
小川春休
97
(前略)私は長年に亘ってこの選集を「写経」と称して月が替わるごとにその月の分を読み返して、好きな句はノートに書き出すことを続けてきた。
毎年やるのだから、書き出した句は昨年の、或いは一昨年のものと全体的に見たら大差はない。
しかし書き出す私の心が年々改まっているので、今迄どうしてこんな良い句がスッと胸に入ってこなかったのだろうかと自分自身おどろくような句が年々幾つかずつは現れてくる。
今度また新しく選集が廉価で再版されたのだから、これを大いに汚して、また一から「写経」をやり直そうと思っている。
いま本屋で選集がたやすく手に入るうちに春夏秋冬の部一揃いをもう一揃い求めておくことをお勧めする。
印をつけて、それも印をつけた上に更に別の印をつけるようにして毎月「私の十句」にまで絞り込んで読んでゆくとすれば、三年ぐらい経ったらいろいろな印が入り混ってややこしくもあり、また大いに汚れてくる。
その汚れが、読んでゆくのに目障りになった頃にもう一組の方へ手をつければよい。
その頃になって果たして選集が簡単に手に入るような状況にあるかどうかは、全く保証がないからだ。(後略)
(波多野爽波「枚方から・汚して読む」)
仲秋の長身を蟻のぼりくる 『一筆』(以下同)
「長身」と言うからにはやはり、座っているのではなく直立している姿が想像される。さてこの蟻、どこまで登ってきたか。優に膝ぐらいは越えて、まだまだ登って来そうな気配だ。爽波には〈仲秋の金蠅にしてパッと散る〉という句もあり、仲秋は虫の俊敏な季節。
懸崖菊華奢な男の手が恐し
まず、「華奢な男」とその人物の大まかな全体像が提示される。そして視点はクローズアップして行き、手へとたどり着く。「恐し」とは直接的な描写というより印象であるが、華奢な男にそぐわぬ手に気付いた衝撃と、季語の働きとにより、説得力を持ち得ている。
ポプラ樹下紐のやうなる穴惑ひ
冬眠の時期が近づいても穴に入らずにいる蛇を穴惑いと言うが、寓意を帯び易く中々に扱いの難しい季語だ。掲句ではそれを、あっけらかんと物のように描いている。街路樹として一般的なポプラの樹下であることも、景に余計な意味を持たせぬ効果があるようだ。
田仕舞のとびとびにある野菊かな
田仕舞とは、その年の収穫が無事終わったことを祝う宴のこと。その集落の誰かの家か、集会所のような場所か、窓外には飛び飛びに野菊が見える。この野菊も、ついこの間まで稲に隠れてよく見えなかったものかも知れず、収穫後の田畑はぽっかりと寂しい。
●