Quantcast
Channel: 週刊俳句 Haiku Weekly
Viewing all 5946 articles
Browse latest View live

2016年 新年詠 大募集

$
0
0
2016年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2016年11日(金)~12日(土) 20:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレス〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

【八田木枯の一句】小春日のこゑはむかしの屑や屑 太田うさぎ

$
0
0
【八田木枯の一句】
小春日のこゑはむかしの屑や屑

太田うさぎ


第4句集『天袋』(1998年)より。

小春日のこゑはむかしの屑や屑   八田木枯

屑屋、ではなく屑屋さん、と口をついて出るからにはこの生業、私の幼い時分には身近なものだったのかもしれない。それともちり紙交換車のことを親に倣ってそう呼んでいたのかしらん。

模糊とした記憶を繙けば「屑ぅ〜い、おはらい」の呼び声も耳に蘇ってくる気さえするけれど、本当に聞いたのだかどうだか。

屑屋さんが「屑や屑」と町なかを回っていたとはあまり思えず、この台詞ならどうしたって「しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがない」を連想する。

玉のような小春日和、なんとなく懐古の情を辿るうちにどういうわけか屑屋が静御前を呼び出してしまったようでおかしい。

軽く肩を揺すって笑ってみせる木枯さんの姿が目に浮かぶのでした。


自由律俳句を読む 121  「鉄塊」を読む〔7〕 畠働猫

$
0
0
自由律俳句を読む 121
 「鉄塊」を読む7

畠 働猫

「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
今回は第九回(20131月)から。



◎第九回鍛錬句会(20131月)より

雪の深さ知る右足 渋谷知宏
踏み出した足が深みにはまってしまったのだろう。
私はずっと北海道在住であるため、雪に関しては上級者と言っていい。
したがって、雪の深さや固さは見た目で判断することができる。だからもう何年も冬でも夏靴で過ごせているほどである。
そうした「北から目線」でこの句を見ると、「ふふん、まだお若いから」と微笑ましい気持ちになる。

冷蔵庫氷を産んだ聖夜 渋谷知宏
我が家の冷蔵庫はもう20年以上使っているため、このような機能はないのだが、最近の冷蔵庫はすごいね。たいしたものである。
この句では、「聖夜」と詠っているように、何もしないのに勝手に氷が作られる冷蔵庫を何もしてないのに受胎し出産した聖母マリアになぞらえているのだろう。
比喩の妙である。

くだを巻く金もなく直帰 渋谷知宏
学生ならば、誰かの家に集まって、となるところであろう。しかし社会人にもなるとなかなかそうもいかないものだ。家庭持ちだとなおのことだろう。
ところで私事で恐縮なのだが、年明けに手術のため入院する予定である。
そのため医者から酒を止められており、年末年始を素面で過ごすことになった。クリスマス、忘新年会、正月とずっと素面である。
金はなんとか稼げるようになったが、これではくだを巻くこともできない。
なかなか人生というものはうまくいかないものだ。

雨を来て来ただけ 天坂寝覚
天坂寝覚の句についての鑑賞をすでに行ったが、その際にも触れた句である。
この連載を引き継いで最初の回、101回で読んだ。
以下に当時の鉄塊句会での自分の句評を再掲する。

「目的に対して困難な手段を選択・実行する場合、往々にして手段そのものが目的にすりかわってしまう。『雨を冒しても(会いに)行く』ということ、それ自体が目的となってしまった。雨の中を来た者はそれだけで満たされてしまったのだ。しかしそれを迎える側は、こんな雨の中をわざわざ来て、そして黙っている相手の真意を量りかね、困惑し、自分もまた黙って立ち尽くすしかない。本来の目的であった愛は、雨にまぎれて流れ去ってしまった。そんな夜の出来事だろう。」

当時も今も変わらず、寝覚の句の中で私はこの句が最も優れたものと思っている。
それはこの景を私が知っているからであり、そこにあった極めて個人的な感情や揺らぎを句にしてくれた作者と共有できることに驚きと喜びを感じるからである。

また寝て夜 天坂寝覚
こちらも当時の自分の句評を引用する。

「二度寝をして夜まで眠ってしまったのか、それとも睡眠のリズムが夜型になってしまって、夜に目覚めるサイクルになってしまったのか。いずれにせよそれは、昼の世界との関わりを絶ってしまったということだ。今から身支度をして出かけても、買い物もできない。まともな食事もできない。図書館だってやってない。コンビニ、24時間チェーンの牛丼屋、インターネットカフェ……。夜の孤独の受け皿はどれも空虚で陳腐で薄暗い。そしてまた何も予定ができなかったと後悔し、ただただ癒せない焦燥感を抱きながら、訪れる睡魔に任せてまた夜まで眠ってしまう。自分もすぐに生活リズムが乱れるのでよく分ります。」

不眠をかつて3年ほど患ったことがある。
よい経験だとは思わないが、抜け出せた今は、その苦しみを客観的に理解できるようになった。仕事でもそれは役に立っているし、悪いことばかりではない。
禍福は糾える縄の如しである。

名前を呼ぼうとして枯れ草 天坂寝覚
夢や心象風景のように読む。
枯れているのはライ麦であろう。
つまりこれは「キャッチャー・イン・ザ・ライ」なのである。
作者もまた、そのライ麦畑から零れ落ちてゆく誰かを救いたいと願いながら、手を伸ばしている。名前を呼ぼうとしている。しかしいつか麦は枯れ、あとには荒涼とした広場にぽつんと一人残されてしまう。
夢であってほしい。
夢ならば何度でもやりなおせるからだ。
私も手の届くすべての人を救いたい、助けたいと思って生きてきた。
すべてを選ぼうとして何も選べなかったばかりに、私のライ麦畑からはみんな零れて落ちていってしまった。

ローソクや見せ物にしてはならない事がある 中筋祖啓
土着的な秘密の儀式、奇祭を思わせる。私はそうした秘儀密事にはどうにもわくわくしてしまう性質である。
見せ物ではないようだが見たい。知りたい。参加したい。

スプーンの、事が・・・・・・・・、好きです。 中筋祖啓
当時はまだ「原始の眼」を知らず、この句にもただ困惑したことを憶えている。
以下は当時の私の句評である。

「ちょっと意味が分らなかった。『キリンさんが好きです、でもゾウさんのほうがもっと好きです』というCMを思い出した。

今見るならば、小さな頃の自分自身の経験を思い出して共感することができる。
まだ箸がうまく使えず、なんでもスプーンで食べていた。その頃の気持ちは確かにこういうものだった。

ストーブの内々に燃ゆ芯の炎 中筋祖啓
北海道の家庭ではメインのストーブは大型で、赤々と火が見えるものが多い。
だからこの句は当たり前の情景を詠んでいるようで特に新鮮さを感じない。
ただ、この句で詠まれているのは小さなストーブなのだろう、とは思う。
ガスか灯油を燃やして、温風が噴き出すタイプなのだろう。
その噴き出し口を覗いて炎を発見した情景なのだろう。
これもまた、まるで初めてストーブを見たかのように「原始の眼」がとらえた瞬間なのだろう。

長靴ちいちゃく雨を蹴った 馬場古戸暢
「ちいちゃく」が幼児語であることから、子供の姿を詠んでいることがわかる。
童謡や絵本のような温かくやさしい情景である。
合羽を着て長靴を履いて、雨の中を歩く様子か。
その一瞬を逃さずに切り取る視点に、対象への愛おしみを感じることができる。

人妻が待っているメールを開く 馬場古戸暢
一時期同様の迷惑メールが届いていたことがあった。
「裕福な人妻が貴方を待っている」というような内容であったと思う。
こうした迷惑メールや架空請求にはまってしまう人というのは本当に存在するんだろうか、と疑問に思うのだが、存在するから無くならないのだろうね。
難儀なことである。

シュークリームをつかむ小指の爪の長い 馬場古戸暢
小指が立っていたのだろう。
女性だろうか。
年齢のせいか甘いものが食べられなくなってきた。
深夜であるせいかもしれないが、今この「シュークリーム」という字を見ただけで若干胸やけがしてきている。
食欲も性欲も弱まっていくのを感じると、だんだん死が近づいているんだなあと思う。

拳怪我したまま新学期 藤井雪兎
雪兎の句は少年漫画を思わせるものが多いが、この句もそうである。
私の場合は「リングにかけろ」であるが、「がんばれ元気」や「はじめの一歩」などを思い浮かべる人もあろう。
新学期には新たなライバルキャラが登場するはずだ。そこに拳の故障というハンデを背負ったままで立ち向かうことになる。
熱い展開である。

くびれているからあの星が見える 藤井雪兎
「くびれている」のは女体であろうか。
「在る物」を詠むことによって「無い物」を表現するという手法は、俳諧・俳句においてポピュラーなものと思うが、この句も同様の方法を用いている。
女の背後の星を詠むことによって、その身体の細さ、柔らかさを強調しているのだろう。
この句も少年漫画で読み解けば、「あの星」は死兆星である。
とすれば、このくびれはマミヤのもので、見ているのはレイなのだろうな。
マミヤ……悲しい女よ……。

名言つぶやいても私の声 藤井雪兎
自分の声を名言に値しないものと感じているのか、それともそれをコミュニケーションの道具と考えているために一人の状況では意味のないものと考えているのか。
いずれにしても、この気持ちになったことはない。
名言、警句といったものは実際には役に立つものではないのだから、今生きている「私の声」の方が美しく尊いものだと思う。

磯野家にない二階が暮れている 本間鴨芹
日曜の夜なのだろう。二階建て以上の一軒家にお住まいか。
磯野家にあって我が家にないものは数あれど、二階だけはあるぞ。そんな気持ちであろうか。

知らない人が四回目の出場だ 本間鴨芹
非常におもしろい。良句と思う。
当時の句会での句評は以下の通り。

「たとえどんな偉業であろうと、関心のないものからすれば、こんな感想になる。これを逆の立場に置き換えるならば、今自分がこだわっていること、取り組んでいることも、他人から見ればこのように感じられるということだろう。ただ句にせよ、詩にせよ、本当によい物は無関心なものをも感動させる力を持っているとも思っている。いつかそんな詩や句を生み出したいものだ。しかし、『四回目』は絶妙である。五回以上なら知らなくともすごいと思うだろうし、三回以下なら目に留まらないだろう。おそらく実際の日常を切り取ったのかと思うが、計算ならばおそろしい。」

低きに流れて大河 本間鴨芹
当たり前と思うが、今年何度か遭遇した集中豪雨の際にはこうした気持ちになったものだ。

肺病む父子であり無口 松田畦道
遺伝であろうか。体質であろうか。
元々、父と子との間には必要以上に言葉はいらないものだ。
それでも互いに病気の苦しさをわかっているのだから、無口であっても通じ合うものがあるのだろう。
私が父を亡くしているせいか、苦しさの中にも満足や愛情があるように思えて羨ましささえも覚える景である。

磨り減ったサンダルが火事だといって走る 松田畦道
「磨り減った」ことがなぜわかるのか。音だろうか。
それとも親しい人で、常日頃からそのサンダルを知っているのか。
走る人は裕福ではない。下町の情景であろうか。
美空ひばりの「お祭りマンボ」を思った。
何を言ってもワッショイショイである。

舌だしてもの欲しがってぶさいく 松田畦道
犬であろうか。
パグやブルドッグなど、不細工な犬を特に好む愛好家はいるようだ。
そしてこの句でも「ぶさいく」には愛情が込められていることがわかる。
作者の微笑んでいる様子も見えるようである。



*     *     *



第九回は、私が「鉄塊」に参加した最初の句会である。
今振り返って感慨深いものがある。
以下が私の投句である。

宿るものごと平たい骨を嚥下する 畠働猫
すっからかんだった夜(よ)に雪満ちる 畠働猫
愛も死体も抱いて湖凍りつく 畠働猫

今見ると硬さやこだわりが見て取れて、実に不自由である。
自由律俳句というものを始めたばかりの者が、「鉄塊」という場を通して多少なりとも成長していく様子についても、この先ご覧いただけるかと思う。



今年の更新もこれが最後となりそうです。
迷いながらも拙い連載を21回も続けることができました。
このような機会を与えてくれた馬場古戸暢氏、そして週刊俳句編集者の方々に心より感謝しています。
また、何よりも記事を読んでくださる皆様に深くお礼申し上げます。
すべての人の心に安らぎと平和が訪れること、そして健康をお祈りします。
来年も鋭意、自由律俳句を読んでまいります。
今後ともどうぞよろしくお願いします。



次回は、「鉄塊」を読む〔8〕。

週俳2015年7月のオススメ記事 太宰治のいる風景 小池正博

$
0
0
週俳2015年7月のオススメ記事
太宰治のいる風景

小池正博


太宰治は俳句と関係が深い。連句とはもっと関係が深い。

芭蕉の「古池や」の句について述べた『津軽』の一節はよく知られている。「どぶうん」ではなくて「チャボリ」というやつだ。

『富嶽百景』では「単一表現」の美しさを説いている。このころ太宰は「軽み」について考えていた。

『富嶽百景』の構成が連句的だという人もいるが、『晩年』の冒頭作「葉」ははっきり連句的である。「死のうと思っていた」で始まる小説。この小説は36の断章から構成されている。36といえば歌仙形式ではないか。

さて太宰の忌日が「桜桃忌」。柳本々々は忌日を読む」(本誌第429号)で「桜桃忌」を用いた俳句と川柳を目配りよく論じている。キーワードは「動的」「ぴょんぴょん」「行動」。

「やっとるか」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「よし来た」 (太宰治『パンドラの匣』)

本誌第430号は特集「曾根毅句集花修を読む」。六人が句評している。曾根は鈴木六林男を師として俳句を学んだ。六林男の鞄持ちをしながらいろいろなことを吸収したという。そういう話を曾根から聞いたこともあり、田中亜美もどこかの俳句時評で書いていたと思う。

あと、関悦史の「BLな俳句」(第431号)がおもしろく、馬場古戸暢の「自由律俳句を読む・矢野錆助」(第428号)は自由律の現在を知る意味で注目したが、ともに連載の一部である。

週俳2015年3月のオススメ記事 アーカイブ力(りょく) 荻原裕幸

$
0
0
週俳2015年3月のオススメ記事
アーカイブ力(りょく)

荻原裕幸



個人的な問題かも知れないけど、私の場合、年末に向けてまとめる回顧的な原稿のつらさは、資料をきちんと手元に揃えなければ何もはじまらない、ということに尽きる。歴史を変えるんじゃないかと感じたあの本が出奔したとか、今年いちばんと確信するあの作品の掲載誌が逐電したとか、書斎は小ぶりでも迷宮の奥は深く、ミラクルな発見劇があって、ようやくスタートラインに立つことになるからだ。アーカイブの整った「週刊俳句」の目次を眺めながら、この点でまず、神だな、と思う十二月である。



おすすめ記事を絞りこむため、二〇一五年三月発行の「週刊俳句」を読んでいて、このメディアには、他誌からの転載記事(改稿を含む)が多いとあらためて感じた。三月分を辿っただけでも、橋本直「子規への遡行」、中嶋憲武「ハイクふぃくしょん」、関悦史「BLな俳句」、今井聖「名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫」、上田信治「成分表」等がある。このあたり、オリジナル重視の、商業誌との差異がはっきり見える。ネットならではのアーカイブ力を発揮する「週刊俳句」の特長であろう。いくつかは初出誌で読んでいるのだけど、ラベルを追ってまとめ読みができるのもうれしい。



話がやや逸れている。「週刊俳句」三月のおすすめ記事、である。前述の転載記事については、むろん上位のおすすめのつもりもあって列挙したので、それらはここでの対象から外れてもらうとして、第一に推しておきたいのは、今井聖「情緒安定派の鬼っ子・岡本眸」(第410号2015年3月1日)である。シナリオ執筆という自身のフィールドにあらわれた岡本眸の姿を追うところから話ははじまるものの、俳人論のセオリーみたいなところを避けて、メリーゴーランド方式に岡本の世界を探索した楽しい文章になっている。ネットにはなじまないかもと思うほどの長文ながら、退屈せずにずんずんと読み進められる。末尾の「岡本眸三十句」は、写実とはまた違う意味での、三次元感の強い作品が多くて興味深い。私には、岡本は、かなり抽象感のある文体の人、という先入観があったので、新鮮だった。



短い記事では、西村麒麟「八田木枯の一句」(第414号2015年3月29日)がおすすめである。「引鶴のばさつく音の夜陰かな」の一句鑑賞、と言うか、八田木枯の句における「鶴」をめぐってのエッセイと言うべきか。短いながらも示唆に富んだ文章で、全句集に見られる「鶴」が、人物、と言うか、キャラクターの再登場法的に読める、という指摘もおもしろい。引用句を読むと、たしかに、鶴一般ではなく、この鶴あの鶴感がよく出ていて、これはもう、季題と言うよりも、八田木枯の描くキャラのひとつのように感じられた。



それから、番外的ながら、柳本々々「【川柳訳】Stand by Me - B. E. King」(第410号2015年3月1日)をおすすめしておきたい。一年前の、中山奈々の同趣向をなぞったものだけど、川柳だけでよくまとまっているし、翻訳=選句のクオリティも高い。現代の川柳の小アンソロジーにもなっている。どこか偏愛的ながらも、はっきりとした川柳観につらぬかれているようで快かった。短歌訳もできないかな。やってみようかな。



あと、三月に掲載された三篇の十句作品。これを散文の記事と同列において考えるのは、何かが違う気がするので、最後に、それぞれの十句から、私の好みの作品を各一句引用して終りにする。

 影の木に人間吊るす冬木立/安西篤

 あざらしの水くぐる間の花の昼/渡辺誠一郎

 母にその兄より手紙蕗の花/山西雅子

週俳2015年4月のオススメ記事 リアル 福田若之

$
0
0
週俳2015年4月のオススメ記事
リアル

福田若之



物語の主な登場人物はふたり。本文には、「「セイイチロー、なんか食べたいよう」フウカは私を呼び捨てにする」という記述がある。だから、語り手の名前はセイイチロー。そして、「多分、例のがちゃがちゃ節操の無い毛唐の歌舞音曲、と言ってしまえばにべも無いが、私も一時期毛唐の歌舞音曲に憧れ、自ら演奏していた事もある。「君嶋征一郎とノーザンクライマーズ」と言うロカビリーバンドを組んで、新宿や池袋のジャズ喫茶に出ていたのだ」という記述から、語り手の名前は君嶋征一郎であることが分かる(それが単なる芸名でないとしたら、だけれど)。そして、「フウカは六十歳下の十四歳。孫だ」。



ここでいま紹介しているのは、中嶋憲武の「はいくフィクション」シリーズから、「古い歌



さて、主な登場人物である二人の名前を確認した上で、物語の時間について確認したい。まず、「私は昭和十三年生まれの七十四歳」という記述から、語り手にとっての現在はセイイチローの2012年の誕生日から2013年の誕生日までのいつかだと分かる。そしてさらに、「アーケードの商店街は連休でも関係無いのか、半数の店はシャッターを閉じている」という記述と、「白髪の向う側で公園の葉桜がそよいでいた」という記述から、語られているのはゴールデンウィークの出来事であることが分かる。したがって、これは2012年か2013年のゴールデンウィークの話なのだ。

さらに、セイイチローによれば、「我々はドーナツ屋に入った」のだが、そこでフウカが「ここのポイントカード、もうすぐ終了なんだね」と言っている。連休中は商店街の半数の店が休んでいるにもかかわらず開店しているこのドーナツ屋は、おそらくチェーン店かあるいはフランチャイズ店だろうと推測される。そこで少し調べてみると、現実世界では、ミスタードーナツのポイントカードが2013年の9月に終了している。

だから、この物語の舞台設定が現実に基づいているとすれば、この物語の時間は2013年の5月に設定されているとみておそらく間違いないだろう。そして、この物語の舞台設定がかなりの程度現実に基づいているということは、この物語に複数の現実の歌手、バンドおよび楽曲の名が登場することからも明らかだ。また、この推測は「『炎環』2013年10月号より転載」という初出の表記に照らしても、合点のいくことに思える。

けれど、どうやら、ミスタードーナツのポイントカードが終了することが発表されたのは、2013年の7月の半ば頃のようなのだ。要するに、現実世界の2013年5月の僕らは、ミスタードーナツのポイントカードが9月に終了することを知るよしもなかったはずなのである。だから、このドーナツ屋がもしミスタードーナツなのだとしたら、フウカは現実には知りえなかったことを知っているということになる。

要するに、ここには、おそらく2013年の7月の半ばより後、2013年10月までのあいだにこの文章を書いた中嶋憲武の生きた現実が、それとないかたちで、けれど同時に、ありありと生々しく、刻印されているのだった。

ゴールデンウィークという時期の設定が、本文の末尾に引用された〈葉ざくらやどこへ行くにも野球帽〉(細川和子)に基づいてなされたものであることは明らかだ。きっと、句を読むことで思い起こされた二、三ヶ月ほど前の初夏の街の記憶がもとになって、この文章は書かれたのだろう。そこに、おそらく、つい最近のドーナツ屋のお知らせの記憶がふっと混ざりこんだのだ。書き手の生きた時間がこんなふうに文章にあらわれることを人によってはフィクションの綻びとみなすかもしれないけれど、僕には、それはとても俳句的で、とても尊いことに思える。

週俳2015年6月のオススメ記事 リロードしながら 田中惣一郎

$
0
0
週俳2015年6月のオススメ記事
リロードしながら

田中惣一郎



週刊俳句にハマって読みふけった人ならば誰もが経験したことがあるだろう、週俳の配信される日曜が楽しみでいてもたってもいられない病に私がかかったのはこの辺りの時期だった。日付が変わって記事がアップされ出すのを、今かとトップページをリロードしながら待っていて読んだことを覚えている。

第424号では、4月に刊行された北大路翼の句集『天使の涎』の特集が組まれていて、多くの人が彼の句や人となり、あるいは彼が根城にしている新宿について語っていてどれも興味深い。

中でも、自身の個人的な体験を通して新宿歌舞伎町という町の光景を伝える倉野いち。「わたしは北大路翼ファンを減らすようなけなし方をしたいし、サイテーな氏を白日の下に晒したい」と言いながらも「北大路翼はまちがいなく俳壇最高のクズ作家だ」と書いていく筆致になんだか愛のようなものを感じないでもない五十嵐箏曲。そしてパンクロックを引き合いに、俳句を知らない人をも惹き付ける翼句の力を書く喪字男は、富澤赤黄男が「クロノスの舌」で書いた「蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない」という印象的な一節の「蝶」をしれっと「うんこ」に変換して句評を広げていて大変痛快だ。喪字男は次々週第426号に十句作品「秘密兵器が掲載されていて、〈おもひでに網戸の穴をくはへておく 喪字男〉などじわりと切ない気分になる句がある。

ざっと読んだだけでもくせのある人たちだと何となく分かるこんな面々の集まってくる北大路翼という人間を思うと甘いような苦いようなもやもやした気持ちに覆われて、またしても『天使の涎』を読み返せばもうなにもかもどうでも良くなって気持ちよくならせてくれるナイスな特集。

第425号には福田若之による村上鞆彦句集『遅日の岸』評。(余談だが村上鞆彦氏は北大路翼氏と仲が良いらしく、もの静かで上品な雰囲気のある鞆彦氏がお酒を飲んで歌舞伎町に繰り出し砂の城での句会に参加していることが度々あると聞く。ぜひともその場に同席してみたい。)

「村上鞆彦『遅日の岸』(ふらんす堂、2015年)にはさまざまな鳥が登場するが、それらの鳥は、どれも一様に、ある動きを決定的に封じられている。それは、上昇すること、飛び上がることである。」とはじまるこの文章で福田は村上鞆彦の句に現れる動物や運動をとりあげてその特徴を論じていく。一句鑑賞など、句をあげてその句について意味や叙法などを読み解くものはよくみかけるが、この句集評はもっと大局的に、句に現れるモチーフや描かれる空間などから村上鞆彦作品の表す世界を明らかにする刺激的な文章だ。

また、6月は毎週4回に分けて小津夜景による俳句誌「オルガン」評が連載されている。「オルガン」は2015年春に生駒大祐、田島健一、鴇田智哉、宮本佳世乃の四人によって創刊された同人誌で、その創刊号における4人の作品それぞれの作品を、テクニカルな小津節で解剖する読み応えのあるもの。田島健一を取り上げた第一回で〈ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一〉に含まれる要素を分解する真面目ぶりの徹底が笑える。生駒大祐に見られる句の構造へのこだわりを柳本々々の文体模写をしつつ語る第二回も非常に愉快。「科挙の答案か!?」というツッコミ、使ってみたい。

文体を真似られた柳本々々にしてもそうだが、彼らのように、俳句について語るとき、俳句以外のジャンルのものを存分に絡めていきいきと語っている文章を総合誌などではとんと見かけないので、その啓蒙臭のなさという一つをとっても、何か風通しがよく感じて心地よい。

第426号、柳本々々は、話の核に不条理界のパイオニア、メルヴィルの『代書人バートルビー』を据えて、「なんにもしない」ことを書いた句について書いていく。できるけれどやらない、そしてそれをきっぱりと主張するバートルビーの「できればそうせずにすめばありがたいのですが」の台詞に象徴される「あらゆる〈枠組み〉を〈さておいて〉なんにもしないでいること」を俳句の中に見、俳句はそれを書ける形式なのではないかと言う、朦朧としているようで、けれど不意に強く迫ってくる、柳本さんの語り口もまた「積極的なバートルビー」的なのではないかとも、おもうのです。

6月最終週、第427号は福田若之何か書かれて』15句。言葉を巡る複雑かつ繊細な作品。

  名が鳥を仏法僧にして発たす 福田若之

  何も書かなければここに蚊もいない 同

のように、ことばが生まれる瞬間がじかに体感されるようなものや、

  読むことに伴うまばたきと西日 同

の、書かれた言葉がありそれを読むという、言葉と向かい合う意識に肉体がつきまとってくるけだるさが、また言葉となって現れる重層的な句など、全体に周到な意匠が凝らされていて多彩。

またこの週は福田の評論も掲載されていて、これも読み応えがある。石田波郷『風切』所収の〈霜柱俳句は切字響きけり 石田波郷〉の一句を丹念に読み解き、切れ字とは何か、あるいは文字と音との関係について丁寧な考察がなされている。

週俳2015年8月のオススメ記事 ねっとりと 黒岩徳将

$
0
0
週俳2015年8月のオススメ記事
ねっとりと

黒岩徳将



福田若之 時計と言葉とそれらがほんとであるということ 『久保田万太郎句集』の一句


時計屋の時計春の夜どれがほんと 久保田万太郎 を私が初めて読んだのは山本健吉の季寄せだった。句の中における「春の夜」の位置づけがとても新鮮で、以来何度も口ずさんだ。
福田の評は、時計=相対的なものという指摘にとどまらず、「季語が時計」であるという点が新しい。
通常、季語として読まれる言葉は春夏秋冬あるいは新年のいずれかを約束事に従って指し示し、また、そのことによって時間を間接的に表す。われわれもよく知っているように、これこそ季語の定義にほかならない。そして、季語のこの性質は、時計が時刻を指し示し、そのことで時間を間接的に表すのと同じである。したがって、季語は時計に似ているのではない。季語とは時計なのである。仮にその時計が止まってしまっているのだとしても、そうなのだ。
そして、「春の夜」という言葉もまた時計だというのであれば、「ほんと」なのか分からないのは、もはや、時計屋の時計ばかりではないということになるだろう。時計屋の時計、「春の夜」、どれが「ほんと」なのだろうか。
ここで、筆者にとっての万太郎句の新しい鑑賞が提示された。筆者が最初に読んだ時点では、「どれがほんと」の「どれ」は「時計屋の時計」を指しており、真ん中に置かれた「春の夜」はあたりを包みこむ空気の設定として置かれているだけだと感じていた。ところが、「季語=時計」論を先に提示した福田は、「春の夜」も「ほんと」なのかどうかの俎上に置かれるという。すると、今度は「ほんと」とはなんなのか、ということが頭をよぎる。
名句はいくつもの引き金を持っているということを思わされる記事であった。


小津夜景 草笛を手放して 竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』を読む 

『ふるさとのはつこひ』は筆者は未読だが、「もはや古典の範疇ともいえるSF戦闘アニメの要素をひっそりと底に秘めた」と言われても、特定の映像作品を下敷きにして、引用されている竹岡句を読み進めることができなかった。しかし、「この手の句というのは、俳句業界では奇抜の範疇に入るのだろうか」(私には見当がつかない)とあるように、こういった試みをやることで「季語」や「俳句」、「定型」(竹岡句は定型を十分意識はしているが)といった既成概念に他ジャンルの手法を用いてゆさぶりをかけつづけていただきたいとは強く思う。筆者は、ファンタジーは俳句形式には不向きではないのか、と常々思っていたがこういったやり方もあるのだ。俳句を嗜む10代の少年少女、20年の青年等にはSF戦闘アニメを好むものもいると思うが、彼等彼女等がSF戦闘アニメの色を帯びた俳句を作り、大人達から見向きもされなかった経験が存在する可能性がある。そういった若者達が竹岡句と小津の評を読むと何を感じるのだろうか、そんなことを思った。


今井聖 名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫(12) 短夜や乳ぜり泣く児を須可焉乎 竹下しづの女

「通念や倫理に捉われるな」という今井のぶれない論が、この句を通すととてもわかりやすく理解できる。

「教科書的」な教師俳句を批判する今井の論を読むと、《曼珠沙華手に学校を消す呪文 今井聖》をいつも思い出す。

  ●

八月らしく、良い意味でねっとりとした文章と素材が多かったように思われる。

週俳2015年12月のオススメ記事 ねぼけたはなし。 小津夜景

$
0
0
週俳2015年12月のオススメ記事
ねぼけたはなし。

小津夜景



中嶋憲武 握手〔ハイクふぃくしょん〕 第450号

週刊俳句は日曜日のマガジンゆえ、休日っぽい香りを醸し出している書き手がいると読者としてたいへん満ち足りた気分になる。記事のスタイルは、硬派でも軟派でもどちらでもかまわない。ただどこかしら日常とかけ離れた、純粋な無用さが感じられるとうれしい。

この基準から言って、いつも香り高い書き手といえるのが中嶋憲武氏である。氏の文体に備わるホリデー情緒はなかなか真似できるものではない。「握手」もコーヒーブレイク感覚あふれる掌編で、女の子の屈託ないかわいらしさもいつもながら。ちなみに、コーヒーブレイクの効果をとあるサイトでしらべると、

1 香りを嗅ぐだけでストレスを軽減できる
2 パーキンソン病の予防になる
3 幸福感が得られる
4 脳が健全に働くのを助ける
5 さらに賢くなれる

他いろいろあるようだが、氏の文章からは、まさにこの通りの体感が得られます。凄いね。


西原天気 スケールが引き起こすもの 矢野玲奈句集『森を離れて』の一句 第452号

12月の西原氏については、第451号の飯田冬眞氏の句集評がまずもって興味ぶかい。ただし感興という点では、平日に読んでも変化がなさそうだ。それに比べて、矢野玲奈氏の句集評の方には、無聊な時間にふわっと浮かんだ着想さながらの、素敵なたわいなさがある。「あのね・こんなこと思いついたんだけど……」といった声のきこえてきそうな内容が微笑ましい。よってこちらをオススメ。


相子智恵 月曜日の定食 10句  第451号
関悦史 水曜日の変容 10句  第451号
樋口由紀子 兼題「金曜日」 10句  第451号

相子智恵、関悦史、樋口由紀子の三氏による共演作品にも注目しなければならない。というのも、この三氏はウラハイの方でそれぞれ月曜、水曜、金曜の句評を担当している訳でですね、この「ふだんは平日連載のウラ・グループが、 オモテ側へ連れ立ってお邪魔してみる」といった特別版的趣向が、もうあからさまに休業日っぽいじゃないですか。

嵌めて鳴る革手袋や月曜来  相子智恵

ふつう革手袋というのは、そうそう音が鳴ったりしない。そう、しないのだが、この句の登場人物はいかにもドラマのごとく、絶妙のタイミングで「きゅっ」と鳴っちゃうんである(きっと作中の人物が美人設定なのだろう)。そしてこの演出こそが「月曜日」の始動感覚と作中人物の凛とした佇まいとを、手際よく表現する要となっているのは見ての通りだ。さらに言えば、明瞭で引き締まった文体も句の光景にぴったり。見つめていると自分まで清々しい女性になったかのような、さわやかな妄想に浸れる句。

輪郭のうすれて冷えて水曜日   関悦史

関氏おなじみの変容もの。つかみどころのないグレーゾンに半分足をつっこんだ句で、まさに本人をそのままキャラ化したようだ。これを読んで感じたのは、氏の作風の「中間性」ないし「半人半幽」的な気配と「水曜日」というのはすごく相性がいいんだな、ということ。今まで考えたこともなかったけれど、この日は一週間の中でいちばん磁場が不安定なのかもしれない。週のはじまりからもおわりからも隔たった場所での、感じるともない微妙な心もとなさが味わえる句。

あの川を金曜日と呼ぶことに  樋口由紀子

月曜日の颯爽ムード、あるいは水曜日の漠然ムードから一転して、樋口氏の「金曜日」は「番外日ゾーン」のオーラ満載である。作者と「金曜日」とのあいだの「関係の絶対性」をラジカルにつきつめていった結果、あえなく「金曜日」が作者に刺し殺されてしまい、どこにも存在してはいけない謎の物体X像(イマージュX)としてゆらりと化けた風にもみえる。

この十句は連作としても読みごたえがあり、またいずれの句においても「金曜日」が鵺的スポットとして機能しているようだ。個人的には「結婚の練習をする金曜日」なんかすごく怖かった。批評精神がほとばしっている。こういう感じ、俳人が書くのは稀なんだろうな。少なくとも、ホリデー情緒とか、デイリー情緒とか、そんな眠たい話をしている自分は一生川柳人にはなれそうもない。

週俳2015年9月のオススメ記事 お尻ならなおさら  三木基史

$
0
0
週俳2015年9月のオススメ記事
お尻ならなおさら

三木基史



週刊俳句は何らかの形でゆるーく関わっている人の多さが魅力。そのため掲載される記事の書き方にも自然とバラつきがあるし、硬派も軟派も楽しめる。

読み物としては軟派(内容ではなく書き方が優しいという意味で)を好む私としては、今井聖氏の『名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫と畠働猫氏の『「尾崎放哉・種田山頭火」を読む』(1 2 3)には楽しませてもらっている。とくに、2015年9月6日号に掲載された畠働猫氏の記事は面白かった。記事の導入部で畠働猫氏は乳房について《自分自身はそこまで思い入れはなく、あれば揉む程度で、なければないで特に困ることはない。》とクールにおっしゃっているが本当だろうか。格好つけてはないだろうか。私なら絶対むしゃぶりつきたい、お尻ならなおさらだ……。最低だ。公共の場で、しかも本名で。嗚呼、家族にゴメンナサイ。

さて、記事の内容だが《すばらしい乳房だ蚊が居る 尾崎放哉》《ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯 種田山頭火》を皮切りに、乳房とちんぽこが詠まれた放哉と山頭火の句が並ぶ。《「性」とは、もっと根源的なものであり、人間存在の根本にかかわる問題であろうと思う。》で始まり、抑圧や禁忌の対象ともされてきた「性」は芸術とは切っても切れないものであり、自由律俳句でも自由に試行錯誤してほしいと締められている。

女乞食の大きな乳房かな  尾崎放哉
波へ乳の辺まではいつて女よ  尾崎放哉
お椀を伏せたやうな乳房むくむくもり上る白雲  尾崎放哉
秋暑いをんなだが乳房もあらはに  種田山頭火
日だまりの牛の乳房  種田山頭火
ごくごくおっぱい おいしからう  種田山頭火
霜へちんぽこからいさましく  種田山頭火

しかしながら、私は畠働猫氏の挙げられたそれらの句から「性」をそれほど意識しなかった。作中では確かに放哉や山頭火の目は乳房やちんぽこにクローズアップされてはいるが、それは性的な眼差しなのだろうか。私は「性」より「生」を感じる。作中の主人公が生きている象徴として。あっそうか、それが「性」に深いところで繋がっているのかも。

週俳2015年1月のオススメ記事 読み書きの堆積 西原天気

$
0
0
週俳2015年1月のオススメ記事
読み書きの堆積

西原天気



越年となったシリーズ【2014角川俳句賞 落選展を読む】(依光陽子)の最終回「5.書き続けるしかない」は第405号
全て、未知なる俳句に出会たいという我儘な欲求と、何よりも生涯不変の俳句愛に拠るものである。そぐわない事を書いたかもしれないが、そこは読者や作者の寛大さに委ねどうかご容赦頂きたい。当初の予想通り、書いた内容は全て私自身に跳ね返って来ており、妥協せず作句することはますます困難になりそうである。しかし書き続けるしかないのだ。(依光陽子)
バックナンバーを並べておくと、

≫0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で
≫2. 何を書きたいか
≫3.みんなおなじで、みんないい?

同号からは、田島健一「【2014石田波郷新人賞落選展を読む】思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章」が始まり、併せて「2014石田波郷新人賞受賞作を読む」(小池康生佐藤文香)。

また、じつに10回を重ねたシリーズ【鴇田智哉をよむ】(小津夜景)の第7回「息する影」も。


書かれたものが読まれ、書かれ、そしてまた読まれ……。〈書く〉ことの企てと〈読む〉ことは、たがいに他方(のみ)によって支えられているのかもしれません。

週俳2015年2月のオススメ記事 失われた身体を捜さない 青本柚紀

$
0
0
週俳2015年2月のオススメ記事
失われた身体を捜さない

青本柚紀



覚醒しきらない体で、部屋を見渡す。イヤホンをつけて、新宿を歩く。吊革を握り、音楽を聞きながら、液晶画面を見る。こういったとき、目の前のものたちは確かにあるはずなのに、どこか遠くにあるように、触ってみてもつるりとした感触しか残さないかのように見える。

柳本々々の《ぼんやりを読む ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)》では、鴇田智哉の〈毛布から白いテレビを見てゐたり〉という俳句と石原ユキオのゾンビ俳句において、主体が「気散じ」または「身散じ」の状態にある「ゾンビ的ぼんやり身体」の持ち主であることが指摘されている。また、このような状態から〈見る〉ことは〈触感〉を持たないが、〈触感〉としての〈実感〉は横たわるからだや、朽ちていく非身体的なものとして見ることが立ち上げられているのだという。さらに、身体と〈見る〉ことの関係性を挙げたうえで近代的な〈見る〉ことのスタンダードは〈歩く〉ことだが、毛布に横たわる観察者も、体が朽ちていく観察者も、近代的な〈正しい〉観察者になれず、つまりそこには直立歩行の観察者としての〈写生〉の挫折があり、そこからの、〈ぼんやり〉の提唱があるとする。そして、《ぼんやり》を俳句的領域に立ち上げることこそが鴇田智哉や石原ユキオがゾンビ的身体で成し遂げたことだと述べられている。

音楽を聞きながら、喋りながら、テレビを見ながら――見ることに限らず、別のことをしながら何かをするということが現代の生活では普通のことになろうとしている。それは、常に「気散じ」や「身散じ」の状態にあるということで、我々の〈身体〉も純粋に〈見る〉ということも失われたということと等しい。

俳句は多くの場合、視覚的情報によって書かれる。当たり前だけれど、〈見る〉ことは〈書く〉ことに直結する。生活のなかで〈見る〉ことが変質しつつある中では、〈書く〉ことや。書くことでなにを立ち上げるか、ということも考えなおす必要があるのかもしれない。そのとき、この記事からひとつの方向性が見えてくる。それは、〈写生〉の挫折を受け入れて、ぼんやりとした身体の持ち主として書くことだ。もちろん、純粋に〈見る〉ことを取り戻す努力をするという方向性もあるし、どうしてその挫折を受け入れてしまうのかという人もいるだろう。が、やはり〈写生〉の挫折を受け入れた上で書く、ということがひとつの方向性としてあってもいいのではないか。どちらも、失われつつある身体性の自覚や、書くためにもがくことを同じぐらい求める方向性であろうから。

週俳2015年10月のオススメ記事 「書く」における「こと」性とそのほか 宮﨑莉々香

$
0
0
週俳2015年10月のオススメ記事
「書く」における「こと」性とそのほか

宮﨑莉々香



はじめに

10月のオススメ記事を紹介する。まずは第444号、小津夜景氏の『セックスと森と、カール・マルクス。 柳本々々を読む』。わたしはこの記事の詳しい紹介を書くことは出来ませんでしたが、髭=森=性のテクストの取り扱いが実に興味深いです。みなさんも是非に。

わたしが考えたのは第443号の小野裕三氏『俳人たちはどのように俳句を「書いて」きたか?〝ぐちゃぐちゃモード〟の系譜とデジタル化の波』である。小野氏は、俳句における「書く」という行為と書き方について述べている。それを受けて、俳句における「書く」ことについて考えた。


俳句を書くことは「もの」的か「こと」的か

わたしたちはまず、俳句における「書く」ことを考えなければならない。句帳に書くことが「書く」ことにあたるとして、ぐちゃぐちゃモードで書くことが「書く」であるのか、きれいに書くことが「書く」であるのか。吟行のように、紙(句帳)とペンを携帯して、その場で書きつけることもあれば、作った俳句を記憶するために、清書することもあるかもしれない。ここでは、ぐちゃぐちゃモードで「書く」のは、「こと」的であるのに対し、清書のようにきれいに「書く」のは「もの」的であると定義したい。

現在までさまざまな、「もの」「こと」論が俎上に上げられている。はじめに、「もの」と「こと」に関しての事象を挙げる。大野晋氏は『日本語をさかのぼる』において以下のように述べている。
コトが、時間的に推移し、進行して行く出来事や行為を指すに対して、モノの指す対象は、時間的経過に伴う変化がない。存在としてそのまま不変である。 『日本語をさかのぼる』大野晋(岩波新書 1974年)
「もの」「こと」について述べている一人に荒木博之氏もいるが、『日本語をさかのぼる』刊行の五年後に著作において大野氏同様の考え方を示している。ぐちゃぐちゃモードの「書く」は句帳に自由に言葉を構築することができ、俳句自体のかたちが変化する可能性を含んでいる。一方で、清書として「書く」は、ほぼ不変的な完成された「もの」的行為であると言える。「もの」としての「書く」には記憶される特性が含まれるが、ある一定のかたちで保存されるということは「こと」としての「書く」には含まれない。俳句を「書く」時、まず「こと」としての「書く」があり、「もの」としての「書く」がある。確かに例外もあろうが、そのような順序で俳句の「書く」行為は為されているのではないだろうか。小野裕三氏は若い人はどうなのだろうと書いてあったが、わたし自身は外に出て俳句をつくる根っからの吟行派で、A5サイズの俳句ノートに青いペンで書きつける。その後、いちおうに「もの」化したそれらを、パソコンに「もの」的に保存している。少し話は広がってしまうが、「こと」から「もの」への変化の例として、「こと」であった作品(俳句)が印刷され、句集や結社誌、同人誌など活字化され「もの」になる事象がある。


「書く」に関して考えること

なぜ、旧仮名人口のほうが多いのか。よく言われることがある。現代仮名遣いで俳句を書こうとすると漢字をひらくという行為は旧仮名遣いよりも少ないのではないだろうか。例えば、「みづ」にした方が、言葉のやわらかさが出ていい感じになるからとか、旧仮名の方が自分の読みたい内容に合っているからと言う人がいるが、わたしは、すんなり納得することができず、なんだかもどかしい気持ちがする。

「書く」ことで「もの」自体に、ニュアンスとしての差異が生じるというのは理解できるが、わたしたちが見ているのは「もの」としての「水」であって、「水」でしかない。すると、「みづ」に変換するよりも「もの」としての「水」をそのまま詩に受け継いだ「水」の方が幾分かリアルな感覚を覚えるではないだろうかと、こう考えるわけである。それでも、たしかに〈上着着てゐても木の葉のあふれ出す〉とあるように、うねりを帯びた「ゐ」の存在感や旧仮名の持つ、どくとくの感覚は、鴇田智哉氏の作家性を象徴しているようにも思う。鴇田智哉の俳句は「ゐ」的だ。自分の思っていることが、旧仮名で俳句を受け取った時の感覚に近いと感じた時、わたしたちは旧仮名で書き、反対に、現代仮名の俳句に近いと感じた時、現代仮名で書くのだろうか。気づいた時には「ちひさい」と句帳に書き留めてある。わたしたちは、そのものを見たときから、ものを「小さい」もしくは「ちいさい」でなく、「ちひさい」と感じるのか。それでも、「もの」である「水」を受け取るときは「みづ」でなく「水」である。対象が「もの」であるかないかの違いもあるが、私たちが目にした「こと」(ことがら)に「書く」という行為、つまり旧仮名使いフィルターもしくは、現代仮名遣いフィルターを通すことによって俳句ができる。どちらのフィルターを使うかは、そのひとがどのように俳句を書きたいかによるが、現代仮名遣いの持つ、リアリティーに憧れることがわたしには時々ある。しかし、旧仮名遣いでは、「書く」という行為によって書こうとする「こと」(事象)が「もの」(作品)になった際に、「こと」から「もの」への差異化を現代仮名遣いよりも大きく図ることができる。それはまた、作品と作家を一緒に鑑賞されることが多い俳句において、微々ながらも「作家性」を生み出す行為であると捉えることもできるだろう。


「書く」とは

「書く」行為は記憶することだと言われることが多い。しかし、「こと」的な「書く」が俳句には存在し、書くという行為の中にはつくりだす行為がふくまれている。それは俳句の手軽さでもあり、親しみやすさでもある。その上で、わたしたちはどのように「書く」か、考えらされる。

柳本々々さんに聞きました 季語のこと、定型のこと、勇気のこと

$
0
0
柳本々々さんに聞きました
季語のこと、定型のこと、勇気のこと

聞き手:西原天気


季語はこわい

天気▼
柳本さんは、短歌、川柳、俳句と、幅広く、懐深く、読み、批評されていますが、実作では、短歌と川柳です。俳句を実作されないのは、なにか理由があるのですか? 

柳本▼
俳句における季語っていうものがとても〈こわい〉ものだという意識があります。

季語はどこか超越的で、俳句の感想を書いているときでもそうなのですが、すごく自分をにらみつけているきがするんですよ。お寺の入口にいる「あ・うん」の仁王像みたいに俳句のなかに入ろうとすると季語の洗礼を受けなければならない。自分はよく勝手なことをするので、季語に怒られる気がするんです。

もちろん、短歌や川柳も〈定型〉というこわさがあります。定型もどこか超越的なので(だから短歌も川柳も「こわい」と思いながらいつもつくっています。もし落語化するなら「定型こわい」になるはずです)、でも、季語はもっと、こわい。

俳句の感想を書いても、「おまえはわかっていない!」って一喝されたら、季語があるから有無をいえない感じがあります。その意味で、ちょっと俳句にはカフカの小説のような〈無能力感〉を感じるときもあります。

天気▼たしかに、叱る人はいそうです。「季語の本意」とかなんとか、ほとんど口癖のようになっている人もいますから。

柳本▼
でも、西原さんとお話させていただいたときに、俳句や季語という形式のなかで〈にもかかわらず〉どんな〈ヘンなこと〉ができるかを試してみたい、と西原さんが、たしかおっしゃったときに、少しだけですが季語の質感が自分にとってはわかったような気持ちになったところがありました。もしそういうふうに〈とっくみあうもの〉としての季語ならば、季語っていうのは面白くなるかもしれないと。

天気▼
今年2015年の9月、大阪での『川柳カード』第3回大会で初めてお会いしたときの雑談ですね。憶えています。ただ、私が言いたかったのは、有季定型・文語体の俳句で「ヘンなこと」がしたいということでした。いっけん俳句らしい、ふつうの顔をしていて、じつはヘン、といった句。なかなか実現できないのは不徳のいたすところです。たんに自作のめざすスタイルということだったのですが、「俳句」と枠組をひろげると、根本的な話になりますね。

あの雑談のとき、柳本さんは「ノイズ」という語をあげて、季語の話をされたと記憶しています。「おもしろいな」と思ったのですが、なにしろ懇親会での立ち話ですから、それ以上、聞けなかった。「ノイズ」について、もうすこし説明していただけますか?

柳本▼
「2020年の啄木忌」という川柳連作のなかで《マスオさんが着るABC浴衣 啄木忌》という句をつくったことがあるんですが、自分にとってこの「啄木忌」っていうのは「2020年」と書いたようにある意味で時間のどこにもない場所のフィクショナルなもので未来にあるようなものなんです、いまだやってきてはいない2020年に啄木がもう一度死ぬというような。 でも「啄木忌」は春の季語で、「浴衣」は夏の季語だからもしここで季語を意識するとそれはノイズが生じてしまうとおもうんですよ。ショートするというか。たぶんじぶんのやりたいのは時間が錯綜してるような空間だとおもうんです。

けれど、季語は定点としての碇を降ろすようにいってくる。〈いま・ここ〉を決めろ、と。

短歌や川柳では時間が錯綜してる場所もあらわせるような気がするけれど(小津夜景さんが川柳はSF的だとおっしゃったのはそういうところもあるのかもしれない)、季語はそれを許してくれないような気がするんです。

それをじぶんがあらわすならば季語は〈ノイズ〉ということになるようにおもうんです。あんまり時空をじぶんかってにはさせないよというか。ここにいなよ、と肩をがっしりつかまれるというか。

たださいきんは、季語が生成してる時空間のありかたというか、季語しかつくることのできない磁場みたいなものもあるのかなと考えたりしています。それはシュウハイを読み続けていて、いろんな俳句のカタチを教えていただいたということもあります。

季語ひとつでも金原まさ子さん、関悦史さん、鴇田智哉さん、田島健一さん、石原ユキオさんなど数え切れないくらいほんとうにいろんな俳句の時空のありかたがある。俳句は俳句だけではない、というか。俳句は未知の動きをし続けている、というか。季語はときにアクロバティックだし、すごいなとおもいます。

だから今あらためて思うのは、〈ノイズ〉というのは分節が変わってくれば〈音〉になるということです。ノイズはいつでも自分次第で聴き方次第で変化する可能性を秘めてるとおもいます。自分にとってノイズとはそういう可能態なんだとおもいます。

天気▼
音の比喩、音楽の比喩、たいへん興味深いですね。

多くの俳句にとって、季語は一句の調和のなかの鍵音のような存在で、不協和音ではない。それに対して、ある種の俳人は、季語という俳句の規則を、いわば逆手にとってノイズをつくりだそうとしているのかもしれません。

そこで話を少し変えるのですが、せっかくですから、自作として挙げていただいた《マスオさんが着るABC浴衣 啄木忌》 という句をとっかかりにして。

この句、〔ますおさんがきる/ええびいしいゆかた/たくぼくき〕=〔895〕の音数になっています。575ではない。柳本さんはこれもやはり定型としてつくられているはずで、そうすると、いわゆる575定型には収まりきらない、というか、別の定型観をお持ちのような気がします。

定型はアメーバ

柳本▼
いまあらためて自分の定型観を問われてぱっと思い出したのですが、自分がはじめて定型に〈きちんと〉興味をもったのが、斉藤斎藤さんの歌集『渡辺のわたし』や柳谷あゆみさんの歌集『ダマスカスへ行く』を読んだときだったんです。

それまで短歌は〔57577〕の世界しかないしその範囲内でしか表現はしていけないと思っていたのに、斉藤さんの歌も柳谷さんの歌もどういうふうに定型として分節していいかまったくわからないような歌ばかりだったんです。《誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる/斉藤斎藤》や《わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか/柳谷あゆみ》。
それがとてもショックでした。長いことかけてひとつの惑星に馴致していたのに、とつぜん違う惑星に暴力的に放り込まれたような。そっちょくに、おののいたんです。

後に雑誌の鼎談のなかで斉藤斎藤さんが定型は指を折って数えるようなものじゃないというようなことをたしか言われていて、少しそのこととも関係しているのかなと思いました。飯田有子さんの《たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔》という短歌や普川素床さんの《ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った》という川柳もそうです。どうなっているんだ、なにが起こっているんだという衝撃です。定型が怪物的に感じられた。

そういう〈不安な遭遇〉から定型についていろいろ考えているうちに定型というのは《心理的》に表出される部分もあるのではないかと思いました。〈この歌/句に限ってはそうならざるをえない〉場合があるのではないか。そうやって定型は読み手をも巻き込んでいくときがあるのではないか。この状況をいっしょに考えてほしいと。

たとえば非常な不安感や尋常ならざる状況ではどうしても定型が物質的な音素ではなく、心理的な音素によって構築されていったりとか。時間や場所が揺らいでいる場所では定型もゆがんでいたりだとか。すごく大きな言語化できないような出来事は定型にきちっとおさまることがむしろ不自然だったりする。むしろ〈定型にそれがおさまってしまうこと〉を読み手に問いかけたりする。言語と定型と出来事の関係はどうなっているのかと。

そんなふうに〔57577〕や〔575〕を志向しながらも〔57577〕や〔575〕になることのできなかった定型詩がある。でもそれも定型詩なんですよね。定型じゃないのに定型詩である短歌や川柳、俳句がある。定型はアメーバのように生長している。定型も〈いきもの〉なんだって思ったんです。定型器官、というか。定型機械、というか。

天気▼
何を定型とするか。そのへんは微妙ですね。

誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる/斉藤斎藤
わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか/柳谷あゆみ

このふたつ、定型の感じ(定型感)という点で異なりはしますが、どちらにも定型は感じます。前者は、〔誰もいなく・なってホームで・ガッツポーズ・するわたくしの・ガッツあふれる〕で〔67677〕。定型感がきわめて強い。後者は、前者のような「575との接点」が見出しにくいのですが、〔何故いま連打するのだろうか〕の〔77〕の箇所で、がぜん定型感が出ますね。ちなみに、私も指で音数を数えないタイプです。

柳本▼
たしかに西原さんのおっしゃるとおりで、定型感があると言われればそうなんです。今だとわかるんです。実は歌集を見直していてわかったんですが、今だと斉藤さんや柳谷さんのどの歌も自分にとっては〈定型感〉があるんです。だから例を出そうとして歌集を読み返していてちょっと困ったんです。読んでいてなんとなく定型感を感じるようになっていたので。ところが最初のときは〔57577〕そのままが定型だとおもっているので、どうしてこんな定型ができちゃうんだろうということが不思議だったんです。

西原さんがおっしゃるような「誰もいなく・なってホームで」という分節ができなかった。「誰もいなくなって・ホームで」でつまずいてしまうというか。だから定型も経験値をつんでいくうちに定型特有の〈生理〉のようなものがわかってくるのかもしれません。分節感覚というのか、定型を定型化できるだけのリズム感覚というか。スキップができるひとにはできるけれど、できないひとには案外むずかしいみたいな、そういうのと似ているかもしれません。そうするとありふれた言い方ですが、定型って身体化とも結びついてきますね。どれくらい定型が身体化しているかはおのおので違う。

天気▼
いずれにせよ、定型を杓子定規に考えないわけですね。そこは私も同じです。例えば、「これは定型ではない」と《否定的》に判断する短歌・川柳・俳句はどれか? といった観点から境界線を探し、臨界点を探してみるのも、おもしろいかもしれません。もっとも、「《心理的》に表出」されるとする柳本さんの見解では、「定型ではない短歌・川柳・俳句」は存在しないかもしれませんが。

ところで、柳本さんは、『川柳カード』大会での小池さんとの対談の折、「幾つになっても不健全でいられる文芸ってあまりないと思うんです。それは定型が救ってくれていると思うんです。定型が饒舌を許さない。不健全は小説だと不健全すぎることになりますが、定型だと健やかさがありながら不健全でいられる」とおっしゃっています。このときの「定型」と、さきほどの「アメーバのように生長している」「〈いきもの〉」としての定型は、同じですか。それとも、違うニュアンスですか。

柳本▼
『川柳カード』大会のときの定型といまお話ししていた定型は違うふうに使っていると思います。定型っていろんな方向からとらえることができるし、たぶん小池さんとあのとき話すあの場所での定型と、いま西原さんとお話して考える定型では違ってくるように思うんです(というか西原さんから指摘していただくことで、いまそう思いました)。だからそのときは川柳大会という〈場〉で小池正博さんとの対話を通しての〈パブリックな定型〉を考えようとしていて、今はシュウハイインタビューという〈場〉における西原天気さんを通しての〈私的な・じぶんにとっての定型〉を考えていたように思います。だから定型よりも定型観じたいがじぶんにとってはアメーバのように伸長するものなのかもしれません。なにか新しい問いかけや一首や一句をみたときにまた変わっていくもの、というか。

天気▼
コンテクストによって「定型」は変わる。まさしくアメーバですね。

音数やらノイズやらの話をしたせいでしょうか。音楽のことを聞きたくなりました。お好きな音楽ジャンル、ミュージシャンは?

柳本▼
いろんな音楽をきいていくなかで人生でずうっと聞いているのが結局、谷山浩子さんだったんです。仕事で忙殺されて時間がまったくなくて死にそうだった頃にずっと谷山浩子さんの「鳥は鳥に」をふらふらしながら聞いていて、今でも普段会うことのあまりないひとと会うときにはなぜか必ずこれを聞いてから出かけています。

天気▼
名前は知っていますが、聞いたことがないです。こんど聞いてみます。

柳本▼
谷山浩子さんの歌詞の質感は現代川柳のふしぎさやぶきみさに近いと思います。ある意味でとっても不健全でもあるし、どういう場所にある言葉なのか世代や年齢やジェンダーが不詳なところもある。そういうところが好きなのかもしれません。谷山浩子さんはNHKみんなのうたの「まっくら森の歌」が有名です。「恋するにわとり」とか。

あとモンティ・パイソンのエリック・アイドルが歌うギャラクシーソングが好きで、緊張するイヴェントがあると必ずこれを聞いてから出かけます。宇宙はこんなにも広大なんだからまあたとえどんな間抜けな失敗をしてもだいじょうぶだよね、と思って。

天気▼
モンティ・パイソン! その年齢で、モンティ・パイソンとは意外です(しょっちゅう言われて飽々しているかもしれませんが)。40年以上前、私が中学から高校の頃、たしかテレビで放映していました。当時の子どもはたちは学校で「昨日来たテレビ」の話をよくしました。柳本さんは、モンティ・パイソンをどこでどうやって知ったのですか? 

柳本▼
NHKの深夜放送って海外のおもしろいコント番組を放送していたので高校生のときよくチェックしてたんです。そういう深夜のお笑い番組とかコントが好きだったので。で、そのなかでとつぜんモンティ・パイソンがやっていて、私はテリー・ギリアムの映画はよく観ていてエリック・アイドルも『バロン』を観てこどもの頃からすごく好きだったのでなんだか惹かれたんですよね、とっても。

当時サブカルの本を読んだりするとみんなが『モンティ・パイソン』はいいって言っていて、じゃあ観ないとだめなんだな、っていうのもありました。あとコサキンのラジオを聴くのが好きだったんですがそこでもよくモンティ・パイソンの話はしていたので。本を読んだりなにかを観たりすると必ずどこかでモンティ・パイソンは出てくるんですよね。モンティ・パイソンのプルースト要約コンテストというネタがとても大好きです。わたしも、出たい。

勇気のかたち

天気▼
いま読んでみたい、あるいは実際に読んでいる物故・有名俳人はいますか?

柳本▼
『攝津幸彦全句集』をむかし衝動買いしたことがあって、すごく巨大な本で値段も一万三千円もしたんですが、衝動買いしたわりにはずっとそのまま置いておいたんです。ある真夜中に眠れなかったときになんかこんなに大きい本ってこわいなと思って読んでみようと思って読み始めたらなんだかすごく面白くて、1ページ1ページすごく勇気づけられます。読んでいてもよくわからないけれど、わかったらたぶん勇気にならないので、よくわからないままよくわからない攝津幸彦さんから読み続けて勇気をもらう。そうしてまた眠れなくなる。朝がくる。でも勇気がある。そういうことってあるんだなと。

天気▼
攝津幸彦は私も大好きです。オシャレでキュートだから。

『攝津幸彦全句集』(沖積舎)は、個人的には装幀・造本が野暮ったいので、それになにより高価なので、人にはあまり薦めていません。邑書林『攝津幸彦選集』は1,728円(税込)ともとめやすい。句数も充分。それに攝津幸彦インタビュー収録。並製(ソフトカバー)で持ち歩きにもいい。こちらがオススメです。

柳本▼
あ、そうなんですね。邑書林さんのセレクション柳人シリーズの読みやすさ・充実度・携帯性は私も好きです。あのシリーズからたくさんのことを教えてもらっています。

全句集は〈巨大さ〉が私にとってはインパクトだったのかもしれません。なんというかそういう書物の手に負えない暴力性みたいなことについて時々考えたりします。カフカがいい本は氷の海を砕く斧のようなものだといってましたが、それは比喩かも知れないけれどそんなふうに即物性をもった書物はまずなによりも暴力なんじゃないかと。だから図書館はある意味で圧倒的で巨大な暴力装置です。わたしにとっては。よく行く場所だけれども、屈託もある。本屋や図書館ってずっとこどもの頃から自分にとってはそういう場所だとおもいます。ロラン・バルトが図書館とは挫折の形象なのだと、たしかいっていたけれど。

天気▼
巨大な書物から「読め」と迫られる一方で、読むことがかなわない。そういった挫折、挫折を強いる暴力、という感じでしょうか。

さきほど「攝津幸彦から勇気をもらう」とおっしゃいました。「勇気」という語、川柳にも使っていらっしゃいますね(前述『川柳カード』対談)。この「勇気」、もうひとこと説明を加えるとするなら、どんな勇気でしょう?

柳本▼
こんな表現がまだあるんだと思うとそれが生きる勇気につながっていくという感じなんだと自分では思っています。こんな表現があるということはまだその先があるかもしれない、そういう〈なにかを続ける根拠〉が〈勇気〉なんだと思います。ベケットが「続けよう。続けられない。続けよう」と書いてましたが、それが〈勇気のかたち〉なんだろうとおもいます。

「ま《だ》やってる」シューハイ

天気▼
小誌『週刊俳句』で、今年2015年、印象・記憶に残った作品はありますか。

柳本▼
最近なんですが、第451号(2015年12月13日)で、相子智恵さん・関悦史さん・樋口由紀子さんの『ウラハイ』のそれぞれの方の連載にちなんだ月曜日・水曜日・金曜日をめぐる連作がありましたね。あれをぱっと眼にしたときにほんとにいい企画だなあって思ったんです。電車の中で読んでいたんですが、思わず降りる駅を忘れちゃうくらい私にはよかった。じーん、としていた。

天気▼
あの企画、ウラハイの御三方の共演という企画はずいぶん前からあったのですが、今回、年末ということで、良いタイミングになったと、運営のほうでも喜んでいます。曜日をタイトルに入れるアイデアは、こちらからではなく(負担を強いるのは避けるのです)、御三方のほうからでした。

柳本▼
私はいつも電車に乗っているときに『週刊俳句』と『ウラハイ』のバックナンバーを少しずつ遡行して読んでいるんですが、それはある意味で相子さん・関さん・樋口さんがこれまで書き連ねてこられた道程をたどる旅でもあります。こういう道を通ってこられたんだなあと思いながら、三者三様の解釈を読み進めている。その〈時間〉や〈歴史〉の重みがあの連作になっている。だからシュウハイ/ウラハイ読者として率直に感銘をうけました。そういう時間を引き受ける連作があるんだなあと。

『シュウハイ』っていうのは〈時間の城〉みたいなところがあると思うんです。〈続けることを続ける〉ということを率直に教えてくれたのが『シュウハイ』でした。〈続けること〉はただそれだけで思想なんだと。

やっぱり、続けているひとがいると、誰でも気になると思うんですよ。どうして俳句のウェブマガジンがこんなに何年も楽しそうに続いているんだろうと。そして楽しそうなので自分もそれに参加してみたくなる。時間の城に畏怖の感情を抱きつつも、入城してみたくなる。みうらじゅんさんも言ってました。「またやってる」と言われるようじゃだめなんだ、「ま《だ》やってる」ひとにならなければならないと。

天気▼
週刊俳句は創刊当時から「続けること」をテーマにしてきました。それを唯一と言っていい目的・目標にして、設計や取り決めがある。続いていることを、柳本さんのように捉えてくれる人がいることは、大きな喜びです。

柳本▼
あともうひとつ、第416号(2015年4月12日)に西原天気さんの「戦争」10句が載っていましたが、私がはじめて俳句の感想文をシュウハイに載せていただいたのが西原さんの「ふとん」の句だったんです。「県道に俺のふとんが捨ててある」というふしぎな、それこそ俳句を知らない私でも気になってしまう少しヘンな句です。で、そのふとんの句の後日譚のような句としてその連作に「代々木署へ俺のふとんを取りにゆく」と書いてあった。「ふとん」の句は西原さんの句集『けむり』(2011年)にのっていたものなので、ここにもふとんをめぐる〈時間の厚み〉がある。まさに〈時をかけるふとん〉なわけです。でもそれも誰かのひとつの〈戦争〉かもしれない。戦争ってマクロな単位でなくて、ミクロな単位でだってあるはずですから。

天気▼
おお、〈時をかけるふとん〉! ミクロな戦争! あの句も、あの連作も、柳本さんに読んでいただいて喜んでいると思います。

『川柳スープレックス』というサイトにも2つの句のことを書いていただきました。県道に捨ててあった布団が、代々木署という「都」の警察にあるという齟齬の指摘も含めて、楽しく拝読しました。自分から解説する必要はないのですが、時間を逆にして、代々木署に取りに行った布団が、後日、県道に捨てられていたというストーリーにしておいてください。

柳本▼
先ほどの季語もそうなんですが、時間を貫く心棒のようなものが俳句にはあるんじゃないかと思うんです。そこに私は超越性のようなものを感じ、そしてそれにおそれおののいてしまう。でも、なんだろうふとん、ふとんと俳句にいったいなんの関係があるんだろう、ふとんなんていうものが季語なのだろうか、と俳句ってへんてこな部分もあるから近づいていってしまう、はじめて火をみた人間のように。

だから、俳句っていうのは、はじめて火をみた日に近いのかもしれないと思います。こわくって、それでもどこか蠱惑的で、にもかかわらずいくら近づいても不可解な〈なにか〉。

天気▼
「こわく」と「蠱惑」……。はじめて火を見るように、句に出会えたら、幸せですね。

ところで、じつは鴇田智哉さんにもインタビューをお願いしています。鴇田さんに投げかけてみたい質問はありますか?

柳本▼
鴇田智哉さんがかつておっしゃられた言葉に、「今まで自分は、俳句に季語を入れることで、一句に「物足りる」体を付与してきたところがある。でもそんな必要はあるのだろうか、そもそも俳句に「物足りる」という必要はあるのだろうか、ということも含めて考えていきたい」という言葉があって、わたしはよくこの鴇田さんの言葉について考えているんですが、このときたぶん〈俳句の境界〉や〈俳句の臨界〉のようなことについて考えておられたんじゃないかと思うんです。それで、〈いま・現在〉鴇田さんがご自身のこの言葉を読んでどう思われるかをお聞きしてみたいです。

天気▼
わかりました。鴇田さんに質問してみます。

今回、いろいろとお話ができて、楽しかったです。ありがとうございました。これからも意欲的に、どんどん書いてください。評論もそうですが、短歌や川柳も。柳本さんの、とりわけ句や歌のファンのひとりとしてお願いしておきます。

週刊俳句2015年アンソロジー 47名50句

$
0
0
週刊俳句2015年アンソロジー 47名50句



日脚伸ぶ醤油を弾く目玉焼き  小野あらた  第405号

乱数も焚火の一つ枯木灘  花尻万博  第406号

うがいするまだらな音を出しながら  なかはられいこ  第409号

飛ぶ夢を見るたび眉毛太くなる  兵頭全郎  第409号

え戦争俺のとなりで寝ているよ  赤野四羽  第409号

色即是空尾骶骨より雪もよい  安西 篤  第412号

薔薇いつも一つの距離でありにけり  渡辺誠一郎  第412号

母の顔剃れば健やか雛祭  山西雅子  第413号

葉牡丹が特殊な性癖だとしたら  北大路翼  第415号

奥の座敷は
六尺屏風
覗きませうよ
縁ぢやもの  外山一機  第415号

爪切りて手の皺新た百千鳥  阪西敦子  第415号

鉄分を豊かに春の眠りかな  西原天気  第416号

平城京 大量に浮くブラウン管  柳本々々 第419号

著莪の花名刺の角の疲れたる  森島裕雄  第420号

白魚を買ふ豹紋のワンピース  五十嵐秀彦  第420号

らふそくの火ともしごろのタイの夜  武藤雅治  第421号

葉桜の蔭を男の顔が来る  村上鞆彦  第423号

子規の風吹く六月の木よ草よ  下坂速穂  第423号

目鼻消し泣きたき日あり雲の峰  利普苑るな  第424号

対UFO秘密兵器として水母  喪字男  第426号

ハンカチと呼べばそう詩と呼べばそう  福田若之  第427号

屋上に仮店舗ある涼しさよ  仮屋賢一  第429号

なきごゑの四方へ抜けたる夏落葉  安里琉太  第429号

爪のかたちにずれがある定刻  馬場古戸暢  第430号

花火あふぐ顔融け合ふや無辜なるや  竹岡一郎  第430号

噴水が平らで街の死が近い  青本柚紀  第431号

君持つ其れ流木或いは氷菓の匙  生駒大祐  第431号

水からくりからころ水濡れてからころ水  宮﨑玲奈  第432号

知り合いもなくて夏祭りに二人  柴田麻美子  第433号

花カンナ貨車過ぐるとき悲鳴に似る  青本瑞季  第434号

かたむきて翅青みたり糸蜻蛉  藤井あかり  第435号

向日葵を裏より見れば怒濤かな  大塚凱  第435号

棒読みの防災無線南瓜切る  江渡華子  第436号

秋のてふてふ考へろみろブルース・リー  中山奈々  第436号

声変わりしてるしてない氷菓食う  中谷理紗子  第436号

保育園には鈴虫に会ひに行く  矢野玲奈  第437号

木槿咲く少女はサドル高くして  小林すみれ  第438号

猿を見て人を見て秋風の中  きくちきみえ  第439号

老人に玉藻のやうなこころあり  松本恭子  第440号

泣いたから訊けばわかめにゃ顔がない  榊 陽子  第442号

満月が毀(こぼ)れてはデモ隊となる  竹岡一郎  第446号

漆黒たらんと白鳥のこころざし  竹岡一郎  第447号

秋蝶の家族であった風ばかり  千倉由穂  第448号

をはらない縄跳の輪へ灰と雪  竹岡一郎  第449号

嵌めて鳴る革手袋や月曜来  相子智恵  第451号

テニスしてをりしがいつか枯草に  関悦史  第451号

金曜日のくびれあたりのきんようび  樋口由紀子  第451号

北風の鳴ってゐるなり薔薇の蔓  角谷昌子  第452号

自転車の素手の時雨れてゆくばかり  太田うさぎ  第452号

冬ぬくし水ぎりぎりを蟻が行き  西村麒麟  第452号


〔村田 篠 選〕


人が居た場所に立ってみると。 シリーズ「八田木枯の一句」の楽しみ方 茅根知子

$
0
0
人が居た場所に立ってみると。
シリーズ「八田木枯の一句」の楽しみ方

茅根知子



八田木枯の一句は角谷昌子、太田うさぎ、西村麒麟、西原天気の4人が交代で執筆する連載である。執筆者一人の連載と違って、毎回いろんな色の文章が楽しめる。取り上げた俳句について知ることはもちろん、その俳句を取り上げた理由・クセ、解釈の切り口、そして俳句を“どの位置”から見たのか、それぞれの居場所からの発言を読みながら、なるほど…と呟く。

「八田木枯の一句」は、まったく異なる色の4人が書いている。そこで「執筆者×取り上げた俳句」の組み合わせを入れ替え、この人ならこの俳句をどう解釈し、どんな文章を書くのか想像してみる。すると、これがけっこう面白い(執筆者には失礼をお詫びします)。こんなことができるのは、執筆陣の組み合わせが絶妙だから。4人が、付き過ぎあるいは奇を衒ったような取り合わせだったら、この楽しみ方は成立しない。例えばと言って正しいのか分からないけれど、例えば、カツオのたたき×マヨネーズ、お寿司×チリソースといったB級グルメ(邪道というべきか…が、実際にある食べ方でクセになる人がいるとか)的な、もうひとつの楽しみ方である。

「執筆者×取り上げた俳句」を入れ替えて想像すると、画面や紙に張り付いていた俳句が、ぐぐっと三次元となって立ち上がってくる。前後左右の90°方向はもちろん、360°を小刻みにして、どの場所からも俳句を眺めることができる。今まで見たことのない角度から俳句を眺めることによって、新しいことを発見する。イメージとしては、サカナクション「アルクアラウンド」のMV 1:30あたりに出てくる文字みたいな(※)。ある方向から見ると何だか分からない物が、ある一瞬の場所から見ると、形=文字になる。同じ俳句なのに、別の顔がふっと見えてくる。

人が居た場所に改めて立ってみると、まったく違う風景が見える。「八田木枯の一句」は、絶妙な取り合わせの執筆陣により、俳句って只者じゃないなぁと真面目に考えつつも、B級グルメ的面白さを体験することができる。


※サカナクション「アルクアラウンド」(1:30あたり)


2015年回顧 生駒大祐+堀下翔

$
0
0
2015年回顧

生駒大祐+堀下翔 進行:西原天気

前篇 9分36秒 後篇 6分36秒



文語を語る 生駒大祐+堀下翔

$
0
0
文語を語る

生駒大祐+堀下翔

〔1〕 7分10秒 〔2〕 9分34秒 〔3〕 7分25秒









おまけ 3分52秒

【句集を読む】「病人にメロドラマなし」 佐々木義夫遺句集『棕梠茫々』を読む 今野浮儚

$
0
0
【句集を読む】
「病人にメロドラマなし」
佐々木義夫遺句集『棕梠茫々』を読む

今野浮儚

芸術は享楽だという考えには共感できない。確かに芸術は享楽でもある。そうでなければ人間は芸術などつくらないだろう。しかし芸術の本質は享楽にはない。それは体験なのである。
セルジュ・チェリビダッケ

去年の夏の盛り、いつもの様に小説を物色してしていたのだが、平積みにされた小説の一角でこの古い句集を見つけ、百円という安さも手伝い数冊の小説と一緒に佐々木義夫遺句集『棕梠茫々』を購入した。

さてどんな俳人であろうかと早速PCで検索したが、ヒットする情報は皆無に等しい。どうやら佐々木義夫もまた、膨大な俳句の系譜に埋もれてしまった俳人であるらしい。しかしながらこの早世の俳人の句とその義夫を支え続けた妻、喜美枝の文章に触れる度、俳句という詩型を通し、懊悩・葛藤し続けた義夫の姿を想像し、一句一句に没入していく私がここに在る。

傷兵の頬紅潮し蟻払う

老鶯が熊笹黄なるところより

雪渓をわたるひとりとなりにけり

ちんぐるま露りんりんと吹かれけり

師を呼べど蚤の蒲団の睡ふかく

以上の句は昭和17年、立命館大学法科在学中、俳誌「鴫野」にて本田一杉に師事していた頃の作品である。この頃はホトトギス派の花鳥諷詠に忠実な写実を基調とした句が中心である。時代背景も勿論あるだろうが、当初より義夫の句は老成し、どこか寂寞とした表現が目立つ。義夫には明るさの裏にある陰の部分に寄り添う気質があったように思われる。

佐々木義夫は大正11年生まれの大阪市の俳人である。俳句を始めた時期は不明だが、この句集は昭和17年、義夫が大学在学中に詠んだであろう一群から始まり、昭和35年に肝硬変にて没する直前の絶唱までを収めたものである。

学業や仕事の合間を縫い、義夫はあらゆる場で旺盛に俳句を詠んでいるが、この頃、立山や男山の他に長島愛生園にも立ち寄った様子が伺える。ここで義夫は癩(現在はハンセン病で統一)の俳人玉木愛子と出会う。

盲導鈴花大根の風許り

花の坐にはこばれ生る影法師

玉木愛子は思春期から鬼籍に入るまで家族と別れ、生涯を長島愛生園で過ごした俳人である。盲導鈴は視覚障害者を導く音声誘導装置である。硬質かつ単調に、命を救う為の音色を響かせる盲導鈴。しかし外では花大根が咲き、それを揺らす滑らかな風が吹いている。隔離された施設にも普段は外界と変わらぬ牧歌的な風景が広がっているのだ。尚、玉木愛子との交流はその後も続いたようで、愛子の訃報に際しては以下の句を残している。

濃あやめに低くまり生き癩聖女

万緑に眼帯厚し癩聖女

ハンセン病により失明した玉木愛子に対し、鮮やかな色を与えているのが印象的な句である。当時、ハンセン病は遺伝病かつ強力な伝染病と考えられ、患者は家族から引き離され生涯をこのような隔離施設で過ごした。このように義夫の目線は常に人間のささやかな暮らしに寄り添うことを忘れなかった。昭和19年2月、応召した義夫は海軍二等水兵として呉海兵団に入団する。その間も医官を志しながら句作に励む。義夫は大変な勤勉家であったようで、その後の人生に於ても様々な検定試験に合格し、家業を継いでからも遺憾無く経営手腕を発揮し、事業拡大に寄与することとなる。

駅凍てゝ別離のこゝろ定まらぬ

父母を夢に見ぬ夜は凍きびし

盆の月水兵医書をひもとける

春昼の潜水艦に食器鳴る

幻燈のごとき月出で兵の墓

義夫にとって、この時期の句作とは己を慰め、鼓舞し、同時に死者を悼む儀式のような意味合いを持っていたのかもしれない。義夫自身が自然に呼応し、一体化していくような句が目立つ。復員後、義夫は結婚し、鳥取県倉吉地方裁判所を経て大阪高等裁判所にて主任書記官として勤務、俳誌「雪崩」を発行する。復刊、新刊の俳誌に進んで投句する。昭和27年には俳誌「鴫野」改め「雲海」森川暁水に所属し、私生活では一男一女(学・康子)を設ける。

子の反吐の萩の根許のさみしかり

長病みの子に花冷のうで玉子

妻とよむ出雲風土記や十三夜

妻てふ名は背にぬくき負うごと

風二日二夜の妻の遠かりき

歩みそむ子の手がつかむ妻もいとし

結婚後、義夫の好むモチーフとして、新たに「家族」が加わる。当面の生活はとても豊かとはいえない心許ないものだったようだが、とりわけ妻の前では頑是無い素直な愛情がストレートに綴られている。その反面、裁判所での主任書記官の経験は少なからず義夫にジャーナリスティックかつアイロニックな視線を与える基盤になったのではないか。

冬ぬくとし農夫の尿田に激ち

黒人の鼻毛日本の雪に対く

陀羅尼助にがし燕の金の嘴(はし)

沈下部落虎尾草に雲あそばせて

鳶追うて漁夫の渋肌雪ふれり

一句目、冬の農夫の所謂「立ちション」の光景である。田に激ち、の措辞が冬ぬくとしの麗らかな季語と相まって、牧歌的でありながらも猛る生命力を感じさせる。二句目、黒人の鼻毛に着眼したところが愉快な一句。米兵であろうか。彼の目に皮膚に、日本の雪は果たしてどのように感じられたか。三句目、陀羅尼助は漆黒の小粒の胃腸薬であり、何とも言えぬ苦味がある。飲み下す際はまるで燕の様な口許になっているのかもしれない。五句目、部落と云えばどうしても陰鬱な雰囲気が漂うが、中七以降はどこか飄々とした表情を持ちながら、ビビッドと云うよりは、モネや印象派時代のルノワールの絵画のような淡い色彩美にも溢れている。五句目、漁夫の陽に焼けた硬い素肌に柔らかな雪が触れる瞬間を捉えた然り気無さに義夫の確かな観察眼を垣間見る。

昭和27年、義夫は家業を継ぐ為官を辞する。そして昭和30年頃、己の俳句に新たな可能性を見出だそうと「鴫野」から「青玄」に活動の場を移すが、義夫の観察対象は変わらず、市井の人、とりわけ肉体労働者に向けられた。またこの頃より事業拡大の為各地を奔走するが、確実に義夫の身体は病魔に蝕まれつつあった。

俳句界はこの時期桑原武夫の「第二芸術論」からの「社会性俳句」の議論の渦中にあり、無論義夫も無関心ではいられなかったはずである。しかし、外に開かれていた義夫の目線は家業の繁忙と闘病によって徐々に内へ閉ざされてゆく気配を見せる。実際、義夫の足は句会からも遠退き、まれに発行所を訪れても事業の拡大について話題が終始することが多かったようだ。

義理で割る死者の茶碗がよき音す

霊柩車の金色稲穂より軽し

「死者の茶碗」では、神妙に、というよりはどこか「死」を近しいものとして、軽妙に詠もうとする義夫の気迫を感じることが出来るが、以後内省的な句が徐々に目立ち始める。

執拗に死を詠むおとこ鶯飼う

柿くつて仰臥の顎を濡らしけり

病人にメロドラマなし菊日和

わが死ねばねんねこの妻寒からむ

世にのこす白足袋ほどの素心は

病人にメロドラマなし、とは何とも酷な表現であるが、実際病を持つ者の実感として、ドラマの様な華麗な展開など無く、ただただ死への退屈なカウントダウンを菊の盛りの穏やかな日も身に刻むのみである。義夫はこの句集の上梓を待たずして40歳を前に没する。絶唱は、心身の奥底からの叫びを聴くような痛々しさに満ちている。しかし、幸いと云うべきか、青玄の仲間で共栄印刷の五十嵐研三と黙約を交わしていたことから義夫の死後、非売品として『棕梠茫々』が発表される。

最後に、絶唱とこの句集の巻頭の「自序」を転載する。

絶唱

激痛の胃は炎天に謝するごと

白ばかり咲く朝顔をとおくに見る

のうぜんに柩車音なく来ていたり

酒断ちし目がきれいなと二度と言うな

時かけて炎天にごりよわり行く

自序
句集を作す意味は、それこそ各人様々であろう。まとめて一冊にして見るとき、自らの貧しさを沁々と思い知らされる事は多くの人の感慨ではあろう。
私は、それとは違った意味で、私の貧困な道程を眺められることは面白いと考える。
こんな事を書けば、如何にも尾籠、且、負惜しみめくが、あの下痢のあとの爽やかさと、虚脱感に似ていると思う。
遮二無二、写生々々をたゝき込まれた伝統派時代の無批判な追随、主情派然として嘯いた一時期、ともに懐かしい過程には違いないが、今日的な意味からは、既に自己に対する存在価値すら危ぶまれる作品群となり下がった事は、如何にも残念であった。
その抜撰?されたものが、本作品群であると言う事は、これは大いに恥ずかしい次第である。
この句集は、何うすると言う性質のものでもない。
自らの為、自らを苛むため、自分の作った鞭であると思っている。
糞いまゝしい句集である。

こう記した義夫が、その後も生き続け、第二、第三の句集を綴った時、どの様な変化が起こり得たのか見届けたかった気もするが、それはもう叶わぬ願いである。


なお、俳句が新仮名遣いである点、「新しい世代を注ぐ子供達のために、眼で見る俳句としても腐心した貴方の句を、全部新かなづかいにした事、分かつていただけると思います。」(編者・佐々木喜美枝)との記載がある。


『棕梠茫々』 編集者兼発行者:佐々木喜美枝/1961年/非売品


俳句雑誌管見 俳句のデザイン 堀下翔

$
0
0
俳句雑誌管見
俳句のデザイン

堀下翔
初出:「里」2014.8(転載に当って加筆修正)

6月7日、雨のなか銀座へ。「俳句と書の世界」(第32回日本詩文書作家協会書展/2014年6月3-8日/セントラルミュージアム銀座)という書展が開かれていた。俳句を題材にとった詩文書がたくさん並んでいる。

瀧野喜星が揮毫した有馬朗人〈光堂より一筋の雪解水〉は書のみならず絵も描きこまれた異色作。六行書きに短く改行された有馬の句へ向かって、こぢんまりとデフォルメされた武士たちが歩いてゆく。「一筋の雪解水」がつわものどもの行進のイメージに転換されているのだ。

ほか、いずれの作家も佳作揃い。長居してしまった。圧倒的人気は山頭火・子規・芭蕉。虚子はあまりない。他は存命物故・有名無名問わずほぼばらけている。照井翠、高野ムツオ、神野紗希のごく新しい句も取り上げられていた。

磯貝碧蹄館の句が一つもないのは意外のことであった。少し古い近代詩文書の作品集を読めば碧蹄館の句を書いたものが山のようにあった。碧蹄館は近代詩文書の父・金子鷗亭の弟子である。自句を揮毫した作品がたくさんあって、それを手本にした書家が多かったのだ。日本詩文書作家協会といえば、その初代会長は鷗亭。碧蹄館の句も見られるかと思ってきたが、題材にも流行り廃りがあるらしい。

特別展示として俳人が自句を揮毫した色紙も並ぶ。32人の俳人が色紙を寄せている。なるほどこの人はこんな字を書くのかと興味津々に眺めた。金子兜太や小澤實などは普段から句集の題字を揮毫しているくらいだから書として見てもたのしい。そんな中でひときわ目をひくのが中原道夫である。句は「虛子忌なり蝶の色問ふ人もなし」(『百卉』角川書店/2013)。さすがアートディレクター、字も構成もバランスの崩し方が絶品でしばらく見惚れた。書もなす人かは知らないがやはりビジュアルの感覚は共通だと思った。

この色紙が面白いのは、全体としては流れのある行書であるにも関わらず、正字「虛」を、七画目以降、それぞれの字画を続けずにはっきりと書いているところである。まるでこれが正字であることを明示するかのように。この筆の運びを見るとなるほど彼が正字を用いるのはデザインが好きだからなんだな、と思う。美しさもまた正字を選択する根拠である。筒井康隆は江戸川乱歩の小説「虫」に関してこう書いている。
さて、わが乱歩体験の最初、つまり小学生時代に初めて読んだ乱歩作品は、(中略)なんと、(このワープロで字が出るかどうかわからないが)「蟲」であった(出た! まさにこの字でないとこの作品の表題ではないのである。もし「虫」という字しかなかったとしたら、乱歩はタイトルを違ったものにしていたであろう。「蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲」という羅列の凄さは今でも記憶している。「虫虫虫虫虫虫」では駄目なのである)。(筒井康隆「乱歩・久作体験による恩恵」『國文學』1991.3)
正字の精巧な造形は、かように人を惹きつけてきたのである。

ところで田中裕明がかつて、中原道夫は久保田万太郎に似ていると言った。
(堀下註――中原について)唐突に久保田万太郎の句に似ていると思った。「余技としての俳句」が本物だというのも共通点。万太郎は芝居作者、中原さんはアートディレクター。俳句の字面を心をくだいて美しくするというのも似ている。これも大切なこと」(田中裕明「『顱頂』の一句」『俳句』1994.1)。
そうだ万太郎も文字に美しさを見出していた作家だった。この人の場合はむろんひらがなに対してである。

したゝかに水をうちたる夕ざくら 久保田万太郎『草の丈』1952
鶯やつよき火きらふ餅の耳 『流寓抄』1958

これらの句に流れる時間のゆるやかさは、心をくだいて連ねられる文字がもたらしている。

現代においてこの文字感覚が連想されるのは石田郷子である。

なにはびと吉野びとゐる遅日かな 石田郷子「椋」2014.6

ライトで、さっぱりとしている、と彼女の句はよくそんなふうに言われる。理由のひとつにデザインを挙げたい。「難波人」と書けばごちゃごちゃとするものを「なにはびと」と書く。あかるくなる。陽が差したようなあかるさである。

俳人にはデザイナーとしての側面がある。そのことに意識的であるとき、俳句の見え方もまた変わってくる。

Viewing all 5946 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>