【週俳8月の俳句を読む】
僥倖と失敗と
外山一機
佐野研二郎氏の五輪エンブレム問題はもう過去の話題になってしまった。いまさらこの問題に触れるのは気恥ずかしいけれど、あの問題に関して、他人の制作したものに似ているとか似ていないとか、デザインの現場で働く人間とそうでない者との常識の差とか、そういうことばかりが取り沙汰されていて、僕には何か重要なことが見落とされているように思われてならなかった。
僕はデザインのことはよく知らない。けれど、あの佐野氏の五輪エンブレムとリエージュ劇場のロゴは似ていると思う。道徳的な是非とかデザインとしての優劣とかは抜きにして、やっぱり似ているような気がする。
でも、それはどうでもいいことだと思う。意図的にか結果的にかわからないけれども、この、似ている気がするかもしれないようなものを佐野氏が少なからず(いや、大いに?)自分のものとして書きとめたということ、その瞬間がたしかにあったということ―そこに悪意があろうがなかろうが、その瞬間があったということに自らの想像力を及ぼすことが大切だと僕は思うのである。
そしてまた、佐野氏が問題発覚後の会見でこれを自分の作品であると言い切るとき―すなわち、佐野氏が自分の作品に対して「お前のものではない」と一斉に指摘する声のなかでそれでもあれを自分の作品だと言い切るとき、そこには何か非常に大切な示唆があるように思う。
それは、その作品のオリジナリティを担保するのは結局自分しかいないのだということである。佐野氏の会見が僕には何かもどかしい感じがしたが、それは佐野氏自身があくまでオリジナリティをそれとは別の角度から説明していて、問題の本質から逸れているように思われたからであった。
話を俳句に移すと、俳句には類句というものが存在するのは周知のとおりである。新聞俳壇などにはときどき意図的と思われる類句の入選を取り消す旨の通知が出ることがあるが、僕には何だか馬鹿馬鹿しい。
盗作の何がいけないのだろう。むろん、他人の権利を侵害するからいけないのだとか、そんなことくらいは僕も知っている。僕はそんな次元で話をしているのではない。いったい、何かを書くときに盗作をしてまで書きたいという瞬間はないのだろうか。みんな、そういう「悪い」心を排除して書いているのだろうか。
僕は、そもそもそういう嫌らしい感情を抜きにしたかのような顔で何かをつくる人間を信用できない。けれど、俳句のおもしろいところは、そういう「悪い」心を意識しているか否かにかかわらず、ある作品がこれまでに見たことのある別の作品に似てしまっている(ような気がする)ことがあるということだ。
既視感を覚える句といえばいいだろうか。だがこれは決して不幸なことではなく、むしろ文字数制限があるが故の、俳句形式が書き手にもたらす僥倖であると思う。
「からころ水」宮﨑玲奈
麦茶注がれていびつな氷だと気づく
葛餅の皿がもつとも蜜に濡れ
誤解のないようにいえば、僕はこれらが盗作だと言いたいのではない。また、類想的でありつまらないと言いたいのでもない。
だが、これらの句の根幹にある発想―たしかにそういうことはあるけれども誰も詠まなかったものごとを詠むというような発想―に既視感を覚える。
ただ、僕は、それ故にこそこの句がおもしろいのである。これは皮肉ではない。
そもそもこれらの句は決して一朝一夕にできあがったものではないはずだ。宮﨑がこれまで積み重ねてきた句作があって、そのうえでこれらの句が生れてきたにちがいない。
であればなおのこと、なぜこの発想を自らのものとして提示することをよしとしているのかということが問題となる。端的に言えば、これは宮﨑が書いたのではなく俳句形式が書かせてくれた句ではなかったか。そしてこれらの句は(宮﨑自身が意識的か否かはともかくとして)その僥倖を甘受した証として生まれ出たものであったような気がするのである。
俳句形式を引き受けるということはきっとこういうことでもあるだろう。
さて、八月の俳句のなかではもう一つ、中山奈々の作品に触れておきたい。
「薬」中山奈々
何度いつたらわかるんだ、ぼくは御中虫じやない(好きだけど)
主治医が甘すぎてまた酒、薬、酒、薬、文香がゐる
ぼくが泣きたくなる日の若之が良い句を作る
もしも中山のこれらの作品が理解できる人間がいるなら、俳句などすぐにやめて中山のそばにずっといればいいと思う。
中山の作品は読まれたがっているし理解されたがっている。にもかかわらず、これらの句には僕らがこれらを理解するための補助線があまりにも少ない。それ故にこれらの句を読むとき、僕らは、僕らの側から中山を迎えに行かなければならない。そして、この作品を読むかぎり、中山自身はそうされることを望んでいるような気がする。
じっさい、これらの句の「御中虫」「文香」「若之」は中山における「御中虫」「文香」「若之」の定義を知らなければ理解できないだろう。その意味で、これらの句は「御中虫」「文香」「若之」を読んだ句ではなくあくまで「中山奈々」を詠んだ句なのである。
だから僕は「中山奈々」をこれらの句から立ち上げようとするのだが、そのためにはあまりにこれらの句が頼りない。そうしたコミュニケーションの失敗を僕はおもしろいと思う。けれど問題なのは、恐らく中山自身はそれをおもしろいと思わないだろうということだ。
母さんが優しく健康に産んでくれたので飛蝗捕る
この「母さん」は中山の「母さん」でなければならない。でも俳句表現にわかりやすさを求めるなら、中山の「母さん」でなくても読める句でなくてはならないはずだ。しかし、これは中山の「母さん」でなければならない。それは、この種の断定をもって僕たちが中山を迎えに行くことをこの句が要求しているからだ。
もっとも僕がいくら手を伸ばしたところで「中山奈々」に届くことはついにないだろうけれども―。
●
第432号 2015年8月2日
■宮﨑玲奈 からころ水 10句 ≫読む
第433号 2015年8月9日
■柴田麻美子 雌である 10句 ≫読む
第434号 2015年8月16日
■青本瑞季 光足りず 10句 ≫読む
第435号 2015年8月23日
■藤井あかり 黙秘 10句 ≫読む
■大塚凱 ラジオと海流 10句 ≫読む
第436号 2015年8月30日
■江渡華子 目 10句 ≫読む
■中山奈々 薬 20句 ≫読む
■中谷理紗子 鼓舞するための 10句 ≫読む
僥倖と失敗と
外山一機
佐野研二郎氏の五輪エンブレム問題はもう過去の話題になってしまった。いまさらこの問題に触れるのは気恥ずかしいけれど、あの問題に関して、他人の制作したものに似ているとか似ていないとか、デザインの現場で働く人間とそうでない者との常識の差とか、そういうことばかりが取り沙汰されていて、僕には何か重要なことが見落とされているように思われてならなかった。
僕はデザインのことはよく知らない。けれど、あの佐野氏の五輪エンブレムとリエージュ劇場のロゴは似ていると思う。道徳的な是非とかデザインとしての優劣とかは抜きにして、やっぱり似ているような気がする。
でも、それはどうでもいいことだと思う。意図的にか結果的にかわからないけれども、この、似ている気がするかもしれないようなものを佐野氏が少なからず(いや、大いに?)自分のものとして書きとめたということ、その瞬間がたしかにあったということ―そこに悪意があろうがなかろうが、その瞬間があったということに自らの想像力を及ぼすことが大切だと僕は思うのである。
そしてまた、佐野氏が問題発覚後の会見でこれを自分の作品であると言い切るとき―すなわち、佐野氏が自分の作品に対して「お前のものではない」と一斉に指摘する声のなかでそれでもあれを自分の作品だと言い切るとき、そこには何か非常に大切な示唆があるように思う。
それは、その作品のオリジナリティを担保するのは結局自分しかいないのだということである。佐野氏の会見が僕には何かもどかしい感じがしたが、それは佐野氏自身があくまでオリジナリティをそれとは別の角度から説明していて、問題の本質から逸れているように思われたからであった。
話を俳句に移すと、俳句には類句というものが存在するのは周知のとおりである。新聞俳壇などにはときどき意図的と思われる類句の入選を取り消す旨の通知が出ることがあるが、僕には何だか馬鹿馬鹿しい。
盗作の何がいけないのだろう。むろん、他人の権利を侵害するからいけないのだとか、そんなことくらいは僕も知っている。僕はそんな次元で話をしているのではない。いったい、何かを書くときに盗作をしてまで書きたいという瞬間はないのだろうか。みんな、そういう「悪い」心を排除して書いているのだろうか。
僕は、そもそもそういう嫌らしい感情を抜きにしたかのような顔で何かをつくる人間を信用できない。けれど、俳句のおもしろいところは、そういう「悪い」心を意識しているか否かにかかわらず、ある作品がこれまでに見たことのある別の作品に似てしまっている(ような気がする)ことがあるということだ。
既視感を覚える句といえばいいだろうか。だがこれは決して不幸なことではなく、むしろ文字数制限があるが故の、俳句形式が書き手にもたらす僥倖であると思う。
「からころ水」宮﨑玲奈
麦茶注がれていびつな氷だと気づく
葛餅の皿がもつとも蜜に濡れ
誤解のないようにいえば、僕はこれらが盗作だと言いたいのではない。また、類想的でありつまらないと言いたいのでもない。
だが、これらの句の根幹にある発想―たしかにそういうことはあるけれども誰も詠まなかったものごとを詠むというような発想―に既視感を覚える。
ただ、僕は、それ故にこそこの句がおもしろいのである。これは皮肉ではない。
そもそもこれらの句は決して一朝一夕にできあがったものではないはずだ。宮﨑がこれまで積み重ねてきた句作があって、そのうえでこれらの句が生れてきたにちがいない。
であればなおのこと、なぜこの発想を自らのものとして提示することをよしとしているのかということが問題となる。端的に言えば、これは宮﨑が書いたのではなく俳句形式が書かせてくれた句ではなかったか。そしてこれらの句は(宮﨑自身が意識的か否かはともかくとして)その僥倖を甘受した証として生まれ出たものであったような気がするのである。
俳句形式を引き受けるということはきっとこういうことでもあるだろう。
さて、八月の俳句のなかではもう一つ、中山奈々の作品に触れておきたい。
「薬」中山奈々
何度いつたらわかるんだ、ぼくは御中虫じやない(好きだけど)
主治医が甘すぎてまた酒、薬、酒、薬、文香がゐる
ぼくが泣きたくなる日の若之が良い句を作る
もしも中山のこれらの作品が理解できる人間がいるなら、俳句などすぐにやめて中山のそばにずっといればいいと思う。
中山の作品は読まれたがっているし理解されたがっている。にもかかわらず、これらの句には僕らがこれらを理解するための補助線があまりにも少ない。それ故にこれらの句を読むとき、僕らは、僕らの側から中山を迎えに行かなければならない。そして、この作品を読むかぎり、中山自身はそうされることを望んでいるような気がする。
じっさい、これらの句の「御中虫」「文香」「若之」は中山における「御中虫」「文香」「若之」の定義を知らなければ理解できないだろう。その意味で、これらの句は「御中虫」「文香」「若之」を読んだ句ではなくあくまで「中山奈々」を詠んだ句なのである。
だから僕は「中山奈々」をこれらの句から立ち上げようとするのだが、そのためにはあまりにこれらの句が頼りない。そうしたコミュニケーションの失敗を僕はおもしろいと思う。けれど問題なのは、恐らく中山自身はそれをおもしろいと思わないだろうということだ。
母さんが優しく健康に産んでくれたので飛蝗捕る
この「母さん」は中山の「母さん」でなければならない。でも俳句表現にわかりやすさを求めるなら、中山の「母さん」でなくても読める句でなくてはならないはずだ。しかし、これは中山の「母さん」でなければならない。それは、この種の断定をもって僕たちが中山を迎えに行くことをこの句が要求しているからだ。
もっとも僕がいくら手を伸ばしたところで「中山奈々」に届くことはついにないだろうけれども―。
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第432号 2015年8月2日
■宮﨑玲奈 からころ水 10句 ≫読む
第433号 2015年8月9日
■柴田麻美子 雌である 10句 ≫読む
第434号 2015年8月16日
■青本瑞季 光足りず 10句 ≫読む
第435号 2015年8月23日
■藤井あかり 黙秘 10句 ≫読む
■大塚凱 ラジオと海流 10句 ≫読む
第436号 2015年8月30日
■江渡華子 目 10句 ≫読む
■中山奈々 薬 20句 ≫読む
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