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【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第一章〉浮遊することばたちと許されたわたし 田島 健一

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【石田波郷新人賞落選展を読む】

思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈第一章〉浮遊することばたちと許されたわたし


田島 健一





01.花束(泉かなえ)

夜空に浮遊する星のいくつがつながって星座がつくられるように、俳句もまた浮遊することばがつながれて〈意味〉や〈イメージ〉を生成する。不思議なのは、この「ことばがつながれて」いる、ということだ。

誰からも見られたい夜百日紅  泉かなえ

この句の「誰からも見られたい夜」と「百日紅」とのあいだに「切れ」があるということは、逆に言えば「誰からも見られたい夜」の部分はつながっている、ということだ。このことにすべての読者は同意してくれるだろうか。

例えばこれを「誰からも見られたい/夜百日紅」「誰からも見られたい夜百日/紅」などと「切る」ことは、馬鹿げたことだろうか。仮にそれを「馬鹿げたことだ」と感じるとすれば、それは、私たちが「誰からも見られたい夜」という「つながり」の中に、それをつなげた「誰か」の声を聞いているからに他ならない。

「誰からも見られたい」のは誰か。

もちろん、その「誰か」というのは、読み手自身が生み出したひとりのキャラクターであるにちがいないのだが、大事なことはその「誰か」が語ることを許されている思想的空間が前提となっているということだ。つまり、それを言う誰かはそれを「言いそうな」誰かである。そして、その思想的空間が「信じられている」ということこそが、この「誰からも見られたい」という「つながり」に〈意味〉を与えている。

かつて中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句よりも前に、志賀芥子の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句があったことはよく知られているが、ここで「明治は遠くなりにけり」という同じことばの「つながり」から、異なる〈意味〉が生成されるのは(上五に置かれた季語のみならず)諸々の情報によって構成されたこの句の思想的空間の差異に他ならない。

ここで与えられる〈意味〉を支えている思想的空間とは、ことばとして書かれた句の文面に「主題化」されたものとしては表れない。それは「泉かなえ」「中村草田男」という作者の署名やプロフィール、「百日紅」「降る雪」という季語、時事性、国民性、血液型…など知りうる情報すべてを足がかりとして構成された〈無意識〉であり、仮に「私は余計な情報に左右されず、そこに書かれたものだけで俳句を読む」と宣言したとしても、そのような宣言にさきがけて思想的空間は「読み」の前提として読み手自身を捕捉するのだ。

つまり、俳句においてことばを「つなげた」誰かの〈声〉とは自分自身の〈声〉だ。俳句を読んで「おどろく」とき、それは、そのとき聞いた自分自身の〈声〉が、まるで別人のように聞こえたときに他ならない。

見逃してはならないことは、詠み手自身も作品を書きながら、そこに自分自身の〈声〉を聞いている、ということだ。

鉛筆を削るにほひや夏座敷  泉かなえ
砂壁をたどる踵や冬に入る
あつち向いて頬の黒子や冬銀河
日向ぼこ何度でも初めての気分
ひこばえや上唇のはうが好きよ
ミントまで食べてしまへよ夏の星

これらの句の「鉛筆を削るにほい」「砂壁をたどる踵」「あつち向いて頬の黒子」「何度でも初めての気分」「上唇のはうが好きよ」「ミントまで食べてしまへよ」といった部分が差し出しているものは、それらが〈意味〉することが許されている思想的空間そのものである。

「にほい」「初めての気分」「見られたい」という感覚表現、「踵」「頬の黒子」「上唇」という身体表現、「好きよ」「食べてしまへよ」という呼びかけ。それらに共通した「身振り」は、これらの作品があるひとつの幅のなかで世界から承認されていることを示している。

それは、そこで〈声〉を聞きとった私自身が生きる世界の広さであり、私自身に許された〈限界〉である。

俳句を書くときに問題になるのは、その〈限界〉に楔をうつことに他ならない。私の〈声〉がひびかせる私以上のもの。それはいったい何なのか。どのようにすれば、私は私を過ぎ越すことが可能なのか。

〈第二章〉へつづく


【2014角川俳句賞 落選展を読む】 5.書き続けるしかない 依光陽子

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【2014角川俳句賞 落選展を読む】
5.書き続けるしかない

依光陽子


≫ 2014落選展





 

23. 菜の花(前北かおる)

菜の花や乳白色の雨の降る前北かおる

50句全て春の句でタイトルが「菜の花」。50句中に菜の花の句が5句ある。
その中では掲句は見どころがあり、また50句全体でも大粒の句といえばこの句だろう。

「乳白色」に見える雨だから、かなりの粒で雨脚の強い雨だ。視点を一旦一面の菜の花畑の遠景に置き、次に近景に目を引き寄せたときの「乳白色」の効果。雨自体は透明なのに言われてみれば確かに「乳白色」に見えるときもある。

「乳白」という文字、牧歌的でありながら野趣もある。菜の花の明るさを生かしつつ、花の持つ雰囲気に落ちることなく踏みとどまっているところがいい。

白梅や縦へ縦へと咲きふえて

雪柳や連翹、萩、枝垂桜などを詠んだ写生句は、地に近いところから咲くと詠まれるのが常套だが、「縦へ縦へ」という摑みが白梅らしいと思う。

古枝ではなく、その年新しく伸びた枝からの花だ。新枝は垂直に伸びる。咲きふえるほどの枝数を持つ木だから古木だろう。ごつごつとした幹から立ち上がった緑色の枝。一木の存在感。

ちかちかと蛍光灯や吊し雛

立派な郷土館などではなくて、蛍光灯が今にも切れそうで「ちかちか」点滅している旧家の吊し雛を思わす。「ちかちか」とするたびに、別の雛に灯が当り、一つ、また一つと姿が浮かび上がる。間隔をあけてぶら下がっている様も受け取れる。

吊し雛は伊豆稲取が発祥という説や九州柳川が発祥という説があるようだが、この句以降30句ほど続く九州で詠まれた吟行句の幕切れの句と取れば、現場は九州柳川か。

さて落選展は作者がオープンになっている分、期待度と読後感との落差は、それがマイナスだった場合不完全燃焼となって胸に燻り続ける。

笑ふ山背負うて野たり都府楼址>福岡大宰府、<菜の花や山国川も山抜けて>福岡と大分の境、<一斉に野焼くやまなみハイウエイ>大分。長崎に入り、島を巡り<春の人ゆりかもめより降り立ちて>と東京に戻ってきてお台場へ。地名の入ったご当地俳句が等間隔に置かれ、観光案内書に置かれたイラストMAPのようだ。

ぷつと雲吹き出して山笑ふかな><普賢岳痘痕だらけに笑ふかな>の二句は何だろう。50句にこの句を入れたあたりで、真剣に賞を狙う張りつめ感は消えた。<卒業の迫るひと日を甲板に>のような見どころがある句も艶消しになってしまう。50句の後ろにどのくらいの句が捨てられているか。その厚みも見えなかった。


24. 草の矢 (岬 光世)


寂かだ。静と動ならば、静。

擡げられ芥もくたや霜柱岬光世
雑草のひようと伸びたる風薫る
針仕事してをるらしや秋簾
建て替ふることなく過ぎぬ秋桜

一句目。「芥もくた」は何の役にも立たない、つまらないものという意味。具象から発生した心象的な言葉だ。作者は枯草の欠片であったり、木端であったり、人の落として行ったモノであったり、塵埃であったり。それら霜柱に擡げられた雑多なものを見て、己の内面を重ねたのだろうか。霜柱は寂と輝いている。

二句目。「ひようと」の擬音のよろしさ。この一語があることで「風薫る」がムードに堕ちることなく一句が立った。一句目も二句目もどことなく王朝物語風に読めて来る。

三句目。秋簾の裏側の所作を針仕事と見た。「針仕事」と言うと若い人よりも年配の女性を想像する。単なる繕いものではなく、それを生業としている姿であれば、猶更その人への興味は募る。

四句目。建て替えの計画があったものの、そのままとなった家。旧い家だろう。ただタイミングを逸したというよりは、そこに住んでいた人の、こののちの永遠の不在を感じる。秋桜がそう思わせる。

念力のやうに鶏頭残りたる
接木せし手のぬくもりを持ち帰る

気持ちが乗った句も静の内に描かれる。「念力のやうに」は鶏頭の強さの描写として無理のない直喩であろう。接木した手のぬくもりを持ち帰る、という発想も目新しい。ある木に別の木の命を、人の手で継いだという静かな興奮が掌に残っているのだ。

遠雪崩眠りにつけぬ闇幾重><波音の絶ゆることなく曼珠沙華>なども音が描かれているのに、その音はとても幽かだ。

お太鼓に川風とほす夏衣><人伝てに先代の所作夏の帯><幕間に箸を交ふる木の芽和>など破綻がなく服に例えれば和服の装い。句の佇まいから作者の確たる美意識をうかがわせる。だがこういった巧い句を書く人は結社に一人くらいは必ずいるものである。以前参加していた句会で、非の打ち所がない、と思うような句が出た時「これは上手なオバサン俳句ですね」と選者が一蹴していて、はたと気付いた。

その言葉の裏には、「下手より巧いに越したことはないけれど、上手くまとまった事で納得してしまう癖がつくのは宜しくない。そこを越えるべし」というメッセージが隠されていたのだ。さらに「みずすまし」「秋の蝉」のような常套句、あるいは「ハーモニカ」「花野」句のように擬古的な情緒や観念に浸ってしまった句は落としたいところ。

家具ひとつ運び出したり雪催
片側の頬の明るき冬の晴
春蘭の涙ひとすぢ読めるなら

このあたりは作者の素の部分が見え、フレッシュな印象を受けた。一句目の季題の効果。二句目の明度。三句目の心象性。いずれも芳しい。

全体的に句の低いところに重心があり安定している。あとはどう新を開拓していくか。多少粗くてもアクセントとなる迫力のある句が欲しい。ほつれや壊れた部分があるからこそ際立つ美もある。一度思い切って、築き上げた美意識を打ち砕いてみるのも俳句の方向に感覚が研ぎ澄まされる手かもしれない。


25.モラトリアムレクイエム (吉川千早)

現代詩的なタイトル。今回の落選展の出展作品一覧を見たとき、最も期待した50句である。

しかしながら、一句目からかな遣いの混同とミス。「ああ」と思わず声が出てしまった。無念。

50句の中に幾つかの死、新しい命の誕生に触れた句があり、その重大な場面に作者が直面したこと。それは読み取れた。しかし<マニキュアの塗りあいっこや夕涼み>とその次の句、さらに<子を産めばママと呼ばれて聖誕祭>に至っては、ガクリと膝をついてしまった。

二句だけ挙げる。

人生にカレー幾たび半夏生吉川千早

馬鹿馬鹿しいのだけれど、妙に後ろ髪を引かれた句。人生に幾たびも繰り返される事はいろいろあれども「カレー」を食べることの回数など考えたこともなかった。それを仰々しく「カレー幾たび」ときた。この畏まった文体と内容のギャップ。さらに半夏生というなかなか渋い季題を持ってきた点も現代の俳諧と言えよう。季感もピッタリだ。

秋雨や祖父は死んでも大男

亡くなった祖父へのレクイエム。在りし日の姿を思い出している。祖父の存在は死んでも大きな存在。大男は単に体格だけではなく、その人格の大きさも言いとめている。秋雨の季題は、死の直後というよりは、気持ちの整理のつくまでの時間を指している。

はっきり言って作品は未成熟。けれども何だか、適当に書いた、という感じはしないのだ。俳句慣れしていてさほど苦労もなく50句まとめることが出来てしまう作者とどちらがいいかと言われたら、多分私は、未完成だがこの面妖な50句を書く作者を庇う。そしてこの名前を憶えていようと思う。

変にまとまってしまうことなく、ともかくも俳句として鑑賞できる段階まで引き上げて再挑戦してもらいたい。


26. 猫鳴いて (利普苑るな)

一弾に矢となる犬や兎狩利普苑るな

「弾」「矢」「犬」どれも「狩」についた言葉だが、その勢いをうまく一本の棒にした。飛んでゆく弾、一弾の音を合図に飛ぶ矢の如く一斉に走ってゆく犬、逃げてゆく兎、みな地面に水平の線となって、句になった瞬間、静止し、また動き出す。

枇杷咲くや砂に昨日の泥団子
花札の蝶舞ひたがる睦月かな
萍の揺れては増えてゐたりけり
手花火の明りに昼と違ふ庭

一句目。砂場に子ども作った泥団子がある。昨日、濡れ色だった泥団子は今日はもう外側は乾いている。泥の乾いたような苞を割って白い花を咲かす枇杷の花との取り合わせが絶妙だ。日常の、見過ごしてしまう風景。

二句目。陰暦正月、陽暦では二月にあたる睦月。正月に遊んだ花札が置かれていて、札の画の蝶が舞いたがっているかに見えた。春近い気分が出ている。

三句目。萍のたくさん浮いている水面。微かに揺れている。じっと見ていたらなんとなく増えていると感じた。「揺れては増えて」の眼差しが萍の水中の根にまで及ぶ。

四句目。手花火の仄暗い明りの向こうに、昼間とは違う庭が浮かんだ。それは花火が燃え落ちるまでのほんの一時。

ものを見る目に柔軟さがある。

深読みは不要。作者はそのままの景を言葉に乗せ、読み手はその言葉のまま受け取ればいい。すると一句に描かれたモノが生き生きと見えてくる。見せる力がある。

秋霖やときをり熱き猫の息
猫と坐す真紅のソファー雁渡る

季題斡旋がいい。

一句目。猫の息のときおりの熱さを感じ取ったのは掌だろうか。秋の冷たい長雨の一日、猫と居るひととき。

二句目は絵画のような構図。真紅のソファーが目に鮮やかだ。この猫はきっと黒猫。ソファの人も猫もまるで影のように静止している。部屋からズームアウトしてゆくと、上空を雁が渡っている。いつもどこかで何かが同時進行している。雁の列も黒。一句の中の色は赤しかない。

タイトルの句<猫鳴いて初夢のこと有耶無耶に>のほかに猫の句が5句。50句に寄り添っていたら、だんだん猫目線になってきた。すると<水無月や雫のやうな香水瓶>も<声上げて番犬めきぬ羽抜鶏>も変な世界だなぁと思う。何でもない日常に潜む小さな発見を、ひょいと掬い上げて読み手に伝えることが出来るのが俳句。強引に言語世界を作る必要はない。この作者にとって世界はすでに面白いのだから。

はこべらや温室に飼ふ元ひよこ>の「元ひよこ」は表現が浅すぎる。<かなかなや若者集ふ橋の下>の「若者」という言い方にやや旧時代を感じた。

作者が面白いと掬い上げた景の、その全てに読み手として共感したわけではない。だが50句に流れる、ほんのちょっと面白くて、ほんのちょっと物悲しい通奏低音は、この作者の個性だと思った。



メイキング・落選展を読む(勝手にあとがき)

ようやく26篇、1,300句読み切った。

約二か月間、一篇一枚の用紙に縦書きで読めるよう印刷し、鞄のなかに入れ、家以外でも毎日の通勤時や昼休み、ショッピングセンターの椅子などで取り出して読んだ。毎日誰かの50句を頭において生活する中で、少なからず応援する気持ちが芽生えたことも確かだろう。

だが前置きに書いた内容は揺らいでいない。その上で、私なりの提言を鑑賞の内に含めた。全て、未知なる俳句に出会たいという我儘な欲求と、何よりも生涯不変の俳句愛に拠るものである。そぐわない事を書いたかもしれないが、そこは読者や作者の寛大さに委ねどうかご容赦頂きたい。当初の予想通り、書いた内容は全て私自身に跳ね返って来ており、妥協せず作句することはますます困難になりそうである。しかし書き続けるしかないのだ。

落選展から新たな才能が現れることを祈りつつ連載を終えたい。他のお二方と足並みが揃わなかった事、毎回ギリギリ入稿かつ長考で編集の方々の手を煩わせてしまった事をお詫びいたします。



≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で
≫2. 何を書きたいか
≫3.みんなおなじで、みんないい?

10句作品テキスト 小野あらた 喰積

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喰積 小野あらた

喰積を広々使ふ煮しめかな
伊達巻の渦の短き去年今年
取皿にごまめの向きを揃へけり
まっすぐに背骨の暗きごまめかな
数の子に黒皿透けてみどりいろ
太箸に栗きんとんの甘さかな
結昆布結び目の暗きをつまむ
貝割れの厨に育つ淑気かな
ぼんやりと角の見えたる雑煮餅
日脚伸ぶ醤油を弾く目玉焼き


第6回石田波郷新人賞受賞作を読む(前編) 『賞の輪郭』  小池康生

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第6回石田波郷新人賞受賞作を読む(前編)
賞の輪郭     

小池康生


週刊俳句から、受賞作を読めとのお達し。

わたしはすでに読んでおりました。

昨年、銀化12月号に石田波郷新人賞を取り上げたのだ。10月に書いて12月号に掲載。月刊誌の時間差はもどかしく感じることが多いのだけれど、Webの『週刊俳句』に明けて1月に書くというのは、紙媒体より遅いデジタルということになり、これはこれで面白い。

しかし、いま、再び作品と向かい合うと、いまさら受賞作のなかから選をして感想をまとめてもすでに誰かが書いたことをなぞることになり、それはとてもつまらないことに思える。

わたしの手元には、大会実行委員会のまとめた『石田波郷俳句大会 第6回作品集』がある。

これが面白い。90ページに及ぶもので、作品はもとより、巻頭言から選評まで興味深く読ませていただいた。

つまりは、受賞作品だけでなく、この作品集全体をどう読んだか、この賞をどう受け止めているか、そんなことを書くことになるのではと思いつつ、見切り発車で書き始める。



この賞は有名で、受賞者がどれだけ活躍しているかはよく承知しているが、作品集を読むのは初めて。

お恥ずかしい話だが、『石田波郷新人賞』として覚えていたので、ここに年齢制限のない一般の部や、ジュニアの部があることを存じあげなかった。あまりにも若者の登竜門として有名なので、「新人」という冠のつかない部門を知り、失礼ながらこの部門は宣伝不足ではないかと、余計なことを考えたりもする。

かなり以前に書いたことだが、俳句コンクールで、募集要項に50歳以下、40歳以下、30歳以下と年齢制限をつけることは、若者を刺激するには面白いことだが、その年齢より上の人たちは、疎外感を覚えるし、実際「年齢を制限されると、わたしたちは用なしと言われている気がして不愉快」と鬼の形相でおっしゃる先輩がいたし、人の口を借りているが、わたし自身遅れてきた青年ならぬ遅れてきたおっさんなので、年齢制限を見るたびに、自分たちに門戸は少ないと思うし、一方で、俳句人口を支えているのは、この制限された年齢よりも上の世代なわけで、その世代にも刺激敵な賞を用意するプロデューサーが現れてもいいのではないか・・・・ということを4、5年前に書き、それを読んだ七十オーバーの先輩から強く握手を求められた覚えがある。

もとい。

だからこそ、新人賞で有名な石田波郷俳句大会に、年齢制限のない一般の部があることをもつと広く知らしめてもいいのではないだろうか。わたしだけでなく、一般の部の存在を知らない人は意外に多いと思う。

それと、新人賞は20句ひと組で、一般の部は2句ひと組もしくは3句ひと組というのも、つまらない。大人の部門ももっと個性的、刺激的な企画にしてもいいだろう。若者向けの企画にだけパンチ力をつけ、一般相手は平凡でいいというのもおかしい(そういう気持ちはないでしょうが、わたしの筆は滑りに滑っているところ)。

おじさんやおばさんや、お婆さんやお爺さんだって刺激が欲しいのである。

話を戻すと、この一般部門の句、大きな声で言えないが、さほど面白くない。新人賞の方が断然面白い。それは一般が劣って若者が優れているのではなく、一般の部の募集要項に刺激がないからだ。

こちらの部門も話題になるような企画にすれば、もっと面白い句があつまり、ここからも俳壇に人材を送り込めることになると思う。

若者の賞を充実させるのと同じように、中高年の賞にも新機軸があってもいい。クオリティの上でも、俳句出版のビジネスの上でも、実はそちらの充実も必要ではないだろうか(なぜ、わたしが俳句出版のビジネスまで考える。筆はいつもより多めに滑っておりまする)。



話を戻そう。

作品集を読むのである。

角川『俳句』1月号にも受賞作品が掲載されているが、主催者発行の作品集は、さらに内容が詳しく読み応えがある。

読み直して気づいたことは、四人の審査員が、応募作全体の中からそれぞれ10句を選んでいて、これでコンクール全体のレベルが伺えるように思える。

なかでも、四人の審査員全員に選ばれ、しかも四人それぞれに別の作品を選ばれている人がいる。

作品名「しばらくは」の安里琉太(20歳)

濁りゆたかに寒鮒の桶を糶る  (甲斐由紀子選)
ははそはの母をはじめに初湯殿 (岸本尚毅選)
天井の影騒がしき氷水     (齋藤朝比古選)
白シャツに車窓の雨の影はしる (佐藤郁良選)

20句の作品で4句も抜かれ、それで奨励賞にも届かないとは不思議なことだ。

それ以外の句でわたしがチェックした句は―――――、

甲斐由紀子選から―――

なまはげに恋しき声の混ざりけり  石塚直子
なまはげで恋心の句。新鮮な驚きを覚える。

岸本尚毅選から―――

雲母虫大日本といふ時代      藤本智子
ある種、いまと響きあう時代の本。危険な匂いも。

扇風機ひよいと持ち揚げられにけり 浅津大雅  
強い風を送る扇風機の意外な軽さ。これも発見。

母老いて罪なき昼寝姿かな     樫本由貴 
20歳の人から見た母親。これからふたりの立場は逆転していくのだろう。

梅雨寒や地獄絵に我らしき人    横田福家
寒気だけでなく湿り気も。

ふらここや後ろが冬で前が春    大池莉奈
前に向かうのは、春だから。繰り返し読むと、後ろが少し怖くなる。

齋藤朝比古選より――――

花ぐもり鯉やはらかく衝突す    高瀬早紀
衝突なんてするのかなと思いながら、ぶつかっていく光景が想像できる。

ハンカチの刺繍うらがはよりなぞる 泉かなえ
「俳句的」という言い方は悪い意味で使われることが多いようだけれど、わたしはこの言葉を肯定的に使う。

星冴えて秒針の音硬きかな     下楠絵里
見逃しそうな甘い句だが、精神性が出ているかと。

彫刻のやうな顔して冷房へ     野住朋可
冷房に向っていくのに、彫刻のやうな顔とは。

佐藤郁良選より―――

潮干狩海見失ふこともあり    日下部太亮
海を見失う・・・気持ち良い驚きを覚える。

まだ、新人賞にも、準賞にも、奨励賞にもたどり着いていないが、来週へ。

(以上)

2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る
















第6回石田波郷新人賞受賞作を読む(前編) さとうあやかとボク出張版波郷賞を読む      佐藤文香

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第6回石田波郷新人賞受賞作を読む(前編)
さとうあやかとボク出張版波郷賞を読む     

佐藤文香


さとう石田波郷新人賞の受賞作を読めだってさ

ボク開口一番感じ悪いですね。ボクは若手といえば『新撰21』や『俳コレ』くらいしか読んだことないので、けっこうワクワクしています。どれどれ、角川の『俳句』1月号に掲載されるのか。新人賞を受賞した堀下さんは……もしやまだ19歳ですか!?

準賞のトモロウに至っては17歳だ。わたしのひとまわり下だ。

なんで呼び捨てなんです。お知り合いなんですか。

いや、わたしが協力してる俳句甲子園漫画『ぼくらの17−ON!』で、最強イケメンチームのひとりがトモロウって名前なんだよ。

しれっと自分の宣伝するのやめてください。

失敬失敬。でも奨励賞の堀切さんはわたしの2コ上だよ。

では、その方の作品から参りましょう。


月白 堀切克洋

どうだった?

余裕のある文体、内容的にはユーモアとロマンが散りばめられていて、安心して読めました。ボクは

箱庭に銀河のごとく細石

がいいと思います。箱庭といえば小さく完成した世界ですが、〈銀河のごとく〉と言うと急に心が空へむかいます。箱庭であっても、空は平等に無限なものなのだ……と感じて〈細石〉にもどってくる。すると、箱庭のなかにあって、石が光を放つかのように感じられるじゃないですか。箱庭という小宇宙をうまく描いている一句です

語るねぇ。それはちょっとやりすぎじゃないかと思うけど。わたしは

粽結ふ少し遊びをもたせつつ

が好きだよ。〈遊び〉ってw もっともらしく言ってるのが面白い

文机の傷のあらはに月白し

なんかも端正でいいと思いますけど

20句のタイトルが〈月白〉でさ、たぶんその句からとってるんだと思うんだけど、〈月白し〉と〈月白〉って違うんじゃね?

〈月白〉は「月が出ようとして空がほの明るくなること」ですから、空のことですね。「白月」だと「白く輝く月」とあります。作品中の〈月白し〉は、月自体のことでしょうから、その作品の月によって白んだ空がタイトルの〈月白〉ととらえればいいのではないでしょうか。

そこまで考えてないんじゃないかなー。はじめに君が余裕って言ってて、たしかに〈蝸牛しづかに泡を吹きにけり〉とか〈蟷螂の尻ふるはせてゐるばかり〉とか、それはわからんでもないんだが、天然すぎるんだよね、余裕が。悪い意味で意図がない気がする。〈松風に散る紅梅でありにけり〉〈夏シャツに海よりの風孕ませて〉みたいな、取るに足りない句があると、まとめて読んだときに狙いが見えにくい。文体で作家性を確立していくのであれば、もうちょっと頭使った方がいいんじゃないかな。性格はよさそうだけど。

ボクはさとうさんの性格のわるさの方が気になります。

かものはしわたくしは〈うみうしの取り残さるる磯遊〉がいいと思いましたね。

お前、オーストラリアに帰ってたんじゃなかったのか。

かものはし「週刊俳句」に載ると聞いて帰ってきましたよ。

かものはしは動物の句が好きだからな。

かものはしこの句はうみうしの派手な色が見えるのがいいですね。

まぁ、そうだ。発見を大袈裟にしない、素朴な読みぶりに好感がもてた、というところでしょうか。


この蔦を 黒岩徳将


この20句はさ〈夜のシャワー俺が捕つたら勝つてゐた〉がいいよね。

たしかにその句は面白いと思いました。句にドラマがあります。

これがもし、俺のせいで負けた試合や夜のシャワー、とかだったら全然だめだよな。

それだと、物語の要約になってしまうから、ですね。いろんな句のつくり方があると思いますが、ドラマチックなものほど、焦点を絞ってストーリーの断面だけを見せるのが効果的だと思います。

シャワーで全身ずぶ濡れの青年が、今日の試合を思い出してぐわーっと辛い気分になってるんだけど、まわりは静かで、俺は独りで、シャワーが終われば寝るしかなくて、悔やんでも明日はくるし、嗚呼……。

入り込みすぎです。

わたしはこの一句を軸に、20句を読むのがいいように思った。俺のアクティブな日常、みたいな連作として。

姿見を飛び出す頭夏兆す
食ひ終へて炎天の手に棒ありぬ
ポインセチア四方に逢ひたき人の居り

なんかも、主人公をシャワーの〈俺〉に設定することで、ぐっと愛着がわくよね

かものはし愛着のわかない句をあげてもよろしいですか

なんかあったか?

かものはしペンギンの嘴にしづくや夏の果〉ペンギンは媚を売る生き物ですから、それを句に入れるのはあざといですね。

それは偏見だろ! ペンギンの可愛さに頼るのではなく、なんでもない〈しづく〉に着目しているからこそ、〈夏の果〉という季語が輝くんじゃないか。

かものはしは前からペンギンにうらみがあるらしいんだよ。それより、

つまらなきものの輝く夜店かな

わたしはこの方向には未来がないと思うんだけど。

どうでもいいおもちゃや、大して美味しくもない食べ物なんかが、夜店だからこそ輝いて見える、ほしくなる。夜店らしさをズバリ言い当ててるといえるんじゃないですか?

だからだよ。上手に言ったったゼみたいな句には興味ないんだ。

それはさとうさんの好みの問題じゃないんですか。一般的にはこういった句が好まれるような気がしますけど。

わたしはもっと未来な句が見たい。


広がる町 今泉礼奈


ボクはけっこう苦手でした。なんというか、よくわからない。

さっきの黒岩氏の連作の主体がアクティブ男子なら、この連作は妙な女子だよな。じぶんではちゃんとかわいくしてるつもりなんだけど、外から見たらだいぶ変なヤツだ。

とくに、

せんべいに表の味や花疲れ
初冬に銘菓をもらふ手のかたち

このへんがわかりません。せんべいに裏も表もないでしょうし、銘菓といわれてもなんのことやら。

それがこの人の良さだと思うんだけどなー。口に入れて舌にのせたせんべいを噛まずに感じてみるとか、おみやげでひとつずつ配られる地方の銘菓の、それが何かはどうでもよくて、受けとる掌のかたちに注目するとか。

箸くばる手に酢のにほふ晩夏かな

これも、すし飯でもつくったのかな、旧家のお盆を想像したよ。たくさんで食べる料理を用意して、そろそろ食べるってときに割箸配るじゃん? その自分の手がすげー酢っぽいの。それと同時に、さっきまで料理してて気付かなかった晩夏っぽさを感じる。

双六の紙をおさへる係かな

これなんかはどうなんですか? こんなこと詠んで面白いんですか?

〈係かな〉って言い方が、茶目っ気があっていいじゃないか。思ったけどさ、君、こういう女の子が苦手ってだけじゃないの?

そんなことないです。表題句の

噴水より広がる町を歩みけり

は、なるほどと思いました。リズムが整えば、もっとこの句の内容のすがすがしさにマッチすると思いますが。

たしかに、言い回しががちゃがちゃしてるとことかはあるけど、〈つばくろや窓と格子は少し遠い〉みたいな句は、それが是正されたらよくなるってもんでもないと思うんだよな。あんまり大人びてほしくない。

とすれば、ボクはこの人の作家性みたいなものにあまり興味がない、ということでしょうか。

君はもう少しいろんなタイプの人と付き合ったほうがいいよ、男子も女子も。

余計なお世話です。

(後編に続く)

10句作品 小野あらた 喰積

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週刊俳句 第405号 2015-1-25
小野あらた 喰積
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週刊俳句 第405号 2015年1月25日

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第405号
2015年1月25日


2014「角川俳句賞」落選展 ≫見る
2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


小野あらた 喰積 10句 ≫読む

……………………………………………
【2014角川俳句賞落選展を読む】
最終回 5. 書き続けるしかない……依光陽子 ≫読む

【句集を読む】
意志ある声
谷口忠男句集『桐咲く村』の一句
……小沢麻結 ≫読む


【2014石田波郷新人賞受賞作を読む〔前篇〕
賞の輪郭……小池康生 ≫読む

【2014石田波郷新人賞受賞作を読む〔前篇〕】
さとうあやかとボク出張版波郷賞を読む……佐藤文香 ≫読む

【2014石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第一章〉浮遊することばたちと許されたわたし
……田島健一 ≫読む

〔ハイクふぃくしょん〕
猫のばか……中嶋憲武 ≫読む

【鴇田智哉をよむ 7】 
息する影……小津夜景 ≫読む

自由律俳句を読む 77
尾崎放哉〔1〕 ……馬場古戸暢 ≫読む

連載 八田木枯の一句
母在せば母にうるはし雪の伊勢……西原天気 ≫読む

〔今週号の表紙〕西新宿……中嶋憲武 ≫読む

3.11 4.11 いわき市 鈴木利明氏・中里迪彦氏の記録写真展のご案内 ≫見る

後記+執筆者プロフィール……西原天気 ≫読む


 
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る





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新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ ≫読む
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後記+プロフィール406

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後記 ● 上田信治


1月4日号「週刊俳句新年詠」にご参加下さいましたみなさま、たいへんありがとうございました。

御投句の際にプロフィールを頂戴しながら、掲載できず、たいへん申しわけありませんでした。

遅くなりましたが、お詫び申し上げます。



と、言いながら、今号ももう週が明けてしまったわけで、明日は立春なわけで。

心を入れ替えて、誌面作りにいそしみたいと。思っております。



それはもうこれくらいの勢いで。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.406/2015-2-1 profile

■花尻万博 はなじり・かずひろ
1970年。和歌山生まれ。早稲田大学卒。結社無所属。第二回攝津幸彦記念賞正賞、他。

■佐藤文香 さとう・あやか
1985年生まれ。句集『海藻標本』『君に目があり見開かれ』。「里」「鏡」にて俳句活動。blog「さとうあやかとボク」 


■小池康生 こいけ・やすお
1956年大阪市生まれ。銀化同人。句集『旧の渚』。

■田島健一 たじま・けんいち
1973年東京生れ。「炎環」「豆の木」。現代俳句協会青年部委員。ブログ「たじま屋のぶろぐ」 

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

■橋本 直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。「俳句の創作と研究のホームページ」

■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。

■西村 麒麟 にしむら・きりん
1983年生れ、「古志」所属。 句集『鶉』(2013・私家版)。第4回芝不器男俳句新人賞大石悦子奨励賞、第5回田中裕明賞(ともに2014)を受賞。

西原天気 さいばら・てんき1955年生まれ。「月天」同人。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。「里」「ku+」所属。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

〔今週号の表紙〕第406号 水仙 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第406号 水仙

西原天気




外で咲いているのと部屋に活けるのとでは、趣が違います。どんな花でもそうですが、水仙はとりわけ、と思います。外のように香りが漂う、届くというのではなく、充満するのも、違う点。

富士フイルムの Velvia100 で撮った写真。いつ撮ったかは忘れました。フィルムカメラですから、ずいぶん昔です。






週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

【八田木枯の一句】春を待つこころに鳥がゐて動く 西村麒麟

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【八田木枯の一句】
春を待つこころに鳥がゐて動く

西村麒麟


『鏡騒』(2010年)より。

春を待つこころに鳥がゐて動く  八田木枯

心には鳥がいて、飛び出したくてうずうずしている。全句集には他に〈春を待つ空の下より空を見て〉〈春待つや胸に鼓の白拍子〉があるが、この句が一番ウキウキ感が強い句ではないだろうか。

生きてゐるうちは老人雁わたし〉なんてのもある。肉体は老い衰えてしまうけれども、心はまた別のところにあるはずだ。この句にも心の鳥を感じる。

八田木枯の心にはいつも若々しいもの、いや自由なものと呼んだ方が良い何かが羽ばたいている。

心の鳥とはなんの鳥だろうか、鶴ではちょっと格好良すぎるだろう。しかしあえての鶴か。木枯さんは死後も読者と遊んでくれる。心に鳥を飼うなら何が良いだろう。

ばさばさ。いや、ばさりか。


 

自由律俳句を読む 78 尾崎放哉〔2〕馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 78尾崎放哉〔2〕

馬場古戸暢


前回に引き続き、尾崎放哉句を鑑賞する。

猿を鎖につないで冬となる茶店  尾崎放哉

昔は猿回しが各地にいたという話を聞く。人間にとっては猿回しを見ることが一つの娯楽になっていたのだろう。最近見ないのはなぜだろうか。

鳩が鳴くま昼の屋根が重たい  同

放哉には珍しく、やや観念的な句。昼下がりの気怠さがよく表れているように思う。

火ばしがそろはぬ一冬なりけり  同

火ばしを生活の中で用いたことがないためわからないが、一家に複数あるものだったのか。実際に使っていた方に話を伺ってみたい。

つめたい風の耳二つかたくついてゐる  同

一人の人間の両耳がくっついているものと最初読んだが、そんなわけはない。冬ほど人が暖かくなる季節はない。

ころりと横になる今日が終わつている  同

楽観的な景であると考えたい。こうした日々を送りたいと思いながらも、送れないままでいる。

俳句の自然 子規への遡行38 橋本直

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俳句の自然 子規への遡行38

橋本 直
初出『若竹』2014年3月号(一部改変がある)

前回確認したように、子規は『俳諧大要』冒頭において、各個に宿る「美」をもって俳句の標準を定義した。しかし、絶対の美などというものはなく、個人個人の「美」はばらばらなものだが、向かう方向は同じだという言い方は見方によってはずいぶん曖昧であり、自身でも不満で言葉足らずの感は否めなかったのかもしれない。翌年再び、「我が俳句」(初出明治二九年七月二五日・八月二五日「世界之日本」)において、この「美」について改めて論じている。

この文は二章からなり、「美の客観的観察」「美の主観的観察」という章題がつけられている。自己の俳句と美をいかに密接に考えていたかがわかるし、「観察」という用語に子規の慎重かつ、科学的な態度を見ても良いように思う。

一章目の「美の客観的観察」において、まず子規は『俳諧大要』と同様に美の絶対的標準の有無について検討する。「今日の哲学心理学は其窮極に及ぶまで一々にこれが解釈を与えざるなり。然らば即ち各自の嗜好に異同ありて其異同の上に正不正を知るべからざるか。」と、これが当時の学問上で答えのない問いであることを断った上で、この「各自の美の標準の外に一定不変なる真正の美の標準有りや無しや」という疑問が「吾人の常に疑を抱く所にして未だ明答を得ざる所なり。」と述べ、『俳諧大要』で一旦明快に切り分けた問題を蒸し返している。といって論旨を変更したわけではなく、丁寧に同じことを繰り返していて、「真正の美の標準の如何なる者なるかは之を明示する能はざるべし」と再び断言し、自分は個々の美と感じる嗜好の差異の「此錯雑の中に些少の統一を認め此紛乱の中に一縷の秩序を発見」したのだという。ここからが重要なところであるが、子規は、時代や個々人による差異ではなく、「各自嗜好の変化」が最も注意を要するという。そこにこそ「大体一定せる方向あることを認むるなり」というのである。そしてそのことを「美は事物を二分して其一方に多く他方に少し」と断じ、この変化を「嗜好の進歩」であるという。

さらにそこで注意をするのが「少数なる文学の識者」の「嗜好及び其進歩」であるという。この「識者」とは、「文学的著作の如何なる部分に向かつても精密に之を比較判定するを得る者」のことと定義される。子規に言わせれば、古今を問わないその「識者」たちの嗜好と嗜好の変遷をみれば「一層明瞭なる美の区域を認め得る」。ゆえに、それを一歩進め「識者中の識者」に取材すれば、「極美」がどこにあるかわかるだろうというのである。子規はさらにこれを一歩進めた問題として、「時代と個人とは如何なる関係を以て進みしか、又進みつゝあるか、又進むべきか」を挙げ、多少の憶測はあるが、学識不足ゆえ答えられない、と結ぶ。

もし、これが子規の自負であれば、自分こそ「極美」を知っているものだ、という意味にも読める文脈ではないだろうか。最後の部分はできもしない未来予測という愚行を犯さないための謙遜ともとれなくはないが、わざわざこのようなことを言挙げする子規の中に、実は言おうと思えば明瞭に言えるのだ、という確固たる自信のようなものを感じ取ってもよいような気がするのだ。

その上で、次章「美の主観的観察」に移ると、主観の一般を論じるのではなく、子規自身による自己の主観的美観の変遷についての言及となっている。しかも、その中で子規は、「暴露的に言はば我が美の標準と文学的識者の美の標準とは大体に於て一致したりと信ず」と正直に言うのである。そして自己の嗜好の変遷を述べ、やがていわゆる「写生」へといたる。「初めは自己の美と感じたる事物を現さんとすると共に自己の感じたる結果をも現さんとしたるを終には自己の感じたる結果を現すことの蛇足なるを知り単に美と感ぜしめたる客観の事物許りを現すに至りたるなり(中略)写実の結果は常套を脱する上にありて効力を現したり」。

前回の末尾で、子規の考える進歩について、「いわゆる近代の素朴な進化論的思考の一環と捉えるべきであろうか」と疑問を提示したが、子規の言う「進歩」は、どうやらそのようなものではないと言うことができるであろう。「我が嗜好の変遷を概括して言えば其美と感ずる者漸次種類に於て増加し程度に於て減少したるなり(中略)嗜好の種類多きを加ふるに従ひ一種類に於て美と感ずる句は次第に少きを加ふる傾向あり」という子規の嗜好は、子規自身により振り子に喩えられるが、単線的な発展ではなく、形なく水のように広がり、波のように一瞬どこかに偏ってもやがて元にもどるような性質であるようなものかと思う。言い換えれば、途中偏向があったとしても、やがてありとあらゆるものへ「美」を見いだすようなもの、ということができよう。

子規はこの後さらに、このことは俳句に限らず、文学全般に言えるのだという。「故に文学に於て我が美とする所はある人の説く如く理想をのみ美とするに非ず、写実をのみ美とするに非ず、将た理想的写実又は写実的理想をのみ美とするに非ず、我の美とする所は理想にもあり、写実にもあり、理想的写実、写実的理想にもあり、而して我の不美とする所も亦此等の内に在り。我は宇宙到る処に美を発見せざるごとく無く又不美を発見せざること無し。」このように言う子規を写生だけの人とみることは、大きな誤りと言わざるを得ないように思われる。

【鴇田智哉をよむ 8】写影、あるいはアンフラマンスなまぐわい 小津夜景

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【鴇田智哉をよむ 8】
写影、あるいはアンフラマンスなまぐわい

小津夜景

前回は、デュシャンが〈影〉をはじめとした〈次元移動の限界閾〉をめぐる諸現象を「アンフラマンス=極薄」と名づけていた話を土台に、鴇田の句に顕著といえる〈あるかなきかの軽さや動き〉もまたそのようなアンフラマンスへの嗜好と関係しているのではないか、といった話をしました〔*1〕。今回も引き続きこの〈影と次元移動〉の観点から鴇田の句を眺めてみたいと思います。

  鳥が目をひらき桜を食べてゐる   鴇田智哉

これは「目」というディアファネースを中心として構成された句です。

この目の中には、作者本人ならざるもうひとりの作者が映っています。あるいは角度や距離によっては映っていないかもしれませんがそれでも構いません。掲句から分かるように、作者の意識はこの鳥の何もみていないような、まるで死んだ人形のような、異界の鏡じみた瞳に深く吸い込まれている。そして吸い込まれているということは、目という〈インターフェイス=界域〉を媒介とした〈私と対象との往復運動〉すなわち〈見る者と見られる者とのあいだの可逆性〉に作者がすでに巻き込まれている、ということに他ならないのですから〔*2〕

〈見る者と見られる者とのあいだの可逆性〉とは、見る存在が見られる存在へも転じるという意味です。ですから鳥の、そのふしぎな瞳に捉え返されるたび、鴇田はまるで彼自身の側が〈世界の影〉であるかのように感じざるを得なくなる。かくして鴇田は鳥とまぐわい(目合い)、おのれの鏡を鳥のそれと戯れさせることで、おのれが〈自分その人でありつつその影でもある〉という存在のスライディング、あるいはアンフラマンスな次元移動の感覚を生々しく生きることになります。

ここで注目すべきは、一般に鏡像というのが自己同定の経験とセットで語られることの多い概念であるのに対し、この句ではその反対、すなわち自己の分裂をうながす作用を担っているといった点でしょうか。さらに、この鏡像が自己の分裂を引き起こすだけならいまだ想定内の発想といえますが、鴇田の場合は〈私自身とその影〉とのあいだの虚薄軽動な〈次元移動〉が目論まれている点で、かなり独特に思われます。

それはそうと、瞳とは鏡であり、小さな人(私)の宿る場であるといった見立ては、昔からさまざまな地域で共有されてきた感覚のようです。たとえば谷川渥の『鏡と皮膚』では、プラトンの発言が引かれたのち〔*3〕、ギリシア語の「ひとみ」が「人見」に由来する(これ、日本語も同じですね。ちなみに「かがみ」については「影見」ないし「屈見」がこの本で採られている語源です)と同時に人形の意味でもあったことが述べられています。その他にも「英語のpupilも、瞳と生徒の両義をもつし、そもそもラテン語のpupilla, pupillus, pupulaといった言葉は、瞳と女の孤児あるいは男の孤児の両義にまたがる。第一、漢字の「瞳」は「目」の「童」ではないか。川崎寿彦の『鏡のマニエリスム』(一九七八)は、英語で相手の瞳にうつる自分の小さな姿を「眼の赤ん坊」と呼ぶ場合があることを教えてくれる」など、瞳の語源にまつわる諸説が紹介されており、瞳の童の部分は子供だけでなく孔や窓の意味でもあるので谷川の話をそのまま鵜呑みにはできないにせよ(ただしイメージ論的には孔や窓の方がむしろ好都合なくらいですが)、目というディアファネースを介した「自己とその影」の問題を考える上で、私には重要な示唆を含んだ内容に思われました。


〔*1〕「息する影」を参照。
〔*2〕「生きながら永眠する日」「生きながら永眠する日、それから」及び「おもてとうらと、こゑのゑと。」を参照。
〔*3〕それなら、きみはもう気づいているだろうが、誰か人の眼をのぞきこむと、自分の顔が相対する眼のおもてにあたかも鏡に見るように映っていて、この鏡のようなものをまたわれわれは人見(ひとみ)と呼んでいるが、そこに映っているものはのぞきこんでいる者の写影みたいなものなのだ。どうだね。――おっしゃるとおりです。――してみると眼は眼をながめる、とくにまたその最も大切な部分、まさにそれによって見るということが行われているこの人見の部分へ眼差しを向けることによって、自分自身を見ることになるわけだ」(プラトン『アルキビアデス』)


【週俳・2015新年詠を読む】祝う歌こそ楽しけれ 西原天気

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【週俳・2015新年詠を読む】
祝う歌こそ楽しけれ

西原天気


鏡餅歯科医師レジスターを打つ  瀬戸正洋

年末年始に開けている歯科は、都会なら、ありそうです。そういう歯科はふだんも夜遅い時間帯にやっていたりする。

鏡餅は受け付けカウンターの後ろでしょうか。餅→歯科医→歯科医の指先。遠近法、あるいはズームアップ。

裏白や岬は空をつらぬけり  五島高資

反り返る羊歯の葉と、空をつらぬくように長く伸びる岬の相同。小景と大景の対照。儀礼と自然の照応。それらが、めでたさのなかにくっきりと描出されています。

初空や裏表紙だけ燃え残り  今井 聖

裏表紙を除くすべては空へ、けむりとなって。

新年が大きな口をあけて待つ  小林苑を

期待でも不安でもない。すぐそこにやってきているものの本性。

すこやかに腹減つてきし千代の春  齋藤朝比古

「千代」。くりかえしくりかえし腹が減る。そのことのすこやかさ、めでたさ。

新暦三箇所時計五個私室  小久保佳世子

三つ(三冊、三枚)ではなく三箇所なのですから、もう置かれた状態です。時計は五個とも動いていそうです。ちょっと怖いような可笑しな部屋。でも、それが「私室性」というものでしょう。

てのひらに遠き手の甲年明くる  山田露結

地球の裏側的遠さ。

重箱を泡に放りし二日かな  小早川忠義

二日には早くも洗い物。泡の白さと塗りの濃い色。

静岡は良いところなり初笑  西村麒麟

富士山が見える句。

塩つまむやうにめくりし初暦  鈴木健司

浄めの塩も連想させます。除夜の鐘でまっさら・無罪になった私たちに、また始まる一年。

しづまらぬ一点のあり雑煮椀  阪西敦子

どことも言えぬ一点。同時に、一面ほぼすべて鎮まったことの醸し出す空気。

お降りのはじめは鳥のやうな息  渡戸 舫

空に発生する事象のかそけさ。

お降りの糸散らばつてゐる東京  宮本佳世乃

それも地上に達すれば、かそけくもない。


≫2015新年詠
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/01/402201414.html

【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第二章〉世界の向こう側のお話をきかせて 田島 健一

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【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第二章〉世界の向こう側のお話をきかせて

田島 健一




02.(葛城蓮士)

俳句をつくるとき、いったい「ことば」はどこからくるのだろうか。

私たちはすべての「ことば」の集合から、自分の求める「ことば」を選んでいるわけではない。そこには「ことばのかたまり」とでも言うべき大小の言語セットが存在していて、通常はその言語セットの内がわで、私たちは日常を生きている。

例えば看護師であれば、医療や看護に関わる言葉セットのなかで情報を交換しながら日々の仕事を遂行し、ひとたび家に帰れば家庭の言語セットのなかで家族と会話をするだろう。人は、そのような大小の言語セットの複合体である、とも言える。

隋道に昏き罅あり夏深し  葛城蓮士
萬屋に黄色の値札猫の恋

「隧道」は言うまでもなく「トンネル」のことで、「萬屋」はもしかしたら「100円ショップ」のことかも知れないし、そうではなくあたかも「萬屋」としか呼ぶことのできない趣をもった店なのかも知れない。私たちはよく「世界」という言葉を(worldではなくuniverseとして)使うが、その「世界」の質感というのは、そこを生きる主体の言語セットに左右される。

「隋道」「昏き」「罅」「萬屋」「黄色」「値札」がこれらの句の主体を構成する言語セットで、この世界に住む主人公たちである。そこに「トンネル」や「100均」などという言葉が含まれていないのは偶然ではない。それが偶然ではないために、実はその世界には平和が維持されていて、その限りにおいて暴力的なものは何も発動しない。

妹の檸檬を絞るとき殺意

言語セットによって守られている平和があるからこそ、ここで「殺意」と言ってみたところで、それによって世界のどこかで警報が鳴ることはないのだ。

世界が危機にさらされるのは、そのような言語セットを主体が横断したときに他ならない。看護師の妻が、仕事を終えて家にもどって、家族のために肉料理を作りながら、突然、肉の「血液」について語りだしたとき、はじめてうっすらと恐怖が生まれるのである。世界を構成する言語セットからゆったりと排斥されている言葉が、姿をかえて世界に再帰するとき、その言葉ははじめて「異物」として作用するのだ。

その世界がどのような言語セットで構成されているかを知ることはそれほど難しいことではないが、そこから何が排斥されているのかを知ることは難しい。わたしたちの眼は、見なれた日常の風景から不都合なものはゆるやかに排除してしまい、それを見ることができないからだ。

梟の飛ぶときそつと首しまふ

私たちには、そつとしまわれた梟の首を見ることはできない。世界が言語セットで構築されていて、その言語セットの外部にあるものを見ることができないということは、私たちの視線の限界を示している。それは言い換えれば、私たちの立っているこの場所が言語セットによって取り囲まれていて、私たちに別の視点を許さないということだ。

世界をみつめるカメラはひとつしかない。それこそが俳句における〈孤独〉の正体であり、深夜の静けさのように私たちをつつみこんでいるのである。

〈孤独〉な私に呼びかけてくるものは何か。深夜の静寂を破り、時間を騒がせる「カラフルなことば」はあるのだろうか。

〈第三章〉へつづく

≫〈第一章〉


第6回石田波郷新人賞受賞作を読む  賞の輪郭(後編)      小池康生

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 第6回石田波郷新人賞受賞作を読む
賞の輪郭(後編)   

小池康生

≫後編


前回にも断りを入れたが、わたしは『石田波郷新人賞受賞作』を読むというよりは、『石田波郷俳句大会第6回作品賞』の全体を読んで楽しみ、その感想を書いている。

波郷新人賞を狙う人は、この小冊子を手に入れて読むといい。

各審査員から仮名遣いの安易な間違いに気を付けるようにとか、二十句のなかに直喩の句をいくつも入れないようにとか、その他具体的なアドバイスが選評のなかに散りばめられていて、コミュニティを持たぬ人たちには貴重なアドバイスになることだろう。

冊子内の、選考過程について説明する一文に石田波郷新人賞は、〈「俳句甲子園」で登場した若い才能がさらに大きな注目を集める「第2のステージ」として、この新人賞が位置づけられるという見方も増えています〉とのこと。確かに、学生俳人がさらに社会人をも含めた俳句の世界で羽ばたく登竜門のような感じはする。

年齢制限三十歳までコンクールだから、学生とは限らないのだが、実際には、今年の受賞作は十八歳の大学生。準賞は十七歳の高校生。奨励賞は二十歳の大学生と、二十四歳の社会人と、三十歳の院生。

ひとり三十歳がいるが、実に若い人たちが活躍していて、二十歳以下にしても成立しそうな勢いである。

俳句は年齢ではなく、俳句を読んできた数、詠んできた数、さらにはその読みがどれだけ深いか。そこに俳人の成長が関係するとつくづく感じる。

年齢的な深みも重要であるが、月に4句5句を作ってそれで終わるだけでは、年間六十句程度の作句数。作者が年齢的深みを持っていたとしても、それを作品に載せる技は、その作数ではなかなか身につかないだろう。

高校生は俳句甲子園のためにだけ俳句を作っているわけではないだろうが、俳句甲子園に出場するにあたり集中的に作品を作る。月に4句5句では済まない。数百句は作るだろう。

初学を抜け出す方法として、まずは2000句以上作ることだと西村和子さんが総合誌で発言していたことがあり、おおいに共感したものだ。俳句甲子園強豪校の部員は、三年間の高校生活で2000句ほどを作っているものと推察する。高校卒業と同時に、「初学」も卒業していくのだ。

ただ、濃厚なコミュニティに所属し、先輩諸氏との交流を重ねたドラマチックな「キャリア」の前では、作句数の話は力なく霧散するだろうが・・・。

もとい。石田波郷新人賞へ。

応募数70編。これが多いのか少ないのかわからないが、テーマを持った20編をまとめるというのは大変なことだろう。

大半の応募者は、締切りぎりぎりに追い込みで仕上げ、仮名遣いや文法のチェック、並べ方にまでは細心の注意を配れぬ人たちが大半で、締切日を遠くから見て、段階的に二十句を完成させていく人は少ないだろう。

しかもベースとして、それまでにすでに2000句を作り、しかるべき選を受けてきた人間の数はさらに限られ、コンクールの上位進出は、応募以前から決まっているようなものではないだろうか。鍛錬の場を持っていたかどうか。その差は大きい。

さて、受賞作の話。


●新人賞 しがみつく』堀下 翔

一面に蝌蚪をりすべて見失ふ
流燈を追い越してみづ駆けにけり

に惹かれた。さらに劈頭の句も印象的。

熊ん蜂二匹や花を同じうす

たいていの18歳なら〈熊ん蜂二匹が同じ花の中〉と書く可能性が高い。この一句で、散文ではなく韻文をやっていますよとたからかに宣言しているわけだ。

しかし、四人の審査員全員が印をつけているかというとそうではなく、岸本尚樹◎、佐藤郁良〇、甲斐由紀子と齋藤朝比古は無印。これが俳句を選び、選ばれることの面白さ。

甲斐由紀子は、選評に〈自然を場として自然現象をよく観察し、写生を基本として詠出している。まだ十代であるが、俳句の骨法を熟知しており、作品の風姿が端正である〉と書きつつ、〈(略)反面、選考会では「いかにも俳句的」「若さを感じない」という意見もあった。確かに「一面に蝌蚪をりすべて見失ふ」や「秋風やかはうその尾が川のうへ」などには俳句的手口が見え隠れしている。それをあからさまにみせないのが、芸の力であろう。〉

こういう選評を若き応募者たちはどう読んでいるのだろう。わたしは興味深い。作品がある。作品を読む人がいる。そこから出てくる言葉が、どれだけ作者や座を囲むひとたちを刺激するか。この場合は冊子を手にとる人たちを、コミュニティのメンバーと考えたい。わたしには、〈俳句的手口が見え隠れしている。それをみせないのが芸の力であろう〉というところがアンダーライン。

前回、ちらりと書いたが、俳句を作り「俳句的」と言われる場合、すでにある俳句を踏襲しているという批判が含まれる。古典を学び、新しみを追求する姿勢からすると、「俳句的」であることに批判的要素が含まれることにいつも抵抗を覚えるのだが、上記の発言はとても肯える。

つまりはバランスであろう。学んだものをどう昇華し、自分の文体にひきつけ、新しみを拓くか。

わたし自身、ただならぬ新人と目を見張りながら、20句全体に心躍らされたかというと話は別。感心して読んだのは事実だが(それで十分なのだが)。しかし、18歳。これからこの作者の作品になんども心躍らされることだろう。どうすれば18歳でこれだけ韻文精神を身につけられるのか。

俳句を始めたばかりの青年は、戸惑いを覚えることだろう。いや、俳句を始めたばかりの人は、ここにある技術や、抑制に気づかないかもしれない。


●新人賞・準賞  眼を得る』 永山智郎

現役の高校生。俳句甲子園優勝開成高校の中心的メンバー。17歳。
わたしが二重丸をつけて読んだのが、

ある高さからは色なき石鹸玉
蝙蝠や玄関先に読む手紙

劈頭の

きさらぎの市場へ光りゆく轍

の「ゆく」には引っかかりを覚えたが。
選考過程を読むと、正賞の『しがみつく』と最後まで競った作品であるらしい。

この作品にもふたりの審査員が印をつけている。
佐藤郁良◎、齋藤朝比古〇。甲斐由紀子と岸本尚樹が無印。

佐藤郁良の選考評。
〈準賞に決まった『眼を得る』は最後まで『しがみつく』と議論になった作品である。とりわけ「ある高さからは色なき石鹸玉」の発見、「工具みな違ふ光やきりぎりす」の取り合わせの感覚などは秀逸である。(略)全体として抑制された表現の中に滲み出る叙情性に強く惹かれた。『しがみつく』が平明な写生を旨としているのと、ある意味で対照的な作品であった。〉

齋藤朝比古の選評は、まず、『眼を得る』と下楠絵里の『風の名』を一緒に評し、〈俳句でしか言い得ない世界観を表現しようと試みた、作者の力量が伺われる好作〉としたあとに、全体の作品に触れている。

〈いずれの作品も新人賞作品との大きな差異はなかったことは、第一次選考の集計結果や選考委員会での議論の内容から疑う余地はない。また、ここのところの本賞への応募作品のレベルの向上は著しく、先の新人賞者の活躍を鑑みるに、本賞がまごうことなく若手新人の登竜門として機能している点は、選者としてとても嬉しく思う〉

こここで言うレベルが応募作70編全体を示しているのか、最終審査に残った12編のことを指しているのかは不明。
このあと、こういうアドバイスが続く。

〈最後に少々の苦言。毎年応募作品全体を読み、選考させて頂くのだが、「不用意な仮名遣いの間違い」「安易な当て字の使用」等により最終審査から漏れてしまうという、選考する側から見てとても残念でならない。少々の時間を割いて、今一度の推敲と辞書による確認をしてから投稿するよう、切に願う。〉
最後の〈節に願う〉を読むと、相当惜しいことをした作品があったのだろうといらぬ想像をしてしまう。

準賞の『眼を得る』に戻ると、甲斐由紀子の評は、抒情にあふれた作品を褒めつつ〈全体にバラつきがあり、受賞に至らなかった〉とのこと。

一方、岸本尚樹は、
〈「ある高さからは色なき石鹸玉」「兄いもと寝網一つに入れてやる」「工具みな違う光やきりぎりす」「冬来る嵌め絵の少女眼を得れば」などが完成度の高い秀作。私自身は『しがみつく』のユニークさ(確信犯とも思われる緩い、脇の甘い文体で読者を句中に誘い込む独特の句触り)を評価したが、句の出来では『眼を得る』も十分に正賞に値するとの認識が選考委員間で共有されていた。〉

そこまでの接戦だったようだ。次回有力候補であることに間違いないだろう。

18歳と17歳の接戦。改めて、ふたりの筆力に舌を巻き、やはり俳句は一部天才的な人たちのものではないかという考えが頭をよぎるが、しかし、『しがみつく』にしても『眼を得る』にしても、どちらもダサいタイトルではないか。そこを衝く審査員はいないのかと心の中で毒づき、特別でも天才でもない全国の17歳や18歳に思いを馳せる(ホンマかいな)。


●新人賞・奨励賞 広がる町』 今泉礼奈

この人は、ネットの中で「俳句アイドル」を自称している人であることは知っていたが、作品に触れたことはなく、劈頭の句、

初空のふつくらと鳥受け入れる

を読んだ時には、軽い驚きを覚えた。本格的ではないか。もっと新しさを全面に押し出す主観的な句を作る人かと勝手な先入観を持っていたのだが・・・・。

双六の紙をおさえる係かな

も意外なところを衝かれた気持ち良さがある。私の特選は。

箸くばる手に酢のにほふ晩夏かな

その他にも、たくさん印を付けながら読ませてもらった。
気になったのは、三句目

白木蓮のおほきく昼を過ごしけり

一句目で「ふつくら」、ここで「おほきく」どちらも形容詞に大事な仕事をさせ、それがはじまりの3句までに入っているというのは損な構成ではないだろうか。


●新人賞・奨励賞 この蔦を』 黒岩徳将

審査員全員が、以下の2句を挙げて褒めた。

つまらなきものの輝く夜店かな
ポインセチア四方に逢いたき人の居り

わたしもこの2句に特に惹かれた。夜店の句は、この小冊子全体の中でも一番魅力を感じた句である。特選のなかの特選。

しかし、他の句がいただけない。作品全体のバラつきということでは、この20句が一番バラ付いているように思う。昨年も奨励賞。さて、来年は?


●新人賞・奨励賞  月白』 堀切克洋

甲斐由紀子が二重丸。選評は、

〈「うみうしの取り残さるる磯遊び」「蝸牛しづかに泡を吹きにけり」「蟷螂の尻ふるはせてゐるばかり」など対象に対する哀憐の情が静かに沸き起こる佳句も多く、地味ではあるが言い過ぎない鷹揚な句柄に惹かれた。他の選考委員から「インパクトがない」「既視感のある作品がある」との指摘もあった。今後は、取り合わせる季語については、先行作品にあたって吟味するなどの努力が必要であろう〉

このコメントにほとんどのことは言いえているだろうから、なにも足すことはないのだが、わたしは、

どちらかといへば汗かく人が好き

に強く印を付けた。作者の立場にたてば、既視感を指摘され場合、具体的な作品を提示して欲しいところだろう。句会でよく「既視感」があるという指摘がおこなわれるが、コンクールの選考の場であれば、具体的指摘が必要かもしれない。

「既視感がある」は決定的なマイナス要因でありながら、使い易い言葉であるところが怖い。

こうして、全体を見ると、賞にかかった作品群はすべて旧かなである。

これは応募要項に制約があるのだろうか。それとも石田波郷賞だから押してしるべしというところだろうか。

賞を得た作品群は、伝統から多くを学び、韻文精神を知り、俳句の骨法を知っている作品ばかりである。その後の活躍は約束されるのも、そういう基礎の厚みを認められているからだろう。

新機軸もあくまで基礎があればこそ。そういう意味では、王道を行くコンクールである。

しかし、気になることもある。

それはキャリアを見て感じることで、この小冊子に必ずしも学歴などは記されていないが、彼らは進学高校、一流大学を出て、俳句甲子園経験者であり、すでに俳句エリートとして注目を集めている人たちであるという共通項がある。

前回、自分自身が遅れてきたおっさんであることを書いた。

これからも遅れてくるおっさん、おばさん、婆さん、爺さんが俳句の世界に入ってくるだろうが、若手にも遅れてくる人たちがいるはずだ。そこがとても気になる。

俳句甲子園と縁なく、大学に入ってから、社会人になってからスタートを切る若者たち。この遅れてきた青年たちは、今、本当にやりにくいだろうと思う。先行している若者はたいてい俳句甲子園経験者で、すでに横のつながりもできていて、技術も身につけている。そんな同世代の先輩と座を囲むのは結構肩身が狭いかもしれない。

遅れてきた青年たちが、旧かなを使いこなし、文法を間違えず、魅力的なタイトルをつけ、20句の並べ方に演出を施し、見ず知らずの読み巧者をうならせるのは簡単なことではない。

遅れてきた青年たちに薦めたいのは、結社に入ることである。

最近、というよりだいぶ前から、若手の有力な俳人たちのネットでの発言は、図らずも結社のネガティブキャンペーンになっているところがあり、それを結社所属の人間がとやかくいうのも憚られていたのだが、一度書いておきたいことがある。

別にわたしの所属する『銀化』の宣伝でもなんでもない。

遅れてきた青年たちに、結社という存在がお勧めであるということ。

結社に入らないまでも師を持つべきである。ひとりで俳句力を身につけられるのは、天才的な一部の人たちだけなのであるから。

散文はひとりで学べると思うが、韻文は短い癖に、極端に短いからこそ、そうはいかない。あまりに特殊な表現なのである。

天才的な人間が、一流高校から一流大学に進み、そのなかで有力俳人のいるコミュニティに参加し、作句力や鑑賞力や俳句に関する情報を得ていく。遅れてきた青年が彼らに追いつき、自分の世界を展開し、それが独りよがりに終わらず、石田波郷新人賞受賞レベルにたどり着くのは大変なことである。

若者には、結社アレルギーのようなものが深くあるようだが、アレルギーが起こるほどたいした毒性を持つ結社などあるだろうか。あればそれはそれでたしたものである。

結社には、面倒臭いことはあるだろうが、初学のうちはない。

同人になって多少注目されるようになってからはないとは言えないが、それもせいぜい消費税程度のもので、さらに言えば、今の消費税ではなく、以前の消費税程度のものである。

それよりも、師を持つことの大きさ。良き先輩を持つことの喜びは大きいし、実際役立つ。

結社に所属する人間からは言いにくいが、結社は必要である。

確実に育つ。

俳句甲子園卒業の有力若手俳人が無所属であることが無所属に意味を持たせているのだろうが、それが勘違いのはじまりである。

彼らは俳句甲子園で有名になり、多くの知己を得て、あちらこちらの結社の句会に参加できるようになり、そこから結社の滋養も得ているのだ。無所属であるが、結社からなんらかの栄養は得ているのだ。

或いは結社で実力をつけた人たちから間接的にその栄養分を受け取っている。

一方、自分たちで新しい集団を作り、過去の俳人とは違うコースを探りつつ、その全体の活動を「運動」として自らの創作のかたりを作り上げているのだと思う。それは実に面白いことであるし、そちらに目が行きがちであるが、その前段では自力をつける場所を持っていたというところが大事で、今はその話である。

仲間作りよりもまずは、基礎を身につける場所の獲得である。

遅れてきた若者たちが、「理解しあえる同世代」と、「技術を学ぶ場」を同時に獲得できるとは中々思えない。

漠然と横のつながりばかりできていも、初歩的修練の済んでいない人間があちらこちらに顔をだしたところで、活躍も吸収も難しいのではないだろうか。

まずは、俳句文学館や柿衛文庫に行って目をつけた俳人の句集を読み、これという人を見つけるのだ。そこには毎月の結社誌もおいてある。簡単に師が見つからないのも当然。あちらこちらを見学してまわるのも一つの手だ。

エリートのことはどうでもいい。すでに道はつき、活躍は約束されている。それよりも、遅れてきた人間は、遅れてきた人間にふさわしい道筋を探さねばならない。

前々からネットの中で言っておきたかったことだが、石田波郷新人賞を読み、一層、その思いが募る。

ただ俳句に興味を持っただけの凡夫にこそ、俳句世界は面白いところであって欲しい。

高校生は2年3年で開花する。遅れてきた青年たちは何年で開花するのだろう。時間はかかるだろうが、恵まれたエリートだけでなく、ゆるゆる戸惑いながら俳句の世界に入り込んだ青年が、石田波郷新人賞を獲るなんて面白いではないか。

俳句の世界がエリートばかりではつまらない。物語の筋書きは色々あってしかるべきである。結社がネガティブなイメージを持っている時、結社にひとり飛び込み、滋養強壮を得て、突然意外なところから無名の若者が俳句の世界に登場するような物語に接したい。

凡夫たちよ、結社に潜り込め。師を選べ。いつか石田波郷新人賞を獲ってやれ。・・・まったく余計なお世話を書いてしまった。

(以上)







第6回石田波郷新人賞受賞作を読む さとうあやかとボク出張版波郷賞を読む(後編)      佐藤文香

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第6回石田波郷新人賞受賞作を読む(後編)
さとうあやかとボク出張版波郷賞を読む     

佐藤文香


≫前編

さとう じゃ、いよいよ準賞だ。

眼を得る 永山智郎

ボク この作品はすごく好きでした。 

さ ほほう。まぁ君が好きそうな句だな。

ボ まず最初の3句からしていいじゃないですか。

きさらぎの市場へ光りゆく轍
漆黒の眼球模型春きざす
ある高さからは色なき石鹸玉

若々しい、するどい詩性を感じます。

さ 〈轍〉とか〈漆黒〉とか〈模型〉とか、ポエティックワードに目くらましをくらってるだけじゃないの?

ボ つくりもしっかりしているじゃないですか。とくに〈石鹸玉〉の句がいいですよ。地に足をつけて立つ自分から、空へと離れていく石鹸玉の、映す景色も空になるから、もともとほとんど透明なはずの石鹸玉が本当の姿にもどっていくといいますか。発見なんですが、淋しくて冷静。

さ 透明といえば

声透明桜吹雪の向かうから

というのが面白かったな。桜舞い散る向こうから声がする、みたいな句はよくありそうだけど、この上五の「声透明」って、超唐突じゃん。上手ってかんじじゃないけど、ビビットだ。

ボ 全体に透き通っていて、きれいなんです。

さ でも、じゃあ、

大き手を褒められてゐる帰省かな
兄いもと寝網一つに入れてやる

とかは、べつにこの人がつくらなくてもよくない?

ボ たしかに、そつなくできてはいますが、愛のあり方としてはふつうですね。

さ あとさ、

古き恋聞き流しつつ桃を切る

これはどうなの? てか古き恋って何? お母さんの昔話とか?

ボ 親が夕飯のあとに、ちょっとお酒が入って饒舌になったりするじゃないですか。息子が高校生くらいになると、親も息子にわかってもらえると思っちゃうもんだから、言わなくていいこと言っちゃったりして。

さ それはわかるよ、うちもお父さんの高校生のころの片思いの話とか聞いたりするもん。ばあちゃんちのこたつに今でも好きだった子の名前が書いてあるし。

ボ さとうさんのお父さんの話は聞いてません。でも、いわれてみると、「古き恋」と言っただけだと、それが誰のものなのか、どれくらいむかしの話なのかがわかりませんね。

さ そうなんだよ。なんかコクのあること言おうとしてるのに、型のすずしさを優先させてしまってるんじゃないかと思って。

ボ 型のすずしさとは?

さ 俳句って、575の17音であるってだけじゃなくて、パターンがあるじゃん。上五「や」で切って最後体言止めとか、止めずに倒置法みたく上五に返すとか。

この人はそういう安定感のあるかたちをすでにいろいろ習得していて、書こうと踏み出す心よりさきに、完成形が見えてしまってるようなとこがあるんじゃないか。俳句を学びすぎてるんじゃないかと思うのさ。これは無意識かもしれないけどね。

だから、逆に言えば、この人の知っている完成形を超える作品が、生まれにくくなっているんじゃないかと思うんだよ。

ボ じゃあどうしたらいいんですか?

さ 福田若之になればいいのさ!

ボ 冗談じゃない、福田さんと永山さんの句は正反対じゃないですか!

さ 冗談じゃない! 君も不勉強だな、福田若之だって高校時代に石田波郷新人賞に出してたころはむっちゃくちゃ定型な句を書いてたんだぞ! 『俳コレ』の最後の章を見てみなさい、〈風邪声はうをのうろこのうすみどり〉〈探梅や水のかをりは陽のかをり〉〈未完なる詩を夏痩せの手が隠す〉これが若之の高校時代だ、君も好きだろう、こういう句

ボ 正直、今の若之さんの句より、こっちの方が好きですね……

さ 永山智郎の句はこのころの若之に及んでないと思う。

君の好みはわかるが、こういうタイプの句は成長過程なんだよ。すべての武器を手に入れて、じゃあそれをどう使って戦うか。武器をどう改造して、どう体を鍛えて、どんなダンスを踊るか。作家になるかどうかは、ここからが勝負なんだ。

ボ 武器のたとえはまぁわかりますが、ダンスはしなくていいでしょう。ボクは芝不器男みたいな、透明感のある端正な句を書く作家が好きですし、うまいと思います。べつに福田さんやさとうさんみたいに、戦ってほしくも、踊ってほしくもないんですけど。

さ 君は知らないのかい? 優雅に泳いでいる鴨が、水面下で足掻いていることを。

かものはし お呼びでしょうか

ボ 鴨の話であってかものはしの話じゃないよ。

かものはし 泳ぐのは得意ですよ。

さ 聞いてないって。要するに、きれいな句を書くにしたって、書き続けるためには足掻かなきゃいけないのだよ。でも大丈夫。きっとかしこい人だから、わたしなんかがそんなこと言わなくても、自力で自分のやり方を探す人だ。これからが楽しみだね。

ボ ぜひ、今の方向性で書き続けてほしいです。

さ だから、それは君の好みだから。作家を信じなさい。

しがみつく 堀下翔


かものはし ようやく新人賞までたどりつきましたね

ボ お前は何もしてないじゃないか。

かものはし わたくしは今回の堀下さんの20句は、いかにも新人賞にふさわしいと思いましたよ

ボ どうせ動物の句がたくさん入ってるからだろ。

かものはし そのことです。20句中、実に8句が、小動物を詠んだ俳句です。いい作家ですね

さ たしかに動物の句は多いし、それ以外でも自然を詠んだ句がほとんどだ。〈風船の飛びだしてゆく駐車場〉と〈脱走かも知れず大西日の気球〉あたりがかろうじて人間社会っぽいというか、でもこの2句は正直そうでもないな。

ボ 実直で堂々としていて好感が持てますが、その反面、ボクには好感度狙いに見えてしまいました。句会でご老人ウケしそうな好青年。

さ 君は心が狭すぎる(笑)

ボ だって、型や句材への挑戦が少ないじゃないですか。〈亀の鳴く八方に水ありにけり〉〈蜘蛛小さし槐にしがみついてをり〉〈花火までおほきく風の吹いてをり〉、これらの下五の、無駄な余裕と言いますか、そのあたりが気に食わない。

さ ははぁん、さては、新人らしさみたいなものを期待してるわけね? こう、薄氷に罅が入るような、ハートをむぎゅっとしめつけるみたいな、盗んだバイクで走り出す的な……

ボ 違います。非難されることを承知で言えば、審査員がこういう句好きそうなんですよ。とくに、岸本さんあたりが。新人賞を獲りに行くためにチューニングしすぎじゃないかと。うまいのはわかりますけど。

さ さすが、本気で賞の研究して20句まとめて出したのにかすりもしなかっただけあるな。

ボ うるさい!〈茶づくりのだんだん晴れてきてゐたる〉なんかも、内容はいいですけど、「だんだん」とか「きてゐたる」の引き延ばし方が、いかにも玄人じゃないですか。

さ しかし、残念ながら、この人は高校時代からわりとこういう句も書く人だよ。もっとも、いろんな句が書ける人でもあるから、少しは賞の性格にあわせることもしただろうけどね。

かものはし いい句がありましたよ

秋風やかはうその尾が川のうへ

「かわ」で韻を踏んでいるだけに、かわいいですね

さ 風と川の、ゆるやかな流れが感じられるいい句だね。「かわ」の音だけじゃなくて、「秋風」の「か」、「尾が」の「が」も効いてる。この20句は音がいいよ。とくにはじめの、

熊ん蜂二匹や花を同じうす

なんて、「熊ん蜂」の「ん」で弾んで、まん中の「や」で切れて、最後「同じうす」の「じゅーす」でねばって、おもしろいじゃないか。

ボ でも、花に熊蜂が2匹いたってだけでしょう? ありきたりじゃないですか?

さ それを、〈熊ん蜂二匹や花を同じうす〉と書いたところがすばらしい。君、「同じうす」なんて言えるかい? とまってたんじゃないんだよ、花の蜜を吸ってるってだけでもないんだ、「同じう」してるんだよ。むかしっぽい言い方だけど、今書かれることがむしろ新しいよ。

あと、20句の景色がいい。意味する内容の自然の世界もそうだけど、句をひろげてみたときの、漢字と仮名のバランスがやさしい。まだ見てない人はぜひ20句全体を見てみてほしい。細部までよく気がまわってると思う。

作品だと、さっきの「かはうそ」の句もいいし、

ある葉桜の立つてゐる日陰かな
黒揚羽とほくに見えて奥に消ゆ
濡れてをる柘榴やあれはさつきの雨

このへんを見れば、決して審査員好みにつくられた句じゃないのがわかるよ。葉桜s でも a 葉桜 でもなく、「ある葉桜」であることではじまりそうな物語や、「とほく」に「奥」があること、水のしずくに光る柘榴を見て、遠ざかる雨雲の存在を思うと、手元がいっそう明るくみずみずしく感じられること。な、いいだろう?

ボ ボクだって、もちろんいいと思った句もありますよ。

一面に蝌蚪をりすべて見失ふ
半夏生くづれて水にある葉先

あんなにいた蝌蚪のすべてを見失ってしまう、それは世界に取り残されてしまうのに似ています。「一面」、「すべて」という大きな言葉をつかいながら繊細な一句です。また、「くづれ」たのは「半夏生」なのか「水」なのか、いやどちらもでしょう、読み手が試されるところですが、透明な世界に葉先の輪郭だけが確かにある。

さ 君は透明とか繊細とか世界にひとつだけの花とかが好きだな。

ボ SMAPは聴きません。

さ なにしろ、分厚い感性に保証された作家の登場を、心から祝いたい。

かものはし 期待の新人ですね、これからもこの路線で、小動物を愛する句をつくっていってほしいです

ボ それはお前の好みだろ、作家を信じろよ。

さ さっき自分が言われたこと言ってる(笑)

ボ というわけで、このあたりで、石田波郷新人賞受賞作を読む出張版「さとうあやかとボク」を終わりましょう。勝手なことを申しまして、失礼いたしました。

さ どの作家にも言えることだけど、自分や他人の持っている「作家像」にしばられることのないように、これからも書いていってほしいな。俳句だけじゃなくて、いろんな経験をしてほしいと思うね。

好きな子と付き合えたはいいものの彼女を親友にとられてぐだぐだになったとこを救ってくれた女の子を家に呼んだら、もともと好きだった子が「やっぱりあなたしかいない」って言ってきて二股をかけたら両方にバレて、修羅場なところを新興宗教に勧誘されてうっかり入ってしまって抜けられなくなって実家に逃げるとかね。

ボ ……受賞されなかった方も、受賞された方も、今回とはひと味違う作品を、どこかで読めることを期待しています。

さ 君ももっと人生経験を積んで、来年はがんばってくれ。

ボ 経験値で俳句の出来を語らないでください! これだから俳句は老人の文学とかいわれるんだ……

かものはし かものはしの俳句もつくっていただきたいですね

さ かものはし林檎を剝いてくれないか。無理か。じゃ、またねー♪

作品17句テキスト 花尻万博 南紀

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南紀 花尻万博

仏手柑に仏手柑触れて娘かな
海苔拾ふ光にはつか禁霊区
現世(うつつよ)の玩具の二三狐と言ふ
蜜垂れる女(をみな)の背中県境
対を為す言葉に炬燵優しかり
夜一夜貝の受精に弛む磁場
寒禽の餌食(ゑばみ)例へは寂しかな
節分や育ての親に種降りて
静けさに挿話集まる室の花
野兎の舞踏場を出ぬ老舗かな
大太鼓白けて鯨煮られけり
葉牡丹に収まる子ども略記号
炭焼きと造花に嵩む花影かな
乱数も焚火の一つ枯木灘
即興の猪撃ち片目足らぬなり
きのくに線子の霜焼と煙(けぶ)り合ふや
鼬得て温もりゆけり鼬罠


朝日新聞2015/1/27夕刊より転載

作品17句 花尻万博 南紀

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週刊俳句 第406号 2015-2-1
花尻万博 南紀
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週刊俳句 第406号 2015年2月1日

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第406号
2015年2月1日


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2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


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朝日新聞2015/1/27夕刊より転載

……………………………………………

【2014石田波郷新人賞受賞作を読む〔後篇〕】
さとうあやかとボク出張版……佐藤文香 ≫読む
賞の輪郭(後編)……小池康生 ≫読む


【2014石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第二章〉世界の向こう側のお話をきかせて
……田島健一 ≫読む

【週俳・2015新年詠を読む】
祝う歌こそ楽しけれ……西原天気 ≫読む

【鴇田智哉をよむ 8】
写影、あるいはアンフラマンスなまぐわい
……小津夜景 ≫読む

俳句の自然 子規への遡行38
……橋本直 ≫読む

自由律俳句を読む 79
尾崎放哉〔2〕 ……馬場古戸暢 ≫読む

連載 八田木枯の一句
春を待つこころに鳥がゐて動く……西村麒麟 ≫読む

〔今週号の表紙〕水仙……西原天気 ≫読む

3.11 4.11 いわき市 鈴木利明氏・中里迪彦氏の記録写真展のご案内 ≫見る

後記+執筆者プロフィール……上田信治 ≫読む


 
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