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瓢箪から句が出る 淺津大雅

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瓢箪から句が出る

淺津大雅


この数ヶ月くらいだろうか、実作からも読むことからも少し離れていたので、かつて自分が好きだと胸を張って言えたであろう俳句たちを、さてそのまま取り上げて「好きな俳句です」と差し出しても良いものだろうか、と少し弱った。

試しに書き出してみると、確かに好きではあるが、同時に、「小さい頃に好きだったスーパーファミコンを押入の奥から引っ張りだしてきて、目の前に置いた時のような違和感」がある。

件のスーファミをテレビにつなぐと、ちゃんと動いた。久しぶりにやるストリートファイターⅡは確かに面白いのだが、ヨガファイヤーしてくる兄貴にボコボコにされていた当時と全く同じ気持で楽しめているかというと、それは違う。新たな趣を見つけた気分である。ザンギエフもエドモンド本田も当時よりかっこ良く見える。

しかし、やはり最新のプレステ4も欲しい。最近新価格になったようであるが、お金がないので買うことができず悲しい。

閑話休題。

そういうわけで、「私の好きな五句」という課題をちょっとずらしてみる。まず「好きだったし、今は別の魅力を感じる三句」を読みたい。その後で、「最近好きになった二句」を読む。良い機会だから自身の趣味趣向の変化を振り返ってみよう。

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波(『舗道の花』)
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半(『翠黛』)


お手本のような写生句として挙げられることが多いこれらの句であるが、描かれるモノに違いはあれど、描き方とその主題とするところ(俳句に「主題」なんて似つかわしくないかもしれないが)にかなり似通ったところがあると最近気づいた。

鳥の巣に鳥が入る。滝の上に水が現れ、落ちる。共に「あるべきところにあるべきものが動きとして出現する」という構造を持っている。「あるべきとろにあるべきもの」は、まとまりとして一つであるから、景はとてもシンプルになる。そのなかで表現される「動き」は、なぜかスローモーション、あるいは何度も再生される映像のように反復される動きとして感じられる。躍動感を感じさせる絵、というものがあるが、まさにそれと似ている。静止のなかに表現された動きであるから、我々がいちいち再生ボタンを押さずとも、ずっと動いているGIF画像のようなものである。(という例えは風情がないか。)

南風石包丁に穴ふたつ 岸野桃子(『星果てる光Ⅱ―広島高校文芸部第二句集―』掲載「虹と私」)

初出は俳句甲子園だったように記憶しているが、その時以来なぜか忘れられない句である。忘れがたい句というのは良し悪しをさしおいて価値のある句であると思う。さて、どうやら前傾の二句ともども、私は「あたりまえ俳句」が好きらしい。あたりまえすぎて誰もわざわざ言わないようなことを言ってしまう、そしてそれがはっとするような新鮮さを与えてくれる俳句である。「あたりまえ」を新たな角度から切り込むことで、真理を垣間見た気分にさせてくれる。

ただし、傾句は前傾の二句と比較すると、そこまで鋭い描写ではない。「石包丁」の「穴ふたつ」はあくまで静止している。動的な要素が盛り込まれているとすれば、「南風」であろう。穴に風というのはつきものかもしれない。穴が開けばそこを風が吹きぬける。土に空いた縦穴の場合は別かも知れないが。また、「風穴を開ける」という言葉もあるが、これはちょいと物騒である。

さておき、南風は湿って暑苦しい風であるから、自然の熱量を思わせる。石包丁は縄文時代から見つかり、弥生時代のものが大量に出土している磨製石器で、よく教科書に乗っている。二つの穴は、紐を通して、指に引っ掛けるために使われていたようだ。「石包丁に穴ふたつ」は純朴な描写だが、そこに「南風」の熱量が加わることで、弥生時代へ吹き飛ばされる。「穴ふたつ」が人間味を帯びてくる。

今読み返しても、以前とおおよそ同じ感じを受けるが、「南風」のあたりにまだいろいろな可能性を感じる。季語が動く、動かないって、なんだろう、という考えの種になりそうでもある。(そういう考えの種になりそうな句はたくさんあるが、季語の斡旋についてはまだまだ分からないことが多いので勉強していきたい。季語と措辞の関係性についてはまだまだ混沌とした部分が多く、いくらか整理が必要に感じる。)

さて、最近好きになった俳句であるが、その仕入先はちょっと変なところである。冒頭に「しばらく実作からも読むことからも離れていた」と書いたが、俳句以外に目を向けても、結局俳句に出くわしてしまうのは、一つの運命か。
 
橘やいつの野中の郭公 芭蕉(一字幽蘭集)

芭蕉の発句であるが、これを改めて面白いと感じたのは、九鬼周造(1888-1941)という哲学者の文学論においてである。彼の文学論は現代の詩歌実作者にとっても示唆するところが大きく面白いので、ぜひどこかでそのうちきちんと紹介したいと感じているのだが、いや、直接読んでいただいた方が早い。九鬼のこの句に対する鑑賞と評価を引用する。(それも、ほとんど彼によるプルーストの引用で言い尽くされてしまっているので、実質的にはプルーストの考えの借用ということになるが。)
芭蕉は花の匂いを嗅ぐ。かれは、野原でほととぎすが鳴くのを聴きながら、かつて同じ花の同じ匂いを嗅いだことのあるのを思い出している。それに次のような注釈を与えることを許されたい。「かつてすでに聴いたことのある一つの音、また嗅いだことのある一つの匂いが、現実的ではないのに実在的なものとして、抽象的ではないのに観念的なものとして現在と過去に同時に新たに蘇るとき、たちまちにして、いつもは事物のうちに隠されている永遠の本質が解放され、時には長い間死んでいたように思われていながら実は死んではいなかった我々の真の自己が目覚め、そして自己にもたらされた天上からの糧を受けながら生気をえるのである。時間の秩序から解放された一瞬が、それを感じるために時間の秩序から解放された人間を、われわれのうちに再創造したのである」(マルセル・プルースト『見出された時』Le temps retrouvé、第二巻、十六頁)。(以上は岩波文庫『時間論 他二篇』九鬼周造著、小浜善信編、2016、p48より引用)
無論、実際の句の表現に厳密に即して鑑賞していく立場からすると(そして以前の私はそういう立場に立とうとかたく決めていたのだが)、この句を「無限の表現」として読む九鬼の考えは容易には受け入れがたい。しかし、橘の香りと「いつの野中の」ほととぎすとの取り合わせが私に与えた印象を、九鬼の、またプルーストの言葉は確かに言い表してくれているように感じる。単純な景の描写には収まらない重層性が、俳句をより面白く読ませてくれるのかもしれない。よく「瞬間を切り取る文学としての俳句」ということが語られるが、時間性と俳句の交わりは、単純に一瞬、瞬間ということから語られると、浅く薄いものになってしまいがちである。実際に描写される瞬間と、そこから私たちが受ける印象としての時間には大きな差がある。掲句自体は、橘とほととぎすの取合せの具体的景の季節の実感を伴いながら、同時に「なにかを回想すること」の共感へ私たちを引き入れる強さを持っている。

こう考え込んでいくのも悪くないが、やはり読んだ時の第一印象というのは重要である。最後の句は、私が大学で所属しているサークルの会誌に投稿された、新入生の句である。

この句を読んだ際の状況を簡単に説明する。久しぶりに顔を出したサークルの例会でせっせと冊子をホチキス止めして、やっと終わった、と思って冊子を捲っていると、俳句が見つかった。普段は小説や漫画、イラストばかりのサークルなので以外に思いつつ句を読む。作者の一回生がすぐ目の前にいたことに、あとから気づいた。感動して声をかけた。

誰を見る ぢつと灼けてゐるゲバ字 八橋大社(創作サークル「名称未定」『幻想組曲vol.70』掲載「夏標Ⅰ」)

何より予想外のところから俳句をしている人が出てきてくれたのが嬉しかったのだが、それ以上に、簡単には型にはまらないのびのびとした句の面白さに心を奪われた。

良い物に出会った時は純粋な衝撃がはしる。主題も表現も、どこか京大俳句的なところ、あるいは新興俳句的なところを感じさせはする。しかし、十七音しかない俳句の中で、突然「誰を見る」と始まり、そこから「ぢつと灼けてゐるゲバ字」へと着地させる転回の上手さに驚いた。とても冷たい氷に触った時に「熱い」と思ってしまう、いや、実際には純粋な驚きがやってくるように、あまり見ることのないタイプの俳句に出会うと、その実態がどうあれ「驚き」が先に来る。そういう句は改めて読んだ時に「なぜ面白く感じたのだろうか」と疑問に思ってしまうことも少なくないのだが、掲句はそれに耐えた。

いったい誰が「誰を見」ているのだろう。それを問いかける作者の立ち位置はどこだ。「ぢつと灼けてゐるゲバ字」が、見る者か。見られるものは私たちか。じりじりとさす夏の日に照らされて熱くなるゲバ字の看板。実景としてはそうであるが、さまざまな(政治的・社会的な)意味を想像させてくれそうであり、同時にどのような解釈も素直には受け付けようとしない硬さがある。このくらいの情報不足は、案外俳句に馴染む。何度も読み返したくなる句である。

まだまだ俳句は面白い。これからも、面白いものに出会える。そういう救われた気分がした。金もないし、プレステ4の世話になるのは当分先になりそうだ。

禽獸拾遺 安里琉太

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禽獸拾遺

安里琉太



好きな俳句を五句挙げてそれについて書けとのご用命であるが、好きな俳句はなかなか多く、〆切まで数時間が迫った原稿に目途が立たない。雑多に並べられた本棚を何となく眺めると東浩紀『動物化するポストモダン』があって、そこから著者が「蛇笏」「鷹女」「鳳作」「鷹羽狩行」が並んでいる。一先ず書きださないことにはと思って、今回は動物が詠みこまれた俳句という縛りを設けて、書きだしてみる。「鳳作」は、空想上の生き物であるが、まあ其の辺は言いっこなしである。
百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり 飯田龍太
第十句集『遲速󠄁』(立風書房・一九九一年)に収載されている句である。龍太にとって、これが最後の句集となる。その昔、何かの鼎談で筑紫磐井が〈鳥雲に蛻の殻の乳母車〉〈よろこびの顔が真暗盆の墓〉の句を挙げながら、この句集がとても変な句集であると評していたのを思い出す。誠に同感で、それまでの龍太の端正さと同時に、独自の境地がある。

しかし、私がこの句を初めて読んだのは、小林恭二の『俳句という遊び―句会の空間―』(岩波新書・一九九一年)においてだった。二日目の句会にて、百千鳥がやや浮いて見える感じや少し理が勝ったようなところに批判があったが、この句を採った三橋敏雄が「作ったという感じのする句ではあるね」と述べながら、それらをやんわりと懐柔していたのが印象深い。龍太はそこで、「春の富士沸々と鬱麓より」といった句を同時に出していて、やはり変ではあるが、その変な具合に艶みがある感じもする。「好き」という領域から語れるのは、これ位までかと思うので、これより先について考えるのは次の機会にしたい。

虫鳥のくるしき春を無為 高橋睦郎 
*原文は「無為」に「なにもせず」とルビ――引用者注

これも龍太の句同様『俳句という遊び―句会の空間―』に掲載されている。「春」の題詠で持ち寄られた句であったと思うが、文体の典雅にドスンと腹を突かれた。「春」というとともすれば甘く緩くなりがちな時候の季語に対して、上五中七の措辞に意表を突かれ、涅槃図のなかにいるような気さえする。下五の漢詩を思わされる表現もその世界を押しているようである。

春自体を詠んだ句としては、平井照敏の「「はる」といふことばの春がきてをりぬ」(『石濤』・一九九七年)を思い出す。その句に触発されて、川崎展宏の「冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ」(『秋』・一九九七年)も思い出される。展宏の句は音の仕掛けが、冬と口笛という取り合わせをブラッシュアップしている。一方、照敏の句は「はるといふことば」等でなく「はるといふことば」が大変に鮮烈で、春という概念とそれに伴う認識とを思わされる。照敏の句を思う時、やはり「虫鳥のくるしき春を無為」の重厚な世界に、再度圧倒されるのである。
大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ 田中裕明
第二句集『花閒一壷』(牧羊社・一九八五年)収載。「さみだれうを」に瞠目するほかなかった。「大き鳥」は鳥の大きさを言いながらも、相対的に鳥の飛んでいる五月雨の空間をも思わされる。「さみだれうを」の色や質感が、空間へと流れて同質の色彩になるように思われる。
蛇踏んでひるから木曾は大曇 宇佐美魚目
第三句集『天地存問』(角川書店・一九八〇年)収載。魚目の句で好きな句は、ほかにも「空蝉をのせて銀扇くもりけり」(『崖』・一九五九年)や「棹立ちの馬の高さに氷るもの」(『草心』・一九八九年)、「白昼を能見て過す蓬かな」(『天地存問』・一九八〇年)等多くある。
 
木曾は歌枕で和歌から詠まれているが、現代においても、金子兜太の「木曾のなあ木曾の炭馬並び糞る」(『少年』・一九五五年)、裕明の「二百十日木曾に寝覚といふところ」(『花閒一壷』・一九八五年)等、作例がある。楯英雄「木曽を詠んだ詩歌と地名歌、地名句 : 木曽の観光の基礎的文献」(http://ci.nii.ac.jp/naid/120002771649)にもあるように、木曾歩きは文人が好んで嗜むところである。

俳句を始めた頃、部活の顧問の先生は「大」を付ける添削を好んだ。例えば、「~西日かな」を「~大西日」といったような具合である。安易で緩い「かな」を省き、よりダイナミズムへと句を傾倒させた方が印象として残るという考えだったのかもしれないが、へそ曲がりであった私は、寧ろ「かな」が効果的に働く文体にしてやろうと躍起になった。そういうこともあって、大云々という句はあまり好きではないのだが、「大曇」の灰白色一枚の空は納得させられるのである。
炎天の犬捕り低く唄ひだす  西東三鬼
第三句集『今日』(天狼俳句会・一九五二年)収載。『現代俳句』(角川書店・一九二一年)で、山本健吉は『ハムレット』の一齣を連想しながら、この句をヒューマニズムから解釈している。その辺の読みぶりは山本健吉に任せておく。

三鬼の「炎天」に対する不穏な印象は、「炎天に鉄船叩くことを止めず」、「炎天の映る鏡に帰り来ず」、「炎天の人なき焚火ふりかへる」(『夜の桃』・一九四八年/句は掲載順に羅列)のように、前句集である『夜の桃』からの傾向としてある。初めの「鉄船」の物象から「鏡」という人を映す用途のものへ移り、人が育んでいたであろう「焚火」、そして「犬捕り」という人へ至るところを見ると、山本健吉がこの句を選び、そのような鑑賞を行った意味を改めて同時代的な文学の潮流から考えなおす価値があるように思いもする。

今年の三月に刊行した琉球大学俳句研究会雑誌『a la carte』に、「好きな俳句を語る」という座談会録を掲載した。だから今回は、その座談会で用いてしまった十句を用いることができなかった。また、師の句に関しては、挙げれば限がなくなってしまうので、泣く泣く割愛するほかなかった。もし、興味を示して下さる方がいらっしゃれば、来年『銀化』で一年間連載する予定の「道夫俳句を読む」に期待して頂ければ幸いである。


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~Secret・Track~
「好きな俳句」を語る書き手について

安里琉太


さて、あらゆる制約を設けてみても、私にとっての「好きな俳句」は尽きることがなかった。そこに故人の俳句の潤沢さを見ることも出来たし、寧ろ、そこから漏れた「そうでもなかった俳句」について、検討し直すこともできたが、そうはしなかった。

そもそも今回、堀下から与えられたテーマである「好きな句」という領域は、聖典化される「私の思う名句」のそれとは違う。それは、角川『俳句』(2012.7)大特集「極めつき!平成の名句600」や『現代詩手帖』(2010.6)髙柳克弘氏選アンソロジー「ゼロ年代の俳句一〇〇選」、詩歌文藝誌『GANYMEDE』60号(2014.4)関悦史氏選「平成百人一句」等のような、アンソロジーから俳壇の一時代の傾向を言い当て、新たな俳句の時代を企図するものより、もっと「極私」的なフェティシズムの告白になることが予想される。

それは、「猫の出てくる句が好きだ」というような句材(乱暴に言えば)のフェチ、「思いもしなかった飛躍がある句が好きだ」というような句意のフェチについて、或いは「上五の「や」切れ、しかも季語でない名詞が置かれた句が好きだ」(〈中年や遠くみのれる夜の桃〉三鬼『夜の桃』)、「文法上は繋がっていても切れている句が好きだ」(〈手をつけて海のつめたき桜かな〉尚毅『舜』)というような文体のフェチについての二つがあるのかもしれない。

だから、今回の「好きな俳句」に挙げられた句こそが、次世代の俳人の聖典であるだの、世代に蔓延する云々を観測することが出来るだのといった半ばオカルトチックな妄言に寄与するものではなかろう、とも言い難い。

話しは変わるが、「好き」なものについて語るとき、なぜこうも恥ずかしさを伴うのか。それは、前述した通り、自らのフェティシズムを告白する行為だからである。

合コンの時の、「私、○○って言います。猫が好きです。寂しがり屋さんだからかな~。えへへ~。あ、でも気まぐれっていうよりは、尽くしたいって感じで、どっちかっていうとMで、Sっ気のある人が好きです」という自己紹介を思い出す、または想像してほしい。この薄ら寒い会話を思い出すだけで、十分恥ずかしくなれるが、留意したいのはそこではない。ここに表れている告白は、果たして本当に、私たちが思う告白ということばが指す感情的な行為ではない。さらに言うのであれば、本当に「好き」なのではない。この独白は、内面を吐露する行為ではなく、求められるであろう欲望に対するポーズであって、〈こころ〉なるものは真顔である。若しくは、「告白」することによって、内面を作り出す行為ともいえるだろう。「Mです」ということによって、Mである内面性を後々作り出している。

私は、この文中で〈語る書き手〉という一見矛盾した語の連なりを採用してきた。それは、これらの原稿が告白するという衝動的で感情的な内面〈こころ〉に根差した行為を行いながら、その一方でその告白を自ら追認し、理性的に考える書く方法を用いているからだ。ここに二重の捻じれがある。それは、ものすごく恥ずかしい捻じれである。ラブレターのそれに似ている。父をあらゆる要因で死なしめた寺山修司に似ている。寺山が書き留めてきた名言集『ポケットに名言を』が、寺山へと還元されるようなものである。詰まるところ、自己演出にすぎない。

好きな俳句を〈語る書き手〉は、同時代的(≠同世代的)に共有されているフェチの言説を軸に、自らのフェチを如何に告白するのだろうか。その句を「好き」がどのように好きであるかを書き手が語るとき、〈語る書き手〉の俳句観を形作っている言説を垣間見ることが出来るのである。そうした言説を読み取るとき、「極私」的なフェティシズムは、十分に何処かに蔓延する云々を観測するものに成り得る。

こうした時、「好きな俳句」を語ることは、自らを如何に語るか(/書くか)という難解性と暴力性とに満ち溢れたものになっていると気づかされる。そして、そもそも俳句において衝動的な「好き」が可能なのかという問にさえ、ひっそりとした道を開くことが出来るのではなかろうかと思う。

「好きな俳句」に並んだ〈語る書き手〉は、一体他に誰がこの企画を担当するのかを全く知らない、目隠しをされた状態である。「私はどのように書き、どのような形式をとることで、他者と触れ合うことのできるフェチ、若しくは孤高のフェチとして屹立できるか」、という不思議な欲望が、ほんの少しでも頭によぎったはずである。

そして、この企画をプロデュースし、依頼を割り当てた堀下翔(彼は時折、Twitterでネカマっぽいことをする。寧ろ、そういう風に自己演出を行っていると私は思う)は、人に告白させることで欲望を充足させているに違いない。であるから、「好きな俳句」に対するフェティッシュな欲望が問として浮上した時、最も初めに問われなければならないのは、堀下自身の「書かれたもの」に対する欲望なのである。

後記+プロフィール 498

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後記 ● 堀下翔


先週に引き続き「学生特集」の後編をお送りします。二週にわたってお付き合いくださりありがとうございました。

ところで前後編ともに「私の好きな五句」という企画を展開していますが、趣旨を説明するのをうっかり忘れていました。趣旨と言っても、六名の執筆者の方には「テーマは指定しないので、好きな五句を挙げてください」というごくおおざっぱな説明をしたのみです(みなさん、無茶ぶりをしてすみません)。本特集を組むにあたって、いったいどんな記事を揃えたら〈学生〉の情況が見えてくるだろうかと考えたとき、真っ先に思いついたのがこの企画でした。

実はこれにはアイデアソースがあります。琉球大学俳句研究会が今年発行した作品集「a la carte」(創刊号)に収録されている座談会〈好きな俳句を語る〉がそれです。地元の公民館で同サークルが開いたトークイベントの記録なんですが、これが滅法面白い。四人のパネラーがそれぞれ十句ずつ、現役大学生から近代作家にいたるまでの句を縦横無尽に引用しているさまにドキドキさせられました。

こんな話、普段、しているだろうか。そんな思いが残りました。句会の場で出会った句を刹那的に語り合うことはあっても、家で読む雑誌・句集・評論の感想は、一人の胸の中にしまわれるばかり。ウェブマガジンやSNSを利用すれば情報発信がたやすいとはいえ、それをしている人はごくわずかです。ううん、知りたいぞ――「私の好きな五句」はそんな欲求から生まれました。

どんなものを読んで、どんなふうに考えているのか、個々人の思いや俳句観をできるだけ具体的に提示すること、それが「私の好きな五句」ひいては「学生特集」に通底するコンセプトです。



前編が公開されたあと、宮﨑莉々香がTwitterでこんなことを言っていました。「俳句甲子園を引退したら筆を置いていく人が大勢いる中で、同世代にこんなに(特に地方に)俳句の書き手がいることがわかったのがよかった」。少なくない人数が高校文芸の出身である僕たちの世代に共有されているある種の感覚として、〈書き続ける〉というものを挙げる人がいると思います。前号の後記の内容もまた、その感覚を前提にしている節があります。

とはいえ実際には、俳句へのスタンスなんて、人それぞれ。大学に入ってから書きはじめた人も多いというのは今更言うまでもないですし、高校文芸組も全員が全員〈書き続けている〉という思いを抱いているわけでもありません。そこには一人一人がいるだけです。

前号で恰好つけて書いた部分をもう一度貼っておきましょう。

僕はこの特集を、津々浦々に住む同世代たちのために届けたいと思います。いま、どこで、だれが、どんなことに興味を持っているのか、そんなものを映す鏡になればさいわいです。

no.498/2016-11-6 profile

■斉藤志歩 さいとう・しほ東京大学4年生。2016年、第8回石田波郷新人賞。

■平井湊 ひらい・みなと
1994年生まれ。現上智大学文学部4年。開成高校在学中、第13~15回俳句甲子園に出場。現在は「群青」に所属。

■瀬名杏香せな・きょうか
1997年北海道生まれ。東京女子大学一年生。

■三村凌霄 みむら・りょうしょう
1992年生。「銀化」同人、「群青」同人・編集長。東京大学文学部中国語中国文学専修課程四年。

■福井拓也 ふくい・たくや
1990年生れ。東京大学大学院博士課程に在籍。研究対象は久保田万太郎。「春燈」に所属。

■野名紅里 のな・あかり
神戸市外国語大学一回生。関西俳句会ふらここ会員。

■坂入菜月 さかいり・なづき
1996年生まれ。茨城県在住。白鴎大学在学。「里」同人。

■上谷佑梨子うえたに ゆりこ
1994年生まれ。琉球大学四年生。2015年琉球大学俳句研究会「a la carte」入会。

■青本瑞季 あおもと・みずき
1996年広島県生まれ。「里」「群青」同人。

■コロナ・エルジビエタ
1989年生まれ。ポーランド出身。ワルシャワ大学の日本学科卒業生。現在、東京大学の現代文芸論研究室に所属し、修士課程二年生。俳句の詩学と翻訳論を研究している。

■淺津大雅 あさづ・たいが
1996年生まれ。京都大学文学部3回生。関西俳句会「ふらここ」、京都大学創作サークル「名称未定」。twitter→@819tiger

■安里琉太 あさと・りゅうた
1994年生まれ。中原道夫、佐藤郁良に師事。「銀化」同人、「群青」副編集長。俳人協会、沖縄県俳句協会、琉球大学俳句研究会a la carteに会員として所属。受賞歴に、第十六回銀化新人賞、第二回俳句四季新人奨励賞ほか。現在、法政大学大学院に在学。

■青本柚紀 あおもと・ゆずき
1996年広島県生まれ。「里」「群青」同人。

■森優希乃 もり・ゆきの
1996年12月2日愛媛県松山市生まれ。福岡県福岡市在住。九州大学薬学部臨床薬学科二回生。「いつき組」所属。

■翁長徹 おなが・とおる
1996年沖縄県生まれ。琉球大学に在学中。琉球大学俳句研究会「a la carte」に所属。

■大橋佳歩 おおはし・かほ
1997年12月12日生まれ。愛知県在住。2016年「蒼穹」、「H9年度俳句会」入会。

■樫本由貴 かしもと・ゆき
1994年生まれ、広島市在住。広島大学三年生。広島大学俳句研究会代表。「小熊座」所属。

■小鳥遊栄樹たかなし・えいき
1995年生まれ、沖縄出身。「若太陽」「ふらここ」「鯱の会」所属、「群青」同人。「里」副編集長。

■川村貴子 かわむら・たかこ
1997年生まれ、高知県出身、高知大学二年。「蝶」同人。

■成影力 なるかげ・りき
1996年生。兵庫県出身。神戸大学工学部二回生。胃が頑丈。

■堀下翔 ほりした・かける
1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。筑波大学に在学中。

週刊俳句 第498号 2016年11月5日

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第498号
2016年11月6日



堀下翔まるごとプロデュース
学生特集号 



斉藤志歩 馬の貌 10句 ≫読む
(第8回石田波郷新人賞受賞第一作)

平井湊 梨は惑星 10句 ≫読む
……………………………………………

鷲谷七菜子の真意
第一句集『黄炎』論……瀬名杏香 ≫読む

松島の月……三村凌霄 ≫読む

久保田万太郎戯曲の展開
……福井拓也 ≫読む

中村汀女・星野立子に見るヒロイン像
『中村汀女・星野立子互選句集』……坂入菜月 ≫読む

あふれでるもの
碧梧桐の長律句について
……青本瑞季 ≫読む



特集 私の好きな五句
海外の俳句の魅力……コロナ・エルジビエタ ≫読む

瓢箪から句が出る……淺津大雅 ≫読む

禽獸拾遺……安里琉太 ≫読む


【週俳9月の俳句を読む】
青本柚紀 小澤實の中の川 ≫読む
森優希乃 同じ言葉から、同じモチーフから ≫読む
翁長徹 澤街の観察日記 ≫読む
大橋佳歩 初俳句鑑賞文 ≫読む



座談会
リアルでガチな学生俳句の世界
……樫本由貴×小鳥遊栄樹×川村貴子×堀下翔 ≫読む



〔今週号の表紙〕 
第498号 無題……成影力 ≫読む


後記+執筆者プロフィール ……堀下翔 ≫読む

〔今週号の表紙〕第499号 御蔵島 佐藤文香

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〔今週号の表紙〕
第499号 御蔵島

佐藤文香


御蔵島に行った。みくらじま、と読む。八丈島からヘリコプターに乗った。イルカと巨樹の島で、名産はツゲとアシタバらしい。雑草が分厚く、葉脈がゴツい。

昼間仕事をして、村営の宿に泊まった。夕飯のとき、生ビール(小)と焼酎「島の華」ロックを飲んだ。アシタバはチーズとトマトと和えられていた。よっぽどもう1杯飲もうと思ったが、まわりのお客さんが誰もいなかったので、すごすごと部屋に帰った。

翌日は朝から山歩きへ。広瀬さんに服一式を借り、観光協会でピンクの長靴を借りた。日本一の巨樹を見に行くこともできたが、島の反対側にある池に行った。山だった。リトル屋久島みたい、らしい。島全体がお椀をひっくり返したようなかたちで、西側の山裾であるところの海沿いに、島の全員が住んでいるらしい。役場の隣が学校で、学校の前がヘリポート、そのまま行くと港である。

昼は魚のフライ、そのあと塩ジェラートを食べた。ジェラートもあるお土産屋さんで買ったお土産を、お土産屋さんに置き忘れて、お土産屋さんのご主人が届けてくれた。お土産は自分用で、料理につかう木ベラである。

帰りのヘリコプターに乗るとき、みんなが見送りに来てくれた。校長先生も来てくれた。みんな、手を振り慣れている。

ヘリの中から八丈島の野球場が見えて、これで帰れるな、と思った。






週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

【八田木枯の一句】信子逝く湯ざめの思ひして淡し 角谷昌子

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【八田木枯の一句】
信子逝く湯ざめの思ひして淡し

角谷昌子


信子逝く湯ざめの思ひして淡し  八田木枯

第六句集『鏡騒』より。



八田木枯の師山口誓子の句集『激浪』(昭和21年)の季語分類と論評を行ったのが桂信子であった。自分の師、日野草城の許しを得て、信子は果敢にこの課題に取り組み、膨大な数の季語を分類して次々と誓子作品を鑑賞する。その仕事をまとめたのが信子の『激浪ノート』である。(『山口誓子句集激浪 付「激浪ノート」』邑書林 H11 参照)

信子は『激浪ノート』に、誓子のことを最初は作家として「尊敬するが好きにはなれな」かったと記す。ところがその印象は『激浪』を読んでひっくり返った。「平易な語句、簡単な用語」を用いた作品は、それまでとは劇的に違っていた。「自己凝視」による孤独な作家の営為によって「拡がりから深さへの転換」「自己のいのちとの格闘」がなされていると深い感動を覚えるのである。

私が木枯から『山口誓子の100句を読む』の執筆を依頼され、木枯にインタビューした際、誓子の戦中・戦後の三部作とも呼ばれる『激浪』『遠星』『晩刻』をその生涯の多くの句集の中で、最も高く評価すると言っていた。また木枯は、桂信子についてある評論家に、信子が『激浪ノート』を発表した当時、俳壇で知名度があったかと問われて、『激浪ノート』によって知られるようになったと答えている。

信子は誓子俳句を研究することによって、その文体や骨法、表現力を身につけていった。『激浪ノート』執筆が女流俳人として世に出る機会となったのだ。そんな信子の俳人としての歩みを見つめてきた木枯にとって、2004年12月16日の信子の逝去はことさら感慨深いものだったに違いない。

木枯は信子の死去に際して〈信子逝く湯ざめの思ひして淡し〉と詠んだ。誓子から多くを学び、同じ関西出身の俳人として強い共感を覚えていた信子の死去は、木枯にとって大きな喪失感となり、背筋にうすら寒さを覚える「湯冷め」の実感でもあった。

木枯は同時に〈白菜の断面桂信子の死〉とも詠んでいる。白菜を真っ二つに断ち割った「断面」の見事さに、信子の俳人としての潔い生き方を象徴させている。俳壇の流れに迎合せず、己の姿勢を貫いた一人の作家に対する最高のオマージュと言えよう。11月に生まれ、12月に逝去した信子には、寒さに鍛えられた一本の背骨があり、その生涯の支柱となっていた。

【週俳7月の俳句を読む】 いまさら7月を 中山奈々

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【週俳7月の俳句を読む】
いまさら7月を

中山奈々

V6の岡田くんやKinKi Kidsの剛くんの切り抜きを見せてもいつも同じ髪型ーちょっとおしゃれな坊ちゃん刈りーにされた黒田散髪店。団地というには高さが足りない、密閉空間も足りない府営住宅の、友人たちの気まぐれさ。

自分の記憶か、他人の記憶か、もうわからないままにぐるんぐるんと頭が回っていた。酔っていたのかもしれない。

そのなかで、母さんと参加した高野山のバスツアーがありありと浮かんできた。小3。スーパーの懸賞で当選したと納得できるほど、参加者の年齢層の高さ。

家族で遊びにいく先がほぼ寺院だったから、寺にはなんの抵抗もない。しかしこの細長い箱に、何故知らないひとたちとこんなにも詰められなければならないのか。何故このひとたちは喋ることをやめないのか。何故車内上映ビデオが伊丹十三の「あげまん」なのか。

問いたかった。高野山で、道案内してくれている高僧らしきおじいさんに。問いたかった。ハイジがもみの木ならわたしはこの杉林に。いやむしろ、

青桐と話してくるといふ子ども         村田篠

高野山巡りの帰り、バスはある場所に停まる。サービスエリアではない。田舎道に急に現れた倉庫。なかには毛皮。

幾万の毛皮が雪崩れ込んで来る        竹井紫乙

化学繊維でない毛皮を見るのははじめてだった。触れてみる。もふもふしているくせに温もりが、ない。顔があるくせに。

毛皮の空洞からもれる細い目           竹井紫乙

周りを見渡せば、高野山のときよりきゃあきゃあいう参加者。お地蔵さんもこれを着ればきゃあきゃあ言って貰えるんじゃないか。赤いてろてろの前掛けではなく。
母さんが、外に出ようという。臭いがダメだという。空気がない。空気がない。吐きそう。

埋没は毛皮に任せ失神す       竹井紫乙

母さんは元からの身体の弱さに加え、早く始まってしまった更年期のせいで、自分でもどうしたらいいかわからなくなっていたのだ。それを小3が解決できるわけではもなく、ただ横にちょこんと座るしかなかった。

夕焼けにふいに田中を呼んでしまう              福田若之
それでも晩夏なおも田中の名を叫んだ

あのとき、田中を呼べたら。母さんを、わたしを、救えたかもしれない。

自由律俳句を読む 151 「中塚一碧楼」を読む〔3〕 畠 働猫

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自由律俳句を読む 151
「中塚一碧楼」を読む3

畠 働猫


 だいぶ間隔が空いてしまったが、前回に続き中塚一碧楼の句を鑑賞する。
今回は第三句集以降より句をとる。



▽句集『朝』(大正13年)より【大正9年~13年】
無産階級の山茶花べたべた咲くに任す 中塚一碧楼
『第二句集』でも見られた、貧しい者への視線である。
その視線は同情や、ましてや軽蔑ではない。
ただそこに在るものを、在るものとして見つめる眼差しである。
マザーテレサは、「愛の反対は無関心」と言った。
ならばこの眼差しこそ愛ではないのかと思う。



爐話の嘘をゆるす赤い馬車も出て来い 同
ほら話に花が咲いている様子であろうか。赤い馬車は、夢見ても叶わない高貴さの象徴か、それともおとぎ話か。
貧しく悲しく明るい句である。



夜が明けた帆ばしらのもとにねてゐるこども 同
船旅の途上、のどかな景ととろうか。
それとも、叱られて締め出された漁師の子供の姿ととろうか。
いずれにせよ、そこに注がれる詠者の優しい視線が感じられるようだ。



▽句集『多摩川』(昭和3年)より【大正13年~昭和2年】
となり住むひとびとや夕べの星ひかり 同
「ここ玉島の寓居は天満町といへるくるわまちの中ほどにして」と前書きがある。
大正12年の関東大震災に罹災した一碧楼は、故郷である岡山県玉島に帰り、以後3年を過ごす。この句はその時期の句である。
これもまた先の「無産階級」の句同様、廓に住む人々への愛情が表現された句であろう。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコによる福音書12:31
一碧楼が若くして傾倒したキリスト教の教えである。また最後までイエスに付き従ったマグダラのマリアは娼婦であったとも言われる。
理不尽な災害、そしてそれに伴う帰郷。そうした巡り合わせが、信仰の炎を再び燃え上がらせたものであったろうか。人間一碧楼の姿が垣間見られる句である。



よもすがら水鷄の鳴けば夜のあけし 同
寒き日の蓑をつけしがなつかしく 同
うごいてゐる空いつたいの冬の雲 同
ここにいても荒海のひびき葱畠 同
山のべの鳥はをりをりにさけび冬の雲 同
句集『多摩川』には、ここに挙げたように定型、あるいは定型からの逸脱を含む句が多く収録されている。
(先に挙げた「となり住む~」の句も、5・9・5のほぼ定型の句である。)
これは、『はかぐら』に葬り去ったはずの旧来の俳句への回帰であろうか。
否、そうではあるまい。
これもまた自由の希求、試行錯誤の一段階であったのだろう。
事実、この後の句集ではほとんど定型句は見えなくなってゆく。



▽句集『芝生』(昭和8年)より【昭和3年~7年】
草青々牛は去り 同
女人女体八つ手花咲く 同
山一つ山二つ三つ夏空 同
とつとう鳥とつとうなく青くて低いやま青くて高いやま 同
句集『芝生』では、こうした繰り返しによるリズムを生かした句が多く見られる。
なかでも「女人女体八つ手花咲く」は一碧楼らしい(一般的なイメージに沿った)句と言えるのではないか。
また「山一つ山二つ三つ夏空」は岡山県円通寺の句碑に刻まれている。



冬の日河原の水が見えて幾らからくな風景 同
先に挙げた4句同様、この句も旅の途上で詠まれたものかと思う。
一碧楼は精力的に各地へ趣き俳三昧(句会)を催している。
「らくな風景」が面白い。景色によって疲弊した身体が楽になるものではない。
しかし私たちはだれもがこうした経験を知っているものだ。
いわゆる「あるあるネタ」ではなく、句が共感を掘り起こしている例である。



▽句集『杜』(昭和10年)より【昭和7年~10年】
炎天巌かげに跼(せくぐ)むいづこよりか逃れ来しごとし 同
「房州白浜にて」と前書きがある。
これもまた旅の途上であろう。
炎天を避けたのであるから、「いづこよりか」は、直接的には「炎天下から」である。しかしそれでは句にする意味がない。
この「いづこ」とは、ここではないどこかであり、そこを追われた罪ある者として自分を見ているのである。
後に挙げる句から連想されるのは、罪ある者ジャンバルジャンへの自らの仮託。あるいはこの罪は人類が負う原罪であり、「いづこ」とはエデンそのものであったものか。炎天はソドムとゴモラを焼いた神の火。その前に「人」は跼(せくぐ)むことしかできないのである。



葡萄を食ふ明るき窓を持つそれほどのしあはせに男 同
村上春樹が小さく確実な幸せを「小確幸」と呼び、ほんの少し流行ったことがあったが(流行ってないかもしれない。知らない)、これはまさにそうした、足ることを知る幸福であるように思う。



橋をよろこんで渡つてしまふ秋の日 同
気持ちのよい秋晴れの旅なのであろう。微笑ましく思う。
前の句もそうであるが、作者は明るく機嫌のいい好漢であったのだろうと思わせる。



桃の葉の茂り人はこちらにみな坐りて話す 同
陽射しを避け、葉影に自然と人が集まっている様子であろう。
「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」ということか。



けふあす何事もないやうに白く咲いた茶の花 同
昭和6年の満州事変から日中戦争に至る時期に詠まれた句である。
不穏な世相の中、白く咲く可憐な花は日本という国、あるいはほかの愛するものの象徴であったものか。



垣越えて来しよ枯草をしばらく歩いたでもあらう 同
「どろ坊来る」と前書きがある。
盗難にあったのであろうか。
しかしこの句からは怒りや憎しみは感じられない。
むしろ、やむにやまれず罪を犯した者への憐憫が感じられる。
その逃げ去った足を思いやる惻隠は、レ・ミゼラブルにおけるミリエル司教の心に通ずるものである。



*     *     *



それぞれに好みはあるかと思うが、私は今回取り上げた『朝』以降の句に、第二句集における輝きをあまり感じることができなかった。
『第二句集』は、『はかぐら』に葬った旧来の俳句への絶縁宣言であった。
だからこそ、そこには再生の息吹ともいうべき輝きが溢れていたように思う。

句集『多摩川』辺りでは定型句への回帰も見られる。
無論、私が考える「自由律」とは定型をも含むものであるため、それを否定するわけではない。自由を模索し、新しい表現を追究している一碧楼がそこに回帰したことに面白みを感じるのだ。鑑賞の部分でも述べたが、これは試行錯誤の一段階であったのだろう。

「自由」とはあらゆる可能性を排除しないことである。
したがって「自由律」は定型を否定するものではない。
自らの心情を最もよく表現できる詩形を試行錯誤するうちにそれが575や57577の定型になることはしばしばあるものである。
これは自由律俳句を詠む者であれば誰もが経験することであると思う。

拙句に「父という自死の先達ある強み」があるが、これは575の定型である。いくつかの場所に投句した句であるが、かつて定型を避けて「父という自死の先達ある強み」としたこともあった。
今思えば実にくだらない、無駄なことをしたものである。
自らの内奥から湧き出る感情をよりよいリズムに乗せることこそが第一義であり、それが定型であるかないかにそれほど意味などない。
しかし定型とは非常に強いリズムであり、強い求心力を持つ詩形である。
よりよい形を追究し、そこに至ってしまった場合、そこから抜け出すことは非常に難しい。その求心力ゆえに、そこに容易に引き込まれてしまう。
だからこそ、自由律俳句を詠む者は、検討を、推敲をやめてはいけない。
それが本当に最高のリズムなのか。
それが最も美しい詩形なのか。
その形が最も自分を表現するのか。
でき上がった美しさへの懐疑を持ち続けること、崩壊を怖れないこと。
それが修羅たる表現者に求められる覚悟であろう。
一碧楼は間違いなくその道を行った先達である。



次回は、「中塚一碧楼」を読む〔4〕。

※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。



戦争俳句の考証と平成俳句の課題 八鍬爽風

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戦争俳句の考証と平成俳句の課題

八鍬爽風



考えてみれば、 昭和初期及び第二次大戦期という暗黒の時期は私のような平成生まれの俳人にとって全く疎遠で未知の時期である。その未知の戦火などを知る術は写真であり、手記であり、生きている方との接触であり、文学からの読み取りなのである。勿論、俳句もその一つとなりうる。

征く人の母は埋れぬ日の丸に  井上白文地

上記の句は新興俳句運動の渦中にいた井上白文地の作品である。作中には『征く人』と周りで祝賀に浸る『日の丸』の群集である。しかし、その中には複雑な感情を抱いた『征く人の母』が小さく『埋れ』ていく。出征の風景を写したこの句の根底には何があるのだろうか。それは、“戦争”という名の絶対的な不条理である。また、思うに、新興俳句運動末期とも言える戦争句・反戦句の根源こそ、その不条理にほかならないのだ。

  ●

昭和十年代前後は正しく不条理多き“暗黒の時期”である。

昭和八年には小林多喜二の拷問死や滝川事件、昭和十年には美濃部達吉の天皇機関説を発端とした国体明徴問題といった『挙国一致』の波に言論・文学・思想は押し流されていった。そういった反体制傾向を排除していこうという社会的な動きのなかで新興俳句は存在していた。 つまるところが、先述の『不条理』への疑念と抵抗が、彼らのなかにはっきりと存在していたのだろう。

残忍に詩を追う蛇の目を見たり  片山桃史

着実に詩歌を蝕んでいたのは『蛇の目』のような監視社会である。それは桃史の目にも如実であったに違いない。当時の社会は俳句に限らず、反体制と思しき人間は通報、といった監視社会そのものであった。  そんな『残忍』な社会の現状を訴えた句を作った桃史もまた出征することとなる。

桃史死ぬ勿れ俳句は出来ずともよし  日野草城

桃史は『旗艦』に投句しており、草城の弟子でもあった。12月7日特務兵として中国へ向かった桃史へ草城は上記の句で励ましたと言う。この切実な祈りは白文地の句の『征く人の母』にも共通していた精神なのではないだろうか。戦場からも桃史は『旗艦』への投句を続けた。その間の句は昭和15年10月15日に「北方兵団」にとめられている。しかし、そんな中、師の祈りも虚しく、1941年に桃史は東ニューギニアで戦死。享年三十二歳であった。草城は一斉弾圧後に一度は俳壇を去るが、復帰。「ホトトギス」への同人復帰を虚子から許されるも、緑内障による失明など不遇な晩年を迎えることとなる。

  ●

新興俳句運動の中心的人物である西東三鬼にも戦争の不条理への疑念が見られる。
         
戦友ヲ葬リピストルヲ天ニ撃ツ  西東三鬼

昭和十三年に作られた作品である。当時日中戦争の激化に伴い、国民総動員の動きが強まっていたと考えられる。その状況を三鬼は自らの特色とも言える『自由さ』を武器に戦争への疑念を詠んだ。戦友を亡くすという計り知れない喪失感、怒りを葬送曲が如く『ピストルヲ天ニ撃ツ』。戦地における“常に死が隣に在る”不条理を描いている。また、カタカナ表記が電報のようで独特な虚無感を引き出しているようにも感じられる。

昭和十五年。新興俳句の終末とも言える事件が起こる。京大俳句弾圧事件をはじめとした新興俳句弾圧事件である。先述の三鬼だけでなく、平畑静塔、中村三山、仁智栄坊、波止影夫、三谷昭、石橋辰之助らがこの年に一斉検挙された。時代はさらに深く深く戦争へ沈み込んでいく。

そんな中、昭和十六年に詩としての俳句を追い求めた富澤赤黄男が一句投じた。

蝶墜ちて大音響の結氷期  富澤赤黄男

新興俳句運動は『蝶』のように華麗に時代を舞った。しかし、戦争の『大音響』の中へ『墜ち』たのだ。そして、文学報国の『結氷期』が訪れる。昭和十七年、太平洋戦争中の協力を掲げた日本文学報国会が結成される。その結氷期の中で俳人達は何を思ったろうか。答えは現代の私達にはわからない。しかし、この重く冷えきった赤黄男の句は新興俳句に墓標が立てられた時代の不条理を想起させるには十分すぎるほどである。

  ●

しかし、戦時下の不条理は渡辺白泉のとある一句に収斂する。

この一句こそ現代の私たちへの伝言であり、記録なのだ。

戦争が廊下の奥に立つてゐた
  渡辺白泉

この一句により、『廊下の奥』という身近に感じてしまった戦争の悔恨こそ不条理の本質であり、不条理こそ新興俳句運動末期を支えた指標であったことがはっきりとわかる。

戦時下の新興俳人たちはこうして自分たちの疑念を写していった。それが写すべき真実であったからだ。絶対的な不条理として、現実に存在していたのである。

  ●

では、現代の私たちは何をすべきだろうか。

平和を、多様性を、はっきりと感じ、人々が見る真実も相対的に変わっていった。そんな中で七十年以上謳歌した平和をなお主張し続けるべきだろうか。或いは時流に流れゆく人形であるべきだろうか。全くそれらは否である。私たちは七十年前の先人達が持ちえなかった『主体性』を持つべきだろう。

つまり、社会に自分がどう影響を与えるかを考慮しつつ、時流などの社会的要素からは独立自尊の発信者としての精神を持つべきなのだ。

最早どう在るべきかを社会に見出し、社会への疑念で動く時代ではない。平成俳句の最大の課題というのは、作者の主体性、独立性が源流に在るのだ。

戦時と異なる点というのは私達には社会的にも認められた自由であったり、絶対的な表現対象への不安からの解放、つまり表現対象の自由化がある。先ほど私は「社会に自分がどう影響を与えるかを考慮」と言及したが、私達の課題である主体性にはその行為こそが“誠実”なのである。“誠実”というのは、自分が詠みたいものを詠みたいように詠み、世間に対して微々たるものであっても影響を与えている、その自覚である。畢竟、自分の存在に“誠実”であるということなのだ。

逆に言えば自分の存在に“不誠実”とは何だろうか。

それはこの平成という自由社会においてもなお個人的観念の下の“全体”という権威の意思へ個性を埋没させて、 個人的観念で鑑賞し、他者の主体的行為に介入することである。または、権威に即して詠み、それを良しとしてそれを自分だと称することである。そのような愚劣な行為をもってどうして主体性があると言えようか。それをして伝統だの新奇だのと語り得るだろうか。否。そのようなことは決して有り得ない。

つまり、平成俳句において私達が求められる主体性とは、この平和な自由社会に放擲され、影響を与え続ける発信者としての存在であるという自覚と、他者もまたそういったかけがけのない存在であることへの尊重の精神なのである。今一度考えていただきたい。今の自分は“誠実”に詠むことができているのだろうか。

【句集を読む】摩天楼の景色 前田霧人『レインボーズエンド』の一句 西原天気

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【句集を読む】
摩天楼の景色
前田霧人レインボーズエンド』の一句

西原天気


人の上に人が作られ摩天楼  前田霧人

集中おそらく唯一の無季句。

下敷きになった福沢諭吉『学問のすゝめ』の冒頭の一文、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」には、続きがあって、「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」。

現実には雲泥の差。世の中キビシイですね。

掲句は、「もともと人と人には上下があるんじゃねえの?」と言っている。

この句の「摩天楼」は、人間を積み重ねたグロテスクな高塔のようにも思え、あらためて、世の中、キビシイ。


集中よりほか何句か。

夏至の日の地球の裏側へ手紙

さみだれを集めて長きまつげかな


前田霧人『レインボーズエンド』(2016年10月/霧工房)

【句集を読む】「お」で始まるものを探す旅 森澤程句集『プレイ・オブ・カラー』の一句 西原天気

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【句集を読む】
「お」で始まるものを探す旅
森澤程句集『プレイ・オブ・カラー』の一句

西原天気


手袋のなか親指と音楽と  森澤程

手袋のなかに親指があるのはごく自然なことで、さて、ほかに何が入っていたら楽しいか。

「親指」の「お」。じゃあ、「お」で始まるものをもうひとつ。探す。

音楽。


読みが安易、と言ってはいけません。俳句って、きほん、安易なものだから。違う?

安易に流れるというのではなく、安易を極める。


「お」で始まるものはたくさんある。一句のなかに、どんな「お」を持ってくるかを探す旅。

視覚(あるいは触覚)から聴覚へと、手袋のなかで切り替わる。その面白さを、句の13音目で味わう句。


【句集を読む】くろかみ 恩田侑布子『夢洗ひ』の一句 西原天気

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【句集を読む】
くろかみ
恩田侑布子夢洗ひ』の一句

西原天気


くろかみのうねりをひろふかるたかな  恩田侑布子

歌留多(小倉百人一首)の高貴な女性(21人?)はみな(?)長い黒髪。「ひろふ」の語が伝える動作は、競技かるたのような俊敏かつ激烈なそれではなく、優雅。

女性の文字たるひらがなで17音をかたどることで、黒髪の流れるような「うねり」も伝える。


ほか集中より何句か。

ころがりし桃の中から東歌

落石のみな途中なり秋の富士

飛ぶものに星のほかなき涼しさよ


【句集を読む】郵便の近代 森山いほこ『サラダバー』の一句

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【句集を読む】
郵便の近代
森山いほこサラダバー』の一句

西原天気


消し印は昨日の銀座きりぎりす  森山いほこ

この頃の郵便は、ほんと、早く届く。速達にする意味があるのか、というくらい、普通郵便の配達が早い。昨日、銀座のポストに投函された手紙が、今日には受取人の手のなかにある。

丸い、ふつうの、クラシックな消し印が似合いますね。こんなんでもこんなんでもなく、こんな消し印

なお、「k」音の頭韻、などということはわざわざ言うこともないのですが(言っちゃってる)、舌に載せやすさ、調子の良さには、やはり確実に寄与しております。ただし、「きりぎりす」が「k」音効果だけかというと、そうでもなく、この季語(この虫)が「銀座」ではなく、受け取った場所を示すところがミソ。おもしろい距離感(郵便物が移動した距離感)が醸し出されています。

すなわち、〔手もとの手紙-きりぎりす〕…切手…〔昨日の銀座という時空〕。切手が郵便物とともに、別の時空を、きりぎりすの聞こえる日常へと運んだわけです


森山いほこ句集『サラダバー』(2016年10月/朔出版)

【句集を読む】シティライツ 九里順子『風景』の一句 西原天気

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【句集を読む】
シティライツ
九里順子風景』の一句

西原天気


夕涼を分ち合ひたる街明り  九里順子

灯りはじめの明りの数々。涼しさを分かち合うという把握は、やわらかく心優しい。

「街」の語からすると、俯瞰? 眼下に広がる夏の夕景。



≫九里順子第2句集『風景』 online sotore
http://youshorinshop.com/?pid=108006382

あとがきの冒険 第14回 忘れた・忘れる・忘れるだろう 小津夜景『フラワーズ・カンフー』のあとがき 柳本々々

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あとがきの冒険 第14回
忘れた・忘れる・忘れるだろう
小津夜景フラワーズ・カンフー』のあとがき

柳本々々


福田若之さんが小津夜景さんの俳句について書いた「『THEATRUM MUNDI』再読」の冒頭でこんなふうに述べている。
これは記憶術的な書物である。……この劇場において、世界は、記憶にないほど古いもの、あるいは、何かまったく新しいものとして、読み返されるのである。(福田若之「『THEATRUM MUNDI』再読」『オルガン』5号・2016春)

わたしは小津夜景さんの俳句を語るときに福田若之さんが「記憶」から語り始めたことをとても興味深く思った(夜景さんの俳句の基礎的な問題がこの福田さんのロラン・バルトのような断章スタイルの文章には凝縮されて展開されているように思うのでぜひ『オルガン』を読んでみてほしい)。しかも、だ。福田さんは「記憶にないほど古いもの、あるいは、何かまったく新しいもの」と述べているが、つまり、「記憶」という言葉をめぐるものでありながら、それは〈反記憶〉的ななにかなのである。記憶にないほど「古」くて、記憶が追いつかないくらいに「新しい」もの。

「書物」(書かれたもの)は「記憶」として痕跡化されるものであるはずなのに、夜景さんの俳句は「記憶」のありかたを「記憶術的」に想起させつつも、そのシステムにあらがうらしいのだ。それは福田さんの「読み返される」という言葉にもあらわれている。夜景さんの俳句は「再読」がキーになると福田さんは語った。

では、なぜ、「読み返される」のか。

《記憶できない》からだ。小津夜景の俳句は、記憶できない。

ここで夜景さんの新刊の句集『フラワーズ・カンフー』の「あとがき」をみてみよう。ここにも「記憶」が中心的なトピックとしてあらわれてくる。福田さんがマッピングしたような「記憶」と〈反記憶〉のありかたがもう一度〈思い出される〉かのように夜景さんの「土地」=〈地図〉のなかで「フィールドワーク」され、「海」として空間=重層化され、〈再構成〉されていく。引用しよう。
文字に触れるときの私は、思い出に耽りつついまだ知らない土地を旅している。それは散乱する〈記憶〉の中から〈非-記憶〉ばかりをよりすぐる、あたかも後衛と前衛とを同時に試みるかのごとき奇妙なフィールドワークだ。二年半にわたるこの行為のさなかにおいて、私はちょうど海を眺めるときと同じように自分が〈記憶〉と〈非-記憶〉との汀、即ち〈現在〉に対して開け放たれてあるのをずっと感じつづけていた。
〈記憶〉だけでなく、〈非-記憶〉も重ねて語られている。〈非-記憶〉とは思い出すことのできないなにかだ。しかも夜景さんの「あとがき」によれば、思い出すことのできないものは、思い出すことのできるもののなかに、「散乱する〈記憶〉の中」にあるという。

つまり、夜景さんにとって「文字に触れる」ということ、〈書く〉ということ、〈俳句を書く〉ということは、思い出のなかに忘れたものを探しにゆく行為なのだ。

思い出のなかに忘れたものを取り出しにゆくこと。これはなにかに似てないだろうか。そう、福田さんの言っていた「読み返す」という行為だ。これはまさしく《再読》そのものじゃないか。

福田さんは夜景さんの俳句は〈再読される〉ものとしてあると指摘したが、《そもそも》夜景さんにとっての〈書く〉という行為が〈再読〉そのものなのではないか。みずからの記憶の「中」で非-記憶を「よりすぐる」作業。それはまさに、本を「再読」する人間の行為ではないか。

再読とは、すでに知ったもの(記憶)のなかに、知らなかったもの(非-記憶)を〈発見〉する行為である。その〈発見〉を「対話」と呼んでもいい。わたしには大好きな本があります。この本です。もう一度わたしの大好きなこの本を読んだら、わたしはこの本のことをこんなに知っていたはずなのに、この本からこんなに知らなかったものが出てきましたの対話。再読とは、そういうものだ。
おそらく〈非-記憶〉のかけらは〈記憶〉との対話を抜きにしては発見することができない。
この夜景さんの「あとがき」を福田さんの言葉を借りて「僕たち」の〈ふだん〉のことばに置換すればこんなふうに言い換えられるだろう。
僕たちは忘れた。僕たちは忘れる。僕たちは忘れるだろう。そして、読み返す。(福田若之、前掲)
〈読む〉ということが〈忘れる〉ことだなんて、なんという逆説なんだろう。わたしたちは〈忘れる〉ために〈読む〉のか。それともわたし自身がなにか決定的なものをもはや《忘れて》しまっているのか。《忘れた》まま、書き・読み・生き・語ってきたのか。

忘却は星いつぱいの料理店  小津夜景

別のかたちだけど生きてゐますから  〃

語りそこなつたひとつの手をにぎる  〃

しかし、夜景さんの句は〈忘却〉と〈生きること〉と〈語りそこなう〉ことの対話を要請している。忘れても生きることを、生きても語りそこなうことを、語りそこなっても忘却として《想起》することを。メメント・モリ(思い出せ)。

長き夜の memento mori の m の襞  小津夜景

たとえばこの句は「川柳とその狂度」(http://hw02.blogspot.jp/2015/10/42.html)にあるように拙句「真夜中の Moominmamma の m の数」が《想起》されたものだ。想起は、忘れることに、生きることに、語ることに、書くことに、ふかく、関わっている。

だから--。《想起》とは、《再読》のことであり、《俳句》のことである。

俳句とは、想起(おなじだけ)の場所であり、遭遇(逢ふ)の場所なのであった。

もう夢に逢ふのとおなじだけ眩し  小津夜景

(小津夜景「あとがき」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年 所収)

2016「角川俳句賞」落選展(第5室) 18.堀下 翔 19.前北かおる  20.宮城正勝  21.吉井 潤  22.Y音絵

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2016「角川俳句賞」落選展■第5室


18.堀下 翔 




19.前北かおる


  

20.宮城正勝 




21.吉井 潤 




22.Y音絵



18. 波の飛ぶ 堀下 翔

春の雲花入れし炉のつめたさに
宿出でて春の入江の横しぐれ
玄関に電話老いたり紫木蓮
大き花涅槃の海へ流れけり
浦みちに旅長じをる雪解かな
あかるみに椿の浮かぶ盥あり
夕東風や壺中に湧ける鯉の息
浜へ出て春の墓参の暑さかな
こぼれたる杏の花に影つのる
鱒二匹入れきしきしと魚籠鳴れり
花つけて樫の木の暮れ残らざる
本堂の闇漏れいづる桃の花
藤の花ひとすぢに吹き上げられし
葉まじりの桜へ波の飛びにけり
鮎季の峠に雲の浮き古りぬ
流さるる牡丹を音と聞きしのみ
桜木にうち捨ててある蛇の衣
冷えながら届く日差やあやめぐさ
蟻の穴川瀬に細りゐたりけり
夏菊をはなれぬ影が花桶に
涼しさや聞けば疎としてお念仏
橋かけて川のしたしさ夏の雨
蜘蛛の糸一本や灰びつしりと
あをあをと梯子透けたる竹簾
水遊するとき呼んで呉れしかな
夏桔梗兆すなりける水の音
平日は本を開かず白木槿
牽牛花開けば白きばかりなる
声しげく露の御寺をあゆみきし
萩焼けばあらはに炎かをりゐる
しじまなる糸瓜の水を取りにけり
日晒しにほとけを運ぶ通草かな
樅の木や月のまはりに夜の痩せて
水甕に喉元うつる榠樝の実
川すぢに吉備訪ひて秋みじかしよ
水くらくあをぞらうつす松ぼくり
この雲を峰とおもひし柿もみぢ
みづぐるま八手の花を流したる
楚々として日輪没す枯葎
はつ冬やいづみに出づる楓の根
くづれたる波より蜜柑あらはれし
山茶花に手をたまひあふ日暮かな
見えてゐるものの暗みに実千両
寒雁のうち出でたるは音たてて
茶の花へまなざし遠くしてをらる
雨がちにゆふべの来る蕪汁
手にしたる笹より雪の落ちにけり
ひとむらの山藤の葉の氷りゐぬ
雪うすく載せおしうつる瀬なりけり
来る舟に夜の先んずる霰かな



19 .応援歌 前北かおる

応援歌いまフィールドに水撒かれ
見せつけよ我らの起こす青嵐
円陣の笑ひ崩るる若葉かな
ゴールまで飛魚逃がすやうにして
サングラス小さくガッツポーズかな
新緑や短く鳴らすホイッスル
姫女菀試合に負けて帰るなり
えごの花テニス横目に入りつつ
昼顔や女連れなる草野球
刈り払ひ野にひと本のあやめ草
主なくて死ぬるものあり蜘蛛の網
葭切やベンチのやうな橋ありて
橋涼み産卵のさまつぶさに見
凪解けの風音澄むや青芒
篁に表門あり花紫蘭
夕涼や子を抱く同士庭先に
塀に抜く四ツ割菱や今年竹
茶畑や八高線の夕焼けて
踏切の真中西日を振り仰ぐ
夕陰に虞美人草の白さがす
月見草車道のほかは舗装せず
日輪のマーガレットに没さむと
身の内に試合の余韻髪洗ふ
青蔦や一階深く窪みをり
雲の峰乗り上げて家こぼつなる
豌豆を引くや園長園児どち
針金に丸太ン棒やポピー咲く
ガム嚙んでマーガレットの花に佇つ
じやがいもの花新築の壁汚し
柿若葉鞣したてなる艶をもて
みどり子を片手に抱へ夏来る
甲冑を鎧うて鴉若楓
軽暖のたつたか跳ぬるピアノかな
牡丹や一間づつの庭の畝
忍冬新道通さする気なく
冷やしうどん土間に履きもの散らかして
若楓石垣めかす護岸かな
万緑や丸裸なる鉄の橋
蘆原に固太りなる夏柳
黄菖蒲や干上がりて泥新しき
毛虫這ふむんごむんごと尺取りて
緑陰に絵本の家や扉をひらき
花浅沙水に倒るるまで吹かれ
ほたほたとものの絮浮く目高かな
店閉めて薔薇にかしづき奉る
裏庭の薔薇の溢るる小川かな
日焼して小さきピアス光らせて
タクシーもバスも大人し夏木立
田植どき水の緑の深まれば
乗り継ぎて茅花流しの野をさらに



20.西日のできごと 宮城正勝

慶良間沖のたうつ孤独はたた神
漬茄子や今は昔の今朝のこと
夏燕やせ細りたる川しか知らず
押し黙り麦茶置く妻舌禍以後
梅雨寒や後期高齢という異界
終わりあるは慰め蝸牛も人間も
西日浴ぶ千年一日のとある日
息するも貧乏ゆすりも五月闇
見分けしは誰ならん茸と毒茸
県道の落石注意椎の花
砂利の道ここらで夕焼と別れんか
かぐや姫眠る夕焼けの乳母車
街中の陰を浚いて日の盛り
聖書はも文語がよろし籐寝椅子
緑陰に余生という語嘘くさし
蟷螂がどうしてここに夜のキッチン
いのち果て夏大根のごとくかな
人逝きて日盛りに靴あふれけり
酒瓶が西日に転がり逝きしとか
水を欲る汗をかかざる老いの腕
片陰を歩いてほととぎす学会へ
海上の道なつかしき浜防風
夕焼けを背の軒遊び亡びけり
鱧食うて後期高齢の志を果たす
梅雨寒や喪服連れ立ち朝の路地
夕焼けは切なし笛吹童子よぎる
手土産にメロンを買うも不戦の志
眼にて追う蟻の生老病死かな
惚けざるも不幸のひとつ百日紅
死はしつこしひとりのときの蜘蛛の糸
老いたれば海月となりぬアーケード
木のベンチに一息つきて夏送る
路地をゆく如才のなき一茶の忌
待たれたるたる死なり供花は夏の花
死者生者分かち麦茶置かれあり
棺はもいつも新し百日紅
夏菊に埋まりし死顔よく生きた
前のめりのひと日夏シャツ半乾き
誰も魚籠を覗くや西日の決まりこと
手酌の夜余震本震蚊を殺す
とある日の無為のただなか土用波
六月や生き残りしは佇めり
蜘蛛の網駐車禁止の更地かな
しじまあり灼くるつとめの石の上
これを食みしは今朝か昨日か干鱈食む
夕焼けや帰りなんいざサラリーマンへ
禁煙のただだだっ広き西日かな
夕焼けや海辺なれども心急き
みな背き冷酒ぬるくなるままに
自然死が近道ならん百日紅



21.内海 吉井 潤

花時や七宝焼の耳飾り
花の雨大極殿の高御座
仄甘きビオフェルミンや春の水
春一番逆子くるりと宙返り
アルマイト弁当箱や風光る
差入の厚焼き卵弥生尽
裏店に光呼び込む藤の花
薬缶噴き始む草餅有難う
菜の花や末広がりの河川敷
歩毎に芦の角踏む木橋かな
春の海金平糖の波頭
水底は誰もが蒼き桜鯛
初夏の原稿用紙水浅葱
卯の花の中に廃家の柱かな
あぢさゐは水の気配のセルロイド
針箱の中の骨片五月闇
雨蛙背を撫でやれば眼とづ
驟雨来る股上辺りまで濡れぬ
哨舎にも虹の一色雨上がり
腹這ひて端居の人と笑ひけり
昨日よりけふを輪切りに夏来る
じゃんけんで負けて蝉食ふ黒ん坊
噴水は淡海に水を足しにけり
土用波ロールケーキに巻き始
みづうみを挟みて淡し遠花火
地拍子がほころび弛む残暑かな
蜩の崇福廃寺谷の奥
遠近にほこる溝萩隠れ里
方言「はびこる」
磐座を乱打する音野分かな
大花野布施をふるまふ伊吹山
町筋を抜くる秋燕店じまひ
こほろぎや寄木細工のオルゴール
月見亭へと蠟燭の道標
曳山の手拭貰ふ秋祭
白鳳の伽藍失ひ秋麗
騒めきが芦火を待つや闇の中
痩する牛秋耕終り返しけり
冬めくや袷の裾にしつけ糸
内海のどちらも故郷冬麗
密柑山西行庵を腹に乗す
焼き鳥のたれでくつつく丸い椅子
拳骨を突き上げ吼ゆる焚火歌
初飛行訓練場に降り然らぬ
地吹雪に電信柱鳴り止まず
黎明の水道橋や凍つる朝
寒釣の狂喜胸まで漬かりけり
河原の湯裸の横に薄氷
下萌や地下より響くサキソフォン
春寒し人事ひとごとなどと言ふ
逢坂や堰堤の花見ざるまま



22.渦巻 Y音絵

空洞のやうな朝なり揚雲雀
松の幹を蹴つて雀や春嵐
吐きさうな朝を囀るばかりなる
糊白く厚く乾びぬ春休
しやぼん玉高速道路見えてをり
霾や働いてゐる救急車
花時の両目を入れて顕微鏡
ピンセット沈め消毒液朧
カーテンを見る酢もづくに箸つけて
朝寝ほどほどに躑躅を見に行く日
動物病院前の柳よ久々に
クレープワゴン 遠くに密に棚の藤
ごみ箱や茫と暮せば夏が来て
鯉幟ちやうどよく日の差し来たる
別々の葉や葉桜は葉を増して
明易の肘のひりひりしてゐたる
手鏡に前歯映りぬ麦の秋
梅雨晴や鋏開くに要る力
虹の近くに阿佐ヶ谷といふ駅が
ともだちのへんなをどりや夏薊
ぬばたまのジュース注ぎけり網戸して
テレビつけつぱなし真夏の動く月
噴水の止んでゐる間の嗅覚よ
薄く盛り上がる背中が空蝉に
したくちびるや夏の終りの貯水池の
親友はどの蜩を聞いてゐる
朝顔も褪せ初めにけり撮影す
かはいくてかたい箸置オクラの旬
サルビアもこどものこゑも疲れたる
稲妻や廊下てふ角ばつた管
どの色のグミも硬くて雨月なり
ふらふらする秋分の日の自室かな
虫の夜のアルコール綿汚しけり
涼しさよ海鮮丼の安き日の
花野ありはつきりと傾いてゐる
朝寒やはちみつといふむすびつき
水際に騒いでゐたり紅葉狩
林檎焼く間を鍵盤の浮き沈み
しぐるるや監視カメラを君は指し
雨粒は手袋に落ちバスが来る
牡蠣呑めばその流速を思ひけり
オリオン座歯の裏を言葉がまはる
白息や砂場に豹のゐてほしき
だるさうに君は笑むなり綿虫へ
枯蔦やおそく歩けば靴の照る
渦巻を描けば落ちつく霜夜なり
初夢のこと砂浜にすこし話す
雪の夜の君すこやかに勉強す
探梅の途中眠たき椅子ありぬ
からつぽの漁村のやうに日脚伸ぶ


2016「角川俳句賞」落選展(第4室) 13.すずきみのる  14.高梨 章  15.滝川直広  16.ハードエッジ  17.古川朋子

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2016「角川俳句賞」落選展■第4室


13.すずきみのる 





14.高梨 章 





15.滝川直広 





16.ハードエッジ 





17.古川朋子



13. 追記 すずきみのる

砲丸の手を離れ飛ぶ麦の秋
初夏の笑顔並べて医学生
老鶯や竹乱れ生え屋敷林
車道へと歩みやまずよ黒毛虫
声といふかたまり吐きて牛蛙
海が呑む浜昼顔も砂浜も
沸騰の一山にして新緑す
雲海の開けてダムとその湖と
緑陰や押してツインズ乳母車
白シヤツに翳りとなりて透く身体
いきもののいきれぬけたる繭しろし
われを呼ぶその朝声も秋めきぬ
雲母摺床にならべて処暑の餐
大路小路みごとに暮れて鉾祭
深吉野のつくばねの実を見しが縁
わたくしへと戻る途中や草の市
大玻璃に鉄線透けてゐる月見
一山を蒸し籠めの霧湧き立ちぬ
ロボットは性別不詳をとこへし
山の夜の酩酊深し猴酒
落ち鮎を食せ再々婚の友
浅漬の大根甘しワイン美味し
民家途切れし通学路峡氷雨
枝打のひとりは声の響くのみ
三山とならび称されつつ眠り
ほうと闇ほうほうと闇木菟いづこ
金色世界銀杏落葉と老幹と
スタンプを押して旅信や冬の虹
裸婦像の丸き肢体や冬の苑
寝具敷き終え湯たんぽの盛りあがり
月代やポケツトのもの当ててみよ
顔見世の鳥屋のあたりを伺ひぬ
山の影海に浮かべて初日の出
目を閉ぢて夢見の景を初景色
飾取り常の玄関へと戻る
行きずりの一人として若火見る
胴長の猫の斑の背に牡丹雪
はるあけぼの牛乳の膜しわみゐて
口移しにて春祝ぎの言の葉を
春のゆめ異郷にロバを商ひて
春灯そば湯に雲のごときもの
ケチヤツプの赤春昼の食見本
面構へ白眼なせる恋の猫
めまとひの堆肥の湯気の中に渦
揚げひばり吐声に色のあるごとし
げんげ田に音ばらまきてヘリコプター
春光の灯台のみが記憶の島
死に近き人を囲みて春障子
くつあとのかすかに続く花筵
朧夜や水面に浮かびくる記憶



14.宇宙の犬 高梨 章

永き日や壺まだ口をあけてゐる 
アカシアの花ふんでゆく牛飼座
てふてふは空気のなかをはかなげに
たかくたかくヒバリは空に立つたまま
ヒバリ鳴くこはれてしまひさうに鳴く
揚雲雀おりてゆけない夢を見る
日向から出てゆく春の落葉かな
うぐひすのこゑや足なが蜂がゆく
春の日や灰皿の灰やはらかし
沈丁の花風に置かれゐたるかな 
石ふたつ空席となる春の丘
ふるさとはひばりのこゑのしたにあり
ひとのすがたでヒバリながむるこの世かな
くるぶしをさはられてゐるれんげさう  
白木蓮しまらく風にさはらせず
さはつたところにさはられたあと春の雪
ことごとく椿のかたちで落ちてゐる
春の闇犬に鳴かれて立つてゐる
幸福は枯葉のにほひ春の朝
春風や洗濯バサミなくなりぬ
てふてふを手ばなすやうに春はゆき
うへを見てうしろへさがる金魚かな
石置けば石にちかづく金魚かな
ゆふやけとなるまへ水を散らかして
糸とんぼ見てゐし草のすき間かな
大蟻の視野へわが足入りにけり
泣いたあとのやうな気がする金魚かな
金魚ゐぬところへ行きたい金魚かな
靴下の足音もある夏座敷
鳴きやみし木にまづおりてくる夜の秋
朝顔にあさがほのつる触れにゆく
草の花ちがふ高さの高さかな
見まはしてほかにはたれも草の花
水面はとても薄くて木の実落つ
木の葉ふりつねに明るい出口かな
つかまつて鳴いてゐたりし秋の蟬
あらはれて蜻蛉出てゆく空家かな
天高し空をうごかす雲ひとつ
木の実ふる下に地蔵ありてこつん
出られたらとおもふ胡桃の外に出る
表面にふとあらはるる秋の風
泣くこともできる秋の夜の食卓
秋の夜の帽子のなかの無言かな
露の世はしづかに下着ばかり干す
カマキリにあるかもしれぬかすれ声
望の夜のくらがりに立つ空気入れ
水を乱し水鳥うかむ北半球
水鳥もみづのせなかに寝しづまる
水鳥は水にかくれてしまひけり
湯ざめして宇宙の犬のことおもふ



15.栞  滝川直広

草の岸きのふの雛とどまれり
春陰を漉き込まれたる出雲和紙
フェルト地の帽子に春の雨の粒
鳥の脚洗ふ流れや復活祭
さへづりや糊の利きたる衿立てて
まだ鳥の入らぬ巣箱雨したたる
ぬかるみを作務衣飛び越す鳥の恋
海のなき街のデパート蒸鰈
乗務後の車掌たたずむ山桜
夕桜土洗はれし一輪車
雲水の下駄ひくく鳴る養花天
やすらひの花傘の柄を地に着けず
北窓の下に稿書く遅日かな
砂時計遅日より時取り出だす
手鏡のうすきくもりや遠蛙
はこべらの際まできたるにはたづみ
武者人形手綱をさばく指細し
青梅に殻のやうなる薄き翳
五月雨や紅さわがしき中華街
ぬかるみを踏んで見にゆく半夏生
転舵するヨットの海をつねるごと
鳥除けのCD吊つてあるヨット
波がしらなき波つづく油照
さつきまで蛇ゐし岩に腰下ろす
夕暮が水に溶けだす金魚玉
灯のくらき歌舞練場の花氷
月光を浴び餅肌のなめくぢり
落蝉の翅を栞にできぬかと
錆釘の土よりのぞく糸瓜棚
秋草の穂より光の去りやすし
秋高し蛇口にお礼言ふこども
秋の日を編み込んであるおさげ髪
風向きの変はりて萩の揺れ直す
野も海もある能舞台鳥渡る
棘折れて洗濯槽の草虱
額縁の鍍銀をみがく鵙日和
冷ややかな灯を積み上げてホテルなり
杉玉の鳴らぬさびしさ水澄めり
火に落つる獣の脂冬来る
御火焚やそだちきつたる火の澄みて
焼藷屋にほひの罪の軽からず
冬の蝶あさき眠りをきれぎれに
天頂を雲のしりぞく初御空
休みつつ淑気を進む松葉杖
日は透り月影こもる氷柱かな
待春の日差しまみれのさかあがり
おのが身に風ひきうけて麦を踏む
一輪の水仙の香に糺さるる
遅れゐる一羽を待てり春の鴨
雛の間の朝につかふ棕櫚箒



16.半丁 ハードエッジ

地虫出て安土桃山時代かな
幼くてお玉と呼ばれ蛙の子
蝶生れて日当る石を懐しむ
さざ波を飛んでつばくらつばくらめ
春の草早も兎の耳の丈
今日こそは晴れて桜の出番なれ
咲き満ちて花の洛中洛外図
湯あがりのほろりと花よ花びらよ
花びらが吸取紙の上にかな
ならばこの紫雲英畑を買はぬかと
石鹸の刻印深き立夏かな
鯉の背に跨る五月来りけり
満ち足りて水田明りの水田なり
頭を上げて裳裾を引いて蝸牛
毛虫とは似ても似つかぬものとなる
蓮の花蜂かと見れば蠅がをる
灯台を廻る楽しさ夏燕
涼風とよくすれ違ふ日なりけり
ねたましや夕立の中を駆け行くは
うたかたのうすきみどりのソーダ水
囚はれの身をからからとラムネ玉
赤に黄に高さを競ふかき氷
割箸が置かれ冷奴が置かれ
丁半の博打半丁の冷奴
蛸足や肉の真白を胡瓜揉み
風に乗ることの哀しき祭笛
朝顔や歩いて通ふ勤め先
石ころを掃きたる秋の帚かな
髪乾くまで月の出を待たせある
満月や永遠に零るる崖の土
蓋開けて月の光のオルゴール
明月はけふ明日はあしたなり
青い目の人形青い目の野分
豊年や翅持つものは飛び廻り
色鳥を吹き消す風となりにけり
聞く耳を持たぬ人にも蚯蚓鳴く
プリズムの傷だらけなる夜食かな
子規庵の寝静まりたる糸瓜かな
神の旅大きな月を掲げたる
赤々と火中ありけり夜の焚火
膝の辺に猫より丸く毛糸玉
白鳥の湖に行き浮寝せむ
大根を抜きつ大根抜かれつつ
枯草の中の針金曲り錆び
降雪や花壇を囲む赤煉瓦
自転車の硬きタイヤも年用意
読み返すことの楽しき古日記
花のごと雪ふる中を宝船
屈強の白を重ねて鏡餅
どんど火の崩れむばかり崩れたり



17.逃水 古川朋子

新緑や椅子に聖書を入るる場所
丸窓を緑の雨の充たしゆく
言問のさなかにはかにほととぎす
あしうらに砂の微熱や麦の秋
点になり線になり五月のとんび
廃墟つきぬけて新樹のそよぎけり
丹田の青むまで吸ふ若葉風
うつむいてゐればいつしか夏の海
ひまはりを見てゐるだけの停車かな
木の卓のらくがき青し百日紅
黄のアロハシャツ跳んで取るフリスビー
触るる手に傷ひとつある花火かな
白靴の赤い靴底とほざかる
朝顔や海に向かひて社員寮
秋暑し神社の鳩のふとりたる
西瓜食ひ終へし話のつづきなし
本棚に活字押しあふ残暑かな
匙に乾く一滴の水秋きざす
裸婦像の乳房を削り初嵐
いまだ見ぬ街の多さよ秋の蝶
少年のなごりの眉を秋の風
千々にものおもへば遠き花野かな
そぞろ寒となりに鶴を折る家族
夜通しの雨音に秋惜しみけり
かはほりの骨にあまねく冬来る
水の輪を毀して鳰が鳰に寄る
きれぎれに鳴るクラクション冬の虹
酢海鼠や逢へばかなしくなるをとこ
落葉掃く道をへだてて会釈して
枯枝の震へや鳥の睦みあふ
畳まれて雪の窓辺に車椅子
怒つてゐる嚔笑つてゐるくしやみ
暖簾のゆ二つに割つてクリスマス
剥製の熊に白息かけにけり
ねむるまで寝息をきいて小晦日
亀が首のばしてもどす去年今年
旅初うごく歩道の弾みけり
海に出でて国道細る水仙花
春雨や肘ついて割るピスタチオ
香水もなく花もなく猫の恋
水草生ふコンクリートの川底に
春分や日の丸なびく家しづか
春の夜のふせて置かるるマグカップ
外階段ひなぎくに行き止まりたり
桜蘂ふるドアノブにビニル傘
泪では落ちぬマスカラ雲雀鳴く
さみしいと先に言はれし春の月
背凭れに人のぬくもり鳥雲に
道迷ふたび逃水を追うてをり
手かざせば水流れけり春の雷


2016「角川俳句賞」落選展(第3室) 9.きしゆみこ  10.工藤定治  11.小助川駒介  12.杉原祐之

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2016「角川俳句賞」落選展■第3室


9.きしゆみこ 




10.工藤定治 




11.小助川駒介


  
 
12.杉原祐之





9. 待っている きしゆみこ

クリーミーとは如何な味はひ春を待つ
薄紙に包まれてゆく櫻貝
床の間に肥後大皿を春燈
梅は実になるまへしかと眠りたる
ブランコの違ふリズムの二人かな
トルソーを運びし春の運送屋
招待状書き重ねをる花明り
太陽は春分点や伸びし爪
蛇穴を出づる蛇籠の砂利動く
獺祭酒御用意致す花月夜
晩春や仏のやうな石の色
春送る和舟大きく戻る頃
船の音初夏の匂ひの中にをる
涼しさの色の栞や聖書棚
滝の間の青き空気を吸ひこみぬ
左手と限らぬ指輪薔薇弾く
手拭ひをカンカン帽の中に敷く
男衆を横切つてゆく洗ひ髪
喉仏辺りを見する夏雀
片方が空を向きたる金魚の目
八月の窓やサボテン伸び切つて
秋冷の床の間にある青磁かな
小鳥来よ飾窓ある畳の間
今を生き武道作法を月の許
木の心知りてや月の法隆寺
用水の流るる寺領小鳥来る
驢馬の荷は葡萄や驢馬と同じ色
野紺菊馴染みの医者に会ひにゆく
天地や銀河の影といふ地球
縄跳の縄より粗く松手入
南米の黒髪にして日向ぼこ
鳥どちの来よと伸べし手冬帽子
凪ぐ中に水の重さの冬の色
花八手旅館の角の井戸傾ぎ
古き世の文豪めきぬ懐手
よくしやべる日や冬帽をなほしつつ
男湯女湯同心円の雪
室の花咲かせる人の穏やかな
極月や絵蝋燭なる黒き芯
大八で運ぶ文机年詰まる
年暮るる料亭にある一つの名
畳屋の上がり框に冬至梅
どんと焼までの田の道氏の道
大試験塀に真赤な林檎落つ
手袋のままに戻さる受験票
土間に散る源平梅の源氏かな
山鳩の色なる庭の落椿
春燈や鍵盤の指弦の指
この場所が桜並木となる頃は
星空やたれかの分の桜待つ


 
10.帰去来 工藤定治

葱坊主つぎつぎ風は吹いてくる
花便りライン知らせる第一報
マスクより機関銃の喋りかな
おしぼりの袋よく飛ぶ春北風
撫で摩る鎖骨のまはり鳥曇
落書の壁黒々と春驟雨
北窓を開きて風を呼び込みぬ
シクラメン一つ二つと減る花弁
初燕夫は単身赴任中
就活の黒散らばりて四月かな
コンビニの喫煙者たち春の泥
春時雨ビニール傘の数多し
若緑アキレス腱を伸ばしけり
花水木深呼吸する人がゐる
草青む靴底見せしスニーカー
やうやくに回り出したる風車
菜種梅雨宝くじ買ふ人の列
花薊刺あることは知つてゐる
石楠花や堰切るやうに花開く
廃店のガソリンスタンド草若葉
青空をこぼれ落ちしか天道虫
陽炎や事故車寄せらる道路脇
一声を鳴きて鶯飛び立ちぬ
針立てて匍匐前進毛虫ゆく
土産置くゴールデンウィーク電車席
二輪車の背中追ひかけ青嵐
昭和の日電車通過す無人駅
とりあへずはいと返事し柏餅
鯉幟もう少し泳いでいたい
小学生今何人と子供の日
突然に人現れて木下闇
春茜帰る子供へ吠える犬
披露宴の受付係胸に薔薇
春筍地面押し上げ覗きけり
夏始喉を鳴らして水素水 
一面に空敷きつめて田水引く
次々と波紋広がり水すまし
ミニ薔薇の垣根に赤き吹雪かな
太陽光パネル囲みて蛙鳴く
休耕田野菊少々草混沌
未来とは常に前方幣辛夷
青蜥蜴声出す前に消えにけり
サルビアの花赤々と苗売らる
介護車の停められてをり柿若葉
唇は冷たしラムネ玉揺れる
平らかな脈に戻りて日永かな
田楽の山椒葉少しずれている
黒ビール自分で自分褒めたき日
花虻の羽ばたきの音だけがある
若鮎の水切り進む背鰭かな


 
11.惜春の石 小助川駒介

待春の水ゆつくりと渦を巻く
春近し白きクレヨン長きまま
微睡みの亀の瞼や水温む
一群れの花菜ひかりの溜まる場所
磔刑のステンドグラス春めけり
クラクション遠退きやがて囀に
教会の十字に掛かり春の雲
マンホール蓋の形に花の屑
降り立ちて潮の匂ひや朧月
惜春の石を拾へり子と二人
春水の暗渠を潜る音の闇
タンポポの絮を吹く子や頬丸め
チューリップ一つは影の中にあり
亀泣くや出がけに探す家の鍵
掃除機にひよいと足上げ春の果て
こどもの日言葉ならざる声発し
夏めくや波は光を乗せて去る
団子虫はつなつの陽を背に運ぶ
蔦若葉水面に触るるたび波紋
楠若葉町に一つの小学校
すり硝子染め新緑の抽象画
電柱を閉じ込めてをり蔦青葉
子には子の時間のありて磯遊び
葉桜や風のみ訪れるベンチ
美人草揺れてこの先行き止まり
ゆで卵の黄身に塩振る薄暑かな
摩天楼薄暑の底にゐたりけり
鴨の子や一羽潜れば別の子も
蕗の葉に虫ゐて蕗の葉と揺るる
空豆や上を見るもの俯くもの
出会ふたび何やら話す蟻と蟻
天道虫草から草へまた草へ
古瓦積まれし高さ姫女苑
子に実梅渡しそびれてポケットに
かなぶんや近づけばやや身構える
瑠璃揚羽空を残して去りにけり
二億年前の威厳や黒蜥蜴
壁に穴ありて蜥蜴の尾の消ゆる
ワイパーの音の物憂き緑雨かな
一本の腕無き海星裏返す
緑蔭や人待ち顔の少女ゐて
波の影裸足の甲に沿ひ撓ふ
きびきびと指差す車掌夏衣
噴水や青銅の眼の見やるもの
夕風やコレラ船なき浦賀港
さくらんぼ葉の陰にゐて息しづか
片蔭の街浸しゆくビルの群れ
オルゴール既に止みたる昼寝覚め
夏の月爛れて赤き眼の一つ
涼しさやアンモナイトの眠る壁



12.緑の家 杉原祐之

また選挙あるらし落花舞ひにけり
ぶらんこを漕ぐ桜蘂散らしつつ
田植機の回りし跡を均したる
緑陰にひんやりとある滑り台
桐の花高架ホームに突き出でて
杉玉に梅雨の気配の濃かりけり
戦車用道路の脇の富士薊
罅入りし隊舎の壁にさみだるる
肘雨の滴を垂らす釣忍
漆掻山に一礼して去りぬ
ダービーの歓声うねり来りけり
不機嫌な妻の寝返り明易し
新築にして武骨なる登山小屋
洗濯を干せば風鈴鳴りにけり
綿菓子の機械を据ゑて祭宿
ひとつ風呂浴びて来れる神輿舁
プログラムされたるやうに滴れる
滴りに金魚滝には錦鯉
競られゆく肉牛の眼に蠅たかる
早々に夕立乾く島の路地
複製の緞帳垂らし鉾立つる
漬物を販いでゐたる鉾の宿
干草の丘の風力発電所
づかづかと政治家来たる踊の輪
垢抜けぬ音も時折威銃
サイクリングロード貫く真葛原
田の外へ外へと垂るる稲穂かな
クリアーなラジオを聴きて終戦忌
田原坂より時折の威銃
畦道を真向ひに来る蜻蛉かな
白寿まで一人で暮らし花木槿
タクシーのゆつくり流す良夜かな
蜘蛛の巣の破れかぶれに秋日濃し
日和見の山の台風一過かな
浜砂を巻き上げてゆく野分かな
ライオンズクラブの名札秋薔薇
茶の垣の隙間に落つる熟柿かな
夕日浴び熟柿ますます熟れにけり
お手軽な寿司屋の混める七五三
売れ残る熊手机に並べられ
天空を十一月の風渡る
少しづつくすんでゐたる冬紅葉
不機嫌な人に見えたるマスクかな
病院の中庭のクリスマスツリー
手相見に列の出来ゐて年の暮
追焚のボタンが喋る冬至かな
建売の一軒ごとの松飾る
富士見橋より初富士の辛うじて
朝礼を終へ一斉に雪を掻く
紫に雪野の暮れてゆきにけり


2016「角川俳句賞」落選展(第2室) 5.安里琉太  6.生駒大祐  7.大塚 凱  8.仮屋賢一

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2016「角川俳句賞」落選展■第2室


5.安里琉太 





6.生駒大祐 




7.大塚 凱 




8.仮屋賢一





5. 昔見たやうな 安里琉太

雨粒の山蟻を押しながしけり
風鈴やたくさんの手と喉仏
人待ちに薔薇の匂ひのする頃か
ぱりぱりとプールサイドの身を起こす
青林檎ひとつの雲の引きかへす
浜のもの錆び付いてゐる昼寝かな
その石のむかしからあり南風
サングラス一人になれば胸にさす
髪灼くる巨船を鳥の旋回し
文弱の父に冷酒の夜の永し
糸瓜棚暑くなる日の雲の形
竜頭巻く掃苔の水汲むあひだ
蓑虫や雨うつとりと痩せてをり
鵙啼きて旋毛の並ぶ理髪店
言はれなきこと秋草にわが父に
敗荷になまくらな水かがよへり
蝶に似て此処も風吹く茸かな
中空の雨の真白き猿酒
茸山どの木も昔見たやうな
川底に一縷の草や神無月
セーターや胸の英字に所以なく
温室の道へ這ひだす赤き花
書きだしのすでに日暮れて浮寝鳥
二日はや肉の記憶が舌のうへ
火の糧にならぬ花弁や山始
日溜まりの水となりけり雪兎
悴みて水源はときじくの碧
忘れじと書く寒林の途中から
春暁や何の忌となく雨が降り
闘鶏師大き時計を掛けにけり
よく晴れて蕨の下は苔の国
永き日の椅子ありあまる中にをり
清明や魚のぬめりのうすみどり
払へどもみづの吸ひつくさくらかな
紙風船喪の一団が暗がりに
桜湯に彼方の波の白むかな
花過のみづの匂ひに憑かれゐし
空腹が蝶を無残に見せてをり
潮干狩雲の写真のどれも似る
ポケットの闇揺れてゐるがうなかな
春暑し蜜吸ふ茎のうすら紅
江ノ島の日傘の白く混みあへる
夏芝に寝て笑はれてをりにけり
噴水にもつとも近きベンチかな
手庇のなければ見えず五月の塔
昼寝覚とほくの音のぽつぽつと
老鶯や斜めに弱る竹箒
亡きひとの写真のきよら団扇風
登りきて涼しき景となつてゐし
薔薇濡れてこゑのるつぼの真ん中に




6. 冷たき花 生駒大祐

鳥ゆける空のてまへは雪の街
やうやうとして初夢の橋渡る
牛肉に曇りぬ寒の銀食器
丘の冬木すでに憂ひのかたちなす
山冴えて里呆けたる野蒜かな
たれもみな裸足に生まれ野は紫雲英
とくとくと色流れ出る雛の家
子供来て死を言ひそめし椿かな
凡庸な西の風吹く蓬かな
眠るべく便箋ひらく鳥の恋
揚羽踏む真昼を映す潦
鯉抜けし手ざはり残る落花かな
花過を眠ればうをにまた近づく
蝶舞ふや撥条をもて時動く
筆立に筆を待たせて春ゆきぬ
金澤の五月は水を幾重かな
雲去れば力抜く空山法師
上京の夜は新樹さへ冷えゐたり
列車の灯糸引きて去る緑雨かな
筍を煮てゐる白き時計かな
明るさに箒たふれし白牡丹
はつなつを夜の友訪ふはなんとなく
水輪広がる梅の実をたなごころ
瓜の花冷たし水の中の手も
呼び止めし汝は何用夏蓬
蝸牛来ては波立つ月日かな
蜘蛛の糸ときをり水に触りけり
風にして午後しづけさの立葵
雨ながら外用の夏薊かな
花菖蒲自在に白をあつかへり
触れて消す灯も夏雨の夜なりけり
空蟬のこぼれて今朝は波のうへ
はしやぎあひつつ夕立の縁へ逃ぐ
刻々と雨になる屋根花木槿
夏風邪にあらはれて直ぐ薬缶へ火
草に遣る湯呑の水も晩夏かな
玻璃さつとあをざめる秋立ちにけり
雁ゆくをいらだつ水も今昔
餉の梨といま水中の刃物かな
かげろふや天才にして長き生
霧雨や汝を疎みては幾鏡
十月も末のかの絵は買はぬまま
椎の実を拾ひしままに渚まで
湖は拙き波の草紅葉
紅葉鮒身じろぐ水の粘りかな
飽くるなき大空や枯芝に寝て
大根の餉に思はずの言葉かな
目瞑るにわづか足らざる霜の花
大笑のつひの涙を炬燵かな
寒鯉の目覚めて意味を離れけり




7. 白  大塚 凱

逢ふたびに微かに老いて朴の花
白シャツを脱いでも燈台が遠い
素裸になつて欅にすこし似る
飛込の音が吸はれて樹のみどり
献血ができないからだゆゑ泳ぐ
浮輪から獣のやうな息を抜く
恋びとを砂丘とおもふ午睡かな
仙人掌に夕星ほどの花きざす
帆と見えて鳥は涼しい距離にゐる
虹の脚わたしのゐない街に立つ
乳母車蚯蚓をいくつ轢いてきた
腕時計灼けて帰つて来ない鳥
迷ひ子のときに花火をふりかへる
八月の鋭利な雨に船を待つ
帰りくる帆があり秋の名もない帆
もの言はず墓参の父にライター貸す
踏切はカンナを揺らすために鳴る
かぎりない椋鳥の見てゐるつむじ
秋よ詩を読むこゑが思つたより若い
週刊誌の女に露が沁みてゐる
学問は月に背くといふことか
蚯蚓鳴くランプが冷めてゆく時間
明けながら野のひろがつてゆく檸檬
恋そして吹かれてやまぬ真葛原
胸がちに東へゆけば霜鳴れり
枯野から白い畳にゆきあたる
龍の玉さぐりて泉汲むこころ
抱き締めても石焼藷のやまぬ湯気
買はれゆく聖菓の白を鳥と思ふ
野良猫に眠るべき箱クリスマス
嚔してこころ曇天へと紛る
さびしさが森からやつてくる毛布
古日記大海深く夜を蔵す
うつくしい文がおほきな火事になる
そのみづのどこへもゆかぬ火事の跡
冬の壁さつき見た木を忘れてゐた
傘の骨からつはぶきの花になる
爛爛と雪眼をひらく夜行バス
丘へ来て雪解のペンが走り出す
二月ひとり碇のやうな辞書を買ふ
窓枠に蜂死んでゐる大試験
如雨露から虹があふれて赤黄男の忌
絵に描いてゐるとさくらが壊れだす
暮れかねてゐる抽斗のやうな母
鳥の巣をくづず月光かもしれぬ
柳その奥へ遊びにゆくおとな
春服をならべて夜がありあまる
花の名の女よ朝寝してゐても
捨てられた椅子を見てゐる新社員
肺ふたつ労働祭の風の中




8. ふるきづ 仮屋賢一

竹馬を道間違へて降りにけり
だんだんと赤の他人へ雪だるま
社長まだ法被着馴れず寒造
神の座の光を纏ひ追儺の矢
郵便配達ふもとの霞率ゐて来
海苔船の海苔を払ひて舫ひけり
声色といふ色ありて石鹸玉
卒業の列つぎつぎに傘たかく
まづは眼の春塵拭きて閻魔像
春の風邪冷ましすぎたる湯を沸かす
啓蟄のゲームカセット吹いて挿す
呼べばすぐ開く写真屋つばくらめ
はんぶんは辛夷のはうへ海の風
煉瓦棟赤く旧りゆく雪柳
鶯の飛ぶまへ力抜いて鳴く
真ん中に要らない器械ある飼屋
木匠の飼屋の梁の覚書
どこからか濁流となる鳥曇
護符多く吊せる鞄青き踏む
遠足や草で拭きたる靴の裏
叩くたび皺の増えゆく紙風船
売り切れてしばし風船売のこる
宙のものすべて軽さう花菜畑
後ろよし前よし花菜よし発車
草笛のだんだん下手になつてゆく
鯉のぼりおろしてさつと撫でてやる
全身を扇で指して確認す
きづすぐにふるきづとなる実梅かな
宮の樅山を突き出で大夕立
かき氷親子の匙の入れ替はる
神還すのちの神輿の重きこと
月下美人老いたるまへに仕舞ひけり
ゆるやかに坂のはじまる桔梗かな
竹の春行幸の碑に折りかへす
鶏頭を過ぎて話し手替はりをり
記念写真案山子いちばんいい笑顔
美術展部屋の真ん中ぽつかりと
近きほど自棄に描ける曼珠沙華
源流にものの沈まず松手入
長音に曲を終はらせ冬支度
ネクタイに鋒ふたつ冬に入る
埋火や仏描くに音の無く
裏方は靴を履きたる聖夜劇
絨毯をはみでて寝言おほき犬
柴漬を見まはる嵐山の風
懸想文売札束に札仕舞ふ
懸想文もらひて犬によく嗅がる
すずしろのつひでに菘切られをり
初弘法店主と雨を案じあふ
連載の明日にはじまる福寿草

2016「角川俳句賞」落選展(第1室) 1.青木ともじ 2.青島玄武 3.青本瑞季 4.青本柚紀

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2016「角川俳句賞」落選展■第1室


1.青木ともじ




2.青島玄武 




3.青本瑞季 




4.青本柚紀




1. 夜があり 青木ともじ

あたたかや二人で運ぶ長机
飛び出さぬ飛び出す絵本うららけし
囀や跳ね奔放に書道展
入試監督きれいなこゑではじまりぬ
やはらかに廃車積まるる桜かな
桜かつ散るや上野にすこし雨
大筋は桜の頃に聞いてゐる
おとうとの家庭訪問ヒヤシンス
ヒヤシンス並べなほして退任す
春濤をひとり占めしてひとりなる
くづれさうな光を春の海といふ
生卵割る背筋まで新社員
青饅にふと深海のふかみどり
かぎろへば神奈川へゆく橋にゐる
風船を連れ不自由な体なる
夏近き空に火葬の煙残る
人類に火があり天に藤があり
白蝶を吹き消すやうに見失ふ
対岸を眺めてをれば春終る
はつ夏はさつき見てゐた雲の白
友を待つ背に噴水を感じゐる
立ち漕ぎの一歩目強き植田かな
のつぺりと羊羹倒す暑さかな
居酒屋のトイレに香水がにほふ
なきがらの金魚とろんと沈みたる
苦しんで死ねば汗なら残るだらう
ヘルメットの内側臭き夏野かな
ねむり草めざめるときの波紋めく
日傘して孤島のやうな女かな
売る籠のすべてからつぽ登山道
くちなはの来てゐて此岸広くある
何の碑か知らずありがたがつて秋
旧友は嫁いで百舌鳥の街にゐる
皿に入れポン酢あかるき良夜かな
一といふ字の潔き夜学かな
紅葉かつ散る空港の片隅に
菊の日の寺に裏口見つけけり
わけいつて山頭火忌の酒場かな
文殻のやうに蜜柑の皮を閉づ
理科室のうしろのストーブが匂ふ
実験のマスクがすこし驚きぬ
フラスコの沸騰を待ち山眠る
夜廻りのひとにちひさな橋があり
湯豆腐の波に豆腐のくづれけり
おほかたはわたしの上に降らぬ雪
まいにちの中に夜があり吹雪きけり
本に倦み二月の町をかなしうす
いつか返さうCDとマフラーと
船団がその闇にある寒さかな
火事跡は画廊の明さもて暮るる



2. 海神(わだつみ)の裔(すえ)青島玄武

寝転べばあまりに天の高きこと
芒原夕陽の舟となりにけり
梨を剥く日照雨のなかを蝶が舞ふ
寂しさは楽園にあり法師蝉
名月の踊り出さんとしていゐたり
七五三も昔のことと言ふ子かな
小憎らしき頬をつねれば冷たくて
秋麗の袖に隠るる腕時計
小春日やバスいつぱいの子供たち
やおとめは初めて雪をまとひけり
木枯らしの表へ出ろと引き出され
聖菓より少し大きな聖樹かな
年の瀬のくの字に座るお人形
曳猿が晴れ着の人を追い回す
ジヤンボ機の翼の下の玉競り
鶴舞ふや久遠のの尽くるまで
熱燗を胃の腑の奥で抱き締むる
嬰の手と握手する指寒桜
春水のはしやいでをりし水車かな
経由して茶となりにけり春の水
里の子が斑雪山へと登校す
体内へ降りる階段梅真白
寒戻る寒戻るよと烏啼く
山々は膝を崩して桜草
春コート風欲しがつてゐたりけり
花影の猫となりたる夕べかな
泣き叫ぶ子供のゐたり花の宴
花満てり水面の花の散るときに
散る花へ修羅と争ふ波濤かな
お小言のまあどつさりと春の風邪
父親が怪獣となる野の遊び
連翹や海へ海へと汽車は往く
どうにでもしてよと春の大根が
海神の裔の仔馬の生まれけり
唇が歌ふ形となりて夏
旅人に旅の小路や若葉冷
掌の山河を渡る螢の火
髪筋に指先沈む薄暑かな
冷房でご飯が冷めるラーメン屋
写真屋の声の太さよ夏の富士
人殺せさうな器や夏料理
マイクにて蚊に刺されしと発表す
鼻息の急に荒ぶる泥鰌鍋
薔薇の香を嗅ぐや爪先立ちとなり
梅雨寒の切手は丹念に舐むる
プール出て生まれ変はりし女かな
トマト掴む親指までも細き手が
白南風や波が客なる自転車屋
用件を指示しながらも髪洗ふ
観音の御影を包む深緑



3.山羊がゐる 青本瑞季

夏菊に閉ぢてまぶしき扉かな
南風散らかつてゐる子らのこゑ
貝殻の口を小さき蜘蛛わたる
花あやめ雨に紛るる鳥の足
梅雨晴の足波立たす団子虫
六月の書庫は階段匂ひけり
昼顔に白犀ほどの雲ありぬ
合歓の花おほきな水はよく流れ
えぞにうの腰折れてゐるところかな
白扇は後ろの森に陰りけり
煙草の箱夏痩の手をはみ出せる
その朝の海のごとくに曇る葡萄
濡れてゐる楽譜秋果の籠の下
虫籠のかたちの染みを風とほる
絵本閉づれば真葛原まで続く道
干柿に牧草昏くなりにけり
ぽつぽつと菌百葉箱の下
芒野の終はるまぎはの水飲み場
いななきに幕切れめける花野かな
おほらかに学生蔦の灯へ帰る
はつ冬の夢の合間を来る地震
絨毯に目覚めて舟と思ひけり
肉塊に糸の食ひ込む十二月
湯ざめしてみんなやさしい電話口
風邪気味よ歩みに鳩のちよつと飛び
初雪やサドルひと拭きにて乾く
冬ざれの盲点として秩父の牛
火事場帰りの胸元にペン差しなほす
倒木を容れぬ浅さに水温む
春の白鳥ひらがなの受肉とも
ぐつぐつと混みあへる夜の残る鴨
春の日に睡られずゐて湖を過ぐ
踏青の見知らぬ墓地に来てしまふ
蘖が幽霊よりもどつとある
汐干狩続けることの憎むに似
つぶ貝を焼けば電話を待つやうな
しんじつは日より冷たし干鰈
茶筒固くて永き日の座敷かな
からだぢゆうのみづがねむれりうららかに
花なづな鳥の足あと乾きつつ
羊蹄や汀てふもの川にもあり
たんぽぽの絮散る笛のもつれる音
パンジーの花ふてぶてし地を擦つて
白蝶よかぼそい泥の脚を上げ
とどまりて髪ぬるくなる虻の岸
春休四方がさぼてんにて座る
しだれざくら舟に届かず雨のなか
菜の花の中の蛇口の涸れてをり
黄水仙天国なら散らかつてゐる
春落葉懐かしさうに山羊がゐる



4.消えろ 青本柚紀


砲錆びて芽吹きはじめの山を向く
この昼の囀の木であることよ
人がゐてミモザはいつまでも渚
川は流れて柳に触れし無数の手
電気ブラン飲みたし蝶に溺れたし
空腹に慣れて桜が白いのだ
たんぽぽの絮を奪へばひかりにきえる
春休読書のあとに釘打てば
食堂に溜まり春愁なき君ら
山のうしろははや花過ぎのけふである
花散らす力を沖に太宰の忌
見つめあふやうに新樹の明けてゆく
まつくらな門をくぐれば薔薇に着く
いちまいの葉をいくたびも迷ふ蟻
句は縦書き初夏の修道女のやうに
十薬の茂みを日々はひきかへす
泉見て四肢の時間のゆたかなる
女子寮に殖ゆる噂よ夏落葉
火蛾と火蛾ぶつかる夜を醒めてゐし
夏痩に渋谷の音の押し寄せる
箱の虫うごき夜学は力学へ
秋雨の受話器の奥の息づかひ
待てど来ず秋刀魚の骨を外したる
名月を山手線の廻りをり
通信の絶えて桔梗をまじまじ見る
大学へ傘が秋思が重なりあふ
束ねたる手紙信濃は霧の中
弦楽に林ひらけて秋逝けり
冬の噴水割れて一羽の鳥が発つ
いくたびも指が時計に触れ枯野
尽く冬の灯にして小さき部屋
そのことを問へば白息がちとなる
祝はれてゐて室咲のあをざめる
はばたきは微かに枯葦の日ざし
毛糸編む絵の少年と語りつつ
ふくよかな道にて竹馬のすすむ
枯枝を踏み折る空の深さかな
缶詰の尽きれば霜の声さやか
見せたしと思へば鴨がどんどん発つ
枯木まで来たり枯木を引きかへす
冬の木を書いた言葉で死ねるだらう
閉ぢてゆく森早春の声がある
蘖の幹いつまでも水浸くなり
永き日の座せばさざめく遠くかな
墓がある恋猫のゐたこの庭に
風船の力をゆふぐれに還す
月下細魚はだんだん白い鳥になる
今日までの山河を忘れたい辛夷
言ひ得ないことが菜の花より多い
新宿はすべて雑音 消えろ蝶
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