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2017落選展を読む 5「岡田由季 手のひらの丘」 上田信治

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2017落選展を読む 
5「岡田由季 手のひらの丘」

上田信治

岡田由季 手のひらの丘 ≫読む


一〇〇〇トンの水槽の前西行忌

巨大な水槽の水の質量を食い止めているガラスの前で、この人は、その水が1000トンであることを思っている。それは、日常において死を想うことのメタファーと言ってしまってよいだろう。

「西行忌」といえば漂泊と、俳句では決まったようなものだけれど、大量の水の前で「たまたま死なないでいる」一瞬を、西行という人の生涯や作品に対置する。作者の、人生的なものをあつかう神経は、ヒリッと冴えている。

日常にむかうカジュアルな意識と、その少し外を見る非日常の認識。この作者の句の領域は、ふたつの世界にまたがってあり、文体も相応に書き分けられている。

露台より芦屋の街と海すこし
花槐留学生の集ふカフェ
走り出しすぐ消灯にスキーバス


これらは、まったく日常の意識。

「芦屋」「カフェ」「スキーバス」といった対象にむかって動く気持ちはごくわずかなのだけれど、そこに極微量の気持ちよさと面白さがある。文体的には、歌わずとてもフラット。

能面は顔より小さしきりぎりす
象の眼に微かなる酔ひ秋の暮
木枯に象の手触り残りをり
蒲の絮むかしの音を拾ひけり
鳥籠に指入れてゐる三日かな


これらは、日常の「外」へ向けられた認識。

「能面」「象」「蒲の絮」「鳥籠」といったオブジェを起点として、その向こう側にむけてはたらく五感を仮構して、そのカンジを引き寄せようとしている。言葉は、俳句らしい節を得て、歌を志向していると感じる。これらの句には、逆に日常意識らしきものは見えないのだけれど、次のような句。

熱帯夜骨煎餅を齧りをり
光源の方へ歩けば蕪かな
餅を待つ列の静かに伸びてをり


ここで選ばれる「骨煎餅」「蕪」「餅」という(オブジェと呼ぶには行儀の悪い)ブツたちの、面がまえがもたらすユーモアが、カジュアルな意識とミスティックな認識に橋を架けている。

というか、これらは二領域に架かる橋のような句だ。カジュアルさと神秘性がまじわらず、共存している。楽しい。

木琴のとなり鉄琴秋日差す〉〈灯台の小さき敷地や冬の鳥〉〈中国語話せさうなる昼寝覚〉〈バレンタインデー吹替の笑ひ声〉〈頭蓋骨同士こつんと冬初め〉などは、日常に、すこしの非日常あるいは向こう側のエッセンスを加えて、平成俳句の典型をなすような佳句。

第一句集『犬の眉』(2014)集中にも〈間取図のコピーのコピー小鳥来る〉〈デパートの海側にゐる冬初め〉〈空蝉を集めすぎたる家族かな〉〈自動ドアひらくたび散る熱帯魚〉〈触れられぬ茶碗がひとつ遠き雷〉〈運動会静かな廊下歩きをり〉と、このタイプの佳句良句が多くある。

ただ今回の50句を読んで、『犬の眉』の〈検眼の明るき世界水草生ふ〉〈犬の眉生まれてきたるクリスマス〉〈映画村あちこちめくりかたつむり〉〈七夕の仮設の道を歩きをり〉といったある種おさまりのわるい奇妙な句が、魅力的であったことを、思い出した。

「検眼の明るき世界」「犬の眉生まれてきたる」「映画村あちこちめくり」は、日常と非日常のブレンドたる幻想なわけだけれど、今回の50句中、自分がもっとも長く立ち止まった句は、

モノポリー蜆が砂を吐く間

この句、台所俳句のようだけれど妙なところがあって、え? 蜆に砂を吐かせて、その間にモノポリー? だれと? 平日にお客さんですか?

現実に引きつけて読めば、家事のすき間時間に、オンラインモノポリーを一人でやってるという情景だろうか。蜆が砂を吐くほどの意識で手を動かし計算をし、まったく自意識から解放された結果、もはや自由も退屈も感じない砂色の時間。蜆をただしく春の季語として、遅日の夕闇と薄寒さが迫る部屋でと読むことも可です。

「骨煎餅」や「餅」や「仮設の道」のように、ここにもまた、カジュアルさと神秘性が市松模様の白黒のようにまじわらずに両方あって、ああ変な感じ。

こういうのは、岡田さんの「つぎの」感じだったりするのかな、と勝手に楽しみにしています。


2017角川俳句賞「落選展」


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