『オルガン』とBL俳句
松本てふこ
鴇田智哉の「BL自体が楽しくない人は、BL読みも楽しくない」という発言がメンバーの総意を表していたのか、座談会前半部の「震災俳句」に対する真摯な語り口が一転し、気の進まない話をしているような微妙な空気が行間に流れている印象だった。こういう見方をしてしまうのは筆者がBL俳句に少なからず関わっているからかもしれないが、「何が言いたいんだろう。BL俳句に言及したという履歴を残したかっただけなのかな?」とかなりもやもやした気持ちになった。
BL俳句が受ける批判を読むと、BLというジャンルそのものへの批判に直結するものが目立つ。BL短歌アンソロジー『共有結晶』に参加した際に受けた批判は、「短歌にBLを持ち込むな」という方向性の論調が多かったように思うが、BL俳句において目立つのは、BLジャンルが持つ現実逃避的な性格を指摘し、俳句の形式と合わない、という論調である。冒頭の田島の発言と、2015年11月18~19日にtwitterで北大路翼が発した「真の評価はBLといふ緩衝材を外したときにリアルな性愛を詠み続けられるかだらう。」「BLつて綺麗だからね。生の痛みがないんだ。」「僕が大事にしてるのは手触りとか直接的肉の触感です」というつぶやきはその代表的なものだと私は感じた。
痛みからの逃避にもまた生の痛みがつきものである、と言ってもその程度のものなど、と笑われるのだろうか。虚構と笑われることが前提の表現に、そうと悟られないように自らの切実な苦しみを混ぜ込んでいくお前らの喜びと苦しみなどたかが知れている、ということなのだろうか。時に典型的な男女の恋愛のシーンをなぞっているだけのような筋書きを考えてそうじゃねえだろ、そういうのが嫌だったんじゃないのかよ、と吐き捨てたり、生身の人間として志向するセクシャリティと、そこと切り離して想像力のみで探ろうとするセクシャリティとのズレ、真の理解にはたどり着けないであろうものを描こうとしてしまう自らの暴力性、そういったものに常に苛まれながらも、私はBLを読んできたし、これからもそうだと思う。それを、現実をデフォルメして楽しんでいるだけ、と片付けられるのはどうしても納得がいかない。もちろん、楽しんでいるのは事実だけれども、自分を切り刻んで、煮て焼いて自分で食べているような息苦しさと隣り合わせなんですよ、ということは小声で言っておきたい。
若干感情的な書きぶりになってしまったが、以上のような思いは要するにBLというジャンルへの批判に対する怒りであって、BL俳句、または俳句のBL読み(本当はこの二つをはっきり区別してそれぞれの意義を書いて反論するべきなのだろうが、今は気乗りがしないので書かない)の意義を語りたい気持ちはもっと穏やかなものだ。「作られた枠内の世界で楽しければいいじゃないかという感じじゃないかな」という田島の推測は、私という読み手/詠み手においてはある程度は当たっている。
しかし、例えば『庫内灯』1号に収録されていた
球春の大きな尻が揺れている 山本たくや
という句のことを思う時、この句のバカバカしい「球春」のまろやかかつ艶笑の要素を秘めた響きと字面、そして性的に見られていることなど夢にも思わず揺れている尻という光景のめでたさ、という特色はBL読みという枠組みなしで果たして見いだされただろうか、と私は疑問に思うのだ。
そして例えば、
躑躅吸ふ固めの盃だと思ふ 藤幹子
の句の底を静かに流れる、幼年期から思春期へのゆるやかな変化のきざし、契りの象徴たる「盃」によってもたらされる死の香りをあまさず味わいたいと思うのなら、BLというキーワードを意識して鑑賞するべきなのではないだろうか。
BL読みによって、読み手は句の中に「反転した私たち」の姿を見つける。BL読みは現実の写し鏡であり、「このようではない私たち」「このようには生きられない私たち」へ読者の意識は戻っていかざるを得ない。ご心配いただかなくても、自らの生の痛みに結局戻っていく筋書きは出来ているし、分かりきったことなのだ。
田島だって、「震災と俳句」でこうも言っているではないか。
松本てふこ
現実と俳句のかかわりで考えると、BL俳句をやっている人たちにとって、俳句が現実である必要はたぶんない。BLっていうのは積極的にデフォルメされた世界であって、たとえば肉体の汗の匂いみたいな話ではない。作られた枠内の世界で楽しければいいじゃないかという感じじゃないかな。俳句ってすごく便利だから、俳句のシステムのなかで書けばいくらでも書けるし、そもそも俳句の良し悪しの基準自体がそのなかで作られている。俳句は俳句の枠組みのなかで評価ができるって意味ではBL俳句もほかの俳句と同じなんだよね。現実は必要ない、俳句は俳句、という考え方は確かに妥当だとは思うんだけど、僕はそれだけだとは思わないんだよね。
(『オルガン』4号、座談会「震災と俳句」田島健一の発言より)『オルガン』4号の座談会で、BL俳句の話題が登場した時は驚いた。いや、よく考えれば当然のことでもあるのだ。この同人誌のメンバーが「いかに詠む/読むか」を様々な切り口から語り、問い続けていることを考えれば、予想しておくべきだった。だが、身構えた筆者の予想とはうらはらに、冒頭に紹介した田島の発言を除いては、やりとりは「BL俳句ってこういうもの?」という定義の確認に終始していた。そして、「自分たちを喜ばせているものとか、苦しめているものは何なんだってなったときに、本当に楽しい状況とか、耐えられないほど苦しい状況とかは、デフォルメされた世界のこととはちょっと違うんじゃないかな。本当に面白い、という感情の世界は、その先にあると思うんだよね」という田島の発言で座談会自体が締めくくられる。
鴇田智哉の「BL自体が楽しくない人は、BL読みも楽しくない」という発言がメンバーの総意を表していたのか、座談会前半部の「震災俳句」に対する真摯な語り口が一転し、気の進まない話をしているような微妙な空気が行間に流れている印象だった。こういう見方をしてしまうのは筆者がBL俳句に少なからず関わっているからかもしれないが、「何が言いたいんだろう。BL俳句に言及したという履歴を残したかっただけなのかな?」とかなりもやもやした気持ちになった。
BL俳句が受ける批判を読むと、BLというジャンルそのものへの批判に直結するものが目立つ。BL短歌アンソロジー『共有結晶』に参加した際に受けた批判は、「短歌にBLを持ち込むな」という方向性の論調が多かったように思うが、BL俳句において目立つのは、BLジャンルが持つ現実逃避的な性格を指摘し、俳句の形式と合わない、という論調である。冒頭の田島の発言と、2015年11月18~19日にtwitterで北大路翼が発した「真の評価はBLといふ緩衝材を外したときにリアルな性愛を詠み続けられるかだらう。」「BLつて綺麗だからね。生の痛みがないんだ。」「僕が大事にしてるのは手触りとか直接的肉の触感です」というつぶやきはその代表的なものだと私は感じた。
痛みからの逃避にもまた生の痛みがつきものである、と言ってもその程度のものなど、と笑われるのだろうか。虚構と笑われることが前提の表現に、そうと悟られないように自らの切実な苦しみを混ぜ込んでいくお前らの喜びと苦しみなどたかが知れている、ということなのだろうか。時に典型的な男女の恋愛のシーンをなぞっているだけのような筋書きを考えてそうじゃねえだろ、そういうのが嫌だったんじゃないのかよ、と吐き捨てたり、生身の人間として志向するセクシャリティと、そこと切り離して想像力のみで探ろうとするセクシャリティとのズレ、真の理解にはたどり着けないであろうものを描こうとしてしまう自らの暴力性、そういったものに常に苛まれながらも、私はBLを読んできたし、これからもそうだと思う。それを、現実をデフォルメして楽しんでいるだけ、と片付けられるのはどうしても納得がいかない。もちろん、楽しんでいるのは事実だけれども、自分を切り刻んで、煮て焼いて自分で食べているような息苦しさと隣り合わせなんですよ、ということは小声で言っておきたい。
若干感情的な書きぶりになってしまったが、以上のような思いは要するにBLというジャンルへの批判に対する怒りであって、BL俳句、または俳句のBL読み(本当はこの二つをはっきり区別してそれぞれの意義を書いて反論するべきなのだろうが、今は気乗りがしないので書かない)の意義を語りたい気持ちはもっと穏やかなものだ。「作られた枠内の世界で楽しければいいじゃないかという感じじゃないかな」という田島の推測は、私という読み手/詠み手においてはある程度は当たっている。
しかし、例えば『庫内灯』1号に収録されていた
球春の大きな尻が揺れている 山本たくや
という句のことを思う時、この句のバカバカしい「球春」のまろやかかつ艶笑の要素を秘めた響きと字面、そして性的に見られていることなど夢にも思わず揺れている尻という光景のめでたさ、という特色はBL読みという枠組みなしで果たして見いだされただろうか、と私は疑問に思うのだ。
そして例えば、
躑躅吸ふ固めの盃だと思ふ 藤幹子
の句の底を静かに流れる、幼年期から思春期へのゆるやかな変化のきざし、契りの象徴たる「盃」によってもたらされる死の香りをあまさず味わいたいと思うのなら、BLというキーワードを意識して鑑賞するべきなのではないだろうか。
BL読みによって、読み手は句の中に「反転した私たち」の姿を見つける。BL読みは現実の写し鏡であり、「このようではない私たち」「このようには生きられない私たち」へ読者の意識は戻っていかざるを得ない。ご心配いただかなくても、自らの生の痛みに結局戻っていく筋書きは出来ているし、分かりきったことなのだ。
田島だって、「震災と俳句」でこうも言っているではないか。
俳句は自由に作っていいと思う。でも、その自由に作ったものが、自分がもっている現実的な世界の構造を自ずと反映しちゃうんですね。どんなに格好つけて作っても、その人の現実は反映してしまう。その定義を用いるならば、紛れも無くBL俳句は私たちの現実である。