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時評のようなもの 3 いちばんポップでシリアスな彼 福田若之『自生地』……上田信治

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時評のようなもの 3
いちばんポップでシリアスな彼  
福田若之『自生地』

上田信治


『びいぐる 37号』より改稿転載


福田若之の句集『自生地』(東京四季出版)について、まずその「前史」のようなものを素描したい。

ざっくりと言えば、七〇年代以降、多くの表現ジャンルの、尖端というか先っぽの、植物でいえば成長点のような部分が、ハイカルチャーとしての前衛から「サブカル」的なものへと転じた。

一方、俳句は「虚子に帰れ」(または、芭蕉に帰れ)が長期トレンドとなったわけだけれど、それもまた、ハイカルチャーとしての文学の消失を生んだ、時代精神の反映だったように思う。
 
詳述は避けるけれど、伝統回帰の時代を通じて、俳句は「軽く」なり続けた。もったいぶった顔をしながら、俳句は、たとえば楸邨が持っていた、近代文学的なシリアスさを手放していった。

オムレツが上手に焼けて落葉かな 草間時彦
大阪や秋の扇をポケットに 川崎展宏
向日葵や信長の首斬り落とす 角川春樹
春の水とは濡れてゐる水のこと 長谷川櫂


いっぽう二〇〇〇年代の半ばに登場した新しい作家に、鴇田智哉、冨田拓也、関悦史、北大路翼、御中虫、外山一機、田島健一、神野紗希、佐藤文香らがいる。

同時期に、髙柳克弘〈ことごとく未踏なりけり冬の星〉、津川絵理子〈サルビアや砂にしたたる午後の影〉、村上鞆彦〈ガラス戸の遠き夜火事に触れにけり〉といった、近代俳句の延長上に表現の高度化を追求し、俳壇の将来を担うと目される新人作家も登場しているが、その作風は対照的だ。

人参を並べておけば分かるなり 鴇田智哉
フィギュアのごとくきしめんは垂れ冬景色 関悦史
太陽にぶん殴られてあつたけえ 北大路翼
引鶴!ねえアフリカが全部欲しいの 外山一機
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
半月や未来のやうにスニーカー 佐藤文香
 

彼ら新しい作家の作品は、時代精神へのキャッチアップという俳句の宿題を一気に片づけているようだ。彼らにとって俳句は初めから「サブカル」であり、また同時にハイカルチャーでもあった。

これは福田若之という作家を理解するためにも重要なのだけれど、私たちの同時代表現は、ポップカルチャーの影響下にあって当然、というか、あることのほうが自然だ。

新しい作家たちの作品は、俳句にとって外部のものであった価値を、当然のように援用して書かれている。「伝統回帰」を経た平成の俳句は、ローカル性を強めることによって、ハイカルチャーをを志向するタテの文脈を弱めてきたけれど、対照的に、平成の彼らが依拠する文脈は(俳句以前に)ポップカルチャーであり、現代芸術に通じる思考であった。

彼らが現代的であろうとする意志は、俳句のローカル性に対置される、より上位の価値への志向としてある。

新しい俳句作家にとって、ポップであることが、同時にハイカルチャー的でもあるというのは、そういう事情による。



前置きが長くなった。

福田若之『自生地』の収録句はおそらく千句を超える。その冒頭から〈ヒヤシンスしあわせがどうしても要る〉の句のある二〇ページ目までに、

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて
春はすぐそこだけどパスワードが違う
むにーっと猫がほほえむシャボン玉
雨しきり短い夜であることを
君はセカイの外へ帰省し無色の街
雲は地球の回る速さで去りゆく夏


と、すでに代表句と呼びうる句が目白押しで現れるのだけれど、そこにいたる前、冒頭の3pから6pに、以下の短文が、句に挿入されるように置かれていて、読者は、この前書のようなつぶやきを通して、これらの句に出会うことになる。

僕があらためて書くことのできるものは、結局のところ、僕がいまだに捨てられずにいるものでしかない。だから、ついに現実味を帯びることになった句集の制作を、僕は、六年前にとあるアンソロジーに収められた僕自身の作品をこの手で書き写すことからはじめることにした。
(…)
句集をまとめたいという望みはかねてからのものだったけれど、それが具体的な計画として動き出したことは、必ずしも僕自身の意志によってではなかった。かつて書いたページをすこしだけ生きなおし、また生きなおし損ねながら、胸のなかにうまれる苦しいざわめきは、けれどそのせいではない。

つまり書き手は、この一冊を、句集を製作していくことの「記録」として、成立させようとしている。取材者のモノローグで進んで行くタイプの、ドキュメンタリーに似た構成だ。

福田が「かつて書いたページをすこしだけ生きなおし、また生きなおし損ねながら」と書くとき、そこには彼の過去の時間が召喚されている。つまり、作者として過去の自分が生きた体験した時間を、編者として現在の自分が追体験している。

そして私たちは、彼が二十代の前半で書いた句を、現在の福田の目を通して読むのだけれど、それは、その句がかつて作者によって生きられたものとして、まったく他人ごとではなくなるという、読書体験だ。

彼が「生きなおし」と呼んだ、その追体験が、この句集の第一の文脈だ。 

「生きなおし」は、彼の二〇代前半の時間に過去の少年期、いわゆる青春像、二十世紀を思わせるモチーフを取り込んで続いていく。

さよなら、ウォーホール 丸ごとのトマトを齧る
透かし見るネガフィルムよとんぼさよなら
シーラカンス、あの不思議は虹と言うんだ
空っ風ココアシガレットを愛す
産業革命以来の冬の青空だ
真っ白な息して君は今日も耳栓が抜けないと言う
木々に春らくだの遊具しくしく鳴る


さらに、現在の彼の関心事であろう「書くこと」「認識すること」、版元の編集者とのやりとり、リアルタイムの郊外生活などなどの、彼の現在が第二の文脈。

てざわりがあじさいをばらばらに知る
書く、波のかりそめの白夜を歩く
詩は、と言い詩は逃げ出してゆく──雷雨、
「は?」という、過去限りなく繰り返された。パラソル。
川の工事の男湯のような音
芹の岸辺にずぶ濡れの手紙でいる
猫ですしじゃあ何でちまき食ってんのって話だわな


口語、定型をはみ出す韻律、ポップカルチャーや現代思想からの影響と引用などがカラフルに展開する句を示しつつ、彼は内省する。句を書くことは「弔いに弔いを重ねることであり、その奥行きが過去の痕跡となる」と。それは「より過去からの光が、より遠くからの光であることに似ている」と。

それは、過去の弔い、すなわちこの句集を編むことを、未来に向けての「生きなおし」にするという意志の表明であり、それぞれ豊かな物語性をはらむ句群全体に、さらに、いわゆるビルドゥングスロマン(近代文学!)として読まれうるメタレベルを与えることだ。 

その仕掛けは、彼の作品の自己表現としてのシリアスさを、読者に誤解の余地なく手渡すだろう。

石川啄木が歌を「へなぶる」と称していたように、福田若之は「玩具」としてのサブカルと俳句を遊び倒して、とっくに、もっともポップでシリアスな書き手となっていたのだけれど、『自生地』は、書く主体の前景化によって、そのことを読者の前でクリアにしてみせる。

そうして、読者は、感情移入可能な物語として一冊を読み通す楽しみをプレゼントされたわけで、つまり、この句集自体、作者同様、シリアスであることとポップであることの両立に成功している。それは、詩作品のプレゼンテイションとしても、書物の作品化としても、商品性を高めたという意味でも、何重もの意味における成功だ。



やがて、彼の語りには、少年期の苦痛に充ちた記憶が混入する。

「エックス山メモランダム」と仮称される数ページの「これらのメモは、ただ、そこに書かれたことを僕が忘れるためだけに書かれたものだ。単に、僕がそれらを忘れることを、僕自身に許すために」と書かれたそれを、多く引用することはしないけれど、それでも笑えるようないくつかの句もあった。

ともだちだそれでもいるかを魚だと信じて嗤ったあの日の君への憎しみがまだ消せない
ベンツに轢かれてごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ほとんど君ひとりのおかげで利害関係もないやつからきめえとか言いつづけられんの慣れたよ


「エックス山」は句集のちょうど真ん中に置かれた地獄巡りで(そこだけページが黒ベタで文字が白抜きとなる)、そこを越えると、心なしかトーンが明るくなる。それは計算された構成だろうけれど、同時に彼自身が、この句集による、ある種の救済を信じはじめたから、可能となったことでもあるだろう。

水へかわせみそして全方位が音だ
おもしろくなりそうな街いわしぐも
春を待つかつてのいくつもの春を
卒業を祝う小さな菓子だった
サニーサイドアップ胡椒をふんだんに涼しく
やどかりすこしすばらしくなりたいをかかえる
みかん、的な。なんだか話せない僕ら
浅く乾いた冬の轍を時代と呼ぶ
ペプシ! と音してあふれだす冬の星
なみだぐむ木か青桐はひかりが差し


第三の文脈として「小岱シオン(コノタシオン)」と名乗るラノベのヒロインふうの女性や、言葉のなにかの象徴であるような「かまきり」が登場する連作があって、それらは句集全体に、短文とともに一句ずつ挿入されている。

それは、風通しのための空項として、全体に通じる空気穴のようにして導入されたモチーフである気がする。

夢に着けば先客がみな小岱シオン
蜘蛛を湿らす小岱シオンの青い舌
かまきりもどき金網に絡む草
言葉は葉かまきりはざわめきに棲む


句集の終わりにちかづき「小岱シオン」は退場し、やわらかいかまきりの句で、句集は終わる

かまきりは冬に葉書は灰になる
日々をある小岱シオンの忌と思う
また別の小岱シオンの別の夏
やわらかいかまきりのうまれたばかり




福田若之の美質は、ポップであることが誰よりも強く垂直性と結びついていること、そして、その声調だ。

少年が愛するガジェットや記憶、抽象的な思考、私的な夢想といった彼のモチーフの価値は、あまりにも私的なものだ。けれどだからこそ、それが「声」になっていれば、誰にもその歌を止める権利がない。

彼の句の、ときに切迫しときに高揚する声調は、金子兜太のそれを思わせる、俳句の規矩をやすやすと超えて、より高く広いところへと届くような「声」だ。

とりわけ、85pからの「あかおに」や、199pからの「のの」の連作など、作者より無垢でいたいけなものが登場するときあらわになる、ナイーブネスの美しさとやさしさには、息を呑むほかはない。

いや、気づいてしまえば、一番いたいけなのは若くんなのであって、『自生地』には、まさに無垢でナイーブな、若さともいとけなさとも呼びうる感受性が、横溢しているのだった。

高山れおなさんは「ここに、新しい寺山修司がいるっちゃ、分かれ!」と書いた(書きましたよね、たしか、あれ?)。

本当に、それはもう、青春性としか、言いようのないものだ。

考えてみれば、彼ははじめから、少年としての自分の感受性の正当性を訴えていたのだった。

彼の少年期に対する強いノスタルジーには、もともと仮構された輝かしさへ向かう「生きなおし」というモチーフがあったのかもしれない。




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