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岸本尚毅句集『小』について語るよ

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岸本尚毅句集『小』について語るよ
「どうでもよさ」が極まってきましたね。

生駒大祐+上田信治 14分13秒




週俳のこれから

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週俳のこれから
といった大仰なものではなくて単に編集企画。

福田若之+生駒大祐+村田篠+上田信治+西原天気 10分23秒



下北沢で見たカラフルな白いテレビ 青木亮人・鴇田智哉・田島健一・宮本佳世乃【『凧と円柱』刊行記念 カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ 2014年12月13日 下北沢B&B】極私的レポート 柳本々々

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下北沢で見たカラフルな白いテレビ
青木亮人・鴇田智哉・田島健一・宮本佳世乃【『凧と円柱』刊行記念「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ」2014年12月13日・下北沢B&B】極私的レポート

柳本々々



 毛布から白いテレビを見てゐたり  鴇田智哉

以前、新宿紀伊國屋本店で行われたSSTのイヴェント(「鴇田智哉句集『凧と円柱』刊行記念トークイベント 「SST俳句大解剖! 2014年10月2日」榮猿丸・関悦史・鴇田智哉)を拝聴していたときに、関悦史さん・榮猿丸さんのふたりどちらもが選んだ共選句として鴇田智哉さんの 「毛布から白いテレビを見てゐたり」の句について話されていた。

そのときたしか猿丸さんがその句について、「はっきりとぼけている」画面、「震災後の意識」「超越的なものの侵入」「画面の抽象化による危機的なもの」「ホワイトノイズ=死のノイズ」といったことについて言及されていたように記憶している。

そのときからわたしは鴇田さんのそのテレビの句についてかんがえはじめた。

ときどき、深夜、体育座りをしながら、砂嵐だけのテレビをみていたりもした(デジタルテレビになっても砂嵐はまだ映る)。

その後、わたしはアッバス・キアロスタミの映画『桜桃の味』から鴇田さんのテレビの句をなんとか考えられないだろうかと思いながら、下北沢のイヴェントに向かうために 井の頭線に乗っていた。

『桜桃の味』は〈見る〉ことをめぐる映画であり、最終的に雷鳴とどろく〈黒〉から転じて〈白い(ノイジーな)シーン〉にたどりついている。

「人生は汽車のようなものだ。前へ前へ ただ走っていく。そして最後に終着駅に着く。そこが死の国だ。あの世から見に来たいほど美しい世界なのにあんたはあの世に行きたいのか。すべてを拒み すべてを諦めてしまうのか? 桜桃の味を忘れてしまうのか? だめだ、友達として頼む。諦めないでくれ」

『桜桃の味』のことばがわたしよりも井の頭線よりもはやく脳裏をよぎってゆく。

わたしはそれをキャッチしようとする。でも、できない。

スヌーピーのライナスの毛布から鴇田さんの白いテレビの句に取り組んでみるのはどうだろうとおもったが、そのときわたしはもう下北沢に着いている。

イヴェント中、鴇田さんの句集における〈白〉の主題を指摘されていた青木亮人さんが、この白いテレビとはなんでしょう、なんのことでしょう、とおっしゃったので、わたしは顔をあげた。

さいきん、白いフレームのテレビもでていますよね、と青木さんがいう。

ああ、そうか。「白いテレビ」という名辞は、内容だけでなく外郭=筐体をもふくむあえ ての〈見る〉ことの境界破壊的なことばなんだ、とわたしはおもう。

それは〈見る〉ことであるが、〈見る〉ことにはならない。

もしかしたらこの句の語り手はなにも〈見〉てないんじゃないか。

あの、車からほとんどでることのないまま対話にならない対話を交わしつづけた『桜桃の味』の自殺志願者の主人公のように。

わたしの記憶がただしければ、青木さんのことばを継いで鴇田さんが白いテレビの句についてこんなふうにおっしゃっていた。

これは9・11そのものの句ではないが、その《周辺》で書いたような句かなとあとで想起した、と。

そして句集に掲載するさいに《書き直し》たのだと。

わたしはそのとき、その書き直される前の句がどんなだったか、よっぽど手をあげようか とおもったが、まだ質問コーナーではなかったのでやめてしまった。質問をする時間では、なかったのである。

しかし、気になった。とても。

気になったままのわたしはちらと本棚に眼をやった。

本屋でのイヴェントのためにわたしは無数の書物に囲まれていたのである。

わたしはなんとなく眼があってしまった書物の名前をこころのなかで声にだして読んでみる。

『パイプ大全』、と。

──なぜ、鴇田さんは「毛布」の句を書き直したか。

9・11のあと、わたしたちは3・11を〈経験〉している。

わたしたちはテレビがスペクタル化することによって、実質〈見る〉ことがなにも〈見てはいない〉というのだという事態につながっていくような出来事を 〈知〉っている。〈経験〉できないにもかかわらず、〈経験〉したような気になり、しかしその〈気〉が〈経験〉そのものを解体してしまったことを。

わたしたちは、YouTubeでなんどもなんどでも〈9・11〉や〈3・11〉を反復できる。しかし、それは《9・11》や《3・11》では、ない。わたしたちは、なにも、まだ〈見〉ていない。

それでも、わたしたちは、過剰なまでに〈見〉ている。

鴇田智哉の白いテレビの句にあるような、榮猿丸が「ホワイトノイズ=死のノイズ」と指摘したような、〈横〉になった姿態で、おびただしい数の〈横〉になってゆく〈映像〉を。

そのとき、わたしたちは、こう言うしかない。

それは「白いテレビ」だと。

内容、をみているわけではない。わたしたちは、〈テレ ビ〉というそのものの性質=形質をみている。スペクタル化され、〈見る〉行為を奪い去り、しかしわたしたちを〈見る/た〉 者として〈過去の思い出〉を与えていくものの〈媒質〉を。電車が、くる。かえるのだ。

イヴェント中に、田島健一さんが、とても印象深いことをおっしゃっていた。

人間の経験は未来にもある、と。

そのことを帰りの井の頭線でずっとかんがえていた。

「人間の経験は未来にもある」ということを、カフカもベンヤミンもおなじような位相でかんがえていたかも、しれない。

わたしは田島さんのそのことばを、帰りの電車で揺れつつ、ぶれつつ、ノイズをはしらせつつも、ノートに書いてみたりも、した。

書くことは、過去へと痕跡を残していくことだが、どうじに、未来への痕跡としての亡霊を〈経験〉させてゆくことでも、ある。

ルイ・アルチュセールはかつて妻を絞め殺した あとに、『未来は長く続く』という自伝を記した。

そのときアルチュセールにとっての〈未来〉は、たぶん、未来化することのできない、しかし、痕跡としての未来にあったはずだ。未来化できない未来。やってはこないが、志向しなければならなかった未来。

未来の経験。

わたしは、ときどき、句もそうした未来化することのない/できない、しかし志向としてある《未来の経験》や《未来の記憶》を所持しているのではないかとかんがえることが、ある。

だからこそ、ひとは、未来の経験として句をつくり、詠むのではないかと。しかし、それは意識してやっているわけではない。無意識でも、ない。〈未来の経験〉としかいいようがないもの。〈白いテレビ〉としてしかみることがかなわないよ うなもの。
ようなもの、のようなもの。

《ようなもの、のようなもの》は、スペクタルにはならない。

どこまでいっても「白いテレビ」「白い未来」「白い経験」にしかならない。

しかし、句はそうした《未来の経験》を持ちながら、現在の経験や現在の記憶を相対化する。

句は、いつでも未然形=未来形だ。

キアロスタミの映画『オリーブの林をぬけて』では、片想いとしてのらちのあかない恋をうしないかけた青年がラストにえんえんとオリーブの林を走って抜けていく。

駆け抜けるにはあまりにも長すぎるそのシーンもまた、未然形としての未来の経験をかかえている。

だれにも、そのシーンの意味は、わからない。

白いテレビ、だ。

ゴンブローヴィッチの『フェルディドゥルケ』がムーミン関連の書籍といっしょに仲良く並んでいるようなていねいにセレクトされたブッキッシュなひとにはたま らないだろう本屋さん(たぶんこのフロアのどこかにはリチャード・ブローティガンもあなたもいるだろう)のほぼ半分のフロアを使って行われた〈俳句〉をめぐるイヴェントで、気がつけば、わたしは、おおくの〈未来の死者たち〉としての書物に囲まれながらも、「白いテレビ」ばかり、〈見〉ていた。

わたしにとって今回の下北沢のイヴェントは、その意味で、SSTのイヴェントからつながっており、〈カラフルな白さ〉をめぐる連節されたイヴェントだった。

わたしはノイズの混じった車内アナウンスのなかで、ジャン=リュック・ゴダールの映画『カルメンという名の女』におけるトム・ウェイツの曲とともに現れた〈ホワイト・ノイズ〉のシーンを思い出している。

画面の砂嵐を、逆光 のてのひらが、やわらかく執拗に、なぞり、愛撫する。車内アナウンスが、終わる。

渋谷に、着く。

photo by motomoto yagimoto :ゴダール『カルメンの名という女』の白いテレビのワンシーンを真似てじぶんで撮影してみた画像。

photo by tenki saibara

抽象の景色 鴇田智哉『凧と円柱』イベントのメモ 西原天気

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抽象の景色
鴇田智哉『凧と円柱』イベントのメモ

西原天気





抽象絵画ならぬ抽象俳句。

鴇田智哉の口から「抽象」という語が出たとき、「二階のことば」という言い方を思い出した。

何年前か忘れたが早稲田大学でのシンポジウムで、鴇田智哉が自身の俳句の方向として語ったこの「二階のことば」という言い方を、以降、用いていない。

私たちが日常語は「一階のことば」にあたる。季語は「中二階」? このあたりは正確には憶えていない。

「二階のことば」に関してその日語られたことに、たいそう興味をもった。具体・具象を扱うに適した俳句というジャンルにおいて、二階へ、さらにその上へと、ことばの純化のようなものを推し進めたとしたら(それが鴇田俳句だが)、最後には、重量ゼロ、透明に近い「ことばの景色」になるのではないか(俳句が描く景色ではない。俳句そのものの景色、俳句そのものの姿)。

鴇田俳句の「抽象」は、言語的な意味を濃く解すると少し奇妙なことになる。概念的な句と誤解されかねない。絵画的な抽象を強く意識し、いわば哲学的に講義な抽象化。

『凧と円柱』の掉尾を飾るのが、

7は今ひらくか波の糸つらなる  鴇田智哉『凧と円柱』

であることは、したがって明白に意図的、意図的すぎるほど意図的だ。数字は抽象の最たるものである。

「波の糸」という5音からは、「二一二俳句」という戯れのゲームを想起した。思えば、「二一二」という型は、抽象化の外形的な一例だ。してみれば、鴇田俳句は、17音をもって「二一二」程度の軽さ・薄さ・淡さをめざすものとも思えてくる。



白。

頭の中で白い夏野となつてゐる   高屋窓秋『白い夏野』

ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり  鴇田智哉『こゑふたつ』

毛布から白いテレビを見てゐたり  鴇田智哉『凧と円柱』

高屋窓秋第一句集『白い夏野』(1936年)のスタイル(小見出し・字組等)を『凧と円柱』は踏襲したという。

白は、カメラにおける露出過多? 抽象化のひとつの結果。

あるいは対象を見つめすぎて立ち眩む?



語の分解。

例:霜柱→霜の柱かな (今井杏太郎)

テクニカルな部分も、作者・鴇田智哉の口から率直に語られた。

鴇田俳句には影響を受けやすいという声を
立ち話レベルでも耳にした。それは俳句作
法としての「語の分解」にも関連するのだ
ろう。これを聞いて、「みなさん器用です
ね。他人の方法をそんなに簡単に取り入れ
られたりするのだろうか」とカジュアルに
思った。ただし、影響を自称他称する句は、
きっと鴇田俳句と似ていない。本人や第三
者が言うほどには真似できていない。



芸術的・文学的色合いの濃い俳句と、大雑把には言える。鴇田俳句は。

ただ、そこは危うい地帯でもある。

ゲイジュツ、ブンガクに成り上がろうとする俳句。

気恥ずかしくポエムに浸ってしまった俳句。

鴇田俳句のポエティックな様相は、ぎりぎりポエムに堕することを忌避できているのかどうか。

例えば、

うつぶせのプロペラでいく夜の都市  鴇田智哉『凧と円柱』

ポエム? 詩? 俳句? 何度も読んで迷い、私は、まだ答えを出せていない。この句だけ取り出せば、『凧と円柱』が若書きで、『こゑふたつ』を成熟と見ることもできそうだ。

ただ、作者・鴇田智哉自身は、熟考の末に、この句を選んでいる。

「茶目」というキーワードは、このシンポジウムで鴇田智哉からは聞かれなかったが、ゲイジュツ・ブンガク問題は、この「茶目」というスタンスが重要に関わってくるのではないか。



『こゑふたつ』=線的。

その意味では『凧と円柱』には非・線的、構造的な句が多く混じる。



この日のイベントが書店で開催されたことは印象深い。私たちは「字」に囲まれて鴇田智哉のことばを聞いた。

鴇田俳句を読むとき、一字一字が声(鴇田流に書けば「こゑ」)になるような気が、いつもする。ページが開かれ、一字一字が声になる瞬間を待っているような句だ。

一方、視覚的な比喩でいえば、一字一字がほぐれて分解していくような幻想も味わう。

字は「音」であり「景色」である。そのことで「意味」という因習から逃れていく。

人参を並べておけばわかるなり  鴇田智哉『凧と円柱』

人参の「意味」など不要。人参が在ること、否、「人参」という字が在り、この句が在り、音になり、ほぐれて壊れていけば、「わかる」。



下北沢の午後から夜へ、愉しい時間を過ごしました。鴇田智哉さんに、関係者すべてに、感謝。



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引用の置きもの 宮川淳+鴇田智哉

『凧と円柱』刊行記念「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ」イベントリポート 青木ともじ

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『凧と円柱』刊行記念「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ」イベントリポート

青木ともじ
 (構成 佐藤文香)




上着きてゐても木の葉のあふれ出す

イベントのフライヤーには、あらかじめ各氏が句集から選んだ20句が載っており、この句は4人全員が選んだ句。
田島 これはイチオシで…!…あ、止めてね。放っておくと喋っちゃうから…。鴇田さんがはじめて句会で

うつぶせのプロペラでいく夜の都市

を出したとき…、あ、喋り続けてたら止めてね?
と和やかな雰囲気でイベントはスタート。会場のB&Bはビルの二階にあるオシャレな本屋さん。奥半分をカーテンで仕切ったのが会場となっていて、木の机を囲むように、田島健一さん、鴇田智哉さん、青木亮人さん、宮本佳世乃さん、そして司会役の橋本直さん(が、橋本さんはすぐにひっこむ)。ちなみに、イベントタイトルは田島さんによるものだそうです。


鴇田俳句における“システムの変化”
田島 第一句集『こゑふたつ』から今回の第二句集『凧と円柱』までの間に、鴇田さんの世界は同じままに、システムが変わったんじゃないでしょうか。それは使われる言葉や季語の変化であったり、プロペラの句のような無季俳句であったり、季語への独自の考えを持っているように見えるんだよね。

青木 『こゑふたつ』の時から、変わった思いなどはあるんですか?

鴇田 一つのことが終わった気持ちです。そのあとどうするかを考えたとき、無季をどうするか、考えたんですよ。毎年句会に行っていても、良し悪しはともかく、去年見たような句があったり……。同じことを何十年もやっていくのかな、と考えたとき、わざわざ無季をつくったのかな。一般には季語の代わりになるものがないと、無季の句はいけないと言われるけれどそうでもないのではないか、いわばモビールのバランスのようなもので保たれているんじゃないか。システムの点では、使われる言葉の変化について、『こゑふたつ』のときに比べ、カタカナが増えたこと、また前回は敢えて使わず少なかった漢語が多くなったこともあるかもしれません。抜け出ていくための方法として、わざとやった部分もあります。

言葉を分解すること
青木 今井杏太郎は「俳句は長い。素材を分解してから足してゆくものだ。」と言ったけれど、それと漢語を崩すことのつながりはあったんでしょうか?

鴇田 今井杏太郎の文体は独特ですね。けっこう文体を引き継いでいると思います。この季語は一体何かと分解して、面白がって考えます。たとえば霜柱とはなんだろう、と考えて、霜の柱だ、と。

ゆふぐれにうごいて霜の柱かな 今井杏太郎

この句は霜柱を詠んでいるんです。季語としては「霜」ととれるあたりが巧妙ですが。一見すると素直そうで、ひねくれている。そこに惹かれました。また、パッケージ化された熟語を疑います。「晩夏光」や「冬木立」のような季語を使うことで、思考停止になりはしないかと。

青木 分解された結果、当たり前なことがスローモーションになる感じがしますよね。鴇田さんは、時間の独特の捉え方というか、操作をしているのかなって。読者に時間を追体験させるときの操作感覚ってあるんですか?

鴇田 私の句は“写生”だと言っているんですけど、それは視覚や聴覚を言葉にするのではなくて、ものを把握するのが言葉じゃないかと思うんです。言葉を発することが俳句になる、絵筆を動かすのとおなじで、言葉を動かしているような感覚があります。自分が生きているように、言葉がある。
ものの見方の癖として、ゆっくりに見ていたりはするのかも知れないなあ。俳句は、明け方目が覚めたぼんやりしてるときに、よく推敲しますね。そうするとぼやーっと近づいてくるものがあるような気がします。

青木 ところで、二度寝は?

鴇田 します(笑) 枕元に句帳を置いています。
 
鴇田さんは、阿部完市がLSDで俳句をつくっていたみたいに、走りながら句を考えていたこともあるとのことでした。

田島 そういえば、鴇田さんたちと、鉄道博物館で吟行をしたことがあるんです。あそこは展示が変わっていて、機関車を下から見上げられるところがあって、みんなそれを同じように詠んできたんですけど、鴇田さんだけは『機関車が飛んでる!』みたいに詠んで(笑) しかも季語がピーマン!(笑) もちろんピーマンなんて無かったですよ。

一同 爆笑

田島 『凧と円柱』では『こゑふたつ』に比べて、分解していくうちに雑なものが入ってくる。ウルトラマンとかが詠み込める仕組みをつくったわけです。

青木 ふつうは分解するときに純粋にしていくのでは?

田島 分解されたものを、読者がもとに戻すと、ひとつ部品が余った! みたいなところがいいですよね。

毛布から白いテレビを見てゐたり
うぐひすを滑らかなるはヘルメット

の白いテレビやヘルメットがそれであって、詠み込める仕組みができてきたんです。

言葉で抽象を
鴇田  こゑふたつ同じこゑなる竹の秋

第一句集のこの句を詠んだとき、言葉で抽象ができるのではないかと思ったんです。今回の『凧と円柱』では、

  7は今ひらくか波の糸つらなる

この句で、僕もとうとうここまで来たか、と思いましたね(笑)独りよがりかもしれないけど、次に続きます、というかんじ。具体物だけではなくて、眠いなあ、などという気持ちもまた写生できるのではないかと。雰囲気を写す写生、でしょうか。意味を結ぶために俳句をつくっているわけではないんです。

宮本 鴇田さんの句は、この句集で広がったよね。句が私たちに近づいてきて、読みやすくなった。
という宮本さんの発言には、『こゑふたつ』の方が読みやすいんじゃないかという意見だったようです。


句集のモデルは高屋窓秋『白い夏野』
鴇田 タイトルのある細かい作品集がたくさん、というイメージです。総合誌に載っている作品のタイトルとはなんなのかを考えました。前書きのようなものは要らない派ですが、タイトルは要る気がするのはなぜか、と。だが実際、タイトルをつけることでうるさくなるのではという心配はありました。

青木 モデルにした句集があったんだそうですね。

鴇田 はい、高屋窓秋の『白い夏野』の初版本です。現代詩に近いかたちにしたかったんじゃないかと思いますね。「詩と詩論」のモダニズムというか。そこでは、タイトルと各句では同じ大きさの文字が使われているんですが、この方が読んでいて逆に邪魔にならないということに気付きました。ページの中での句の配置なども、これを参考としました。

宮本 余白とかも測ったの?

鴇田 測った!

青木 版元のふらんす堂さんの反応はどうでした? ふつうは、レイアウトは任せてしまうことが多いけれど。

鴇田 レイアウトで、ここまで指定する人は少ないって(笑)

鴇田 題を付けることで作品が違う見え方をするのを期待しました。あとがきにある心の編年体というのは、なかでも二章目に関してです。きっかけとなったのが先の震災でした。人生の中で、他ではありえないものに出会って、歴史的なものにふれたかんじがしました。避けて通れないなと思った。でも、「震災詠」のような○○詠には抵抗があります。実際、二章の句は震災の前に作った句もあるので、9.11くらいからでしょうか、以前から無意識に自覚していた芽のようなものが各所にあって、それが爆発したのではないかと思います。

おわりに

最後の質問コーナーでは、
田島 これからの若い人たちが、この句集を軸にいろいろ考えることになると思う。

鴇田 季語というのは二次的なもの、しかし17音という点は動かせないと思った。季語より17音が俳句の本質だと思います。

青木 鴇田さんの作品はすぐれたこたえではなく、すぐれた問いの提示なんです。
このような発言を得ました。終了後、サインをねだりに行くと、

むかしには黄色い凧を浮べたる

を書いて下さいました。鴇田さんの字はとても魅力的で綺麗で、こういうところも、重要な鴇田さんらしさだと思いました。

photo by saibara tenki

【ライナーノーツ】呻く。降っても、晴れても。 小津夜景

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【ライナーノーツ】
呻く。降っても、晴れても。

小津夜景



「週刊俳句」が第400号。この記念号に合わせ、柳本々々&小津夜景でリーディング・セッションを試みました。

「A面B面」スタイルと「デリダを主旋律に」というのは々々のアイデアです。これに対し夜景は、デリダの本を選び、レコードのタイトルを決め、また「バシュラールの焰光」なるフレーズをB面ソロの直前に放り込んでみました。

タイトルの Moanin’ はアート・ブレイキーからの借用。動機は「クリスマス・シーズンに聴きたいセッションといえば、やっぱりブルーノートの4000番台?」といった素朴な思いつきがまずひとつ。そしてもうひとつは、このセッションの低音部は呻きである、と感じたこと。

呻き——意味でも、非意味でも、ない言葉。今回私たちはこの私的/詩的言語をさまざまに捉えています。デリダの〈幽霊〉にはじまり、鴇田智哉の灰となった死者や松岡瑞枝の光の裏にある呻き、私たちが何かを願うことの呻き、それからクリスマスにちなんだ精霊や、亡霊や、ジェイコブ・マーレイや、ビル・マーレイ(『三人のゴースト』)や、その他多くのスクルージを呼び込むことのできる素敵なコラボになることを共に願いつつ。

【B面:松岡瑞枝を読む】それでもすべてをとどめおくために お別れに光の缶詰を開ける 柳本々々

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【B面:松岡瑞枝を読む】
それでもすべてをとどめおくために
お別れに光の缶詰を開ける


柳本々々



電気照明メディアにおける魔術的な光の復活は、アドルフ・アッピアの照明哲学をもってはじまったが、その照明哲学の意味するものは、舞台照明の領域をはるかに超え出ていた。(……)焔の魔術が届かなかった人間の意識のさらなる深層に語りかける形で、二〇世紀の電気の光は、未曾有の効果をあげたのだった。
(ヴォルフガング・シヴェルブシュ、小川さくえ訳『光と影のドラマトゥルギー-20世紀における電気照明の登場』法政大学出版局、1997年、p.168)

『門』における「洋燈」のような、濃密な関係性の〈場〉を浮かび上がらせるあかり、ひとつの〈場〉を〈いま、ここ〉で共有し合っていることを互いにかみしめるためにともされているかのようなあかり
(柴市郎「あかり・探偵・欲望──『彼岸過迄』をめぐって」『漱石研究 第11号』翰林書房、1998年、p.82)

私はまだソクラテスの背後のプラトンという、あの啓示的な破局から立ち直っていない。
(ジャック・デリダ、若森栄樹・大西雅一郎訳『絵葉書Ⅰ ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』水声社、2007年、p.22)

「火ここになき灰」という存在と非在の揺れ。

そうした存在と非在のゆれとしての〈憑在〔1〕〉をあなたに手渡すような句があります。

〈贈り物〉として。〈お別れ〉に。

 お別れに光の缶詰を開ける  松岡瑞枝

松岡瑞枝さんの句集『光の缶詰』(編集工房・円、2001年)からの一句です。

この松岡さんの句をさまざまなレベルの〈お別れ〉に立ち会うたびに思い出すのですが、わたしはこの句にとっての大事なことをひとつ決定的に〈あえて〉忘れていたかもしれません。

忘れていたけれど、それは、〈憑在〉として、〈幽霊〉として、いつまでもこの句のなかでいきづいていた。
それは、〈光〉というものが、〈灰〉すらも残さない〈火〉である点、まさに「火ここになき灰」である点、いや逆に「光ここになき火」でさえもある点において。

小津夜景さんが引用しているデリダの書いたシナリオをもう一度ここで、わたしの文脈で引用してみます。
それはまさしく、かつて亡くなった⼈のことだったのよ。でも今はもう、その名残を保持しつつ喪失していくなにか、つまり灰になっている。それこそが灰なんだわ。つまりもうなにもとどめおかないために、とどめおくもの。そうして残余を散逸に委ねてしまうもの。だからもう、そこにあるのは、灰を残して消えただれかでさえなく、ただの名前[あるいは否(ノン)]、それも判読できない名前(ノン)なのよ。それとも、このテクストの署名者と称する者につけられたあだ名と考えたってかまわないわ。そこに灰がある。こうして一つの文は、その文がなすところのもの、⽂がそうである当のものを述べているのよ。(デリダ『火ここになき灰』)
「その名残を保持しつつ喪失していくなにか、つまり灰になっている。それこそが灰なんだわ。つまりもうなにもとどめおかないために、とどめおくもの。そうして残余を散逸に委ねてしまうもの 」とデリダは書いていますが、「光」は逆の事態が起こる場所になる。

つまり、このセンテンスを〈光〉から逆立ちさせてみれば、《その名残を喪失しつつ保持していくなにか、つまり光になっている。それこそが光なんだわ。つまりそれでもすべてをとどめおくために、とどめおかないもの。そうして散逸を残余に委ねてしまうもの》。

光、とはそうしたものではなかったか。


ひかりには、散逸してしまうからこその、消えてしまうからこその、〈痕跡〉がある。

そしてそれは亡霊=幽霊=火ここになき灰のように名づけられないもの、名づけえないもの、しかし/だから、ただの〈名前の幽霊〉として〈そこ〉にただよいつづけるものです。

 お別れに光の缶詰を開ける  松岡瑞枝

〈光〉とは、幽霊的痕跡である。

ただわたしはその一方で、実はこの句はみずからでみずからの句のありようを解体している、デリダのタームでいえば、〈脱構築〔2〕〉しているのではないかとおもったりもするのです。〈光〉に沿って、〈光〉によって、みずから放つ〈光〉そのものを。

この句を定型にそって、解体してみます。

おわかれに/ひかりのかんづ/めをあける

めを、あける。

こんなふうにこの句は、「缶詰を開ける」のなかに、下五としての「めをあける=眼を開ける」という違った意味の位相を潜在的にかかえこんでいます。

「お別れ」のさなか、〈光の缶詰を開け〉つつも、この句自体が〈光〉のなかでいままさに〈眼をあけ〉ようとしている。〈眼をあけ〉て〈見る〉のは、〈わたし〉かもしれないし、〈あなた〉かもしれない。〈わたし〉でも〈あなた〉でもない〈亡霊〉としての名も無き〈痕跡〉かもしれない。光、かもしれない。

しかしその〈痕跡〉を覆い尽くさんばかりの〈光〉にこそ、わたしはこの句における〈光〉としての抵抗をみるのです。

缶詰からあふれた光は、一方では、幽霊的痕跡としての光かもしれない。名も無き〈痕跡〉として〈呻き〉つづけるかもしれない。《なにもとどめおかないために》光りつづけるひかりそのものかもしれない。

でもその一方で、その光は、〈わたし〉と〈あなた〉を、〈めをあける〉行為を介して分離させつつも、受肉化させる〈光〉=〈場〉の生成として機能したのではないか。なんのために?

それでもすべてをとどめおくために。

幽霊も、亡霊も、幽霊の声も、亡霊の叫びも、火も、灰も、火ここになき灰も、光も、偶然性と複数性の記憶も、ここには、この場には、缶詰をあけてあふれくるう光のさなかには、ない。《なにもとどめおかない》。

でも、たったひとつ、いま「お別れ」のこのときに、わたしが、あなたが、いま、ここ、で、〈眼〉にしている〈光〉景は、《それでもすべてをとどめおくために》たしかにここにあるのだ、と。
同一性(アイデンティティ)を持ちたくないわけではない、とデリダは明言している。しかし彼には幽霊の声(叫び)が聞こえる。それは彼の同一性が決定された瞬間の、偶然性と複数性の記憶である。何故あなたはデリダなのか
(東浩紀「幽霊に憑かれた哲学」『存在論的、郵便的』新潮社、1998年、p.70)
光の缶詰を開ける。

眼を開ける。

だから、わたし/たちは、決まって、いつも〈お別れ〉を失敗してしまう。

〈光〉は〈光〉として、〈お別れ〉を未遂させてしまう。

何故お別れしようとするあなた《も》デリダなのか。

それはたぶん〈わたし〉と〈あなた〉が〈光〉でもって容易に〈融合化〉されえないような〈ちがう〉ものだから。

だからこそ、逆説的な光として、問いは、つづく。

「何故お別れしようとするあなた《も》デリダなのか」。

そういえば、松岡瑞枝さんの句集『光の缶詰』は、こんな光の一句で、おわっていました。

 一粒のビーズつながれずに光る  松岡瑞枝

あなたとわたしが「つながれずに」、けれども、あなたもわたしも限りなくひかりあふれだして、祝福の、祝祭の、ひかりのなかで、あなたもわたしも〈幽霊〉として思い出している、時間を祝祭的に倒錯させながら、別れはいつもそれが同時に出会いであったことを、あなたとわたしの別れそのものが出会いをもそのままに意味していたことを、だから、
ランプが君臨したところには、思い出が君臨している。
(ガストン・バシュラール、澁澤孝輔訳『蝋燭の焔』現代思潮新社、2007年、p.26)


【註】

〔1〕「幽霊の回帰がもたらす倒錯的な時間/世界にのみ、ほの見える倫理があるという。(……)デリダは、自己に先立ち自我を規定する亡霊の視点から、存在の別次元を見出そうとする。幽霊に取り憑かれるがゆえに、自己同一的な実存意識を攪乱され、悩み、苦しみ、憂鬱を訴える人間の存在性を、デリダは「憑在」と呼んでいる。」(新田啓子「回帰する場」『アメリカ文学のカルトグラフィー─批評による認知地図の試み』研究社、2012年、p.177)

〔2〕「脱構築は、反対に、「終局=目的性をもたない奇妙な戦略」である。それは、現前の本性や「終わり=目的」の意味するだろうものについて独断的に前提するいかなる種類の宗教的、あるいは、政治的言説であろうとも問い返していく批判的な営みを力づける」とニコラス・ロイルは説明する(ニコラス・ロイル、田崎英明訳「自由であれ」『ジャック・デリダ』青土社、2006年、p.73)。脱構築とは、未然形の経験の終わりない継続ということもできる。それは、遂行ではない。なされ、えない。だから、ずっと、つづく。つづいて、ゆく。

【A面:鴇田智哉を読む】なにもとどめおかないために あけがたを死せり白炉をとほくして

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【A面:鴇田智哉を読む】
なにもとどめおかないために
あけがたを死せり白炉をとほくして

小津夜景



鴇田智哉の句を語るとき、私は「痕跡」という語をしばしば使ってきました。が、そもそも言葉にとって痕跡とは何かという点については全く言及してこなかったことに気づいたので、今回は句には軽く触れる感じにして、この問いをいちど立ち止まって考えてみようと思います。

ジャック・デリダに『火ここになき灰』という薄い本があります。これは「ここに灰がある」という謎の一文を端緒として、死者の灰の痕跡性を恋愛のメタファーに絡めて語った本なのですが(今ネットで調べたら、翻訳はかなり過激です)そこにこんなことが書いてあります(訳は未知のサイトからの孫引き)。
それはまさしく、かつて亡くなった人のことだったのよ。でも今はもう、その名残を保持しつつ喪失していくなにか、つまり灰になっている。それこそが灰なんだわ。つまりもうなにもとどめおかないために、とどめおくもの。そうして残余を散逸に委ねてしまうもの。だからもう、そこにあるのは、灰を残して消えただれかでさえなく、ただの名前[あるいは否(ノン)]、それも判読できない名前(ノン)なのよ。それとも、このテクストの署名者と称する者につけられたあだ名と考えたってかまわないわ。そこに灰がある。こうして一つの文は、その文がなすところのもの、文がそうである当のものを述べているのよ。(デリダ『火ここになき灰』)
燃え灰そのものは何の実体でもない。それは言うなれば影のようなもの、すなわち「そこに誰かがいた」という実体の名残にすぎない。だがわたしはそんな名残さえも風の中に失うだろう。そして結局、わたしの元に留まるのは、いまや見え難い幽霊のようにも感じられる名前だけとなるのだ。あるいはこのテクストの作者にしても同じことがいえる。つまり作者は「そこに灰がある」と書きながら暗に「このテクストは灰である」と語り、そして自分も「名前」だけを残して去ったのである。

と、これがデリダの考える灰=痕跡です。

灰という残らざる痕跡と、その痕跡を思慕しつつ、見え難い文字を掴もうとする人。私にはこの「灰と言葉を編む人」の関係が「水鏡と絵を描く人」の関係にとても似ているように思えます。なにしろこの灰は、たんなる燃やされた実体でなく、あるようでないような名前と化した儚い粉のヴェールなのですから。もしかすると、絵を描くこと(絵画的イメージの創出)が実体ならざる水鏡を抱くことであるのと同じように、言葉を編むこと(言語的イメージの創出)もこの遺骸ならざる灰を技芸(アート)によって掬い取ることに繋がるのかもしれません。

  あけがたを死せり白炉をとほくして   鴇田智哉

もっとも「誰か判然としない死」を「ほの白い暁/白くのぼる煙/白くのこる灰」という何層ものヴェールがひっそりと取り囲むこの句を目にした時、私がまず思い出したのはデリダではなく、未生響の次のような回文詩でした。
無題  未生響

むけいがなんぢ
みな これがあれか
やはらかき
なきからはやかれ
あがれこなみぢん
ながいけむ

無形が汝
皆 これがあれか
柔らかき
亡骸は焼かれ
上がれ粉微塵
長い煙〔*1〕
掲句は、まるでこの回文詩に添えられた反歌のようです。

ところで、この詩の「形のないあなた」という冒頭部分、これは十中八九、言葉がみずからの思慕するイメージに対して呼びかけている光景と思われます。未だ生まれざる響きという、どことなく「未生の時空におけるノイジーな白」〔*2〕じみた筆名をもつこの詩人は常に「かたちのないイメージ=遺骸ならざる灰」を言葉で掬い上げようとする作品を書いてきました。

もちろん、かたちのないイメージ=灰は、掬っても散ってしまう。そして散ったあとは記憶もあいまいとなり、うまく喪に服することが叶わない。デリダの言う「ただの名前[あるいは否(ノン)]、それも判読できない名前」とか「なにもとどめおかないために、とどめおくもの」とか「決して残余しえないもの」とは、そういった出来事です。私たちには、この出来事の空しさから逃れることも、それを充足した意味によって粉飾することも許されていません。

おまえが言葉の骨壺を紙に託したとしても、それはおまえをいっそう燃え立たせるためなのだ(中略)この文の中に見えるのは、墓碑の墓碑だ。それは不可能な墓の記念碑なのだ――それは禁じられた墓で、ちょうど遺骸を納めぬ墓[cénotaphe]の記憶のようなものだ。そこでは忍耐強い喪の作業が拒否されている。(『火ここになき灰』)

もういちど繰り返します。これが「散りゆく痕跡=帰らぬイメージ」を思慕する「言葉の風景」です。

掴もうとすると燃えてしまい、掬おうとすると散じてしまうもの。

遺骸(=実体)を納め得ない、骨壺あるいは墓(=言葉)。

散逸し、喪失した灰のヴェールをめぐる、記憶の旅。

このように「言葉の風景」とは、いつも、永遠に、死者のだれひとりいない墓原です。

そして、あるいは、もしかすると、ディアファネースをめぐる鴇田智哉の営みというのもまた「今そこに、私の思慕するおぼろげな何かが視えたのか?」といった、本人の喪失した「痕跡」とふたたび還り逢うための、終わらない旅なのかもしれません〔*3〕

散りゆくことを運命づけられた、かたちのないイメージ=灰と、それを抱こうとする言葉との終わらない旅。けれども私個人は、少なくともこうした事実を潔く受け入れる者にだけは、灰を抱きしめるという奇跡がいつか訪れるだろう、とぼんやり思っています。

それはなぜか? 

それは、本当のイメージとは、決して存在(présence)の写し(re-présentation)などではなく、わたしの深い、身を揉むような呻きに点火する「焰の光」、すなわちバシュラール風に言うところの新たな創造(création)であるに違いないからです。



〔*1〕未生響の詩は手元に本がなく、記憶からの引用。

〔*2〕【鴇田智哉を読む2】「白」をめぐって、を参照。
http://weekly-haiku.blogspot.fr/2014/11/2.html

〔*3〕実は『火ここになき灰』という本は、デリダがラジオ番組用に書き下ろしたシナリオなのだそう。本当に?と調べてみたらCDも出ていました。朗読はキャロル・ブーケ。

『欲望のあいまいな対象(Cet obscur objet du désir)』の女優がデリダの本をよむという露骨な符号。この企画は「私の思慕するおぼろげな何か(obscur objet du désir)」側から人間への、すなわち〈幽霊〉の側から〈あなた〉への呼びかけだったのでしょう。


週刊俳句 第400号 2014年12月21日

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【A面/鴇田智哉を読む】
なにもとどめおかないために
あけがたを死せり白炉をとほくして……小津夜景 ≫読む

【B面/松岡瑞枝を読む】
それでもすべてをとどめおくために 
お別れに光の缶詰を開ける……柳本々々 ≫読む

【ライナーノーツ】
呻く。降っても、晴れても。……小津夜景 ≫読む

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400号記念座談

1■土曜24時のピンチ
毎週の更新にあたって当番それぞれの事故と失敗。 ≫視聴する

2■動画を貼り付けたりしてましたね、むかし
最近の週俳、俳句にかまけすぎてるんじゃないですかね。 ≫視聴する

3■記憶に残る記事
福田若之(高校2年生)デビューの衝撃その他。 ≫視聴する

4■句集、出すんですって?
信治さん、いよいよですか。篠さんはまだぁ? ≫視聴する

5■岸本尚毅句集『小』について語るよ
「どうでもよさ」が極まってきましたね。 ≫視聴する

6■週俳のこれから
といった大仰なものではなくて単に編集企画。 ≫視聴する
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【イベントレポート】
『凧と円柱』刊行記念「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ」イベントリポート
……青木ともじ(構成 佐藤文香) ≫読む

下北沢で見たカラフルな白いテレビ
青木亮人・鴇田智哉・田島健一・宮本佳世乃【『凧と円柱』刊行記念「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ」2014年12月13日・下北沢B&B】極私的レポート……柳本々 ≫読む

抽象の景色
鴇田智哉『凧と円柱』イベントのメモ……西原天気 ≫読む


【2014落選展を読む】
2.何を書きたいか……依光陽子 ≫読む

4.書いているところ……堀下翔 ≫読む


【週俳11月の俳句を読む】 
伝えあう言葉 松野苑子 ≫読む

キーワードの明滅 小池康生 ≫読む

どちらへも行けない寂しさ 近 恵 ≫読む


連載 八田木枯の一句
荒嚙みの鬼房ならむ青く冱て……角谷昌子 ≫読む

自由律俳句を読む 71
現代自由律百人句集第II集〔2〕……馬場古戸暢 ≫読む

〔今週号の表紙〕二次会……西原天気 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む


 
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週刊俳句 第401号 2014年12月28日

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2014年12月28日

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「≫読む」のパサージュをぶらつきながら――引用集
……福田若之・編 ≫読む

【2014落選展を読む】
5. 文体……堀下翔 ≫読む

【座談拾遺】
『俳句年鑑2015年版』を読んだ
2014年の収穫「30代・20代・10代」の件。衆院選の翌日ということもあって最後は安倍内閣というオチ。 ≫視聴する


自由律俳句を読む 73
秋山秋紅蓼〔1〕……馬場古戸暢 ≫読む

連載 八田木枯の一句
寒柝に老人肝を偸まれし……西原天気 ≫読む

〔今週号の表紙〕海岸線……西原天気 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……西原天気 ≫読む


 
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自由律俳句を読む 74 秋山秋紅蓼〔2〕 馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 74  秋山秋紅蓼2

馬場古戸暢


前回に引き続き、秋山秋紅蓼句を鑑賞する。

やまのしずけさはいちりん咲いてむらさき  秋山秋紅蓼

この句通りの景が広がっていたにすぎないのだろうが、私自身がこうした雰囲気を好むためかどうしても採ってしまう。景をそのまま詠むに、自由律俳句は便利だと思う。

漬菜の塩がこぼれてゐて日のくれ  同

知らないうちに齢を重ねたのか、最近、漬物が好きでたまらない。掲句を読んで軽く涎が出て来たが、子供の時分にはそうしたこともなかったはずだ。よい変化である。

春の白い富士に犬が来てゐる野の道  同

富士を遠くに見ることができる峠で詠まれたものか。ここでの犬は、きっと野良犬であっただろう。野良犬が消えている昨今において、こうした句を詠むことはできるのだろうか。

新茶ふくみてみどりの朝を身にする 

漬物と同様に、最近、お茶が好きになってきた。長らくコーヒーばかりを飲んできたが、そろそろ「みどりの朝を身にする」時が来たのかもしれない。

梅花無残散つて咲いて散り果てている  同

要は、梅の花が散ったということである。しかし、このくどさに面白みを感じて、採ることとなった。どれほどの散り具合だったのだろうか。

【八田木枯の一句】何もなきことなどはなし初景色 西村麒麟

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【八田木枯の一句】
何もなきことなどはなし初景色

西村麒麟


『夜さり』(2004年)より。

何もなきことなどはなし初景色  八田木枯

確かに。

年末はわけのわからないまま過ぎて行き、気が付くとあっけなく新年を迎える、昔も今もそういうものだ。

まぁでも、そうは言っても、何もなきほどでは無いのである。

走りに走った年末の後に、新年だからと少しだけぼーっとする、これもまた人生で一番楽しい時間の一つだ。

新年を迎えると、いつも木枯さんが一月一日生まれだということを思い出す。木枯さんの初景色は誕生日の日でもある。

何もなき日なわけはない。

亡くなる二ヶ月前に最後に木枯さんに句会でお目にかかった時、たまたま僕の方を見て言葉をかけて下さった。

「君達の世代では、新年の、感じも、なかなか実感できないかもしれないけれど…」

「新年」のもつ美しさを最後に伝えて下さっているようだった。

木枯さんは新年が好きだった。

週刊俳句 第402号 2014年1月4日

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第402号
2015年1月4日


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2015新年詠  (ほぼ御投句順)


≫縦書き

鏡餅歯科医師レジスターを打つ   瀬戸正洋
トイレットペーパーを繰る去年今年 鈴木茂雄
焼夷弾吊り上げてゐる初景色    谷口智行
子が二人木菟の声深きより     花尻万博
蛸壺の口の揃ひし恵方かな     山口昭男
昆布噛めば鰊現れおらが春     岸本尚毅
にんげんにふぐりあること初笑  松本てふこ
ペンギンは歩く初日のど真ん中  山本たくや
「ひ」め始め「つ」まは我より「じ」ゆう人 塩見恵介
門松のみどり神の在り処      赤間 学
呼び名与えよ若水に若潮に    五十嵐秀彦
裏白や岬は空をつらぬけり     五島高資
金銀の碗を送りて初茶の湯     山西雅子
初空や裏表紙だけ燃え残り     今井 聖
煙突のけむりの下の初湯かな    清水良郎
 

2015.1.1
AとBと並ぶCとの初ライブ   矢作十志夫
新年が大きな口をあけて待つ    小林苑を
肉が刃を離さぬ気概大旦      辻本鷹之
初明り(なに様だよお前)と俺   佐山哲郎
初夢の底やわらかく踏みはずす  月野ぽぽな
ゴジラたちと明日をみている初日の出 片岡義順
電線の朝日にたわむ初景色     中西亮太
大縄跳び初富士を入れ海を入れ   広渡敬雄
歳神の息にかがやか畳の目     中村 遥
二日はや僕のかたちの肌着かな  竹内宗一郎
すこやかに腹減つてきし千代の春 齋藤朝比古
しんいちの結末ほどのさんなすび  月波与生
サラブレットすぐそばにゐて年を越す 森 光葉
基督の釘深からん初明り      曾根 毅
絵馬揺らぐ高さやうやく埋まりけり 三島ちとせ
からまつは縦に美し初茜      南十二国
読み初めの森にみづ色の土地神   藤 幹子
地球儀に地球の埃初昔       常盤 優
ニッポンのごまめの白き目は泪   村嶋正浩
亀も来よわが万年の床の春   ハードエッジ
新春や点滴の手を握りしめ     後閑達雄
曲独楽のきつ先のぼりつめて跳ぶ 五十嵐義知
ベツレヘムに巨きな目がある裸木  宇井十間
新玉のmailのメーも御慶かな     高山れおな
初笑どつと起こりぬ壁の中    津川絵理子
除雪車が来る 2015.1.1に     徳田ひろ子
新暦三箇所時計五個私室    小久保佳世子
初夢の鳥よトシヨリコイと鳴く   青木空知
湯のなかに亀石のある淑気かな   小池康生
金箔のちらちら浮きし福茶かな   鈴木不意
金竿のがつんと鳴りぬ初颪     野口 裕
七草のみるみる母に刻まるる    加藤御影
グールドの唸り溶けざる淑気かな トオイダイスケ
ロボットめくギプスの腕や大旦   三浦 郁

2015.1.2
咲くほどに僧居に似たる二日かな  小津夜景
南方に初花火あり火薬なり     橋本 直
人日や二つにひとつばかりを問ふ  森賀まり
雲ひとつ千切り雑煮に浮かべけり  青柳 飛
新日記の上にスマホもペンも載る  興梠 隆
てのひらに遠き手の甲年明くる   山田露結
元旦の雷元旦の山濡らす     しなだしん
羊日の人魚と来たらノックして   小川楓子
エレベータ上つて下りて年の夜   杉原祐之
狼になるまへの犬春襲       彌榮浩樹
輪飾の隣に小さき星のあり     涼野海音
セーターを抜け新しき年の顔   遠藤千鶴羽
夫淹るる珈琲熱しお元日      岩上明美
御降や日輪仄と見えながら     今井肖子
身籠れる賀客来りて宴闌     淡海うたひ
大楠を紀伊大王と呼ぶ淑気     堀本裕樹
繭玉を見に来ると言ふ男あり    茅根知子
初夢のムー大陸に行つたきり    松野苑子
初空や名のある坂をゆつくりと   塩見明子
太陽(ひ)の貎がきのうのかおと異うのよ 金原まさ子
初忘れものはメガネとパートナー  紀本直美
天地のあはひに生きて初明り    熊谷 尚
初風の枝分かれして団地群     滝川直広

2015.1.3
鏡餅しんしんと杉立ち並び     村上鞆彦
数の子をくれるゴーストライターたち 岡本飛び地
地下鉄道みんな喪中じゃないんだね  佐藤文香
初夢の何処かにこども置いてきぬ  榊 倫代
昨年の枯葉の積る春の坂      上野葉月
元日や重き新聞立つる音      西村小市
大服やかへりみすれば只渺茫   利普苑るな
重箱を泡に放りし二日かな    小早川忠義
断捨離と勿体無さの二日かな      灌木
初冨士へ昇るスケルトンエレベーター 石原 明
元日の犬吠え合って暮れにけり   四ッ谷龍
トレンドはまた太眉や初鏡     栗山 心
初鏡わたしと私鬩ぎ合ふ      藤崎幸恵
しあはせと問はれてをりぬ狼に  照屋眞理子
一息にシャッター開ける初御空   鈴木牛後
自爆せし少女のごとく福笑     内藤独楽
初夢やドーナツの輪を潜り抜け   金子 敦
少年の素振りは止まず初雀     吉川わる
守りたき山河見定むお元日     小野裕三
紅白の餅がいちゃいちゃ網の上   高橋透水
静岡は良いところなり初笑     西村麒麟
双六の箱根山にて抜きかへす    菊田一平
塩つまむやうにめくりし初暦    鈴木健司
初御空鼓膜の痛くなつてきし    柏柳明子
のどかさの顔から顔へ欠伸かな   兼城 雄
初富士の雲の影なり蒼くあり    押野 裕
屠蘇に酔ひ少女の胸の膨らみぬ  高橋亜紀彦
光る雲光降らせて初山河    すずきみのる
初夢の巨人渋谷に現れよ      高柳克弘
しづまらぬ一点のあり雑煮椀    阪西敦子
日の丸を軍旗にすまじ初日の出   鳴戸奈菜
群れ立つペンギン替えた電球を試した 福田若之
御降りの純白に夜の明けにけり   日隈恵里
鼻が少し残念でしたゆきおんな   宮崎斗士
正月のいたるところに貼つてある 嵯峨根鈴子
御降や御門かたれば訓詁学     赤野四羽
階段の母の足音寝正月      河野けいこ
羊来て蜂蜜色の三が日     赤羽根めぐみ
輪飾が閉じつぱなしのシャッターに 林 雅樹
白き鳥淑気乱さず羽ばたけり    藤井南帆
列島砕きつ惑星大の宝船      関 悦史
膝上に聞く満洲や七種粥      中山奈々
雪降る元旦に甥の顔姪の顔    馬場古戸暢
絵に描いたやうな二世帯初筑波   岡野泰輔
放たれて独楽の宇宙が回りだす   川越歌澄
一列にされひねもすを羊かな    山田耕司
凍て河に花火の骸や淑気満つ    村越 敦
初鶏やヌナカワヒメの胸の玉    小澤 實
白息や「ジャムおじさん」の描きをはり 中原和也
観覧車二日の街のあはきこと    石井薔子
初凪やソーラーパネル多き街    小林鮎美
筋肉ののびてちぢんではや三日  笹木くろえ
靴履くや元日の雪降りやまず    岡村知昭
川の字の床より仰ぐ初御空    西山ゆりこ
双六を司る手のきらきらす     黒岩徳将
群羊の幸あるごとし初句会     山﨑百花
初凪の鴨にまじりて鳰      対中いずみ
元日を愚てふ子規をり生き急ぐ   小林千史
元日の午後の釣堀こみあへる   前北かおる
火の鳥にタレの香りや寝正月    澤田和弥
ぼろぼろの投扇興の畳かな     堀下 翔
初髪や素足と下駄はひとつづき   下坂速穂
鐘が鳴る方へ歩きぬ初詣      依光正樹
物と物触れ合はずある淑気かな   依光陽子
目の前で烏賊がのされてゆく淑気   近 恵
西川羊毛蒲團恐ろし今朝の春    閒村俊一
駅伝中継観てる場合か あっ雪の富士 池田澄子
無神論者もお神酒が嬉し初詣    渕上信子
何もせず座ってをりぬ初電車   服部さやか
お降りのはじめは鳥のやうな息   渡戸 舫
たましいはぶつかりあって鏡餅   原 知子
お降りの糸散らばつてゐる東京  宮本佳世乃
水を呑む音の聞こゆる歌かるた   田中惣菜
呑み込むにいま丁度よき初没日   関根誠子
杉青くセロリはみどり今朝の春   田中亜美
初富士や二軍のマウンド一文字   川里 隆
口のみがまるでいきもの寝正月   今野浮儚
初湯殿ぷかりと小さき野心かな   久才秀樹
犬居らぬ小屋真つ先に初日浴ぶ   玉田憲子
買初や一括払ひにて済ます     三村凌霄
東雲やわらかに陽のそこかしこ     琳譜
年玉の袋ミッキーマウス笑む    沼田美山
あらたまの岩のくぼみの葉を払ふ  大西 朋
門松や山の向かうは夕日の国    山口優夢
初日さす愛児の鼻をつまみけり   本多 燐
幾つもの餅重なりて汝が雑煮    江渡華子
雑煮のみ食うて立ち去る息子かな 津久井健之
歌いだすまえの冷たいお正月    田島健一
初春の雀が頬を見せにくる     川嶋一美
御降やみるまに山を降りかくし   糸屋和恵
初旅や首無し仏に日零(ふ)るも   九堂夜想
少女らに渋谷が全て福袋      神野紗希
コンビニのサンドウィッチを選る二日 マイマイ
初声の後いつせいに飛びにけり   岡田一実
初詣迷へる羊の群れどころ     雪井苑生
初日薄氷を割る          矢野錆助
年が逝き年が来我らみな静寂    筑紫磐井
元日の夜のタクシーを降りにけり  大穂照久
初刷りに戦果言祝ぐ世もありし   有川澄宏
ちよと小節きかせすぎなり歌かるた 小沢麻結

三日かな早稲田松竹満員に       西丘伊吹
白鷺の電線にゐる初大師      石田遊起
雪のごと鳩の羽散る鷹日和     満田春日
けの汁や祖母の唄っている銀河  佐々木貴子
初恋の火の残りある歌留多取      菊子

繭玉に夜のマネキン人形が     鴇田智哉
DJの声にエコーや去年今年    岡田由季
初富士を東戸塚に見てかへる    上田信治

………………………………………………………………


自由律俳句を読む 74
秋山秋紅蓼〔2〕……馬場古戸暢 ≫読む

連載 八田木枯の一句
何もなきことなどはなし初景色  
……西村麒麟 ≫読む

〔今週号の表紙〕under construction



後記+執筆者プロフィール……上田信治 under construction


 
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〔今週号の表紙〕第402号 緩衝材 西原天気

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〔今週号の表紙〕
第402号 緩衝材

西原天気



アメリカから届いた小包に入っていた緩衝材。

こういうのって、アメリカのどこか田舎町の小さな工場で作ってるんだろうなあ、と想像するのはちょっと楽しいのです。



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2015新年詠 縦書き

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週刊俳句 第402号 2015-1-4
2015新年詠
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〔今週号の表紙〕第403号 柚子 雪井苑生

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〔今週号の表紙〕
第403号 柚子

雪井苑生



冬になるとお世話になるのが柚子。当地は田舎なので農産物直売所に行くと、3個入り100円とか、とても安い値段で手に入るので重宝している。冬至の柚子湯にも惜しげなくたっぷり浮かべて。

日本酒に柚子を絞って飲むのが好きだ。それは邪道だ、焼酎ならいいけどと怒られたことがあるけど、どうしてなかなかオツなものですよ。

しかしなんといってもメインは柚子ジャム。これは作るのがけっこう面倒なのだが、とても応用範囲が広いので、ひと冬に2回くらいはがんばってたくさん作り置きしておく。

柚子ジャムの作り方は検索すればたくさん出てきます。私はスピードカッターと圧力鍋を駆使して手抜きして作るけど、保存する瓶の消毒とかもあるのでけっこうな大仕事になる。

そうやって作った柚子ジャム、まず毎夜寝る前のホットドリンク(柚子茶)に。ジャムにウィスキーを少量入れ、熱湯を注ぐ。ぽかぽかと温まってよく眠れる。風呂吹大根の時など、味噌に混ぜて伸ばすと香り高い柚子味噌に。大根と人参のなますの甘酢とか、りんごなどを使ったフルーツ系サラダのドレッシングに混ぜると一味違ったさわやかさ。輪切りにしたサツマイモをこれで煮ると洒落た箸休めに。何より冬という季節を舌で感じられるのがいい。もちろんジャムとしてそのままパンにつけても。

ビタミンC、クエン酸、ビタミンB1、鉄分などが含まれた柚子。血行を促して身体を温め、疲労回復や風邪の予防、美肌にも効果があるそうだ。どんどん活用しましょう!



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自由律俳句を読む 75 富永鳩山〔1〕 馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 75 富永鳩山〔1〕

馬場古戸暢


富永鳩山(とみながきゅうざん、1938-)は、山口出身の自由律俳人、書道家である。1979年に「山頭火研究会」(後の「山頭火ふるさと会」)を結成して以降、自由律句壇クラブ群妙を主宰誌し、自由律句のひろばの初代代表を務めるなど、精力的な活動を続けている。NHK山口テレビの「自由律句らぶ」の講師を務めていたので、ご存知の方も多かろう。共著に『漢詩による山頭火の世界』がある。以下では数句を選んで、鑑賞したい。

語りはじめそうな石の横  富永鳩山

第九回放哉賞大賞受賞作品。川原に座っているところを詠んだもののような気がする。以下に見るように、氏には石の句が多い。

まるい石が立ち上がる寒い川  同

「まるい石が立ち上がる」とは、立ち上がった状態を詠んだものか、それとも立ち上がりつつあるところを詠んだものか。おそらくは前者だろうが、寒い川では後者も起こりそうな気がする。

それからは大きな石もちあげる  同

ここまで鑑賞文を書いて来て、もしや石そのものが好きな詠み手なのかと思いいたった。私ならば、石をもちあげるという発想すら湧かない。

石のかたちの凹みを見る  同

子供の時分、水切り用にすべすべの石を探して歩いたことを思い出した。その頃以来、石のかたちを意識して見たことはたぶんない。

筋を通してひばり垂直に鳴く  同

兎角に人の世は住みにくいものだが、ひばりにはまったく関係ないことのようだ。とりあえず今日もいつものように、垂直に鳴いてみた次第である。

【八田木枯の一句】松過ぎの承塵に夕日あたりけり 太田うさぎ

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【八田木枯の一句】
松過ぎの承塵に夕日あたりけり

太田うさぎ


長かった筈の年末年始の休みもあっという間に終わってしまった。家々やオフィスビルの玄関を飾っていた門松も姿を消し、街は数日前までのよそゆき顔をさっぱり取り払っていつも通りの表情を見せている。

ふだんの生活に戻りつつあるにはあるのだけれど、正月気分とはまだ手を切れない。正月の方でも去りがてにふらふらしているような気がする。

「松過ぎ」という季語にはこの時期のものさびしいようなとりとめのなさが込められているようで惹かれる。「松明」はぴしっと気持を切り替える感じがあるが、「松過ぎ」はもう少し漂っている感じ。

松過ぎの承塵(なげし)に夕日あたりけり  八田木枯(『鏡騒』)

窓から差し込んだ夕日が長押を照らしている。そういえば日脚が伸びてきたな、などと実感するようになるのも今頃から。長押のような見慣れたものが目に留まるのもいささかの無聊ゆえか。そんなところが松過ぎの雰囲気を伝える。

一般的な表記として「長押」と書いて来たが「なげし」は句の上では「承塵」の漢字を当てられている。表記に対する作者一流の拘りが見てとれる。意味も表現も平明な句をこうした漢字を使うことによって締めるのだ。一方で下五は「あたりけり」と平仮名にしてやわらかく放つ。粋な心配りだ。

この句いいな、と思ったらなんとなく長押にまで愛着が湧いてきた。不思議なものである。


小池正博に出逢うセーレン・オービエ・キルケゴール、あるいは二人(+1+1+1+n+…)でする草刈り 柳本々々

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小池正博に出逢うセーレン・オービエ・キルケゴール、あるいは二人(+1+1+1+n+…)でする草刈り

柳本々々



想起されるものは、すでに過去にあったものであり、いわば後方にむかって反復される。これに反して、ほんとうの反復は、前方にむかって想起するのである。したがって、反復は、それが可能であるならば、人間を幸福にする。
(キルケゴール、前田敬作訳「反復」『キルケゴール著作集5』白水社、1995年、p.206)

  夏草を刈る夏草の関係者  小池正博

小池正博さんの句集『セレクション柳人6 小池正博集』(邑書林、2005年)からの一句です。

ずいぶん唐突すぎるかもしれないのですが、この小池さんの句に〈関係〉しようとする前に、キルケゴールの有名な、かつ読む者を関係の困惑に誘い込むような次のことばを思い出してみたいとおもうのです。
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。
(セーレン・キルケゴール、桝田啓三郎訳「死に至る病とは絶望のことである」『死にいたる病』ちくま学芸文庫、1996年、p.27)
ここでわたしなりにキルケゴールの〈関係〉についての上記のことばを端的にまとめてみるならば次のようにいえるのではないでしょうか。

〈関係〉はひとつに収束するものとしてあるのではなく、〈関係〉する〈関係〉のn連鎖としての〈関係〉としてみるべきだ、と。そしてそこにこそ、〈じぶん〉はあるんだ、と〔*1〕

小池さんの句にもどります。

この句には、すくなくとも五つの〈関係〉する〈関係〉が指摘できます。〈関係〉してみます。

ひとつは、「刈る」という行為からの〈関係〉です。「夏草の関係者」は「刈る」という行為によって「夏草」に〈関係〉しています。行為によって生成されるアクションとしての〈関係〉です。

ふたつめは、「夏草の関係者」という〈記述〉による関係です。刈っているそのひとは、〈そのひと〉ではなく、「夏草の関係者」とことばによって〈属性〉として記述されている。そうしたことばによって生成されることばから派生した属性的〈関係〉です。

みっつめは、同語反復として繰り返された句における「夏草」と「夏草」の関係です。「夏草」は《二度》繰り返されたことにより、「(関係する)夏草」と「(関係される)夏草」に記号生成されていく。そうした「夏草」と「夏草」の差異=示差性としての記号〈関係〉。

よっつめは、語り手と「夏草を刈る夏草の関係者」との〈関係〉です。語り手は「夏草を刈る夏草の関係者」を(みて)、語っている。川柳として組織化している。語り手と「夏草の関係者」との〈関係〉。

さいごの関係は、わたしたち読み手とこの句との〈関係〉です。わたしたちはこの句を読むことによってこの句に〈関係〉してしまう。〈読む〉ことはいつでも〈関係〉してしまうことです。そして読み手はいつも〈単独者〉として〈関係〉を決め、あるいは〈関係〉から逃避し、〈関係〉へのみずからのふるまいを〈関係〉しなければならない。

以上、五つの関係がこの句には胚胎しているのではないかとおもうのです。

そうして、この句をひとめみた瞬間、それがなにかはわからないけれども眩惑してしまうのだとしたら、それはこの句がこの句に内在している関係の交錯した状況を一瞬のうちに束ねつつも生成してしまっているからではないか。

冒頭でキルケゴールはこう述べていました。

じぶんとは、関係する関係なのだと。

これは、関係が分断されているからではありません。

関係が関係として関係するからこそ、そうした関係をむすびあわせていく(ことをせざるをえない)自己がある/いるからです。

そしてそのような自己は川柳のひとつの主体としてもこの句にあらわれている。

ひとつの関係的主体としてまとめてみると、どうなるか。

さきほどの五つの〈関係〉する〈関係〉を〈関係〉として束ねていくならば、つぎのようになります。

夏草を刈る夏草の関係者。

という「夏草」が「夏草」に〈関係〉していくこの句。

を川柳として組織化することで〈関係〉している語り手。

に〈関係〉しつつも〈関係〉をつむぎはじめてしまうであろう読み手。

という〈関係〉を意識したやぎもともともと。

に〈関係〉してしまい今この〈関係〉をめぐる奇異な文章を読んでいる〈あなた〉。

のとなりですやすやねむっている〈だれか〉。

が夢のなかで想っている〈だれか〉。

のとなりでやはりすやすや寝ている〈だれか〉。

の……

〈関係〉とは、〈関係〉ではないのです。

〈関係〉とは、収束することのできない〈関係〉が、〈関係〉のままに続いていくことなのです。

〈関係〉とはそのような〈関係・的〉にしかとらえられないものであり、そしてその限りにおいてで《しか》〈関係〉は〈関係〉としてなりたちえないのです。

そしてその終わりのない〈関係〉のなかで、〈じぶん〉が生まれてきたり、句の意味生成がうまれてきたりする。

あえていうならば、その〈関係〉する〈関係〉をどのようにひきうけ、どのように生きるかという〈実存〉にこそ、〈わたし〉の生の、〈あなた〉の生の、川柳の意味生成の〈関係〉が発動しているはずです。

〈あれか、これか〔*2〕〉ではなかった盲目的なレギーネとの熱烈な恋愛からの婚約と、にもかかわらず〈おそれとおののき〔*3〕〉のなかで一方的な婚約破棄を行ったキルケゴール〔*4〕

彼はそういうかたちでもってさえも、〈関係〉する〈関係〉をつくっていったようにわたしはおもうのです。

ひとは〈関係〉をやめることはできない。〈関係〉をひきうけることしかできない。どのような別れや破棄も、それは〈非関係〉ではない。ひとつの〈関係〉する〈関係〉をひきうけ、それを〈自己〉としていくことなのだと。

そのとき、草刈りをしていたセーレン・オービエ・キェルケゴールは、おびえつつも・ふいうちのように小池正博にであう。そうして、ああこれも〈関係〉する〈関係〉ではないか、と次の句をみながら、キルケゴールは『死に至る病』をもういちど(おなじふうな・ちがったかたちで)書き始めるのではないか。「夏草」を断念できなかった「夏草の関係者」として。「夏草の関係者」として〈関係〉しつづける「可能性」として。

「反復は、前方にむかって想起する」。だから、

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

気絶した人があると、水だ、オードコロンだ、ホフマン滴剤だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、可能性をもってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は、息を吹き返し、彼は生き返るのである。
(キルケゴール『死にいたる病』、同上、p.75)


【註】

〔*1〕 訳者の桝田啓三郎はこのキルケゴールの「関係」を、「動的な関係」における「態度/行為」であるとして次のように注解している。「ここで関係と言われているものは、すでに成り立っている一定の固定的な関係ではない。そうではなくて、相反する、あるいは相矛盾する二つの関係項のあいだに、関係の仕方に応じて違ったふうに成り立つことのできる動的な関係である。つまり、二つの関係項それぞれの重さの違いに従って釣り合いがとれたりとれなかったりしうるわけで、両者のその釣り合いに応じて、できてくる関係が違ってくるわけである。(……)しかもこの関係は、客観的に成立するそれではなく、どこまでも主体的なものと考えられねばならない。つまり、人間の心の状態、というよりもむしろ、「態度」ないし「行為」なのである。」(桝田啓三郎「訳注」『死に至る病』ちくま学芸文庫、1996年、p.265ー6)。たとえば、やはりわたしなりにことばにしてみるならば、カレーかハンバーグか選ぼうとし、選びかねる関係的関係のなかで、ただ一回きりのダイナミックな蠢く関係がもちあがり、そのもちあがった関係に、自身の関係のふるまいを関係として(あきらめつつも・にもかかわらず)〈決めよう〉とするその関係する関係に関係する自己はあらわれる、といえるのではないか。きょうは、カレーに、しよう。

〔*2〕 「結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。結婚するか結婚しないか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は結婚するかそれとも結婚しないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するのだ。(……)真の永遠はあれか=これかのあとにあるのではなく、そのまえにある」(キルケゴール、浅井真男訳「あれか、これか 人生のフラグメント」『キルケゴール著作集1』白水社、1995年、p.71ー2)。「真の永遠」は、いつも〈てまえ〉にある。〈あれか=これか〉のその〈てまえ〉に。「ぼくは決して始めないから、ぼくはいつでもやめることができる」とキルケゴールは言う。だから、キルケゴールは、熱烈な恋愛を婚約破棄することで〈てまえ〉に引き戻す。カレーにするか、ハンバーグにするか、わたしを選ぶのか、それともわたしではないあのひとを選ぶか、その「あれか=これか」の「あと」には「永遠」は、ない。「永遠」は、「あれか=これか」の〈てまえ〉に、ある。たとえばその〈てまえ〉に戻ってゆく〈結婚映画〉として岩松了監督の映画『たみおのしあわせ』(2008年)をあげることができるだろう。麻生久美子ことヒトミといままさに「結婚」しようとしているオダギリジョーことたみおの「しあわせ」もおそらく〈てまえ〉にある。映画ラストにはきちんとその〈てまえ〉=「真の永遠」が用意されている。

〔*3〕 「悲劇的英雄はすみやかに準備をととのえ、すみやかに戦い終える。彼は無限の運動をおこない、それからは、普遍的なもののうちに安らっている。それに反して、信仰の騎士はしばしも眠ることがない、なぜかというに、彼は絶えず試練(こころみ)られており、あらゆる瞬間に、後悔して普遍的なものへ逆戻りする可能性があるからである。そしてこの可能性は、真理であるかもしれないと同様に、試誘(まどわし)であるかもしれない。そのどちらであるかの説明を、彼はだれにも求めることができない。それを他人に求めるなら、彼は逆説の外にいることになるからである」(キルケゴール、桝田啓三郎訳「おそれとおののき 弁証法的抒情詩」『キルケゴール著作集5』白水社、1995年、p.129)。婚約を破棄し、「あれか=これか」の〈てまえ〉を選んだキルケゴールは、「普遍」の安らいを得られない場所において「逆説」を生きる「信仰の騎士」としておそらく生きることになるだろう。「逆説」を生きるとは、〈関係する関係〉を収束=集束=終息させることなく〈関係する単独者〉として耐え抜くということであり、「絶望」としての「死に至る病」のまっただなかにおいてもむしろそれを〈関係しようとする関係〉として可視化し、「夏草の関係者」として〈関係〉を生き抜くということでも、ある。刈り、つづけること。かんけい、を。

〔*4〕 キルケゴールはレギーネに婚約指輪を返送するとともに次のような短い別れの手紙を送った。「どっちみち起るにきまっていることを何回もためしたりしないために、このようにします。しかし、このことが起ってしまえば、必要な力が与えられるでしょう。だからそうします。とりわけ、これを書いている者を忘れないで下さい」。夜は別離がかなしくてベッドでめそめそ泣いていたとのキルケゴール自身による述懐もあるが、しかし、かれは、《めそめそ》にもかかわらず、《そう》したのである。「このように/そうします」と二度も〈反復〉しているように、《そう》しなければならなかったから。そう、しました。(キルケゴールの別れの手紙の引用は次に拠った。工藤綏夫『キルケゴール 人と思想19』清水書院、1966年、p.66)

トポスとしての本棚においては常に、隣り合う書物同士の並列・雑然・乱立が、〈関係〉しあう〈関係〉としての〈関係〉をひきおこす。



【2014角川俳句賞 落選展を読む】 3. みんなおなじで、みんないい? 依光陽子

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【2014角川俳句賞 落選展を読む】
3.みんなおなじで、みんないい?

依光陽子


≫ 2014落選展


11人の鑑賞が終わって、折り返し地点。次の角川賞締切まであと5ヶ月である。

前回「絶対に成功しない素材ランキング」と書いたところ、先日の句会で他にどんな素材がNGかという話題で盛り上がった。

以前、角川『俳句』に常套句について書いたことがあるのだが(平成19年5月号特集《類句・類想をこうして避ける》の<死して常套拾ふものなし>)、5年たってもあまり状況は変わっていないのだなぁと改めて思った。

「ひこうき雲」「観覧車」「誰々の生誕地or終焉の地」「樹齢○百年の松」「ヘリ」など、成功しないという意味は、それらを扱った俳句はごまんと目にするが、佳句を見たことがない、ということだ。

俳句文学館で全国の俳誌を片っ端から読んでみれば明らか。皆等しく詩情を掻き立てられ、皆同じように書き留める。例えば、ひこうき雲もクレーン車も斜め○○度の傾きで空に刺さっている。

観覧車の傍らには太陽や月がある。料理俳句、名画俳句、女優の名前の薔薇俳句。季題ラ・フランスが60歳代女性作者の句集に頻出する不思議現象など、挙げればきりがない。

人の個性はその人だけのものだ。生きてきた環境も取り入れてきた影響も全て違う。だから俳句だって違うものが出来るはずなのに、どうして同じような句を良しとしてしまうのか。

皆と同じで安心する「シゾフレ型」、たとえ自覚はなくとも俳句界はシゾフレ天国、模倣天国である。俳句という詩型特有の制約と無数に生み出された他者の作品の中で新しい句を書くことは本当に難しい。

自分が簡単に気付くものなど、誰もが簡単に気付くのだ。「誰かが詠んだような句は詠まない」と腹をくくるところがスタート地点だと思う。


12.ふらんど(さわだかずや)


春の句のみの50句。中盤、うつの句が並ぶ。この作者に限らず、うつを詠んだ句を句集などで度々目にするようになったのは近年顕著だ。「精神病んで」「不快」「嗚呼死にたし」などネガティブな言葉が連なるとさすがに読んでいて息苦しくなってくる。<半裸にてつくしを摘んでゐる集団>はどこかラース・フォン・トリアー的で許容範囲だが、「痰」「ビーム」など度が過ぎると意図をはかりかねる。うつの句も双極性障害の句も、その病状について詠まれても読者は困るものだ。またそうした素材を詩にまで昇華させることは至難の業だ。

強烈な言葉を直接読み手にぶつけるだけでは句は立たない。それがどんなに厳しい経験であっても、客観的に作品を検証する目と、完成度がなければ、読み手の心を揺さぶることは出来ないだろう。なぜなら、書かれた時点で言葉はイメージになるからだ。

耳の奥熱き遅日を過ごしけり        さわだかずや
花ですから死んでしまつてよいさうです
一切無常にて蜆汁おかはり

気になった句。
一句目。「耳の奥が熱い」とは決して良い状態を表してはいない。「耳の奥が熱い」ことで、太陽が出ている時間が一層永く感じられる苦痛。だがこの句は他の憂鬱な作風の句に凭れ掛かっていない。遅日を従来とは別の角度から表現することに成功している。
二句目は万朶の花明りが死を誘う。否、誘われたのではなく「死んでしまってもいい」という言葉がふと降りてきたのだろう。作者は理由を見つける。「花ですから」、つまり桜がこんなに咲いているのだから、と。桜と死。文学上、民話上語りつくされた二物からこの句は起草され、歩き出す。そして漠然と死を許されたこの人物は決して死なない。それが俳句作者としてのしぶとさであり、この句のしぶとさでもある。
三句目、一切が無常だという諦念に思考を留めながら、効能たっぷりな蜆汁をおかわりしてしまう生き物としてのせつない事実。この矛盾は取り除けないものとして心に刺さる。

韮やはらかし人妻はさりげなし>は桂信子の<ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ>、<やい鬱め春あけぼのを知りをるか>は江國滋の<おい癌め酌み交はさうぜ秋の酒>の先行句がそれぞれ口をついて出て来る。ましてうつを扱ってこの薄さでは心の網にかからない。たとえ先行句を踏まえたのだとしても、その句を超えない限り類想句の域は出ない。

もろもろ書いたが、この50句からは過去の自分に抗う歯ぎしりが聴こえて来た。それがこの作者本来の作家性の恢復と信じたい。


13. 封境(杉原祐之)


正統派かつスケッチ風。省略の利かせ方、句の佇まいは否定しない。ただ、中盤のほんの数句の海外詠(?)には異質な印象を受けた。<ターバンと付髭映す泉かな>から<引越の果て風鈴の鳴りにけり><播州の室津の浜の蝦蛄を漁る>でやや唐突に国内詠に戻りさらに風土詠へと移行する辺り。50句のどこに読みのピークを持って来たかったのだろう。なんでも俳句に出来てしまう人は、何を書かないでおくか、顎を引いて考えてみるべきであろう。

子を風呂に入れたる後の夕涼み      杉原祐之
ポストへと落葉の嵩を踏みながら
プレハブの目印をつけ冬の芝

中で、この三句に立ち止まった。
一句目、まだ幼い吾子だろう。子どもを風呂に入れることは若い父親には大仕事だ。夕涼みをしている姿から安堵感が伝わってきて清々しい。
二句目は平凡なカットだが作者の息づかいが感じられた句。落葉を踏む音と心音が重なっているよう。ポストは落葉の嵩を踏まなければ辿りつけない場所にある。「嵩」という言葉が辺りの風景や、ポストの中にあるはずの手紙や葉書の重なりを連想させる。郵便物を投函する瞬間のちょっとした覚悟に至るまでの、短いけれどまっすぐな時間。
三句目、仮設住宅か工事現場のプレハブか。芝の上にそれを建てるための印をつけた。少しだけ根本に緑が残る冬の芝の枯色と目印をつける人の背中。きっと同じような色の作業着だ。冬の芝はやがてプレハブの下になり完全に枯れてしまうだろう。とまれ、冬の芝の広がりがよく見えてくる。

全体的に季題の斡旋は悪くない。あとはかな遣いのうっかりミスをなくし、50句に統一性が欲しいところ。もう一歩踏み込んでモノを見ることで、さらに見えてくるものがあるはずだ。


14. 新機軸(すずきみのる)


壺焼のさみどり残す肝の尖><その中に制服もゐて御命講><電線とひとつの影に夕燕>など俳句を作り慣れている作者だと思った。

摘みきたるオクラ十指をはみ出して    すずきみのる

まさに素手で摑んだ句。両手に余るほどのオクラを摘んできた。大きく広げた指の間からオクラの先端が見える。指の間からはみ出したオクラが手の棘のようで、オクラの表面のチクチクとした感触と相俟っている。

なめるごと寄りくる波に千鳥翔つ
煮られつつあり白繭もその夢も

タイトルは「新機軸」。50句最後の<初句会この人にこの新機軸>から採られている。新機軸とは初句会にふさわしい心意気。またこの作者にとっても上記二句は、数年来の落選展の作品に比べると出色と言えそうだ。
一句目の「なめるごと」は千鳥のいる干潟に寄せて来る波の表現として無理がない直喩だと思う。干潟を舐めるように平らかに静かに寄せて来る波。長い脚が浸り、砂に刺した長い嘴が浸り、そして汐がある高さになったとき千鳥は翔つ。そこに至るまでの千鳥の行動も見えてくる。
二句目。あれほど盛んに音を立てて桑を食べていた蚕の蛹は、繭の中で夢を見ているかのよう。一読メルヘン調だが内容は厳しい。蚕は羽化することを許されない。煮られ殺されて繭を剥ぎ取られる運命だ。羽化してその翅で羽ばたくという夢もまた儚い。

手練の作者だけに、既視感のある句やかな遣いが間違った句が散見されるのは実に勿体ない。句を厳選し、十分に精査し、さらなる「新機軸」を開拓してゆかれることを期待したい。


15. 室の花(津野利行)


冒頭五句はさておき、身の丈に合った自分の言葉で句を書いている点に好感を持った。

夏掛は妻を小さく包みけり          津野利行
大学は辞めたと笑ふ生ビール
何もなき父の形見や心太

一句目。夏掛は寝ている人を嵩なく見せる。「小さく包みけり」に妻との微妙な距離感や、押しつけがましくない愛情を感じる。寝姿も見えてくる。夏掛という季題の効果がある。
二句目。大学職員か、はたまた大学生の友人か。「大学の方はどう?」「実は辞めたんだ」そんな会話があって、友が笑った。いろいろな葛藤を経たであろう複雑な笑顔。この生ビールはとても切ない。
三句目。眼目は「心太」の斡旋だろう。雲色のつるんとした心太。昔ながらの心太の突き器を使ったものであればなおさら、その押し出した後の空虚さは一入である。喉に滑ってゆく心太の冷たさ。「何もなき」に、父の死をすでに遠く認めることが出来るようになった作者の心が、読み手の心を押し出す。

室咲は枯れぬ気でゐたかもしれぬ

この作者もタイトルの語を含んだ句がラストに置かれている。室の花を年老いた肉親の生前と深読みし、悲しい句だと思った。そんな深読みを誘う伏線となる句が50句中にいくつか点在していたからだ。だが一句単独で読んだとき、室咲の効果が見当たらないのである。私は改めて、一句として立つことと、50句として立つこととの違いを考えさせられた。


16.バンテージ(谷口鳥子)


面白そうな句が出てきた。
以前、50句全句動物園で作った句で構成された応募作品があった。一句一句の完成度も高く感心してしまったのだが、この作品は全句ボクシングをテーマにした句で異色。「誰も詠んでない句を詠んでやる」という意気込みがいい。こういった元気のいい作品が読めるのが落選展の醍醐味だろう。
現代かな遣いである。

ヘッドギア何度も直す熱帯夜         谷口鳥子
容赦なく打ちくる小五の日焼け顔

作者も熱いけれど句も熱い。「小五の」は中八かつあまりに粗雑な省略で、子どもだとわかるので不要と思いながらも「容赦なく打ちくる」濁りのない眼差しが気持ちいい。

蝉の鳴くリズム外してストレート
のっぺらぼうの月と並んでジム帰り
ジョグダッシュジョクダッシュ十一月
膝と腰と首でリズムを夏来たる

無理矢理季題を入れたような句も少なくないが、このあたりはいい具合に季題が収まっている。
一句目。ジムの壁を突き抜けて来る蝉しぐれの中でのストレートの練習。蝉の鳴くリズムをわざと外してみる。ちょっとした遊び心。
二句目。のっぺらぼうの月はあたかも丹下段平。一日の練習を終えた充足感が「並んで」という言葉に込められている。
三句目。もし私がボクシングを始めたら、この句を念じながらジョグ、ダッシュのインターバルトレーニングを繰り返すと思う。あきらかに破調だが繰り返し口遊んでいると、なんとなく年の瀬へ向かっていく冬の空気感が出てくる。「十一月」が或いは動かないかもしれない。
四句目。俳句も運動もリズムが大事。なるほど、ボクシングは膝と腰と首でリズムをとるのか。「夏来たる」は漲るエネルギーを代弁している。
さて、もしこの50句で受賞したらこの作者は受賞第一作にどんな句を書いただろうかとふと思った。次回は不用意な贅肉句は落としつつ、完成度も磨き上げてほしいと思う。


17. 空車 (高梨章)


春の日の金の夕べを空車(むなぐるま)  高梨章

タイトルの句である。俳人・山田みづえの父である国語学者・山田孝雄の『「むなぐるま」考』の中から言葉を借りれば、「空車・むなぐるま」は「のらぬ車也、迎などに人のこぬ心也」(匠材集)とある。私は特に「人のこぬ心也」という部分が気に入っている。むなぐるまという言葉は主に院政鎌倉時代の語で、平安朝から鎌倉時代の間にだけ使われたようだが、作者はこの古い言葉を一句に入れた。「の」でたたみかけてゆく手法はこの句に限ってはあまり気にならない。時代を遡らせ、駘蕩とした世界へ読み手を誘う。春の金色の夕べをゆく空車の音なき音。眩しさと虚しさ。印象深い句だ。

秋の灯台 いつぽんの蝋燭をひろふ

分かち書きはこの一句だけだが、悪くないと思う。秋の灯台といつぽんの蝋燭を拾った事実の間に空白が必要だったからだ。解釈は不要。そのまま受け取ればいい。読み手の席は用意されている。
他にも<空席をつくるたちまち月あがる>や<月の力すこしゆるみぬ時計店>も二つの事柄にあたかも関連があるように現実と非現実の間、意味と無意味の間に句世界を構築している。日常語と旧かな遣いの起こす幽かな摩擦が醸し出す何か。<手袋は暗くなるころおそろしき>など、進もうとしているのは鴇田智哉的な志向と見るべきか。

アスタリスクの章立てで、春・冬・秋・夏という不規則な並びにしてある。面白い試みだが、最後の夏の部に入っている句があまりよろしくないのが残念。凝っているわりに<秋の朝きのふの雨の光かな>という至極平凡な句が入っていたり、「蟻地獄」「蝸牛」の連作は雑すぎる。もっと根気強い練り上げが必要。それ以外は、ある虚無感が漂っていて「空車」のタイトルが全体によく行き渡っていると思った。




 
≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子
≫2. 何を書きたいか

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