【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈9〉際限なく想像し、やわらかく現実に触れる
田島健一
09.採血の痕(寺田 人)
「俳句を書く」ということは何よりも現実的な行為で、俳句を通した視線がどこまで遠くに行ってしまったとしても、私たちは間違いなくそこに戻ってくればそれでいい。そのような視線によって社会を革新する必要もなければ、セカイを救う必要もない。迷う必要がない。
春の風邪隻眼の魚捌かるる 寺田 人
「隻眼の」は作者が触れた現実を示していて、そこだけが私たちの想像から妙に浮き上がってしまい、さらには無意味である。
「捌かるる」主体は魚なのだが、上五の「春の風邪」は、その魚を見ている「私」という主体を指し示している。己の身に刃を受け入れている隻眼の魚に成り代わりつつ、意識は春の風邪を感じる自己に貼りついて離れない。
ところで日頃から俳句を書いている私たちがそうでない人に自分を紹介するとき、「私は俳句をやっています」と言う。この「俳句をやっています」とは、もちろん俳句を書くことだし、あるいは俳句を読んだり、それについて論じることかも知れない。
けれども、仮に学校の宿題でたまたま俳句をつくることになった、というだけでは人は「俳句をやっています」とは言わない。ところがなぜか私たちが「俳句をやっている」という場合、それは俳句を作っている時間だけでなく、それを離れて仕事や学校や家庭で俳句とは無関係に過している時間もすべて含まれている。
言い換えれば私たちは、俳句と現実的に関わっていない時間もまた「俳句をやっている」のである。そのような時間は、私たちが想像的に俳句と関わっている時間で、いわゆる「イマジネーション」が活動するのは、ここである。
俳句を書く喜びや期待はこの俳句を書いていない想像的時間に支えられていて、この時間を失うと、私たちは俳句を書くモチベーションそのものを失う。
薫風の騎士の鎧の隙間へと
冬ざれや献血の痕重なりぬ
「騎士の鎧」も「献血の痕」も、それそのものは想像的なものであって、いくら「私はそれを見た」と言っても、ことばが運んでくるのは私たちが既に知っているカタログ化された世界の断片でしかない。
ある種の効率主義は、そのような想像的時間も「俳句を書く」という現実で埋め尽くし、あたかも「無意識」という意識できない別の「意識」の様態があるかのように想像力を侵略しつつ、あらゆる「無駄な時間」を削り取ろうとするが、実はその「無駄な時間」こそが、俳句を人間的なものに繋ぎとめるもっとも重要なものだ。
私たちが「主体」と呼ぶものもまた「無駄な時間」が生んだ想像的な産物であり、そこに現実として書かれた俳句から遡及して読み手が得るものは、想像的主体の視線─つまりは「意味」である。
満月に駆くる双子の手の繋ぐ
この句の助詞の使い方には曖昧さがあり、そのために「双子」というプリミティブな要素に対して作者が触れた現実がどこにあるのかが見えにくい。その分、読み手の想像力に負荷がかかる。
「満月の月光のなかを走る双子が手を繋いでいる」と言ってしまえば身も蓋もないのだが、問題は「手の繋ぐ」の「の」が読みようによっては「手」を主格化して、あたかも双子を「手が」繋いでいるようにも読める点だ。「双子が手を繋いでいる」のと「手が双子を繋いでいる」のは、そもそも見えているものが違う。
そこには日常的な想像力が生み出すイメージと異なる別の枠組みが見えてくる。
私たちの想像力の手前で、この句では「満月」も「双子」も「手」もいずれもが句の主体となる可能性を持っている。日常的な想像力はあくまでもこの句の下敷きになっていて、ここで書かれた句は、「書かれる」という行為によってその想像から少しズレる。
このズレがいわゆる「現実」と呼ばれるものを事後的に生成し、この句を「主体化」する。言い換えれば、この句に、内側から見つめ返してくるような霊的な視線を与えるのだ。
大事なことは、句の下敷きになっている想像的なものが、句を書かせた「動機」を生み出しているということだ。それがなければ、そもそも書かれた句に霊的なものが生まれない。俳句の楽しみは、そこからしか生まれてこない。
私たちの想像力は、現実を離れて際限なく広がり、私たちに勇気があるかぎり経験はそれを邪魔することができない。「俳句を書く」ということが現実的なものである、ということは、私たちが想像的な世界にとどまることができない、ということを意味しているだけでなく、むしろ「俳句を書く」現実へと私たちを駆り立てるものは、あくまでも私たちの想像力とそれを許す時間が生み出している、ということなのだ。
ここで「現実」と呼ばれているものは、いったい何だろうか。もちろん私たちは歴然とした現実のなかに生きているはずである。それでも、私たちにとって俳句を書くことが「現実」であるというのは、いったいどういうことなのだろう。
「写生」はものを見ることだというけれど、わたしたちが「ものを見る」というのは、どのような限界をもっているのだろう。
〈第十章〉へつづく
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