並列に表現されていることに違和を覚えていたようだ。当時は曖昧であったが、今改めて読み、理解できた。
「無縁」と「孤独」とは似ているようでいて、まるで別の概念である。
それぞれが独立すべき句材であり、どちらかに重点を置くべき課題であると私は考えていたようである。



歩をすすめる次々と蝉のたつ 小笠原玉虫
△おしっこかけられてそうですね。(働猫)

幻想的な景である。
「歩をすすめる」が最近の玉虫の句では見られない表現であり、無理に使っている感じがする。そこに窮屈さを覚える。



祖霊の夢をみた日盛 小笠原玉虫
△あれ、祖啓っぽい。(働猫)

祖啓イズムを玉虫がひそかに継承していた模様である。
さまざまな方向性を模索していた時期なのだろう。



かんな真っ赤に吹き出す三叉路 小笠原玉虫
△真っ赤な花を吹きだす血のように見ているのだろう。事故の多い道なのかもしれない。(働猫)

「三叉路」は非常に象徴的でよい句材と思う。
その不安定さは人を惑わすものであり、そこに咲く花に不吉な印象を持つのも自然である。



会いたくもない故人も来た迎え火 小笠原玉虫
△見える人なのだろうか。そういう漫画で死者の描写が一番怖いのは「死と彼女とぼく」(川口まどか)ですね。おすすめです。あ、「故人」と書いて「とも」と読むのか、ひょっとして。盆に嫌な奴も帰省してきやがった、ということなのか。(働猫)

これは完全に「見えてる人」の句であろう。
会いたい個人は見えないのに、会いたくない個人は見えてしまうというのはなんとも悲劇というか喜劇というか。
見えているのがその個人に伝わると面倒くさいので、見えないふりをしている。そうするとその個人の行動がだんだんエスカレートしていって……。
ドリフのコントでそんなのあったように思う。
そろそろ夏ですね。



トイレットペーパーの音が夜の音だ 十月水名
△昼間一人でいると聞くことのない音なのだろう。自分が使う音ではなく、夜に帰ってくる(或いは通ってくる)同居人のトイレの音。自分以外のだれかがトイレを使っている。ああ、夜なのか。と。(働猫)

これも夏の夜と思えば、ポルターガイスト現象ともとれる。
一人暮らしの部屋なのに、カラカラとペーパーホルダーを回す音がする。
生前お腹のゆるかった霊が今も個室にわだかまっているのだ。
宜保愛子の霊視によりそれがわかった。
夏ですね。



南極でも呪われる 十月水名
△泣きっ面に蜂みたいなことでしょうか。(働猫)

呪いとは、怨恨や憎しみ、嫉妬が有形無形の形になり対象に有害な影響を及ぼすシステムであるが、南極までそれが届くというのは尋常ではない。
いったい何をしたものか。



勝手に星座こしらえる姉妹 十月水名
△夜空を見上げて星を線で結んでいるのか。それとも星占いで勝手な星座を言っているのか。ギョウ座とかヤク座とかね。そういえばさ、へびつかい座ってどうなったのかしらん。(働猫)

かわいらしい景と言える。
へびつかい座、あったなあ。



相談して花を撃つ 十月水名
○たぶんそこが弱点だと。一人遊びが得意だった幼少期、見えない仲間と一緒に見えない敵と戦っていたことを思い出しました。(働猫)

花の部分が弱点ってなんだろう。シューティングゲームなどでありそうな設定だ。
私が生まれた町は林間の小さな町で、製材所には切り出した丸太と丸太の間にかませる細い棒状の木材がたくさん転がっていた。
当時ジャンプで連載されていた車田正美の『風魔の小次郎』に影響されていた私には、それらは伝説の木刀にしか見えなかった。
それらの中から1本選び取り、敵を求めて野山に駆け入っていたものである。
多くの花や樹木が犠牲になった。
ゆるせよ。すべては秩序(コスモ)のためであったのだ。



点滴中に聞くはちみつの話 十月水名
△また袁術か。(働猫)

一応皇帝になった人物なのだが、不遇である。



夕立の雨を蹴る夜が来る 馬場古戸暢
●これはわからない。夕立ならばすぐにやむだろう。夜まで降り続くことはあるまい。「夕立の雨」も「机上の上」や「頭痛が痛い」のような表現だ。「蹴る」「夜」「来る」の韻がよいのだから「雨を蹴る夜が来る」とすればよいのに、上記のような矛盾にはアレルギーが出る。かゆい。(働猫)

上記では逆選としているが、「夜が来る」は未来のこと、あるいは予感として読めば矛盾はない。
「夕立の雨」という二重表現は気になるが、「夕立を蹴る」「雨を蹴る」は秀逸な表現と思う。



子猫いなくなった家のチャイム鳴る 馬場古戸暢
△「いなくなった」をどう読むか。迷子であれば、このチャイムを良い知らせととれる。詠み人の位置は、貼り紙などで迷い猫を知り、この家に届けに来た者なのかもしれない。しかし子猫が死んだのだとしたら、悲しみに暮れる家人が客の応対にも出ない様子とも。この場合、「子猫いなくなった」という極めて個人的な事情を了解しているのであるから、詠み人はその家の者、あるいは非常に近しい者なのであろう。いずれにせよ、「子猫いなくなった」という表現には胸をざわつかせる力がある。(働猫)

良句と思う。
「子猫いなくなった家」という語により、不安感や不幸が形を持って迫ってくる。
実に巧みである。



人が燃えたと話す女と新宿におる 馬場古戸暢
△人体発火現象なのか、それとも火事か。あ、焼身自殺未遂ありましたね。そのときのことか。うちのマンションの向かいの雑居ビルがよくボヤを起こし消防車が来ます。(働猫)

2014629日、新宿駅南口で焼身自殺を図る事件があった。
集団的自衛権の行使や安倍政権への批判を自前の拡声器で述べたあとであったらしく、抗議の行動と見られている。



朝顔あかい子ら子ら 馬場古戸暢
○思い出すのは1学期が終わった日に理科で育てた朝顔の鉢を持ち帰らされた日のことだ。あれは小学3、4年生だったろうか。女子は賢いので前もって少しずつ物を持ち帰るのだが、小学生の男子に計画性なんてものはあるわけがないのだ。ランドセルには鍵盤ハーモニカと裁縫セットを突っ込み、両肩から丸めた図画工作で描いた絵や紙粘土で作った猫などが詰まった紙袋を下げ、そして両手に朝顔の伸び切った植木鉢を持って下校する。男子はみんな同じスタイルだ。終業式の日は午前授業だった。真昼の通学路。田舎だったから家までは2~3キロあった(体感)。みな顔を赤くしてふうふう言いながら帰った。苦行であった。もうこの句はそのときのことを詠んだものとしか思えなくなった。なつかしい。今調べてみたら、もう自分の通った小学校はなくなってしまったようだ。寂しいものである。(働猫)

よい句だ。
あの幸せだったころを思い出させてくれる句である。



頬張る頬はゼリー二個 馬場古戸暢
△のどにつまらなければよいが。(働猫)

こんにゃくゼリーによる窒息問題があった頃だ。
企業というものは本当に大変なものだなあと思ったものである。



さっきまで女性ひとりのオープンカフェ 風呂山洋三
△今はそうではないのだ。そのことでどう感じているのだろう。詠み人はどこにいるのだろう。客観的にどこかから見ているのか、それともこの女性その人なのか。客観的に見ているのだとすれば、「かっこつけてオープンカフェとか。客いねえじゃん」と思っているのだろうか。女性その人だとすれば、静かな時間を邪魔されたと感じているのか、それとも待ち人が来たのか。(働猫)

これも読みようによっては怪談的である。
この女性、果たして生身の人間であったかどうか。
夏である。



白いセダンの連れてきた真夏の夜のにおい 風呂山洋三
△後部座席が濡れているのですね。(働猫)

これも怪談的に読んだ。
顔色の悪い女を乗せたタクシーが、目的の青山墓地に着いたあとの景であろう。



うまいこと言う顔の赤い夜だ 風呂山洋三
△楽しい夜だったのでしょうね。なんとなく男ばっかりの飲み会という感じだ。異性がいて下心が出るとこうはいかない。(働猫)

男同士で飲む酒のうまさ。
食の好みと趣味、品性の程度、この辺りが一致していると本当に楽しく飲める。
なかなかいないものだが、私には何人か心当たりがあるので、幸福な男と言えるのかもしれない。



香水効きすぎているバス降ります降ります 風呂山洋三
○坂上二郎の(片岡鶴太郎の、と言うべきか)「飛びます飛びます」を思い出す。コミカルで切羽詰まった感じは共通か。きつい香水は本当につらいですよね。(働猫)

「降ります降ります」がおもしろい。
切迫した感じが非常に巧みに表現されている。



拾いに来ないボールのあって夏の昼 風呂山洋三
◎ぽつり、という音が聞こえそうなよい景だと思います。ただ、変なことも思い出しちゃったな。公園のベンチに座っている。そこにボールが転がってくる。でも子供たちは自分には近づきたくないらしく、拾いに来ようとせずに遠巻きに見守っている。田舎の小学生だったころ、そうやって避けるべき相手として認識していた人物が複数いた。「えぼっちゃん」と「体操じいさん」だ。今思えば、なんらかの障害を持った人とただの老人だったのだが。無知な子供であり、異質な存在は恐怖の対象だった。田舎特有の差別の強さで、大人たちも近づくなと教えていた。自分が無知であったことを振り返るのは本当に嫌なものだ。(働猫)

よい句である。
風呂山の句の中でも屈指ではないだろうか。
その暑さや乾いた空気まで感じられるようである。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
ふたり汚した雨強くなる 畠働猫
さわやかな夫婦で子が五人いる 畠働猫
下の名前で会いに来た 畠働猫
どの神に祈れど短夜曳光弾に引き裂かれ 畠働猫
ニッポンが滅びる花火観衆は無力に囀る 畠働猫

八月の句会であったため、「戦争」を意識した句を詠んでいたようである。

「自由とはよりよくなるための機会のことである」
カミュがそのように言ったらしい。
(残念ながら、まだ原典にあたることができていない。)
私は自由律俳句の自由とは、この意味であると考えている。
句がよりよくなるための機会、世界がよりよくなるための機会、それこそが「自由律俳句」という表現形式の求めたものではなかったか。

昨日、広島を訪問したオバマ大統領が歴史的なスピーチをした。
彼の言う「恐怖の論理」は核兵器のみを対象とするものではない。
この世界を覆い尽くす、ありとあらゆる兵器、武器について言えるものだ。
戦争は様々な機会を奪う。
それは、我々表現者の求める「自由」とは対極に位置するものである。
私たちはあらゆる手段を講じて、戦争を阻止し、その犠牲となる者を救わなくてはならない。
人の心に愛を。
芸術の価値はそこにしかない。



次回は、「鉄塊」を読む〔26〕。


【真説温泉あんま芸者】 書かれていること・書かれていないこと、ついでに作中主体のことなど 西原天気

$
0
0
【真説温泉あんま芸者】 
書かれていること・書かれていないこと、ついでに作中主体のことなど

西原天気



俳句は、書いてあることだけが、そこにあるのであって、書いていないことは、そこにない。それが俳句の潔さであると、私などは信じているわけです。

(たとえば象徴作用〔*1〕を用いたと思しき句に私がピンと来ないのは上記のような信条によるものでもありましょう〔*2〕

もちろん、《書いてあること》は、読み手に連想や別のイメージ(像)を喚起したりもする。けれども、それは、《書いてあること》という現前ののちに来るものであって、ひとまず、句は、「書いてあるとおり」でしかない。just as it is。

ただし、別の事情も絡んできます。「そこにあるとおり」とはいえ、テクストは孤独に立ち尽くすわけではなくて、コンテクストは否が応にも存在する。この場合のコンテクストとは、広範に、「それが俳句である」、あるいはさらに「五七五定型である」という前提のようなものと単純に解していただいてかまいません。

また、作者に関する情報等、いわゆるパラテクストを伴ったりもします。

さて、本題。

川柳が俳句とどう違うかはさておき、こんな句と解釈が、樋口由紀子さん「金曜日の川柳」にありました。

時々は埋めた男を掘り出して  井出節

記事はこちら↓
http://hw02.blogspot.jp/2016/05/blog-post_20.html
「埋めた男」とは殺して埋めた男という、物騒な話ではないだろう。自分の分身だろう。自分でも手に負えなくなって葬ったのだ。(樋口由紀子)
この解釈を読んで、《書かれていないことは、そこにない主義》の私が、「そんなことは書かれていない」と反駁するかといえば、そうではなくて、なるほど、そう読めば、腑に落ちる感じもします。

「埋めた私」と明示するばかりが手ではない。いったん埋めた以上、私とは別の私なのだから、それを「男」と呼ぶ、突き放して「男」と呼ぶのは、妥当なことでしょう。

ところが、そこで、ひとつの問いが私の中で持ち上がりました。

この作者(あるいは作中主体〔*3〕)、男性なのか?

樋口由紀子さんにとって「井出節=男性」は自明。ところが、「節」という名、男女の区別がちょっと判然としない(「節」は男性が多いのか? 長塚節とか長沢節とか。でも、男と断定はできない)。

そして、この句、女性が書いた句として読むと、ずいぶんと「解釈」が変わってきます。

「なにもわざわざ女性が、と読むことはない。現実に作者は男性なのだから」というのはよくわかる。けれども、男女の区別をつけずに(つかずに)読むこともある。それに、この場合の「現実に」という部分、それほど盤石な現実ではありません(文芸一般に、そう)。

それでは、埋めた行為者を男性とも女性とも限定せずに読めばいいか。すると、樋口さんの言う「私」という読みはおそらく崩れるし、女が男を埋めたという三面記事的な筋立てもなくなる。だが、待て。この句で埋めたり掘り起こしたりする人、その性別にまるで頓着しないことなど、はたしてできるのか。

川柳や俳句の作者に関する情報、それにまつわる《読み》の揺れや軋みは、読み手の側に頻繁に起こるカジュアルな事柄なのだけれど、これ、いっけん単純そうでいて、否、単純だからこそ、かなり微妙な問題かもしれません。



結局、私は、最初に言った「書かれていることだけが、そこにある」に立ち返ることにしました。

この句にあるのは、この句から見えるのは、埋められたのち掘り返されたりもする男、そしてスコップだけ。

作中主体は、スコップ。

(こんなの、アリか?)(アリです)

スコップには性別はありませんから、男女の区別からくる《読み》の問題は解消されます。

で、ここが肝心なのですが、行為者(人間・作者)が消え、銀色に光りところどころ土のついたスコップと男だけになっても、感興がなくならない。じゅうぶんにおもしろい。

ほんま忙しいこっちゃで。埋められたり掘り出されたり。


〔*1〕この場合の象徴作用とは、句のなかの語句がなにかの象徴であることで成り立っていること。象徴作用は、しばしば《読み》において幅を利かせる。特定の語を脊髄反射的に、オートマチックに象徴として読み取る《読み》は少なからず存在する。極端にいえば、長いものをすべてファリックシンボルと読んでしまうような。

〔*2〕私の好みにすぎない。象徴や隠喩を呼び寄せる句(ほのめかしや寓話的表現もそれに含まれる)は、まどろっこしい。その手のまどろっこしさが、私を、俳句的愉楽から遠ざける。追伸。まどろっこしくない句=わかりやすい句、ということではありません。

〔*3〕ああ、いちいち「作中主体」などと付言しなければならないとは、ほんと、めんどうなことです。





【八田木枯の一句】母の木は北へなびくぞ風の旬 田中惣一郎

$
0
0
【八田木枯の一句】
母の木は北へなびくぞ風の旬

田中惣一郎


南風の季節とはいえ、当り前ながら風はいつも同じ方向へ吹くものではなく、雨ほどにはその風景もあからさまではないから、言われなければ風のよく吹く向きが季節と関係があるということなど少しも考えなくてもおかしくはない。南風とは南から吹く風である。

母の木は北へなびくぞ風の旬   八田木枯

『於母影帖』(1995)所収。北の反対は南なので、風によって北のほうへ押されているのならば吹いているのは南からだとわかる。風になびくような木は大きな木だろうし、大きな木があるところならば空も広くてよく風が通ることだろう。

寒い季節の風は、風そのものよりもその寒さに気がいくし、だから春風も風が寒くないことに春らしさがある。夏の風も涼しさと結びつきはするものの、そのつながりは寒さと風の関係に比べれば風が主なのではないかと思われる。風を風として感じられる、「風の旬」とはそのあたりの謂だろうか。

いったい南風という言葉を展開して作られたような知性の句なのだけれど、「母の木」という名付けに知性だけでは回収されない意識の層がねじ込まれている。。

Viewing all 5946 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>