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後記+プロフィール 332

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後記 ● 上田信治


ひどい暑さで。ひどい世の中で。

「かつて、ひどくなかった世などはないのだ」という身のこなし方もありましょうが、すくなくとも、自分が生まれて今がいちばんひどい。

応仁の乱のころにでも意識を飛ばして、道で死んで、犬に食われることを思って、しばしの涼を得ますか。

 

あ、おめでたごとの話を書くつもりが、ひどいイントロを振ってしまいました。

第59回角川俳句賞を、清水良郎さんが受賞されました。

清水さんは、昨年惜しいところで受賞を逃され、翌年受賞。これは、山口優夢さんの時のパターンですね。

おめでとうございます! 清水さん、ずっと、注目してました。

今後のご活躍をお祈り申し上げます!!

というわけで、 
「落選展」への参加資格を得たみなさま
今年も、ぜひ、ご参加のほどを、よろしくお願いいたします。

今年も、いろいろ読み比べ企画、実施いたします。
同じ50句なんですから。どうでしょう、

ぜひ、もう一と勝負

 

俳句甲子園、今年は、審査員の岸本尚毅さんの閉会の挨拶が話題になりました。

≫ 俳句甲子園、岸本尚毅さん閉会挨拶
(現地で取材の青木亮人さんのつぶやきを、まとめさせていただきました)
「来年のテーマとしては“説明できない俳句の良さ”とは何か、そこをぜひ追求するといいんじゃないか。これは“打倒開成”という意味でなく、俳句の本質を探るという意味です。今日はありがとうございました」
説明のできない俳句の良さは、それが俳句である限り、俳句甲子園の場にも横溢していたはず。

週刊俳句でも、俳句甲子園関連記事を準備中です。

 

それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.332/2013-9-1 profile

■高柳克弘 たかやなぎ・かつひろ
1980年生。2004年第19回俳句研究賞受賞。2005年より「鷹」編集長。2008年『凛然たる青春』(富士見書房)により第22回俳人協会評論新人賞受賞。2009年、句集『未踏』(ふらんす堂)。

■田中槐 たなか・えんじゅ
1960年静岡県浜松市生まれ。「未来短歌 会」所属。岡井隆に師事。95年「短歌研究新人賞」受賞。2009年4月より朝日新聞「短歌時評」連載。現代歌人協会会員。歌集に『ギャザー』(短歌研究 社)、『退屈な器』(鳥影社)、『サンボリ酢ム』(砂子屋書房)。2011年より「澤」会員。ブログ「槐の塊魂Ver.2」

■澤田和弥 さわだ・かずや
1980年生。「天為俳句会」所属。

■関悦史 せき・えつし 1969年、茨城生まれ。第1回芝不器男俳句新人賞城戸朱理奨励賞、第11回俳句界評論賞受賞。「豈」同人。共著『新撰21』(邑書林)。句集『六十億本の回転する曲がつた棒』(2011)にて第3回田中裕明賞を受賞。URL:http://etushinoheya.web.fc2.com/(管理人は別人) URL:http://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/(句集紹介用ブログ)

■山下彩乃 やました・あやの
1988年生まれ。山形県出身。現在東京在住。2009年より作句開始。2010「梓」参加。打楽器ずき。

■村上瑪論 むらかみ・めろん
1956年東京生まれ。「銀化」編集長。

■岡村知昭 おかむら・ともあき
1973年滋賀県近江八幡市生まれ。「豈」「狼」「蛮」所属。現代俳句協会会員。

■小林千史 こばやし・ちふみ
昭和34年12月、大阪府の葡萄畑ばかり の片田舎に生まれる。奈良女子大学在学中、学内同人誌『ディオティマ』(山西雅子らが活動の拠点としていた)に参加、卒業後、高校教師となった後、幼稚園 教諭となる。現在幼稚園経営。昭和60年ころ、俳句に出会う。その後様々な結社を経て、井上弘美氏の紹介で平成 13年頃竹中宏に出会い強い衝撃を受け生涯の師と決め、平成15年「翔臨」入会。 句集『風招』。共著『俳コレ』『再読・波多野爽波』。


■石原ユキオ いしはら・ゆきお
1982年生まれ、岡山県在住。憑依系俳人。わたしとお憑き合いしてください。twitter : @yukioi

■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。ブログ「ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記」

■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。

■小川春休 おがわ・しゅんきゅう
1976年、広島生まれ。現在「童子」同人、「澤」会員。句集『銀の泡』。サイト「ハルヤスミ web site

■野口 裕 のぐち・ゆたか
1952年兵庫県尼崎市生まれ。1952年兵庫県尼崎市生まれ。二人誌「五七五定型」(小池正博・野口裕)完結しました。最終号は品切れですが、第一号から第四号までは残部あります。希望の方は、yutakanoguti@mail.goo.ne.jp まで。進呈します。サイト「野口家のホーム ページ」

■小池康生 こいけ・やすお
1956年、大阪市生まれ。「銀化」同人副会長。俳人協会会員。2012年4月、句集『旧の渚』上梓。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。「月天」同人。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「七曜堂」 twitter

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

〔今週号の表紙〕第332号 東京タワー 西原天気

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今週号の表紙〕 
第332号 東京タワー

西原天気


東京で、一度行ってみたい場所の一つに「東京タワー」がありました。

はい、そうなんです。東京近郊に長く暮らしながら、東京タワーは登ったことがなかったのです。

そこへもってきて、SST(榮猿丸さん、関悦史さん、鴇田智哉さん)が東京タワーの「蠟人形館」へ吟行に出かけるというではありませんか。ちょうどその日の夕方、都内に用事がある。ここは便乗して、積年の夢を叶えるしかない、ということで、その日の昼近くになってから急いで家を出ました。

SST御一行様とは別ルートで東京タワーに到着。「蠟人形館」をご一緒させてもらってから、いったん別れ、いよいよ登頂です。

展望台に着き、エレベーターのドアが開きました。さあ、展望台だ。外が見える。どれどれ?

「んんん、低い」

これが感想でした。展望台(145メートル)からの眺めは、もちろん四方を見下ろしてはいるのですが、そこと同じくらい高いビルが周囲に何本も立っています。

もちろんむかしは、この展望台は、びっくりするほど高かったのでしょう。あるいは今でも特別展望台(250メートル)まで行けば、「低い」ことはなく、「高い!」のかもしれません。ただ、「ここ」は今となっては、そう高くない。

東京タワーがずば抜けて高かった頃に登っておくべきでした。


  ▲「真下」が見える、この強化ガラスの床部分は
「高さ」が味わえます。




週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

京都FM 俳句セブンティーンズ 小池康生

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京都FM 
俳句セブンティーンズ 

構成&パーソナリティ 小池康生


本誌「商店街放浪記」などでおなじみの、小池康生さんが、京都FMで「俳句セブンティーンズ」という、俳句とクラシックの番組をもたれることになりました。(小池さん、本職は放送作家なのです)

一回目、8月4日の放送は、宣伝のために貼っていい、ということなので、こちらにぺたりと。

俳句をめぐるヨモヤマばなしと、すてきな音楽。





終わったばかりの、俳句甲子園出場の「洛南高校・Aチーム」男女2名がゲスト出演して、京都予選をふりかえっています(26:00すぎ)。

自由律俳句を読む 9 坂道 馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 9坂道
 
馬場古戸暢

私が子どもの頃に住んでいた家は、小高いところにあった。「坂道」は、買い物へ行くにも学校へ行くにも、避けては通れない道であり続けた。


ひょっこり出会う犬の坂道  中筋祖啓


私の故郷が田舎だったせいだろうか、今よりも放し飼いの犬や野良犬が多くさまよっていたような気がする。帰宅途中に彼らとひょっこり出会った際には、いつも恐怖を感じていた。毎度半泣きになりながら、別ルートを迂回していたものである。

湯にぬくもり坂道をおりていく  井上敬雄

坂道の上に温泉が湧いていたのだろうか。夏なら行き帰りともに難儀なことだが、他の季節であればちょうどよい運動になりそうだ。

坂道を登り切ればコスモス畑の広がり  薄井啓司

コスモスは、少し小高い所に生えているように思う。少しばかり汗をかきながら坂道をのぼり、視界が開けたところに急に広がるコスモス畑。その爽快感たるや、格別のものがあることだろう。


林田紀音夫全句集拾読 281 野口裕

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林田紀音夫
全句集拾読
281

野口 裕





取残される橋燈の徐々に濃く

平成四年、未発表句。「亜紀荷出し」の詞書。一人娘の結婚が目前に迫る。橋燈は橋の両側に対で配置されるのが普通である。したがって、自画像というよりは、送り出す側の老夫婦を暗示するものとなる。



雪を被てしばらく山は声をのむ

平成四年、未発表句。声をのむのは山のはずだが、作者の動作を暗示しているようでもある。自身の沈黙が山に反映し、山の沈黙が沈黙を増幅する。薄くかぶった山の雪はいつまで持つか。



水使う音の家族と共に夜

菜の花の道の途中の岐れ道


平成四年、未発表句。二句目に、「3/7亜紀結婚式(東武ホテル)」の詞書。ここからしばらく結婚式前後の句が続く。平成五年の花曜発表句、 「祝婚の俄に薔薇の棘目立つ」と比較すると、素直な心情を吐露する句では発表するまでもないという作家の矜持が読み取れる。だが、一句目など、結婚前夜の 特殊状況から生まれた句ではあるが、それを離れて一般性を持つ。

【週俳8月の俳句を読む】するりと逃げていくような 岡田由季

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【週俳8月の俳句を読む】
するりと逃げていくような

岡田由季


秋雨のなかの小鉢のやうな花  彌榮浩樹

小鉢のような花、そんな花はいろいろ思いあたる。決して派手ではなく、色も地味で小さく、目立たない花。けれどよく見ればくっきりと整ったかたちをしている。小鉢のよう、という発想に至ったのはあるいは日本庭園に咲いていたからかもしれない。秋雨の中では何でもない花や葉っぱが清潔に輝いて見えることがある。よく手入れされた庭園ではなおさら。この句自体、目立つ句ではないが、味わいあっさりと、それこそ小鉢のような印象の作品だと感じた。


虹あとの通路めまぐるしく変る  鴇田智哉

「目とゆく」というタイトルに従い、視線を追体験するような10句だろうか。前半は無季句、後半は有季に思えるが、そこには何か仕掛けはあるのだろうか。像が容易に結べそうで結べず、するりと逃げていくような作品が多く手がかりを探したくなる。いろいろな視覚のパターンのなかでこの句からはくらくらする眩しさを受け取った。


ダンプ過ぐ夾竹桃に風をぶつけ  村上鞆彦

夾竹桃が道路際によく植えられているのは排気ガスに強いからだそうだ。とにかく見た目にも丈夫そうで可憐という印象は無い花だ。公害に耐え、空気を浄化してくれるのはありがたいが、花や葉や全体に毒があるとか。車の中でも強そうなダンプと夾竹桃との対峙に都市の夏の迫力を感じる。


蒲田らしるるぷるぷるる白玉か  井口吾郎

回文俳句の楽しみ方のひとつとして、無理矢理なところ、少し苦しい感じを却って味わいと感じることがあるように思う。その点、今回の10句は見事な出来の作品が多くあまり無理を感じるところがない。この句は17音のうち7つを「るるぷるぷるる」というオノマトペに頼っているのでやや苦しいか。しかしその「るるぷるぷるる」が電車の発車ベルにも白玉にも綺麗にはまっているのでやはり見事な出来なのである。


夕ぐれを飛ぶ木耳の笑いけり  久保純夫

夕ぐれはあまた翔び立ちなめくじら

10句のうち1句目と10句目に同じ題材の句が配置されている。笑う木耳もあまたのなめくじらも、不気味でありながらどこかコミカルで、親しみがもてる対象だ。繰り返し同じ主題が出てくるのが幻想というものであろう。ベルリオーズの幻想交響曲で、恋人のテーマが幾たびもデフォルメされて出てくるように。

第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


第331号 2013年8月25日
久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む

朝の爽波82 小川春休

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小川春休




82



さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十一年」から。今回鑑賞した句は昭和六十一年の夏、盛夏の頃の句。「青」二月号から連載開始の「枚方から」、七月号は「偶然の必然」という題の文章でしたが、これについては本稿の第六十二回にて紹介しています。


下闇にバケツ仲良く二つかな  『一筆』(以下同)

夏には木々が鬱蒼と茂り、樹下は昼とは思えぬ暗さとなる。殊更暗く感じられるのは、日差しが強い周囲の明るさと対比されるからであろう。日差しを避けるかのように樹下に寄り添う二つのバケツは、兄弟のように姉妹のように、どこか懐かしさを湛えている。

天瓜粉まみれや寺のひとりつ子

表面上の句意は読んで字の如くだが、様々に想像の拡がる句。天瓜粉はキカラスウリ(天瓜)の根からとった白いでんぷん。その吸湿性を利用して汗疹の治療に用いられてきた。ただし、沢山塗ったから効果が増すものでもあるまい。少し過保護ではなかろうか。

夜濯に往くと戻るとすれ違ふ

夏はよく汗をかき、洗濯物の沢山出る季節。そして、夜に洗濯しても翌朝には乾いてしまうのも夏ならでは。掲句では、一つの洗濯場を共同で使用している。寮などの共同生活の場を思うも、川のほとりで洗濯していた往時を思うも、読み手の想像に任されている。

羅や勝手知つたる寺廊下

紗・絽・上布など、薄く軽やかな織物で仕立てた単衣を羅(うすもの)と言う。一般の民家に比べて造りの大きな寺、それも幾度も訪れた馴染みの寺の廊下だ。その広々とした空間を、我が物顔をして涼しげないでたちですっすすっすと歩むのは、何とも心地良さそう。

日盛の雪隠は灯をつけて入る

雪隠(せっちん)とは便所のことだが、決して洋式のものではなく、日本家屋の一角に位置し、上の方に小窓があるのみの狭い便所を想像するのが妥当であろう。灯と言っても裸電球が吊ってあるばかりで、さほど明るくもないが、それでも点けずにはおれぬ暗さだ。

【週俳8月の俳句を読む】彼女について…… 石原ユキオ

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【週俳8月の俳句を読む】
彼女について……

石原ユキオ

Deux ou trois choses que je sais d'elle


花粉愛隠すマスクか慰安婦か  井口吾郎

彼女は花粉を吸うとエクスタシーを感じる特異体質であり、花粉症でもある。ぐずぐずと鼻をすすり涙を流しながらも花粉を吸うのがやめられない。マスクは花粉を吸わないためではなく、花粉の吸い過ぎで爛れた鼻を隠すためのものなのだ。そんな彼女を娼婦ではないかと噂する者もいる。


冷蔵庫板に死にたい楮入れ  同

ある日、なにもかも嫌になって死ぬことを考えた。一人暮らしでは発見されるまでに時間がかかるだろう。いっそ冷蔵庫に入って死のうかしら。冷蔵庫の仕切りのプラスチック板を外して製紙工場から盗んできた木の板を入れてみたら棺のようになった。


蟬鳴きて瓶底ゾンビ的な店  同

彼女のいきつけは、度の強い眼鏡をかけた老人がやっている居酒屋。青ざめてむくんだ老人と傷だらけのカウンター越しに向き合うと、不思議と心が安らぐのだった。まだ蟬が鳴いている。夜なのに。夏も終わるというのに。

まあなんて暗い恋楽天な海女  同

彼女の恋人は船乗りで、港々に女がいるような男だ。いつ会いに来るともわからない。彼女は海に潜り雲丹や若布をとって生計を立てている。インターネットでも売っているが、手数料も広告費もかかるし、思うようには稼げないのだった。



第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


第331号 2013年8月25日
久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む



【週俳8月の俳句を読む】うすぼんやりした彼方へ 小林千史

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【週俳8月の俳句を読む】
うすぼんやりした彼方へ

小林千史



心惹かれる句は誤読を恐れず深読みしたいと思う今日この頃。また、一方で、句数の制限の中で舞台で演じるようにどのように句を並べているのかという構造にも興味津々である。

昨今の自己愛や自己表出としての俳句が多く作られている状況の中で、彌榮浩樹氏の句がめざすのは真逆の方向。そこに出現するのは、彼自身が物の側に移りきった瞬間の官能的ともいえる状況だ。

もちろん直接的にそのようなエロチックな言葉が使われるわけでもないが、どこか含み笑いのようなひめやかさが付きまとうのである。

しかも、その焦点をかちりとは結ばず、うすぼんやりした彼方に消えようとするかのようだ。

読み手を試しているのか? そう思わないでもない。並んでいる句は、隣同士が裏表の関係にあるかのように、よそよそしくふてぶてしくもある。偶数句の端正な面持ちはいったいなんだろう。逆に気味悪いくらいではないか。

金堂を遠くにきざみおくらかな
  彌榮浩樹

秋雨の中の小鉢のやうな花  同

なんだかあまりにもひねられていないので、何か仕掛けでもあるのではと勘ぐってしまうくらいだ。だが、私にはこの十句の仕掛けはその隣り合わせた端正でないほうの句を、実は表の顔ですよと、ぬーーーっと出してくるところにあると思うのだ。

秋蝉やP氏このごろきてくれず  同

P氏は自分にとっての来てくれない人、来てくれないものなら何でもあてはめてよいのだ(私なりに断言してしまおう)。

奇数句は、実態という束縛からのがれてするりと楽になった句でもある。そして、悪戯のように様々な妄想を掻き立たせる句でもある。だから

あつまつて笑ふでもなく未草  同

は、笑わないのは人でもいいが、未草でもいいのだ。我と他人と、ものと人との境を越えて不思議ワールドに入り込む。その仕掛けとして端正な偶数句たちが並んだ気がするのだが、むしろそれは一句くらいで十分であとの九句は不思議ワールドの句でよいのではと欲張ってしまうのである。それにしても、ひざを曲げてくつくつ笑うのはいったいだれなのだろうか? 彌榮浩樹氏にとって、私にとって。案外、彌榮浩樹氏の目指すところは深く果てしない暗闇かもしれない。



第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


第331号 2013年8月25日
久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む

【週俳8月の俳句を読む】この街のどこかで 岡村知昭

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【週俳8月の俳句を読む】
この街のどこかで

岡村知昭


多摩川市西区土筆に皺がまた  井口吾郎

多摩川市にも春が来て、土手には土筆が姿を見せる。土手を行き交う西区の人たちの、土筆を見つめるまなざしがとても優しそうであるのは、ようやくの春の訪れへの喜びもさることながら、街の中にあって数少ない緑の空間で、懸命に生えている土筆への驚きも含まれているだろう。だから行き交う人たちからしたら、生えてきた土筆の大きさだの色艶だの形だの、そのようなものはまったく気になどしていないのである、「皺がまた」などと嘆いてみせるこの人を除いては。「土筆とはかくあらねばならない」との思い込みにすっかりとらわれてしまっているこの人にとっては、大きさに色艶に形、どれも高い理想を求めているだけに「土筆に皺」などもってのほか。土手を歩きながら土筆を見つけては、「ああここの土筆も皺がある」「あそこの土筆も皺がある」と小さくつぶやきながら、自ら求める「理想の土筆」をなおも追い求めるのである。この街でこれからも生活していかなくてはならないこの人にとって、「理想の土筆」を探すことは自らの内に潜む野性を探す作業なのかもしれない、などと言ってしまうのは大仰すぎるか。奮闘空しくこの人にとっての「理想の土筆」はなおも見つからず、そろそろ日の暮れてくる頃である。


燦々と市民プールの市民たち  村上鞆彦

連日の厳しい暑さもなんのその、今日も市民プールは大盛況である。元気よく水しぶきを上げる老若男女。子供も大人もプールの至るところで歓声を上げ、プールにいる喜びを体いっぱいを使って表す。夏の真昼の暑く眩しい光を浴びて、燦々と輝きを放つ水しぶき。ここにあるのはまぎれもなく、夏の一日を平穏無事に生きている市民たちの姿である。しかし光あるところに影は付きもの、燦々とした輝きが眩しければ眩しいだけ、いまこの瞬間を楽しんでいる市民たちひとりひとりが、いまこの時に抱え込んでいる暗闇に、そしてこれからも「市民」であり続けることの危うさに、果たして気が付いているか、などと思いめぐらせる誘惑に駆られてしまうのは、決して連日の厳しい暑さのせいばかりではない。「市民」と言う存在であり続けるのは思った以上に難しいもので、ささいなきっかけから平穏な日常生活がもろくも崩れ去ってしまう、というのは「市民たち」の周りにおいても、いろんな形をとって起こっているはずなのである、ただ自らの視野には入らなかったというだけで。「なにを野暮なこと考えているんですか」との声が水しぶきの向こう側から聞こえてくる。燦々と眩しい市民たちの声。燦々と輝く市民たちの肌が水をはじきながら、市民プールを駆けめぐっている。


夕ぐれを飛ぶ木耳の笑いけり  久保純夫

夕ぐれはあまた翔び立ちなめくじら  同

ヒトは鳥のように己の力だけでは空を飛ぶことはできないが、どうやら木耳をはじめとする「あまた」のものは鳥のように空を飛ぶことができるようなのである。現に木耳は夕ぐれの空に満面の笑みを浮かべているし、「あまた」のものが飛び立っていく様を見届けたなめくじは、次は自分の番だと意気込んでいる様子。違いますよ、なめくじは夕ぐれの空を飛んでいる「あまた」のものに対して、こいつらはいったいなにをやってるんだと冷ややかに見つめているんですよ、とのご意見は参考として受け取っておくものの、そうであってもなめくじの視線の先に、夕ぐれの空が広がっているのには変わりがない。さてヒトのまなざしの向こうにも夕ぐれの空は広がっているはずなのだが、そこに至るまでには液晶画面だの、書類一式だの、ビル群だの、巨大な電波塔だの、とにかく障害物の数々が目白押しなので、それらをかき分けてようやく夕ぐれの空にたどり着くころには、目も体も心も、すっかり疲れきってしまって、空を飛ぶどころでは到底なくなってしまっているのである。もちろん木耳をはじめとする「あまた」のものたちが空を悠々と駆け回る姿など眼に入ってはこないだろう。もし「あまた」のものたちの空飛ぶ姿を夕ぐれの空で見かけたときには、そっと笑って、手を振ってあげたいとは思ってはいるのだが、そんな余裕はいまのところ、街を這うのが精いっぱいのヒトたちにはなさそうだ。

第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


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【週俳8月の俳句を読む】どこかで夏の夜の遊園地的な 村上瑪論

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【週俳8月の俳句を読む】
どこかで夏の夜の遊園地的な

村上瑪論


うつせみの真顔イタリア彫刻史  彌榮浩樹

真顔といわれてみると、それが手もとにないので確かめようもないが、たしかに空蝉というのは眉間に皺などが寄っていて小難しそうな顔をしている(はずだ)。長い土中の生活から解放されたのだから、もっとリラックスしてもよさそうとは余計なお世話かもしれない。真顔と軽くフックを入れておいていきなりイタリア彫刻史へと飛んだ。その厳つい形状からくるものが何かを呼び覚まし、やがてそれがイタリア彫刻史へと結実した(不謹慎にもバルタン星人などではなく)。うっちゃりを見事に決められたという感じである。仕掛けられた方としては、相手の土俵に引き込まれ、バカみたいに踊らされて、舌打ちしたくなるような気分かもしれない。


点線の線になりたる速さかな  鴇田智哉

現代アート的な視点からの世界である。かといって、60年代のアメリカン・ポップ・アートのウォーホール、リキテンスタイン、ジャスパー・ジョーンズ、そしてちょっと遅く生まれてきたバスキアあたりとは、ややずれるか。点線を速いスピードを以て流してゆくと、目の錯覚により点と点のすき間が潰れ、一本の線になって見える。つまり、速いから線になるのでなく、線になるほど速いのだという作者独自のこだわりがここにはある。どこか遠くでリインカーネーションという言葉が点滅しているような気がしてならない。あくまでイメージだけれども。


蝙蝠や橋をわたれば神谷バー  村上鞆彦

創業明治13年、浅草の地で日本初のバーを謳う神谷バー。かつての水都であった江戸は、町の間を舟が縫うように奔り、しぜん町々をつなぐ橋も多かった。この橋はおそらく吾妻橋なのであろう。蝙蝠が飛び交う濡れたような夕刻。作者を神谷バーで待っているのは、ブランデーベースのカクテルであるデンキブランなのか、それとも誰かなのか。季語に蝙蝠を持ってきたことにより江戸川乱歩的な世界が渦巻き、どこかでモノクロームに染まった活動写真のような絵が心地よくひろがる。


蟬鳴きて瓶底ゾンビ的な店  井口吾朗

回文というと「軽い機敏な子猫何匹いるか」のコピーライター土屋耕一が有名である。しかし、作者はそれらとは別のフィールドで一つのスタイルを模索しているように思える。全句を見渡してみても、いい子いい子的な部分をかなぐり捨て、自由に遊び自在に愉しんでいる。掲句、これらのなかでは比較的ビジュアライズされた句と感じた。回文という括りがなければ、もう少し違う場所を飛び回っていたかも。言葉を次々と器用に扱い、狂気と完成度の紙一重なところがゾクッとさせる。



第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


第331号 2013年8月25日
久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む

【週俳8月の俳句を読む】そのまわりにあるなにか 山下彩乃

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【週俳8月の俳句を読む】
そのまわりにあるなにか

山下彩乃


虹あとの通路めまぐるしく変る  鴇田智哉

虹が消えたことによって世界が動き始めたわけではないが、虹を見ていた者には虹の他にはなにもなかった。静かな時間から、たちまち日常が現れてめまぐるしい。〈通路〉〈変る〉という物や動きを指定せず、極力具体性が省かれているのは、まだ静かな世界から戻りきっていない状態なのだ。


我は藻のまはりに殖ゆるものらしき
  同

藻という水にたゆたっている輪郭のはっきりしないもの、そのまわりにあるなにかであり、しかも〈らしき〉と断定もされない。それが自我だという。じっと浮いていたり、流れたり蒸発したり、雲や雨になり、また藻のまわりにあり、殖えていく。魂という言葉もあて嵌められない。本当に制約がないものなのだ。



人声は月に届かず月涼し  村上鞆彦

月は暗闇のなかにある印象がつよく、地面に触れたらひんやりしていそうだ。視点は人声の煩さと暑さの中にいて、月を仰ぎ、月の遠さを見ているのだろうが〈月涼し〉と言い切られてあるため、説得されてしまう。人声から月の涼しさ、つまり聴覚から視覚、視覚から触覚への移行という感覚の大移動の句なのに、いや、感覚の大移動だからなのか説得されてしまう。一読して、ああ確かに涼しそうだ、月、月、そう思わせる。



簾がない夜だ漂い流れ出す  井口吾郎

人間の空間には仕切りがある。暑い季節はその仕切りが曖昧になる。重い空気も甘い空気も音もにおいも流れる。夜の闇へ流れる。

俳人はマゾヒストなのかもしれないとおもうことがある。季語だの文字数だの縛りが多いからだ。回文までくると、難解すぎてどれほどの時と脳みそを使うのか想像しがたい。


第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


第331号 2013年8月25日
久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む

成分表60 〆切り 上田信治

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成分表60 〆切り

上田信治

「里」2011年5月号より転載


東京郊外の喫茶店では、たまに、アイディア出しをしている漫画家らしい人たちを見かけることがある。罫のない白紙のノートを広げ、何かを書いたり頭をかかえたりしている人たちがそれだ。

彼らはそれぞれ、そこへ行けば「出る」店を持っていて、とても大事にしているという。「出る」店は、神殿のようなもので、何かが下りてくる場所と信じられていて、人を敬虔にし、コンセントレーションをうながす。

自宅の地下にバスケットボールのコートを作った漫画家が、近所の喫茶店で、耳にイヤホンをはめ、ネーム(台詞の入った簡単な絵コンテ)に打ち込んでいる姿を、テレビで見た。

その人はとても成功しているので、作ろうと思えば、自宅に喫茶店でもファミレスでも作れるはずだが、そうはしないのだ。

社会人が仕事用の外面を持つように、物を書く人にもそれ用の内面というものがあって、漫画家は、喫茶店のいつもの席に座るとき、身を透明な型に流し込むようにして、必要な内面を身につけるのかもしれない。

物を書く人が、自宅で書けずに道具を持って町へ出てしまう心理は、彼らに〆切りが必要であることと、同じ事情にもよる。「今日がダメなら明日があるさ」と歌ったのはドン・ガバチョ氏だったけれど、喫茶店には住めないし、明日があると無いとでは、今日という日の意味が変わる。

つまり、喫茶店も〆切りも、人に持ち時間が有限であることを思い出させるものとして、機能している。メメント・モリというわけだ。

喫茶店に営業時間があるように、俳句には十七音がある。この程度の自由すら使い尽くせないことは、あからさまな限界であり、神様は自分に本当に僅かの物しかくれなかった、という事実を端的に示している。

ここまでという限度を知って、人は、やっとそこまでの力を出せるのだし、ここで頑張りなさい、と言われれば、この場所は「出る」と信じることも出来る。
 
それは、とてもいいことだ。

  いくつ鳴るつもりの柱時計かな  阿部青鞋

因果の生々しい異形 斉田仁句集『異熟』 関悦史

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因果の生々しい異形
斉田仁句集『異熟』

関悦史

『現代詩手帖』2013年6月号より転載

一読して意味の取りにくい句はほとんど見当たらず、それどころか俳諧味と懐かしさに満ちた句群が並んでいるにも関わらず、斉田仁句集『異熟』一巻はきわめて重厚な手応えを感じさせる。そしてその重厚さは五百句ほどにもなる収録句数の多さや、A5版の造本装幀からばかり生じるものではない。

黄金週間終わるブラシで鰐洗い

父の日の象をべたべた叩いている

万緑や寺格を誇る大薬缶

金魚から糞が離れてゆく薄暑

書名の『異熟』とは仏教用語「vipāka」の訳で、唯識思想において、過去世での行為の結果、異なる性質のものへとアーラヤ識が輪廻を遂げることを指すらしい。これらの句のブラシで洗われる鰐や、べたべた叩かれる象、大薬缶、金魚の糞などはそれぞれ「黄金週間」「父の日」「万緑」「薄暑」といったいかにも大まかに広がる季語とぶつけあわされる異形の物体であり、この生命感ある鈍重な事物たちが懐かしさと奇妙さの相のもとに一句に組織されることで、個人の記憶の領域が見事に普遍化を遂げる。余裕や諧謔が却って物件の実体感と引き立てあう作りが稀少で、その特質があるゆえに《黒南風を浴びて男が転向す》《生国を出でて十年平泳ぎ》といった世代や人生にじかに関わる題材も通俗化を免れているのである。

《仲見世を一本逸れてラムネ買う》の下町情緒、《冬の浪とんがってくるゴジラの忌》の往時への感応も生々しいし、《長き夜の鯨の胎にあるごとし》《鬼籍の兄まだ竹馬を貸し渋る》《なにか摑みなにか失い踊りの手》《幽閉のごとく雛を納めけり》も現前していないものの怪しさ、重さを引き出している。

この句集の懐かしさは、以前取り上げた『呼鈴』の小川軽舟とはまた異なり、個人的な幼少期の記憶の核に安置され、そこから現在を意義付け直すというだけにはとどまらない。過ぎ去ったものが醸し出す、己一個の無頼性などでは到底担保しきれない、この現前しないものたちの肉感性は何なのか。

ベンヤミンに「乞食がまだ存在するかぎりは、神話もまた依然として存在する」という異様に衝撃的な覚書きがある。現在から零れ落ちた乞食が、共同体の大本となる歴史以前の物語の存在を体現するものとして捉えられているのだ。斉田仁の句に現れる重く生々しい奇妙なものたちはこの乞食のヴァリエーションに他ならない。年表的整理の平明さや、あるいは一個人の追懐という枠の中でのアプローチでは捉えきれない付喪神じみた過去の有象無象たちを、あからさまな非現実としてではなく提示し、現前と過去との間に横たわる不透明な領域を俳句で捉えたものとして『異熟』は出色である。書名に偽りはなく、ここでは因果の法が抽象的な体系としではなく、様々に歪んだ来歴を照射してみせる力を持つ個物たちの手応えから呼び起こされる形で句にされているのである。


寺山修司と関わりし或る日の日記 澤田和弥 

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ワタリウム美術館「寺山修司ノック展」テラヤマonリーディング
寺山修司と関わりし或る日の日記 

澤田和弥 




平成25年8月24日(土)

曇りがち。時折小雨。
昼、ぷらっとこだまにて上京。
車中にて昼食。柿の葉寿司(たなか)950円。缶ビール350ミリリットル1缶。キリン秋味。ワンドリンクサービスにて無料。水500ミリリットル1つ110円。喫煙車両16号車。14番B席。

ワタリウム美術館「寺山修司ノック展」テラヤマonリーディング@ON SUNDAYS!出演のための上京也。8月20日(火)、メールあり。テレビ制作会社より。この企画に招きたしと。我、可と応ふ。関悦史氏の紹介によるものなり。有難シ。
東京着、14時56分。東京ステーションギャラリーにて大野麥風展鑑賞。900円。佳哉。館員の応対、頗る佳し。満足。

山手線にて渋谷駅。190円。地下鉄銀座線に乗り換え、外苑前駅。160円。徒歩にてワタリウム美術館着は16時30分也。ノック展鑑賞。1,000円。実験写真、実験映画の展示多く、頗る満足。「トマトケチャップ皇帝」を初めて観る。鑑賞中、関氏と会ふ。挨拶とともに御礼を申し上げる。ペア割引有。我の前にカップルあり。割引羨まし。カップル羨まし。我、独身也。恋人、数年来あらず。世の中、さういふもの也。

ミュージアムショップにてテレビ番組制作会社スタッフと合流。関氏、スタッフ4名、我の計6名、近所の蕎麦屋にて夕食。スタッフは若手女性2名。(美し)。壮年の男性1名。あだ名でため口で話されたる若人1名。我、冷したぬきそば大盛を注文す。730円と大盛分150円。スタッフ支払ってくれし。有難シ。蕎麦、なかなか来ず。話、尽く。コップ小さし。水、すぐ尽く。なかなか足さず。されど喫煙可なるは佳きことなり。

企画は20時開始。入場開始は19時50分。まだ1時間30分あり。関氏と近くのカフェに行く。ともにアイスコーヒーショートサイズ300円とす。味濃しを選る。関氏、珈琲を席まで運んでくるる。有難シ。談笑。あっという間に19時45分となる。退店し、会場へ向かふ。されど未だ入場できず。関氏、ミュージアムショップにて森川雅美氏に我を紹介して下さる。有難シ。スタッフに喫煙場所問ふも、無シと云ふ。ビル裏に隠れて吸ふこと2本。勿論吸殻は持ち帰る。時きたりて、やうやく入場す。地下1階也。一人1,500円。我、招待にて無料となる。ワンドリンク付。500ミリリットルペットボトル烏龍茶を頂く。有難シ。

当日配布されし「【配布用】朗読者タイムテーブル」より一部引用。

1  鯨井謙太郒氏&城戸朱理氏
2  一方井亜稀氏
3  石川厚志氏
4  塚越理恵氏
5  長尾早苗氏
6  澤田和弥
7  藤原奈緒氏
8  川島清氏
9  浅野彩香氏
10 佐伯琢治氏
11 斎藤千尋氏
12 村田活彦氏
13 田中智子氏
14 広瀬大志氏
15 三角みづ紀氏
16 暁方ミセイ氏
17 関悦史氏
18 紺野とも氏
19 福田理恵氏
20 黒川武彦氏
21 坂田智愛氏
22 森川雅美氏
23 竹中まりも氏
24 カニエナハ氏
25 渡辺めぐみ氏
26 榎本櫻湖氏
27 生野毅氏
28 及川俊哉氏
外、当日飛入1名有。(名は失念)

鯨井氏、城戸氏、一方井氏、三角氏、関氏、森川氏、及川氏、佳哉。他に佳き人をりしかど、名を失念。壁をノックしつつ、詩を朗読せし眼鏡の若き女性なり。

現代詩が中心也。「寺山氏の作品(部分可)を朗読」とありしかど、自作多し。寺山氏の俳句を朗読せしは関氏と我のみ。

関氏は寺山修司『花粉航海』より20句。自作の新作追悼句1句を朗読。「俳句は声のみにて判ぜらるるものに非ず。朗読に不向きなり」とて、寄席の演目書きのごときものにて、俳句を活字にても紹介。朗朗たる声、頗る佳哉。

我、寺山修司『花粉航海』より

目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹  寺山修司

を朗読せり。他に

五月物憂しなかんづく修司の忌  遠藤若狭男

を朗読。その後、拙句集『革命前夜』を中心に、既発表句20句及び新作1句を朗読。1句を2回読みぬ。一度は淡々と、再た一度は感情を込め。

我、「修司忌」の自作を中心とす。されど関氏は寺山氏の俳句を中心とす。寺山氏の俳句の魅力、皆に伝はりしは、全くもって関氏のお陰也。頗る有難シ。

1人5分の持ち時間を皆超過。22時30分終了予定も、実際は23時32分終了。熱気ある企画也。頗る佳哉。

「ご無理は言いませんが、できるだけ最後までいてください」とて、最後まで鑑賞。その後、ショートインタビュー。時、既に0時に近し。頗る努力せど、途中にて終電尽く。東京のタクシー、頗る高し。不快也。O氏御宅着は1時。非礼を詫ぶ。笑顔もて赦さるる。頗る有難シ。酒呑みつつ、俳句談義盛り上がる。3時終了。服用の後、就寝。頗る佳日也。


「SSTを蠟人形にしてやろうか吟行」フォトアルバム 西原天気

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「SSTを蠟人形にしてやろうか吟行」フォトアルバム

西原天気


去る8月27日(火)の「SSTを蠟人形にしてやろうか吟行」。カメラマンとして、東京タワーに出かけ、ご一行様のまわりをウロウロしてきました。

▲東京タワー展望台からの眺め。
港区というくらいですから、海が近い。

蠟人形館は、東京タワーの裾にあるビル(フットタウン)の施設。1970年に開設、この9月1日をもって閉館です(詳しいことはこちらのサイトで)。

▲御一行様、記念撮影。
「東京タワーといえば、蠟人形館。」だそうです。

▲入るとすぐに出迎えてくれるのが、
この手の施設にありがちなミラー(鏡)。
「ありがち」なのに、やっぱり映ってみたくなる。

▲「ロンドン工房」から直輸入、という蠟人形は、
「似ているか似ていないか」といった見方をしてはいけません。
いちばん手前は、ジュリア・ロバーツだそうです。
ジョン・ウェインの隣に立っているオードリー・ヘップバーンなど、
階下の売店のおばちゃんか?と思うほど、似ていない。
いや、似ているものも、もちろん、あるのです。

▲ガンジー、マザーテレサ、ダイアナ妃、アンネ・フランク。

 
▲ジミ・ヘンドリクスは、感じが出ています。

▲マダム・タッソー(1761 - 1850)。 
ここの蠟人形の生みの親です。

 ▲精巧

▲壁に覗き穴があったので、覗いてみると、拷問シーン。
「蠟人形」とは別枠でしょう!と言いたくなりますが、
「こわいの」もオマケで付けておきますね的サービス。

▲奥には「ロック」の館が。
これがもう、ほんとに不思議なスペースで、
ここの蠟人形館の運営会社社長の「個人的趣味」で
ロックスターの蠟人形ならびに各種コレクションが
それまでの蠟人形の展示とはまったく異なる凝縮度で、
つまり、ぐちゃっと濃縮されて陳列されています。

▲ビートルズ、ディープ・パープルとかならいいのですが、
ジャーマン・プログレとか、もうマニアックすぎて、
まちがって迷い込んだ幼児連れのおかあさんの
困惑しきった顔が忘れられません。
もちろんすぐさま出ていきました。

▲マニュエル・ゲッチング(Manuel Göttsching ベルリン出身)の
ブースは、とりわけ充実。
社長さんが大ファンで個人的な付き合いがあるみたいです。
その意味でディープなゾーン。

▲東京タワーの新キャラクター「タワオ」と
なかよしになった関悦史氏、野口る理氏。


と、ここまでが、東京タワー、蠟人形館。このあと、私は別の用事があったので、いったん皆様とお別れし、夕方、句会見物に舞い戻りました。以下は句会の模様です。









▼白熱句会。




 こちらからは、以上です。

「SSTを蠟人形にしてやろうか吟行」レポート 田中槐

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「SSTを蠟人形にしてやろうか吟行」レポート

田中 槐  写真:関悦史ほか


去る8月27日(火)、9月1日に閉館になる東京タワーの「蠟人形館」で、SST(関悦史さん、榮猿丸さん、鴇田智哉さん)が吟行句会をするというので便乗して行ってまいりました。

考えてみたら、東京タワーなんて20年ぶり。それより何より人生初の吟行(俳句では)だということに気づいて、初吟行がこんなレアなもので……と、関さんから気の毒がられたり(笑)。

集合は東京駅だったのですが、東京タワーなら直接行ったほうが楽なのでと、ひとりわがままを言って現地直行にしてしまったわたし。その考えがアサハカだったことに、あとあと気づくわけです。集合時間までにはひとりしか来ていなかったとか、誰がいちばん遅かったとか、急遽参加者が増えたりとか早速のハプニング。そしてホトトギス社への訪問や東京タワーへの移動のバスなど、とにかくネタ満載。すでに吟行は始まっていたのでした。

 ▲SST:向かって左から関悦史さん、榮猿丸さん、鴇田智哉さん

▲東京駅丸の内口



▲稲畑廣太郎さんとの記念撮影



そんなわけで、参加者はSSTと野口る理さん、内田董一さん、トオイダイスケさん、田中槐の7名(句会の後半から宮本佳世乃さんが参加)。

東京タワーではまず展望台。あっという間に全員がばらばらになり、集合時間も集合場所も決めないユルユルな俳人たち。関さんがおろおろしながら全員を回収してなんとかお目当ての蠟人形館へ。




昼食後、増上寺を散策したりしながら、句会場(「ホトトギス」の花鳥風詠塾という句会場をお借りしました。立派な会場でした)に辿り着いたのは4時近かったでしょうか。




そこから吟行句5句での句会、終了後トオイさんが帰られ、到着した宮本さんと入れ替わって、第2ラウンドは席題を含む5句の句会。一日に10句なんてつくったのも初めてだったかもしれません。脳みそが空っぽになりました。



吟行は、自分も見ていたはずのものを巧く詠まれていたりすると何よりも悔しいですね。あと、みんなとにかく細かいところを見ていますね。蠟人形が履いていたコンバースとか、増上寺のお堂にあった扇風機の色とか。

終わったあとの飲み会での、雑談という名の俳句談義(逆かな?)も大変ためになったことでした。いつも句会は楽しいけれど、それ以上に吟行は楽しいかもしれません。そして相変わらず個性みなぎるSSTの三人とご一緒できて光栄でした。

   兄(あに)弟(おとと)ゐるノッポンや休暇果つ  槐

わたしがこの日発見したのは、東京タワーのキャラクターであるノッポンに兄と弟がいるということだけだったかも……。精進します。


▲ノッポン兄弟

10句作品テキスト 髙柳克弘 ミント

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ミント 高柳克弘

眼鏡涼し蓮池のすみずみが見え
愚かなるテレビの光梅雨の家
滝しぶき燭の炎の揺るがざる
顔寄せてミントにほへる浴衣かな
日盛や動物園は死を見せず
ぺらぺらの団扇を配る男かな
雨の木は葉騒奪はれ夏深し
噴水の水に病む手を浸しけり
蚊遣火に雨後の読書のつづくなり
甚平を着て陳腐なる海の景




10句作品 髙柳克弘 ミント

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週刊俳句 第331号 2013-8-25
髙柳克弘 ミント
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週刊俳句 第332号 2013年9月1日

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第332号
2013年9月1日




髙柳克弘 ミント 10句 ≫読む…………………………………………………………
「SSTを蠟人形にしてやろうか」吟行
SST(関悦史 榮猿丸 鴇田智哉) 
レポート……田中槐 ≫読む 
フォトアルバム……西原天気 ≫見る

ワタリウム美術館「寺山修司ノック展」テラヤマonリーディング
寺山修司と関わりし或る日の日記 
 ……澤田和弥 ≫読む

【句集を読む】
斉田仁句集『異熟』を読む
因果の生々しい異形……関悦史 ≫読む

成分表60 〆切り……上田信治 ≫読む

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岡村知昭 この街のどこかで ≫読む
小林千史 うすぼんやりした彼方へ ≫読む
石原ユキオ 彼女について ≫読む
岡田由季 するりと逃げていくような ≫読む

自由律俳句を読む 9 坂道……馬場古戸暢 ≫読む
朝の爽波 82……小川春休 ≫読む
林田紀音夫全句集拾読 281……野口 裕 ≫読む

 〔今週号の表紙〕 東京タワー……西原天気 ≫読む

京都FM番組 俳句セブンティーンズ……小池康生 ≫読む&聴く


後記+プロフィール……上田信治 ≫読む



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