Quantcast
Channel: 週刊俳句 Haiku Weekly
Viewing all 5996 articles
Browse latest View live

2017角川俳句賞「落選展」第2室 テキスト

$
0
0
2017角川俳句賞「落選展」第2室

テキスト

6.片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その1)

よき事のあふれ出でよと初湯浴び
春昼の送電線のたるみかな
パスワードの解けぬ妻とはおぼろおぼろ
紐もつれ喉に曲者春の風邪
明日もまた地球転がせ四月馬鹿
さえずりやコンビニ前の女高生
蒟蒻にも憂鬱はある花の雨
札幌の人を惑わすリラの冷え
花の宿夏目雅子とすれちがう
お茶漬けを食って別れた二月尽
悪僧も膝つく菫地獄谷
カフェテラスナプキンの色夏立ちぬ
動いてみよどこがうまいか大鰻
理髪師のまじる鼻歌にらの花
夏風邪に皮膚一枚の微熱かな
一点の翳りがすべてサングラス
紛糾する会議にメロン丸机
すべり落ちた大事はどこへ心太
地下鉄や肩抱き合って熱帯魚
熱弁に法も汗かく裁判所
六月の思案深まる樹海かな
美女冗舌オーデコロンはときめいて
夏を知るモデルの脚はスカイツリー
また来たわよ美女は無遠慮青簾
首を這う蛇のぬめりや白い指
お元気でね背中が言うた夏帽子
わちゃわちゃ言う禿げのおっちゃん玉の汗
蛸焼けばグリコが走る戎橋
越してきて竹四五本の野分かな
胎内にあらぬ送り火内視鏡
三日月や駱駝の夢は無神論
嫁くらべ老婆三人鉦叩
ホッチキス散歩に出よう天高し
コンビニでコピー三枚秋夕日
三代目もわが畑好む稲雀
ゆく禿の人それぞれの秋思かな
タクシー待つ黒装束の残暑かな
打つそばや延べて均して待つ平和
放物線に夢あるものか秋刀魚焼く
猫町だったテロは大うそ曼珠沙華
健脚を競うふたりの春隣
テレビキャスターニュース入らず餅を焼く
ポケットの破れどこまで寒の入り
四、五人のはしゃぐ風花六本木
白菜はしろがお似合いニヒリスト
暗闇の影寄りあって焚火かな
地下街のくらがり好むサンタさま
猪肉や仁王の腕の毛深さよ
大泥棒海鼠息する桶の底




7.片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その2)

怒る火の冷静が舞う薪能
持ち帰る吉野の名残り花筵
春の闇に絶えた狼吉野山
花明かり母がもどった木戸の音
もの言わぬ牛はキリスト花吹雪
謎深まるモナリザの笑み薪能
鎌倉や鍔に彫り込む花菖蒲
霾やかの長安の遣唐使
春昼の牛の涎れの落ちどころ
花盗っ人よもしやあなたは夏目雅子
椿落ちて地底の民の大音声
淀の堤菜の花売るは蕪村とも
かなしみは前衛が抱くアマリリス
花の名を問うて近づく夏野かな
海の日やマストをあげよ勝海舟
門前に使者の気配や蛍の火
ぞんぶんに水を呑んだか夏の蝶
手術前夜合歓の花咲く癌病棟
尽きた命未練を残す岐阜提灯
たましいや蛍を追うて正倉院
虫の闇に仏の思念東大寺
月光に濡れた欲情東京駅
前世も現世もなお曼珠沙華
目が合って僧は澄むなり秋禅寺
月の夜に起つ事あるか盧遮那仏
列島の朝のざわめき野分来る
生ごみに罪の匂いや鰯雲
取り落とし弾むスプーン秋の風
洋梨のころぶ世紀にいたピカソ
ポケモンゴーの解せぬ次第や赤とんぼ
落書きに才のはしくれ秋蛍
宗論の渇きの果ての仏手柑
けだものも歩幅のゆるむ花野道
金沢に人待つ予感冬木立
北へ行く牛は咎めぬ鶴になれ
みちのくの雪は漫漫春隣
尽きぬテロは神の相克枇杷の花
テロ無残北斗星とも自爆せん
雪の朝に妻語りだす金閣寺
まつる祖師石うたがわず冬禅寺
焚火から退かぬ男の胸のうち
楕円形は堕落とも言う褞袍着る
気もそぞろスマホの街は着ぶくれて
名園や菰のあるじは冬牡丹
突っ走る地下鉄道や虎落笛
地下街はわが都なり冬の蝶
短日や人みないそぐ駅の道
東京駅ひとはそれぞれ寒鴉
つつましく咲く柊の棘のわけ
つまずいて日の暮れ易し法円坂




8.杉原祐之 上堂は難し 

どぼどぼと溢れてゐたる若井かな
結納の席に獅子舞踊り込む
挨拶のマイクくぐもる事務始
ラーメン屋の湯気もうもうと寒に入る
雪掻きの大小置かれ山の宿
子が放る思ひの外の雪礫
竹藪を揺さぶる風や午祭
ぶらんこもジャングルジムも余寒かな
麦の芽の朝日を返しをりにけり
隧道に雪解水の染み出せる
弓放ちお水送りの始まれる
雛段を支ふるビールケースかな
卒業の戯れあひながら泣きながら
春昼の喇叭検定試験かな
雉鳴くや足湯に村を見晴らして
春の夜や喃語のシャワー浴びせられ
マフラーを巻きては外し花の宴
地に着けるまで輝ける落花かな
桃色の小さなリュック花筵
花筏浚渫船が分け進む
新築の庭にはびこる諸葛菜
炊飯器より豆飯の湯気と音
仮設集落跡地薇干されたる
放生の池を暗めて若楓
半休を取りて田植を済ましたる
ナイターの風の湿りを帯びにけり
指図出るまではだらだら神輿舁
踏切を待ちゐる山車の囃子急
予備の竿短く握り鮎を釣る
表彰を終へてダービー騎手小柄
神主の屋敷の土間の梅筵
まちまちに梅干色を深めつつ
夕凪や赤子のシーツ干し足せる
朝曇あと一日で休暇来る
ただ浮かむだけのプールに来てをりぬ
プールより上り海鮮丼喰らふ
警備服着せられてゐる案山子かな
鳥居のみ塗り直されて里祭
台風の夜に買ひ足せるカップ麺
鶺鴒の芝の起伏をなぞり飛ぶ
公園に居眠る人と綿虫と
落し穴ありさうで無き落葉径
半袖に短パンで刈る砂糖黍
畳みたる店舗に年木積まれあり
悴める手を双臀の下に差す
おでん屋の液晶テレビ曇りたる
縄を張ることに始まる年用意
餅搗を終へ豚汁の鍋囲む
電球を一つ取り換へ年の夜
水色を残し暮れゆく初御空




8.鈴木総史 こゑを探して 

草萌や時間を空けて飲む薬
針の数だけ影があり針供養
恋猫のきのふとはまた違ふかほ
ふらここや人間はみな空へ帰す
下向けば道はレンガで入試かな
薇のまはりの土のやはらかき
置かれては少しずらされ雛飾る
蒲公英にまみれてゐたる消火栓
春愁やこゑを探してみづを汲む
がりがりとなにかを喰らふ花見かな
先生はチューリップ抱き離任せり
米兵の躯に似合ふ春コート
たちまちに船現るる海市かな
古本を重ねて匂ふ樫の花
街に出てそのにぎはひの遅桜 
時鳥まぶしき雨を葉は抱へ 
かざす手の昏く端午の陽を統べる
はつなつの傷いきいきと脚にあり 
鳥声を薄暑の川へ展げたる
薔薇の咲く部屋に連れられたる恐さ
坂に猫裏がへりたる夏の暮
花は葉にブロンズ像のやや痩せて
島風を銀色と言ひ花蜜柑
なかぞらを鳥は制して麦の秋
薫風や車掌の腕のよく伸びて
夕立の街原色の風生るる
その島は鳥がおほきく花樗
あをぞらや河鹿のこゑの乾ききり
真珠抱くためのかたちに帆立貝
夕涼やみづにはみづの流れ方
対局に終はりの見えて旱星
日盛の硝子は色をもてあます
握りかへすための手であり青田風
炎昼のベルトのやはく置かれたる
銀漢や島に少しく詩がありぬ
こゑはもう出なくて新涼の転居
鵙日和ピンクの傘が晴れをゆく
骨董に硬き文字あり秋の蝶
金網のなかの小鳥のうるはしき
調味料あまねく集め九月尽
症例の少なき病蔦紅葉
古雑誌二三部買ひて秋思かな
明滅はひかりのはじめ寒牡丹
凍星やチェロより音の滴りぬ
初めてといへば毛糸を編むことも
寒暮なりすべて出払ふ消防署
寒林へ向かふ列車の黒さかな
木を喰らふ木があるらしや義仲忌
蜜柑畑ひかりのごとき人とゐて
待春の少し大きめなる切符




9.高梨章 そのあかるさを雨といふ 

早春の窓の夜あけやパンの耳
早春の床にミルクの白さかな
早春のもうぬれてゐる光かな
早春の吸取紙もぬれてゐる
早春の水の底まで水の空
春寒しハンマー投げのピアノ線   
ひんやりと立たされてゐる桃の花
オブラートかすかに甘し桃の花
一本の花えらばれて虻とまる
表札のなき家となり桃の花
ぽつかりと口をひらいた春の駅
空をおりるやうにひとびと春の駅
なんとなくしやがんでしまふ春の土
ゐないので停まらないバス春一番
たんぽぽを気にもとめずに来てしまふ
たんぽぽのところで止まるうしろ足
たんぽぽに気がつくまでを歩きけり
春の野に自転車も寝て雲量三
たんぽぽやクーペに乗つてとほるひと
たんぽぽのところで靴をぬぐ予定
雲雀鳴く目をつむらずにひばりなく 
たんぽぽはちひさな歩幅かもしれぬ
その声が目に見えるほどヒバリ鳴く
雲雀鳴く蛇口のなかの細き闇
眼鏡をはづしそれぞれねむる沈丁花
母と子とねむるヒバリのゐない空
テーブルは水面のやうに花明かり
ふいに墜つ雲雀のやうにさびしさは
パン屑のこぼれしままや春炬燵
春の画のなかの金管楽器かな
クレヨンの折れてありけりチューリップ
風にさはる雨にもさはる子猫かな
濡らしてはまた乾かして春の土
水仙かなんの波音なんだらう
ひつそりとあのこは病気風ぐるま
石鹸玉空のうしろへ消えにけり
よわくよわく指はひらかれ牡丹雪
いま何も抱いてゐなくて春の雨
春は水うす桃いろの洗面器
春の夜のそのあかるさを雨といふ  
梨咲いて空にあらはる雲の位置
春の雨ちひさな卵抱かせて
キャラメルの紙はましかく春休
蜂の屍やほんのわづかな塩の味
晩春や息をひそめて魚の眼  
夕ぐれのくるたび蝶のおとろへし  
晩春やパンダをいまだ見てゐない
かた足をひきずりぎみに夏近し
そら豆の空やはらかくあひにゆく
足音をそつと持ちあげ捕虫網





2017角川俳句賞「落選展」第2室 

$
0
0
2017角川俳句賞「落選展」第2室

画像をクリックすると大きくなります。 


6.片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その1)















7.片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その2)















8.杉原祐之 上堂は難し  













 

9.鈴木総史 こゑを探して 















 10.高梨章 そのあかるさを雨といふ

2017角川俳句賞「落選展」第1室 テキスト

$
0
0
2017角川俳句賞「落選展」第1室

テキスト

1.安里琉太 式日  

摘草やいづれも濡れて陸の貝
かげろふの砂ずりが来て匂ひたつ
花守のさらさらと字を書かれたり
花疲れたちまち花のうへに出て
大波の砂もちかへる花明り
春昼やこゑの吹かれて橋の上
忘れゐしもののひとつに小鳥の巣
うたうらははげしき雨に桜漬
春筍のにはかに影を長じたる
起きぬけの枕を均す立夏かな
ぼうたんにありやなしやの日の掛かる
道すがらあをみなづきのさみしき繪
蛇苺川瘦せてより濃く匂ふ
貼りつきし花びらの朱に蛭乾く
鎌倉はどつかと晴れて夏料理
炎昼の花に匂ひのなかりけり
蜘蛛の囲のしづもりに滝掛かりたる
鴫焼やひとりの家に傘を増やし
枇杷の毛のさはさはと日をかへしけり
思ふこと早瀬をなせる端居かな
蟻地獄覗いてをれば聞こえくる
涼しさやひとしく竹の起きなほる
祭から離れたる燈を蛾が叩く
空つかふ遊びをしたり茄子の花
みづうみは羽ばたくものの秋暑かな
まどろみの窓にカンナの濡れてをり
ぼんやりと鯉に似てをり生身魂
椎茸に仏師の夢のなんやかや
くれなゐの椀落ちてゐる秋の川
葛咲くや淋しきものに馬の脚
ひとり寝てしばらく海のきりぎりす
折鶴にかりそめの魂秋ともし
式日や実柘榴に日の枯れてをる
火恋しいつかの鳥の白を想ふ
匂ひよき葉をふところに日短
金閣の雨を思へる湯ざめかな
耳あてが籠をこぼれて雲の影
湯気立てて天金の書に蝶の國
太陽の平たく曇る蓮の骨
足の裏ぶ厚く歩く冬至かな
毛皮の毛揺れてここにも蟻の道
墨磨つてをれば晩年枇杷の花
埋火の美しければ海の音
うすうすと冬枯の実の鳴りにけり
ねむる間も海のうごいて鏡餅
蠟梅をきれいな川の照りかへす
とほく来てまひるの奥の鮟鱇へ
鏡割居間まで晴れて来たりけり
徒花の掃き寄せてある冬田かな
しんしんと手鞠を置いてゆふべの手




2.青島玄武 優しき樹

花は葉に花は優しき樹となりぬ
身体の皺とふ皺へ西日射す
雷の奥から松葉杖の音
北斗よりひとつ零れし蛍かな
新樹よりみな高々と手を挙ぐる
合歓の花ブルーシートのやうな空
魂を鳴り響かせて玉の汗
半ズボンたしか大病だつたはず
川風はやがて蝶々へ花菖蒲
一息に万物啜る冷素麺
日焼子も尻は真つ白大浴場
わわしきよ西瓜食ふのか喋るのか
四方から教会の鐘白木槿
しばらくは赤子をあやす赤い羽根
林檎とふバベルの塔に噛り付く
行く秋や唐揚げ匂ふ商店街
玲瓏と冬の楓の明らけき
雨音のやがてせせらぎ冬紅葉
冬の陽の翼の下の美術館
風邪心地みんな機械のせいにして
凍る夜や「空」の字掲ぐ駐車場
二分後の自分に出逢ふ嚏かな
人の世は火より興れりクリスマス
十悪も古き仲なり葱鮪鍋
晦日蕎麦どの窓からも星空が
仕舞湯や悲喜こもごもの浮かみをる
春永や鼻より出づる飯の粒
門松が阿蘇の五岳を迎へけり
初参り老神主の痰絡む
青空に溺れながらの玉競り
初空や寝癖の髪をそのままに
上古より女姦し初電車
ぞんぶんに空をいただく初湯かな
臘梅と闇が格闘してゐたり
省略のよく効いてゐし冬籠
白々と心臓息を吐きだせり
焼藷のなんと楽しき地獄かな
独りとは一人にあらず寒の海
はつかなる脈のありけり寒牡丹
立春や嫌ひな人とけふも会う
マネキンの右手が五本春寒し
七色の家七色の余寒かな
春炬燵から厠まで三千里
鳶はいま焼野の風を掴みけり
葬儀屋の前が病院うららけし
釈尊と雨宿りする花御堂
傾ぎゐし城を支ふる桜かな
伊勢の子は伊勢の桜に遊びけり
風も木も土も神さま初音聞く
遥かまで花降りやまぬ行者道




3.青本瑞季 みづぎはの記憶

永き日を部屋まで海が照つてゐる
春の雷本の屍臭が書庫の中
傘の骨打ち寄せらるる二月尽
野遊びのきれいな耳についてゆく
立子忌や家の南が硝子張
夕暮れの桜海老なり目をなくし
風車西の市場の違ふ匂ひ
描きぶりが絵になる人で花のまへ
音楽にうごめく藤のむらさきは
はつなつの陰を排せる琴の部屋
草刈りの音窓辺の壜にたまりゆく
読唇のはやさに青葉ひらひらす
十薬跨ぐ靴擦れは熱を帯び
滝壺にあるなまぐさい手足かな
くちなはのかぼそい赤につづく舌
小満やひるがへるとき魚は銀
青鷺はビル光のなか展けてゐる
灼けながらばらばらに来る犬の脚
もうろうと昼顔だけがある景色
ががんぼの脚途中なるその感じ
盗品めくプールサイドの荷物かな
くらがりをみづに呼びこむ未草
沼はおほきな樟脳の昼寝覚
水無月晴れて花の名前の若くあり
蟹の死よ浮きて明るき影つくる
人々のそびえ蝙蝠わたる水
立葵葉の荒れて有線放送が来る
金網の奥のまなこを見る暑さ
汗ばむと檻の家鴨のさわぎこゑ
あたたかくくづれてゐたる螢かな
夏鴨とおなじ湿りにある木椅子
いつまでもくらげはみづにつきあたる
虹見せてくる眼球はすこし丘
痣がちの四肢を余せり夏館
絵葉書のこちらへ蜘蛛歩む真昼
ぼんやりと蟻の集まる墓のうら
ほたるぶくろ手をひきながら呼びに来る
こゑは鋭利にくちびるを濡れ夏終はる
初秋の山羊つながれて暗い井戸
空堀に耳のびんかん鰯雲
カンナが黄芯のなだらかなる眩暈
ぱらぱらと玻璃に映りて椋鳥瘦せる
ゑのこ草川の疲れの絶え間なく
川なかに小さき花野として浮かぶ
子規の忌の下草に花混じりをり
総立ちの秋草となる古墳かな
喉の渇きを茸は糸に裂けてゆく
をなもみよ野原の磯に似るところ
逝く秋がまぶしい海としてわかる
小春の海遠くに暗い写真となる




4.今泉礼奈 熱がうつる (*)

ふらここのおくれてひとつ高くゆく
すつぽりと鳥影に入る菫かな
立ち枯れの幹をてふてふ過ぎにけり
蝶来ては去り来ては去り蝶の昼
白木蓮や病院の窓ひとつ開き
白木蓮の木の黒々と曇りけり
春疾風首長くして鴨が飛ぶ
風船を朝の光の滑りをり
あたたかや賞状に桐生ひ茂る
美術館のおほきな窓の桜かな
入学や色濃き土のやはらかく
花冷の街がジグソーパズルの中
花冷の白馬の白き睫毛かな
青空に放たれ花の枝の先
春昼を熱帯魚店ひんやりと
蜂蜜は光溜りや春の風邪
鳥ごゑに遅れ花びら降りてきし
残業のビル高くあり桜の夜
あたたかに頁の端の頁数
花ぐもり体温計に熱がうつる
桜散る閉店の椅子重ねられ
湖のはじまりは川桜散る
春暑し手鏡に顔収まらず
たんぽぽの咲き慣れてゐる鴨場かな
山藤を辿れば空に近付けり
藤揺れて夜の雲と雲はなれけり
メーデーの吊革に腕並びけり
退屈な顔が窓辺に花は葉に
葉桜や友ほつそりと欲少な
ジンギスカン鍋に丘あり五月来る
新緑や列が後ろに伸びてきし
若楓薄く冷たく光りけり
白日傘に囲まれ歩く男かな
薫風や写真家に時止まりたる
あをぞらのけふを愛して山法師
絵の中の一人となりて青葉かな
萍のあひだ真昼の淀みけり
嘘をつく目をして亀の子が歩く
遠雷や浮世絵のみな肌白し
地図の海も深さ持ちたり南風
ゆふぐれや梅雨の終ひの橋長し
滝強く昨日の雨の匂ひせり
河骨のその黄日射しに疲れたり
炭酸の音にはじまる帰省かな
どこか見てゐる草笛をはじめる目
前を泳ぐ人の飛沫を泳ぐなり
夏負や消火器に塵積もりたる
蜘蛛の巣の眩し喪服の人遠し
蝉の穴閼伽桶を置く音が乾く
蝶ふはと葉を揺らしたり終戦日




5.岡田由季 手のひらの丘 (*) 

一〇〇〇トンの水槽の前西行忌
梱包の中身はギター春休み
金箔を少し呑み込み花の宴
モノポリー蜆が砂を吐く間
猫の仔に小学校のチャイム鳴る
菫見てゐるうち口の尖りをり
球根の天地を問ひぬ初蛙
花槐留学生の集ふカフェ
青葉山人と猿とが怯え合ひ
露台より芦屋の街と海すこし
山椒魚眩し眩しと言うてをり
水無月のホテルの窓に浮かぶ城
噴水の横に楽器を組み立てる
複雑な岸を辿りて睡蓮へ
少しづつ家族のずらす扇風機
百日紅雌ライオンの寝返りす
熱帯夜骨煎餅を齧りをり
老人が額を寄せて氷果食ぶ
浴衣着て店員ふたりぎこちなし
白靴の吸ひ込まれゆくレイトショー
中国語話せさうなる昼寝覚
立秋の水槽真上から覗く
パレードの時々途切れ黄のカンナ
蒲の絮むかしの音を拾ひけり
音楽をつけずに踊り黒葡萄
気の付かぬほどの勾配赤蜻蛉
色見本帳から抜いて吾亦紅
能面は顔より小さしきりぎりす
栗を剥く母の近くに座りけり
松手入終へてしばらく上にゐる
バーテンダーついでに檸檬磨きをり
象の眼に微かなる酔ひ秋の暮
木琴のとなり鉄琴秋日差す
退色の壁画に添へる一位の実
手のひらの丘に綿虫留まりぬ
アヴェマリア風花口へ飛び込みぬ
木枯に象の手触り残りをり
光源の方へ歩けば蕪かな
頭蓋骨同士こつんと冬初め
アルトから揺れはじめたり聖歌隊
灯台の小さき敷地や冬の鳥
走り出しすぐ消灯にスキーバス
餅を待つ列の静かに伸びてをり
鳥籠に指入れてゐる三日かな
末黒野と運転席の見ゆる場所
ばらばらの向きにペンギン立つ日永
遠足の博識の子についてゆく
バレンタインデー吹替の笑ひ声
古道具売れれば拭いて春の昼
めくるたび次の頁のある春田




2017角川俳句賞「落選展」第1室 

$
0
0
2017角川俳句賞「落選展」第1室

画像をクリックすると大きくなります。


1.安里琉太   式日 















2.青島玄武 優しき樹















3.青本瑞季 みづぎはの記憶















 4.今泉礼奈 熱がうつる (*)













 

 5.岡田由季 手のひらの丘 (*)













週刊俳句 第550号 2017年11月5日

$
0
0
第550号
2017年11月5日



2017角川俳句賞「落選展」
作者名アイウエオ順

第1室 ≫読む ≫テキスト
1.安里琉太 式日  
2.青島玄武 優しき樹
3.青本瑞季 みづぎはの記憶
4.今泉礼奈 熱がうつる (*)
5.岡田由季 手のひらの丘 (*)

第2室 ≫読む ≫テキスト
6.片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その1)
7.片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その2) 
8.杉原祐之 上堂は難し  
9.鈴木総史 こゑを探して 
10.高梨 章 そのあかるさを雨といふ

第3室 ≫読む ≫テキスト
11.ハードエッジ 豚カツ 
12.うそぶく 宮﨑莉々香
13.柳元佑太 教科書のをはり (*)
14. 薮内小鈴 東都

(*)一次予選通過作品

作者プロフィール ≫読む
……………………………………………

肉化するダコツ②
 桔梗やまた雨かへす峠口……彌榮浩樹 ≫読む

中嶋憲武西原天気音楽千夜一夜
第24回 オズモンズ「クレイジー・ホース」 ≫読む

〔今週号の表紙〕
第550号 満月……西原天気 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……上田信治 ≫読む


『子規に学ぶ俳句365日』文庫化記念リンク集 ≫見る

2016 角川俳句賞落選展 ≫見る
「石田波郷新人賞」落選展 ≫見る


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

〔今週号の表紙〕第551号 クレーン船 西原天気

$
0
0
〔今週号の表紙〕
第551号 クレーン船



西原天気

旧江戸川、浦安側の岸辺近くに浮かぶクレーン船を、浦安橋から。

その日はものすごい雨と風。




週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 第25回 植木等「ハイそれまでョ」

$
0
0
中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
第25回 植木等「ハイそれまでョ」


天気●小さな植木等が棲んでいるんですよね、すべての男の心の中には。

憲武●ほほう、泣けてくるねえ。

天気●というわけで、今回は植木等「ハイそれまでョ」です。



天気●いい曲が多すぎて、選ぶのに苦労するのですが、映画のワンシーンということで。また、楽曲の秀逸さ、すなわち、スローテンポから一転、「てなこと言われてその気になって♪」でアップテンポ。曲調と歌詞のオチがみごとにシンクロしているという点でね、とりあえずこの曲を選んでみました。

憲武●歌い出しはクルーナー唱法の名曲ですね。学生の頃ね、浅草東宝で月イチくらいでクレージー映画のオールナイトやってて、そこで初めて「ハイそれまでョ」観た時は衝撃的でしたね。

天気●植木等の歌唱のパターンふたつが味わえることでも、おいしい一曲です。ワンコーラスの前半は美声のバラード、後半は無責任ボイスのノリノリ歌唱。

憲武●顔立がキリッとした二枚目なので、生真面目から無責任に移行する静と動のギャップが面白いんですね。

天気●この曲、「ハイそれまでョ」は、植木等の主演映画『ニッポン無責任時代』(1962年/古澤憲吾監督)の主題歌。レコードだと「無責任一代男」のB面に収録。  大ヒットした「スーダラ節」の翌年ですね。

憲武●「スーダラ節」は不謹慎だとして、昭和36年の紅白歌合戦には出られなかったんですが、翌年に「ハイそれまでョ」で出場したんですよ。

天気●へぇ、そんな事情だったんだ。「スーダラ節」は小学生だったのですが、男で集まると、歌いながら踊ってましたよ。

憲武●ぼくもやりました。あの平泳ぎのような、高橋幸宏が言うところのスイムウォークとか。

天気●このあたりの曲はすべて作詞青島幸男、作曲萩原哲晶。日本歌謡史上最高のコンビといってもいいくらい。青島幸男はせっかく天才だったのに。都知事なんかになっちゃって、晩節を汚しました。

憲武●天才萩原哲晶はマーチが多いですね。金管楽器の音も印象的です。このコンビに加えて古澤憲吾と、三人も天才が揃ってしまって、すごい時代でした。

天気●植木等について話し始めたら、キリがないので、おたがいにいちばん好きな曲をあげましょうか。「ハイそれまでョ」以外で。

憲武●うーん、難しいですね。いろいろあり過ぎて。敢えて、というなら、「ショボクレ人生」ですかね。



天気●ショボクレの実例がごっちゃっと並んでる。で、「ショボックレたこと、すんな!」と一喝。シブいです。私は「だまって俺について来い」かなあ。



歌詞がね、いいんですよね。「ぜにのないやつぁ俺んとこへこい♪」まではいいとして、「俺もないけど心配すんな♪」って、サイコーに無責任で、サイコーに楽観的。で、次に続くのが「見ろよ青い空白い雲♪」。これはもうほんと気持ちのいい景色。


(最終回まで、あと976夜) 
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

10句作品 八王子 西村麒麟

$
0
0
 
画像をクリックすると大きくなります


八王子 西村麒麟

栗の秋八王子から出て来いよ
林檎の実すれすれを行くバスに乗り
我のゐる二階に気付く秋の人
一ページ又一ページ良夜かな
虫籠に住みて全く鳴かぬもの
秋の夜の重石再び樽の上
初冬や西でだらだら遊びたし
蟷螂は古き書物の如く枯れ
焚火して浮かび来るもの沈むもの
水洟やテレビの中を滝流れ

10句作品 対角線 小野あらた

$
0
0

画像をクリックすると大きくなります

対角線 小野あらた

富有柿対角線の走りけり
柿切るや種の周りの透けてをり
くつついて力のゆるぶ玉の露
朴落葉まだらに雨の染みめり
赤のまま車の通るたび揺れて
バイパスの途切れてゐたる豊の秋
空つぽのスコアボードや秋の蝶
秋麗団子のたれの固まれり
水瓶の縁に反りたる紅葉かな
木の実降る神社の脇の停留所

【句集を読む】てのひらの愉悦 大野泰雄句集『へにやり』

$
0
0
【句集を読む】
てのひらの愉悦
大野泰雄句集『へにやり

西原天気


おとなが一人通り抜けられるような煙突が家の屋根に付いているなんて見たことなかったし、もしあっても、きれいな赤い服が煤だらけになってしまうだろうに、と、子供心にも思っていましたよ。いや、サンタクロース来訪の件。

工場街ならいざ知らず、街で大きな煙突といえば、それは銭湯でした(いまはもう少なくなってしまいましたが)。

銭湯に煙突のあるクリスマス  大野泰雄

その期間、商業地区なら聖樹に電飾をまとわせて、浮かれ気分を演出するのですが、銭湯が残っているような古い住宅街にはでは、その日も、銭湯の煙突がのほほんと立っている。12音までは何のことはない風景が下五の「クリスマス」で一気に飄逸。

大野泰雄句集『へにやり』には、飄飄、軽妙、洒脱な句が豊富。ネジが一本抜けたような、書名どおり《へにゃり》とした句が多く、うれしくなる。

ほか、気ままに何句か。

夏来るぐるんと蛸が裏返り  同

素うどんの沈みし麺や葱浮きぬ  同

腿と股寒中罷り通りけり  同

蟻蟻蟻蟻を纏ひしもの動く  同



造本・意匠が個性的。A6判の掌サイズ。本文わずか36頁をホチキス留め。句集名を記した赤い封筒に入る。本文は、美濃瓢吾氏(著者・大野泰雄氏の友人)の筆。句を盛る器もまた軽妙洒脱。手にして愉しい句集。



第63回角川俳句賞受賞作 月野ぽぽな「人のかたち」50句を読む 「いま」の俳句の「いま」らしさ 上田信治

$
0
0
「2017落選展」関連企画

第63回角川俳句賞受賞作 月野ぽぽな「人のかたち」50句を読む
「いま」の俳句の「いま」らしさ

上田信治


落選展の50句作品を、今年は、ぜんぶ読もうと思う。

一人の作者の書いた50句を読む。それは、作者が実現しようとしていることをテーブルに置いて、それをはさんで、作者と対話をするということだ。もし、その作品に50句のひとかたまりであることの意味があるとしたら、そうなる。



手はじめと言ってはおかしいけれど、角川「俳句」2017年11月号に掲載された、月野ぽぽなさんの受賞作「人のかたち」50句を読んでみたい。

角川俳句賞もだいぶ変わってきた。「俳句」に掲載される受賞作や候補作が、すっかり「いま」の俳句になった。それは作品を見ても応募者の名前を見てもそうだ(知ってる人ばっかり)。

それは、かれこれ十一回落選展をやってきて、俳句の賞がもっと「いま」の俳句に接続したものになればいいのに、と思っていたことの、実現である。

そして、自分が十年前から思っていた「いま」に俳壇の賞が追いついた現在、無い物ねだりストである「落選展」の勧進元としての自分は、もう、とっくに生まれているはずの「つぎ」の俳句を待望している。

角川俳句賞が、もっと「つぎ」の俳句の発生を、ドライブするものであればいいのに。

というか、自分が「つぎ」の俳句を書いて、応募して、受賞するのがいちばんいいわけだ。



月野ぽぽなさんは、自分がおそるおそる俳句を書き始めた場所である「恒信風句会」や「豆の木」で存じ上げていた名前だ(今年、一次通過の岡田由季さんもそう)。

『豆の木no.11』(2007)より

冬の月髪をほどいてゆけば沼  月野ぽぽな
白もくれん空の半分以上は風
人乗せて象立ち上がる秋の風  岡田由季
良き場所を譲られあたる焚火かな


ここには、この作者たちの変わらない美質があり、「いま」らしさがある。

それは、俳句を書くことと「いま」の人としての感受性が地続きである、ということだと思う。

そのことは俳句らしさに染まらないことによって、輪郭を際立たせている。



エーゲ海色の翼の扇風機  月野ぽぽな
水かけて家壊すなり橡の花
ブイヨンに浮かぶ夜長の油の輪
潰されて車は野紺菊のもの
うそ寒や蛇口のひとつずつに癖
スケートのひとびと昼を流れゆく
まだ人のかたちで桜見ています


角川俳句賞受賞作「人のかたち」(「俳句」2017/11)より。

エーゲ海色」の句、広告ふう言葉づかいもその扇風機も、かつてのモダンとして、いっしょに古ぼけているのだというアイロニー。

水かけて」の句、人のいとなみに向けられる、その視線のフラットさの現代性(仁平勝選考委員が「一句になるとなんとなく儀式の感じが出てくる」と評している)。

ブイヨン」の句、「夜長」という季語が、ついでのように挿入されている地位の低さ。と同時に、ブイヨンの透明感と、夜長に油が浮かんでいるような浮遊感で、一周まわって効いているという俳句性。

これらの句は、従来型の俳句の引力圏に吸引されることにあらがいつつ、なおかつ、よい俳句であろうとして書かれている。

あらがいつつ、というのは、これらの句が、従来型のうまさとは遠いところで書かれようとしていることから感じられる(それゆえの失敗作もある)。

よい俳句であろうとして、というのは、日常の感覚やよろこびに順接するのではなく(そこに順接しないことは、とても俳句的なことだ)、なにかが俳句になった結果を、「いま」の文化的受容と共通する感受性でよろこんでいると見えるから、感じられることだ。

潰されて」の句。このチープな抒情と、その車が「潰されて」いるという過剰さがポップカルチャーのよさに通じる(枯草に捨てられた車は、すごく映画で見たようなモチーフだ)。野紺菊の紺が、じつは車の色なんじゃないか。

うそ寒や」の句。蛇口が複数あって、場面が拡散しているのだけれど、その一つづつの「癖」を思っているこの人の体感が、複数の空間をつらぬいている。その構造のおもしろさ(そうそう、体感だからここで「うそ寒」とくるわけで)。

一句ごとにおもしろさのありようが違っていて、こうやって、いちいち方法を発見していくような書き方は、俳句のプロフェッショナリズムとは、ものすごく遠い。

それは「恒信風句会」や「豆の木」で、ずっと試されてきたやり方だったと思う。

一匹の芋虫にぎやかに進む  月野ぽぽな

祝祭的な句。芋虫がぶかぶかどんどんと進んで行くのが、パレードのようだ。

選考座談会では賛否が分かれた。仁平委員と正木ゆう子委員は○。岸本尚毅委員は「一匹の」「にぎやか」の対比がめだつことの限界を指摘した。

しかし、このお目出度さの前に、表現上の隙は、許されるのではないだろうかw 「一匹の」は秋の大空間を暗示して、動かないと思う。

月野さんの書く一句一句は、冷え冷えとしてさびしげであることも多いけれど、恨みがましさや「お化けだぞ〜」とやって人を脅えさせるさもしさとは無縁で、そういった自分をものものしくしない態度もまた、「いま」の人のものであろうと思う。

ぽぽなさん、受賞、おめでとうございます。


>>2017角川俳句賞「落選展」

後記+プロフィール 第551号

$
0
0
後記 ● 福田若之

今週から、ウラハイで「木曜日の談林」というあたらしい企画がはじまりました。

談林俳諧について、隔週で連載の予定です。浅沼璞さんと黒岩徳将さんに交代でご執筆いただくことになりました。どうぞお楽しみに!

もう、談林は終わったなんて言わせない。


今号の10句作品は年末に向けて第二句集『鴨』を準備している西村麒麟さんと、去る8月に第一句集『毫』を出版した小野あらた君にお願いしました。

「八王子」と「対角線」。力みすぎない、けれど意表をつく二作品の表題は、作品の魅力にもそのまま通じているような気がします。たぶん偶然だと思いますが、どちらも漢字三文字。そういえば、句集名は二人とも漢字一文字ですね(麒麟さんは第一句集の書名も『鶉』の一文字でした)。


そうそう、11月23日、勤労感謝の日に東京流通センター第二展示場にて開催される第二十五回文学フリマ東京に、小誌も参加します! 今回は俳句関連のグループの参加もこれまでより多そうで、楽しみです。

ちなみに、小誌のブースは会場の1階(Eホール)の「F-52」です。マップをご確認のうえ、ぜひぜひお立ち寄りください。前回参加したときと同じく、もろもろの句集も取りそろえる予定です。


最後に、この場をお借りして、ちょこっと僕まわりのことも宣伝させてください。

まずひとつ、僕の第一句集『自生地』の刊行イベントを11月25日に下北沢のB&Bで開催します(詳細はこちら)! 小島ケイタニーラブさんと朝岡英輔さんをお招きし、句集の話もいろいろする予定ですので、ぜひ。

それから、12月3日には短詩型ユニット「guca」のリニューアル後はじめての企画に出演させていただくことになりました(詳細はこちら)! あわせてどうぞよろしくお願いします。


それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。



no.551/2017-11-12 profile

■西村麒麟 にしむら・きりん
1983年生まれ。「古志」同人。

■小野あらた おの・あらた
1993年生まれ。第二回石田波郷俳句大会新人賞受賞。「銀化」「玉藻」「群青」所属。

■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。11月?句集『リボン』(邑書林)刊行予定。 

福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「オルガン」に参加。句集に『自生地』(東京四季出版、2017年)。共著に『俳コレ』(邑書林、2011年)。





週刊俳句 第551号 2017年11月12日

$
0
0
第551号
2017年11月12日



西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 

小野あらた 対角線 10句 ≫読む 
……………………………………………

【句集を読む】
てのひらの愉悦
大野泰雄へにやり……西原天気 ≫読む

「2017落選展」関連企画
第63回角川俳句賞受賞作 月野ぽぽな「人のかたち」50句を読む
「いま」の俳句の「いま」らしさ……上田信治 ≫読む

中嶋憲武西原天気音楽千夜一夜
第25回 植木等「ハイそれまでョ」 ≫読む

〔今週号の表紙〕
第551号 クレーン船……西原天気 ≫読む

『子規に学ぶ俳句365日』文庫化記念リンク集 ≫見る

後記+執筆者プロフィール……福田若之 ≫読む


2017 角川俳句賞落選展 ≫見る
2016 「石田波郷新人賞」落選展 ≫見る


新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

〔今週号の表紙〕第552号 仁和寺 山中西放

$
0
0
〔今週号の表紙〕
第552号 仁和寺

山中西放

仁和寺(にんなじ)といえば京都、真言宗御室派の総本山。境内に点在する紅葉は名所では無いが、後ろに四国八十八カ所巡りの連山を控えているためか色映える。普段は僧の巡する姿は見られないが夕刻の巡堂時、まるで紅葉から抜け出てきたような黄衣の列に思わず惹かれて遠くからカメラを走らせたスナップ。

なおここは桜の名所。ここの桜は地盤が硬いため全部低いが、因みに鼻の低い女性の鼻を京都では「御室の桜」と愛称する。何とも心和む世界である。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 第26回 シェリル・リン「Shake It Up Tonight」

$
0
0
中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
第26回 シェリル・リン「Shake It Up Tonight」



憲武●こう寒くなって参りますとなんですな、踊りたい気分になって参りますな。天気さんは、俳人はもっと踊らなあかんという持論をお持ちのようですが。

天気●こ句会のあと、ディスコ大会になったこともありました。 

憲武●ふむふむ。

天気●「持論」とか「らなあかん」というより、なんで踊らないの? っていうかんじでしょうか。「踊ろうぜ! フィーバー! フィーバー!」。鹿爪らしい俳論や小賢しいことばかり言ってないで、からだを動かしたほうがいいよ、ってゆう、ね。

憲武●ほうほう。というわけで、シェリル・リンです。



天気●1981年。ディスコ・サウンド。すでにいま、踊ってます。あしからず。

憲武●シェリル・リンは1957年生まれですから、今は、えーと60!ですか。このPVは1981年ですので、24歳の時ですね。24にしてこの迫力。すげー。

天気●はい、貫禄充分。

憲武●歌詞以外の部分の、つまり言葉の無い部分の「ダーっ!」とか「アーっ!」というノリで出てくる叫びにグッときますねー。こういう高揚感を覚えた時に発する声が、いいんですよね。グルーヴが肝要です。

天気●からだにグルーヴが備わってるんですね。

憲武●シェリル・リンといえば、やはりこの曲も聴きたくなります。



天気●こうい懐の深いノリもいいんですよね、当時のソウルは。

憲武●この曲は、吉田美和なんかかなり影響受けてると思います。「決戦は金曜日」って曲を思い出しちゃう。

天気●その曲は知らないけど、きっとそうなんでしょうね。吉田美和の節回し、こぶしは、ちょっとソウル的です。

憲武●TOTOのバッキングをやってた「Georgy Porgy」でのシャウトも印象的です。

天気●ほうほう。

憲武●近年、といってももう8年前ですが、ビルボードライブ東京でライブやったんですよ。それもレイパーカーjrと一緒に。その時は見逃してしまったんですが、いずれまた来てくれると思うので、必ず観に行こうかと。

天気●ビルボードライブ東京って、踊れるんですか? 席に座ったまま、たらーっとステージを眺めてるという印象だけど?

憲武●テーブル席なので、派手な踊りは出来ませんが、いつぞやの句会後の踊りのように立ち上がってその場でなら、踊れます。シェリル・リンの目の前で、踊れます。


(最終回まで、あと975夜) 
(次回は西原天気の推薦曲)

週刊俳句 in 文学フリマ東京

$
0
0
週刊俳句 in 文学フリマ東京
2017年1123日(祝)

場所:東京流通センター第二展示場 ブースは1階(Eホール)F-52

【出品目録】

ウラハイ「金曜日の川柳」でおなじみ
樋口由紀子さんより
樋口由紀子句集『容顔
セレクション柳人『樋口由紀子集
樋口由紀子評論集『川柳×薔薇
川柳同人誌『MANO』第20号(終刊号)

ウラハイ「水曜日の一句」でおなじみ
関悦史さんより
句集『花咲く機械状独身者たちの活造り

みみずぶっくす連載中
小津夜景さんより
フラワーズ・カンフー

週俳最年少メンバー 福田若之より
句集『自生地
※お買上げの方に福田若之第二句集(全8ページ・名刺サイズの極小冊子)をプレゼント

新メンバー 岡田由季より
句集『犬の眉

古参メンバー 村田篠より
塵風
第2号 含:高野文子インタビュー
第3号 含:泉鏡花をテーマに村田篠がアダム・カバットにインタビュー
第4号 含:関悦史が松山巌にインタビュー
第5号 含:つげ義春「東京1968-1973」(写真)
第6号 含:つげ忠男インタビュー
※いずれのバックナンバーも残部僅少

蒸しプリン会議 2017秋冬』 文フリ向け緊急刊行
参加メンバー:大田うさぎ・岡野泰輔・小津夜景・笠井亞子・西原天気・鴇田智哉

俳誌『オルガン』第11号ほか ウェブサイト

神無月の好きになる狂歌 robin d. gill(敬愚)

$
0
0
神無月の好きになる狂歌

robin d. gill(敬愚)


拙著『Rise, Ye Sea Slugs!』の書名は、一茶の「うけ海鼠仏法流布の世なるぞよ」に因むが、その句の解釈は下記の『狂歌大観』に出た1740年の上方(大阪)の本に出た則本太山の狂歌を取り上げてから話します。

出雲路へ集りたまふ留主なれば我が神国に仏あり月

When they leave to caucus in Izumo, we merrily say Adieu!
In our Land of the Gods, this is Buddha-here-month too.

When they leave to caucus in Izumo, we are still blest
this month in Gods' Country, the Buddha is manifest!

歌体は平凡が、「神無月」と云わずに裏を返せば「仏有月」だよ、という発想は素晴らしい。二宗教両立という褒めたい寛容性を肯定、否や祝ふ首で、早くも教科書に入るべきと思いませんか。英訳二通りとも拙著『Mad In Translation』(2009)、また和書『古狂歌 ご笑納ください』(2017)より。

一茶の句「うけ海鼠仏法流布の世なるぞよ」の解釈は、今週の狂歌が詠む文化的現象を前提する。背後は「古事記」に伝わっている。この国(その頃の国名は大切ない)を征服した、海底まで来た新神等が派遣した女神に「忠誠を誓うか」と聞かれても、海鼠は答えすらしなかった。その無口にかんかん怒った女神は、匕首を抜いて海鼠の口その物をぎざ/\に切ってしまったが、一茶は、残虐の女神も出雲だから、安心して浮け!慈悲深い仏教が支配する月ですよ。それは、信濃人の大食いの一茶は、海鼠を見て食いたくなるか、浄土信者一茶に身受けすれば良いか、双方の意味か、よく判らないが、「ひらけゴマ」を思わす「うけ海鼠」の命令形は生かされている。思えば、上の狂歌よりも狂調なる。川柳はそう称された事もあるが、この一茶の句こそ「狂句」と称したい。

そう言えば、句の多くが「発句」と称されても、発句でない事を素直に受けて、俳諧の句を「俳句」と称した子規居士の句も、上記の狂歌と寄せれば面白い:

行く秋の我に神無し仏無し

一茶句では、日本の神と仏教は互いの弱点を上手く補っているかと思うが、また狂句と称したい上記の子規の句は嬉しいか悲しいかともかく勇気のある発言だと思う。英語的で言えば、睾丸持ちだった、子規(≫参照)は、お断りに置くが、神と仏を弄ぶ狂歌は無数あるを、神無月の首の神々と言えば、八割も同じ神を詠む。それは、一茶が「よき連れよ」もうそろそろ立ちたまえという句もある同じ神です。

偽のある世なりけり神無月 貧乏神は身をも離れぬ

It's Godsgone-Month and our world is full of falsehood, see
the God of Poverty remains here, as always, he's with me!

時雨がきちんと十月一日に降れば「偽りのなき世になりけり神無月」と始る定家の名歌の肯定を後句で否定する雄長老(1547-1602)の上記の狂歌は、狂歌をして名歌になるが、俳句に携わる諸君にお馴染みあるかどうか知りたい。教科書に定家の名歌が出る度に、貧乏神を詠むこの狂歌も一緒に載せた方が面白いと思うが、いかがでしょうか。

一茶の句はなんとなく十月になるが、神が去る一日よりも、出雲大神社に迎える一方、お寺で七日のお講が始まる芭蕉忌寸前の十日頃の句かという気がします。この記事を来年、もう少し深く追求したいから、その前に加えたい情報か解釈あったら、みたい。よろしくお願いします。


【週俳10月の俳句を読む】別なものを見る 木村オサム

$
0
0
【週俳10月の俳句を読む】
別なものを見る

木村オサム


同じものを見ていても、俳人にはふっと、いつもとは異なる別なものが見えることがある。そんな瞬間を詠んだ句が好きだ。

天の川乳酸菌を手懐けて  牟礼 鯨

テレビのCMなどで、「腸内フローラ(腸内の花畑)」という言葉を聞くことがある。腸内の乳酸菌があたかも花畑のように見えるということで、その内、免疫力を高めたり、腸の働きを助ける菌は善玉菌と呼ばれ、病原菌を悪玉菌と呼ぶらしい。

さて、掲句の作者は、夜空に浮かぶ天の川の対岸どうしで七夕の逢瀬を終えてしまった翌日から、また会いたい思いを募らせる牽牛と織姫の姿が見えたのだろう。そして二人に手懐けられた乳酸菌のような星が互いの気持ちを伝えるメッセンジャーとして天の川をひょろひょろと流れゆく姿が見えたのだろう。


花野から戻り拡大鏡に瞳   山岸由佳

様々な秋草の咲き乱れている野から戻った作者は、摘んできた或る草をよく観察しようと拡大鏡で覗き込んだのだ。すると、草が見えるより先に、拡大鏡に映る自分の瞳が見えたのだ。一瞬はっとしたが、改めてレンズに映った自分の瞳を見ることも、それはそれでまんざらでもないのだ。
 

十六夜を巡れば骨の軋みけり  上森敦代

名月の翌晩、作者は散歩でもしていたのだろう。すると町のあちこちで骨が軋む音が聞こえてきたのだ。そして、どうやら自分が通り過ぎると、なぜか骨が軋み始めることに気づいたのだ。やがて、月光を浴びて大量の骸骨が動き出している光景に出くわすことになる…

ちょっと怖くもあり、ユーモラスでもある句。


裏側にファスナーのある秋思かな  藤井なお子

ファスナーが裏側に付いている洋服を着ているのだ。そんな服はファスナーの上げ下げがやりにくいのだ。だが、全くやれない訳でもない。そのあたりの微妙な違和感、微妙なもどかしさに作者は秋思を見つけたのだ。

そして、秋に感じるものさびしい思いは、そんなファスナーを開いてしまえば、意外にあっさりと消え去る程度のものさびしさなのかもしれない。


牟礼 鯨 柿木村 10句 ≫読む
山岸由佳 拡大鏡 10句 ≫読む
上森敦代 月夜 10句 ≫読む
藤井なお子 百分の一 10句 ≫読む

【週俳10月の俳句を読む】嘘八百についての考察 瀬戸正洋

$
0
0
【週俳10月の俳句を読む】
嘘八百についての考察

瀬戸正洋


嘘ばかりついていると何が本当のことで何が嘘だったのかわからなくなってくる。孤独と恐怖に襲われたりするのは、まだまだ未熟なのである。嘘の中にこそ真実があり、嘘を極めることの中にこそ、生きていくための真実が隠されている。

くましでの実や雲を塗る建築家  牟礼 鯨

建築家というと職人よりも設計や工事管理者というイメージがある。くましでの実について考えていたら、建築家は何故か雲を塗りたくなったのである。建築家は、庭にくましでを植えたくなったのである。くましでの実の向こうには青空と太陽のひかり。建築家は黙々と絵の具駆使して雲を描いていく。

青空の青が剝がれる烏瓜  牟礼 鯨

烏瓜に真っ赤な実が生るのは青空のせいなのである。真っ青な青空が剥がれたから烏瓜の実が真っ赤になったのである。これは青空のやさしさなのである。その青空のやさしさを感じた烏瓜のやさしさでもある。夕日は茜色を剥がすのである。激しさや厳しさよりもやさしさが一番なのだと思う。

虫の音は矯正器具を舐めもどす  牟礼 鯨

舐めもどすとあるので、この矯正器具はマウスピースなのだと思う。矯正器具を使うことは不快なのである。人生も不快なのである。虫の音は快いものと不快なものとの両方がある。ということは、矯正器具も人生も不快なものばかりではないのかも知れない。

三日月は塞ぎとどむる響きかな  牟礼 鯨

「塞ぎとどむる」とは、憂鬱な状態を止めにするという意味である。三日月という言葉を発すると、余韻、残響、または、耳に受ける音や声の感じから憂鬱などが消し飛んでしまうのである。そして、三日月のことばが聞こえてくるのである。つまり、三日月が好きで好きでしょうがないのだと思う。

天の川乳酸菌を手懐けて  牟礼 鯨

乳酸菌とは手懐けなくてはならないものなのである。乳酸菌は意のままに操らなければならないものなのである。摂取量は多過ぎてもいけない、少な過ぎてもいけない。たとえて言うならば愛するひととの接し方と同じなのである。そうすることが相手を不快にすることを承知の上で、誰もが愛するひとを手懐けようとして後悔をするのである。地上では、乳酸菌も愛するひともこんがらがり。天空ではしずかに天の川が流れている。

落鮎の瞳をほどけゆく星座  牟礼 鯨

星座がほどけていくということは星座が星座でなくなるということなのである。つまり、ひとつの星になるということなのである。産卵のために海へと下る鮎の瞳が星座をほどいていくのである。考えてみると、世の中のすべてのものがほどけてしまった方がいいのかも知れない。もちろん、私自身もほどけていきたいと思う。

星香る石見国の稲穂かな  牟礼 鯨

島根県西部のあたりを石見国という。岩見といえば銀山が有名だが、当然、稲作も盛んなのだろう。田圃一面が黄金色ともなれば稲穂の香も立ちあがる。その稲穂の香を星の香であると思い、静かに岩見国に佇んでいるのである。

谷深し夜の名残りの曼珠沙華  牟礼 鯨

曼珠沙華に夜の余韻が残っている。曼珠沙華を眺めていて夜の名残を感ずることは難しい。何故それができたのかと言えば「谷深し」だからなのである。「谷深し」だから夜の名残を感じたのである。曼珠沙華に夜の名残がある。この言い方は悪くないと思う。そして、私たちは夜の名残の曼珠沙華を懸命に思い浮かべるのである。 

稲掛や婚活パーティーの轍  牟礼 鯨

刈り取った稲の穂を下に向けて束にして干すための柵を稲掛という。轍とは先例、それも悪い先例のことである。稲掛と婚活パーテイーの轍とはどうかかわっていくのか。嘘八百を並べてみても太刀打ちのできない作品である。

例えば、婚活パーティーでも、日々のくらしのなかでも嘘をつかなくてはならないのである。嘘をつくことは決して罪悪ではない。嘘をつかなくては生きていけないから嘘をつくのである。

秋声這ふ落人谷の石積を  牟礼 鯨

秋声とは、物音がさやかに聞こえることである。風やせせらぎなど自然の音、人のたてる物音も秋の声だという。また、心の中に響いて来る秋の気配も秋の声である。それが這うのである。それも落人がひっそりと住む谷の石積みのうえを這うのである。こころもからだも全てを研ぎ澄まさなければ、このような光景は現れてこないと思う。

野分あと歩行者天国にこども  山岸由佳

郊外、あるいは地方都市での歩行者天国であろう。中高年とこども、手作りの催し物、笑い声が聞こえる。カラーの三角コーンが置かれ、誘導棒を持っているのは駐在さんと町内会の役員。野分が去った後の解放感も感じられる。

カンナから土砂降りの橋みえてゐる  山岸由佳

窓から土砂降りの雨を眺めている。自宅にいるときの雨は楽しいものだ。土砂降りの雨の方がこころが踊る。ふと、庭のカンナに目を向ける。晴れた日のカンナよりも雨の日のカンナの方が美しく感じるのは何故なのだろう。その先に目をやると橋が見える。土砂降りの橋が見える。その土砂降りの橋も美しいと思う。

カンナも橋も美しく思えるということは、見ている私が美しいからだということに気付く。こんなに汚れている私のこころを土砂降りの雨が流してくれることに感謝する。

小鳥来るまひるを眠らないやうに  山岸由佳

まひるは誰もが起きているが、眠らないやうにと断っている。まひるとは正午近くのことである。何故、ひとは、まひるに眠らないのかはよくわからないが、作者は、小鳥が来るからだと言っている。これは、本当のことなのか、それとも冗談なのか、すこし、考えなくてはいけないと思う。

蟋蟀のこゑ十字路を嗚呼と風  山岸由佳

古い街並みを歩いている。風を感じたらそこは交差点だった。つまり「嗚呼」とは、作者の感情でもあるし、風の囁きでもあるのだ。ふと立ち止まったら、そこかしこに蟋蟀が鳴いている。

花野から戻り拡大鏡に瞳  山岸由佳

何かを拡大しようとする意志はあると思う。花野から戻ってきたからといって、摘んで来た草花を拡大したいと思っているのではない。もしかしたら、何も摘んでこなかったのかも知れない。それらのことは、全て切っ掛けなのである。作者は自分自身を知りたいと思い拡大鏡を覗く。

指で書く文字木犀の香るなか  山岸由佳

指で文字を書くときは文字を教えようとする場合が多い。それも、難しい文字ではなく、うっかり忘れてしまった簡単な文字のような気がする。身近なひとに尋ねられてのひらに書いたのだ。気が付くと木犀の香り、ふたりで庭を歩いている途中だったのかも知れない。

残る蚊と雪の図鑑へ日のあたる  山岸由佳

雪の図鑑を開く、蚊の声が聞こえる。秋の蚊もひとも日あたりを求めている。休日の晴れた日の午前中あたりの、図書館、あるいは、珈琲店なのかも知れない。私が二十歳代の頃は珈琲店のことを喫茶店といった。喫茶店の良し悪しは、座り心地のよい椅子、清潔なトイレ、そして、本を読むための明るい照明で決まる。

その頃、どこへも行く当てのない私は、朝、起きると街へ出掛け、喫茶店に入る。二時間粘って、四軒はしごをすると夕方になる。そんな生活をしていた。くだらない青春であった。ただ、朝起きて、どこへも行く当てのない暮らしは辛かった。それが、就職後、一度も会社を辞めなかった理由なのかも知れない。

百坪のゑのころ草の売られをり  山岸由佳

百坪の土地が売られたことをこのように表現した。空地ではゑのころ草をよく見かける。作者は洒落た言い方をしたものだと思う。つまり、作者の生き方が洒落ているのだと思う。

電柱の影踏み或る日の秋暑し  山岸由佳

電柱が整然と影踏みあそびをしているような気になるが、踏んだのは作者であり、それも、思わず踏んでしまったということなのだろう。私自身、電柱の影を踏んだ記憶などないのである。作者も電柱の影を踏んだ時、はっとしたに違いない。そして、そのときに暑さを感じたのである。空には秋の太陽と電信柱。

あたらしい記憶きつと鶫だらう  山岸由佳

右へ行くか左へ行くかを瞬時に判断する時は、記憶が教えてくれるのだ。不要な記憶など記憶が判断し消去する。当然、意識、無意識は関係なく、ふるい、あたらしいにも関係ない。そう思って、この作品をながめてみると、こころもからだも緩んでくる。鶫の地鳴きが聞こえる。

月の出のフォーク逆さに使いおり  上森敦代

子どもの頃、フォークの背にライスを乗せて食べるおとなを見て驚いた。最近は、あまり見かけなくなったが器用なものだと思った。普通に使っていたフォークを月が出ると逆さに使い出す。数十人の団体が一糸乱れることなくいっせいにフォークを逆さに使ったら面白いと思った。

宵待の壺の中から波の音  上森敦代

日が暮れるのを待っていたら壺のなかから波の音が聞こえてきた。何故、日の暮れるのを待っていたのか。何故、壺のなかから波の音が聞こえてきたのか。おそらく、波打ち際で海を眺めていたのだろう。それほど深刻ではないが何か考え事をしていたのだろうと思う。

白き尾を抱えて眠る小望月  上森敦代

小望月とは十三夜のあと十五夜の前の月のことをいう。白い尾を抱えて眠るのはひとなのである。小望月だからひとに白い尾が生えてきたのである。ひとは白い尾をひたすら抱えて眠ればいいのである。

コンソメの匂いの残る良夜かな  上森敦代

良夜とは、月の明るく美しい夜。特に、中秋の名月の夜のことをいう。子どもの頃、縁側には硝子戸などなく机のうえに、芒、芋、団子などを飾った。その団子を先に釘を付けた竹竿で盗みに行くのである。盗むといってもみんな顔見知りなので子どもの数は増えていく。現在は、そんなこともなく、月にお供えをする家庭も少ない。コンソメの匂いの残るとは何とも都会的な風景なのだと思う。

月の船父が手招きしておりぬ  上森敦代

大空を航海していくのは月の船なのである。父は月の船から手招きしているような気もするが、そうすると父は亡くなっていることになってしまう。月の船という大景があり、地上の、自宅の前で、父が手招きしているとした方が、常識的で幸福な光景なのである。いちばん大切なものは幸福であることなのである。幸福になるためには嘘をつくことも許されるのである。

十六夜を巡れば骨の軋みけり  上森敦代

新月から数えて十六日目の夜に何かがあったのである。その何かとはあまりよくないことなのかも知れない。ひとのちからでは如何ともしがたく、何かしたくても気休め程度のことしかできない。骨が軋むことぐらいのことは日常茶飯事だと思った方がいい。

錠剤のひとつ失せたる居待月  上森敦代

錠剤を食べているような生活をしていれば、ひとつぐらい食べなくても大差はないのである。そんなことよりも、スコッチウイスキーのオンザロックでも舐めながら月の出を待つ方がどれだけ洒落ているだろう。とあるBARのカウンターでバーボンウイスキーのオンザロックでも舐めながら彼氏を待っている方がどれだけ洒落ていることだろう。

ちぎれそうな月が男の上にあり  上森敦代

月をちぎろうとしているのは作者なのである。ちぎれそうな月の下には男がいる。その男は既に作者にちぎられてしまっている。その程度で済んだのだから男は感謝しなければならない。当然、ちぎれそうな月にも感謝しなくてはならない。
 
城山に残る山彦昼の月  上森敦代

城山に残っているのは山彦と昼の月なのである。山彦とは、山の神・精霊・妖怪のことなのである。つまり、反響しているのだと思っているのは間違いで、山の神・精霊・妖怪自身の声なのである。当然、昼の月も神なのであるから、神たちが城山に残って何をしたとしても何の問題もないのである。

襖絵の虎が水飲む十三夜  上森敦代

虎はがまんしなくてはならない。あと二日がまんしなくてはならない。いくら、のどがかわいていても、あと二日がまんしなくてはならない。襖は閉めておけばいいのである。やさしいひとたちは襖を開けてしまったのである。その好意に応えるために虎はがまんしなくてはならない。何故ならば、虎は襖絵の虎なのだから。

鴨川の澄んで何となく平凡  藤井なお子

人生とは「何となく平凡」であることが最良なのかも知れない。「何となく平凡」と感じて旅に出る。「何となく平凡」を噛みしめて酒に酔う。鴨川が澄もうと濁ろうと「何となく平凡」なのである。もちろん、鴨川は澄んだ方がいいに決まっているが。

ありたけの静寂(しじま)よ京のねこじやらし  藤井なお子

周囲に音のするものがなく寂しいという感じがする。ねこじゃらしはどこでも同じだろうが、京のねこじゃらしだけは特別なのだろう。特別だからこそ「ありたけの静寂」ということになったんだろうと思う。

蓑虫は近江か京か夜の会議  藤井なお子

惚けたことを書く。支店会議があり、全国から支店長が集まる。京都、滋賀支店長が何故か蓑虫のような感じがした、そんな風貌であった。作者は、その会議に飽きているのである。その会議がつまらなかったのである。だから、あたりを見回し、そんなことを考えながら暇を潰しているのである。

十分にあなたらしくて唐辛子  藤井なお子

ご婦人から「十分にあなたらしくて」と言われたら悪い気はしない。あまり話さず照れ笑いを浮べているくらいがちょうどいいのかも知れない。調子に乗ってぺらぺら話せばボロが出る。唐辛子のからさが脳髄に沁み込むことになる。

百分の一ほどきのふ菊膾  藤井なお子

食用菊の花びらをゆでて、三杯酢で和えたものを菊膾という。「百分の一」はタイトルであるので、この作品には思い入れがあるのだろう。だが、「百分の一ほど昨日」とは、いったいどういう意味なのだろう。昨日を百で割ってその一、菊膾とは、その程度のものなのだと。とすれば、すべての昨日の出来事も
「百分の一」程度、取るに足りないものであるということなのかも知れない。

裏側にファスナーのある秋思かな  藤井なお子

ファスナーには、「点」「線」「面」と三種類があるが、裏側にとあるので面ファスナーなのかも知れない。裏側だから秋思であると言うのだとすれば、線ファスナーでいいのかも知れない。秋に感じるものさびしい思いを秋思という。ひとは、どんな些細なことからも、ものさびしさを感じるものなのである。

和服の着かた豊年の歩き方  藤井なお子

和服の着かたはあるのだろう。豊年の歩き方は千差万別だと思う。つまり、感情の表し方のことなのである。うつむいて歩くひともいるだろう。胸を張って歩くひともいるだろう。和服の着かたはひとつしかなく、豊年の歩きかたはひとによってそれぞれ異なる。そこの対比を表現したことが面白いと思う。

堰に寄るあぶく十月匂ひけり  藤井なお子

堰とは、水をせき止めるための構造物である。あくたやあぶくが寄ってくるのは当たり前のことなのである。そのあぶくから十月の匂いがしたのである。十月の匂いがしたと感じたのである。よく晴れた日の午後、散歩の道筋に堰があったのである。

鬱憤のいつの間にやら木の実降る  藤井なお子

怒りや恨み哀しみをおさえていたら、いつのまにやら木の実の降る季節になってしまった。それでいいのである。こころは隠さなければならない。誰もが忙しいのである。やらなければならないことは、いくらでもある。すこしも待ってはくれない。手が空いたなどと思った瞬間、怒りや恨み哀しみがよみがえってくるのである。季節は巡り、いつの間にやら木の実は降っている。

素十の忌こんな時にはワンピース  藤井なお子

男の私はワンピースを着たことがない。だから、どんな時にワンピースを着たくなるのかわからない。作者は、こんな時とはどんな時なのかわかってたまるかと思っているのかも知れない。女性に対しても、そう思っているのかも知れない。素十は、四十一年前の十月四日に亡くなっている。

体の調子はいかがですかと聞かれて、ふと、気が付いた。必ず、どこかが悪いのである。つまり、体調のよい日は皆無になってしまっているのである。体調が不完全であるのだから、当然、精神も不完全であるに違いない。体は、痛いとか、動かなくなるとか、すぐに解るが、精神の不調は自覚がない。書いてみれば解るのかも知れない。何も書くことができなければ健全なのか、嘘八百がいくらでも浮かんでくれば健全なのかよく解らないのである。老人になると、よいことなどひとつもないことだけは解っている。



牟礼 鯨 柿木村 10句 ≫読む
山岸由佳 拡大鏡 10句 ≫読む
上森敦代 月夜 10句 ≫読む
藤井なお子 百分の一 10句 ≫読む

10句作品 もらふ火 安岡麻佑

$
0
0
画像をクリックすると大きくなります


もらふ火 安岡麻佑

冬銀河肢体ねぢれて球送る
黙禱の眠りにも似て銀狐
死なぬ日の影を放ちて大枯野
木の葉雨犀の背の縮まつて皺
たまゆらの灯にもらふ火や初時雨
魚影ごとこほりて湖のうるはしく
寝台車冬の雲より遠ざかる
神の留守林間に夫見失ふ
繋ぐ手を入れ替へてカトレアを抱く
陶土あたためる向かひに山眠る
Viewing all 5996 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>