Quantcast
Channel: 週刊俳句 Haiku Weekly
Viewing all articles
Browse latest Browse all 5929

成分表64 泡 上田信治

$
0
0
成分表64  


上田信治

「里」2011年10月号より改稿転載


新入社員として配属された宣伝部は、管理職三人と二十代の男三人女一人という人員構成で、幸い、若い四人はとても気が合っていたので、急ぎの仕事がない時は、必ず誰かが冗談話をしかけてくるという、教室か部室の延長のような職場だった。

ある時、冗談が冗談を呼び、息が苦しくなる程みんなで笑ったあと、先輩のオイカワさん(テニスボーイ)が、目尻の涙をぬぐいながら「こういう時、生きてて良かった、って思わない?」と言ったのだ。

オイカワさんの発言は突然の告白のようで、自分は、曖昧な返事をしてしまい、うまく反応できなかった。

それはほんとうに唐突だったし、何より、人生への期待値が低すぎるように思えたのだ。オイカワさんの生きてて良かったって、この程度でいいんですか──とまでは言わなかったけれど、そんなことを思ってしまうのが、いわゆるバブルの頃というものだった。

そして月日は流れたのだけど、あの時のオイカワさんは圧倒的に正しかった。本当にそう思う。

この間、球場でプロ野球の試合を観ていたら、前の席に乳飲み子を抱いたお父さんが座った。

お父さんはグラウンドを見ていて、抱かれている赤子は、父親の肩越しに我々をじっと見ている。せっかくなので、応援のドンドンドンという鳴り物にあわせて、繰り返し面白い顔をしてやった。赤ん坊も乗ってきて、音に合わせ体をゆすりはじめた。時々すごい笑い顔になる。

こういう時の赤ん坊の頭の中では、なにか小さな泡のようなものが、ピチパチピチパチとはじけているのだろう、という気がした。

そしてたぶん、あの時宣伝部員だった自分たちも、その泡のようなものをはじけさせていた。それは、人生にいつもあるとは限らないものだ。

テレビを見ていたら、ある年のNFLで劇的な優勝を遂げたチームの、ドキュメンタリーをやっていた。

老齢に達したかつての名選手たちは、優勝パーティのシャンパンファイトのことを「あんな最高の経験は、人生に、後にも先にもない」と口を揃えて言っていて、それは本当にそうなのだろうと思った。それは、きっと、例の泡のすごいやつだったのだろうとも。

ある巨漢のベテラン選手が、次の朝早く、余韻を味わいたくて、一人できのうの祝賀会の場所に行ってみたのだけれど「そこには、もう、何一つ残っていなかった」のだそうだ。

  はらつぱに子らゐずなりて鰯雲  成瀬正俊


Viewing all articles
Browse latest Browse all 5929

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>