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顔パンチされる機関車トーマス 柳誌『Senryu So』から湊圭史の一句 柳本々々

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顔パンチされる機関車トーマス
柳誌『Senryu So』から湊圭史の一句

柳本々々



 機関車トーマスを正面から殴る  湊圭史
私の権能の領野に組み込まれてはいるが、それ自体としては無限として現前するような存在、このような存在しか暴力は狙うことができない。暴力は顔しか狙うことができないのだ。
(エマニュエル・レヴィナス、合田正人訳『全体性と無限』国文社、1989年、p.344-5)
柳誌『Senryu So Vol.02』(2012年秋、発行 石川街子 妹尾凛 八上桐子)のゲストだった湊圭史さんの「待合室にて」からの一句です。

テレビ番組『きかんしゃトーマス』といえば、なによりも〈顔〉にあると思うんです。

機関車トーマスがもし〈思想的〉であるとするならば、機関車を擬人化することなく、機関車の前面に人の顔=貌をパーツとして《そのまま》取り付けてしまったことにあるのではないか。

つまり、機関車の生態=行動原理のままにただ〈顔〉だけがマテリアルに〈人間〉であるという、《あたかも〈ひと〉であるかのようによそおいながらもその〈ひとであるかのように〉をよそおう》という〈擬・擬人法〉的な。

なぜなら、人の身体をもたずに、しかし比喩として人を擬して主体化させるのが擬人法だからです。

人間のパーツを取り付け〈人化〉するのではなく、あくまでひとになぞらえるというのが〈擬人化〉なのではないかと。

だから「きかんしゃトーマス」は、擬人化し《そこね》ている。

そのように、ある意味においては擬人化しそこねている機関車トーマスに対して、機関車が〈人間〉的な運動形態をもち、歌い、躍動することで擬人化されている例ではウォルト・ディズニー制作のアニメーション『ダンボ』(1941年)のサーカスの動物たちを運ぶ機関車をあげてもいいかもしれません。

そこでは、機関車は《人のように》歌いますがしかし、人の〈顔〉はもっていません。あくまで機関車がマテリアルとしての〈人間〉のパーツはもたずに機関車としての形状を遵守しながら、《人のように・擬人的に》歌っているのです。

そんなふうにみてみると、機関車トーマスの〈不気味さ〉とは、擬人法が未遂におわってしまい、人間の身体のパーツが、もろに〈顔〉として《そのまま》前面に露呈してしまっているところにあるのではないかと思います。

つまり、〈人間〉としての(レヴィナス的な)〈顔〉の露開です〔*1〕

〈顔〉が露開してしまっているということはどういうことか。

そこにはつねに機関車としてではなく、〈人間〉として傷つき、裂かれ、剥がれ、血を噴くことの可傷性=暴力誘発性(ヴァルネラビリティー)が担保されている状態になる、ということになるのではないかと思います。

哲学者エマニュエル・レヴィナスによれば、〈顔〉は殺人の誘惑としても顕れてきます。
顔の顕現が引きおこすのは、殺人への誘惑という無限なものを不可能性として測る可能性である。全面的な破壊への誘惑としてばかりでなく、殺人へのこの誘惑とこころみとを不可能性──しかも純粋に倫理的な不可能性──として測ることの可能性なのである。
(レヴィナス、熊野純彦訳『全体性と無限(下)』岩波文庫、2006年、p.42)
湊さんの掲句において、「正面から殴る」語り手は、いま述べたようなレヴィナス的〈顔〉にひきつけられ、「殺人への誘惑」に駆り立てられ、〈暴力〉を発動しているといえるかもしれません。

機関車トーマスの〈顔〉が〈倫理〉として突きつけてくる「汝、殺すなかれ」という絶対公理を侵犯しようとする衝動です。

しかし同時にその〈暴力〉が発動することで、語り手は期せずして機関車トーマスの前面に展開されている〈倫理〉、この機関車トーマスの隠し設定であるレヴィナス的な〈顔〉のありかたを暴いているともいえるのではないでしょうか。

機関車トーマスを〈殴る〉ことで、逆説的ではあるけれど、はじめてそこに(あらかじめあった)機関車トーマスが〈顔〉としてたたえる〈倫理〉が顕在化してくる。

〈暴く〉装置としての暴力。

社会学者の市野川容孝さんがフランスの社会学者ミシェル・ヴィヴィオルカの『暴力』を参照しながら、〈暴力〉についてこんなふうに説明しています。
「暴力」というのは、(……)コンフリクトの構造的調整が破綻したときに発現するものだとヴィヴィオルカはいう。つまり、言葉を与えられることも、認知されることも、承認されることもないような、ある意味で純粋なコンフリクトが出現するときに、それが暴力として発現する、ということです。
(市野川容孝『思考のフロンティア 壊れゆく世界と時代の課題』岩波書店、2009年、p.115)
暴力は構造的な安定や調整の喪失として現れます。

つまりそれまであった構造が「純粋なコンフリクト」としての「暴力」によって後退することにより、いままで現前していたはずの構造を喪失に追い込み、過去のものとして可視化することができるのも、また、装置としての暴力なのではないかと思うんです。

かんたんな例示をとれば、誰かが殴られたときに、はじめて潜在的に抑圧されていた関係性が一気に浮かび上がり、浮上したそのせつな、関係性は過去に追いやられ、関係=構造は新たな生成物として変節を帯び始めるということです〔*2〕

「殴る」という暴力が機関車トーマスの構造を露呈する瞬間。

そしてその露呈によって機関車トーマスの枠組みを〈暴力的〉にあぶりだすこと。

この「機関車トーマス」の句にはそういった一面があるのではないでしょうか。

湊さんの川柳においては、そういった抑圧された構造が暴力によって可視化される。

だからこそ、機関車トーマスがいままさに殴られている「待合室」のおなじ風景のまっただなかにおいては、その殴られているトーマスのかたわらを、ディズニー・キャラクターとしての〈鹿〉が、〈暴力的介在〉を受けたかのように〈引きずられ〉ていくのではないか。「彼方」というレヴィナス的なタームを引きずりながら。

にもかかわらず、愛は「顔のかなたから到来する」といったのもまた、エマニュエル・レヴィナス。

 彼方よりバンビを横に引きずって  湊圭史
言葉を持つということは、集合的主体のなかに入れということでもあると思います。ヴィヴィオルカは、「今日の加害者はしばしば昨日の被害者であるという事実」にも目を向ける。暴力をどうやって言葉でコントロールしていくかということも、重要な課題だけれども、暴力というかたちでしか表現できないものを、どう言葉にしていくか、そういうプロセスを考えなければいけない
(市野川容孝・小森陽一編『壊れゆく世界と時代の課題』岩波書店、2009年、p.131)


【註】

〔*1〕「顔は、内容となることを拒絶することでなお現前している。その意味で顔は、理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである」。〔レヴィナス、熊野純彦訳『全体性と無限(下)』岩波文庫、2006年、p.29〕

〔*2〕〈殴る〉ことによる関係性の可視化については、下記の〈少年マンガ〉における殴る/殴られるシーンが参考になる。このとき殴っているのが読み手である〈わたし〉なのか、殴られているのが読み手である〈わたし〉なのか、〈わたし〉の位置性と物語内部の関係性が交錯するのが〈殴る/殴られる〉瞬間における意味生成なのではないか。

・武論尊/原哲夫『北斗の拳 第5巻』(ジャンプ・コミックス、1985年)の「努拳四連弾!!の巻」においてケンシロウがジャギを「あたたた!! これはシンの分!! 」「ユリアの分だ!!」「最後にこれは…きさまによってすべてを失ったおれの…おれの…このおれの怒りだあ!!」と蹴り・殴るシーン(p.184-193)

・鳥山明『ドラゴンボール 第19巻』(ジャンプ・コミックス、1989年)の「其之二百二十五 ナッパ 手も足も出ず!!」において悟空がナッパを「こいつは天津飯のうらみだ!!/ピッコロのうらみ!!」と拳を打ち下ろし・蹴るシーン(p.130-1)

・井上雄彦『スラムダンク 第8巻』(ジャンプ・コミックス、1992年)の「「2度と来ない」」において桜木花道が鉄男を「7発だぞ/7発」「今のはシオの分」「次はカクの分だ」「これはルカワの分」「そしてこれは…リョータ君の分!!」「そしてこっからはオレの分」「まだだ…次はタバコおしつけたボールと折られたモップの分」と殴るシーン(p.24-42)

・冨樫義博『幽★遊★白書 第13巻』(ジャンプ・コミックス、1993年)の「残る二人の能力!!の巻」において浦飯幽助が自身の仲間を模写(コピー)している柳沢を見破り「……よし殴るヤツは決まったぜ/悪く思うな/それはオメーだ!!」と殴るシーン(p.163)。

・荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 PART6 ストーン オーシャン 第7巻』(ジャンプ・コミックス、2001年)の「愛と復讐のキッス その⑦」においてエルメェス・コステロがスポーツ・マックスを「いいか…この蹴りはグロリアのぶんだ……顔面のどこかの骨がへし折れたようだが/それはグロリアがお前の顔をへし折ったと思え……」「そしてこれもグロリアのぶんだッ!」「そして次のもグロリアのぶんだ/その次の次のも/その次の次の次のも……/その次の次の次の次のも…」「次の! 次も!」「グロリアのぶんだあああ─────ッ/これも!これも!これも!これも!これも!これも!これも!これも!これも!これも! 」と蹴り・殴るシーン(p58-63)

・尾田栄一郎『ワンピース 第51巻』(ジャンプ・コミックス、2008年)の「第502話 “天竜人の一件”」においてモンキー・D・ルフィが世界貴族(天竜人)のチャルロス聖を無言で殴るシーン(p.224-5)



荒川倉庫 豚三十句 テキスト

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豚三十句 荒川倉庫


蕨狩ゆくか豚決めかねてゐる
豚の裏庭の春菊どれも春菊
遅き日の豚の求める切符かな
客船の豚へ大きな春の月
あかるさは葉桜向かふみずの豚
ビールそれから化石談義の豚の夜
つながつてゐるげんのしようこと豚と
何もかも豚の死ののち枝払ふ
この国に梅干豚は本気なり
柿青きあたりに豚の秘密基地
だんまりの豚に葛切はこばるる
ただ一度のことなり豚が虹渡るは
馬鹿らしきまでの大夕焼が豚に
豚およそよけざるものと秋の蛇
もう豚は根釣の姿勢ととのへぬ
敗荷に豚乗るを賭けてもよいが
跳べば届く柿のことなど豚言ひぬ
豚に既視感渡り鳥ゆくときに
はるかな先に豚がまだ見ぬ榠樝の実
豚思ひつきり冬林檎投げる景
豚たどりつけざる冬の長い橋
或る豚の一日絵本みかんぬりゑ
どこをどうまちがへ豚の雪見舟
豚叫ぶときやや動く冬の石
初夢の豚逃げきつたかに思へたが
豚思ひとどまる先の氷柱かな
冬芽あかるく豚がくちづさむ歌
豚が身を投げて測りし春の闇
もうこれでいいのだ豚の花見酒
感謝して春の木馬を豚降りぬ

荒川倉庫 豚三十句

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週刊俳句 第395号 2014-11-16
現代俳句新人賞落選作 荒川倉庫 豚三十句
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第395号の表紙に戻る

後記+プロフィール395

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後記 ● 福田若之

「飛ばねえ豚はただの豚だ」とは、紅の豚ことマルコ・パゴットの言ですが、やはりそれは飛ぶ豚の言い草であって、実際はそんなこともないんじゃない? と思わせてくれるのが荒川倉庫さんの「豚三十句」。なんか、これ、癒されるなあ。

 ●

いろんな文章を読んでいると、引用に触発されるということがままあると思うのですが(つきつめるとベンヤミンの『パサージュ論』などに行き着く)、今回、柳本々々さんの「顔パンチされる機関車トーマス」の註2の引用は興味深いと思いました。とりわけ、『北斗の拳』、『ドラゴンボール』、『スラムダンク』、『ジョジョの奇妙な冒険』に共通して見られる暴力の代行はとても気になります。

そもそも、暴力というのは代行可能なものなんでしょうか。マンガの登場人物たちはそれを自然なことのようにやってみせるけど、他者の「分」の暴力をふるうことなんて、本当にできるんでしょうか。

む。なんだか、くそまじめなことを書いてしまった。

 ●

そうそう、小津夜景さんの「アートと抱擁の話」は、七段落目まで取り上げる句の作者の名前が出てこない。こういう、いわば文体上のじらしの技術というのは、決まるとかっこいいですよね。

 ●

それから、平山雄一さんによる「『後藤兼志全句集』刊行のお知らせ」は、とても読み応えのある「お知らせ」です。ぜひご一読を。

「「俳句gathering 関西6大学俳句バトル」のお知らせ」もぜひ。

 ●

それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。



no.395/2014-11-16 profile

■かたしま真実かたしま・まみ
1964年生まれ。98年より俳句を始める。「童子」「草蔵」を経て、境野大波氏に師事。終刊まで「大」同人。

■荒川倉庫 あらかわ・そうこ
1972年千葉県生まれ。第1回北斗賞佳作。

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

■柳本々々 やぎもと・もともと
かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com

■田中槐 たなか・えんじゅ
1960年静岡県浜松市生まれ。「未来短歌会」所属。岡井隆に師事。95年「短歌研究新人賞」受賞。2009年4月より朝日新聞「短歌時評」連載。現代歌 人協会会員。歌集に『ギャザー』(短歌研究社)、『退屈な器』(鳥影社)、『サンボリ酢ム』(砂子屋書房)。2011年より「澤」会員。ブログ「槐の塊魂Ver.2」

■西村遼 にしむら・りょう
1982年神奈川県生まれ。2011年春から俳句をはじめ、吉野裕之に師事。2012年「豆句集 みつまめ」創刊に加わる。2014年「傍点」創刊同人。

■月野ぽぽな つきの・ぽぽな
1965年長野県生まれ。ニューヨーク市在住。「海程」同人。現代俳句協会会員。2008年海程新人賞、2010年現代俳句新人賞、2014年海程賞受賞。
月野ぽぽなフェイスブック:http://www.facebook.com/PoponaTsukino

■鈴木不意 すずき・ふい
1952年生まれ。同人誌「なんぢや」、「蒐」所属。外に出ないと句ができない現場派。

■堀下翔 ほりした・かける1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。筑波大学に在学中。

■大塚 凱 おおつか・がい
1995年千葉県生まれ。俳句甲子園第14、15、16回大会出場。「群青」同人。

■角谷昌子 かくたに・まさこ
東京在住。鍵和田柚子に師事。「未来図」同人。俳人協会幹事、国際俳句交流協会評議員、日本文芸家協会会員。詩誌「日本未来派」所属。句集に『奔流』『源 流』。木島始との共著に『バイリンガル四行連詩集〈情熱の巻〉』、角川書店 『鑑賞 女性俳句の世界(5巻 井沢正江)』、俳人協会紀要「中村草田男 第 一句集『長子』の時代」ほか。目下、揚羽蝶の飼育に熱中。近所の井の頭公園散策が日課(井の頭バードリサーチ会員)。

■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。

■有川澄宏 ありかわ・すみひろ
1933年、台北市生まれ。「円座」所属。「青稲」同人。

■平山雄一  ひらやま・ゆういち 1953年生まれ。1987年より、吉田鴻司に師事。2003年、 第一句集『天の扉』を上梓。2006年より、超結社句会“わらがみ句会”代表。結社誌『鴻』で俳句エッセイ「ON THE STREET」を連載中。ロックやコミックスなどのポップカルチャーと、俳句の共通点を探求している。

■福田若之 ふくだ・わかゆき
1991年東京生まれ。「群青」、「ku+」に参加。共著『俳コレ』。現在、マイナビブックス「ことばのかたち」にて、「塔は崩れ去った」連載中(火曜日更新)。

週刊俳句 第395号 2014年11月16日

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第395号
2014年11月16日

2014「角川俳句賞」落選展≫見る
 
2014「石田波郷賞」落選展のお知らせ ≫見る


かたしま真実 凹み 10句 ≫読む
……………………………………………

【現代俳句新人賞落選作】
荒川倉庫 豚三十句 ≫読む

【鴇田智哉をよむ1】
アートと抱擁の話……小津夜景 ≫読む

【2014落選展関連記事】
「2014角川俳句賞」選考座談会を読む
 ……上田信治 ≫読む

【柳誌を読む】
顔パンチされる機関車トーマス
柳誌『Senryu So』から湊圭史の一句……柳本々々 ≫読む

【週俳9月の俳句を読む】
田中槐 まあ、たまにはあるよね、そういうことも ≫読む

西村遼 リマインドする ≫読む

月野ぽぽな 俳の効かせ方 ≫読む

鈴木不意 なんでもないことが驚きやおかしさに ≫読む

堀下翔 暴動のこと ≫読む

大塚凱 天秤、揺れる ≫読む


後藤兼志全句集』刊行のお知らせ……平山雄一 ≫見る

連載 八田木枯の一句
枯野ゆくめくらとなりし魚を提げ……角谷昌子 ≫読む

自由律俳句を読む 68
中塚唯人〔2〕 ……馬場古戸暢 ≫読む

〔今週号の表紙〕落葉……有川澄宏 ≫読む
「俳句gathering 関西6大学俳句バトル」のお知らせ ≫見る

後記+執筆者プロフィール……福田若之 ≫読む


 
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る





週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る




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後記+プロフィール396

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後記 ● 村田 篠


先日表参道へ行ったのですが、運動のために永田町まで歩いて帰ろう、でも、青山通りを歩いたのではつまらないので、裏通りを歩こう、ということになり、北青山から外苑前、青山通りを横切って南青山、赤坂を通り、赤坂見附から永田町まで、夫とふたりでてくてくと1時間半の道のりを歩きました。

スマホってすごいですね。何キロ歩いたのか、すぐその場で分かります。直線距離だと3.7キロほどのところを、結局7キロ以上歩いていました。

あのあたりは、表通りはピカピカのビルが建ち並んでいますが、裏通りに入るとけっこう古いマンションや、低層の珍しいデザインのマンションがたくさんあって、私が東京へ出て来た30年以上前の頃の、独得の空気感が残っています。あの感じは全国のどこにもない、東京の青山あたりだけの空気ですね。

 ●

今週の10句作品をお寄せいただいた岡田一実さんは、今年、現代俳句新人賞受賞に続き、句集『境界』を上梓されました。また、【2014落選展を読む】が、今週号から始まっています。どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。

 ●

それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。



no.396/2014-11-23 profile

■岡田一実 おかだ・かずみ
1976年富山市生まれ。松山市在住。句集に『小鳥』(2011年・私家版)、『境界―border―』(2014年11月・マルコボ.コム)
blog「そろそろそぞろあるき」http://fdmean.blogspot.jp/

■山田露結 やまだ・ろけつ
1967年生まれ。愛知県在住。銀化同人。共著『俳コレ』(2011・邑書林)。句集『ホームスウィートホーム』(2012・同)。共著『再読 波多野爽波』(2012・同)  

■堀下翔 ほりした・かける
1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。筑波大学に在学中。

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

■柳本々々 やぎもと・もともと
かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/

■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。

■雪井苑生 ゆきい・そのう
北海道生まれ、埼玉県在住。「里」同人。俳句、写真、写真俳句それぞれ模索中。写真俳句ブログ「Photo haiku-galrie★Lapin-neige

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。「月天」同人。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。俳人協会会員。「Belle Epoque」

〔今週号の表紙〕第396号 メジロ 雪井苑生

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〔今週号の表紙〕
第396号 メジロ

雪井苑生


我が家の二階の窓の近くに柿の木のてっぺんが位置しており、
冬になると残った柿の実を食べにメジロがやってくる。
つい撮りたくなって、ガラス越しだが望遠レンズを使って何とか撮れた一枚。
以前はもっと低い場所にリンゴやミカンを半分に切ったものを刺し、
ちょっとしたバードテーブルを作っていたのだが猫が来てから中止した。
何しろうちの猫たちはけっこうな鳥ハンターで、スズメ、メジロ、ヒヨドリ、ツグミ、
なんとカワセミまで獲ってきたことがあるのだから…。
なので今はさすがに猫も届かないてっぺん部分に実を残すだけにしている。
カップルで来て、小さい嘴でちまちまと食べているようすは何とも可愛らしい。
ヒヨドリが来るとさっと逃げるがすぐまた戻ってくる。
見ていると飽きないのでそれだけで一日が終わってしまったりして。

メジロは秋の季語だが、よく見かけるのは晩秋から冬、早春だろうか。
昔、メジロが「梅に鶯」のウグイスだと思っていた。
悪いけどめったに姿を見せない地味なウグイスより、メジロのほうが梅に似合うような…。
寒くて餌の少ない冬が近づいてこれから小鳥たちには厳しい季節だけど、
何とか乗り切ってまた満開の梅の枝に愛らしい姿を見せてほしいものだ。


週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

自由律俳句を読む 69 小室鏡太郎 馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 69   小室鏡太郎

馬場古戸暢


小室鏡太郎(1885-1953)は、静岡出身の自由律俳人。渡米し、スタクトンにて「ドングリ会」を結成、後に「デルタ吟社」と改め、尾沢寧次とともに発展せしめた。一碧楼に師事。以下『自由律俳句作品史』(永田書房、1979)より、数句を選んで鑑賞したい。

遊んでゐるやうに雪ふり心まどふことあり  小室鏡太郎

自身の気持ちと雪のふり方が重なる瞬間。スタクトンでも、雪は降ったのだろうか。

雀なれてふくらんで道べ草もえ  同

雀が自身になれて、なかなか逃げなくなったということか。嬉しい句。

人間の枯れ行くを吾にみる妻に見る桜もち  同

家族そろって、人生に疲れてきたのだろう。桜もちに、希望が見える。

枯蒲に火をかけんとする風向き  同

野焼きは、風向き次第で大変な事態を引き起こす。気が付いてよかった。

霧晴れ切らんとす船底を出でし  同

アメリカに到着したその瞬間を詠んだものか。鏡太郎の新天地での生活に、晴間が訪れんことを。

【八田木枯の一句】いつ来ても枯野にのこる汽笛の尾 西原天気

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【八田木枯の一句】
いつ来ても枯野にのこる汽笛の尾

西原天気


汽笛という日本語はそれだけでは機関車なのか船なのかわからない。俳句は短いので、どちらの汽笛なのかを説明しない句も多い。明確に伝えるには、それなりの措辞が要ります。

いつ来ても枯野にのこる汽笛の尾  八田木枯

この句の場合、はっきり汽車とわかります。技ですね。

音を視覚として捉えるのは、俳句ではめずらしい手法ではありませんが、ぴたっとキマった句。技です。

「いつ来ても」という繰り返された行為から、「のこる」は、過去から未来まで永遠に「のこる」ことなのだとわかります。「尾」という一瞬。消え入る前の一瞬が、永遠にそこにあるというわけです。

掲句は『汗馬楽鈔』(1988年)より。



【鴇田智哉をよむ2】「白」をめぐって 小津夜景

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【鴇田智哉をよむ2】
「白」をめぐって

小津夜景


毛布から白いテレビを見てゐたり   鴇田智哉

つまり、毛布の中から、白く反射するテレビ(というディアファネース)を見ていたよ、という句です。

白い液晶ディスプレイは「透明でも不透明でもなく深いのか浅いのかもわからないふしぎな光の膜」〔*1〕であり、またモノが現れ、漂い、消えゆく水鏡、すなわち「イメージの原初的様相」〔*2〕にまつわる媒体でもあります。

さらに、掲句の「白」にそこはかとなく漂う「麻痺的・催眠的」気配を考えると、このテレビは単に反射しているだけでなく、実はなにも映っていない空虚、つまり放送終了後の画面なのかも知れません。

と、ここでふと思い出すのが、ホワイトノイズのこと。これはテレビ放送終了後の、画面が砂嵐状態のときに流れている「シャー」と聞こえる雑音のことで、雨音や波音や松風、果ては母胎なども同質のノイズを出しているのだそう。誰でも知っている通り、このノイズには独特の瞑想効果があって、じっと耳を傾けていると、無我にも似た底深い安心に人を誘い込みます。

で、掲句に戻ると、温かい毛布に包まって、眸を白光に浸しながら、ホワイトノイズを聞くといったシチュエーション、これはもう紛れもない母胎回帰、すなわち「未生の時空」の描写とみるのが妥当ではないか。

もう少し丁寧に書くと、掲句は視覚としての半透明性(液晶ディスプレイ)と聴覚としての半透明性(ホワイトノイズ)から成る、バレットタイムとしての間(「麻痺的・催眠的」感覚をともなう「未生の時空」)の現前〔*3〕として読むことができる。というか、こう読むと、景が文句なしに安定する。

それはそうと、この句の話とは別に、鴇田智哉の本には音の織りなす半透明性が多く登場します。「生きながら永眠する日、それから」にも書きましたが、ディアファネースの認識は砂、灰、塵、雲といった微細な粒子が大気中につくりだすヴェールと強い親和性をもちますから、音の粒子が皮膜としての役割を果たすことも実に容易です。

例えば「砂こすれあふ音のして蝶が増ゆ」では極薄の蝶が、砂音の皮膜から剝離するかのように湧出し、「囀の奥へと腕を引つぱらる」では囀の綾なす美しいヴェールを割って、こちらとあちらとが交歓する眩しい一瞬が詠まれる、といった具合。

どちらの句も、たいへん眩暈的です。

さいごに(もうひとつ)余談。ホワイトノイズはなぜホワイトと呼ばれるのか。これは全ての周波数を含んだ光が白色であることから、その表現を借りているのだそうです。

この句にまつわる白い面と白い音。どちらも単にナイーヴ&ピュアな白というのではなく、あらゆる現象的可能性の畳み込まれた大変ノイジーな白だというのが「ふーんなるほど」といった感じですね。


〔*1〕「生きながら永眠する日、それから」より。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
〔*2〕「アートと抱擁」より。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/blog-post_40.html
〔*3〕バレットタイムと作者の句との関係は「生きながら永眠する日」を参照。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/08/blog-post_98.html

〈了〉

拒絶されたスーパーマリオの内面 福田若之のパスワード 柳本々々

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拒絶されたスーパーマリオの内面
福田若之のパスワード

柳本々々



春はすぐそこだけどパスワードが違う  福田若之

もはやゲームを単なる娯楽の一分野として片づけることはできない。ゲームを題材とすることは、そこから派生的に「人間とメディアの今日的な関係」を考察したり、あるいは「記号論とメディア論の関係」を考察したり、さらには「サイバースペースにおける他者との関係、あるいは、そこで形成される共同性」の問題を考察したりするうえでも有効な視座を提示するものといえる。その意味でゲームとは単なる娯楽の一形態というよりも、むしろ異質なものが相互に接触して絡み合う、たとえていうならば、いわば(現代のテクノロジー環境が生成する)「コンタクトゾーン」のような領域として、私たちにとっての議論の場を提供してくれるものだといえる。
(松本健太郎「「ゲーム化する世界」がもたらしたもの、もたらしつつあるもの」『ゲーム化する世界』新曜社、2013年、p.12)

週刊俳句編『俳コレ』(邑書林、2012年)の「302号室」から福田若之さんの一句です。

福田さんの句が興味深いのは「春はすぐそこ」と「春」との距離感を語り手が明示することによって語り手自身の位置性を強く打ち出しながらも、「パスワードが違う」と即座に発話をデジタルな〈風景〉に接続(アクセス)させることによって、そうした語り手自身の〈位置性〉を無化してしまうところです。

「パスワードが違う」というのは、グラデーションのように細やかな位相をもった「春」の〈風景〉とは歴然と異なる0か1かのゼロワンの〈風景〉です。

みずからがどのような人間であり、どのような位置に立ち、どのような権力をもち、どのような知識をもち、どのような階層にいて、どのようなジェンダーで、どのようなセクシュアリティをもっていようとも、「パスワードが違」えば、すべてこの〈わたし〉が持っている位置性はいっさいがっさい〈無化〉されてしまうのです。

そもそもがデジタルの〈風景〉においては〈内面〉が問題にならない。

「パスワード」が合うかどうか、です(その意味で、デジタル・セキュリティはわたしたちを〈動物化〉させます)。

「春はすぐそこだけど」と「春」が展開=開示されそうな〈風景〉からの〈内面〉を語りつつも、「パスワードが違う」とデジタル・メディアを介して〈内面〉が〈無化〉される仕組みになっています。

ここで定型によって〈風景=内面〉としての「春」が「パスワード」に接続されることにより、そもそもの〈春=風景=内面〉から、語り手はログインの挫折として、〈拒絶〉されたことになります。

ここでかつて、機構(システム)として構築される〈風景〉=〈内面〉を指摘した評論家の柄谷行人の言説をみてみたいと思います。
たとえば風景描写とよくいうけれども、そういう意味での“風景”を発見したのは独歩ですね。(……)
それまでの風景というのは名所旧跡で必ず文学や歴史と結びついているところですね。それに対して北海道だの武蔵野だのってのは全然文学のないところです。柳田もいっているように、日本人の風景文は実に無内容なのです。だから風景を発見するには、ある根本的な転倒が内的にあったと思います。風景の発見というのは、エクリチュールに対するパロールの優位あるいは、内面的な現存性の優位ということと結びつくわけです。
(柄谷行人「文学・言語・制度」『柄谷行人蓮實重彦全対話』講談社文芸文庫、2013年、p.42-3)
国木田による風景の発見、旧来の風景の切断は、新たな文字表現(エクリチュール)によってのみ可能だった。『浮雲』(明治二〇-二二年)や『舞姫』(明治二三年)に比べて目立つのは、独歩がすでに「文」との距離をもたないようにみえることである。彼はすでに新たな「文」に慣れている。それは、言葉がもはや話し言葉や書き言葉といったものではなく、「内面」に深く降りたということを意味している。というよりも、そのときはじめて「内面」が直接的で現前的なものとして自立するのである。同時に、このとき以後「内面」を可能にするものの歴史的・物質的な起源が忘却されるのだ。
(柄谷行人「第2章 内面の発見」『定本 日本近代文学の起源』岩波現代文庫、2008年、p.71)
わたしなりにことばにしてみると、〈言文一致〉という〈いま・ここ〉の〈わたし〉を〈そのまま〉表すことができる〈透明〉な描写的言語への転換によって、取り立てて意味もない〈風景〉を意味のある〈風景〉として見出すことができるようになり、無意味に有意味な〈風景〉を見いだす〈わたし〉として〈わたし〉の〈内面〉が見出されていく。ところがそうして見出された〈内面〉はあらかじめ既にあったかのように〈転倒=倒錯〉され、その〈内面〉がまた無意味に意味を付与する〈風景〉を再帰的に見出していく。そうした〈風景〉と〈内面〉がめいめいに所与のものとされながら相互参照=相互循環していく様相。

それが近代的な〈内面〉のシステムだったのではないかと思うのです。

こうした〈内面〉と〈風景〉の相互参照のシステムがあった一方で、福田さんの俳句は、〈内面〉を語ろうとしながらも、みずからが身を置くデジタル・メディア環境としての〈風景〉によって〈内面〉を語ることを拒否されてしまう。

デジタル・メディアの環境にとりまかれつつも、それでも〈そこ〉に〈季節〉としての〈風景〉を見出し語ろうとする〈俳句〉の語り手が〈内面の拒絶〉に遭遇してしまうこと。

そうした新しい〈(非―)風景〉と〈(非-)内面〉の「コンタクトゾーン」にこの句があるのではないかと思うのです。

デジタル・メディアに〈風景〉を見出そうとする者は、〈内面〉を拒絶される。

ここで思い出してみたいのが、ゲームを〈風景〉として取り入れた柳谷あゆみさんの次のような短歌です。

シャイとかは問題ではない一晩中死なないマリオの前進を見た  柳谷あゆみ(「弱い夜」『ダマスカスへ行く 前・後・途中』六花書林、2012年)

「シャイとかは問題ではない」と語られているように、ここでもまた〈内面〉が無化されています。

「マリオ」という指示子が表しているように、任天堂マリオシリーズにおける「マリオ」に賭けられているのは、「ピーチ姫」や「ルイージ」や「クッパ」や「キノピオ」に対する〈内面〉ではなく、〈死ぬか・死なないか〉、ともかくステージをクリアできるか・できないか、「前進」できるか・どうか、だからです〔*1〕

そこにおいて、〈内面〉は問題ではありません。むしろ〈内面〉が問題になった瞬間、「マリオ」の「ゲーム」は解体されていくはずです(「ブルーカラー」で「女の子よりも背が低い」ように設定されたマリオみずからがマリオみずからであることに悩むということ〔*2〕)。

ただこの歌でも大事なのは、福田さんの句にもみられたような、「マリオの前進を見た」という「見た」に語り手の位置性が示されていることです。

ゲームに〈内面〉がなくともそれを「一晩中」「見た」という語り手には〈内面〉=〈風景〉がある。〈内面〉があるが、しかしあくまでゲームの〈風景〉はその〈内面〉とは相互干渉していかない。「シャイとかは問題ではない」から。

「見た」という、ゲームを〈風景〉として〈見〉ている語り手の前にあるのはどこまでも〈内面〉が無化され、えんえんと一方向的にスクロールする「シャイとかは問題ではない」〈風景〉です。

パスワードが違うためログインできない〈(非-)風景〉。

〈内面〉をもたないマリオが一晩中無敵状態で多くの命を奪いつつ走り続ける〈(非-)風景〉。

このふたつの〈(非-)風景〉からわかることは、〈風景〉と〈内面〉が近代においては倒立的に結託していたのに対して、デジタル・メディアのまっただなかにおいては、〈非-結託〉としてしか〈内面〉と〈風景〉を受け取れなくなってしまっているという様相なのではないでしょうか。

しかし、それがデジタルの〈風景〉でもあるのです。

俳句や短歌を、(わたしたちが享受できるのは)〈ことば〉からです。

デジタルもまた、(わたしたちが享受できるのは)〈ことば〉を介するからです。

一見、めいめいがコンタクトしえないような異質な言説のネットワークにあるものの、それぞれの〈ことば〉と〈ことば〉が、「コンタクトゾーン」を見出し、出会う、というよりも、出会ってしまっているとき、そこにどのような〈風景/非-風景〉が見出され、そこからどのような〈内面/非-内面〉が産出されていくのか。

でも福田さんのパスワードの句にあっては、こうした言説自体が「パスワードが違う」ために拒絶されるかもしれません。

そもそも「パスワードが違う」とは、そうした次から次へと生産される言説=内面の無効化なはずです。

その意味ではこの句は、日常(春)=非日常(パスワード)の〈セカイ系〉としてきっちりと完結してもいます。
かつて、われわれは鏡の想像界、分身のいる舞台の想像界、他者性と疎外の想像界に生きていた。今日、われわれは画面の想像界、インターフェイスによる二重化された想像界、隣接性とネットワークの想像界に生きている。われわれの機械はすべて画面をもち、人間たちの対話は画面による対話となる。画面に書かれたもので、深層の意味を解読するために書かれたものはひとつもない。表層の意味をただちに意識化し、表象の極を短絡させつつ、即時的に読みとられるために書きこまれているのだ。
(ジャン・ボードリヤール、塚原史訳「ゼロックスと無限」『透きとおった悪』紀伊國屋書店、1991年、p.76-7)
思想家のボードリヤールのことばを借りれば、パスワードとは、「表層の意味をただちに意識化し」、セカイのありかを「即時的に」さぐる、もっとも「透きとおった」手段なのではないかと思います。

だから、パスワードが違えばあとは、〈セカイの外〉に出るしかないはずです。

つまり、このセカイから〈ほんとう〉にログアウトするためのパスワードは、

君はセカイの外へ帰省し無色の街  福田若之

 
【註】

〔*1〕「【1985 スーパーマリオブラザーズ】暗い密室から、青空の大地へ。横へ横へと広がる自由な世界。『ドンキーコング』や『マリオブラザーズ』で、ひとつの画面に閉じ込められていたマリオが広い世界へ飛び出した。じつは、このゲームは右にしか進めない。後ろに戻ろうとしても、画面が左へスクロールしないのだ。つまり、右にだけ動くベルトコンベア。一方通行なのである。(……)横スクロールのゲームで、広い世界を描く。『スーパーマリオブラザーズ』のステージデザインがなしとげた功績は大きかった。ファミコンの表現力の新しい扉が開かれたのである。」〔東京都写真美術館企画・監修『図録 ファミリーコンピュータ1983-1994』太田出版、2003年、p.168〕

〔*2〕「僕が昔からイタリアのマルデロというイラストレーターが好きだったことも関係してるかもしれませんが、マリオは大きな腹で髭を生やしているイタリア系の男。ネーミングは、「ドンキーコング」を売った頃、スタッフがアメリカで出会ったマリオという名前のイタリア人の寮のおじさんにちなんでつけました。たまたま顔がよく似ていただけなんですけどね(笑)。職業としてはブルーカラーで、女の子よりも背が低いというのが条件でした。」宮本茂「スーパーマリオ対談──任天堂ゲームプロデューサー宮本氏に聞く」〔『季刊 子ども学』Vol.1(1993年9月)福武書店、 p.82-3〕



【2014落選展を読む】その年の事実 堀下翔

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【2014落選展を読む】
その年の事実

堀下翔


読む。

1 霾のグリエ(赤野四羽)

涅槃吹黄色いふうせん西より来  赤野四羽

という句、初めに読んで、気になっていた。飛ばされて、離れていくものとしてある風船が、自分の方に向かってくる。これは、なかなかない。しかも、黄色くて、西から。この二つの情報に意味はないだろう。黄という色が春の明るさを示している、だとか、そういう指摘は要らない。無意味さのリアリティがある。……と、思っていたところへ、そういえば涅槃吹は西から来る風ではないかと気づいた。ごりごりの理屈じゃないか。

総体に、ちょっと、理屈っぽい。〈姥桜花見するひとをみてゐる〉〈大揚羽地球の端にとまりけり〉など。

文学に夏が来れりガルシア=マルケス

時事ネタで、思考から飛び出した句だけれど、意味不明なところがあって、面白い。季語を取り合わせるのと同じような顔をしていきなり「ガルシア=マルケス」を置く無手勝流に、ちょっとドキッとする。「文学に夏が来れり」も、何のことかよくわからない。だから、ああガルシア=マルケスは夏の人だったのか、と、そんなことをぼんやりと思う。彼が死んだのは4月。いったいどうして夏だったのか。

少年が西瓜を抱いて待っている

には、あ、それだけか、という安心がある。これもまた、なにか具体的なことは言っていない。そういうことがあったんだろうな、とぼんやり思う。ぼんやりと、いうのが、50句の印象としていつもあった。


2 こゑ(生駒大祐)

品詞分解をしたくなる。〈ものうげに寒鯉匂ひはじめたり〉(形容動詞「ものうげなり」連用形、名詞、ハ行四段連用形、マ行下二段連用形、完了の助動詞終止形)……と。この直観はおそらく、50句の発話が擬古的であることを示している。

製図室ひねもす秋の線引かる  生駒大祐

製図室という手に慣れない素材、秋の線という捏造的な季語。これらの無理を一句としておさめるときに作者が選んだのは擬古の文脈であった。「ひねもす」「引かる」という言葉が用いられる世界に「製図室」も「秋の線」もあるのだ、と示すことで、これらの無理は隠され、むしろ肯定されている。「引かる」という正しさが眩しい。「引かれ」でも「引かるる」でもない「引かる」は、どこか散文的なほどに古典の中にある。

副詞の多さは指摘しなければなるまい。その中でたとえば〈降る雪やただ重たさの肥後守〉の「ただ」、〈しとやかにあやめの水の古りゆけり〉の「しとやかに」、〈おそろしく真直ぐ秋の日が昇る〉の「おそろしく」、〈富士低くたやすく春日あたりけり〉の「たやすく」は、「真直ぐ」や「低く」とは違って実際的なことは述べていない。多くはやはり擬古的な文脈にある。作者のこころざす古典的な記述は、それ自体が無理の中にあるしかけではなかったか。あらゆる無理の混在を作者は肯定し、読者はその肯定を知ったうえで、違和を覚えている。読者の違和感を作者は喜んでいるだろう。


3 線路(上田信治)

その年は二月に二回雪が降り  上田信治

客観写生をほめる人がよく言うことに「掬い上げられた些事は意図せずして詩となる」というのがある。この言にならいたい。二月に二回雪が降ったことがどうしてこんなに詩になるのだろう。もちろんレトリックは精緻である。何も指さない代名詞「その」、「その年」を感動的に特定する「は」、余韻を残して流す連用形「降り」。けれどもそのしかけをまったく黙殺しても構わないほどに、二月に二回雪が降った事実は、言挙げされることによって、ごくリアルに、こちら側へと手渡されている。

秋の山から蠅が来て部屋に入る

これなんてほとんど嘘かもしれない。ほんとうに山から来たのを見たのか。がしかし〈秋の山から蠅が来て部屋に入る〉と言われることで、たしからしくなる。

言葉にすればなんでも本当のことのように思われるのであれば、どんな俳句だって名句になってしまうだろう。ある一句にあるリアリティがどこから来るのか、ということを、作者は模索し、ときとして核心に触れている。


4 魂の話(大中博篤)

たとえば、

〈山を焼く〉僕が傷つかないように  大中博篤

という句を取り上げて「自分が傷つくことの代替行為として山焼をする。括弧に入れられた山焼は季語としての意味から解放されている。自分が傷つかないための行為であるにも関わらず、おそらくこの「僕」は自分よりも大きなものを燃やす痛みにさいなまれている」といったことを言うのはたやすい。どの時期の俳句史であれこのような(言ってしまえば恰好をつけた)文体はあったはずだ。

虎の檻閉園のベル鳴り続け〉の緊迫感や〈狼に真昼の匂い   雨激し〉の孤独感は、どこかで誰かが書いているだろうという、いわば大いなる類想として感ぜられる。また同時に〈グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ〉や〈街に海鯨が鳴いている 泣いて〉は、俳句以外のどこかで描かれているだろうな(たとえば早川書房あたりで)、という別ベクトルの類想感もある。

それでもこの恰好よさに惹かれる気持ちは分からないでもない。〈グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ〉を指して俳句以外でも書けるであろうと言ったが、俳句にしか書けないことに意味があるとも思わない。

手袋の中は暗黒   犀通る

異様な縮尺のイメージに唖然とする。その犀がただ手袋の中にいるのではなく「通る」のだという。極度に縮んだ犀が真暗い手袋の中をゆっくりと通るその景は、大きさのみならず時間の縮尺まで狂ってしまっているように思われる。

ところでこれは蛇足なのですが、〈診察を待つワラビーよ夏の果て〉のどこに作者が恰好よさを見出しているのか、読みながらついぞ見当がつかなかった。この50句の文脈としては異質だが、ワラビーが診察される状況に妙な面白さが出ていて、ちょっと忘れられない。


5 最初の雨(小池康生)

一句目〈良性か悪性なるか小鳥来る〉は、はじめに読んだときには性善説か何かの話だと思った。読み進めて、病院関連の用語が頻出し、〈癌のことなかつたことに万愚節〉にいたって初めて察しの悪い筆者は、ああ一句目は癌の話だったのかと気づく。ここまで察しの悪い読者はなかなかいるまいが。

自身の闘病をテーマにした50句。

古暦病ひを得ると記しあり  小池康生
七草の日や絶食と告げらるる
癌のことなかつたことに万愚節

このような句は、季語のモノボケといった印象が強く、あまり入り込めない。直接的な言及よりもむしろ、下のような句に強さを感じた。

巣箱掛け最初の雨が降つてをり

表題句。術後にひと息ついた気分が「最初の」という一区切りの語に結実している。〈無傷なり蝶々にまとひつかれても〉も同じ気分だろう。「無傷なり」の断定がうれしい。と思えば〈眠りへの入口しれず春逝きぬ〉と死への連想もある。いずれも喜怒哀楽が活写されている。

麻酔にて知らぬ一日室の花

はとにかくうまいな、と思った句。どれほどの麻酔だったか、そしてそこから、どれほどの手術だったかというところが想像される。


6 パズル(加藤御影)

どこにも体重がかかっていない、軽いタッチの句群。〈チューリップ玩具のやうに汚れたる〉から持ってきて「まるでおもちゃのような」という言い方をしようと思ったら、そもそもタイトルが「パズル」だった。〈眼が穴の動物パズル星月夜〉から取ってきたのだろうが、作者自身、自分の軽さは承知の上だろう。〈山茶花の散ればリズムの生まれけり〉は軽すぎると思いつつ、全体としては、読んでいて楽しい。

ごちやまぜにされて昔や未草  加藤御影

そうだなあ、その通りだなあ。自分のことも周りのことも、昔のことはいつのまにかこんがらがってしまう。「ごちやまぜにされて」とかなり口語的にやったあと、「昔や」と一気に文語脈に回帰するキュートさ。

50句のなかで一番ぐっときたのは、この一連。

十一月散歩のやうに文字つづく
目離すと鳴りだしさうな冬日向

この二句、対になっている気がする。「十一月散歩」までを来た筆者は、この時点で実際に外に出て散歩に出ている。「のやうに文字つづく」と示されて、いま見ていた風景が嘘だったと知る。寒いけれど日はさしているあの散歩のあかるさを、もう一度、文字の上に再現する。そうして次の句へ移れば、「目離すと鳴りだしさうな」と来て、ほとんど錯覚として、前の句の残像である文字を思う。あかるく日がさして、ずっと続いているあの文字が、鳴りだしそうなのだ、と。言葉はつねに音になろうとしているから。そしてこの句が「冬日向」のものであったことを知るとき、筆者は、まだ文字の残像を忘れきれていない。十一月の散歩には、冬日向が付きまとっているがためである。「やうに」「さうな」と、構造も似ている。隣接したこの二句は互いに自分の世界を見せ合っている。もっとも、隣接に意味を見出す読みは本筋から外れているが。


7 脱ぎかけ(栗山麻衣)

ちょっと面白過ぎるんじゃないか、というのが印象。〈脱ぎかけの衣からやあと蛇出づる〉いや、やあとは言わないだろ。〈目配せを交はして蟻の擦れ違ふ〉いや、交わさないだろう。

大根に味染みるころ帰りたし  栗山麻衣

帰りたし、まで読んで、あっ、ここは自宅ではなかったのか、とびっくりさせられる。ではこの大根は他人の家のものか。あるいは、一人暮らしの人。自分一人で調理した大根を食べて、実家に帰りたくなる。そういう素朴な気持ちは「たし」というひねりのない述べ方にかなっている。

人恋ふる心小出しにインバネス

そうか人を恋うる心は小出しにできるのか。生きるのが上手な人にしかできないのかもしれない。人情の機微が「小出しに」の一言で電光のように伝わってきてうれしい。粋な句と思う。


8 クレヨン(倉田有希)

初夢はもらはれてゆく猫のこと  倉田有希

夢の句は全部嘘でも構わないからずるい。作者がふだん猫と暮らしているのかすら定かではない。この句の猫は初夢において初めて登場したキャラクターかもしれない。そういった夢の気味の悪さを、この句は書いている気がする。猫がいなくなる初夢なんて、かなりグロテスクだ。

もっとも50句の多くは、そうではなく、以下のように穏やかである。

蝌蚪の国豆腐のパックが沈みをり
春深し雲の絵皿のオムライス
小鳥来る解体される給水塔

一句目、蝌蚪の国に侵入する異物として豆腐パックは絶妙にちんちくりんで、言い得ている。二句目、ゆるめの取り合わせに気持ちのよさがある。これは全体の特徴としても思われる。三句目の「解体される給水塔」は最後の字余りが気になりつつ、しかし上の初夢と似た違和感がある。給水塔というものの見慣れなさもあるが、あの奇妙な塔がどのような姿で解体されるのか、惹かれる。そんな非日常の入り口に小鳥がきている。ある場所からある場所へ移動する小鳥は、読者が目撃する「解体される給水塔」という非日常と巧みにイメージを同じゅうしている。




【2014落選展を読む】舞ふて舞ふて?舞うてまだまだ落選展(前編)  山田露結

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【2014落選展を読む】
舞ふて舞ふて?舞うてまだまだ落選展(前編)

山田露結


1.霾のグリエ  赤野四羽

姥桜花見するひとをみてゐる

「姥桜」「花見」は季重なりではないでしょうか。

霾のグリエに春闇ジュレ添えて

「霾」「春闇」も季重なりですよね。

箱庭にたんぽぽひとつ咲きにけり

「箱庭」と「たんぽぽ」は季違い。

雑踏に夜の桜の涼やけき

「涼やけき」という言い方、するんでしょうか。わかりません。

山上に蜘蛛の子散りて春疾風

「蜘蛛の子」と「春疾風」も季違い。

涅槃吹黄色いふうせん西より来

「涅槃吹」は「涅槃西風」のことですから「西より来」はダメ押し。

修羅場みて胡瓜涼しや絵金祭

「胡瓜涼し」は、まあ、いいとして「絵金祭」は七月の行事ですから準季語と考えていいと思います。

瑠璃蜥蜴虹の筆先尻で曳き

「瑠璃蜥蜴」、「虹」・・・。

冬鵙や抱き上げし子に脈打てり

「子に」ではなく「子の」でしょうか。生きているのだから当然、脈を打っています。「抱き上げし子の脈はやし」と言いたかったのかもしれません。

みすがらに老人を待つ鯨かな

難解です。

鼻欠けた狛に影揺る初燈

これも「狛に」でなく「狛の」なのかもしれません。


2.こゑ  生駒大祐

夏雨のあかるさが木に行き渡る

「夏の雨」を「夏雨」と約めることがいけないとは思いませんが、仮に掲句を「あかるさの木に行き渡る夏の雨」としてみても句意にそれほど大きな影響はないように思うのです。
ちなみに「夏雨」でググると中国広東省出身の「夏雨(シア・ユー)」という俳優がトップに出てきます。「夏雨」を人名とする読みが発生してしまうのは、それはそれで楽しいのですが、約めるときは注意が必要かもしれません。

人呼ばふやうに木を呼ぶ涼しさよ

後に「木を呼ぶ」とありますから、上五も「人を呼ぶ」と語調を揃えたほうがいいのではないかと思ったのですが。

風鈴の短冊に川流れをり

「ただごと俳句」と「あるある俳句」との違いは何かということを考えたり。

初夏の口笛で呼ぶ言葉たち

羊飼いが羊を集める感じでしょうか。

こゑと手といづれやさしき冰水

上五に「こゑと手と」とありますから、この「いづれやさしき」には「いづれ(も)やさしき」と、(も)が省略されていると思うのですが、(も)を省略してしまうと「やがて」という意味も成立してしまいます。これも注意が必要かもしれません。

夏の木のたふれし日差ありにけり

一読、夏の木が倒れている姿を「たふれし日差」と言い止めたのかな、と思ったのですが、そうではなくて夏の木が倒れたことで明るくなったと言っているんですね。

雲甘く嶺を隠しぬ蝸牛

綿菓子を連想しましたが。

真桑瓜みづのかたちをしてゐたり

そういえば、人間も「みづのかたち」ですよね。

輪の如き一日が過ぎ烏瓜

「輪のごとき一日」とは?「棒のごときもの」で貫いたりとか。

色町の音流れゆく秋の川

色町の音。ジャンジャン横丁はかつて、ジャンジャン鳴っていたそうですが。

製図室ひねもす秋の線引かる

「秋の線」?春に引いたら「春の線」?

木犀の錆び急ぐ夜を何とせむ

木犀は錆びないと思います。

鳥のやうに生きて林檎のしぼりみづ

「りんごジュース」ではいけないのでしょうか。

世の中や歩けば蕪とすれちがふ

「世の中や」と上五に持って来れば、あとは何を言ってもつながります。「歩けば蕪とすれちがふ」は面白いと思いますが。

定まりし言葉動かず桜貝

桜貝は動くと思います。

のぞまれて橋となる木々春のくれ

「のぞまれて肉となる豚」みたいで悲しいです。

うたごゑの聞こえてとほき彼岸かな

「〇〇して→遠き→〇〇かな」は類型があると思います。

俯せに水は流れて鳥曇

水の「俯せ」「仰向け」は類想があると思います。

富士低くたやすく春日あたりけり

思い描くイメージを言葉がうまく再現してくれなくて作者が苦しんでいる、という印象を持ちましたが、どうでしょうか。


3.線路  上田信治

てふてふや中の汚れて白い壺

中七の「汚れて」の「て」で軽く切れが生じると思うんですけど、上五で「てふてふや」と切ってありますからリズムがぎこちない感じがします。「汚」「白」も気になります。いっそ「内側汚れたる花瓶」とでもしてしまえばスッキリしますが、作者はカチッとした言い方を好まないのかもしれません。

春の日に見下ろす長い線路かな

長いものをあえて「長い」と言うところに春の日のけだるさがある、と見るか。

霞みつつ岬はのびてあかるさよ

岬もまた「のびて」いるものです。
「あかるさ」俳句も、よく見かけるような気がします。

桜さく山をぼんやり山にゐる

春は「ぼんやり」するものですよね。

餃子屋の夕日の窓に花惜しむ

「餃子屋」が動きたがっています。

鯉のぼりの影ながながと動きけり

鯉のぼりの影はながながと動くものですよね。

かしはもち天気予報は雷雨とも

このかしわもちの佇まいは好きです。

ゆふぞらの糸をのぼりて蜘蛛の肢

「ゆふぞらの糸」がいいと思いました。

晩夏の蝶いろいろ一つづつ来るよ

「円きものいろいろ柚子もその一つ」(高野素十)を思いました。

朝顔のひらいて屋根のないところ

屋外を「屋根のないところ」と。あたりまえのことを別の言い方であたりまえに言うことによって生じる奇妙な脱力感。

状差に秋の団扇があつて部屋

「あたりまえ体操」(COWCOW)的なオチとしての「部屋」の提示。前出の「中の汚れて→白い壺」、「ひらいて→屋根のないところ」などの提示の仕方と似た形です。

草を踏む犬のはだしも秋めくと

「犬のはだし」は「犬の裸足」でしょうか。

靴べらの握りが冬の犬の顔

こういう靴べら、見たことがあるような気がしますが、「冬」の犬でいいのでしょうか。季語が動く、言葉が動く、ということについては、やはり、動かない方が好ましい、と私は考えます。

北風の荒れてゐる日の水たまり

北風は荒れやすいものだと思います。

江ノ島のコップの水や麗らかに

「江ノ島」が効いていると思います。この「江ノ島」は動かないと思います。

クロッカス団地一棟いま無音

「無音」と言わずに「無音」を言って欲しいところです。

犬を見るかしこい犬や夏の庭

「人を見る」ならかしこい感じがします。

白布のうへ四つの同じ夏料理

模様のちがふ皿二つ。

冷蔵庫に西日のさしてゐたりけり

あえて狙う季重なり?

秋の山から蠅が来て部屋に入る

嘘でしょう。

月今宵みづの出てゐる水飲み場

あたりまえの念押し?

やすみなく暮れゆく空や毛の帽子

「毛の帽子」は毛糸帽のことでしょうか。ロシア帽のことでしょうか。それともウィッグのことでしょうか。

その年は二月に二回雪が降り

この「ただごと」は面白いと思います。「二月」が主ですから季重なりになっていないと思います。二回雪が降ったことを背景として、なにか、その年にあった特別な出来事を思い出しているのかもしれません。


4.魂の話  大中博篤

北風や目をつむりつつピアノ焼く

「焼く」に少し驚きました。

休日のサラリーマンの手首かな

無用の用としての「手首」の提示。面白いと思いました。無季。

〈山を焼く〉僕が傷つかないように

勇気を出して、もっと焼いてはいけないものを焼くべきです。

狼に真昼の匂い   雨激し

「真昼の匂い」。密通でしょうか。

風花や  犬を喰ふ犬見ておりぬ

見ていないで追い払ってください。

はつなつの銃の全き冷たさよ

金属の冷たさ、温さ、は着想の類似があると思います。

花芒 人美しく滅ぶベし

まあ、理想としてはそうですが。

子守柿 戦艦一日掛け沈む

「戦艦一日掛け沈む」の把握は面白いと思います。

また名前呼ばれて冬の商店街

「博篤君!」とか。


5.最初の雨 小池康生

良性か悪性なるか小鳥来る       

「震災」を詠むことの難しさについて、現実が表現力を凌駕してしまっているという意味のことを言っている記事に、なるほどと思ったことがあります。この「現実が表現力を凌駕してしまっている」状態というのは、たとえば重い「病」を詠むときにも当てはまるのかもしれない、ということをぼんやり思いながら読んだ50句でした。

菊を見て菊のひかりを見て菊を     

「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(水原秋櫻子)が作者の頭にあったかも知れません。直接「病」を詠んだものより、このような何気ない動作の描写に、生のさびしさ、無常感といったものが表れているようにも感じます。

麻酔にて知らぬ一日室の花
春隣縫ひ目きれいな胸と腹

少し離れたところから自己を冷静に見つめることによって、「現実からの凌駕」から逃れられるのかもしれません。

航跡に碧湧き出す朝曇

病からの回復という前提がなくとも「碧湧き出す」の力強さは動じないのではないでしょうか。「朝曇」も決まってる感じがします。


6.パズル 加藤御影

手のつなぎかたのいろいろ木の芽風

「いろいろ」というほどいろいろはないように思いますが。

うぐひすや掌は表情を持ち

手相?

砂時計の汚れない砂鳥雲に

「汚れない砂」という発見。

白木蓮咲いて悪児の華やげる

「悪童」と言った方がわかりやすいような気がします。

消しゴムに鉛筆の穴さくら咲く

こういう無駄事を私もよくしました。

クリームのやうな寝癖や花の雨

「クリームのやうな寝癖」は面白いと思います。

晩春や猫のかたちに猫の影

「犬のかたちに犬の影」「猿のかたちに猿の影」「豚のかたちに豚の影」などなど。

神の名を与へし猫や花は葉に

福禄寿とか。

ともだちとはぐれてゐたる花氷

迷子の心細さと「花氷」の鮮やかさの対比がいいと思います。

茄子なりに私の顔を映しけり

茄子の意思によって顔を映している!

どの傘も人を宿して秋近づく

傘が人を宿す!という発想に驚きつつも、かなりの力業、という感じもします。

パレットは絵の胎盤か黄葉置く

力業はほどほどに。

菌たる自由菌となりにけり

「自由菌」かと思いましたが「自由」で切れているのですね。

手袋の難破のやうに落ちてをり

「漂へる手袋のある運河かな」(高野素十)。

冬帝や珈琲は火の味を秘め

「火の味」が成功しているかどうかわかりませんが、妙なところに目を着けて妙なことを言おうとする姿勢が楽しい作者だと思いました。


7.脱ぎかけ 栗山麻衣 

脱ぎかけの衣からやあと蛇出づる

「やあ」とは言わないでしょう、蛇は。

俳人に句碑なめくぢに光る道

句碑をバカにしているのでしょう。

身一つの勝負に出たきラムネ玉

瓶を割ってあげて下さい。

目配せを交はして蟻の擦れ違ふ

目配せはしないでしょう、蟻は。

鉄棒を舐めれば鉄の味晩夏

舐めないで下さい。

ゴスペルのごとき熱狂鮭上る

ものすごい喩え。

蓑虫の世を窺ひし目玉かな

蓑虫に目玉があるでしょうか。

ゐのこづちかくれんぼへとくははりぬ

「かくれんばうにくははりぬ」でいいような。

秋の夜の一針ごとに延びゆかむ

「夜長」を言っているのでしょうか。

くしやみして魂すこしづつ抜ける

くしゃみと一緒に一気に抜けて欲しいところ。

冬日向ひとりの人のふたりゐて

解釈次第では面白いと思いますが。

紙風船突いて己の空気抜く

紙風船と一心同体だったのですね。

ひねくれし葉からまつすぐチューリップ

いえ、チューリップの茎は葉からでなく球根から伸びています。


8.クレヨン 倉田有希

船を描くクレヨンの白春の雷

「クレヨンの白」がいいですね。もう少し穏やかなイメージの季語でもよかったかもしれません。

口紅を塗る兄とゐて花筏

お兄様っ!

桜撮る人撫で肩で遠ざかる

撮るときはいかり肩だったのでしょうか。

蝌蚪の国豆腐のパックが沈みをり

「豆腐パックが」で、中八を回避できます。

菜の花やトロッコ列車の駅の跡

この中八は手強いですね。

向日葵の影を慕ひて三輪車

作詞作曲、古賀政男。

昼時の海月と人が浮かぶ海

事件です。

賢治読む人の耳たぶ山葡萄

そんな恐ろしいことが起こるのでしょうか。

すずむしや共食ひのときみなしづか

テーブルマナーです。

老犬の巻き尾日毎に天の川

スペクタル。

かなかなや今日会ふ河童の碧色

明日は朱色かも。

車座に少女も二人西瓜かな

西瓜人間が輪になって。

人参と同じ太さのドリンク剤

ニンジンエキスが入っているのです。

鉄棒の向うはジュラ紀の寒茜

タイムマシンにお願い。

繰りかへす家の歴史や雑煮餅

歴史は繰り返すものです。


9.凛凛 きしゆみこ

続編がすぐに始まる猫の恋

ワクワクします。

春の水研ぎし刃物の刃の中に

「刃の中に」、「刃の中に」どうしたのですか。

冴え返るあなたにできることなくて

何もできない僕だから。

春泥や楽器はどれも大荷物

ハーモニカはそうでもないですよ。

遠吠はむかしむかしに目借時

前世は犬だったのですね。

イギリスの国旗が触るる蔦若葉

紅茶でも飲みましょう。

語呂の佳き番地に下げる風鈴よ

819(ハイク)番地、とか。

礼拝に書を置く人や避暑の星

「避暑地の星」?

生身魂ことりことりと心の臓

ペースメーカーかもしれません。

窓側が好き寒くても一人でも

風邪をひかないように。


10. 徒然 工藤定治

今はもう誰も採らざる棗の実

今はもう誰も愛したくないの。


11. 舞ふて舞ふて舞ふてまだまだ枯一葉 片岡義順

はなごろも置かれしままの久女の忌

紐もいろいろ置かれているのでしょう。


12. ふらんど さわだかずや

目つむれば風かすかなり花の雨

目つむれば若き我あり春の宵 高浜虚子
目つむれば蔵王権現後の月 阿波野青畝
目つむれば倖せに似ぬ日向ぼこ 中村汀女
目つむれば睡魔ふとくる緑蔭に 稲畑汀子

「目つむれば」俳句は飽和状態です。

空いまも紀元前なる桜かな

天空と地上との時間差。面白い把握だと思います。

養花天葬列半ばよりまばら

「養花天」と「葬列」は相性が良すぎるのでは。

韮やはらかし人妻はさりげなし

どういうプレーなのでしょう。

眠くなる前から眠し春の昼

「春の昼」とはそういうものです。

やい鬱め春あけぼのを知りをるか

「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」(江国滋)のパロディでしょうか。

鞦韆のめがけてきたる側頭部

考え過ぎです。

花満ちて故郷は呪ふべき処

人それぞれでしょう。

入学のひとりは痰を吐いてゐる

結核なのかも知れません。

女見る目なしさくらは咲けばよし

私もです。

春めきて窃盗多き商店街

景気が悪くなると治安も悪くなります。

虚子の忌の回転寿司の皿詰まる

詰まっているのはわれわれでしょうね。

佐保姫がたとへこの方だとしても

女性蔑視はいけません。

メッセージ性なき風船も飛んでをり

メッセージ性ある風船がイメージできません。

地中より花の宴の残り物

掘り返さないで下さい。

劣情を父も持ちけりあたたかし

やさしい作者なんだと思います。


13. 封境 杉原祐之

豆乳の鍋に旧正祝ぎにけり

「鍋」と「旧正」。

鬼退り出し一斉に豆を撒く

豆撒きとはそういうものです。

オープンのゴルフコースに霾れる

せっかくの「オープン」なのに、ということでしょうか。

ぬひぐるみ抱えしままに野に遊ぶ

そういう子もいるでしょう。

花仰ぐ多種も多様な人種ゐて

「多種も多様な人種」って日本語おかしくないですか。

ドーナッツ現象の町花曇

「ドーナッツ現象」とは言わないでしょう。「ドーナツ現象」。楽しいですが。

緑陰の下にインドの将棋差す

チェスのことでしょうか。お好み焼きを日本のピザと言う人もいますよね。「下に」は言わなくても「緑陰に」でわかります。

ナイターのドームの屋根の開きけり

「ナイターのドーム」。まあ、わかりますが。前出の「オープンのゴルフコース」と似た言い方ですね。

強弱の無き冷房のバス走る

冷房の強弱のことでしょうか。運転席で操作しているのかもしれません。お願いしてみて下さい。

播州の室津の浜の蝦蛄を漁る

「三州の一色の浜の蝦蛄を漁る」でもいいですか。

広島の原爆の日の砂河原

「東北の震災の日の砂河原」でもいいですか。「の」で繋ぐのが作者好みなのでしょうか。

潮の香を翅にまとへる赤蜻蛉

海岸です。

重陽の透き通りたる天つ空

秋晴れです。

マンションの路地に秋刀魚の煙充つ

秋刀魚を焼くと煙が出ます。

終電車回送さるる後の月

仕事を終えたら車庫まで回送です。

短日の改札口に人溢れ

駅は人が溢れるところです。

大寒の訃報相次ぐ日なりけり

寒い時にはよく亡くなります。


(前編のつぎは後編です)


10句作品テキスト 美食の耳 岡田一実

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美食の耳   岡田一実

空風おほきな耳が耳のまま

冬帽をおほきな耳と考へる

サーカスに売られし犬と悴めり

午後の陽にゆるされてゐる寒い鳥

肉塊に親しき刃物冬きざす

まぼろしの鹿肉うまき時雨かな

童貞の兎でうさぎ汁を恋ふ

食へさうな象ふかふかと絨毯に

耳があるつづきに顔がある炬燵

飛び交はすおほきな耳に雪が降る

10句作品 美食の耳 岡田一実

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週刊俳句 第396号 2014-11-23
美食の耳 岡田一実
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週刊俳句 第396号 2014年11月23日

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第396号
2014年11月23日

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岡田一実 美食の耳 10句 ≫読む
……………………………………………
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「白」をめぐって……小津夜景 ≫読む

拒絶されたスーパーマリオの内面
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連載 八田木枯の一句
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後記+プロフィール397

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後記 ● 西原天気


今回、10句を頂戴した太田うさぎさんは「八田木枯の一句」執筆ほか小誌でもおなじみ。さきごろ、同人「豆の木」で年に1回開催の「豆の木賞」を受賞されました。受賞作(20句)は来春刊行(予定)の『豆の木』誌に掲載されるはずです。

 ●

「石田波郷賞」落選展への応募は本日が締め切りです。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/10/2014.html

 ●

今日が終わればいよいよ12月。衆院選やら週刊俳句・第400号やら(一緒にするな!って?)、いろいろとあります。いろいろ忙しく騒がしく今年が終わっていくのでしょう。

 ●

それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。


no.397/2014-11-30 profile

■太田うさぎ おおた・うさぎ
1963年東京生まれ。「豆の木」「雷魚」会員。現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。

■柳本々々やぎもと・もともと
かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/

■堀下翔 ほりした・かける
1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。筑波大学に在学中。

■山田露結 やまだ・ろけつ
1967年生まれ。愛知県在住。銀化同人。共著『俳コレ』(2011・邑書林)。句集『ホームスウィートホーム』(2012・同)。共著『再読 波多野爽波』(2012・同)  

■小津夜景 おづ・やけい
1973年生まれ。無所属。

久留島元 くるしま・はじめ
1985年1月11日生。「船団」会員。第七回鬼貫青春俳句大賞受賞。2012年~、柿衛文庫「俳句ラボ」講師。blog「曾呂利亭雑記」

■西村麒麟 にしむら・きりん
1983年生れ、「古志」所属。 句集『鶉』(2013・私家版)。第4回芝不器男俳句新人賞大石悦子奨励賞、第5回田中裕明賞(ともに2014)を受賞。

■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。

■山中西放 やまなか・せいほう
1938年京都生。2012年より「渦」編集長。句集『風の留守』、『炎天は負うて行くもの』。他詩集2冊。

■西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。「月天」同人。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

〔今週号の表紙〕第397号 擬宝珠 山中西放

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〔今週号の表紙〕
第397号 擬宝珠

山中西放


見たことも無い金色に輝く此の不思議な草を見て思わずシャッターを切った。妻に訊くと擬宝珠だと言う。

紀の川南方の山上の郷、天野に在る丹生都比売神社の境内、照り返る紅葉の中に枯れ切れぬ擬宝珠がまるで存在感を誇示するように輝いている。

「丹」は古代の貴重な鉱物資源、丹塗りの太鼓橋の上から指揮棒が振られるように山は輝く。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

【八田木枯の一句】寒釣の釣れずにかへるからだかな 西村麒麟

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【八田木枯の一句】
寒釣の釣れずにかへるからだかな

西村麒麟


寒釣の釣れずにかへるからだかな  八田木枯

「雷魚」第86号より。

わざわざ出かけて、駄目でしたと帰るわけなのだが、本当は釣れようが釣れまいがどうでも良かったのではないだろうか。

僕は時々夜のコンビニに出かけ、店内をうろうろして、何だかよくわからない雑誌を立ち読みして、気が済むと肉まんか缶コーヒーを買ってからトボトボ帰る。

ふー、寒いなぁ、何やってんだろ、と思いつつコンビニの灯を離れ暗い夜道を歩く。

これが結構楽しくてやめられない。

作者にとっての寒釣は僕にとってのコンビニみたいなものだろう。

あぁ、寒いなと思うわけである。

一生一人で居ることも、一分も一人で居られないことも、同じぐらい恐ろしい。

たまには句会かコンビニか寒釣にでも行けば良い。


【週俳10月の俳句を読む】句を読むこと 久留島元

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【週俳10月の俳句を読む】
句を読むこと

久留島元


いい句とは何なのか。
確乎たる信念があるわけではないが、句を読むときは自分の好みに誠実でありたいと思う。

週刊俳句や、その他、紙の媒体においても、我々が句を読むときは、たいていいくつかの句がまとまりになっている。
一句は独立したものという前提ながら、一人の作者によって示された句群があれば、どうしても「そのなか」で読んでしまうことが多い。


実は実は秋の重さよ実は実は  二村典子

<天高し行きと帰りは違う靴>、<台風がまた来る週末三連休>、<あたらしくきれいなお皿きれいな夜寒>あたりは「わかりやすい」。
しかし、なかには平明なふりをしてよくわからない句が交じる。
掲句。国語教科書風に鑑賞すれば、「実は秋の重さを感じることがあったよ、実はね。」とでもなるか。教科書には向かない句であろう。何が「実は」なのか。もったいぶっておいて、何なのだ、「秋の重さ」って。どこで量ったのだ。まさか「秋の思い」の変換ミスでもあるまい。極小詩型にあるまじき言葉の無駄遣いだ。秋の空気には軽やかな印象があるが、感傷的には重さを感じることもあろう。それがどうしたのだ。
よくわからない。

銀杏を割る難題を聞き入れる  二村典子

銀杏を割るのは、難題ではないにせよ、やや面倒だ。しかし銀杏を割りながら持ちかけられる難題とは何なのであろうか。「ぎんなん」「なんだい」と連なっていくうちに聞き入れてしまったものか。作者はどうも後悔はないらしく、ただ、すこし面倒な銀杏に集中しているらしい。


秋。遺影。イエイ。を。叫ぶ。だれですか。  佐山哲郎

遺影とイエイが同音なのは、はじめて気づいた。遺影を前に、なんか楽しそうである。

あ、秋。海。雨。ワイパーの、変な音。

吃音のような句点の切れがたどたどしいワイパーの動きと、なにか言いたくても言えないもどかしさを抱え込んだ「秋」のドライブを想像する。

できちやつた婚。の。夜長。の。已然形。

已然形
文語の用言・助動詞の活用形の一。六活用形のうち,第五番目に置かれる。係り結びで「こそ」の結びとなり,「ば」「ど」「ども」などの助詞を伴って,順接・逆接の確定条件を表す。口語では,その用法のちがいから仮定形とよばれる。

デジタル大辞林

已然形が唐突だが、「できちゃつた婚」を「夜長」に活用すると、うしろにどんな「条件」が来るだろうか。なんとなく逆接が来そうである。
「できちゃつた婚ども子は産まぬ」とか。

わからない句群かと思ったら、読んだら意外にわかるので楽しくなる。
多くは言葉遊びで作られているが、句にしたがって遊びを尽くしていくと妙な感覚が残る。言葉のなかにある、もうひとつの顔を、素手で探りあててしまったみたいで、実に、妙である。


露の世の鼻を交換する工事
  福田若之

「わからない」句が多いので、「わかる」句を見つけるとほっとする。
よく考えると「わかる」句も、よく「わからない」ままなのだが、「鼻を交換する工事」は実際にありうるのだと思う。少なくともキラキラと輝く「露」にあふれた夜長ならばどんな工事が行われていてもいいのである。
「わからない」のは、たとえば、<愛憎の虎が歩道橋に銀河>は、愛憎の対象となる虎が歩道橋にいる、そういう強烈な景が「銀河」でスカされる感覚が「わからない」。
<電柱の努力で満月のはやい>も同様で、安定感あふれる季語と、不安定な世界観とが反発しあうので、それが狙いなのかも知れないが、よくついていけないのである。


いわしぐも駅から次の駅が見ゆ  越智友亮

打って変わって、たいへん「わかりやすい」句。
東京在住の作者であるから東京近郊の景なのか、地元の景なのか。田舎はかえって間隔が遠いのかも知れず、してみると都会の景であるか。
秋の空のもと、次の駅が見える。駅から次の駅まで歩いても、さぞ気持ちがいいだろうと思う。読者はそう思ったらしい「作者」を容易に想像できるが、全員が「気持ちよさ」を共有できるような、「わかりやすい」句でありすぎることに、一抹の不満がある。


いい気なもので、「わかる」句群の前では、ちょっと「わからない」句が気になる。
しかし「わからない」句群の前では「わかる」句に飛びついてしまう。

「わかる」とか「わからない」とか、至って恣意的な判断で、できるかぎり読解の可動域は広く持ちたいと思うが、結局のところ配分の微妙さは、深奥幽玄というべきか。


第389号 2014年10月5日
福田若之 紙粘土の港 10句 ≫読む
第390号 2014年10月12日

二村典子 違う靴 10句 ≫読む
第391号 2014年10月19日
佐山哲郎 こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。 10句 ≫読む
大西 朋 青鷹 10句 ≫読む
第392号 2014年10月26日
塩見明子 改札 10句 ≫読む

越智友亮 暗 10句 ≫読む

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