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【みみず・ぶっくすBOOKS】第8回 ライアン・マコム『ゾンビ俳句』  小津夜景

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【みみずぶっくすBOOKS】第8回
ライアンマコム『ゾンビ俳句』

小津夜景


先週はモリスコヨ、別名「紅葉モリス」のフリダムな術書を取り上げたが、あの本を見してしみじみ悟ったのは「古本屋の方がふつうの書店よりずっと掘り出し物がある(しかも安い)」ということ。今までそれにづかなかった自分に呆れつつ、あの日は興奮して10冊近い古本を購入してしまった。

その折、英語の本も2冊入手。というのもこの企、そもそもの端が「フランスの片田舎の本屋でどのくらい俳句と出会えるのか」といった趣旨であり、使用言語に関しては特に縛りがなかったことを思い出したからだ。それに加えてはこれらの本、いずれも出版時話題になり、ぜひ物を見てみたかった物でもあった。

さて今週紹介するのはそのうちの片方、ライアンマコム『ゾンビ俳句』という句集。いまさら感凄まじいネタでごめんなさい。でもその辺は重々承知の上で、なお愛さずにはいられないのがゾンビだってことは、きっと分かってもらえると思う。なにしろ彼らは人の詩心をたすに最良の存キャラとしてこの世に生(?)を享けているのだから。あと著者のライアンマコムがすぐれたハイジンであることも異論を差しみようのない事。だってこの顔だもん。


キャプチャ向かって左側の男性がお勤め(詩の朗読)中のライアンさん。ゾンビ目線で言って、たいへん程よい血色のご尊顔である。また朗とサックスとの掛け合いは割によくあるスタイルだが、彼らのそれはジャックケルアックによるポエトリー・ディングの名盤「BLUES AND HAIKUS」のパロディみたいでとても新鮮。さすがは「シンシナティ大学在学中に俳句病に罹患し、そこから15年間にわたって俳誌を運営した挙句、今では24時間365日、世界のあらゆる事象を5-7-5音節構造で思考するまでに至りました」と自著インタヴューで語る御仁ならではの演出だ。


ちなみにこの動画、どうやら『ゾンビ俳句』用プロモーション・ヴィデオらしい。視聴してみたい方はどうぞそちらへ。こちらのエッセイでは実際の本をさっそく開いてみることにしよう。

本文138頁。2250円で購入(元はUS9,99$)。




表紙をめくると、いきなり薄汚いゴミが。思わず「うっ」と手を引っめてしまう。実はこれ印刷でなく、本物の埃をわざわざ貼り付けてあるのだ。さすがに他のペジの汚れはナマモノではなく印刷だったが(よかった…)なかなか凝ったアート・ワークである。ライアンさんにはこの『ゾンビ俳句』以外にも『ドーン・オブ・ザ・デッド俳句』『ヴァンパイア俳句』『狼男俳句』などの著作があって、いずれも友人たちの出演・加工などの協力を得ながら制作しているのだそう。

この句集は一人の青年がゾンビとなるまでの
日記という形式で書かれている。
ソンビにはポラロイドやテーピングがよく似合う。
ソンビにはスパゲッティもお似合い。

紙がしわしわっぽいが、印刷の具合でそう見えるだけ。
ゾンビスマイル。

ライアンさんは《ゾンビ的なもの》にまつわる典型的な視表現にたいへん精通しており、特に強烈な生句がお好みのようす。実際インタヴューでも「コンセプトよりアクチュアリティを重視している」と述べ、たまに「詩には《解くべき謎》を混乱させるといった愛すべき特徴がある」と、なんとも知的なことを仰ったりもする。

世をしのぶ仮の姿のライアン氏と、
ゾンビであることを
隠しきれていないお友達。

また彼の句のほかの特色としては、5-7-517音節を律儀に遵守していることがあげられる(この点、パンキッシュな内容を良い意味で裏切って興味深い)。以下に少しだけ試訳してみたが、上手く行ったともあまり思えないので、最後の一句についてはキテレツ古書店「どどいつ文庫」のサイトから店主の試訳をお借りしてきた。

Smelling the same meal,
another one of us joins me
Into the darknesse.

同じ肉嗅いで友なり闇へ入る

The other dead guy
stares at me with a blank look
As we softly moan.

白目野のわれを見つめる呻きかな

Looking at my hand,
Somehow I lost a finger
and gained some maggots.

じっと手をみる 指の代わりに生えて

I need to slow down.
Its hard, when eating finger,
to tell whose hands whose.

どの指がだれとも言えず食うカオス

Brains, BRAINS, BRains, brains, BRAINS.
BRains, brains, Brains, BRAINS, Brains, brains, BRAINS.
BRAINS, Brains, brains, BRAINS, brains.

、脳、

Bitting into heads
In much harder that it looks.
The skull is feisty.

オツムがぶっ、ドタマの骨は手ゴワイよ

いかがだろうか。まあ、ライアンさんとはかくの如き人物である、ということだ。最後にひとつだけ注意。「ryan mecum haiku」でgoogle検索すると彼のウェブサイトの情報が上がってくるのだが、必ず「このサイトは第三者によってハッキングされている可能性があります」との警告が出る。私の知る限り、この警告は数年に渡って出ているのでご用心を。


考》
ジャックケルアック「BLEUS AND HAIKUS」。




俳句の自然 子規への遡行51 橋本直

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俳句の自然 子規への遡行51

橋本 直
初出『若竹』2015年5月号 (一部改変がある)

引き続き、俳句分類丙号の検討を進める。前回述べたように、丙号は季語やキーワードを軸にした甲号乙号とは分類の性質が異なり、八重襷の句にはじまり、文字以外の記号の入った句、カタカナ入りの句、回文俳句、一句中の同音の使用を種類、音数ごとに分類したもの、言葉のもじり、十八字から二十五字までの字余りの韻律の分析、名詞、動詞の重複、対・反復表現、隠題、比喩、擬人法、典拠、類句、二段切れ、句末が何で止めてあるかなどと、非常に多岐にわたる分類が行われている。これを総じて言えば、俳句における言語・文法の運用実態の分類の試みということができるだろうか。そして、甲号乙号が主に語(意味)の興味からのアプローチであるのに対して、丙号の冒頭は視覚(像)や聴覚(音)への興味からのアプローチと言えるのではないかとも思う。

分類冒頭の八重襷は前回触れたので略すが、以下それ以後の分類について述べる。まず「文字以外の元素を含む句」。これは活字なら新たに作らねば表記できない(つまりパソコンのソフトでは改めて造字するしかない)記号を用いた四句が並んでいる。例えば、類似の記号で代用できるものであげておくと、

  ≡≡(ケンノケ)や春をむかへてかさり炭  員明

俳句を絵解きの判じ物のように仕立てて読ませることはあるので、あるいはこれもそのようなものの一つかもしれないが、「ケンノケ」とルビの振ってあるこの記号の意味は未詳。「飾り炭」の見た目を視覚化したのかもしれない。

また、例えば「大うねり」を「大ウネリ」、「富士山は」を「ふしサンハ」という風に、片仮名が混ぜてある句を「片仮名入」で八句収集分類しているが、これもその視覚上の差異を意識した分類ではないかと思う。

次に回文の句についてである。いうまでもなく、回文は前後どちらから読んでも同じという意味での面白さのある言語遊戯の一つだが、子規はその回文の内容を細かく分けている。まず、「問ひぬらし花の其名はしらぬ人」(貞盛)、仮名に直せば「とひぬらしはなのそのなはしらぬひと」というように、上下完全に一致するものを一八句。「けさたんと飲めや菖の富田酒」(其角)のように、「たんと」と「富田(とんだ)」を同音扱いしているが正しくは清濁音で異なるもの(これをさらにその音数で一~三に分類)を四三句。「なきを霜死なは名はなし若翁」(鬼貫〈「貞徳五十年忌」と前書〉)の「を」と「翁」の「お」のように、「ム、ウ、ン」や「オ、ヲ」を同音とみなしているもの二九句。これは例えば「扇」が歴史的仮名遣いで「あふぎ」と表記し「オーギ」と発音するように、仮名遣いと音読の違いは習慣の中でもあるものだが、さらにそれとは違って、「永き日をもる花春も老木哉」(作者不知「毛吹草」)が、「日を(ヒヲ)」と「老(オイ)」を対応させているように、非日常的な運用で音が違うものを同音とみなしているもの七句。字余り(一八字)四句の、計八四句を収集分類している。これらは、明瞭に、回文の意味の面白さではなく、句中の音の使い方の差異を意識して分類したものとみることができるだろう。

さらに、ここでの子規の音へのこだわりが感じられるのは、続く分類が「同音連起」というおそらく子規独自の用語と思われる表現を軸に使って、一句中の同音の使用を種類、音数ごとに分類していることでもはっきりしている。「同音連起」とは、一句中に同じ音があるものを指していて、子規は三音から八音に渡って収集分類をしている。いくつか例をあげると、「あすもこん頃は花野の小鷹狩」(宗祇)は三音一種(こ)、「うばそくがうばひて折るやうば櫻」(日如)は三音二種(う、ば)、「寝て起て又寝て見ても秋のくれ」(嵐雪)は四音一種(て)という具合である。そして音数が同じになるということと回文は当然連関する故、この「同音連起」の同音数が増えればほぼすべて回文となってくるのであるが、回文ではないものに、「けふ賣は七草薺よなあぞなそ」(正暁)の六音一種(な)、「ながくたゞ菜づな七つ菜叩く哉」(重長)の七音一種(な)などがある。

これらを見ていると、まず回文ありきの句は、もとより竪句としての完成を目指してはいないであろうし、ゆえに句の詩的完成度は低いが、いくつも音を重ねることによってうまれる表現については、その音の面白さを確認できるように思う。それは幼子の言葉遊びのような素朴な面白さの再確認でもあるだろうが、子規はそこから何かを得ようとしていたと思われる。例えば、子規は「同音連起」の後に「音調(発音ノ変化調合)」として、芭蕉の一句のみを別に分けている。

  鬼灯はみもはもからも紅葉哉  はせを

そして、句の前に「はもみも(Ha mo mi mo)」と記している。子規がなぜこの四音のみをメモ書きしたのかは今のところ明確には分からないが、元の上五の末「は」につく中七を「実も葉も殻も」から「葉も実も殻も」に変えたとき、「は葉(wa ha)」、「も実も(mo mi mo)」のような同字異音の変化や子音「m」の連続感が得られることから、面白さや、反対に語呂の不都合を看取していたのかもしれない。従前の「同音連起」の理屈で言えば、この句も一句中に「も」が四音あるわけで、おそらくはそこに分類しようとした時に何かを感じ、別にこの句だけの一項を立てたと思われる。

週刊俳句 第475号 2016年5月29日

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第475号
2016年5月29日


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【みみず・ぶっくすBOOKS】第8回
ライアン・マコム『ゾンビ俳句』 ……小津夜景 ≫読む

俳句の自然 子規への遡行 51……橋本 直 ≫読む

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母の木は北へなびくぞ風の旬 ……田中惣一郎 ≫読む

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書かれていること・書かれていないこと、ついでに作中主体のことなど……西原天気 ≫読む

自由律俳句を読む 139
「鉄塊」を読む〔25〕 ……畠 働猫 ≫読む


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〔今週号の表紙〕第476号 紫陽花 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第476号 紫陽花


西原天気



この時期、紫陽花の写真を表紙に持ってくるなんて、あまりにベタ。

なので、モノクロにしてみました。

  紫陽花や家居の腕に腕時計  波多野爽波

写真にぴったりというわけではないですが、好きな句。


週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

自由律俳句を読む 140 「鉄塊」を読む〔26〕 畠働猫

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自由律俳句を読む 140
「鉄塊」を読む26

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十七回(20149月)から。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十七回(20149月)より

ぼくの夜の奥が付録 十月水名
△何を言っているのかわからないが、「おまけ」とか「ついで」のような余剰感を詠んだものか。(働猫)

Don’t think, feel.
十月の句については、それが正しい向き合い方なのだろう。
しかし当時の私は全句評を自分に課していたので、名状しがたいものをどうにか述べようとしている。それがいかに滑稽なことであるかも理解しながらだ。
しかし、句評とはまさにそうした作業であろうとも思う。

この「句評について」を今回のテーマとしたい。
記事の最後で整理して述べる。



できすぎた月に鮫 十月水名
○海面に映る月なのだろう。確かにできすぎた光景である。(働猫)

一枚の絵画、映画のワンシーンのような景色である。
十月の作句法が語句を無作為にコラージュしていく方法であるとすれば、これはまさに「できすぎた」句なのであろう。



とおい国に行ってみごとな早口言葉 十月水名
Peter Piper picked a peck of pickled pepper.A peck of pickled pepper Peter Piper picked.If Peter Piper picked a peck of pickled pepper,Where's the peck of pickled pepper Peter Piper picked?(働猫)

どこの国にも早口言葉というのはあるもののようだ。
みごとに言えるよりは、失敗した方が笑いがとれて現地の人と仲良くなれそうに思う。なんでも上手くできればいいというものではない。



教授の筋肉痛が分かりやすい 十月水名
●句としてはわかりにくい。反応に困る。(働猫)

Don’t think, feel.



逃げないでと叫ぶ人みな斜め 十月水名
◎何かを追及する集団を描いたものか、それとも今まで背を向けてきた女性たち一人ひとりを描いたものか。「斜め」は前のめりの姿勢を言うのであろう。実際の景ではない。心象風景であろう。同様な表現として、自分の好きな宮澤賢治の詩「永訣の朝」中に「まがったてっぽうだまのように」というものがある。巧みである。(働猫)

これはよく解釈したと言える評ではないかと思う。
前のめりの姿勢ともとれるし、政治的な傾向を言うのかもしれない。
自らの精神状態が不安定であるがゆえに、見える景色が歪んでいるのかもしれない。



散髪の予約をいれる夏の終わりだ 風呂山洋三
△これから寒くなるので、あまり短くしない方がいいかもしれない。(働猫)

季節の変わり目をきちんと過ごす作者の人柄が見える。



亡き友の武勇を話す夜の秋めく 風呂山洋三
△戦争体験者の話を聞いているのだろうか。それとも武藤と蝶野が橋本について話しているのだろうか。悲しい。(働猫)

みないつかは死ぬ。
強い者の死は私たちにその当たり前のことを思い出させる。

ちょうどこの原稿を作成中にモハメド・アリの訃報が届いた。
また強い人が神に召された。謹んで冥福を祈る。



庭を横切る初秋の風に目覚める 風呂山洋三
△肌寒さであったか、それとも秋の香りを感じたのか。触覚あるいは嗅覚について詠んだ句であろう。美しくも思うが、やや散文的か。句としてはもう少し心に刺し込む表現が必要ではないだろうか。(働猫)

当時の自分が何に違和を覚えていたのか、今にしてわかった。
「目覚める」の主体が詠み手自身とすると、目が覚める前に「庭を横切る初秋の風」を追っていた意識はいったいだれのものなのかわからなくなる。途端にこの句は実態を失い、すべて想像で詠まれたものに思えてくる。想像であるならば、もっと飛躍ができるはずなのに、それはない。
それが「刺し込む表現」を求めたのだろう。
これがあるいは「目覚めた」であったなら、自分の目を覚ましたものはなにか、と意識を風に向かわせる、時間を遡る気づきを詠んだ句になったかもしれない。



夜の疲れた影と出掛ける 風呂山洋三
△影の様子を述べることで、その主体である自分の状態や心情を表明するという手法も古典的なものかもしれない。(働猫)

古典的手法である。美しいと思うが、なにか変化を求めてしまうわがままな読み手に私はなってしまっている。



煙草一本これで優しくなれる 風呂山洋三
△ニコチンの効果であろうか。それとも煙草を分け合うことで喫煙者同士であることがわかり、身を寄せ合うことができたのだろうか。(働猫)

喫煙者同志のつながり方であろう。

宮沢賢治「どんぐりと山猫」の中で「山猫」が「一郎」に煙草を勧める場面がある。一郎が断ると山猫は「ふふん、まだお若いから」と笑う。
私はこの場面を重要視している。
一郎は「めんどなさいばん」を片づけた後、二度と山猫からの召喚を受けることはない。私は、この「煙草を断ったこと」がその理由であると考えている。
「どんぐりと山猫」は一郎が客人(まれびと)として異界を訪れる物語である。
その異界において一郎は「知恵」を用いて、どんぐりたちの騒乱を調伏する。
異界に留まる条件は、そこでの食事である。
伊邪那美は黄泉の国で食事をし、ペルセポネは冥界でザクロを口にした。
結果としてそれぞれに異界の住人となる。
一郎が山猫から食物の摂取を誘われる場面は二度ある。
一度目は邂逅のあとの「煙草」を勧められる場面であり、二度目は裁判の報酬として「鮭の頭」と「どんぐり」のどちらにするかと選択させられる場面である。
一郎は煙草を断り、鮭ではなくどんぐりを選択する。
結果、「黄金のどんぐり」は異界を出た途端に輝きを失い、ただのどんぐりに変わってしまい、一郎のもとに山猫からの葉書が届くことは二度とないのである。

異界の例を引くまでもなく、煙草や食べ物を勧められ受け入れることはそのグループへの帰属を意味する。
「煙草一本」が緩和するものは、人間関係の軋轢や緊張なのであろう。



犬の毛先で遊ぶ秋の日 小笠原玉虫
△表現したいのは「所在ない様子」なのかもしれないが、「犬の毛先で遊ぶ」ではやや直截的過ぎるかもしれない。イメージの広がりが乏しいのではないか。あるいは「秋」を言わずに表現するとか。(働猫)

どうも当時の自評は走り過ぎているように思う。
直截的と感じたのは、もっと斬新な句、冒険した句が観たいという読み手としてのわがままさによるものであろう。
こういったわがままさは、鉄塊以外の句会に参加したり、句会報に触れることで、徐々に自分から抜けていったように思う。
それがよいか悪いかはわからない。
ただ、鉄塊参加者には、それだけ大きな要求をしていたのだと思う。



小言からそっと逃げ虫の音に包まれる 小笠原玉虫
△声の届かぬところの静けさにほっと一息ついたのだろう。かすかな音を切り取ることで静かさを表現するのは古典的な手法と言えるかもしれない。(働猫)

当時の句では古典的な手法と述べているが、玉虫にはこうした静寂の表し方がときどき見える。
そこには玉虫の認知傾向が表れているのであり、句風と言えるかもしれない。



本九割手放してここからみたことない世界 小笠原玉虫
○「書を捨てよ、町へ出よう」でしょうか。本は人生の一部でもあるため、それを手放すことは特別な情感を生むことでしょう。その特別な感情を「ここからみたことない世界」としたのは巧みな表現だと思います。(働猫)

本は間違いなく人生の一部であるが、近年自分はあまり本を読まなくなった。
人生が停滞しているとも言えるかもしれない。
早く隠居して積んである本を読めるようになりたい。
あとスカイリムとフォールアウトやりたい。



突っ立ってただ笑う布教婦人の消極 小笠原玉虫
△子連れで休日にやってくる人も、ヘルメットをかぶり自転車でやってくる人もマニュアルがあるかのようにポジティブだ。それに比べると、こうした消極的な方が効果があるような気がする。(働猫)

「布教婦人の消極」は面白い表現である。
しかし「突っ立って」がやや主観的であり、句を閉じてしまっている。作者の否定的評価が押しつけられているように思うのである。



夜闇、母のもとまで雨横たわっている 小笠原玉虫
○とったが、リズムは気持ちよくないと感じている。「夜闇母のもとまで雨横たわる」でなく「横たわっている」としたのは作者のこだわりの部分だろうか。しかし自分にはリズムを乱す語選びに感じる。読点も必要かどうか。(働猫)

雨を擬人的に配したことで、幻想的な景を作り上げている。
リズムが不安定であることは、作者の心中の不安を表現しているのかもしれない。



句を選ぶ夜を虫が鳴きよる 馬場古戸暢
△彼は一年中句を選び続けている。いつの間にか、同じ夜は秋になっていた。(働猫)

本人にそのつもりはないのかもしれないが、古戸暢の句は非常にストイックな生活の中から生まれているように感じる。
山中で修業を積む行者の如しである。



越えられない壁がある子のお尻押す子 馬場古戸暢
△実際の壁でもあり、比喩でもあるのだろう。押されて越えられる壁こそ、ヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」である。人はこのようにして成長していく。(働猫)

人間は人間との関係の中で相互に作用しあいながら成長してゆく。
無邪気に遊ぶ子供たちを見守りながら、それを実感している景であろう。



猫の声近くトンボとすれ違う帰路 馬場古戸暢
△猫がトンボを追っているのだろうか。(働猫)

帰路とトンボとは、郷愁を誘う組み合わせである。
それだけならば平凡な句となるところに、猫を加えることで不協和音を奏でている。



海月に刺された男の脛毛の濃い 馬場古戸暢
△濃いくせに脛を守ることができなかった。無駄な毛である。ムダ毛である。(働猫)

まったくムダ毛である。



夏は終わったシャツを着て寝る 馬場古戸暢
△この見極めが大人の経験ですね。季節の変わり目は注意しないとすぐに風邪をひきますね。(働猫)

風呂山の散髪の句同様、季節の変わり目を正しく過ごす姿である。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
目を閉じて小さく世界を肯定する溜め息ふたつ秋の闇 畠働猫
青春も幸福も過ぎてしまってコンビニがまた建つ 畠働猫
町の輪郭あらわに雨音 畠働猫
軋むブランコわたしがひとつみのむしふたつ 畠働猫
咳、訃報、咳 畠働猫



上記で述べたように、今回は「句評」について触れたい。

Don’t think, feel.
作者の表現したいものはその句そのものであり、それについて述べることはすべて余剰な行為であるとも言える。
とは言え、それらが全くの無駄であるかといえば、そうとも言えない。
「知音」の故事における伯牙と鐘子期の関係は確かに理想的である。
しかしすべての作者と評者がその関係になれるわけではないし、なる必要もない。
評を行うことは、本来無限である空間に点を打ち、線を引くことである。
そうすることで角度や高さ、距離が生まれる。
それはあるいは窓をつけることであるかもしれないし、穴を掘ることであるかもしれない。

作者にしてみれば、それは必ずしも快いことではない。
自ら創造した世界にずかずかと土足で上がり込まれるような感覚を覚えることであろうし、意図せぬ解釈は時にその繊細な心を傷つけるだろう。
ただ、それを受け入れられないのは甘えである。修羅たる覚悟の欠如であるからだ。

作者は作品の創造主であり、神である。
しかし、そこを住処とした評者、すなわち人類に直接神の声を届けるべきではない。
神としての在りようは様々であろうが、私はそう思う。
少なくとも、評者が神に近づこうと築き上げた塔を、神自ら崩壊せしめることがあってはならない。
権威ある神の自句自解は、本来無限の作品世界に制限を与え、善良な評者たちを楽園から追放する声となり得る。
(自句自解をまったく否定するわけではない。そのような神もまた必要である。)

以上のことを踏まえて、様々な神、作者に対して、評者として持つべき覚悟は道化に徹することであると私は考えている。
作者である神の意図や自解に囚われることなく、自らの意見が滑稽、浅薄と嘲笑されようとも、自由に自評を述べるために、自らを道化と看做すのがよい。

必要なものは作者への敬意一つである。
(敬意のない者の意見は封殺されてしかるべきだ。)
敬意を持って、開かれているテクストに向き合うこと。
穴を掘る位置を定め、あるいは登攀する手掛かりを打ち付けること。
それらは神である作者からは、的外れな行為に見えるかもしれない。
しかし評者は自らを道化と見做し、堂々と声を上げるのがよい。
それが次の評者の論を深めることにもなろう。
そしてまた、王側の批判者である道化として、作者の首筋に常に剣を突き付ける役も負わなくてはならない。表現者が、権威や自己模倣にとらわれ目を曇らせることのないように。
表現者は修羅であるべきである。
そして修羅が修羅であるために、評者は道化であらねばならない。



次回は、「鉄塊」を読む〔27〕。



【八田木枯の一句】風のごときものなり戀も陶枕も 西村麒麟

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【八田木枯の一句】
風のごときものなり戀も陶枕も

西村麒麟


『鏡騒』(2010年)より。

風のごときものなり戀も陶枕も  八田木枯

大人の余裕というところでしょうか。もう、何というか、風のようなもんだね、さっぱりしたものさ、というような。

作者のことはわからないけれど、もちろん大抵の場合はそんなことはない。

どろっどろの、ギットギトの、家系ラーメンのスープのような、戀とはそんなものではないだろうか。

しかしそんな俳句は読みたくないので「風のごときもの」でもちろん良い。

あぁ…、と呻きたくなるような屈辱や恥じらいの熱を陶枕は涼しく吸ってくれる。

戀とは風のようなものでありたい。


【句集を読む】鉱物の時間・虹の時間 篠塚雅世句集『猫の町』の一句 西原天気

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【句集を読む】
鉱物の時間・虹の時間
篠塚雅世句集『猫の町』の一句

西原天気



鉱物を山に眠らせ春の虹  篠塚雅世

金銀銅、鉄から石英やらダイヤモンドやら、じつにさまざまなものが鉱物の範疇に含まれるにもかかわらず、鉱物と聞いて、うつくしい結晶を想像したのは、「虹」効果かもしれません。

この句がしっくりと心に響くのは、すくなくともふたつの対照が、しっかり構図化されているせいです。

ひとつは、高低(空と地底)の対照。もうひとつは、時間の長短。とても鉱物のとても長い睡眠時間とすぐ消える虹。

ところで、「眠らせ」の行為者にも思いを到るのですが、これは、神と解しました(もちろん広義の神)。「春の虹が」と解することもできますが、それにしても神と密接。《虹二重神も恋愛したまへり 津田清子》もありますし。

神の視座を俳句に持ち込むことの是非を言挙げする人もいますが、「私」という狭隘なシロモノがうまく消え去ったとき、往々にして神の視座のみが残ったりします。だから、オッケー。


掲句を収めた句集『猫の町』(2015年8月/角川書店)から、他に何句か。

白鳥の餅のごとくや田に憩ふ  同

これはピースフル。

裏口に煙草吸ひをり年の暮  同

煤逃ですね。

一本で買ふ鉛筆も人参も  同

1ダースで、数本で得るよりも、尊くキュートに思えてきます。鉛筆も人参も。



なお、掲句から、ロジェ・カイヨワ『石が書く』(1975年1月/新潮社)を思い出して(内容が関連するわけではありません。なんとなく思い出したのです)、ページを繰りました。虹そのものは見ることができませんでしたが、鉱物がうつくしい。




【句集を読む】寝苦しい夜の扇風機 嵯峨根鈴子句集『ラストシーン』の一句 西原天気

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【句集を読む】
寝苦しい夜の扇風機
嵯峨根鈴子句集『ラストシーン』の一句

西原天気


羽根のなき千夜一夜の扇風機  嵯峨根鈴子

羽根のない扇風機は、これですね(≫画像)。2009年発売ですから、2016年の世界に住んでいる私たちは、これを思い浮かべる。

ところがほんの10年前だとどうでしょう? この句にある「羽根のない扇風機」から受け取る像は、(現実的に)分解途中あるいは製造途中の扇風機、あるいは(幻想的に)この世に存在しないシュールな扇風機。時代というはおもしろいものです。

一方、千夜一夜物語はご存じのとおり古い寝物語。

いまもむかしも夏の夜は寝苦しい。シェヘラザードがせがまれて語った寝物語から、長い時間が経過して扇風機が生まれ(電気扇風機の誕生は19世紀後半だそうです)、さらに羽根のない扇風機が生まれた。

暮らしというのは、大きく変化してきたのか、それほど変わっていないのか。それは、もう、よくわからないな、と、この句を読んで思いましたよ。


掲句を収めた句集『ラストシーン』(2016年4月/邑書林)から何句か。

まくわうり名古屋に充電いたしたる  同

鬼太郎の母の名知らず雲の峰  同

かまきりに押されて昼の港まで  同

かもしかの陰のすずしき星座かな  同







〔その後のハイクふぃくしょん〕喪服を脱いでから 中嶋憲武

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〔その後のハイクふぃくしょん〕
喪服を脱いでから

中嶋憲武


前の車のナンバープレートを厭というほど見ている。さっきからずっと動かない。カーオーディオからカーティス・メイフィールドの「トリッピング・アウト」が流れて、日曜の午後の憂鬱を少しは軽めにしてくれていた。

川魚料理の店を出てから、ずっとのろのろ走ったり止まったりの連続だ。助手席の妻は寝ている。

九十二歳で亡くなった叔母の三回忌法要が、佐野にある小さなお寺で執り行われた後、近くの川魚料理屋でお斎が振る舞われた。鯰の天ぷらがとても美味しかったので、妻の分までもらって食べたのがいけなかった。食べ過ぎたようだ。胃のあたりが重く、いつまでもこなれない感じがある。調子に乗っては、失敗する。曲はデュークス・オブ・ストラトスフィアの「バニシングガール」に変った。

頼子との事だって、そうかもしれない。頼子は、従兄の長男の嫁で、今年三十五になる。頼子の実家を売却する事になって、私の経営する不動産会社へ度々相談に来た。とかくするうち、私は頼子の事を気に入ってしまい、相談が終ると、お茶を飲んだり、お酒を飲んだりするようになった。向い合って座った、頼子の足首の締まり具合が、とてもよかった。改めて見てみると、腰のくびれも胸のふくらみも、私の理想に叶うものだった。

頼子は、私の心を察知したらしく、時折その黒鳶色の瞳に好色そうな炎を、ちらっと走らせたりした。それから私と頼子は、人に隠れてこっそりと会うような仲になった。

叔母の葬儀の時などは、荼毘に付す間、火葬場の裏の雑木林で、大きなケヤキの幹に両手をつかせて、後ろから頼子を愛した。

あれから二年。まだ続いている。妻はもう、とっくに知っているのかもしれない。平生、穏やかな妻が、その微笑の裏側にどのような心を隠蔽しているのか、私には計り知れない。いっその事、妻に話してしまったらどうだろう。ゴルフの話でもするみたいに。あの相性ばかりは、愛情とは別物だから。仕方ないんだ。

曲は左とん平の「東京っていい街だな」になった。私のipodには、いろんな曲が入っていて、シャッフル選曲になっているものだから、シチュエーションとは無関係に、とんでもない曲が出て来たりする。

弥勒という所で東北自動車道を降りて、埃っぽい道をしばらく走った。

妻は起きていて、車窓の外をぼーっと眺めている。

街外れに寂れたようなリサイクルショップがあって、軒にネオンが下がっている。信号待ちの間に、オレンジ色の電光の文字列が何回も流れた。「格安小物」「新品商品」「続々入荷中」「きっといい物がみつかる筈」「安心とやすらぎの店」等々。いい物は滅多に見つからない。それにしても少々眠たくなって来た。

「なんか眠くなって来たなあ。疲れたし。ちょっと休んでいかないか」

「そうね。まだ早いし、いいんじゃない」

街道沿いにコテージタイプのラブホテルを見つけたので、そこへ入る。ワンガレージ、ワンルームというホテルだ。

「ここなの?ファミレスかどっかだと思ってた」ガレージへ車を収めてしまうと、妻は難色を示した。

「ちょっと二時間ばかり、のびのびしたいしさ。いいだろう?」

頼子さんといつもこういう所に来てるのね。私の心のどこかで、妻のそんな声が聞こえた。だが妻は、そのような事は一切何も言わず、黙って私について来た。

部屋のフローリングは木目がつやつやとして、白い壁紙のどこにも染みがなかった。セミダブルのベッドの上に、小さなクマのぬいぐるみがぽつんと置かれていた。妻は、わあ、かわいいと言って、そのクマを手に取った。どうやら期間限定のサービスらしかった。

「ウエルカムベアーか。持って行っていいみたいだよ」と言いながら、最後の方は欠伸でフガフガしてしまった。

私はむしり取るように、ワイシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、靴下を脱いだ。Tシャツとボクサーパンツだけになると、ベッドに勢いよく寝転がった。妻は私の上着とズボンをハンガーに掛けると、着ていた喪服を脱ぎ、ノンワイヤーの黒いレースのブラジャーとショーツになると、私の隣にひんやりと横になった。

私は仰向けで、妻は私の方へ向いて、海老のように体を曲げ、もう軽く寝息を立てている。

頼子とこうしている時、頼子の手は私の体の一部をゆっくりと擦ったり、手のひらで丸めるようにしたりする。今日の法事では、極力目を合わさないようにしていたのだが、寺からの移動の時などに、思わずすぐ近くを歩いていたりして、目が合うと頼子は白目の部分を、夜明けのガラス窓みたいにほんのり青味を帯びさせていて、私に欲情しているのが分かった。私と頼子は、会えば結びつきたい衝動に駆られるようだった。

遠くから眺めていても、ワンピースの喪服姿の頼子には、普段と違ったコケティッシュな所があり、私をまた魅了するのだった。

突然、妻が大きな声で何か言った。えっ?と聞き返し、振り向くと眠っている。なんだ、寝言かと思ったその時、妻の鼻梁を横切る涙を見た。泣いているのか? しばらくその弱々しく光る一筋の流れを見ているうちに、申し訳ない気持ちが募って来て、唐突に、この場で両手をついて謝ってしまいたいと思った。すまなかった。悪い事をした。ごめんなさい。ごめんなさい。私は眠っている妻に、胸のうちで謝り続けた。

翌朝、目が覚めると、今週は水曜日に頼子と会う事になっているんだったと思った。さて、何処で飯を食うかな。昨日、妻に対して思った事など、きれいさっぱり忘れてしまったように、水曜の夜の段取りを考えていた。

春昼のネオン時々目覚めけり 阪西敦子 週刊俳句・第415号

【みみず・ぶっくすBOOKS】第9回 ヴェラ・G・ショー『ヒラリー・クリントン俳句』 小津夜景

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【みみずぶっくすBOOKS】第9回
ヴェラ・G・ショー『ヒラリー・クリントン俳句』

小津夜景


日本国には数多くの謎につつまれた「ホニャララの日」というのが存在するが、かの米国にも「ナショナル・ハイク・デー」という記念日があるようで、その日にあたる417日は「国民的俳句の日だから、みんなでこんなヒラリー俳句を書いたよ」なんて記事が出たりもする。


この種のシチュエーションに登場する「俳句」なる語は、異文化愛好を包括した形での「伝統大好き派」とも、小林一茶からビート・ジェネレーションまでを貫く「無頼に生きたい派」ともまた違い、ほとんどハラキリ同様の不条理ギャグ的ニュアンスを帯びていることが多い。「ヒラリーが大統領? 噓だろ? 興奮しすぎて思わず一句詠んじゃったぜ」みたいな。

こうした理由から、ヴェラ・G・ショー著『ヒラリー・クリントン俳句』の存在をはじめて知った時も「なにこれ? もしかしてジョン・ベルーシの『サムライ・シリーズ』くらいクレイジー? 読んでみたい!」と瞬時に心が躍った。まあ、クレイジーとまではいかなくても『さまぁ〜ずの悲しい俳句』程度にバカバカしかったら嬉しいな、とちょっと期待した訳だ。で、幸運にもその本が中古で手に入ったので、さっそく取り上げてみたい。


本文100頁。定価だとUS15ドル。

まず序文はざっとこんな調子。

《何かを言うための最良の方法が「ずばり一言」で表現することだというのはままあること。その点、俳句はとても短いけれど、長ったらしい記事や自伝なんかよりヒラリー・クリントンの本質を抽出して伝えることができます。》

《ここにある70を超える俳句は、ヒラリーの少女期から始まり、大統領候補となるところで終わります。この本があなたの政治的意見の決定に際し、ささやかな役に立つことを期待しつつ。》

著者のヴェラ・G・ショーはライター。この句集の執筆にあたっては「李白、杜甫、小林一茶、ロバート・フロスト、ウォラース・スティーヴン、カール・バーンスタインからインスピレーションを授かった」そうだ。が、そんなことより裏表紙の著者紹介が私には興味ぶかい。


《ヴェラ・G・ショー。アメリカで生まれだが、魂は日本庭園に存在する。昼は木を斬り、水を運び、夜は深淵なる俳句と単純きわまりない米国政治とのマリアージュを試みる毎日。清水地に群生するユリの花と同じくらい、さまざまな移ろう表情をもつ詩人。住まいはブルックリンの下町クリントンヒル。飼い猫は二匹。それぞれ民主主義(Democracy)と杜甫(Tu-Fu)という名前。》

上の内容、一文ずつ読む分には別段どうということもないのだが、全体として眺めると、うーん風狂なようで今ひとつ俗流というか、欲張ってアピールポイントを詰め込みすぎたプロフィールみたいでなんだか気恥ずかしい(ついでに書くと、クリントンヒルというのは古風な邸宅が軒をつらねる、ここに住むと女子力が一気にアップすること間違いなしの素敵エリアです)。とはいえ人にはいろんな舞台裏がある。ヴェラさんもある意味戦略的に自己のキャラクターの措定を試みたのかもしれない。

宇宙飛行士になりたかった少女ヒラリー

この本を一瞥して最初に受ける印象は、LMAO(爆笑)とか、Y(なぜ?)とか、LOLwww)とか、NAH(やだ)とか、YOLO(人生は一度きり)とか、TL;DR(長すぎるから読まなかったよ)とか、とにかくネット・スラングが多いこと。またスラングではないがPOTUS(大統領)やFLOTUS(大統領夫人)といった略語もたくさん登場する。その他ヒラリー本人の発言からの引用も相当あり、読むのにかなり苦労した。


太字部分は、句のシチュエーションを示す詞書。

なにはともあれ、ネット辞書を頼りにどうにか読み終えた感想を述べると、残念ながら私には面白さが分からなかった。それでも「ピンとこないのは語学力のせいかも」と思い直し、この本を読んだ他の人の感想をネットで調べてみたところ、これがまた「ここまで悪く書かれる本はそうそう見ない」というくらい「つまらない」のオンパレード。曰く《ファンキーでもキュートでもない》《これを俳句というのは俳句に対する侮辱》《私がこの本から学んだのは、ヒラリーはパンツスーツが好きだということ。以上》《この本の目的がわからない。退屈だった》《言葉、意味、リズム、どれをとってもみすぼらしい》《表向きはユーモアの皮をかぶっているがユーモアも詩も欠如している》《下品なのはいただけないが、くすりとできる部分もあり、まあヴァカンスの夕飯後にぱらぱらめくる分にはいいかなって感じ》《タチが悪いだけでなく努力の痕跡も感じられない本》とこんな調子なのだ。


エミー・ライスの挿絵は柔らかく愛らしく上品。
日本生まれ、ニューヨーク育ちのイラストレーターだそう。

ここまで貶されているのを知ってしまったら、かえってきちんと紹介したい気分になる。たとえ俳句として本当にイマイチだったとしても「英語圏の読者に受け入れなれなかった作品」のサンプルにはなるのだし。ということで以下に数句、簡単な説明つきで翻訳してみた(今回は俳句らしく整えるのは無理だった)。

A Modest Proposal
The Lake District at 
twilight finds Bill asking Hill
to be his wife. Nah.

穏健なる提案
湖水地方の
夕暮れ、ビルがヒルにお願いする、
妻になってほしいと。「やだ」

A Modest Proposalはスウィフトが1927年に発表した『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』という、アイルランドの窮状に関する風刺文書の略称に由来する語で「貧民児童利用策私案」とも訳される。作者はこの語を、イギリス湖水地方でビルがヒラリーにプロポーズして固辞されたシチュエーションに重ねた。求婚の美しき瞬間を、政治用語&すでに尻に敷かれているビルの姿にひっかけてみせたのか。

Glass Ceiling Grievance
O, Oval Office!
My term yet? Let my hubby
Retire to his sax.

ガラスの天井の悲しみ
ああ、ホワイトハウス執務室!
私の任期はまだ? うちの旦那から
サックスを取り上げなきゃ。

日本語としても近年盛んに用いられる「ガラスの天井」は、女性の一定以上の昇進を阻害する見えない壁のこと。で、この句はサックスがセックスの喩になっている(もっと詳しく知りたい方は各自でググってください)。つまりビルの無類のサックス好きと、執務室におけるモニカ・ルインスキーとの「不適切な関係」とを掛け合わせている訳だ。

Im in. And Im in to Win.
Finally my turn!
Ill toss in 14 million.
No biggie. Im in!

「私は出る。勝つために出るのよ」
ついに私の番よ!
1400万ドルを突っ込むのだって
気にしない。出馬するんだもの!

Im in. And Im in to Win.”は各国のメディアの表紙に踊ったヒラリー出馬時の台詞。1400万はヒラリーの集めた政治献金の額。話は逸れるが、このヒラリーの台詞、たいへん生命力に溢れていて、さらに韻律も素晴らしい。ああ、やっぱり大統領(候補)の周囲には優秀なシナリオライターがいるのね、と強く思わせられる。

She Announces Finally
Im running for prez!
Should I have kept those thirty
thousand ditched e-mails?

ヒラリーの通知…最終の。
私は大統領に出馬する!
三万通の破棄メールは
もしかして保存しておくべきだった?

Im running for prez (President) ! というのもメディアの見出しから引用したヒラリー自身の発言。句の内容はヒラリーのメール削除事件の話をそのまま伝えているだけ。これをどう読んだらハイク・ポエトリーにみえるのかは不明である。

大体こんな感じだ。かなり頭を抱えつつ、私なりに最もマシだと思われる句を選んだのだが、こうして見ると確かにどうにも芸のない本かもしれない。ほんと「政治×俳句×ユーモア」の三位一体化とはむつかしきものです。


名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(25)中村草田男 今井聖

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名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (25)
今井 聖

 「街」119号より転載

蟾蜍長子家去る由もなし 
中村草田男 『長子』(1936年)

なんだこりゃ。

ヒキガエルチョウシイエサルヨシモナシ

変な句ですよ、これは。

草田男三十五歳の時の作品。

下句の奥歯にもののはさまったような言い方が特に変だ。

この句、高校の教科書にも出ていたような。いや、草田男の教科書句は「校塔に鳩多き日や卒業す」だったかな。

とにかく、草田男の第一句集の題にもなった句だからこの句に対する本人の思い入れのほどがうかがわれる。

草田男の俳人としての出自とか、成果という論点は置いておいてここではこの一句のみに焦点を絞る。

蟾蜍をまず置いて、下句は、家父長制の確固とした「家」の長男が、その家を去る理由がない。ここにはこう書いてあるのであって、鑑賞の上の興味は、

一に、蟾蜍が上五に置かれた意味。
二に、なぜ、長男なのか。自分が長男だからか。長男というものはという概説なのか。
三に、家を出ないとか、家を出たくないとか、家に無理矢理押し込められると言わずに、なぜ、家を去る理由がないと感情を抑制したクールな言い方をするのか。

この三点が読み解く目的の全てだ。

第一の点について。

グロテスクな蟾蜍が因習的な「家」意識の象徴であるというような鑑賞が主流だ。あまりにもわかりやすい象徴。
しかし、一般性を持つことも啓蒙的草田男の特徴だからこの読みが間違っているとは言えない。

だからといって、この蟾蜍が唯一絶対のごとく嵌った「季語」であるとは思わない。下句が季節に関係の無い述懐である以上、季語は四季折々の事物、事象が当てはまる可能性が考えられる。

例えば夏季だけで見ても
卯の花腐し長子家去る由もなし
誘蛾燈長子家去る由もなし
蛍籠長子家去る由もなし
線香花火長子家去る由もなし
青葉木菟長子家去る由もなし

或いは蟾蜍と同趣のグロテスクな形態の生物などのように時期や外形や声に屈折感があるものなら、そこそこ代用が効くのではないか。もちろん異論はあろうが。

一度、季語がそこに当てはめられ、それが一句にとって有効なものであれば、他に有効なものがある可能性を論じること自体が作品に対して不遜なことになるという印象がある。

季語がその一句にとって取り替えのきかないものであるのが秀句の条件という先入観があるからだ。歳時記は死んだ言葉の陳列棚だと楸邨は言ったが、大方は陳列棚から見合うものを選んでくる。或いは季語の本意を主題にして上塗りをする。それで「成功」したものは、見合結婚をして幸せに暮らしているようなもの。その人に、別の人とでもうまくいったかも知れないと発案するようなものだ。言われた側は怒り出すに違いない。でも試しに入れ替えてみるくらいはいいではないか。季語が唯一絶対の神話は、そこから本意をテーマとする俳句論議が生じ、ひいては俳句の可能性を限定することに繫がる。

この季語伝説は改めた方がいい。

この句にとっての蟾蜍はそんなところだろう。

第二点目について。

長子は自分のことである。句集題にしたのも自分が長子としての宿命を負っていることの表明である。

草田男が実際に両親の長男であるかどうかはこの句や句集題に関係ない。長子は喩えである。家父長制の中での長男というものの苦しみや哀しみなどに限定するのは俗に過ぎる鑑賞。家を出たいなら出たいと書かれているはずだ。

つまり出る理由がないと言っているだけで出たいわけではないのだ。

第三点目について。

家を去る理由が無いと書くのは、宿命だからである。家とは俳句形式のことである。自分はまったく新しい「俳句」を生み出して世に提示する。俳句の概念を変える。

そういう意味での空前の改革者。それが「長子」としての自覚である。

この自覚は自己の能力への確信に基づいての天賦の「権利」などではない。自分の責務。「義務」と言ってもいい。

『長子』跋文に、自らこう書く。
責任上、私の俳句的立場だけを一應明らかにして置かうならば、私はこゝに於いても亦、「負ふべきもの」を全体から負ひ、「為すべきこと」を全体の中に為さうとする者であると言はざるを得ない。(中略)縦に、時間的・歴史的に働きつづけてきた「必然(ことはり)」、即ち俳句の伝統的特質を理解し責務として之を負ふ。
「言はざるを得ない」。二重否定による強烈な肯定。「責務として之を負ふ」の「責務」これがこの句の背景だ。

この句には自解がある。

ほんとうは自分の俳句を自分で解説する「自解」など、作品と作者の距離という原理を放棄する論外の仕業。自分で自分の首を絞めるようなものだと僕は思うが、まあ、草田男のこの句に対する「自解」を参考までに見てみよう。
此句全体の暗示しているものは「宿命の中の決意」に近いものである。家族制度とか、新憲法とか、そういう観念や事実と、此想念は勿論関係を持ち得ないとは断言しない。しかし、此想念は、それらが結びつく範囲よりもつと奥深い、人間的紅血の通った私のこころの奥処(おくど)において誕生した。
案の定草田男は奥歯にもののはさまったような自作解説に終始している。一般の人々には不遜であるとして誤解を受けかねない自己の「長子」認識だからお茶を濁したのだ。

草田男の「宿命」は俳句の歴史の長子となる「避けられない」責務である。

つまり草田男は「やる権利と能力を有する」のではなく、「やらねばならぬ。他にやれる人は誰もいないから嫌でも仕方がない。やるしかない」のだ。

こんな小さな俗に根ざす小形式への殉教者。自分が死ぬことで世界の全員を救うキリスト。言葉を換えれば、「神」からの呪縛を解くことで新しい「人間」の出発を説いたニーチェその人。聖書の中のキリストと、反聖書の『ツァラツストラかく語りき』の両者が草田男に同居する。

草田男は初めて覚醒した「俳人」として新しい俳句を世に示す「義務」を負った。それが「由もなし」なのだ。

でもこんなこと自解では言えないでしょ。そのまま書くと単なる傲慢な自己肯定と誤解される。

世に威張る人はゴマンといる。俳句の世界でも「阿呆どもよ、教えてやろう」と睥睨して語りかける人は今でも多い。特に「新興俳句」系に多いな。

人の上に立つ権利ではなくて、導かねばならない義務を負っている。その認識が、ニーチェが憑依した草田男の「由もなし」だ。

少し話が飛ぶが、僕のシナリオの師、馬場さんが言っていたことがある。

谷崎潤一郎などの高名な文学者の小説を脚本化しようとするが、どのライターに頼んでもうまくいかない。映画化への段取りの期日が迫ってくる。プロデューサーから馬場さんのところに電話がかかってくる。

「みんな脚本化に失敗した。もうあなたしかいない。頼みます」と拝み倒される。

「頼まれて打ち合わせに向う夜の駅のホームに月が出てたりしてだな。大利根河原だよ。誰もやれないなら、俺が行かなきゃ仕方ないと思うんだな。平手造酒(ひらてみき)の心境だ」

平手造酒。

実在の人物であった。

幕末の仙台藩士あるいは紀州藩士(実際のところは不明)。腕の立つ剣客であった。(講談では千葉道場の俊英だったが酒乱のため破門になる)造酒は肺病病みでもあった。
流浪の末、下総の博徒の親分笹川繁蔵と知り合い用心棒となる。

天保五年(一八四四年)繁蔵一家と、対峙する飯岡助五郎一家との大利根河原の決闘に笹川方の助っ人として参加し闘死した。享年は三十。全身に十一ヶ所の傷を受けていたと今も残る死体検視書にある。

講談や浪曲では「天保水滸伝」として語られている。

また、三波春夫の歌謡浪曲「大利根無情」もヒット。

中で歌われる、「止めて下さるな妙心殿。落ちぶれ果てても平手は武士じゃ。男の散りぎわだけは知って居り申す。行かねばならぬそこをどいて下され、行かねばならぬのだ。妙心殿」。

最後の「行かねばならぬのだ。妙心殿」は流行語にもなった。(平手造酒は食客をしていたとき釣をしていて知り合った尼の妙心に、出入りに駆けつけようとして止められる。その時の台詞)平手造酒は、やくざ映画の高倉健とは違う。

健さんは義理を背負って己を馬鹿と知りつつドスを片手に殴り込みにいく。一宿一飯の恩義や倫理にもとる相手への憤りがその動機。つまり健さんの場合は相手と同じレベルに自分を置いての善悪の比較の上に立っている。

やくざの用心棒の「センセイ」は違う。

かつて体制側(武士)の家に生まれ剣客として将来を嘱望されながら病と酒のためにそれを棒に振り、金をもらってやくざ風情の用心棒になり果てている。

その親分から、「センセイ、お願げえしやす」と促され腰を上げる。

大利根河原の出入りでは、繁蔵側は死者は造酒一人。

切り傷の多さから言っても、造酒は助五郎側を一手に引き受けての斬り死にと思われる。

俳句はやくざだ。

小説家でさえ、文弱、売文家と揶揄された時代の俳句である。俳句は俗の極み。俳人は行乞の世捨て人。

帝大を出た超エリートが俳句に志を立てる。余技ならいざしらず。

そこに自らを腐った男(草田男)と称した俳人の屈折と強烈な矜持があった。「長子」という旗印がいかなる思いを背負っていたかがうかがえる。
落ちぶれ果てても平手は武士じゃ。のところを、俳句のような小さな形式でも俺はその宿命を与えられたのだからやらねばならないと言い換えると平手造酒と同じ。

草田男は平手造酒だ。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。



「街」俳句の会サイト ≫見る

10句作品テキスト まみれる こしのゆみこ

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 まみれる   こしのゆみこ

空の箱つみあがりゆく夏の家
箱の蓋ずらし青葉騒を聞く
青水無月絶縁テープ巻いてゆく
郭公のきこえてきたる眠りかな
ほうたるのひとつふたつとぬかれゆく
短夜から色とりどりのジャムの瓶
島中の鳥の集まる赤い空
泰山木の花はずれかかった冠
まばたきの間のアマリリスのなみだ目
夏鶯二重瞼と一重瞼持つ


10句作品 まみれる こしのゆみこ

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週刊俳句 第476号 2016-6-4
まみれる こしのゆみこ
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週刊俳句 第476号 2016年6月4日

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第476号
2016年6月4日


2015 角川俳句賞落選展 ≫見る
2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


こしのゆみこ まみれる 10句 ≫読む
……………………………………………

名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫 (25)
蟾蜍長子家去る由もなし 中村草田男
……今井聖 ≫読む


【みみず・ぶっくすBOOKS】第9回
ヴェラ・Gショー『ヒラリー・クリントン俳句』
 ……小津夜景 ≫読む


〔その後の俳句フィクション〕
喪服を脱いでから
……中嶋憲武 ≫読む


【句集を読む】嵯峨根鈴子句集『ラストシーン』の一句 
寝苦しい夜の扇風機 
……西原天気 ≫読む

【句集を読む】塚雅世句集『猫の町』の一句
鉱物の時間・虹の時間  
……西原天気 ≫読む


連載 八田木枯の一句
風のごときものなり戀も陶枕も ……西村麒麟 ≫読む


自由律俳句を読む 140
「鉄塊」を読む〔26〕 ……畠 働猫 ≫読む


〔今週号の表紙〕第476号 紫陽花……西原天気 ≫読む



後記+執筆者プロフィール ……上田信治 ≫読む



 
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る





週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る




 
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後記+プロフィール 第476号

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後記 ● 上田信治

またまた遅刻なのですが。

今日は、『結局、どうして面白いのか 「水曜どうでしょう」のしくみ』(佐々木玲仁)というすごく面白い本のことを思い出していました。作者は、心理療法が専門の学究です。

カメラがあって、番組がある、っていうこと自体を、撮ってしまう番組。その番組の視聴者が「物語」のどこに自分の主体を置くかという分析。

俳句に自分を描き込むことと関係があるかな、と思ったのですが、ありませんでした。

「水曜どうでしょう」からの連想で、越前屋俵太のことも思い出していました。この人も天才的だったなあ。俳句とは、関係がありません。

あ、でも、世界で落下っていうシリーズがあって、各地の美しいビーチで、自分で支えたハシゴに、自分で駆け上がろうとしては海に落下する映像の無意味さは、さすがHAIKUの国の人だ、という。

それだけですけど。


それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.476/2016-6-4 profile

■こしのゆみこ こしの・ゆみこ
1951年、愛知県幡豆町海の町に生まれる。現代俳句協会会員、「海程」同人、「豆の木」代表。海程新人賞、第16回(1998年度)現代俳句協会新人賞、第5回(2004年度)現代俳句協会年度賞。句集『コイツァンの猫』(2009)

■今井 聖 いまい・せい
1950年生まれ。加藤楸邨に師事。「街」主宰。句集に「谷間の家具」「バーベルに月乗せて」など。脚本家として映画「エイジアンブルー」など。長編エッセイ『ライク・ア・ローリングス トーン』(岩波書店)、 『部活で俳句』(岩波ジュニア新書)など。「街」HP

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■西村 麒麟 にしむら・きりん
1983年生れ、「古志」所属。 句集『鶉』(2013・私家版)。第4回芝不器男俳句新人賞大石悦子奨励賞、第5回田中裕明賞(ともに2014)を受賞。

畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。

西原天気 さいばら・てんき 1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。


〔今週号の表紙〕第477号 花菖蒲 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第477号 花菖蒲


西原天気


花菖蒲とアヤメとカキツバタ。違いがわかりません。

ちょっと調べてみても(≫例えば、こちら)、ややこしそう。

自分が区別できるようになるとは思えません。

でも、それでかまわない。何かを「できるようになりたい」と思うことはいいことだけれど、「できなくていいや」ってことがあっていい。おおいに、あっていい。この年齢になると、さすがに、ね。あきらめることを、どんどん増やしていかないと、ね。

区別できないのに、なぜ、記事タイルが花菖蒲なんだ? と訝る向きもございましょう。はい、これが花菖蒲なのかアヤメなのかカキツバタなのか、わかりません。わかろうって気が湧いてきません。

堀切菖蒲園で撮った写真だから、花菖蒲。

花菖蒲であろうものたち、ってことで許してください。


週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

【八田木枯の一句】更衣すめらみくには水に浮き 太田うさぎ

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【八田木枯の一句】
更衣すめらみくには水に浮き

太田うさぎ


更衣すめらみくには水に浮き  八田木枯

『夜さり』(2004年)より。

温暖化のせいとばかりは限らないけれど、早ければ4月半ば、たいていはゴールデンウィークの頃には夏服デビューしている。それでも、衣替えといえばやっぱり6月。半袖の腕や開いた襟ぐりに梅雨入り前のさらさらした空気が心地良い。新涼とは違う、この時期ならではの皮膚感覚がある。毎年巡って来る季節なのに新鮮でいてどこか懐かしくて。そんな感じをこの句とは分かち合える気がするのだ。

「すめらみくに」は漢字で書けば「皇御国」。この言葉を剣呑と見る向きもあるかもしれない。しかしながら、平仮名による表記はやわらかく涼しげで、続く「水に浮き」へと美しい流れを作っているのは確かだ。そして海ではなく水とすることで全体に清らかな印象が生まれている。

水に浮くと言えば流され易さや浮薄さを連想しなくもなく、それがこの国のあり様を示唆している(であるからして「すめらみくに」は意図的な使用)なんて解釈をする人もいるかしらん? ふとそんな疑問が頭をよぎったけれど、やはりこの措辞は、夏服の清涼感にぴったりだと素直に受け止めたい、どこか一抹の儚さを感じつつ。



【みみず・ぶっくすBOOKS】第10回 イザベル・アスンソロ『草の上の俳句』 小津夜景

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みみずぶっくすBOOKS第10回
イザベル・アスンソロ『俳句

小津夜景


日頃、自分が俳句を書いていることは口外しないようにしているのだけれど、なにかの拍子でそれが人に知られてしまうことがある。そんなとき厄介なのは話がそこで終わってくれないこと。決して少なくない確率で「あ、課外授業でやった」とか「うちの子が学校で書いた」などと相手が反応し、自分などには俄かに判然としない蘊蓄を語りだすのだ。

こうした状況に陥るたび「私は一度も書いたことがなかったのに、フランスの学校ってなんなの?」と不明瞭な気持ちでいたのだが、最近その霧がいくぶん晴れた。今週とりあげる俳句』が「フランスの小中高における俳句の教え方」といった、まさにその謎を扱う書物だったからである

著者のイザベル・アスンソロは俳人かつ iroliという出版社の設立者。フランス語俳句協会の理事もつとめており、さらには教育現場への俳句の普及にまで実践的に携わっているという、たいへん精力的な女性だ


こちらのサイトでつけたこの方がイザベルさん彼女がえているのは谷龍冬野虹、ティエリー・カザルスの共著となるばれぬ』だ。カザルス氏はイザベルさんが初めて目にした俳人で、氏との出会いをきっかけに俳句と恋に落ちてしまったイザベルさんは、ガリマール社の俳句アンソロジーを繰り返し読みふけり、ついには「俳句を世にひろめるために出版人になろう」と決意したのだそう。

そんなイザベルさんが綴ったこの本、まず感じたのは、子供たちに対しどのように俳句を説明するかといった課題は、フランスにおける俳句の理解の核心を最大限シンプルにさらけだすことでもある、ということ。たとえば本書の冒頭は、

  私は湧き水を飲む
  紅をさしているのも
  忘れて

という句(千代女「紅さいた口もわするるしみづかな」です)を引いて《良い俳句は精神的なイメージではなく生きられたイメージを大切にします》と始まる。そして《千代女の句の一途さには瞬時性や共鳴性といったインパクトが同時に織り込まれており》、つまるところ《俳句に必要な基礎、その第一の水源は、俳人自身の体験です。生きることそれ自体が、俳句を育むに必要な腐葉土なのです》とこの項を終える。あくまで単純な、だがれっきとした哲学から入る姿勢に、子供たちの理解力に対する信頼が感じられて心地よい。


右ページの句は冬野虹「明るい岸へ雪の球なげてゐる」。
この本では、カエルが頻繁に文章に割り込んでは「俳人の言葉」を呟く。
「読んだ瞬間、味わった瞬間に俳句は生まれる/ランディ・ブルックス」

吟行中の生徒


それはそうと、本書中、私がなによりも衝撃を受けたのは季語の説明である。

俳句は五感とよばれる感性の世界に錨を下ろします。見習い中の俳人はまずもって生活に立脚して書くのであり、精神世界に立脚した場所から始めるというのはとても稀か、全くないと思っていいのです。俳人は書く為のインスピレーションを待ったりしません。生活および書くことの正面へと自ら進み出てゆくのが俳人です。》

どんな場合でも俳句は季節を示す語、あるいは一日の或るひととき、あるいは場所などの語を含んでいます。実を言うと、私は俳句を教える場でこの「錨となる語」の話をするのが好きなのですが、日本においてこの「錨となる語」は長い間「季語」が担ってきました。「季語」とは季節にまつわる事柄を体系化したもので、そこにはアルマナも含まれます。

アルマナというのは、子供から大人まで、多くのフランス人が使用しているボードないし手帳のかたちをした生活暦のこと。天体の出没、気候、宗教行事、聖人の誕生日、年中行事、旬の食材とその調理法、畑や庭の手入れ法、余暇やスポーツ、子供の遊びなど、日常に欠かせない知識や情報が、年暦によって配当された月日に記されている……ってこれ、まんま歳時記じゃん! 信じられない。今までずっと目にしていたのになぜ気づかなかったんだろう。フランスに歳時記があったとは……。

フランスの生活暦手帳。これはノート部分がやや小さめ。


                        
もともとアルマナは天体および宗教(吉凶)情報を記した暦がその起源だそうで(ウィキによると紀元前8世紀ヘーシオドス『仕事と日々』の付録暦が最古)、15世紀以降は行商人が毎年売り歩く「民衆向けハンディ百科全書」としてもいろんな人気商品が出現した。あの有名なノストラダムスの歴書もアルマナで、これはカレンダーに天体&宗教&農事に関するインフォメーション、天気予報、医学衛生の助言、ハーブ化粧品の作り方(!)、本日の占いなどが記された画期的アイデア商品だった。そのほか「地方の歳時記」「催し物歳時記」「スポーツ歳時記」「インテリア歳時記」など一つの分野に特化したタイプも存在し、なかでも「お料理歳時記」と「庭づくり歳時記」は根強い需要がありそうな雰囲気。ちなみに我が家にあるのは行政が無料配布しているもので、カトリック、プロテスタント、オーソドックス、イスラム、チベット仏教の行事情報が記載されており、写真を眺めるのが楽しい。

ノストラダムスのアルマナ。
11日は、割礼記念日、天候雨、あとは読めない。


イザベルさんの説明のお陰で、フランス人によるこの概念の把握のしかたが完全にわかって、なんだかうれしい。しかもさらにイザベルさんは、自身が季語好きなのにもかかわらず無季俳句の重要性を述べるところでこの項の説明を終えていて、そういった点もいいなと思う。

私達は日本の季語から離れ、西洋の事情にあった「錨となる語」を見つけなくてはなりません。季語の問題はそれがローカルな性質を帯びている点にあります。例えばすずらんはフランス本土で五月に咲くけれどもレユニオン島ではそうではない、といった風に。現代の俳句は自然や季節ではなく、時間及び空間的に作者にとって具体的といえる環境——例えば「教室」「工場」「街角」「目覚まし時計」など——に錨となる語を求めるようになっています。季語以外の語をこのように使用するのは当世の傾向(日本も同じ)で、これを無季俳句と呼びます。


大人の句会風景。

こうした説明のあと、本書は作句法を実際に考える作業に入ってゆくのだが、それについてはまたいずれ書くことにして、今は生徒の作品のみを紹介したい。

bruit de cavalcade
dans les couloirs du collège
la Joconde regarde
Lucas
中学校の廊下いっぱいの
お祭り騒ぎを
モナリザが見ている
ルーカス

Fête de lArmistice
un papillon noir
suit le bord décume
Vincent
休戦記念日
一羽の黒蝶が
泡の淵を追う
ヴァンサン

barque sur le Nil
prises dans les jacinthes deau
PRINTEMPS 2011
Janiss
ナイルの小舟
ヒヤシンスに捕らえられ
2011年春
ジャニス

ヒヤシンスの句は失読症の生徒作品。吟行にゆき、そこで目にしたものを補助教員がメモし、教室に帰ってからそれらの語を並べ替えて作句した。「ナイルの小舟」は旅行代理店のポスターを見たときにメモした語なのだそう。

Sunday Im in love
lancé une étoile de mer
qui colle au ciel
Dylan
日曜日、ぼくは大好き
空にはりつく
ひとでを投げた
                                          ディラン

こちらは特殊学級の生徒の句。教師の体験した週末のできごとに耳を傾けつつ、その話の中から印象に残った言葉を拾うといった方法で作句を試みた。文法が少し変で、さらに英語も混じっているが、とても素敵な俳句である。下の写真はこの子が教師の話を聞きながらつくったという、超ヘヴンリーでアイム・イン・ラブな俳画。


『草の上の俳句』から一貫して感じられるのは、あくまで子供たちの知性を「水と土の匂い」のする土台から育むひとつの方法として俳句をその場に差し出そうとするイザベルさんの冷静な判断力だ。この本には「俳句のすばらしさ」を子供たちに伝えるといった発想は微塵もない。あるのは「子供たちのすばらしさ」を俳句が涵養するだろうといった大変気の長いヴィジョンであり、またイザベルさんにとって「俳句を広める」とは即ちそういうことらしい。

今回この本のさまざまな作句法を読み、また生徒たちの作品例を眺めて、学校という空間ではむしろ外国人の子、識字困難の子、特殊学級の子など、感覚と文字とのあいだにささやかな「距離」を抱える生徒たちにこそ、五感をせいいっぱい押し広げて書く俳句という言葉のあり方が有効なのではないか、といった感想も抱いた。最後にイザベルさんの考え方がはっきりと現れた文章として、この本の目次を引用しておく。

『草の上の俳句』
1章 よい土壌
・水源
・構造
・定着
・句切れ

2章 よい盛り土のための原材料
・読者という名の分別ある農夫
・五感という光と熱
・日々の水やり
・母なる自然とその恵み
・正確な語という肥料
・ひらめきという雷
・こまどり、その他のまれびと
・微量元素 : 慈愛と人間性
・そして少しの雪と歓び

3章 正しい道すじに
・書き出しの三つの例
・道にある、いくつかの躓き石
・よくある質問

4章 さあ書こう! アトリエと活動
・何を書くかについて
・俳句を発見する授業のやりかた
・俳句を書く活動 小中高それぞれの指標
・俳文(俳画の実践もあり/筆者註)
・吟行
・句会
・上記以外の公的現場 : 失読症児童、外国人児童、特殊学級児童の場合
・実現すること
・領域横断的プロジェクト : フランス語俳句と外国語俳句、フランス語俳句と彫刻、フランス語俳句と「生命&環境の科学」(フランスの学校の授業科目名/筆者註)

5章 用語・書籍・サイト集


写真引用元

【句集を読む】春はクリームパン 中山宙虫句集『虫図鑑』を読む

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【句集を読む】
春はクリームパン
中山宙虫句集『虫図鑑』を読む

西原天気


カバーのグリーンは、虫がたくさん棲んでいそうな色。ただし、この本に虫の句がとりたてて多いわけではありません。俳号から来たタイトルでしょう。「図鑑」の少年期的・ジュブナイル的ワクワク感は、この句集全体に貫かれたたトーンのひとつ。

判型は小ぶりな新書サイズ(103×172mm)。掌への収まりがいい。

本文は、活版印刷。

近年はほとんど見なくなった活版活字。目で見た懐かしさとともに、指の腹でさわれば、インクのうっすら盛られた独特の感触が味わえます。




活版印刷の句集は数少ない。管見の範囲で、閒村俊一『鶴の鬱』(2007年/角川書店)、『拔辨天』(2014年/角川学芸出版)、毛呂篤の数々の句集(≫こちら)、永島靖子『袖のあはれ』(2009年9月/ふらんす堂)。同人誌『晩紅』もそうでした。もちろん他にもあるのでしょうが。

例えば『拔辨天』の大きくて重厚な活字(≫こちらのブログ記事・参照)とは違い、軽やか。著者あとがきの追記に「ファーストユニバーサルプレスのみなさんが一文字ずつ拾い上げてこの句集は出来上がりました。(…略…)人の手で作り上げられた文字たちが呼吸をしているようです。僕の俳句の世界をこの文字たちが少なからず支えてくれるのではと密かに思っています」とあります。

さて、収録句へと話を進めましょう。ページ順に、気ままに。



もっと濃くなる青野にひとは追いつけぬ  中山宙虫(以下同)

人間(=私たち)が追いつける事象は存外少ないですね。意識や表現を超えてさらに濃くなる青野。


つま先から雨に濡れる夜枇杷は実に

湿度充分。足もとと頭上の枇杷の垂直。



紫陽花が濃くなるティンパニーの連打

それほどページを置かずに「濃くなる」ネタが出てくる。青野の句が概念把握(追いつけぬ)との取り合わせなのに対して、こちらは鮮烈な音との照応。二物に因果はないが(俳句の基本)、色(赤や紫)と音色が眼と耳に同時に届く(俳句の効果)。



なーるほどトム・ソーヤなんだ猫じゃらし

このあたりの語り口は作者独特だろうか。ライトヴァース的な軽みに猫じゃらしの軽量がよくマッチする。それにして「なーるほど」とは! なつかしいマンガの吹き出し、なつかしいテレビドラマのワンシーンのようじゃないですか。


焼き栗をむいて偽医者かもしれぬ

憎めない。


太刀魚を捌き明日から宇宙戦争

レトロフューチャーの感触は、太刀魚効果? あるいは俳句効果。下の7音がのどか。あ、この音数効果もありますね。


やわらかい雨を見ている雛を見ている

対句は、技巧ではなく、率直でシンプルな気分が、こうさせたのでしょう。感傷的でロマンチックな句も多いです、この句集。


秋色の東京父として歩く

中山宙虫さんとは、私が俳句を始めてまもない頃からの知り合い(住むところが離れているので、最初はネット上の知遇)。出張かなにかで東京を訪れた際に息子さんと会うこともあったようです。この句のシンプルさが実感、正直な実感を伝えます。

しんみりした、いい句。この句集の中にあって、この句集の主調に属するかといえばそうではないし、宙虫調かといえば、そうではないけれど、こうしたスタンダード曲のような句も、句集の幅や充実に大きく寄与する。



代書屋がたたまれ猫が恋をする

うちの近くだと、運転免許試験場のそばに立ち並んでいましたが、もうずいぶん前に軒並み店じまい。廃屋と化しております。猫の恋には、最適の場所。

「たたまれ」「する」と、動詞ふたつ、対句的な構成です。「をする」は、ある人に言わせれば冗長かもしれませんが、これが持ち味。軽みが(悪い意味じゃない)弛緩を伴って、読む人を和ませる。



桜三分厚切りにする明日のパン

今日食べるのではなく明日。フレンチトーストの仕込みなら、そう、厚切りがよろしいです。それにしても桜は主食(コメやパン)とよく合いますね。色のせいでしょうか。平和やめでたさのせいでしょうか。


バックミラーにいまふるさとが夕焼ける

おっと、これは感傷的過ぎるかもしれませんよ。でも、泣き所も必要。



ものしずかなくらしに雪がまぶしいぞ

ちょと骨太に「ぞ」締め。このあたりは、宙虫さんが所属する「麦」の麦調を感じます。



ととろすする生物兵器かもしれぬ

物騒。


波とおく夜を重ねるちゃんちゃんこ

重ねる(他動詞)がクセモノっぽく、句に微妙な雰囲気をもたらしています。


河口まで春はさみしいクリームパン

これ、いいなあ。この作者の牧歌的なスウィートネス、感傷を含んで甘美、心優しく平穏な作風がよくあらわれた句。河口まで歩く。クリームパンはリュックか鞄の中にあると見た。春=さみしいクリームパン、と等式的に読み、「なんだかわかる」句。


人として浮いて水母に囲まれる

晩夏の海で立ち泳ぎ。



秋風や歩いて埋まる人類史

歩くことはだいじ。この句集は、よく歩いている。歩くという動作があるのではなく、ね。



九五〇ヘクトパスカルこすもすはいま静か

かなり大きな台風。近づきつつあるというニュース。でも、まだ無風(まさか台風の眼という句ではないでしょう)。「こすもす」のひらがな表記で、なよなよ感が極まる。


雲は秋ベッドで動くのどぼとけ

艶っぽい句は、この句集に多くない。この句も、そのように読み取る必要はないのかもしれません。のどぼとけ(喉頭隆起)はもっぱら男の持ち物ですし。「雲は秋」の開放感もあって、あっけらかん。



ケルン積む人間霧を来て霧へ

かっこいいフレーズが「ケルン積む」できちんと現実に定位した。



旋律はラフマニノフなのに雪

ラフマニノフはピアノ協奏曲第2番が有名。出だしは雪っぽいと思うのですが、作者にとって、ラフマニノフと雪は「なのに」関係。



赤ワイン春はあけぼのなどという

夜通し飲んでいたわけです。高いワインではなく、赤玉ポートワインあたりのほうが「春あけぼの」感があります。このふわーっと気持ちのいい感じ、なんなんでしょうね。俳句の不思議、シンプルさの不思議。



想い出をすてれば部屋は蟬ばかり

想い出を捨てそうにない句集です、『虫図鑑』は。

捨てたら、蟬しか残らない。だから捨てないのか? あるいは、あえて捨てる、というのでしょうか?

視覚と聴覚に強烈に訴えてくる句。前半が強烈とは対照的に口語的なやわらかさに見ているだけに、よけいに。


というわけで、1冊、楽しませていただきました。

この中山宙虫句集『虫図鑑』(2016年4月/西田書店/装幀笠井亞子)は、書店やネットで販売しないようです。頒価も記載がない。造本から装幀から中身まで1冊まるごと愛らしい。気取ったところがなく、カジュアルなやさしさに満ちた、この句集、土手の草むらに座って、ほおばって、「あっ、おいしい」とひと息つくクリームパンのような、この句集。手にしてみたいという方は、中山宙虫さんにアプローチしてみるといいかもしれません。


10句作品テキスト 耳打ち 黒岩徳将

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 耳打ち  黒岩徳将

芝桜埴輪の馬に短き尾
顔に巻く手拭ひ短か苗代田
明易や古墳と知らず昇りつめ
六月の鼻緒に指の開きたる
だんだんに木々のひらけて時鳥
耳打ちの蛇左右から「マチュピチュ」と
サイダーや花屋の前の男たち
汗が汗を匿ふアレクサンドリア
青林檎服をつかみしまま眠る
夏の夕とほき小芥子と目が合つて


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