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週刊俳句 第469号 2016年4月17日
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〔今週号の表紙〕第470号 春宵 Christpher Knightvail
〔今週号の表紙〕
第470号 春宵
Christpher Knightvail
第470号 春宵
Christpher Knightvail
街路樹のピンクの八重桜がまもなく盛りを過ぎそうな、清水谷公園前のオープンカフェ。
陽春の季節となり、夜の冷え込みも和らぎ、仕事帰りのたくさんの人達が、談笑したり、花の下で写真を撮ったりしていました。
一人でふらりと入って、ワイン片手に、夜気を感じつつ、お気に入りの句集でも拾い読みできたら最高の春宵となりそうです。
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自由律俳句を読む 134 「鉄塊」を読む〔20〕 畠 働猫
自由律俳句を読む 134
「鉄塊」を読む〔20〕
畠 働猫
以前この記事でも取り上げた天坂寝覚が句集を出しました。
『句集 新しい靴』(随句社)
いずれこの記事でも鑑賞したいと考えています。
句集の購入に関しては本人がTwitter上で告知していますので、ぜひ「天坂寝覚」で検索してみてください。
今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十一回(2014年2月)から。
文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。
◎第二十一回(2014年2月)より
息の白さも我が部屋 馬場古戸暢
△「寒さ」のようなネガティブな要素も自らの一部とみなす。これが写生というものか。寒いのはいやですね。(働猫)
冬の句であるが、札幌は今日も寒い一日になった。
しかし北海道では暖房がつけっぱなしなので、部屋の中で息が白いという景はほとんどなかったりする。
おっぱい飲んで姪はゆっくり歩きはじめた 馬場古戸暢
△写生句であろう。着実な成長に顔をほころばせているのだろう。(働猫)
微笑ましい句である。かわいくてしかたがないのだろう。
原稿書き終わらぬ頭に隙間風 馬場古戸暢
△頭を冷やせという粋なはからいかもしれないが、冷えっぱなしだからよくないのかもしれない。もう寝てしまえばいいのでは。(働猫)
今まさに同様の状況である。
もしかすると古戸暢の「原稿」も週刊俳句だったのかもしれぬ。
冬の檸檬を齧って香気の結晶をみた 小笠原玉虫
◎これは美しい句だ。五感のすべてを刺激する。「冬」が寒さを感じる触覚、「齧って」が音と味を連想させて聴覚と味覚、「香気」が嗅覚、「みた」が視覚。おそらくは意識的に盛り込んだのであろう。句そのものはもっと整理ができそうであるが、上記のように五感を詠み込むことを目的としたのだと考えれば、これ以上削ることはできなかったのであろうと理解できる。だが、ここまで丁寧に描写しなくとも良かったかもしれない。推敲の余地はまだありそうだ。それにしてもこの一瞬の情景をよく切り取ったものである。(働猫)
すでに当時の句評で言い尽しているが、改めて見事な切り取りであると思う。
何といっても「香気の結晶」が優れた描写である。
リズムは正直もう少しなんとかならないかと思うが、それを補って余りある表現であると言えるだろう。
お前のいい匂いの秘密に触れて春待 小笠原玉虫
△ダウニーであろうか。私はレノアです。(働猫)
匂いで好きになることもあるので、ほんと重要機密であるね。
私はフリージアの匂いが好きで、類した香りをまとわれるとまずい。
働猫さんはよくいい匂いと言われますが、きちんと加齢臭に対策しているだけです。世の中年はみなそうあるべきである。
喉笛に喰いつく花の匂いの猫なり 小笠原玉虫
●バレ句ですね。異性を猫に例えるのはありがちな気がします。(働猫)
これはよくない。
玉虫のこの回の句はすべて匂いに関したものだったが、間接的に表現した「香気の結晶」が最もよかった。
生き物が全てひとえに見ゆる時 中筋祖啓
△「ひとえに」の意味がわからない。(働猫)
全てが同じに見えるという意味であったものか。
生まれたままの「原始の眼」によって生き物を眺めるとき、価値や利害を超えて「あるがまま」に並列に捉えることができる。そうした境地に至ったその「時」を詠んだ句であろうか。
しかしその境地に至れるものは少ない。
したがってこの句も意味不明のまま埋もれていく句であるかもしれない。
飛び込んでいく事が礼拝 中筋祖啓
△五体投地であろう。苦しゅうないぞよ。(働猫)
入門するとはこのようなものかもしれない。
祈りを捧げようとしたその瞬間から礼拝すなわち信仰は始まっているということなのだろう。
正解は一旦下に置き開ける 中筋祖啓
○「正解」を一旦置いておく意味かと思ったが、違うのだろう。これはおそらく寄木細工の秘密箱を詠んでいるのだろう。手に持った箱の開け方に悩み、あれこれと試みている様子が見える。しかし発想を転換して、一度箱を下に置かなければ、けっして開くことができないのだ。中身を手に入れるためには一度すべて手放す必要がある。実に老荘的な思想が詠み込まれているのである。(働猫)
この句も以前、祖啓句を紹介した際に取り上げた。
老荘、禅的な思想が祖啓の句の背景にあることは疑いない。
「秘密箱」とは、特殊な操作を経なければ開けることができない箱である。箱根がその生産地であるようだ。
余談であるが、今回の祖啓句は読み返していて楽しかった。
祖啓という天才を世の中に伝える役目を私も少しは担えているであろうか。
食っちゃった絶滅したはずの動物 十月水名
△本当のできごとであればおもしろい。すごくおもしろい。だからとりかけたのだが、本当にそんなことあるのか……と悩んだ。別に本当にあったことでしか句を作っていけないわけではないのだろうが、想像や言葉遊びとして作るならば、もっとおもしろくあるべきだろう。そして本当のことと考えるにはリアリティが無かった。(働猫)
後述の「マッコウクジラ」同様、自分の中では「好きでありながらとれない」問題句である。これを追究していくことが、自分にとっての「自由律俳句」の定義を明らかにすることとなるように思うが、今はまだそこに至らない。
ひらけごま春の雨春の光 十月水名
△希望の光を待つ様子が美しい。(働猫)
美しい句であると思う。
バス間違えてマッコウクジラが見える 十月水名
△一見、どこまで行っちゃったんだよ、とつっこみを入れるのが正しい鑑賞姿勢かと思うが、実際そんなことありうるのか?という疑問が浮かぶ。「絶滅したはずの動物」の句と同様に、今回自分はファンタジーを楽しむ余裕がないのかもしれない。また、この句には性的な象徴が隠されているのかもしれないとも思う。「クジラ=男根」的な。フロイト的な解釈ですが。そういえば、マッコウクジラは英語でスペルマホエールですね。おやおや。これはこれは。(働猫)
確かこの句がこの回の最高得点句であったように記憶している。
詩的な美しさと物語の冒頭のような広がりを持った句である。
しかし自分はこの句をとれなかった。
当時の句評においてもその理由の言語化を試みてはいるものの、上手くいかなかった。今回も論理的な説明はできそうにない。
ただ言えることは、自分はこの句を、詩としては評価しているものの句としては評価できないということだ。
そこで当然、では「俳句」とは何か。「自由律俳句」とはどういうものか、という定義が必要になってくる。
しかし自分の定義に則れば、この句は自由律俳句である。
それは間違いない。
つまりは、「自由律俳句」として自分の理想とする方向性ではないということか。
とするとそれは単なる好みの問題なのかとも思う。
しかしそれで片づけてしまいたくはないのだ。
この句については、誰かと議論を交わしたいと思う。
そうした意味でも価値のある句と言える。
仕事終わりの冬の星空立ち止まる帰る 風呂山洋三
○感動が足を止めたのだろう。句にしようか。だがやめた。明日も早いのだ。我々は霞を食って生きているわけではない。美しい星は腹を膨らませてはくれない。帰って眠ろう。明日も早いのだ。(働猫)
とても共感できる句である。
労働と文学の断絶。
その断絶そのものを詠んだメタ句であるとも言えるだろう。
深夜のバイクの遠ざかる音寝床の寒い 風呂山洋三
△眠れないまま寝床にいるのだろう。コトノブは大丈夫なのか。(働猫)
古戸暢の句かと思ったら洋三であった。
みんな不眠なのか。気の毒である。
煙草の切れた真夜中アクセル踏み込む 風呂山洋三
△ニコチン中毒は恐ろしい。地獄へのハイウェイにならなければいいが。(働猫)
とりあえず生きて帰って来れたようでよかった。
ご馳走様でした釣銭こそこそと拭う 地野獄美
△状況が想像しにくかったが、汚い店の汚い店主に手渡された釣銭なのだろうか。店主に気を使っている感じに卑屈さはよく出ている。味はよかったのだろうか。また来たいのか。なんとなくの予想だが、この句は今回多くとられそうな気がする。最近の傾向から。(働猫)
予想は当たらなかった。
雪も海もない国の長い話だ 地野獄美
○千夜一夜物語のシェエラザードの話であろうか。そう考えるとなんとも色っぽい。グンマー国やナラー国だと思うととたんに年寄りの繰り言に見えてくる。げんなりである。(働猫)
「長い話」をどうとるか。
肯定的にとるか否定的にとるかで読みも変わろう。
読者はそれぞれにその「国」を想定し補完すればいい。
みんな冷たい石になると教えた 地野獄美
△子供に教えているのだとしたら、なんと残酷なのだろうか。どういう教育方針なのか問い合わせがきてもおかしくない。(働猫)
墓石の前で話しているものと思う。
北欧やスコットランドの戦士の父子はこうであったのではないかと思った。
血腥い乱世の教育である。
孕み女睨む孕み女か 藤井雪兎
△どこで区切るかで印象が変わる。「孕み女」が「孕み女」を睨んでいるのか。それとも「孕み(孕んで)」、「女」を睨む「孕み女」なのか。前者ならば妊婦同士の軋轢であろう。大奥の風景かもしれない。後者ならば、妊婦がそうでない女を睨みつけている様子になる。なんだそれ。こわい。電車の中で席を譲らない女を睨んでいるのかな。いずれにしても「孕み女」という言い方に悪意を感じる。女性をもっと大切にしてほしい。と私は紳士なので思った。私は紳士なので。(働猫)
働猫さんまじ紳士である。
雪催ちょうどダンスが終わったところ 藤井雪兎
△シベリア寒気団のコサックダンスであろうか。(働猫)
「アナと雪の女王」が公開されたのはこの句会の翌月であったようだ。
私は未だに見ていないのだが、なんか雪の中でダンスするのだろう。ディズニーってそうだからな。(偏見)
だから今初めてこの句を見る人には「アナと」句に見えるかもしれない。
これはしかし「アナと」句ではない。
それぞれの約束の地へと出荷される座薬 藤井雪兎
△アナル句か。(働猫)
痔瘻の手術を経験した身としては新鮮な気持ちで読める句である。
これまで否定的に評してきた「病・薬」句であるはずなのだが、「座薬」に関しては、少し趣が異なるようだ。
発熱にせよ、痔にせよ、当事者にとっては深刻な状況であるとしても、座薬にはどうしてもユーモラスな印象が添えられる。アナルを「約束の地」と表現したのも見事なふざけ方(褒めている)である。
* * *
以下三句がこの回の私の投句。
月夜残る雪に懺悔 畠働猫
蓑虫は蓑虫のままてぶくろも見つからないまま 畠働猫
仮止めの幸福はやっぱり飛んで消えて満月 畠働猫
句については触れるほどでもないので近況など。
先日血尿が出て、誕生日に泌尿器科受診という鮮やかな中年振りを演じた。
検査では何も異常がなく、症状もその後ないので一安心である。
できかかっていた結石が自然と出た結果なのかもしれないが、今年は痔といいなんというか下の方で厄を受けているようである。
難儀なことだ。
中年のみなさまもお若い方もどうかご自愛ください。
また、九州および周辺の皆様の安全と一日も早く心に安寧が訪れますことを祈っています。
次回は、「鉄塊」を読む〔21〕。
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【八田木枯の一句】荷風忌の極彩色の覘かな 角谷昌子
【八田木枯の一句】
荷風忌の極彩色の覘(のぞき)かな
角谷昌子
荷風忌の極彩色の覘(のぞき)かな 八田木枯
第六句集『鏡騒』(2010年)より。
小説家永井荷風の忌日は、昭和34年4月30日。代表作の『あめりか物語』(1908)、『ふらんす物語』(1909)は、出版されてすぐ発禁扱いになった。1910年には、森鷗外や上田敏の推薦を受けて、慶応大学教授に就任するが、芸妓との交情が続く。この経験を綴ったのが、『断腸亭日乗』だ。浅草の歓楽街である玉ノ井を舞台にした『墨東奇譚』が、1937には朝日新聞に連載されている。
私生活は特異で、自ら奇人ぶりを自覚して住居を「偏奇館」と呼んだ。忌日は「偏奇館忌」とも言う。荷風には下町情緒が似合うので、忌日の句は墨東の雰囲気の漂うものが多い。
木枯の掲句にも、下町の祭の風情がある。
「覘」とは、覘機関(のぞきからくり)のこと。物語を構成する数枚の絵を箱の中に入れ、順番に変えていって、箱の外から眼鏡を通してのぞかせる。近松門左衛門の世話物『冥途の飛脚』に、この「覘機関」の記述がある。「極彩色の覘」とは、中の絵画がおどろおどろしい色に塗られていることだろう。きっと血塗られた情話などに違いない。箱の中を「覘」くという行為も、どこか俗かつ淫靡で荷風の境涯と響き合う。
実は、木枯の師山口誓子に、昭和8年作の〈祭あはれ覘きの眼鏡曇るさへ〉がある。「見世物の人々」という一連の作品の中の句だ。この句を木枯は愛誦していたので、もしかしたら、誓子作品の祭の雰囲気を思いながら、掲句を作ったのではないだろうか。誓子の群作は、少年のような好奇心に満ちている。誓子には、気難しく近寄りがたいイメージがあるが、木枯にとって、決してそうではなかった。誓子が療養中、木枯たち若者の海辺のテント張りを身近で見守っているような、親しい存在なのだ。そんな師を懐かしみながら、木枯は下町の祭を思い浮かべて荷風の面影と結びつけたのかもしれない。
荷風忌の極彩色の覘(のぞき)かな
角谷昌子
荷風忌の極彩色の覘(のぞき)かな 八田木枯
第六句集『鏡騒』(2010年)より。
小説家永井荷風の忌日は、昭和34年4月30日。代表作の『あめりか物語』(1908)、『ふらんす物語』(1909)は、出版されてすぐ発禁扱いになった。1910年には、森鷗外や上田敏の推薦を受けて、慶応大学教授に就任するが、芸妓との交情が続く。この経験を綴ったのが、『断腸亭日乗』だ。浅草の歓楽街である玉ノ井を舞台にした『墨東奇譚』が、1937には朝日新聞に連載されている。
私生活は特異で、自ら奇人ぶりを自覚して住居を「偏奇館」と呼んだ。忌日は「偏奇館忌」とも言う。荷風には下町情緒が似合うので、忌日の句は墨東の雰囲気の漂うものが多い。
木枯の掲句にも、下町の祭の風情がある。
「覘」とは、覘機関(のぞきからくり)のこと。物語を構成する数枚の絵を箱の中に入れ、順番に変えていって、箱の外から眼鏡を通してのぞかせる。近松門左衛門の世話物『冥途の飛脚』に、この「覘機関」の記述がある。「極彩色の覘」とは、中の絵画がおどろおどろしい色に塗られていることだろう。きっと血塗られた情話などに違いない。箱の中を「覘」くという行為も、どこか俗かつ淫靡で荷風の境涯と響き合う。
実は、木枯の師山口誓子に、昭和8年作の〈祭あはれ覘きの眼鏡曇るさへ〉がある。「見世物の人々」という一連の作品の中の句だ。この句を木枯は愛誦していたので、もしかしたら、誓子作品の祭の雰囲気を思いながら、掲句を作ったのではないだろうか。誓子の群作は、少年のような好奇心に満ちている。誓子には、気難しく近寄りがたいイメージがあるが、木枯にとって、決してそうではなかった。誓子が療養中、木枯たち若者の海辺のテント張りを身近で見守っているような、親しい存在なのだ。そんな師を懐かしみながら、木枯は下町の祭を思い浮かべて荷風の面影と結びつけたのかもしれない。
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10句作品テキスト 休みの日 淺津大雅
休みの日 淺津大雅
おこるひとゐなくて春の雪に尿
霞濃しつぶれて睡るレトリバー
白梅や鉄階段の螺子が鳴る
魚市の休みの日なる春鷗
森へ消ゆ春雨浴びし学生ら
挨拶に脱ぐ帽子より花の塵
鶯や老の首筋浮きいづる
虻飛べる雨後の陽射の強さかな
落椿雨の蚯蚓のかたはらに
水紋に躓く蝌蚪のおよぎかな
●
おこるひとゐなくて春の雪に尿
霞濃しつぶれて睡るレトリバー
白梅や鉄階段の螺子が鳴る
魚市の休みの日なる春鷗
森へ消ゆ春雨浴びし学生ら
挨拶に脱ぐ帽子より花の塵
鶯や老の首筋浮きいづる
虻飛べる雨後の陽射の強さかな
落椿雨の蚯蚓のかたはらに
水紋に躓く蝌蚪のおよぎかな
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10句作品 休みの日 淺津大雅
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10句作品テキスト キリヲ抄 九堂夜想
キリヲ抄 九堂夜想
霧をきく神依板やとき知らず
ゆく霧をゆく夢虫の夢違え
黙(だんま)りの霧を水府の遣いとも
悪太郎わななく霧を寂として
立ち迷うひだる神とや霧をはき
石哭くや贄にたちこめたる霧を
朽縄や上通下通婚(おやこたわけ)の霧をたれ
前生の霧をししふし言う野巫か
ふと霧をすぎゆく斧や空(から)とむらい
霧をかの命命鳥は血下ろしへ
●
霧をきく神依板やとき知らず
ゆく霧をゆく夢虫の夢違え
黙(だんま)りの霧を水府の遣いとも
悪太郎わななく霧を寂として
立ち迷うひだる神とや霧をはき
石哭くや贄にたちこめたる霧を
朽縄や上通下通婚(おやこたわけ)の霧をたれ
前生の霧をししふし言う野巫か
ふと霧をすぎゆく斧や空(から)とむらい
霧をかの命命鳥は血下ろしへ
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10句作品 キリヲ抄 九堂夜想
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週刊俳句 第470号 2016年4月24日
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後記+プロフィール 第470号
後記 ● 上田信治
under construction
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no.470/2016-4-24 profile
■九堂夜想 くどう・やそう
1970年生まれ。「LOTUS」「海程」同人。
■淺津大雅 あさづ・たいが
1996年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。私家版句集『#はいくたいがー夏秋』『金魚掬
の露店ばかり見てゐた。』。
■九堂夜想 くどう・やそう
1970年生まれ。「LOTUS」「海程」同人。
■淺津大雅 あさづ・たいが
1996年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。私家版句集『#はいくたいがー夏秋』『金魚掬
の露店ばかり見てゐた。』。
■角谷昌子 かくたに・まさこ
「未来図」同人。俳人協会幹事、国際俳句交流協会評議員、日本文芸家協会会員。詩誌「日本未来派」所属。句集に『奔流』『源流』。
「未来図」同人。俳人協会幹事、国際俳句交流協会評議員、日本文芸家協会会員。詩誌「日本未来派」所属。句集に『奔流』『源流』。
■畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。
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後記+プロフィール 第471号
後記 ● 西原天気
ハンカチの季節、到来ですね。
汗をかくのは、基本的に気持ちがいい。汗をかける生活は、良い生活です。
でね。
私の場合、わざわざ買ったりはあまりしません。ハンカチを持つのを忘れて出かけてしまったときに、出先近くで買う。それが溜まっているので、新しく買う必要がない。
このあいだ出先で選んだもの。「あ、豚だ」と思って、購入。よく見ると羊でした。
●
それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
■鈴木不意 すずき・ふい
1952年生まれ。同人誌「なんぢや」、「蒐」所属。外に出ないと句ができない現場派。
■田中惣一郎 たなか・そういちろう
1991年岐阜県生れ。「里」同人。
■西原天気 さいばら・てんき
ハンカチの季節、到来ですね。
汗をかくのは、基本的に気持ちがいい。汗をかける生活は、良い生活です。
でね。
私の場合、わざわざ買ったりはあまりしません。ハンカチを持つのを忘れて出かけてしまったときに、出先近くで買う。それが溜まっているので、新しく買う必要がない。
このあいだ出先で選んだもの。「あ、豚だ」と思って、購入。よく見ると羊でした。
●
それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
no.471/2016-5-10 profile
■吉田竜宇 よしだ・りゅう
1987年生。第53回短歌研究新人賞受賞。「翔臨」所属、竹中宏に師事。
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
■鈴木不意 すずき・ふい
1952年生まれ。同人誌「なんぢや」、「蒐」所属。外に出ないと句ができない現場派。
■田中惣一郎 たなか・そういちろう
1991年岐阜県生れ。「里」同人。
■畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。
■山中西放 やまなか・せいほう
1938年京都生。2012年より「渦」編集長。句集『風の留守』、『炎天は負うて行くもの』。他詩集2冊。
■西原天気 さいばら・てんき
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〔今週号の表紙〕第471号 奈良太郎(東大寺梵鐘) 山中西放
〔今週号の表紙〕
第471号 奈良太郎(東大寺梵鐘)
山中西放
第471号 奈良太郎(東大寺梵鐘)
山中西放
752年作、26.3tも在る大鐘はさすが日本一の圧倒的な量感。大型戦車1両分である。大鐘楼の中では若干の土産品等が置かれ、案内を兼ねた男性が立っていた。それも日に一度午後八時に撞くという。僧侶でも作男でもない。鐘を守るのは大鐘家の屋号の川邊家。明治時代から代々撞手として奉仕しているという。
子規の名句「柿食えば…」は明治28年奈良市の對山楼に泊まった時、柿を食べながら聞いた此の梵鐘が元であるとの説がある。
桜も過ぎて新緑を行く僧侶も長閑だ。
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【週俳3月の俳句を読む】印象、無言、希薄さ 鈴木不意
【週俳3月の俳句を読む】
印象、無言、希薄さ
鈴木不意
青き踏む面白きこと面白く 渡部有紀子
面白きこととは何を指しているのかわからないが、「青き踏む」にはそれ自体が楽しいことを含んでいるから、読み手としてはその楽しさを「面白きこと面白く」によって追体験しているような感がある。繰り返すことで印象を深めた句だ。
春灯表紙の顔のありふれて 永山智郎
書店に並ぶ雑誌の表紙写真を思い浮かべた。ことに女性誌の表紙である。モデルは違っていても似たり寄ったりのイメージしか残らない。夜遅くまで開いている地元の書店には仕事帰りの若者を多く見かける。雑誌のコーナーが殊に賑わうが皆無言である。
草餅やビルからビルの影へ出て 永山智郎
街を意識する句だ。季節に関係なく買える草餅だが、蓬の萌える頃は昼の明るい光が気持ちいい。明るい日差しの分だけ影の色も濃くなっている。掲句は作者の足取りであろうか。ビルの内から外へ踏み出したらビル自身の影からは出ていなかった。しかし影の及ばない先は日差しで明るいのだ。影の中のから見える明るさへの安心感が湧いたのではないか。
凧手応へだけになつてをり 西川火尖
これは高所で安定した凧なのだろう。十分な風を受けた凧はこんな具合で、手に持つ糸からは凧の揚力だけが伝わってくる。そうでないときは他に何かあるかと言えばやはり手応えだ。手応えの違いを証明してもしょうがない。この凧の手応えとは敢えて言うなら、穏やかな手応えということだろう。
他の句にある「空転」「試聴」「端折る」「心地」「余熱」の言葉にあるような実態の弱い希薄さに作者は興味があるらしい。
面白きこととは何を指しているのかわからないが、「青き踏む」にはそれ自体が楽しいことを含んでいるから、読み手としてはその楽しさを「面白きこと面白く」によって追体験しているような感がある。繰り返すことで印象を深めた句だ。
春灯表紙の顔のありふれて 永山智郎
書店に並ぶ雑誌の表紙写真を思い浮かべた。ことに女性誌の表紙である。モデルは違っていても似たり寄ったりのイメージしか残らない。夜遅くまで開いている地元の書店には仕事帰りの若者を多く見かける。雑誌のコーナーが殊に賑わうが皆無言である。
草餅やビルからビルの影へ出て 永山智郎
街を意識する句だ。季節に関係なく買える草餅だが、蓬の萌える頃は昼の明るい光が気持ちいい。明るい日差しの分だけ影の色も濃くなっている。掲句は作者の足取りであろうか。ビルの内から外へ踏み出したらビル自身の影からは出ていなかった。しかし影の及ばない先は日差しで明るいのだ。影の中のから見える明るさへの安心感が湧いたのではないか。
凧手応へだけになつてをり 西川火尖
これは高所で安定した凧なのだろう。十分な風を受けた凧はこんな具合で、手に持つ糸からは凧の揚力だけが伝わってくる。そうでないときは他に何かあるかと言えばやはり手応えだ。手応えの違いを証明してもしょうがない。この凧の手応えとは敢えて言うなら、穏やかな手応えということだろう。
他の句にある「空転」「試聴」「端折る」「心地」「余熱」の言葉にあるような実態の弱い希薄さに作者は興味があるらしい。
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自由律俳句を読む 135 「鉄塊」を読む〔21〕 畠働猫
自由律俳句を読む 135
「鉄塊」を読む〔21〕
畠 働猫
ゴールデンウィークの前半が終わります。
私は暦通りの休日。3連休が2回ある感じですね。
車検に出している車が、修理のため連休明けまで帰って来ないため、遠出も絶望的なゴールデンである。
シャーシが錆びてぼろぼろになってしまっていて、すべて交換すると85万円という見積もりが出た。しかし同じ修理工場の中の古参の方が補強修理で20万くらいでやってくれることになり、お願いした次第。
時間がかかるのはやむを得ない。
もっとも北海道は天候不順で、今この時も雪が降り風が吹き荒れているので、もともと出かけるのは無理だったのかもしれない。
などと思いつつ猫とごろごろしているばかりである。
今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十二回(2014年3月)から。
文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。
◎第二十二回(2014年3月)より
見限らない事が償い 中筋祖啓
△親であろうか。不孝を尽くしてきたのだろう。しかし親もいつか老い、介護が必要になった。かつての償いとしてその世話をするが、徐々に恍惚となっていく親を見限らずにいるためには、自らに何らかの枷をかけなくてはならない。それは愛ではなく、罪の意識なのかもしれない。(働猫)
私は母親の介護をしている。
しかし、小さなころから取り立てて「母親」に対して愛情を感じたことがない。
田舎の特性であったものか、自分には「母親」代わりになってくれる人が複数いた。母親は仕事などで家を空けることが多かったが、幼いころから誰か彼かが自分の面倒を見てくれていた。
それはそれで幸福であったかもしれないが、母親に対する愛着はうまく形成されなかったように思う。
その点で兄とは対照的であり、兄と母とは愛憎を募らせ合う関係であるように見えていた。母は兄には過干渉であったし、兄が家を出て帰らなくなったのも愛情と憎悪の両方の表れであろうなあなどと感じている。
自分にとって母は常に迷惑な存在だった。
浪費癖があり、いつも借金を抱えていて、よく居所がわからなくなった。
自殺した父。不安定な兄。そして母。
その誰をもすべて、自分はうまく愛せていないのではないだろうかと思う。
ただその「家族」に対して責任だけを感じている。
「家族」以外に対しては、自分でも愛情深い方だと思う。家族を愛せない反動かもしれない。家族だけを愛せないのだ。
母が心臓の手術中に脳梗塞を起こし、その後半身不随と失語となったときも、ごく自然にその介護は自分の役割になった。
愛情ではない。
むしろ愛せないことの償いとして自分は責任を感じているのだと思う。
この句は、自分のそうした境遇を深くえぐる。
あえて飛び乗れるカラス 中筋祖啓
△走っている車のボンネットとか、鳥よけに置いた案山子だとか。「あえて」行うところにカラスの頭のよさが表れている。(働猫)
カラスは本当に頭がいい。私たちはあれを害鳥扱いするのをやめて何か有効利用することを考えるべきではないか。
ドローンを鷹で追うような取り組みもあるのだから。
少しだけかすらせてから引き寄せる 中筋祖啓
△何かのゲームであろうか。(働猫)
往年の名ゲーム「イース」には「半キャラずらし」という半ば攻略に必須の裏技があったが、そういうことなのかしらん。
または「孫子」のような兵法であるのかもしれない。なにかしらの攻略法なのだろう。
嘲笑の響く夕暮れの美容室 藤井雪兎
○自らが所属できない集団や場所に対する不安を表しているのだろう。鬱を患えば子供の声が恐ろしくなるように、その時の精神状態によって、日常の至るところに自らを攻撃する恐怖は潜む。「夕暮れの美容室」の象徴するものは、女性であろうか、そばにいてくれない母親であろうか。(働猫)
この回の雪兎の投句には、その闇の部分が垣間見られる。
逢魔が時に潜む、原初の、あるいは幼児期の恐怖がこの句にはあるように思う。
人混み抜けて指が十本ある 藤井雪兎
△対人恐怖や集団恐怖を表現しているのかもしれないが、あまりにも放哉である。五体満足に人混みを抜けることができないのではないか、そんな不安を表現するのであれば、指が十本以外の発見を詠むべきであろう。(働猫)
抑うつ状態にあるとこうした息苦しさを覚えるものである。
私たちはこの国でどんどん疲弊し、それでも明日を信じて健気に生きているというのに、この国はどんどん貧しくなっていく。これはおそろしいことだ。
確かなものにすがるように十本あるはずの指を確認する。
よかった。まだあるようだ。
いつもの扉開け鍵の光る 藤井雪兎
△いつもの扉であってもその先に広がる世界はまったく違うのであろう。鍵の光は兆しであろう。今日は何を見るのか。世界は発見に満ちているはずだ。(働猫)
せめて発見があれば。そうしたわずかな期待を、上記の句評では込めた。
「いつもの扉」には日常に倦んだ様子が見て取れるからだ。
だからこそ「光る」が効果的である。
兆しである。
ゴールデンウィークの後半には何かいいことあったらいいなあ。
春の別れに煙草が震える 風呂山洋三
△平静を装いたいのだろう。しかし煙草を持つ指は細かく震え、別れの苦しみを露わにしてしまう。そしてその喪失の大きさに自分自身も気づいてしまうのだ。(働猫)
喫煙者ではないため、煙草を小道具として使われると、それだけで自分には詠めない句だなあと感じる。
微かな震え、瞬間を切り取ったよい句だと思う。
夜の公園小さな火を灯す 風呂山洋三
○放火魔の句ともとれるが、そうは読まないことにする。火は煙草の火であろうか。眠れずに歩いているのだろう。昼間は子供達の声で賑わう公園も今は人気がなくどこか物悲しい。まるで地球上に自分一人しかいなくなってしまったかのような錯覚に陥り、自らの存在を示すために(あるいは確かめるために)火をつけたのだろう。ぽつりと点いた火は小さく、世界に自分が影響できる大きさを示しているようでもあっただろう。(働猫)
良句と思う。
すでに当時の句評で述べている通りである。
缶コーヒー握る夜があったかい 風呂山洋三
△たぶん、缶コーヒーはもらったものなのだろう。身体が感じるあたたかさには精神状態が大きく影響するものだ。ちなみに北海道において、缶コーヒーで暖をとろうとすれば、春先に雪の下から発見されることになる。(働猫)
北海道の恐ろしさは再三伝えてきたがすべて真実である。
猫の墓にできていたシーソー 十月水名
△実家の庭であろうか。小さなころともに暮らした猫を埋めた墓。久しぶりに帰ってみれば、その場所には、兄の子供のために据えられたシーソーがあった。諸行無常を感じながら、兄に流れた時間と自分に流れた時間を比べているのかもしれない。(働猫)
この回の十月の投句は、これまで、そして現在のメソッドとは趣を異にしているように思う。
意味を意味のまま読める。
そして極めて抒情的である。
あの猫さっきもおったでおっちゃん 十月水名
◎「あ(a)の猫さ(sa)っきもお(o)ったでお(o)っちゃん」偶然であるが、韻の踏み方が自句の「た(ta)どりついた羽(ha)蟻を看(mi)取るリ(li)ノリウム」と同じであったので、すぐに意識的な配置と判断できた。内容もほのぼのした情景が想像できてとてもいい。通りに面した床几に座っているのだろうか。それとも公園のベンチか。猫好きなおっちゃんとそれほど猫好きでもない作者との心の交流が微笑ましく描かれている。(働猫)
当時特選に取った。
微笑ましい景である。
花びら埋めるたぶん最後のひとり 十月水名
△抒情的ではあるが、実際にはよくわからない場面だ。一生懸命考えてみる。ダムに沈むことが決まった村。村にある分校では、代々伝えられてきたおまじないがあった。花壇の花びらを拾い、校庭の大きな欅の根元に埋めると、願いが叶うのだ。分校に通う小学生は、もう健一と美智子だけになってしまった。ついに健一の家も引っ越すことが決まった。美智子は再会を願って花壇の花びらを埋める。健一の家族は九州に行くのだという。美智子は北海道へ行くことが決まっていた。幼い二人の恋が感動の結末を迎える。「花びら埋めるたぶん最後のひとり」来春公開予定。(働猫)
我ながら全く見たいと思えない映画だ。
猫殴るお前弱ってきた春寒 小笠原玉虫
△DV男(女)もようやく弱ってきたのか。猫の呪いであろう。(働猫)
とりあえず季語を入れた。そんな感じがしてしまう。
「猫殴る」ストーリーと「春寒」のストーリーが共鳴しない。
猫殴る者にはバステト神の呪いあれ。
店長お前とは話しとうない昼飯 小笠原玉虫
○「あの猫」の句もそうだが、口語を追求していくとこうした方言にも可能性は広がっているのだろうと思う。北海道には方言がないので少しうらやましく思うべさ。バイト先の人間模様であろうか。自分もかつてステーキヴィクトリアでバイトしていたころのことを思い出した。昼夜にまかないをとることができたのだが、嫌われ者の店長はいつもカレーで5分くらいでかきこんですぐに仕事に戻っていた。仕事好きだっただけではあるまい。嫌われるということは相当なストレスなのだ。作者にはもう少し大人になって、憐憫の心をもって店長に接してもらいたいとも思う。(働猫)
あったなあ。ヴィクトリアのこと。
家族のことは上の方で書いたが、同様に「嫌われ者」に対してもつい自分は責任を感じながらつきあってしまう傾向がある。この店長にもそんな感じで接していたなあ。
そんなことをまた思いだした。
遺されて冴え返る星空をみている 小笠原玉虫
△大切な人を亡くした夜だろうか。よく生きた人なのだろう。悲しみだけではなく、どこかさわやかな見送りとなったことを感じさせる。(働猫)
少し美しすぎるというか、整い過ぎているようにも思う。
映画やドラマのシーンのような虚構性を感じてしまう。
実際には、茫然としていたり、泣き腫らした目が開かなかったりで「星空」の美しさには目が向かないのではないか。
その悲しみを句に昇華しようという修羅の心ではなく、そこから目をそらし、他人事として詠んだように見えてしまう。
夕暮れ遠く子らの駆ける 馬場古戸暢
△幸福な光景を遠い世界のものとして見ている。見えない壁があるように、そちらへは行けない寂しさも表現されているのだろう。(働猫)
ガラスの天井、あるいはショウウィンドウのように、見えているのに手が届かない。そんな幸福の景のように感じた。
それは私自身の問題なのかもしれないが、古戸暢の句にはしばしば同様の匂いを感じてしまう。
紅梅も白梅も満月 馬場古戸暢
△月夜梅を見ながら歩いているのだろう。酒が入っているように感じる。きちんと家に帰れたのならよいが。ちなみに北海道では梅は桜のあとに咲きます。(働猫)
札幌でも今週桜が咲いたが、そのあと再び降った雪や風でどうなってしまったことか。梅見酒もこんな夜では遭難しかねないな。
今日を終えるココアぬくい 馬場古戸暢
△大変な一日であったのだろう。ナカトミビルを占拠したテロリストグループを壊滅したか、ダレス国際空港で飛行機の墜落を阻止したか。ゆっくりと休んでほしい。(働猫)
「ダイ・ハード」や「マトリックス」を初めて見たときの興奮を今でもおぼえている。それまではアクション映画をどこか下に見ていて、文学的で抒情的なものを上位に考えていた。非常に中二的である。
「ダイ・ハード」におけるブルース・ウィリスの良さは、そこらにいそうなおっさんが、さまざまなものを利用して活躍するところであり、それをさらに洗練させたのが「トランスポーター」のジェイソン・ステイサムだろう。
日常で疲れがたまっていると、難解な映画なんて見ていられないものだ。
ハッピーエンドでスカッと爽快。ココアを飲んで眠るのがよい。
* * *
以下三句がこの回の私の投句。
噛むごとに夜は白む 畠働猫
たどりついた羽蟻を看取るリノリウム 畠働猫
別々のベッドから月見えて寝る 畠働猫
「噛むごとに~」はこの回の最高得点句となった。
しかし自分では色っぽい句のつもりで作ったのだが、鉄塊の連中ときたら、あたりめ、ガム、白米などを感想で挙げており潤いがないなあと感じた。
猫の句がなんだか多かった回である。
空前の猫ブームだったのだろうか。
自分もよく詠んでしまうのだが、猫や月や雨を詠むとなんとなく句になってしまうものだ。
陳腐に堕すことがないように気をつけなくてはならない。
しかしそれらが私たちの生活に密接に関わり、心身に影響を与えていることは疑いがない。句材になりやすいのは自然なことだろう。
少なくとも私にとっては、月と猫はいつも救いとして在るように思う。
次回は、「鉄塊」を読む〔22〕。
↧
〔その後のハイクふぃくしょん〕黒湯 中嶋憲武
〔その後のハイクふぃくしょん〕
黒湯
中嶋憲武
朝、目が覚めた時、部屋の奥まで明るかったので、やっちゃった、不覚、と思って時計を見たら、まだ早い時刻だったので、もうちょっと寝ようと思ったその時、そうだ、今日は日曜だったんだと気がつき、更なる喜び。わたしの回りに薔薇の花が咲き、安心して寝よう、深く眠ってしまおうと決めた。
久し振りにおもては晴れているのだろうか。猫のミネコは部屋へ入って来なかった。中庭に面した日の射し込む廊下のマットの上で、眠りこけているのかもしれない。
春陰という言葉があるように、ここ数日、どんより暗く、曇ったり降ったりの天気だったが、今朝はからりと晴れているので、目が覚めた時、思いのほかの明るさに、はっとしたのかもしれない。
とにかく寝よう。極楽極楽、甘露甘露。帰命頂礼。
つぎに目が覚めたのは、軽く十時を回った頃だった。どうも胸の辺りが重いと思ったら、ミネコが澄ました顔で乗っている。部屋へ入って来て、わたしの胸の上でお休みになったようだ。ミネコちゃん、おはようと言うと、掠れた声で小さく、ニャ、と返事をして、わたしの胸を前足で揉み始めた。爪が伸びているのか、少し痛い。切ってあげなきゃ。二、三回背中を撫でてやると、気分が変わったのか、わたしからぱっと離れてしまった。
階下の居間から、母とお姉ちゃんが陽気に話している声が聞こえる。朝食の仕度をしているのだろう。お味噌汁のいい香りがしてきた。今朝は大根だな。
お姉ちゃんは社会に出てから、この春で三年目だ。小さな商事会社の総務部に勤めている。学生時代はバンド活動に熱心だったが、社会に出ると、ぱったりと辞めてしまった。わたしにはその辺の心境が分からない。実力の差というものを思い知ったか、もともとそれほど好きでもなかったのか。そこは聞いてはいけないような領域の気がして、ずっと聞かずにいる。
起きて居間へ行くと、お姉ちゃんが食卓に箸を並べているところだった。母は、わたしに、「これ、お父さんに上げて来て」と、ごはんを高く盛った仏飯器を差し出した。父は去年の夏、胃癌で亡くなった。父が亡くなって、一週間位は、道を歩くにしてもふわふわと雲の上でも歩いてるみたいに、自分が頼りなくて、掴みどころのない日常の中にいた。それは母もお姉ちゃんも、きっとそうだったろう。
悲しみは後からやって来る。午後のプールの帰り道、不意に涙がぽろぽろ出て、油蝉のジリジリ鳴く、灼けたアスファルトに、自分の影がくっきりと動いて、それだけが別の意志を持って動いているように見えたのを、不思議に思っていた。
父にごはんを供え、手を合わせて目をつむっている間、そんな事をふと思い出した。
居間へ戻ると、母とお姉ちゃんが待っていた。五穀米と大根のお味噌汁、焼きたらこ、梅干、納豆、海苔、お漬け物。窓から差す午前の日に、白い湯気が立ち昇って、豪華だ。なんと言うか、この一瞬が豪華。この一瞬に立ち会えた事が豪華。豪華さなんて、ひととき感じるものでいい。
「ミネちゃんは、かんなの部屋?」お姉ちゃんは納豆をぐるぐる掻き回しながら言った。
「ううん、出て行ったけど」
「どうしてミネコは、かんなにべったりなんだろ。かれん、なんかミネコの悪口でも言ってるの?」母は梅干をごはんに載せながら言った。
「言ってないよ。意外と猫は悪口分かるからね。気をつけてる」納豆をさっきよりも加速させてぐるぐる。
「どうしてわたしにべったりなのか、分かんない。匂いかな。それとも前世が猫だったとか」
「かんなには、ミネコのご飯、買えないのにね。わが家の人間関係の優先順位は、理解してないのかな」
「そこが犬と違うところね」母が決めつける。
稼ぐ優先順位だったら、薬剤師のパートをしている母が一位だろう。その次がお姉ちゃん、三番目がたまにアルバイトするわたしという事になるのだけど、どういう訳か、わたしはミネコに大事にされている。
午後は本を少し読んで、少し寝た。朝は晴れていたのに、曇っている。わたしの回りに薔薇の花が萎み始め、憂鬱よ、こんにちは。
庭のコブシが見事に咲いて、その白い花を見つめているうちに、小学生の頃、お姉ちゃんとよくやった「タイトルアクション」という遊びを思い出した。「タイトール、アクションッ」と唐突に叫んで始めるのが、この遊びのしきたりだった。
わたしとお姉ちゃんは、学校の図書室でよく本を借りていて、「アッシャー家の崩壊」とか「モルグ街の殺人」とか借りて来ては、タイトルを身体の動きでパフォーマンスしてみた。例えば「アッシャー家の崩壊」だったら、「アッシャーッ」と奇声を挙げてジャンプする。この時の空中での姿勢も工夫が必要で、ランニングのポーズだったり、大の字のポーズだったりと、いろいろやってみた。次に「けの」で、右手を挙げて、左手は丸めて腰に当てる。「ほう」で両手をまっすぐ頭上に挙げて、そのまま上体を横に倒す。「かい」で、くるりと一回転して前に戻って来たところで、両手を斜め下に広げて、決めのポーズ。つまり言葉と動作は、何の関係もなく、その時のひらめきに頼って、面白いと思える動作をして、タイトルとの乖離を楽しんだ。
お姉ちゃんの「モルグ街の殺人」は、とてもシンプルだ。「モルグ」で、頭を両手で抱え、膝を折って中腰になる。「がいの」で両手を斜め下に開き、てのひらをこちらに向け、両足を肩幅に開いて立つ。「さつ」で開いていた両手両足をクロスさせる。「じん」で再び、両手両足を開く。わたしはそのシンプルさが、とても壷に嵌まってしまい、お腹を抱えて笑い転げたものだ。
母の、あらあ、困っちゃったわあ、という声で目が覚めた。仏間でまた眠ってしまったのだ。時計を見ると四時に近い。読みかけの本を開いてみて、また閉じる。のそのそと起きて母に聞いてみると、給湯器の故障で、お風呂のお湯が温かくならないのだと言う。
「あなた達、今日はお風呂屋さんに行ってくれない?」母にそう言われて、わたしとお姉ちゃんは、近所の天馬湯へ行く事にした。
何年ぶりだろう。小学生の頃、友達数人とよく行った。みんなでワイワイとお風呂へ入るのが、特別なイベントであったなあ。わたし達が、とんま湯と呼んでいた天馬湯は、外観は普通の銭湯だけど天然温泉で、一階は温泉、二階は休憩場で舞台もある。最近は落語家を呼んだりもしているらしい。
この温泉には、黒湯という通称の濃い茶褐色の熱いお風呂があって、わたしとお姉ちゃんはモカ風呂と言っていた。そのお風呂の色を見ると、なんだか懐かしく、お姉ちゃんとそろそろとつま先を入れてみた。子供の頃は、二分と入っていられなかったが、浸かってみるとそんなに熱くないような気がした。
「思ってたほど熱くないね」
「あの壁、明るくなってない?」
お姉ちゃんには、湯加減があまり気になってないようで、懐かしそうに辺りを見回している。
わたし達の胸から下は暗褐色に溶け込んで、足元は全く見えない。じわじわと足元から熱くなって来た。
「やっぱり熱いや。出るね」わたしは浴槽を出て、湯冷まし休憩所へ出るガラス戸を押した。外の空気がひんやりとして気持ちいい。六畳ほどのスペースは、高い仕切りに囲まれて、おもてからは見えないようになっている。ここはたしか露天風呂だった筈だ。藤製の長椅子に腰かけた。周囲には、シマトネリコ、アガパンサス、ハイノキ、フェイジョア、ヒューケラなどが植えられていて、気分が安らぐ。
お姉ちゃんはと見ると、結露したガラスの水滴の点描の中に沈思黙考している。ああやって、お姉ちゃんはよく考え事をする。
「わたしね、考えちゃうんだ。いろいろ。考えていないと、わたしがなくなって行くような気がして」と言っているのを、一度聞いた事がある。わたしはそんな事はない。深くは考えない。ひらめきと直感に頼って来た。そういうところは母に似たのかもしれない。
脱衣所のロッカーの前で、タオルで髪を拭いているお姉ちゃんに、ねえねえとお風呂から上がったばかりのわたしは声をかけた。なに?と振り返ったお姉ちゃんと目の合った瞬間、わたしは「アッシャーッ」と叫んでジャンプした。お姉ちゃんの眉間に怪訝そうな皺が寄った。わたしは再び、「アッシャア」と叫んでジャンプした。
「ちょっとお、やめてよお。みんな変な顔して見てるじゃないの」
「昔、よくやったよね」わたしは思い切り無邪気な笑顔を、お姉ちゃんに向けた。そして二度ジャンプした。回りの人達は、無関係無関心といった風を装って白けている。
そんな回りの反応をよそに、わたしの魂はますます荒ぶって、「アッシャー家の崩壊」の動作を完成させた。お姉ちゃんは髪を梳きながら、わたしをじっと見て、「ちょっとお、裸で何やってんのよお」と道理のよく分かった人のような事を言うので、お姉ちゃんに「モルグ街の殺人」の動作を要請した。
お姉ちゃんは黙って髪を梳いていて、全くやる気がない。調子に乗っているわたしは、「モルグ」「がいの」「さつ」「じんっ」と最後に飛び跳ねた。着地した途端に大きなくしゃみが出た。わたしは急速に素に戻って、そそくさと下着を身に付け始めた。
温泉のタイルのぬめり辛夷咲く 北大路翼 『週刊俳句』第415号
黒湯
中嶋憲武
朝、目が覚めた時、部屋の奥まで明るかったので、やっちゃった、不覚、と思って時計を見たら、まだ早い時刻だったので、もうちょっと寝ようと思ったその時、そうだ、今日は日曜だったんだと気がつき、更なる喜び。わたしの回りに薔薇の花が咲き、安心して寝よう、深く眠ってしまおうと決めた。
久し振りにおもては晴れているのだろうか。猫のミネコは部屋へ入って来なかった。中庭に面した日の射し込む廊下のマットの上で、眠りこけているのかもしれない。
春陰という言葉があるように、ここ数日、どんより暗く、曇ったり降ったりの天気だったが、今朝はからりと晴れているので、目が覚めた時、思いのほかの明るさに、はっとしたのかもしれない。
とにかく寝よう。極楽極楽、甘露甘露。帰命頂礼。
つぎに目が覚めたのは、軽く十時を回った頃だった。どうも胸の辺りが重いと思ったら、ミネコが澄ました顔で乗っている。部屋へ入って来て、わたしの胸の上でお休みになったようだ。ミネコちゃん、おはようと言うと、掠れた声で小さく、ニャ、と返事をして、わたしの胸を前足で揉み始めた。爪が伸びているのか、少し痛い。切ってあげなきゃ。二、三回背中を撫でてやると、気分が変わったのか、わたしからぱっと離れてしまった。
階下の居間から、母とお姉ちゃんが陽気に話している声が聞こえる。朝食の仕度をしているのだろう。お味噌汁のいい香りがしてきた。今朝は大根だな。
お姉ちゃんは社会に出てから、この春で三年目だ。小さな商事会社の総務部に勤めている。学生時代はバンド活動に熱心だったが、社会に出ると、ぱったりと辞めてしまった。わたしにはその辺の心境が分からない。実力の差というものを思い知ったか、もともとそれほど好きでもなかったのか。そこは聞いてはいけないような領域の気がして、ずっと聞かずにいる。
起きて居間へ行くと、お姉ちゃんが食卓に箸を並べているところだった。母は、わたしに、「これ、お父さんに上げて来て」と、ごはんを高く盛った仏飯器を差し出した。父は去年の夏、胃癌で亡くなった。父が亡くなって、一週間位は、道を歩くにしてもふわふわと雲の上でも歩いてるみたいに、自分が頼りなくて、掴みどころのない日常の中にいた。それは母もお姉ちゃんも、きっとそうだったろう。
悲しみは後からやって来る。午後のプールの帰り道、不意に涙がぽろぽろ出て、油蝉のジリジリ鳴く、灼けたアスファルトに、自分の影がくっきりと動いて、それだけが別の意志を持って動いているように見えたのを、不思議に思っていた。
父にごはんを供え、手を合わせて目をつむっている間、そんな事をふと思い出した。
居間へ戻ると、母とお姉ちゃんが待っていた。五穀米と大根のお味噌汁、焼きたらこ、梅干、納豆、海苔、お漬け物。窓から差す午前の日に、白い湯気が立ち昇って、豪華だ。なんと言うか、この一瞬が豪華。この一瞬に立ち会えた事が豪華。豪華さなんて、ひととき感じるものでいい。
「ミネちゃんは、かんなの部屋?」お姉ちゃんは納豆をぐるぐる掻き回しながら言った。
「ううん、出て行ったけど」
「どうしてミネコは、かんなにべったりなんだろ。かれん、なんかミネコの悪口でも言ってるの?」母は梅干をごはんに載せながら言った。
「言ってないよ。意外と猫は悪口分かるからね。気をつけてる」納豆をさっきよりも加速させてぐるぐる。
「どうしてわたしにべったりなのか、分かんない。匂いかな。それとも前世が猫だったとか」
「かんなには、ミネコのご飯、買えないのにね。わが家の人間関係の優先順位は、理解してないのかな」
「そこが犬と違うところね」母が決めつける。
稼ぐ優先順位だったら、薬剤師のパートをしている母が一位だろう。その次がお姉ちゃん、三番目がたまにアルバイトするわたしという事になるのだけど、どういう訳か、わたしはミネコに大事にされている。
午後は本を少し読んで、少し寝た。朝は晴れていたのに、曇っている。わたしの回りに薔薇の花が萎み始め、憂鬱よ、こんにちは。
庭のコブシが見事に咲いて、その白い花を見つめているうちに、小学生の頃、お姉ちゃんとよくやった「タイトルアクション」という遊びを思い出した。「タイトール、アクションッ」と唐突に叫んで始めるのが、この遊びのしきたりだった。
わたしとお姉ちゃんは、学校の図書室でよく本を借りていて、「アッシャー家の崩壊」とか「モルグ街の殺人」とか借りて来ては、タイトルを身体の動きでパフォーマンスしてみた。例えば「アッシャー家の崩壊」だったら、「アッシャーッ」と奇声を挙げてジャンプする。この時の空中での姿勢も工夫が必要で、ランニングのポーズだったり、大の字のポーズだったりと、いろいろやってみた。次に「けの」で、右手を挙げて、左手は丸めて腰に当てる。「ほう」で両手をまっすぐ頭上に挙げて、そのまま上体を横に倒す。「かい」で、くるりと一回転して前に戻って来たところで、両手を斜め下に広げて、決めのポーズ。つまり言葉と動作は、何の関係もなく、その時のひらめきに頼って、面白いと思える動作をして、タイトルとの乖離を楽しんだ。
お姉ちゃんの「モルグ街の殺人」は、とてもシンプルだ。「モルグ」で、頭を両手で抱え、膝を折って中腰になる。「がいの」で両手を斜め下に開き、てのひらをこちらに向け、両足を肩幅に開いて立つ。「さつ」で開いていた両手両足をクロスさせる。「じん」で再び、両手両足を開く。わたしはそのシンプルさが、とても壷に嵌まってしまい、お腹を抱えて笑い転げたものだ。
母の、あらあ、困っちゃったわあ、という声で目が覚めた。仏間でまた眠ってしまったのだ。時計を見ると四時に近い。読みかけの本を開いてみて、また閉じる。のそのそと起きて母に聞いてみると、給湯器の故障で、お風呂のお湯が温かくならないのだと言う。
「あなた達、今日はお風呂屋さんに行ってくれない?」母にそう言われて、わたしとお姉ちゃんは、近所の天馬湯へ行く事にした。
何年ぶりだろう。小学生の頃、友達数人とよく行った。みんなでワイワイとお風呂へ入るのが、特別なイベントであったなあ。わたし達が、とんま湯と呼んでいた天馬湯は、外観は普通の銭湯だけど天然温泉で、一階は温泉、二階は休憩場で舞台もある。最近は落語家を呼んだりもしているらしい。
この温泉には、黒湯という通称の濃い茶褐色の熱いお風呂があって、わたしとお姉ちゃんはモカ風呂と言っていた。そのお風呂の色を見ると、なんだか懐かしく、お姉ちゃんとそろそろとつま先を入れてみた。子供の頃は、二分と入っていられなかったが、浸かってみるとそんなに熱くないような気がした。
「思ってたほど熱くないね」
「あの壁、明るくなってない?」
お姉ちゃんには、湯加減があまり気になってないようで、懐かしそうに辺りを見回している。
わたし達の胸から下は暗褐色に溶け込んで、足元は全く見えない。じわじわと足元から熱くなって来た。
「やっぱり熱いや。出るね」わたしは浴槽を出て、湯冷まし休憩所へ出るガラス戸を押した。外の空気がひんやりとして気持ちいい。六畳ほどのスペースは、高い仕切りに囲まれて、おもてからは見えないようになっている。ここはたしか露天風呂だった筈だ。藤製の長椅子に腰かけた。周囲には、シマトネリコ、アガパンサス、ハイノキ、フェイジョア、ヒューケラなどが植えられていて、気分が安らぐ。
お姉ちゃんはと見ると、結露したガラスの水滴の点描の中に沈思黙考している。ああやって、お姉ちゃんはよく考え事をする。
「わたしね、考えちゃうんだ。いろいろ。考えていないと、わたしがなくなって行くような気がして」と言っているのを、一度聞いた事がある。わたしはそんな事はない。深くは考えない。ひらめきと直感に頼って来た。そういうところは母に似たのかもしれない。
脱衣所のロッカーの前で、タオルで髪を拭いているお姉ちゃんに、ねえねえとお風呂から上がったばかりのわたしは声をかけた。なに?と振り返ったお姉ちゃんと目の合った瞬間、わたしは「アッシャーッ」と叫んでジャンプした。お姉ちゃんの眉間に怪訝そうな皺が寄った。わたしは再び、「アッシャア」と叫んでジャンプした。
「ちょっとお、やめてよお。みんな変な顔して見てるじゃないの」
「昔、よくやったよね」わたしは思い切り無邪気な笑顔を、お姉ちゃんに向けた。そして二度ジャンプした。回りの人達は、無関係無関心といった風を装って白けている。
そんな回りの反応をよそに、わたしの魂はますます荒ぶって、「アッシャー家の崩壊」の動作を完成させた。お姉ちゃんは髪を梳きながら、わたしをじっと見て、「ちょっとお、裸で何やってんのよお」と道理のよく分かった人のような事を言うので、お姉ちゃんに「モルグ街の殺人」の動作を要請した。
お姉ちゃんは黙って髪を梳いていて、全くやる気がない。調子に乗っているわたしは、「モルグ」「がいの」「さつ」「じんっ」と最後に飛び跳ねた。着地した途端に大きなくしゃみが出た。わたしは急速に素に戻って、そそくさと下着を身に付け始めた。
温泉のタイルのぬめり辛夷咲く 北大路翼 『週刊俳句』第415号
↧
【八田木枯の一句】母戀ひの春のともしを袖圍ひ 田中惣一郎
【八田木枯の一句】
母戀ひの春のともしを袖圍ひ
田中惣一郎
今も昔も夜は変わらず暗いものなのだけれど、現代ではあかりをとるために使われる本物の火を見ることはまれだろう。キャンプ用のランタンでさえ電気で光るものがほとんどであれば、灯火といって普通にイメージされるものはだいたい電気の光であることが多い。
母戀ひの春のともしを袖圍ひ 八田木枯
『於母影帖』(1995)所収の掲句の春灯ははっきりと火である。油皿に灯芯が立って燃えているような、今はもう生活の中では見られなくなった火を思わせる。
その火が母恋いの象徴であると言えば、感傷が春の灯に趣を一層加えもするし、袖囲いにしてしまえば自分の体に近づいた灯の温度を切に感じることだろう。
昔から変わらず何かにつけ夜は感じやすい時間で、灯火が本物の火でなくなった今でも夜のひかりはなやましく光る。
母戀ひの春のともしを袖圍ひ
田中惣一郎
今も昔も夜は変わらず暗いものなのだけれど、現代ではあかりをとるために使われる本物の火を見ることはまれだろう。キャンプ用のランタンでさえ電気で光るものがほとんどであれば、灯火といって普通にイメージされるものはだいたい電気の光であることが多い。
母戀ひの春のともしを袖圍ひ 八田木枯
『於母影帖』(1995)所収の掲句の春灯ははっきりと火である。油皿に灯芯が立って燃えているような、今はもう生活の中では見られなくなった火を思わせる。
その火が母恋いの象徴であると言えば、感傷が春の灯に趣を一層加えもするし、袖囲いにしてしまえば自分の体に近づいた灯の温度を切に感じることだろう。
昔から変わらず何かにつけ夜は感じやすい時間で、灯火が本物の火でなくなった今でも夜のひかりはなやましく光る。
↧
ふてぶてしい季語 吉田竜宇
ふてぶてしい季語
吉田竜宇
季語とはなにか。おれは俳人だぞというにんげんならもちろん一家言あるところだが、乱暴に括ったもののなかのひとつとして、季語により季感をあらわすというものがある。つまり季語とは、俳句を前にしたときの俳人ならではの了解として、ある共通の感覚を呼び起こすものであり、その共感を土台として、そこに込められた思いだとか、情景だとかを読み解くというのである。伝統的な情緒であれ、現代的な風物であれ、梅ならこんな、桜ならあんなと、裏切られることのないものを前提にして、それをどう丸めこむか、あるいはひっくりかえすか、それは俳句の楽しみのひとつである。
もちろん問題がないこともなく、技術的な枝葉末節にとらわれがちになったり、いわゆる季題趣味に陥って、本質論を語る機会を失ったりすることもありうる。また、同時代的な感覚を過去にまで拡大し、俳句は日本人の歴史だ伝統だというような色を帯びた論調にもなるが、これにはいろいろな注意を要する。旧暦からの移行に伴うごたごたや、「~忌」などに代表されるような人工的な季語の問題もあるが、それはそれとして、季語すなわち季感との理解は、実際わかりやすく、俳句のなかでなにが描かれたか、あるいは描かれようとしたか、巧拙は別として、大筋の理解が外れることはあまりない。例えば句会などの場においては、議論をさばきやすく、また、有季無季の議論においても、別になくてもいいけれどあったほうがわかり良いよと、上からの折衷案でお茶を濁すこともできる。
わたくしも、文句があるわけではない。しかしこれは、季語を仲介とした、俳人同士での約束であろう。俳人であるただひとりが、ただひとつの俳句、つまりその定型とどうやりとりをするか、というところで、また別の約束があるはずである。
朝顔や百たび訪はば母死なむ 永田耕衣
二つづつ乳房牡丹を通り抜け 宇佐美魚目
かあさんはぼくのぬけがらななかまど 佐藤成之
近い無限がまた遠くなり蛞蝓 竹中宏
これらの季語は、共感や理解とは程遠いところにありながら、身をひるがえして驚異を見せつけるでもなく、句のなかにふてぶてしい顔をさらしている。
たとえ優れた柔道家であっても、道着をつけない相手には、襟首も袖もつかめず、技をかけることができない。そして俳句定型は、俳人に向かって、かまえも見せず、まはだかで佇んでいる。季語とは、そこに着せる道着であり、あるいはいっそ、攫んでひきずり回す鼻づらである。取組はあざやかに仕組まれる。わしづかみにしていたはずが、気づけばつかまれて、その軌跡を目にしたわたくしたちもまた、もろともにひきずり回される。
吉田竜宇
季語とはなにか。おれは俳人だぞというにんげんならもちろん一家言あるところだが、乱暴に括ったもののなかのひとつとして、季語により季感をあらわすというものがある。つまり季語とは、俳句を前にしたときの俳人ならではの了解として、ある共通の感覚を呼び起こすものであり、その共感を土台として、そこに込められた思いだとか、情景だとかを読み解くというのである。伝統的な情緒であれ、現代的な風物であれ、梅ならこんな、桜ならあんなと、裏切られることのないものを前提にして、それをどう丸めこむか、あるいはひっくりかえすか、それは俳句の楽しみのひとつである。
もちろん問題がないこともなく、技術的な枝葉末節にとらわれがちになったり、いわゆる季題趣味に陥って、本質論を語る機会を失ったりすることもありうる。また、同時代的な感覚を過去にまで拡大し、俳句は日本人の歴史だ伝統だというような色を帯びた論調にもなるが、これにはいろいろな注意を要する。旧暦からの移行に伴うごたごたや、「~忌」などに代表されるような人工的な季語の問題もあるが、それはそれとして、季語すなわち季感との理解は、実際わかりやすく、俳句のなかでなにが描かれたか、あるいは描かれようとしたか、巧拙は別として、大筋の理解が外れることはあまりない。例えば句会などの場においては、議論をさばきやすく、また、有季無季の議論においても、別になくてもいいけれどあったほうがわかり良いよと、上からの折衷案でお茶を濁すこともできる。
わたくしも、文句があるわけではない。しかしこれは、季語を仲介とした、俳人同士での約束であろう。俳人であるただひとりが、ただひとつの俳句、つまりその定型とどうやりとりをするか、というところで、また別の約束があるはずである。
朝顔や百たび訪はば母死なむ 永田耕衣
二つづつ乳房牡丹を通り抜け 宇佐美魚目
かあさんはぼくのぬけがらななかまど 佐藤成之
近い無限がまた遠くなり蛞蝓 竹中宏
これらの季語は、共感や理解とは程遠いところにありながら、身をひるがえして驚異を見せつけるでもなく、句のなかにふてぶてしい顔をさらしている。
たとえ優れた柔道家であっても、道着をつけない相手には、襟首も袖もつかめず、技をかけることができない。そして俳句定型は、俳人に向かって、かまえも見せず、まはだかで佇んでいる。季語とは、そこに着せる道着であり、あるいはいっそ、攫んでひきずり回す鼻づらである。取組はあざやかに仕組まれる。わしづかみにしていたはずが、気づけばつかまれて、その軌跡を目にしたわたくしたちもまた、もろともにひきずり回される。
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週刊俳句 第471号 2016年5月1日
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後記+プロフィール
後記 ● 村田 篠
今年もゴールデンウィークが終わりました。お休みにお出かけになった方も多いのではないでしょうか。句会もたくさん行われたことと思います。
いつのまにか「山の日」という国民の祝日ができていたりしてびっくりしますが、祝日を増やして休むことを奨励しても、特定の日に人出がかたまってしまうと、結局疲れます。それよりは、お勤めの人たちが、なるべくばらけて休みを取れるようなシステムを広め、休みやすくする方が、いろいろと効率が良いと思うのですが、日本人の国民性なのか、なかなかそうはいかないようです。
私の今年のゴールデンウィークは、句会1回、書道1回、映画2本、麻雀1回、猫のボランティア1回、お出かけなし。大好きな同年代の漫画家の訃報がひとつ。
●
それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
今年もゴールデンウィークが終わりました。お休みにお出かけになった方も多いのではないでしょうか。句会もたくさん行われたことと思います。
いつのまにか「山の日」という国民の祝日ができていたりしてびっくりしますが、祝日を増やして休むことを奨励しても、特定の日に人出がかたまってしまうと、結局疲れます。それよりは、お勤めの人たちが、なるべくばらけて休みを取れるようなシステムを広め、休みやすくする方が、いろいろと効率が良いと思うのですが、日本人の国民性なのか、なかなかそうはいかないようです。
私の今年のゴールデンウィークは、句会1回、書道1回、映画2本、麻雀1回、猫のボランティア1回、お出かけなし。大好きな同年代の漫画家の訃報がひとつ。
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それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
no.472/2016-5-8 profile
■広渡敬雄 ひろわたり・たかお
1951年福岡県生まれ、「沖」同人、「青垣」会員、「塔の会」会員、俳人協会会員。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)。2012年角川俳句賞受賞。
■橋本 直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。「俳句の創作と研究のホームページ」
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
■堀下翔 ほりした・かける
1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。筑波大学に在学中。
■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』を上梓。
■陽 美保子 よう・みほこ
1957年島根県生まれ、札幌市在住。俳人協会会員、「泉」同人。第22回俳壇賞、句集『遥かなる水』にて第16回北海道俳人協会賞。
■西村 麒麟 にしむら・きりん
1983年生れ、「古志」所属。 句集『鶉』(2013・私家版)。第4回芝不器男俳句新人賞大石悦子奨励賞、第5回田中裕明賞(ともに2014)を受賞。
■畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。
■西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter
■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」
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〔今週号の表紙〕第472号 くらやみ祭り 西原天気
〔今週号の表紙〕
第472号 くらやみ祭り
西原天気
「くらやみ祭り」は5月3日から6日にかけて東京都府中市・大國魂神社で執り行われる例大祭(詳しくはWikipediaをどうぞ)。
第472号 くらやみ祭り
西原天気
「くらやみ祭り」は5月3日から6日にかけて東京都府中市・大國魂神社で執り行われる例大祭(詳しくはWikipediaをどうぞ)。
神事・行事が豊富ですが、なかでも巨大な太鼓がスペクタクル。音響的にも充分な威厳を備えています(末尾の動画だと、大音響が伝わりにくい。近くにいると腹部に響くほどです)。
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