成分表64
泡
上田信治
新入社員として配属された宣伝部は、管理職三人と二十代の男三人女一人という人員構成で、幸い、若い四人はとても気が合っていたので、急ぎの仕事がない時は、必ず誰かが冗談話をしかけてくるという、教室か部室の延長のような職場だった。
ある時、冗談が冗談を呼び、息が苦しくなる程みんなで笑ったあと、先輩のオイカワさん(テニスボーイ)が、目尻の涙をぬぐいながら「こういう時、生きてて良かった、って思わない?」と言ったのだ。
オイカワさんの発言は突然の告白のようで、自分は、曖昧な返事をしてしまい、うまく反応できなかった。
それはほんとうに唐突だったし、何より、人生への期待値が低すぎるように思えたのだ。オイカワさんの生きてて良かったって、この程度でいいんですか──とまでは言わなかったけれど、そんなことを思ってしまうのが、いわゆるバブルの頃というものだった。
そして月日は流れたのだけど、あの時のオイカワさんは圧倒的に正しかった。本当にそう思う。
この間、球場でプロ野球の試合を観ていたら、前の席に乳飲み子を抱いたお父さんが座った。
お父さんはグラウンドを見ていて、抱かれている赤子は、父親の肩越しに我々をじっと見ている。せっかくなので、応援のドンドンドンという鳴り物にあわせて、繰り返し面白い顔をしてやった。赤ん坊も乗ってきて、音に合わせ体をゆすりはじめた。時々すごい笑い顔になる。
こういう時の赤ん坊の頭の中では、なにか小さな泡のようなものが、ピチパチピチパチとはじけているのだろう、という気がした。
そしてたぶん、あの時宣伝部員だった自分たちも、その泡のようなものをはじけさせていた。それは、人生にいつもあるとは限らないものだ。
テレビを見ていたら、ある年のNFLで劇的な優勝を遂げたチームの、ドキュメンタリーをやっていた。
老齢に達したかつての名選手たちは、優勝パーティのシャンパンファイトのことを「あんな最高の経験は、人生に、後にも先にもない」と口を揃えて言っていて、それは本当にそうなのだろうと思った。それは、きっと、例の泡のすごいやつだったのだろうとも。
ある巨漢のベテラン選手が、次の朝早く、余韻を味わいたくて、一人できのうの祝賀会の場所に行ってみたのだけれど「そこには、もう、何一つ残っていなかった」のだそうだ。
はらつぱに子らゐずなりて鰯雲 成瀬正俊
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泡
上田信治
「里」2011年10月号より改稿転載
新入社員として配属された宣伝部は、管理職三人と二十代の男三人女一人という人員構成で、幸い、若い四人はとても気が合っていたので、急ぎの仕事がない時は、必ず誰かが冗談話をしかけてくるという、教室か部室の延長のような職場だった。
ある時、冗談が冗談を呼び、息が苦しくなる程みんなで笑ったあと、先輩のオイカワさん(テニスボーイ)が、目尻の涙をぬぐいながら「こういう時、生きてて良かった、って思わない?」と言ったのだ。
オイカワさんの発言は突然の告白のようで、自分は、曖昧な返事をしてしまい、うまく反応できなかった。
それはほんとうに唐突だったし、何より、人生への期待値が低すぎるように思えたのだ。オイカワさんの生きてて良かったって、この程度でいいんですか──とまでは言わなかったけれど、そんなことを思ってしまうのが、いわゆるバブルの頃というものだった。
そして月日は流れたのだけど、あの時のオイカワさんは圧倒的に正しかった。本当にそう思う。
この間、球場でプロ野球の試合を観ていたら、前の席に乳飲み子を抱いたお父さんが座った。
お父さんはグラウンドを見ていて、抱かれている赤子は、父親の肩越しに我々をじっと見ている。せっかくなので、応援のドンドンドンという鳴り物にあわせて、繰り返し面白い顔をしてやった。赤ん坊も乗ってきて、音に合わせ体をゆすりはじめた。時々すごい笑い顔になる。
こういう時の赤ん坊の頭の中では、なにか小さな泡のようなものが、ピチパチピチパチとはじけているのだろう、という気がした。
そしてたぶん、あの時宣伝部員だった自分たちも、その泡のようなものをはじけさせていた。それは、人生にいつもあるとは限らないものだ。
テレビを見ていたら、ある年のNFLで劇的な優勝を遂げたチームの、ドキュメンタリーをやっていた。
老齢に達したかつての名選手たちは、優勝パーティのシャンパンファイトのことを「あんな最高の経験は、人生に、後にも先にもない」と口を揃えて言っていて、それは本当にそうなのだろうと思った。それは、きっと、例の泡のすごいやつだったのだろうとも。
ある巨漢のベテラン選手が、次の朝早く、余韻を味わいたくて、一人できのうの祝賀会の場所に行ってみたのだけれど「そこには、もう、何一つ残っていなかった」のだそうだ。
はらつぱに子らゐずなりて鰯雲 成瀬正俊
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