新連載
名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫(1)
今井 聖
着地寸前春の柔軟鴉に湧く
加藤楸邨『まぼろしの鹿』(1967)
なんだこりゃ。
チャクチスンゼンハルノジュウナンカラスニワク
鴉に湧くを「アニワク」なんて読んではいけない。指を折って数えて作るのもナンセンスだが、読むときもなるべく十七音に近づくように無理に音読みにするなどもってのほか。破調に破調なりのリズムがある場合はそのリズムと意味に沿った読み方が要求される。
上句、下句がともに字余り。「春」というあからさまな季語をべたっと貼り付けたような用い方。「柔軟」という生硬で説明的言葉。「鴉に湧く」の武骨な観念。思い込み。独りよがり。
「こういう句を作ってはならない」典型的な例のように思える。
この句から学べるものはあるのだろうか。
ある。
着地寸前の鴉を見たことがあるか、ほんとうに。
飛んでいる鴉は着地の寸前にふわりと浮く。いわゆるソフトランディング。空中を鋭角に来たものが一瞬浮き上がるのである。
「春の柔軟」は何か。春という季節の大気、自然の色彩感、躍動感が鴉の「ふわり」に反映する。それが「春の柔軟」。楸邨にとってはとってつけた季語ではなくまさに春季にもたらされた「柔軟」なのである。
鴉に「湧く」はどうだろう。これは楸邨独特の言い方。
楸邨は観念的といわれているが、それは一面的な見方。
そのとき、その瞬間の五感による把握を発想の基盤に置く。それを「写生」と呼ぶなら楸邨はまさしく写生派である。
実際の春季の鴉の飛翔と着地の様を凝視する姿勢がまずある。次にその瞬間から「自分が受け取った実感」を尊重する。自分の実感を大切にしない把握は意味がないと信じているからだ。
要諦はここにある。
いわゆる写生派と言われる俳人たちはここで「自分の実感」よりも「らしさ」つまり従来的情緒を踏んで一般的典型に合わせることを重視する。本意や平明への志向という名のもとに通念の方へ歩みよるのである。
その時、その瞬間の鴉と自分との出会いを刻み込む実感、それを楸邨は「手触り」という。
「手触り」を求めていくと口当たりの良い、手拍子が入れられるような575音律を第一義に置くのではなくて自己の実感に沿ったリズムを伴わないわけにはいかなくなる。この展開は「字余り」に到る楸邨の個性そのものであって一般化できない。
またその「手触り」を言うために対象から見出した抽象的な「感じ」を言葉にしなくてはならなくなる。
それが「湧く」である。
「湧く」は苦しまぎれのぎりぎりの自己表出。おそらく楸邨自身にも不満な表現であろうと思うが、これ以上どうしようもない。実感を追い詰めるところまで追い詰めた結果である。
この句は作品の完成度としてみるとまったくの失敗作と思うが、同じ追い詰め方での成功例としては
しずかなる力満ちゆき螇蚸とぶ
が挙げられよう。
楸邨病臥の時期の句であることから「しずかなる力満ちゆき」を自己の体の回復の願いに喩えたヒューマンな句と取る向きも多いがそれは「人間探求派」という山本健吉命名の呼称に捕らわれた見方。本人は一度もその呼称を肯った事実はない。
これは飛ぶ前に実際に体がぎゅっと引き緊まるその瞬間を捉えての「写生」句である。飛ぶ前の螇蚸を凝視してみるといい。螇蚸は力を蓄えて一瞬ぎゅっと本当に縮むのだ。
「螇蚸とぶ」がバッタトブかハタハタトブかで論議を呼んで楸邨の吹き込んだテープが見つかって後者で決着したがそんなことは枝葉の論議。字余りになるのは「手触り」のための一要素。眼目はあくまでまず対象への「凝視」から入ること。そこから入って結果的に喩がもたらされようとそれは読者の読みの問題である。
着地寸前春の柔軟鴉に湧く
この惨憺たる失敗作はしかしながら
しずかなる力満ちゆき螇蚸とぶ
への方向をちゃんと向いているのである。
試行する中での累々たる残骸の果てに時代を背負うオリジナリティが出現する。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
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名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫(1)
今井 聖
「街」95号より転載
着地寸前春の柔軟鴉に湧く
加藤楸邨『まぼろしの鹿』(1967)
なんだこりゃ。
チャクチスンゼンハルノジュウナンカラスニワク
鴉に湧くを「アニワク」なんて読んではいけない。指を折って数えて作るのもナンセンスだが、読むときもなるべく十七音に近づくように無理に音読みにするなどもってのほか。破調に破調なりのリズムがある場合はそのリズムと意味に沿った読み方が要求される。
上句、下句がともに字余り。「春」というあからさまな季語をべたっと貼り付けたような用い方。「柔軟」という生硬で説明的言葉。「鴉に湧く」の武骨な観念。思い込み。独りよがり。
「こういう句を作ってはならない」典型的な例のように思える。
この句から学べるものはあるのだろうか。
ある。
着地寸前の鴉を見たことがあるか、ほんとうに。
飛んでいる鴉は着地の寸前にふわりと浮く。いわゆるソフトランディング。空中を鋭角に来たものが一瞬浮き上がるのである。
「春の柔軟」は何か。春という季節の大気、自然の色彩感、躍動感が鴉の「ふわり」に反映する。それが「春の柔軟」。楸邨にとってはとってつけた季語ではなくまさに春季にもたらされた「柔軟」なのである。
鴉に「湧く」はどうだろう。これは楸邨独特の言い方。
楸邨は観念的といわれているが、それは一面的な見方。
そのとき、その瞬間の五感による把握を発想の基盤に置く。それを「写生」と呼ぶなら楸邨はまさしく写生派である。
実際の春季の鴉の飛翔と着地の様を凝視する姿勢がまずある。次にその瞬間から「自分が受け取った実感」を尊重する。自分の実感を大切にしない把握は意味がないと信じているからだ。
要諦はここにある。
いわゆる写生派と言われる俳人たちはここで「自分の実感」よりも「らしさ」つまり従来的情緒を踏んで一般的典型に合わせることを重視する。本意や平明への志向という名のもとに通念の方へ歩みよるのである。
その時、その瞬間の鴉と自分との出会いを刻み込む実感、それを楸邨は「手触り」という。
「手触り」を求めていくと口当たりの良い、手拍子が入れられるような575音律を第一義に置くのではなくて自己の実感に沿ったリズムを伴わないわけにはいかなくなる。この展開は「字余り」に到る楸邨の個性そのものであって一般化できない。
またその「手触り」を言うために対象から見出した抽象的な「感じ」を言葉にしなくてはならなくなる。
それが「湧く」である。
「湧く」は苦しまぎれのぎりぎりの自己表出。おそらく楸邨自身にも不満な表現であろうと思うが、これ以上どうしようもない。実感を追い詰めるところまで追い詰めた結果である。
この句は作品の完成度としてみるとまったくの失敗作と思うが、同じ追い詰め方での成功例としては
しずかなる力満ちゆき螇蚸とぶ
が挙げられよう。
楸邨病臥の時期の句であることから「しずかなる力満ちゆき」を自己の体の回復の願いに喩えたヒューマンな句と取る向きも多いがそれは「人間探求派」という山本健吉命名の呼称に捕らわれた見方。本人は一度もその呼称を肯った事実はない。
これは飛ぶ前に実際に体がぎゅっと引き緊まるその瞬間を捉えての「写生」句である。飛ぶ前の螇蚸を凝視してみるといい。螇蚸は力を蓄えて一瞬ぎゅっと本当に縮むのだ。
「螇蚸とぶ」がバッタトブかハタハタトブかで論議を呼んで楸邨の吹き込んだテープが見つかって後者で決着したがそんなことは枝葉の論議。字余りになるのは「手触り」のための一要素。眼目はあくまでまず対象への「凝視」から入ること。そこから入って結果的に喩がもたらされようとそれは読者の読みの問題である。
着地寸前春の柔軟鴉に湧く
この惨憺たる失敗作はしかしながら
しずかなる力満ちゆき螇蚸とぶ
への方向をちゃんと向いているのである。
試行する中での累々たる残骸の果てに時代を背負うオリジナリティが出現する。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
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