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【句集を読む】鎌倉へ 雪我狂流『膕』の一句 西原天気
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「六月のしるべ――『今井杏太郎全句集』を読む会」のお知らせ
■「六月のしるべ――『今井杏太郎全句集』を読む会」のお知らせ■
パネリスト:西村麒麟・福田若之・小川楓子・生駒大祐
司会:鴇田智哉
◆6月23日(日)13:30~17:00(開場13:15)
◆月島区民館 5号室
東京メトロ有楽町線or都営地下鉄大江戸線月島駅9番出口
tel:03-3531-6932
◆参加費:¥1,000(当日現金でいただきます) 定員:80人
■西村麒麟「削らなかった言葉」
■福田若之「そのつど、偶然に出会う――〈老人俳句の杏太郎〉から〈杏太郎俳句の「老人」たち〉へ」
■小川楓子「今井杏太郎―からだとことば」
■生駒大祐「杏太郎の切れと助詞―上五の処理を中心にして」
若手俳人四人がそれぞれの観点から
『今井杏太郎全句集』を読み、
それをもとにディスカッションします。
やわらかに見える今井杏太郎の句をいかにつかまえようか、
六月の月島にて話を深めたいと思います。
またとない機会に、ぜひご参加ください。
鴇田智哉
【お申込み・お問合せ先 】
電子メールにてお申込みください
→ t-tokiris7@nifty.com
※当日も受付けますが、席に限りがあります。お申込みはお早めにお願いします。尚、定員を超えた場合は先着順とさせていただきます。
パネリスト:西村麒麟・福田若之・小川楓子・生駒大祐
司会:鴇田智哉
◆6月23日(日)13:30~17:00(開場13:15)
◆月島区民館 5号室
東京メトロ有楽町線or都営地下鉄大江戸線月島駅9番出口
tel:03-3531-6932
◆参加費:¥1,000(当日現金でいただきます) 定員:80人
■西村麒麟「削らなかった言葉」
■福田若之「そのつど、偶然に出会う――〈老人俳句の杏太郎〉から〈杏太郎俳句の「老人」たち〉へ」
■小川楓子「今井杏太郎―からだとことば」
■生駒大祐「杏太郎の切れと助詞―上五の処理を中心にして」
若手俳人四人がそれぞれの観点から
『今井杏太郎全句集』を読み、
それをもとにディスカッションします。
やわらかに見える今井杏太郎の句をいかにつかまえようか、
六月の月島にて話を深めたいと思います。
またとない機会に、ぜひご参加ください。
鴇田智哉
【お申込み・お問合せ先 】
電子メールにてお申込みください
→ t-tokiris7@nifty.com
※当日も受付けますが、席に限りがあります。お申込みはお早めにお願いします。尚、定員を超えた場合は先着順とさせていただきます。
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10句作品 群れ 谷村行海
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【角川俳句6月号を読む】 「第二芸術論、第二芸術論とうるさく言ってしまいました」 山口優夢
【角川俳句6月号を読む】
「第二芸術論、第二芸術論とうるさく言ってしまいました」
山口優夢
角川俳句6月号を読んだらいろいろ面白かったので、書き留めておきたいと思う。
◎「大特集・推薦! 令和の新鋭」
39歳以下の俳人24人を紹介する若手俳人特集。1人が見開き1ページを使い、所属結社・顔写真・新作20句・略歴・結社の主宰の推薦のことば・旧作25句(主宰選)という構成からなっている。
24人は、俳句結社の主宰が1人ずつ「推薦」したものだ。24の結社の中には「船団」など結社と名乗っていないものも入っているようであるが、対馬康子による総論で「この二十四名は主宰から結社の若手代表として選ばれ、見開き写真付き大特集に作品発表をする貴重な機会を得た」とあるので、少なくとも編集部としては24の「結社」の「主宰」が選んだ、という認識のもと企画しているようだ。
なぜ若手俳人を特集するにあたり、結社の推薦という形をとったのだろうか。企画の趣旨はどこにも書かれていない。対馬康子による総論を見てみよう。「俳句の将来を担う若手が徐々に力を蓄え、かつての「戦後派」のように、たくましく「若いかたまり」となってきていることを実感している」と若手に対する期待感を語り、結社については「要は、主宰が句会などの神聖な人間同士の修業を通して、「物と心の新しい関係性」を、直接人として伝え合い鍛え合う場である」と定義している。この結社で鍛えられた24人をご覧いただこう、というわけだ。
しかし、対馬自身が認める通り、今の時代には「結社に属さないで俳句を作る人も増えて来た」のであり、その状況で結社ご推薦の若手のみで大特集を行うことの意義は何なのか、やはり疑問が残る。結社に属している方が鍛えられる、という主張ならばなおさら、結社所属の若手とそうでない若手を並べて見せればいいのに。逆に言えば、やや話は脱線してしまうが、6月2日号の週刊俳句で上田信治がして見せたような分析も、結社所属でない若手を同じ条件で企画に登場させていないために比較・検証ができず、不十分な論にしかならない、ということだ。そもそもこうした企画に意味があるのは、結社というくくりで若手を全て語れるという前提があってこそではないだろうか。
その上で結社の主宰が推薦した若手の俳句を並べるということの事実上の意義を考えるならば、それは「読者に読んでもらうため」ではなかろうか。「●●さんの結社の若手なのか、なるほど●●さんがそう薦めるなら、ちょっと(話の種に)読んでみるかな」という消費のされ方をあからさまに想定している企画と見える。所属結社名を俳人そのものの名前より目立つ字体・場所に置き、主宰俳人の「推薦のことば」がないと、若手の俳句など誰も読まないと、編集部はそう思っているのではないだろうか。
高山れおなが「俳句など誰も読んではいない」というテーゼを打ち出し、週刊で俳句批評を掲載するwebサイト「―俳句空間―豈weekly」を創刊したのは2008年のことだ(すでに終刊)。その問題意識の対象には、入門特集に終始し批評の場を形成することのない俳句総合誌への批判も当然入っていただろう。確かに今回の6月号は入門特集ではない。鉄板の入門特集を1回お休みして(7月号は「夏の季語入門」)、現在の若手の俳句作家にフィーチャーし俳句界の現在と未来を見通そうという心意気はすばらしい。たぶんその分、「ただ若手の作品を並べるだけじゃ読まれない」という冷静な計算もあったのだろう。「せめて中堅からベテランの俳人が持つ権威に紐付けないと、何処の馬の骨かも分からない俳句なんて誰も読みはしない」と。
もしも俳句総合誌がつまらないとしたら、それは俳句総合誌だけのせいではない。それが多くの俳人の求めているものを反映した姿である以上、その責めもまた、俳人が負うべきものだ。つまり、我々は1946年に発表された桑原武夫の「第二芸術論」による批判を一歩も乗り越えていない。「ある俳句1句を読んだだけではその句が大家のものか素人のものか判別ができず、それを決定づけるのは弟子の人数といった世俗的な権威に過ぎない」といった趣旨のことを桑原はその論で述べているが、まさにこうした結社の主宰という「権威」を経由しないと若手の俳句をきちんと読むことができない我々の態度こそが、大いに反省すべきものではないかと考える。
長い前置きになったが、以上の問題意識から、やはり1句1句きちんと彼らの俳句を「読む」ことから始めないといけない。それは大げさに言えば、第二芸術論の超克のためにも。というわけで、24人の新作20句の中で、興味を覚えた俳句を以下で鑑賞する。
屑籠の倒れしままや春夕焼 浅川芳直
本来立っているべきゴミ箱が倒れっぱなしになっている。丸めたティッシュやビニール袋などが口から少しこぼれているだろう。「春夕焼」という季語が、雑然とした部屋をさびしくしずかに統一しているが、それは夕暮れ時の一瞬のことなのだ。あえてゴミ箱を直そうともしない無気力感も含めて好感を持った。
遊園地うごかす電気桜咲く 遠藤容代
遊園地にいて、それを動かす電気を思っている作者の浮遊感。全くない発想ではないかもしれないし、家にいてもいろんなものが電気で動いているのだけれど、やはり遊園地の華やかな幻想を支えている電気の流れにこそ目が向くというのはとても面白い。桜が咲いているということはディズニーランドではないだろうな。花やしきか?夜だろうな。電気の通らない桜の幻想性だけが実は現実なのであるという倒錯した味わい。
エスカレーター駆けて子供や春めける 川原風人
どこのエスカレーターでもいいのだけれど、屋上に通じるエスカレーターだとなお気持ち良いなあと思った。子供、そして春めくという言葉を入れながら陳腐すぎないのは、エスカレーターを駆けるという地に足の付いた場面設定のチョイスからだろう。
電車から見る春のリビング誰もゐず 川原風人
あ、と思う間にそのリビングは視界の後方に飛んでいく。線路際の清潔なマンション、そうきっとアパートではなくマンションだろう。「リビング」という言葉の響きがそう思わせる。高架を通る電車に乗っているとき、時折私もそんな風景を見たはずだ。からっぽの部屋には春の昼の光がよく通る。モデルルームのようなどこかうつろな春の昼だった。
献花よりつぎの献花へ虻飛びぬ 川原風人
「献花より献花へ」でも句の意味は通る。供えられたある花から別の花へ、と飛んでいると捉えられるが、「つぎの」という一語が入ることで次に並んでいる人が献花をしている動作を見せることに成功している。そこには沈鬱な雰囲気が漂っているだろう。ああ、そういうときでもこの虻は関係なく飛び回るのだ、それが生命の営みだから!
ぶらんこの子が真夜中を待つてゐる 西生ゆかり
新世紀エヴァンゲリオンでも、主人公シンジの幼い頃の記憶に、誰もいない夕方のぶらんこがひとりでに揺れている。夕方から夜にかけてのぶらんこほど、胸をえぐられる幼年期のさびしさはない。なのにこの子は真夜中を待っているのだ。何か人ならざるものを見てしまったようなぎくっとした印象を抱く。この子の心が純粋に真夜中を心待ちにしていればいるほど、母親や父親のことなど心になければないほど、そらおそろしい気分になる。
髪洗ふときも喋つてゐる姉妹 杉田菜穂
普通の家の風呂場にはシャワーは一つしかない(と思う)。姉妹を第三者の視点から見ていることからしても、この句は温泉か銭湯で並んでシャワーを浴びる女性2人を目にしたものだろう。旅先の高揚感か、銭湯通いの気楽さか。互いに視界は髪洗う手で阻まれていても楽しげにおしゃべりする様子は、それを目撃した人の心もほっこりさせたことだろう。姉妹が小学生くらいでも、ハイティーンでも、20代でも、子供を持つくらいの年代でも、いずれも味わい深いが、すでに夫が退職したのちにのんびり温泉に浸かりに来た老女2人という設定はどうだろう。何十年も前からこうして髪を洗うときも喋ってきた姉妹、それを思えば時間を超えていく不思議な感覚をすら覚える。
誰も見ず観潮船の大鏡 涼野海音
2階建て、3階建ての大きめの船には、確かに階段の踊り場などに大きな姿見がある。観潮船だから、そこにある鏡の前は誰も素通りして潮の流れを見に行く。実は誰も書き留めなければ意識もされなかったことで、世界は満ちている。
囀や翠ときをり紅に 柳元佑太
夏も深くなった頃の葉っぱの緑色だとこういうことはない。春、あるいは新緑の明るく薄い葉っぱの緑は光線の具合で確かにどこか赤く見えることがある。補色だからか、その仕組みはちょっと知らないが、みどりやくれないという色彩を書いているようで実はこの句の主役は光だ。極度に単純化した図式の中に、自然の不思議、それを視覚で認識する自分の不思議を思う句だ。
また、次の句については一言言いたい。
神待ちの少女ネオンの路地の裏 山本たくや
神待ちの少女、つまり「神を待っている」少女だが、これは「信仰深い」少女ではなく、「家出して行くところがないため今晩泊めてくれるところとご飯を提供してくれる「神」のような成人男性を待っている」少女のことだ。当然、それなりの対価を差し出すことが期待されている。対価!彼女たちに体以外差し出せるものがあろうか。つまりはネット上のスラングであり、社会問題化している売買春の新しい形態の一つだ。
彼女の行き場のなさ、誰も救いの手をさしのべないまま滑り落ちてしまった社会の暗部、それに俳句で手を出そうという心意気はすばらしい。しかし、「ネオンの路地の裏」ではダメだと思う。そうなんでしょうね、という固定観念から外に出ない。そして、彼女に寄り添っていない。
私は、俳句の素材は広げるべきだと考えている。これまで俳句の領域に入らなかった言葉も積極的に入れるべきだと考えている。しかし、問題はそれを自分の中でどう消化するか、ではないか。その格闘が必要だ。神待ちの少女を俳句に詠んでほしい、その言葉は「俳句になじまない」とは絶対に言わない、でも人のやらないことをやるならば、もっともっと格闘しないといけない。これは、自戒も込めて。
以上の俳句たちから、若手の何が見えてくるだろうか。それは上田の言うとおり「通俗性」だろうか。新しい傾向や、あるいは逆に多様性が見えるだろうか。ひとかたまりになって上の世代の権威を脅かす何かが表れてきているだろうか。
うーん、困ったときは総論に立ち返ってみる。対馬はこう書く。「二十四名の作品は、生き生きとしたエネルギーの表現に実感がこもっている。老いや死がまだ観念と諦念の先にあることが眩しい。有季定型を恩寵としながら、今のわれをいかに表現するか。若い感性が現代の孤独を、内面の具象性豊かに、写生的あるいは造型的に映し出している」と評している。老いが感じられないはまあ当然として、他の評語はどこまであてはまるだろうか。
個人的には、作者が世界に主体的に関わっている作品よりは、作者自身は傍観して冷めた心持ちでいる作品の方に面白いものが多いように感じた。上に挙げた句はほとんどがそうであるし、その限界が「神待ちの少女」の句に見えているということなのかもしれない。それを結社と関連づけるか、世代論として捉えるか、書き手である山口のバイアスがかかっているのかは分からない。願わくば、総論で対馬が言及するようなパッションにあふれた俳句に、これからどこかのタイミングで出会えればうれしいと思った。
◎「第53回蛇笏賞決定」
大牧広氏の句集「朝の森」が受賞したとのこと。正直、これまで大牧氏の俳句をきちんと読んだことはなかったが、50句の抄出を興味深く拝見した。
開戦日が来るぞ渋谷の若い人
金銀を売らぬかといふ初電話
敗戦の年に案山子は立つてゐたか
「有季定型を恩寵としながら、今のわれをいかに表現するか。若い感性が現代の孤独を、内面の具象性豊かに、写生的あるいは造型的に映し出している」という前掲の対馬の評語が当てはまるのは、むしろ大牧のこれらの俳句ではないかと感じた。もちろん、「若い感性」という部分も含めて。ちゃんと「朝の森」を読みたいと思った。
◎「私の俳句クロニクル 深見けん二〈前編〉」
今号からの新企画だそうだが、やはり企画の趣旨説明がないので、どういう意図からの企画かよく分からない。タイトルの「クロニクル」と「取材・構成」という文字から、俳人が昔を振り返るインタビューということは分かるが、なぜこのタイミングか、なぜ深見けん二か、登場する俳人はどういう枠組みで選んでいるのか、何の狙いがあるのかが分からない。
ただ、インタビュー中、昭和34年2月の玉藻の研究座談会で虚子から「次回は風雅について話そう」と提案があったものの4月1日に倒れてそのまま亡くなった、というのが何とはなしに心に残った。風雅か、と思って。語ろうとして語られなかった、失われた虚子の言葉に思いをはせてみたいと思った。
◎「現代俳句時評6 ミューズすらいない世界で 俳句とジェンダー(上) 神野紗希」
こちらもインターネットで言及されることの多い論考。ジェンダーについてはみんな思うところがあるということか。前半部分の短歌におけるミューズの話題は紹介のみなのでいいとして、後半部の次の2点の妥当性について論議が集中したようだ。
①小澤實の近著「名句の所以」に関連して「俳句αあるふぁ」2019春号に掲載された小澤と堀本裕樹の対談に触れ、2人が名句として選んだ10句の作者の男女比が不均衡であることを例にとり、「名句中の名句を男性の句にしか見いだせないのは」「近現代俳句を語る上で偏っていると思われても仕方ないだろう」と述べている点。
②小川軽舟が2016年、主宰誌である「鷹」に発表した「子にもらふならば芋煮てくるる嫁」を例示し、家庭における旧来の役割を女性に押しつける保守的な思想をそのまま表出した俳句への違和感、彼女自身が女性として感じる「真綿で首を絞められたような窮屈さ」に言及した点。
僕も言いたいことがあるのでこの論考に触れてみたわけなので、それぞれちょっと考えてみたい。
①これは小澤と堀本の対談を例にとること自体があまり適切ではなかったように感じた。論考の中には神野自身が2人の発言を抄出しているが、小澤が女性や若手の句を選ばず堀本が選んだことに対して「その辺の配慮が足りませんでした」と述べているのに対して、堀本は「いや、それはもう句だけでいいと思います」と返している。
まさにこの堀本の「句だけでいい」という発言に論点は集約されていないだろうか。僕はこのやりとりを読んで、堀本の発言が、小澤から俳句以外の要素にも目配りをして選んだと思われるなんてむしろ心外だ、という言外のニュアンスを含んでいるのではないかと、それはかすかなものながら、感じた。
いや、待ってくれ、もちろん、さきさんの言いたいことは分かる。「たまたま選んだ名句が男性の俳句だけだった」――そのこと自体が意識的に男女を差別しているのだと言っているわけではなく、そうしたことがなぜ起こるのかを考えたとき、その無意識的な女性排除は、これまでの先人の選句の積み重ねの結果生まれた俳句史の記述の帰結ではないか、と神野は言いたいのだろう。つまり、「女性俳人は、近現代の俳句史の傍流に位置づけられてきた」という形で作られた俳句史を前提に「名句」として男性の俳句だけを抽出することは、それ自体が女性に対する差別を強化するという趣旨であろう。
しかしその視点を有効なものを見なすには、女性俳人が不当に俳句史の傍流に位置づけられてきたことをまずは論証すべきではないか。星野立子は、三橋鷹女は、池田澄子は、西村和子は、櫂未知子は、神野紗希は、現在俳句史で位置づけられている位置がおかしい、一句一句の作品を見たとき、男性の俳句作者よりむしろ時代を切り開き、優れた作品を作って俳壇をリードしたにも関わらず、その評価が正当に与えられていない、それは女性だからだ――そうした前提がないと、先の名句の選句についても、「10句の中に関西出身の俳人がいない」「10句の中に子供の句がない」「10句の中に専業俳人の句しかない」と言った他の無数のカテゴライズでも同様の批判を許す結果になりはしないか。
神野の論考では、その前提を論証していないことに不満を感じた。個人的な見解を述べれば、女性俳人を傍流に押し込める先入観は、俳人の中に実際にあると思う。ただし、直感に過ぎない。あるいは、作品本意ではなく弟子を何人育てたかによって俳人が権威づけられることと、有名結社の主宰に女性が多くないこととの関連があるのかもしれない(第二芸術論再び!)。ぜひ、その点に関する神野の論考を期待したい。
②小川の句は「あえて書いているもの」という鑑賞もネットではいくつか見かけた。つまり、「息子の嫁にはお芋を煮てくれるような人が欲しいなあ」という保守的な意識が存在する、ということを記述しただけで、自分の考えとは別だろう、と。果たしてそうか。
そういう通俗性をあえて自分と切り離し批判的に見せる方法論は小川ならいくらでも持ち合わせているはずだ。たとえば、一番簡単なのは、句全体を「」で囲んでしまうことだろう。
「子にもらふならば芋煮てくるる嫁」
一句全体が誰かの発言であるかのようにしてしまえば、句の内容は句を作る主体とは切り放され、切り放すという行為そのものに批評性も生まれるだろう。しかし元の句の状態でそのような批評性があると見るのはやはり無理筋のように思う。
このことに関連して、むしろ僕が問いたいのは、俳句で何が書けるのか、俳句の限界論とでも言うべき視点だ。ざっくりした論になるのは承知で話してみるが、俳句という短い言葉が作品として成り立つ背景には、日本人という同質な民族の文化があると考えている。その代表が季語である。ある季語を入れたとき、そこから思い浮かべる情景や風情にある程度の共通理解があるからこそ、短い言葉を作品として成立させることができる。「秋風」はさびしい、「桜」ははかない、など。その凝り固まった概念を打破するために正岡子規が写生を提唱し、それは今も息づいていると思うが、それは季語の象徴性を全く否定しさるものではなく、むしろ強化する側面もあったのではないかと思う。
共通理解、といったときに出てくるのは季語だけではない。
玉音を理解せし者前に出よ 渡辺白泉
春は曙そろそろ帰つてくれないか 櫂未知子
牛乳飲む片手は腰に日本人 山本紫黄
これらの俳句は「終戦時の玉音放送は大変聞き取りづらかった」という歴史的事実や、「春はあけぼの、とは枕草子の一節で、それをきぬぎぬの別れに転化している」という教養や、「銭湯で牛乳を飲むときは片手を腰にあてるという一場面が懐かしさを誘う」という情緒を前提としている。そういうものがないと分からないのが俳句の弱さだ、とは言わない。それも含めて俳句であるという事実に対して、プラスの評価もマイナスの評価も個人的にはない。
ただ、俳句はすでにある価値観やある程度広まっている共通の過去にしかコミットできないというところに限界があるのではないかと考えている。これはつまり、俳句から新しい価値観を作り出すことはできないのか、という問いだ。小川が旧弊な価値観を引き写した句を書いていることと、これは無関係ではない。先に述べたかぎかっこをつける、という提案は、この問いに対しては答えになり得ない。渡辺の「玉音」の句だって、玉音やそれにまつわる日本の天皇制に対するアンチテーゼとして機能しているのは明らかだが、それは肯定か否定かの違いであって、過去のすでにある価値観に対するリアクションであることには変わりはない。
ジェンダーフリー、LGBT、これらの「新しい」価値観を俳句に盛り込むことはできるだろう(ことさら新しいというほどの話ではないが)。しかしそれらは新しいとは言ってもすでにこの世にある価値観だ。五七五から全く新しい価値観を生み出すことはできるのか、そもそもそんなことを考える必要があるのか、それができなければひょっとして俳句はやっぱり第二芸術なのではないか……元の神野の論考とはだいぶ離れた話になってしまったが、そんなことを考えた。
とにかく、見逃してはいけないのはこの神野の論考は「(上)」だということだ。「(中)」「(下)」を座して待ちたいと思う。
◎「合評鼎談」
西村和子、佐藤郁良、鴇田智哉の3人の俳人が角川俳句4月号の俳句作品を合評するコーナーだが、内容では、片山由美子の海外詠を受けての西村の次の発言が気になった。
しかし一番気になったのは、コーナーの扉で3人が並んだ写真が掲載されているのだが、写真では3人が左から西村・鴇田・佐藤の順番で並んでいるのに、写真の上に書かれた3人の名前が左から西村・佐藤・鴇田の順になっていること(たぶん年齢順なのだろう)。写真の左下には小さな文字で「左から西村和子、鴇田智哉、佐藤郁良の各氏」と説明されているが、知らない人は写真中央の長髪男性が佐藤郁良だと思うだろう。
写真と合わせればいいのに…という、これは本当にただの一読者の感想でした。
「第二芸術論、第二芸術論とうるさく言ってしまいました」
山口優夢
角川俳句6月号を読んだらいろいろ面白かったので、書き留めておきたいと思う。
◎「大特集・推薦! 令和の新鋭」
39歳以下の俳人24人を紹介する若手俳人特集。1人が見開き1ページを使い、所属結社・顔写真・新作20句・略歴・結社の主宰の推薦のことば・旧作25句(主宰選)という構成からなっている。
24人は、俳句結社の主宰が1人ずつ「推薦」したものだ。24の結社の中には「船団」など結社と名乗っていないものも入っているようであるが、対馬康子による総論で「この二十四名は主宰から結社の若手代表として選ばれ、見開き写真付き大特集に作品発表をする貴重な機会を得た」とあるので、少なくとも編集部としては24の「結社」の「主宰」が選んだ、という認識のもと企画しているようだ。
なぜ若手俳人を特集するにあたり、結社の推薦という形をとったのだろうか。企画の趣旨はどこにも書かれていない。対馬康子による総論を見てみよう。「俳句の将来を担う若手が徐々に力を蓄え、かつての「戦後派」のように、たくましく「若いかたまり」となってきていることを実感している」と若手に対する期待感を語り、結社については「要は、主宰が句会などの神聖な人間同士の修業を通して、「物と心の新しい関係性」を、直接人として伝え合い鍛え合う場である」と定義している。この結社で鍛えられた24人をご覧いただこう、というわけだ。
しかし、対馬自身が認める通り、今の時代には「結社に属さないで俳句を作る人も増えて来た」のであり、その状況で結社ご推薦の若手のみで大特集を行うことの意義は何なのか、やはり疑問が残る。結社に属している方が鍛えられる、という主張ならばなおさら、結社所属の若手とそうでない若手を並べて見せればいいのに。逆に言えば、やや話は脱線してしまうが、6月2日号の週刊俳句で上田信治がして見せたような分析も、結社所属でない若手を同じ条件で企画に登場させていないために比較・検証ができず、不十分な論にしかならない、ということだ。そもそもこうした企画に意味があるのは、結社というくくりで若手を全て語れるという前提があってこそではないだろうか。
その上で結社の主宰が推薦した若手の俳句を並べるということの事実上の意義を考えるならば、それは「読者に読んでもらうため」ではなかろうか。「●●さんの結社の若手なのか、なるほど●●さんがそう薦めるなら、ちょっと(話の種に)読んでみるかな」という消費のされ方をあからさまに想定している企画と見える。所属結社名を俳人そのものの名前より目立つ字体・場所に置き、主宰俳人の「推薦のことば」がないと、若手の俳句など誰も読まないと、編集部はそう思っているのではないだろうか。
高山れおなが「俳句など誰も読んではいない」というテーゼを打ち出し、週刊で俳句批評を掲載するwebサイト「―俳句空間―豈weekly」を創刊したのは2008年のことだ(すでに終刊)。その問題意識の対象には、入門特集に終始し批評の場を形成することのない俳句総合誌への批判も当然入っていただろう。確かに今回の6月号は入門特集ではない。鉄板の入門特集を1回お休みして(7月号は「夏の季語入門」)、現在の若手の俳句作家にフィーチャーし俳句界の現在と未来を見通そうという心意気はすばらしい。たぶんその分、「ただ若手の作品を並べるだけじゃ読まれない」という冷静な計算もあったのだろう。「せめて中堅からベテランの俳人が持つ権威に紐付けないと、何処の馬の骨かも分からない俳句なんて誰も読みはしない」と。
もしも俳句総合誌がつまらないとしたら、それは俳句総合誌だけのせいではない。それが多くの俳人の求めているものを反映した姿である以上、その責めもまた、俳人が負うべきものだ。つまり、我々は1946年に発表された桑原武夫の「第二芸術論」による批判を一歩も乗り越えていない。「ある俳句1句を読んだだけではその句が大家のものか素人のものか判別ができず、それを決定づけるのは弟子の人数といった世俗的な権威に過ぎない」といった趣旨のことを桑原はその論で述べているが、まさにこうした結社の主宰という「権威」を経由しないと若手の俳句をきちんと読むことができない我々の態度こそが、大いに反省すべきものではないかと考える。
長い前置きになったが、以上の問題意識から、やはり1句1句きちんと彼らの俳句を「読む」ことから始めないといけない。それは大げさに言えば、第二芸術論の超克のためにも。というわけで、24人の新作20句の中で、興味を覚えた俳句を以下で鑑賞する。
屑籠の倒れしままや春夕焼 浅川芳直
本来立っているべきゴミ箱が倒れっぱなしになっている。丸めたティッシュやビニール袋などが口から少しこぼれているだろう。「春夕焼」という季語が、雑然とした部屋をさびしくしずかに統一しているが、それは夕暮れ時の一瞬のことなのだ。あえてゴミ箱を直そうともしない無気力感も含めて好感を持った。
遊園地うごかす電気桜咲く 遠藤容代
遊園地にいて、それを動かす電気を思っている作者の浮遊感。全くない発想ではないかもしれないし、家にいてもいろんなものが電気で動いているのだけれど、やはり遊園地の華やかな幻想を支えている電気の流れにこそ目が向くというのはとても面白い。桜が咲いているということはディズニーランドではないだろうな。花やしきか?夜だろうな。電気の通らない桜の幻想性だけが実は現実なのであるという倒錯した味わい。
エスカレーター駆けて子供や春めける 川原風人
どこのエスカレーターでもいいのだけれど、屋上に通じるエスカレーターだとなお気持ち良いなあと思った。子供、そして春めくという言葉を入れながら陳腐すぎないのは、エスカレーターを駆けるという地に足の付いた場面設定のチョイスからだろう。
電車から見る春のリビング誰もゐず 川原風人
あ、と思う間にそのリビングは視界の後方に飛んでいく。線路際の清潔なマンション、そうきっとアパートではなくマンションだろう。「リビング」という言葉の響きがそう思わせる。高架を通る電車に乗っているとき、時折私もそんな風景を見たはずだ。からっぽの部屋には春の昼の光がよく通る。モデルルームのようなどこかうつろな春の昼だった。
献花よりつぎの献花へ虻飛びぬ 川原風人
「献花より献花へ」でも句の意味は通る。供えられたある花から別の花へ、と飛んでいると捉えられるが、「つぎの」という一語が入ることで次に並んでいる人が献花をしている動作を見せることに成功している。そこには沈鬱な雰囲気が漂っているだろう。ああ、そういうときでもこの虻は関係なく飛び回るのだ、それが生命の営みだから!
ぶらんこの子が真夜中を待つてゐる 西生ゆかり
新世紀エヴァンゲリオンでも、主人公シンジの幼い頃の記憶に、誰もいない夕方のぶらんこがひとりでに揺れている。夕方から夜にかけてのぶらんこほど、胸をえぐられる幼年期のさびしさはない。なのにこの子は真夜中を待っているのだ。何か人ならざるものを見てしまったようなぎくっとした印象を抱く。この子の心が純粋に真夜中を心待ちにしていればいるほど、母親や父親のことなど心になければないほど、そらおそろしい気分になる。
髪洗ふときも喋つてゐる姉妹 杉田菜穂
普通の家の風呂場にはシャワーは一つしかない(と思う)。姉妹を第三者の視点から見ていることからしても、この句は温泉か銭湯で並んでシャワーを浴びる女性2人を目にしたものだろう。旅先の高揚感か、銭湯通いの気楽さか。互いに視界は髪洗う手で阻まれていても楽しげにおしゃべりする様子は、それを目撃した人の心もほっこりさせたことだろう。姉妹が小学生くらいでも、ハイティーンでも、20代でも、子供を持つくらいの年代でも、いずれも味わい深いが、すでに夫が退職したのちにのんびり温泉に浸かりに来た老女2人という設定はどうだろう。何十年も前からこうして髪を洗うときも喋ってきた姉妹、それを思えば時間を超えていく不思議な感覚をすら覚える。
誰も見ず観潮船の大鏡 涼野海音
2階建て、3階建ての大きめの船には、確かに階段の踊り場などに大きな姿見がある。観潮船だから、そこにある鏡の前は誰も素通りして潮の流れを見に行く。実は誰も書き留めなければ意識もされなかったことで、世界は満ちている。
囀や翠ときをり紅に 柳元佑太
夏も深くなった頃の葉っぱの緑色だとこういうことはない。春、あるいは新緑の明るく薄い葉っぱの緑は光線の具合で確かにどこか赤く見えることがある。補色だからか、その仕組みはちょっと知らないが、みどりやくれないという色彩を書いているようで実はこの句の主役は光だ。極度に単純化した図式の中に、自然の不思議、それを視覚で認識する自分の不思議を思う句だ。
また、次の句については一言言いたい。
神待ちの少女ネオンの路地の裏 山本たくや
神待ちの少女、つまり「神を待っている」少女だが、これは「信仰深い」少女ではなく、「家出して行くところがないため今晩泊めてくれるところとご飯を提供してくれる「神」のような成人男性を待っている」少女のことだ。当然、それなりの対価を差し出すことが期待されている。対価!彼女たちに体以外差し出せるものがあろうか。つまりはネット上のスラングであり、社会問題化している売買春の新しい形態の一つだ。
彼女の行き場のなさ、誰も救いの手をさしのべないまま滑り落ちてしまった社会の暗部、それに俳句で手を出そうという心意気はすばらしい。しかし、「ネオンの路地の裏」ではダメだと思う。そうなんでしょうね、という固定観念から外に出ない。そして、彼女に寄り添っていない。
私は、俳句の素材は広げるべきだと考えている。これまで俳句の領域に入らなかった言葉も積極的に入れるべきだと考えている。しかし、問題はそれを自分の中でどう消化するか、ではないか。その格闘が必要だ。神待ちの少女を俳句に詠んでほしい、その言葉は「俳句になじまない」とは絶対に言わない、でも人のやらないことをやるならば、もっともっと格闘しないといけない。これは、自戒も込めて。
以上の俳句たちから、若手の何が見えてくるだろうか。それは上田の言うとおり「通俗性」だろうか。新しい傾向や、あるいは逆に多様性が見えるだろうか。ひとかたまりになって上の世代の権威を脅かす何かが表れてきているだろうか。
うーん、困ったときは総論に立ち返ってみる。対馬はこう書く。「二十四名の作品は、生き生きとしたエネルギーの表現に実感がこもっている。老いや死がまだ観念と諦念の先にあることが眩しい。有季定型を恩寵としながら、今のわれをいかに表現するか。若い感性が現代の孤独を、内面の具象性豊かに、写生的あるいは造型的に映し出している」と評している。老いが感じられないはまあ当然として、他の評語はどこまであてはまるだろうか。
個人的には、作者が世界に主体的に関わっている作品よりは、作者自身は傍観して冷めた心持ちでいる作品の方に面白いものが多いように感じた。上に挙げた句はほとんどがそうであるし、その限界が「神待ちの少女」の句に見えているということなのかもしれない。それを結社と関連づけるか、世代論として捉えるか、書き手である山口のバイアスがかかっているのかは分からない。願わくば、総論で対馬が言及するようなパッションにあふれた俳句に、これからどこかのタイミングで出会えればうれしいと思った。
◎「第53回蛇笏賞決定」
大牧広氏の句集「朝の森」が受賞したとのこと。正直、これまで大牧氏の俳句をきちんと読んだことはなかったが、50句の抄出を興味深く拝見した。
開戦日が来るぞ渋谷の若い人
金銀を売らぬかといふ初電話
敗戦の年に案山子は立つてゐたか
「有季定型を恩寵としながら、今のわれをいかに表現するか。若い感性が現代の孤独を、内面の具象性豊かに、写生的あるいは造型的に映し出している」という前掲の対馬の評語が当てはまるのは、むしろ大牧のこれらの俳句ではないかと感じた。もちろん、「若い感性」という部分も含めて。ちゃんと「朝の森」を読みたいと思った。
◎「私の俳句クロニクル 深見けん二〈前編〉」
今号からの新企画だそうだが、やはり企画の趣旨説明がないので、どういう意図からの企画かよく分からない。タイトルの「クロニクル」と「取材・構成」という文字から、俳人が昔を振り返るインタビューということは分かるが、なぜこのタイミングか、なぜ深見けん二か、登場する俳人はどういう枠組みで選んでいるのか、何の狙いがあるのかが分からない。
ただ、インタビュー中、昭和34年2月の玉藻の研究座談会で虚子から「次回は風雅について話そう」と提案があったものの4月1日に倒れてそのまま亡くなった、というのが何とはなしに心に残った。風雅か、と思って。語ろうとして語られなかった、失われた虚子の言葉に思いをはせてみたいと思った。
◎「現代俳句時評6 ミューズすらいない世界で 俳句とジェンダー(上) 神野紗希」
こちらもインターネットで言及されることの多い論考。ジェンダーについてはみんな思うところがあるということか。前半部分の短歌におけるミューズの話題は紹介のみなのでいいとして、後半部の次の2点の妥当性について論議が集中したようだ。
①小澤實の近著「名句の所以」に関連して「俳句αあるふぁ」2019春号に掲載された小澤と堀本裕樹の対談に触れ、2人が名句として選んだ10句の作者の男女比が不均衡であることを例にとり、「名句中の名句を男性の句にしか見いだせないのは」「近現代俳句を語る上で偏っていると思われても仕方ないだろう」と述べている点。
②小川軽舟が2016年、主宰誌である「鷹」に発表した「子にもらふならば芋煮てくるる嫁」を例示し、家庭における旧来の役割を女性に押しつける保守的な思想をそのまま表出した俳句への違和感、彼女自身が女性として感じる「真綿で首を絞められたような窮屈さ」に言及した点。
僕も言いたいことがあるのでこの論考に触れてみたわけなので、それぞれちょっと考えてみたい。
①これは小澤と堀本の対談を例にとること自体があまり適切ではなかったように感じた。論考の中には神野自身が2人の発言を抄出しているが、小澤が女性や若手の句を選ばず堀本が選んだことに対して「その辺の配慮が足りませんでした」と述べているのに対して、堀本は「いや、それはもう句だけでいいと思います」と返している。
まさにこの堀本の「句だけでいい」という発言に論点は集約されていないだろうか。僕はこのやりとりを読んで、堀本の発言が、小澤から俳句以外の要素にも目配りをして選んだと思われるなんてむしろ心外だ、という言外のニュアンスを含んでいるのではないかと、それはかすかなものながら、感じた。
いや、待ってくれ、もちろん、さきさんの言いたいことは分かる。「たまたま選んだ名句が男性の俳句だけだった」――そのこと自体が意識的に男女を差別しているのだと言っているわけではなく、そうしたことがなぜ起こるのかを考えたとき、その無意識的な女性排除は、これまでの先人の選句の積み重ねの結果生まれた俳句史の記述の帰結ではないか、と神野は言いたいのだろう。つまり、「女性俳人は、近現代の俳句史の傍流に位置づけられてきた」という形で作られた俳句史を前提に「名句」として男性の俳句だけを抽出することは、それ自体が女性に対する差別を強化するという趣旨であろう。
しかしその視点を有効なものを見なすには、女性俳人が不当に俳句史の傍流に位置づけられてきたことをまずは論証すべきではないか。星野立子は、三橋鷹女は、池田澄子は、西村和子は、櫂未知子は、神野紗希は、現在俳句史で位置づけられている位置がおかしい、一句一句の作品を見たとき、男性の俳句作者よりむしろ時代を切り開き、優れた作品を作って俳壇をリードしたにも関わらず、その評価が正当に与えられていない、それは女性だからだ――そうした前提がないと、先の名句の選句についても、「10句の中に関西出身の俳人がいない」「10句の中に子供の句がない」「10句の中に専業俳人の句しかない」と言った他の無数のカテゴライズでも同様の批判を許す結果になりはしないか。
神野の論考では、その前提を論証していないことに不満を感じた。個人的な見解を述べれば、女性俳人を傍流に押し込める先入観は、俳人の中に実際にあると思う。ただし、直感に過ぎない。あるいは、作品本意ではなく弟子を何人育てたかによって俳人が権威づけられることと、有名結社の主宰に女性が多くないこととの関連があるのかもしれない(第二芸術論再び!)。ぜひ、その点に関する神野の論考を期待したい。
②小川の句は「あえて書いているもの」という鑑賞もネットではいくつか見かけた。つまり、「息子の嫁にはお芋を煮てくれるような人が欲しいなあ」という保守的な意識が存在する、ということを記述しただけで、自分の考えとは別だろう、と。果たしてそうか。
そういう通俗性をあえて自分と切り離し批判的に見せる方法論は小川ならいくらでも持ち合わせているはずだ。たとえば、一番簡単なのは、句全体を「」で囲んでしまうことだろう。
「子にもらふならば芋煮てくるる嫁」
一句全体が誰かの発言であるかのようにしてしまえば、句の内容は句を作る主体とは切り放され、切り放すという行為そのものに批評性も生まれるだろう。しかし元の句の状態でそのような批評性があると見るのはやはり無理筋のように思う。
このことに関連して、むしろ僕が問いたいのは、俳句で何が書けるのか、俳句の限界論とでも言うべき視点だ。ざっくりした論になるのは承知で話してみるが、俳句という短い言葉が作品として成り立つ背景には、日本人という同質な民族の文化があると考えている。その代表が季語である。ある季語を入れたとき、そこから思い浮かべる情景や風情にある程度の共通理解があるからこそ、短い言葉を作品として成立させることができる。「秋風」はさびしい、「桜」ははかない、など。その凝り固まった概念を打破するために正岡子規が写生を提唱し、それは今も息づいていると思うが、それは季語の象徴性を全く否定しさるものではなく、むしろ強化する側面もあったのではないかと思う。
共通理解、といったときに出てくるのは季語だけではない。
玉音を理解せし者前に出よ 渡辺白泉
春は曙そろそろ帰つてくれないか 櫂未知子
牛乳飲む片手は腰に日本人 山本紫黄
これらの俳句は「終戦時の玉音放送は大変聞き取りづらかった」という歴史的事実や、「春はあけぼの、とは枕草子の一節で、それをきぬぎぬの別れに転化している」という教養や、「銭湯で牛乳を飲むときは片手を腰にあてるという一場面が懐かしさを誘う」という情緒を前提としている。そういうものがないと分からないのが俳句の弱さだ、とは言わない。それも含めて俳句であるという事実に対して、プラスの評価もマイナスの評価も個人的にはない。
ただ、俳句はすでにある価値観やある程度広まっている共通の過去にしかコミットできないというところに限界があるのではないかと考えている。これはつまり、俳句から新しい価値観を作り出すことはできないのか、という問いだ。小川が旧弊な価値観を引き写した句を書いていることと、これは無関係ではない。先に述べたかぎかっこをつける、という提案は、この問いに対しては答えになり得ない。渡辺の「玉音」の句だって、玉音やそれにまつわる日本の天皇制に対するアンチテーゼとして機能しているのは明らかだが、それは肯定か否定かの違いであって、過去のすでにある価値観に対するリアクションであることには変わりはない。
ジェンダーフリー、LGBT、これらの「新しい」価値観を俳句に盛り込むことはできるだろう(ことさら新しいというほどの話ではないが)。しかしそれらは新しいとは言ってもすでにこの世にある価値観だ。五七五から全く新しい価値観を生み出すことはできるのか、そもそもそんなことを考える必要があるのか、それができなければひょっとして俳句はやっぱり第二芸術なのではないか……元の神野の論考とはだいぶ離れた話になってしまったが、そんなことを考えた。
とにかく、見逃してはいけないのはこの神野の論考は「(上)」だということだ。「(中)」「(下)」を座して待ちたいと思う。
◎「合評鼎談」
西村和子、佐藤郁良、鴇田智哉の3人の俳人が角川俳句4月号の俳句作品を合評するコーナーだが、内容では、片山由美子の海外詠を受けての西村の次の発言が気になった。
海外詠って、慣れていない人だとカタカナが多くなってしまうけれど、この方は必然的なカタカナしか使っていないですね。(中略)私も海外詠ではこのようにありたいといつも思っています。そうかー、カタカナ、いいと思うけどな。
しかし一番気になったのは、コーナーの扉で3人が並んだ写真が掲載されているのだが、写真では3人が左から西村・鴇田・佐藤の順番で並んでいるのに、写真の上に書かれた3人の名前が左から西村・佐藤・鴇田の順になっていること(たぶん年齢順なのだろう)。写真の左下には小さな文字で「左から西村和子、鴇田智哉、佐藤郁良の各氏」と説明されているが、知らない人は写真中央の長髪男性が佐藤郁良だと思うだろう。
写真と合わせればいいのに…という、これは本当にただの一読者の感想でした。
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【週俳5月の俳句を読む】自然の摂理のまま 菊田一平
【週俳5月の俳句を読む】
自然の摂理のまま
菊田一平
角落ちし鹿の眼の澄んでをり 藤本夕衣
角が無くなった後の鹿がどんな表情をしているのか実は知らない。十年ほど前になるけれど奈良公園の鹿の角切りを見るには見た。
幔幕を張り巡らせた会場に勢子に追われた鹿たちが次々と逃げ込んで来て、投げ縄で捉えられては地面にねじ伏せられて行く。三、四人の印半纏を着た人たちに寄ってたかって押さえつけられ、角切りの一連の流れ作業の果てに囲みを解き放たれた鹿たちは戸惑うような仕種を見せながらも一様に仲間たちのいる方へと駆け出して行った。あの鹿たちの目には突然自分の身に起こったことへの驚愕と自由になった不思議さ、あるいは安堵の表情はあるだろうけれども、「澄んでをり」の「澄む」とは距離があるはずだ。
多分、夕衣さんの鹿は強制的に角を切られた鹿ではなく自然と角が抜け落ちた野生の鹿なのだろう。そういえば、おととしの冬、琵琶湖の北の菅浦へ吟行にいった。湖岸の多くの家の物干しの竿掛けが見事な鹿の角だった。だれかが裏の山から拾ってくるらしいよ、と教えてくれたけれど、賤ケ岳につづくあのあたりの鹿たちは自然の摂理のまま角が生えたり落ちたりして歳を経て行くのだろう。結衣さんはまさにそんな鹿たちの目の在りようを素直に詠んでいる。
自然の摂理のまま
菊田一平
角落ちし鹿の眼の澄んでをり 藤本夕衣
角が無くなった後の鹿がどんな表情をしているのか実は知らない。十年ほど前になるけれど奈良公園の鹿の角切りを見るには見た。
幔幕を張り巡らせた会場に勢子に追われた鹿たちが次々と逃げ込んで来て、投げ縄で捉えられては地面にねじ伏せられて行く。三、四人の印半纏を着た人たちに寄ってたかって押さえつけられ、角切りの一連の流れ作業の果てに囲みを解き放たれた鹿たちは戸惑うような仕種を見せながらも一様に仲間たちのいる方へと駆け出して行った。あの鹿たちの目には突然自分の身に起こったことへの驚愕と自由になった不思議さ、あるいは安堵の表情はあるだろうけれども、「澄んでをり」の「澄む」とは距離があるはずだ。
多分、夕衣さんの鹿は強制的に角を切られた鹿ではなく自然と角が抜け落ちた野生の鹿なのだろう。そういえば、おととしの冬、琵琶湖の北の菅浦へ吟行にいった。湖岸の多くの家の物干しの竿掛けが見事な鹿の角だった。だれかが裏の山から拾ってくるらしいよ、と教えてくれたけれど、賤ケ岳につづくあのあたりの鹿たちは自然の摂理のまま角が生えたり落ちたりして歳を経て行くのだろう。結衣さんはまさにそんな鹿たちの目の在りようを素直に詠んでいる。
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【週俳5月の俳句を読む】世界が当然 西川火尖
【週俳5月の俳句を読む】
世界が当然
西川火尖
藤棚にひろがる食べられないぶどう うにがわえりも
「食べられないぶどう」は作品全体を通して、世界が当然そうであることを疑わない「フリをしている」子供のような「フリをしている」感性をまとっていると思った。それは作者の俳句デビューとなった「第十三回鬼貫青春俳句大賞」の受賞作「好きな女の子ができて」、同年の「むじな2017」の「蠟燭になる」から一貫して変わらない姿勢である。
恋文にメロンソーダで貼る切手 好きな女の子ができて
新学期最初にきいた君の声 同
君が僕の大事な人となる盛夏 同
扇風機拭いてやる今年もよろしく 蠟燭になる
君だけのために光らす蛍かな 同
前述の鬼貫受賞作に「一粒の欠けに気づかぬぶどうかな」、そして斎藤秀雄さんのブログ「orangeProse 別館」角川『俳句』掲載&うにがわえりもさんの句(2017年3月号)内に作者の「手に入れたいものばかりある 永遠になくなることのないぶどうなど」の短歌が載っており、ぶどうは先に始めた短歌でも好んで使われた題材であることが伺える。そしてそこに出てくるぶどうは、「永遠になくならない」「欠けに気づかない(主観上完全無欠)」「食べられない」と言った風に、永遠や完全性への志向が感じられる。
これらを下敷きに考えると、掲句は藤棚を「食べられないぶどう」に見立てるためではなく、「食べられないぶどう」を出すためだけに藤棚を据えたと考えるべきである。藤棚を「身代わりの季語」として有季定型のフリをしつつ、有季定型を成立させるという「どちらも成立する矛盾」がこの句の底にある違和感、あるいは面白さではないだろうか。それは他の句、例えば、
代掻きや足首にくる土の息
紫陽花の話すは雨の言葉かな
の振舞いのわざとらしさ、フリっぽさにも通じる底意である。この辺りは前述の斎藤秀雄さんの感想と若干被ってしまうが、「フリをする」ことで生まれる不気味の谷のような印象を「え?これ狙ってやってるでしょ」「もしかして無自覚?」と混乱させるような、得体の知れなさがある。句意が明るく浅いにも関わらず、底知れない怖さを感じるのだ。
尚、最近仕事から帰ると、作句や書き物をしたいとう欲求と、寝ないとやばいという現実と、風呂入るの面倒臭いという気力のなさの折衷案で、食後は自罰的なフローリング寝に落ち着くのだが、
フローリングなめらかマイケルジャクソン忌 うにがわえりも
はすごく好きな句である。
まなかひに炎をみつめ春惜しむ 藤本夕衣
「つややかに」より。目の前にある炎の、その揺らぎそれ自体が春であったかのような、そういう心持のする句である。
火の中の椎の若葉もありにけり 藤本夕衣
こちらは「火の中に」ではないことに注目させられる。眼前の火を見ながら、その場限りではなく、世界の中に「火の中の若葉もある」という広がりをもって捉えているところに俳句形式のもつ懐の深さを感じた。そういった俳句の魅力を十二分に見せてくれる句である。
ふと、最近少し話題になった「それは通俗性の問題ではないか?」を思い出した。この十句はここでいうところの田中裕明的な高踏性を志向しているようにも思う。これらの句が持つ高踏性の正体とは何か。ひとつ特徴的なことをあげるとすれば、どの句からも時代の特定ができないことではないだろうか。もちろん、それが高踏性の全てだとは言わないが、通俗性と高踏性を考えるにあたって、単純化するばらば、そういう切り分けも案外可能に思えてくる。
水争い松山五十万飢餓させよ 川嶋健佑
「鍵垢手垢」より。「飢餓させよ」という非常に剣呑な表現からはむしろ、松山五十万の人口が一手に水によって支えられているという構図の清々しさが感じられる。同時に、それが水争いというほぼ絶滅したと思われる季語によって引き起こされるというから、深刻ではあるが、俳句らしい滑稽さもあり面白い。と、ここまで書いてひとつ重要なことを思い出した。松山市は2012年から水道を民営化し、松山市の浄水場の運転・維持業務などはフランスのヴェオリア社が受託している。料金決定権などは無いと言われるが、掲句はあるいはそのことを暗に示しているのではないだろうか。
水争い自体も農耕の時代当時の非常に社会的な季語であったが、社会や技術の発展とともに潰えたかに見えた。それが、グローバリズムの隆盛によって、その形のままで現代に通じる社会性を帯びて蘇った季語として読むことができる。
このように考えると、この句は、中世の農耕の時代、領主の年貢と飢餓に苦しんだ人々の時代と、巨大企業の利潤の水源たる現代の人々が二重写しに現れるのだ。
世界が当然
西川火尖
藤棚にひろがる食べられないぶどう うにがわえりも
「食べられないぶどう」は作品全体を通して、世界が当然そうであることを疑わない「フリをしている」子供のような「フリをしている」感性をまとっていると思った。それは作者の俳句デビューとなった「第十三回鬼貫青春俳句大賞」の受賞作「好きな女の子ができて」、同年の「むじな2017」の「蠟燭になる」から一貫して変わらない姿勢である。
恋文にメロンソーダで貼る切手 好きな女の子ができて
新学期最初にきいた君の声 同
君が僕の大事な人となる盛夏 同
扇風機拭いてやる今年もよろしく 蠟燭になる
君だけのために光らす蛍かな 同
前述の鬼貫受賞作に「一粒の欠けに気づかぬぶどうかな」、そして斎藤秀雄さんのブログ「orangeProse 別館」角川『俳句』掲載&うにがわえりもさんの句(2017年3月号)内に作者の「手に入れたいものばかりある 永遠になくなることのないぶどうなど」の短歌が載っており、ぶどうは先に始めた短歌でも好んで使われた題材であることが伺える。そしてそこに出てくるぶどうは、「永遠になくならない」「欠けに気づかない(主観上完全無欠)」「食べられない」と言った風に、永遠や完全性への志向が感じられる。
これらを下敷きに考えると、掲句は藤棚を「食べられないぶどう」に見立てるためではなく、「食べられないぶどう」を出すためだけに藤棚を据えたと考えるべきである。藤棚を「身代わりの季語」として有季定型のフリをしつつ、有季定型を成立させるという「どちらも成立する矛盾」がこの句の底にある違和感、あるいは面白さではないだろうか。それは他の句、例えば、
代掻きや足首にくる土の息
紫陽花の話すは雨の言葉かな
の振舞いのわざとらしさ、フリっぽさにも通じる底意である。この辺りは前述の斎藤秀雄さんの感想と若干被ってしまうが、「フリをする」ことで生まれる不気味の谷のような印象を「え?これ狙ってやってるでしょ」「もしかして無自覚?」と混乱させるような、得体の知れなさがある。句意が明るく浅いにも関わらず、底知れない怖さを感じるのだ。
尚、最近仕事から帰ると、作句や書き物をしたいとう欲求と、寝ないとやばいという現実と、風呂入るの面倒臭いという気力のなさの折衷案で、食後は自罰的なフローリング寝に落ち着くのだが、
フローリングなめらかマイケルジャクソン忌 うにがわえりも
はすごく好きな句である。
まなかひに炎をみつめ春惜しむ 藤本夕衣
「つややかに」より。目の前にある炎の、その揺らぎそれ自体が春であったかのような、そういう心持のする句である。
火の中の椎の若葉もありにけり 藤本夕衣
こちらは「火の中に」ではないことに注目させられる。眼前の火を見ながら、その場限りではなく、世界の中に「火の中の若葉もある」という広がりをもって捉えているところに俳句形式のもつ懐の深さを感じた。そういった俳句の魅力を十二分に見せてくれる句である。
ふと、最近少し話題になった「それは通俗性の問題ではないか?」を思い出した。この十句はここでいうところの田中裕明的な高踏性を志向しているようにも思う。これらの句が持つ高踏性の正体とは何か。ひとつ特徴的なことをあげるとすれば、どの句からも時代の特定ができないことではないだろうか。もちろん、それが高踏性の全てだとは言わないが、通俗性と高踏性を考えるにあたって、単純化するばらば、そういう切り分けも案外可能に思えてくる。
水争い松山五十万飢餓させよ 川嶋健佑
「鍵垢手垢」より。「飢餓させよ」という非常に剣呑な表現からはむしろ、松山五十万の人口が一手に水によって支えられているという構図の清々しさが感じられる。同時に、それが水争いというほぼ絶滅したと思われる季語によって引き起こされるというから、深刻ではあるが、俳句らしい滑稽さもあり面白い。と、ここまで書いてひとつ重要なことを思い出した。松山市は2012年から水道を民営化し、松山市の浄水場の運転・維持業務などはフランスのヴェオリア社が受託している。料金決定権などは無いと言われるが、掲句はあるいはそのことを暗に示しているのではないだろうか。
水争い自体も農耕の時代当時の非常に社会的な季語であったが、社会や技術の発展とともに潰えたかに見えた。それが、グローバリズムの隆盛によって、その形のままで現代に通じる社会性を帯びて蘇った季語として読むことができる。
このように考えると、この句は、中世の農耕の時代、領主の年貢と飢餓に苦しんだ人々の時代と、巨大企業の利潤の水源たる現代の人々が二重写しに現れるのだ。
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【週俳5月の俳句を読む】わからなさを楽しむ 山田耕司
【週俳5月の俳句を読む】
わからなさを楽しむ
山田耕司
椅子のない部屋が灯って鳥雲に 川嶋健佑
夕刻になって灯る部屋。「鳥雲に」という季語。
「椅子のない」部屋というところに注目することで、関わりがないようなふたつのことがらが、ふと面白くからみだすような気分がしてきます。「椅子のない部屋」によって、人間の営みがうすめられている空間の味わいが感じられるからでしょうか。あるいは、座るという行為が失われている空間そのものになんらかの浮揚感を感じ取ってしまうからでしょうか。読者に取って、このところはうまく言葉にできません。
このように、うまく言葉にできないような感覚を「うまく言葉にしないで(注1)」うまく言葉にする(注2)俳句が好きです。(注1)のほうは「うまく説明することなく」というような意味です。別の言い方をするならば、他の人にこの句を説明するときにあれこれ魅力を語るよりも、句そのものを見せてしまったほうが早いようなテイストを維持しているということになります。(注2)の「うまく言葉にする」は、それが言葉として通じるようになっているということです(言葉としての機能を停止してしまってめちゃくちゃな言葉の連なりになっている句も嫌いではないのですが、それがめちゃくちゃであればあるほど、俳句形式というフレームを破壊するどころか甘えているのでは? という気分になることが少なくないのです)。見どころとすれば、季語が生かされているかどうか。ただたんに季節を示す約束事として書き込まれているのではなくて、「椅子のない部屋が灯」ることと「鳥」が「雲」を越えて移動しようとしていることとの空間の対比がこの句には意図されています。意図はしていますが、作者がそこのところを説明せずに、しかしながら俳句の約束事を約束事に留めずに言葉として生かしている、というところにおもしろみを感じるのです。
読者が面白さをうまく説明できなかったように、作者もうまく説明できないからこそ、〈うまく言葉にしないでうまく言葉にする〉ということが起きるのかもしれません。「灯って」という単純接続のかたちでふたつのことがらを結びつけるのは、なんだかうまくわからないけれどこのふたつにはとてもかかわりがあるとおもうんだよね、という積極的なはたらきかけが埋め込まれているように思います。ともあれ、一般的に俳人がこの句の批評をする場合には、この「灯って」というつなげ方が強引でよろしくないという感想がでてくるのではないでしょうか。「では、どうすればよいのでしょう」と尋ねても提示された答えは元の表現とは異なったものになってしまっているし、その提案がより面白い結果をもたらすかどうかは別の問題ということになります。結局は目指さなければならないゴール、というものが見当たらない感覚とでもいうような事態ですが、こういうあいまいさをよくないことと嘆くよりも、なんだ答えがいっぱいあるじゃないかと楽しむことで、次の面白い句が生まれてくるのだと思っています。
火の中の椎の若葉もありにけり 藤本夕衣
ふむ、「火の奧に牡丹崩るるさまを見つ 加藤楸邨」のような句なのだろうと思ったのです。火の中で、ということは、滅びの瞬間に、命が輝きを見せる。その、むごくも美しいありさまのことなんだろうと早合点をしました。
しかし、この句は「火の中に」ではなく、「火の中の」と示されています。「椎の若葉」が火の中にあるのではなく、「火の中の椎の若葉」が、どこかにあるというような印象へと読者を導きます。しかも、助詞の「も」によって、もともと何かが存在しているところに「火の中の椎の若葉」が加わっていて、「あ、君もいたんだね」というように認識されていたと思われるのです。
言葉の流れに身を委ねれば、そのような意味内容にたどりつきます。さて、そこからが、読者の想像力の出番です。もともと何が存在していたのだろうか。「火の中の椎の若葉」とは、「火の中の椎の若葉のようなもの」なのか、「火の中の椎の若葉」という物質および状態そのものなのだろうか。
結局、答えは出ません。答えのヒントとなるようなものが見つからないからです。俳句がもたらしてくれる見かけ上の情報は限られているのです。
ともあれ、答えが出ない想像を重ねていくうちに、自分の中のイマジネーションが引っ掻き回されて姿をあらわし始めるのを感じることがあります。作品はうまく読み込めませんでしたが、自分自身のイマジネーションには触れることができたような気分になります。何かを伝える機能を求めることもさることながら、何かが伝わらないことを以って刺激を受ける自分自身への手応えを求めることこそが、俳句作品というものを楽しむ上では大切なのではないか、ということをこの句を読みながらあらためて感じました。
逃げ水や夢のつづきをみるこころ うにがわえりも
夢をみるのは、たしかにわたし自身ではあるのですが、かといって、あらためて思い返してみると、夢をみる主体は、すんなりと「はい、わたし自身です」とも言い切れないような気もします。ましてや、「つづき」を見ようという感覚は、自分自身の管理下から離れたあてどないことにふみだすような気分でもあります。こうした、わたしからの離脱を言い表すためなのでしょうか、「こころ」という主体を作者は示したようです。ともあれ、たいていの読者は、「わたし」と「こころ」は同じものだという感覚だと思われますので、「なにもわざわざそんなことを言わなくたって」という感想を漏らすかもしれません。そもそも「わたし」とはなんなのか、「こころ」とはどんなものなのか、など説明しはじめたらどれだけの分量の言葉を費やさなくてはならないかけんとうもつかないほどです。面倒ですね。それを「逃げ水や」と言いのけています。「逃げ水」が「夢のつづき」とどう関係があるのかを考えても仕方がないでしょう。むしろ「夢のつづきをみるこころ」という状態をまるごとひきうけて「な、わかるだろ、こういう感じなんだよ」と示してくれているようです。「そこかとおもえばそこにはなくて追いかければ追いかけるほど迷わされる」というようなイメージが「逃げ水」には備わっています。科学的な説明や歴史的な使用経歴まどはちょっと横に置いておいて、読者のいだくおぼろげながらも他者と「だよね」と共有できるようなイメージが俳句の読解ではステージのセンターに立つようですから、「逃げ水」への理解もこのようなものになるのです。この「そこかとおもえばそこにはなくて追いかければ追いかけるほど迷わされる」というイメージは、「夢」にほどこされているというよりは、夢をみる主体である「わたし」に与えられているものなのではないかというのが山田の読後感なのですが、かなりひねくれているので共感が得られるとも思っていません。
わからなさを楽しむ
山田耕司
椅子のない部屋が灯って鳥雲に 川嶋健佑
夕刻になって灯る部屋。「鳥雲に」という季語。
「椅子のない」部屋というところに注目することで、関わりがないようなふたつのことがらが、ふと面白くからみだすような気分がしてきます。「椅子のない部屋」によって、人間の営みがうすめられている空間の味わいが感じられるからでしょうか。あるいは、座るという行為が失われている空間そのものになんらかの浮揚感を感じ取ってしまうからでしょうか。読者に取って、このところはうまく言葉にできません。
このように、うまく言葉にできないような感覚を「うまく言葉にしないで(注1)」うまく言葉にする(注2)俳句が好きです。(注1)のほうは「うまく説明することなく」というような意味です。別の言い方をするならば、他の人にこの句を説明するときにあれこれ魅力を語るよりも、句そのものを見せてしまったほうが早いようなテイストを維持しているということになります。(注2)の「うまく言葉にする」は、それが言葉として通じるようになっているということです(言葉としての機能を停止してしまってめちゃくちゃな言葉の連なりになっている句も嫌いではないのですが、それがめちゃくちゃであればあるほど、俳句形式というフレームを破壊するどころか甘えているのでは? という気分になることが少なくないのです)。見どころとすれば、季語が生かされているかどうか。ただたんに季節を示す約束事として書き込まれているのではなくて、「椅子のない部屋が灯」ることと「鳥」が「雲」を越えて移動しようとしていることとの空間の対比がこの句には意図されています。意図はしていますが、作者がそこのところを説明せずに、しかしながら俳句の約束事を約束事に留めずに言葉として生かしている、というところにおもしろみを感じるのです。
読者が面白さをうまく説明できなかったように、作者もうまく説明できないからこそ、〈うまく言葉にしないでうまく言葉にする〉ということが起きるのかもしれません。「灯って」という単純接続のかたちでふたつのことがらを結びつけるのは、なんだかうまくわからないけれどこのふたつにはとてもかかわりがあるとおもうんだよね、という積極的なはたらきかけが埋め込まれているように思います。ともあれ、一般的に俳人がこの句の批評をする場合には、この「灯って」というつなげ方が強引でよろしくないという感想がでてくるのではないでしょうか。「では、どうすればよいのでしょう」と尋ねても提示された答えは元の表現とは異なったものになってしまっているし、その提案がより面白い結果をもたらすかどうかは別の問題ということになります。結局は目指さなければならないゴール、というものが見当たらない感覚とでもいうような事態ですが、こういうあいまいさをよくないことと嘆くよりも、なんだ答えがいっぱいあるじゃないかと楽しむことで、次の面白い句が生まれてくるのだと思っています。
火の中の椎の若葉もありにけり 藤本夕衣
ふむ、「火の奧に牡丹崩るるさまを見つ 加藤楸邨」のような句なのだろうと思ったのです。火の中で、ということは、滅びの瞬間に、命が輝きを見せる。その、むごくも美しいありさまのことなんだろうと早合点をしました。
しかし、この句は「火の中に」ではなく、「火の中の」と示されています。「椎の若葉」が火の中にあるのではなく、「火の中の椎の若葉」が、どこかにあるというような印象へと読者を導きます。しかも、助詞の「も」によって、もともと何かが存在しているところに「火の中の椎の若葉」が加わっていて、「あ、君もいたんだね」というように認識されていたと思われるのです。
言葉の流れに身を委ねれば、そのような意味内容にたどりつきます。さて、そこからが、読者の想像力の出番です。もともと何が存在していたのだろうか。「火の中の椎の若葉」とは、「火の中の椎の若葉のようなもの」なのか、「火の中の椎の若葉」という物質および状態そのものなのだろうか。
結局、答えは出ません。答えのヒントとなるようなものが見つからないからです。俳句がもたらしてくれる見かけ上の情報は限られているのです。
ともあれ、答えが出ない想像を重ねていくうちに、自分の中のイマジネーションが引っ掻き回されて姿をあらわし始めるのを感じることがあります。作品はうまく読み込めませんでしたが、自分自身のイマジネーションには触れることができたような気分になります。何かを伝える機能を求めることもさることながら、何かが伝わらないことを以って刺激を受ける自分自身への手応えを求めることこそが、俳句作品というものを楽しむ上では大切なのではないか、ということをこの句を読みながらあらためて感じました。
逃げ水や夢のつづきをみるこころ うにがわえりも
夢をみるのは、たしかにわたし自身ではあるのですが、かといって、あらためて思い返してみると、夢をみる主体は、すんなりと「はい、わたし自身です」とも言い切れないような気もします。ましてや、「つづき」を見ようという感覚は、自分自身の管理下から離れたあてどないことにふみだすような気分でもあります。こうした、わたしからの離脱を言い表すためなのでしょうか、「こころ」という主体を作者は示したようです。ともあれ、たいていの読者は、「わたし」と「こころ」は同じものだという感覚だと思われますので、「なにもわざわざそんなことを言わなくたって」という感想を漏らすかもしれません。そもそも「わたし」とはなんなのか、「こころ」とはどんなものなのか、など説明しはじめたらどれだけの分量の言葉を費やさなくてはならないかけんとうもつかないほどです。面倒ですね。それを「逃げ水や」と言いのけています。「逃げ水」が「夢のつづき」とどう関係があるのかを考えても仕方がないでしょう。むしろ「夢のつづきをみるこころ」という状態をまるごとひきうけて「な、わかるだろ、こういう感じなんだよ」と示してくれているようです。「そこかとおもえばそこにはなくて追いかければ追いかけるほど迷わされる」というようなイメージが「逃げ水」には備わっています。科学的な説明や歴史的な使用経歴まどはちょっと横に置いておいて、読者のいだくおぼろげながらも他者と「だよね」と共有できるようなイメージが俳句の読解ではステージのセンターに立つようですから、「逃げ水」への理解もこのようなものになるのです。この「そこかとおもえばそこにはなくて追いかければ追いかけるほど迷わされる」というイメージは、「夢」にほどこされているというよりは、夢をみる主体である「わたし」に与えられているものなのではないかというのが山田の読後感なのですが、かなりひねくれているので共感が得られるとも思っていません。
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俳句の自然 子規への遡行 65 橋本直
俳句の自然 子規への遡行 65
橋本 直
初出『若竹』2016年6月号 (一部改変がある)
引き続き、俳句分類丙号の呼応関係の分類について検討する。前回確認したとおり、子規の使っている「係結」は、今日におけるいわゆる「係り結びの法則」のこととは異なり、文法上の「呼応表現」全般を指している。今回はまず、「の係けり結」。全部で四十一句分類されているが、まず、現在の俳句界では主に「上五、中七、下五」と言われる呼称を、子規は「一句、二句、三句」と書いていることを断っておく。この呼応を、①「一句ト二句」、②「二句ト三句」、③「一ト三・同句」というように、呼応の場所ごとにさらに下位分類し、十三句、十四句、十四句に分けてある。なお、三つ目の分類中の「同句」は、中七の中で「の・けり」の呼応になっているものをさし、五句ある。二句ずつ例句をあげる。
①実石榴の歯をこぼしけり秋の風 茶良
鶯の嘴洗ひけり紙屋川 暁台
②白菊の白きに友の来ざりけり 為貞
花木槿折手に妹の狂ひけり 都雀
③畠主のかゝし見舞て戻りけり 蕪村
羽を当て鷲の過けり凧 闌更
最後の闌更の句が「同句」の例である。なお、暁台、蕪村、闌更はいわゆる天明調の俳人。そのせいか、このような「の、けり」の呼応は、現在でもポピュラーなものであり、読んで違和感のある句は少ないように思う。
次は「の係なりたり結」で十句分類されている。句中のどこかで「の」と「なり」または「たり」の呼応が見られるものである。数例あげる。
紅梅に馬具の見えたり小玄関 元壽
山蟻のあからさまなり白牡丹 蕪村
何となく地を這ふ蔦の哀なり 越水
なお、十句の内訳は多い順に、「なり」が句末のもの五句、「たり」が中七末のもの三句、「なり」が中七末のもの二句。
次は「の係し結」一七句。①「除ケリ結」と②「除一ト二」に下位分類されている。前者はサ変動詞に接続する「~しけり」を除く、の意で「しけり」の句は前述の「けり」の方に分類されている。後者は上五の「の」を中七の「けり」で呼応するものは除く、の意で、そちらは前者に分類されている。それぞれ二句ずつ例をあげる。
①新米の阪田は早し最上川 蕪村
口上のけさは短し氷室の日 木五
②買手より売手の涼し心太 二荻
明いそく夜のうつくしや竹の月 几董
次の「の係かな結」は以下の一句のみ。
山鳥のさわくは鹿のわたる哉 暁台
その次は、「誰何係結違法」と題され六句分類されている。この用語はおそらく子規独特のものであり、どういう意味かわかりにくいが、疑問詞の呼応のことをいう。
月今宵何を限りに鎖すべし 應美
祭酒と誰名付たる濁り哉 傘下
いかにして真中刈るべき深田哉 隼石
誰住て樒流るゝ鵜川哉 蕪村
我宿にいかに引べき清水哉 同
何として張良逞し橋の霜 盧元
前回触れた松平円次郎著『新定日本教科書』によれば、文中に「誰」「何」「いかに」「いつ」「どこ」などの疑問詞が用いられている場合、現在の係り結びの法則とは別に、「誰が車ならむ」「何とすべきか」のように、原則として結びには「む、らむ、か、ぞ、や」が呼応するものとされていた。「違法」とあるのは、これら六句がその意味では例外であるということである。例えば一句目なら、疑問詞の「何」は原則に従えば結びは「べし」ではなく「べき(か)」等になるのが正しいことになる。この項は、いわゆる結びの省略や流れにあたるものと考えていいのであろう。
次に「ぞやかの係る結」。「ぞ」、「や」、「か」はいわゆる係結びの法則をつくる係助詞であるが、ここでは「なむ」と「こそ」がない。「こそ」は数が多いため後に別枠で分類されているのだが、「なむ」は分類されていない。見つけられなかったのかもしれない。八句分類されているが、ここでは一例ずつあげる。
鯖焼かば曇りもぞする盆の月 古巣
喜びの色にや笑める春の山 宗因
又も見る闇かは花のあかりなる 秋之坊
なお、「か」はこの一句のみで、あとは「ぞ」が五句、「や」が二句である。この後一旦、係結びの表記はなく「『る』(毎句最終字)」と題された分類が挟まれ、七句分類されている。
行春を近江の人と惜みける 芭蕉
初雪やまづ馬屋から消そむる 許六
文箱の先模様見る衣配り 曾良
星の夜や寝られぬ罪や蚊かはいる 来山
青柳や是貫之が絲による 窓柳
堀川や水滴ながら月澄る 可楽
夕顔や実のなる果は不形なる 古道
この分類はどうもすっきりしないのだが、係助詞「や」の結びと、句歌の技法としての連体終止がまぎらわしいものを中心に、「る」で分類しようとしたものかと思われる。
(つづく)
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後記+プロフィール634
後記 ◆ 福田若之
子どもの頃、夜中に目が覚めて、耳に届くがさごそという音の先をじいっと見ているうちに、だんだんと眼が慣れてきてはっきりしたことには、寝室のエアコンのプラグが、まるで鼠のようにちろちろと壁や天井を這いまわっていたのだった、という夢をみたことがあります。
いや、正確なところははっきりしないのですが、気がついたら朝だったので、たぶん夢です。
走るプラグはとてもかわいくて、でも、あれ以来、見ていません。
●
no.634/2019-6-16 profile
■谷村行海 たにむら・ゆきみ
1985年、東京生まれ。2008年12月より銀化所属。アンソロジー『新撰21』(2009)に参加。2010年第56回角川俳句賞受賞。句集『残像』
子どもの頃、夜中に目が覚めて、耳に届くがさごそという音の先をじいっと見ているうちに、だんだんと眼が慣れてきてはっきりしたことには、寝室のエアコンのプラグが、まるで鼠のようにちろちろと壁や天井を這いまわっていたのだった、という夢をみたことがあります。
いや、正確なところははっきりしないのですが、気がついたら朝だったので、たぶん夢です。
走るプラグはとてもかわいくて、でも、あれ以来、見ていません。
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それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
no.634/2019-6-16 profile
■谷村行海 たにむら・ゆきみ
1995年岩手県生まれ、神奈川県在住。「街」「むじな」所属。短歌同人誌「はなぞの」編集・発行人。2019年、「ユイカ」で第五回詩歌トライアスロン次点。
■山口優夢 やまぐち・ゆうむ1985年、東京生まれ。2008年12月より銀化所属。アンソロジー『新撰21』(2009)に参加。2010年第56回角川俳句賞受賞。句集『残像』
■西川火尖 にしかわ・かせん
1984年京都市生まれ。「炎環」同人。石寒太に師事。「子連れ句会」問合せ先。2019年より、詩歌俳同人、Qai〈クヮイ〉参加。
■菊田一平 きくた・いっぺい
1951年宮城県気仙沼市生れ。「や」「晨」「蒐」各同人、俳句「唐変木」代表。現代俳句協会会員。
■山田耕司 やまだ・こうじ
1967年生 句集 『大風呂敷』(2010年)『不純』(2018年)
■橋本直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。Blog「Tedious Lecture」
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
■岡田由季 おかだ・ゆき1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」
■西原天気 さいばら・てんき1984年京都市生まれ。「炎環」同人。石寒太に師事。「子連れ句会」問合せ先。2019年より、詩歌俳同人、Qai〈クヮイ〉参加。
■菊田一平 きくた・いっぺい
1951年宮城県気仙沼市生れ。「や」「晨」「蒐」各同人、俳句「唐変木」代表。現代俳句協会会員。
■山田耕司 やまだ・こうじ
1967年生 句集 『大風呂敷』(2010年)『不純』(2018年)
■橋本直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。Blog「Tedious Lecture」
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
■岡田由季 おかだ・ゆき1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」
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週刊俳句 第634号 2019年6月16日
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〔今週号の表紙〕第634号 水草 西原天気
〔今週号の表紙〕
第634号 水草
西原天気
水草の上に住む微小な人たちがいて、水草の裏には、また別の小さな人たちが住み、おたがいの足裏を間近に暮らしているのだが、出会うことも触れることもない。そんな愚につかないことを思いついたのは、書くことがなさすぎるせいです。
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週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら
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後記+プロフィール635
後記 ◆ 村田 篠
今週号は津野利行さんと柳本々々さんの10句作品を送り致します。また、関悦史さんは連載中の「BLな俳句」の中で、2年前に亡くなった金原まさ子さんの忌日(6月27日)に合わせて10句をお寄せ下さいました。
どうぞお楽しみ下さい。
●
「音楽千夜一夜」で取り上げられているガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」は、音楽に疎い私でもよく知っていて、好きな曲でもあります。
かなり昔の映画ですが、ウディ・アレンの『マンハッタン』(1979年)の冒頭でこの曲が使われていました。映画は44歳のウディ・アレンが、17歳のマリエル・ヘミングウェイに振られて終わるのですが、そのときに、マリエルがウディ・アレンを諭す言葉が印象的であたたかく、そのシーンを観たいがために、何度もこの映画をビデオで観た思い出があります。
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no.634/2019-6-16 profile
■津野利行 つの・としゆき
1967年、東京都出身、一級建築士。2009年より俳句を始める。西村和子、行方克巳に師事。趣味は草野球、博打、将棋。
■柳本々々 やぎもと・もともと
かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」
■菊田一平 きくた・いっぺい
1951年宮城県気仙沼市生れ。「や」「晨」「蒐」各同人、俳句「唐変木」代表。現代俳句協会会員。
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」
■西原天気 さいばら・てんき
今週号は津野利行さんと柳本々々さんの10句作品を送り致します。また、関悦史さんは連載中の「BLな俳句」の中で、2年前に亡くなった金原まさ子さんの忌日(6月27日)に合わせて10句をお寄せ下さいました。
どうぞお楽しみ下さい。
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「音楽千夜一夜」で取り上げられているガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」は、音楽に疎い私でもよく知っていて、好きな曲でもあります。
かなり昔の映画ですが、ウディ・アレンの『マンハッタン』(1979年)の冒頭でこの曲が使われていました。映画は44歳のウディ・アレンが、17歳のマリエル・ヘミングウェイに振られて終わるのですが、そのときに、マリエルがウディ・アレンを諭す言葉が印象的であたたかく、そのシーンを観たいがために、何度もこの映画をビデオで観た思い出があります。
それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
no.634/2019-6-16 profile
■津野利行 つの・としゆき
1967年、東京都出身、一級建築士。2009年より俳句を始める。西村和子、行方克巳に師事。趣味は草野球、博打、将棋。
■柳本々々 やぎもと・もともと
かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」
■関悦史 せき・えつし
1969年、茨城県生まれ。句集『六十億本の回転する曲がつた棒』『花咲く機械状独身者たちの活造り』。評論集『俳句という他界』。「豈」を経て「翻車魚」同人。ブログ:http:// kanchu-haiku.typepad.jp/blog/
1969年、茨城県生まれ。句集『六十億本の回転する曲がつた棒』『花咲く機械状独身者たちの活造り』。評論集『俳句という他界』。「豈」を経て「翻車魚」同人。ブログ:http://
■菊田一平 きくた・いっぺい
1951年宮城県気仙沼市生れ。「や」「晨」「蒐」各同人、俳句「唐変木」代表。現代俳句協会会員。
■青島玄武 あおしま・はるたつ
熊本市在住。1975年(昭和50年)3月生まれ。平成14年作句開始。平成15年、『握手』の磯貝碧蹄館に師事。2年後に同人。師の没後は無所属。邑書林刊『新撰21』に選ばれなかったほうの『新撰21』世代。現代俳句協会会員。熊本県現代俳句協会幹事。
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ熊本市在住。1975年(昭和50年)3月生まれ。平成14年作句開始。平成15年、『握手』の磯貝碧蹄館に師事。2年後に同人。師の没後は無所属。邑書林刊『新撰21』に選ばれなかったほうの『新撰21』世代。現代俳句協会会員。熊本県現代俳句協会幹事。
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。
■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter
■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」
■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」
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〔今週号の表紙〕第635号 ホシゴイ 岡田由季
〔今週号の表紙〕
第635号 ホシゴイ
岡田由季
ゴイサギの幼鳥のホシゴイです。モノトーンのすっきりした配色の成鳥とは、全然違いますね。ゴイサギに会うと、いつも、妖怪っぽいなぁと思います。
可憐な小鳥もいいですが、妖怪っぽい、存在感のある鳥も好きです。
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週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら
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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 ガーシュイン「ラプソディー・イン・ブルー」
中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
ガーシュイン「ラプソディー・イン・ブルー」
天気●「ラプソディー・イン・ブルー」は、「大」をいくつ付けてもいいくらい大好きな曲。1924年に書かれたこの曲、いろんなひとがいろんな演奏を残していますが、今回は、小澤征爾、ベルリン・フィル、マーカス・ロバーツ・トリオによる演奏。21分近くありますが、ゆっくりとどうぞ。
天気●ベルリンの野外コンサート会場ヴァルトビューネでの夏至コンサート。聞きどころ、見どころがいっぱい。奇跡のような20分です。
憲武●この曲、よく使われてますね。近くは「のだめカンタービレ」とか「科捜研の女」とか。古くは「植木等ショー」とか。この動画の14分くらいからのテーマも、テレビ番組のテーマ曲などに使われてますね。
天気●夏の夕方の、この森の気持ちよさ、観客や演者のリラックスと興奮がよく伝わります。
憲武●はい。最初の小澤征爾の表情がそれを良く物語ってます。
天気●素晴らしい音楽って、その音と空気に、ただただ身を委ねていたい。ことばがいらなくなるから、困っちゃいますね。
(最終回まで、あと900夜)
(次回は中嶋憲武の推薦曲)
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【週俳5月の俳句を読む】なんとかしましょうよ 青島玄武
【週俳5月の俳句を読む】
なんとかしましょうよ
青島玄武
角川俳句賞に毎年投稿してまして。今年も投稿いたしましたが、本当に毎年思うことがあります。
あの募集要項、何とかなりません?
俳句を知らない方がたまたま読んでいるかもしれないので、ちょっとだけ触れておきますと、この賞は「俳句界の芥川賞」なんぞとも呼ばれている俳人憧れの賞なのでございます。
では、その募集要項をおさらいしておきましょう。
ただ、その次の
だって家庭用のプリンターって、ほとんどがA4規格で、B4判なんてどうやっても無理。
てゆーか「ワープロ」って、「ワープロ」って!
(大事なことだから二回言いました)
仕方ないので、50句をパソコンの文書作成ソフトで並べて、それを印刷したのを原稿用紙に書き綴るという原始的な方法をとっていますが、それも決まった形式がないのでどうやって書いていいかわからず、毎回「これでいいのかな?」と首を捻りながら書いてます。
この方法を取ると、どうしても書き終えた段階で数句足りない、なんてことが……。
まー、自分の注意不足が原因ですが、そのために原稿用紙を無駄にしてしまうのが本当に忍びないです。
現代俳句協会の『兜太現代俳句新人賞』は、そのへん緩やかで、
角川俳句賞の場合は手書きで清書するので、どうしても誤字脱字が出たりします。そのあたりを修正液で何とかしないといけないの、本当に面倒だし、見栄えも最悪に……。
年齢制限はありますが、これなら、別に2000円払ってでも応募したいですね。(応募しました)
「ワープロ世代」の方々には、より若い世代が俳句に親しむようになるためにも、もう少し間口を広げるような募集要項にしてみたらいかがでしょうか?
ということで、そんな若い世代の俳句がスマートフォンで気軽にみられるのが『週刊俳句』さんの良いところ。
川嶋健佑 『鍵垢手垢』5月5日号より
難解な句と平明な句が折り重なって見事な俳句作品群。
椅子のない部屋が灯って鳥雲に
青嵐の椅子のまわりに椅子を置く
椅子に名はなくて皐月という異名
椅子持って葉桜抜けて古都の家
椅子の句が10句中4句収録してありますが、どれも個性的。
1句目は平明かつ寂しい雰囲気。
2句目は「青嵐」で切らずに「青嵐の」としたことでどこか儀式的な不穏な空気が。
3句目はちょっと謎な句? なんで椅子に「皐月」という異名がついたのか、読者に丸投げされた、個人的に「落とし穴俳句」と呼んでいるジャンル。落とし穴に落ちて様々なリアクションを取る芸人を隠しカメラで撮っていて、その映像をにやにやするテレビのドッキリ番組のように、その俳句にどんなリアクションをするのかを作者が楽しんでいる。
4句目は想像するに楽しい俳句。おそらくは奈良県でしょう。大きなお寺の近く、葉桜を抜けて家まで。って、なんで椅子持っているんでしょうか? 持っているとしたらどれほどの椅子? 携帯できる折り畳みのタイプでないとだめですよね。奈良の人の独特のイントネーションの会話が聞こえてきそう。
他の句も「いや、それなに?」と訊きたくなる俳句もあるけど、ちゃんと俳句の歴史を知っている人が作っている俳句で、本当に25歳なの?と思いました。
藤本夕衣 『つややかに』5月12日号
非常に格調の高い作品群。もう少し山奥には山姥もいそうな山村の生活を見るようで、まるで飯田蛇笏や原石鼎のような風格を感じましたが、わたくしと同じ40代の方と聞いて驚いております。
まなかひに炎をみつめ春惜しむ
火の中の椎の若葉もありにけり
白服に煙のにほひまとひ来し
この三句で連作のような格調が。どれも古典を踏まえている方でないとできないと思います。
柴の束ほどき八十八夜かな
茶葉を煎るための柴なのか、はたまた炊事や風呂焚きのための柴なのかはわかりませんが、湿気や重量感といった質感があって俳句の旨味が堪能できる句だと思いました。
うにがわえりも 『食べられないぶどう』5月26日号
軽い調子にくすりとさせてくれる仄かなユーモア。
五月雨を呼び寄せている猫のひげ
紫陽花の話すは雨の言葉かな
フローリングなめらかマイケルジャクソン忌
ちょっと、ベタになりがちなところをあえて衝いてみせて反応をうかがっているようにも感じます。
空中にみどりの海わかばの波
代掻きや足首にくる土の息
たしかな観察眼でたしかな描写力。 平面でありながら野暮にはならない。
この方も20代なんですね。 本当に勉強になります。
なんとかしましょうよ
青島玄武
角川俳句賞に毎年投稿してまして。今年も投稿いたしましたが、本当に毎年思うことがあります。
あの募集要項、何とかなりません?
俳句を知らない方がたまたま読んでいるかもしれないので、ちょっとだけ触れておきますと、この賞は「俳句界の芥川賞」なんぞとも呼ばれている俳人憧れの賞なのでございます。
では、その募集要項をおさらいしておきましょう。
未発表作品50句年齢制限がありませんから、パソコンを扱えない世代の方が原稿用紙をお使いになられる。これはわかります。
●B4判400字詰原稿用紙を使用してください。
●ワープロ原稿の場合は、B4判無罫用紙を20行取りとし、大きめの明朝体を使用してください。
●原稿冒頭に作品の表題(全体を要約するタイトル)と作者名を 明記してください。
●別紙に次の項目を記して同封してください。
(1)表題
(2)俳号・本名・生年月日・年齢・性別
(3)郵便番号・住所・電話番号
(4)略歴(師系・俳歴・受賞歴・所属結社等)
(5)現在の所属結社
(6)職業
●50句中に既発表作品、二重投句があれば無効となります。
(既発表作品には新聞、雑誌、結社誌、同人誌、句会報のほか、ホームページ、ブログ等に掲載された作品も含まれます)
ただ、その次の
●ワープロ原稿の場合は、B4判無罫用紙を20行取りとし、大きめの明朝体を使用してください。って、条件厳しすぎやしませんか?
だって家庭用のプリンターって、ほとんどがA4規格で、B4判なんてどうやっても無理。
てゆーか「ワープロ」って、「ワープロ」って!
(大事なことだから二回言いました)
仕方ないので、50句をパソコンの文書作成ソフトで並べて、それを印刷したのを原稿用紙に書き綴るという原始的な方法をとっていますが、それも決まった形式がないのでどうやって書いていいかわからず、毎回「これでいいのかな?」と首を捻りながら書いてます。
この方法を取ると、どうしても書き終えた段階で数句足りない、なんてことが……。
まー、自分の注意不足が原因ですが、そのために原稿用紙を無駄にしてしまうのが本当に忍びないです。
現代俳句協会の『兜太現代俳句新人賞』は、そのへん緩やかで、
応募要項A4版の400字詰め原稿用紙なら、文書作成ソフトの機能で原稿用紙設定ができるので、50句を確認後、サクッと変換してきれいな原稿用紙の原稿にすることができます。
句数:雑詠50句。但し、未発表の作品に限る(他への二重投句は不可)。作品には 必ずタイトル(題名)をつけること。
応募用紙:A4版・400字詰め原稿用紙3枚にタイトルと50句を記入。これとは 別に、同じ大きさの原稿用紙1枚に、タイトル、氏名、性別、年齢、住所、電話番号、俳歴を明記し、計4枚使用。
※作品を記入した原稿用紙に氏名を記入しないようにお願いします。
※応募原稿は返却しません。
応募資格:年齢を50歳未満(締切日を基準)とする。
応募料:整理費として2,000円(定額小為替同封または現金書留)
締切日:2019年5月31日(必着)
角川俳句賞の場合は手書きで清書するので、どうしても誤字脱字が出たりします。そのあたりを修正液で何とかしないといけないの、本当に面倒だし、見栄えも最悪に……。
年齢制限はありますが、これなら、別に2000円払ってでも応募したいですね。(応募しました)
「ワープロ世代」の方々には、より若い世代が俳句に親しむようになるためにも、もう少し間口を広げるような募集要項にしてみたらいかがでしょうか?
ということで、そんな若い世代の俳句がスマートフォンで気軽にみられるのが『週刊俳句』さんの良いところ。
川嶋健佑 『鍵垢手垢』5月5日号より
難解な句と平明な句が折り重なって見事な俳句作品群。
椅子のない部屋が灯って鳥雲に
青嵐の椅子のまわりに椅子を置く
椅子に名はなくて皐月という異名
椅子持って葉桜抜けて古都の家
椅子の句が10句中4句収録してありますが、どれも個性的。
1句目は平明かつ寂しい雰囲気。
2句目は「青嵐」で切らずに「青嵐の」としたことでどこか儀式的な不穏な空気が。
3句目はちょっと謎な句? なんで椅子に「皐月」という異名がついたのか、読者に丸投げされた、個人的に「落とし穴俳句」と呼んでいるジャンル。落とし穴に落ちて様々なリアクションを取る芸人を隠しカメラで撮っていて、その映像をにやにやするテレビのドッキリ番組のように、その俳句にどんなリアクションをするのかを作者が楽しんでいる。
4句目は想像するに楽しい俳句。おそらくは奈良県でしょう。大きなお寺の近く、葉桜を抜けて家まで。って、なんで椅子持っているんでしょうか? 持っているとしたらどれほどの椅子? 携帯できる折り畳みのタイプでないとだめですよね。奈良の人の独特のイントネーションの会話が聞こえてきそう。
他の句も「いや、それなに?」と訊きたくなる俳句もあるけど、ちゃんと俳句の歴史を知っている人が作っている俳句で、本当に25歳なの?と思いました。
藤本夕衣 『つややかに』5月12日号
非常に格調の高い作品群。もう少し山奥には山姥もいそうな山村の生活を見るようで、まるで飯田蛇笏や原石鼎のような風格を感じましたが、わたくしと同じ40代の方と聞いて驚いております。
まなかひに炎をみつめ春惜しむ
火の中の椎の若葉もありにけり
白服に煙のにほひまとひ来し
この三句で連作のような格調が。どれも古典を踏まえている方でないとできないと思います。
柴の束ほどき八十八夜かな
茶葉を煎るための柴なのか、はたまた炊事や風呂焚きのための柴なのかはわかりませんが、湿気や重量感といった質感があって俳句の旨味が堪能できる句だと思いました。
うにがわえりも 『食べられないぶどう』5月26日号
軽い調子にくすりとさせてくれる仄かなユーモア。
五月雨を呼び寄せている猫のひげ
紫陽花の話すは雨の言葉かな
フローリングなめらかマイケルジャクソン忌
ちょっと、ベタになりがちなところをあえて衝いてみせて反応をうかがっているようにも感じます。
空中にみどりの海わかばの波
代掻きや足首にくる土の息
たしかな観察眼でたしかな描写力。 平面でありながら野暮にはならない。
この方も20代なんですね。 本当に勉強になります。
↧
【週俳5月の俳句を読む】舞台狭しと 菊田一平
【週俳5月の俳句を読む】
舞台狭しと
菊田一平
晩春のなにかと燃える千葉雅也 川島健佑
いいなあ、この千葉雅也くん。この句を読んで同級生だったKちゃんのことを懐かしく思いだした。中学生のころ私の出身の島の中学校には卓球部や野球部はあったけれど陸上部というものはなかった。中体連の陸上競技には、既存の部活や、部活に参加していないけれども足の速い者たちが自薦やクラス推薦で出場するのが常だった。出場選手たちは放課後にグラウンドや海岸の砂浜をわずか一週間か十日ぐらい形ばかりの身体慣らしをしてその日を迎えた。
Kちゃんが生徒会長だったある年、100メートル走に出る選手が誰もいなかった。OとかTとか、全校でも圧倒的に足の速い連中がいたのだが彼らは推薦されても首をたてに振らない。学年ごとにクラス会が開かれたが結論がでず、とうとう「俺が出る」と手を挙げたKちゃんが出ることになってしまった。
クラブ活動こそ卓球部だったけれど決してKちゃんは足が速い方ではない。市内のK中学やS中学にはちゃんと陸上部があって、毎日、日課のように手の降りや足のあげ方を練習している連中が出場してくる。案の定、Kちゃんはスタートから離された。それでも大きく手を振り、歯をくいしばって頑張ったが力の差は歴然としていた。
大学生になって、アラン・シリトーの小説を読んだ。確かエルトン君というクロスカントリーだったか陸上競技の選手が主人公の小説だった。ストーリーは忘れてしまったが、足がもつれて地面が膨らむよう感覚に捉えながらも、必死でゴールを目指す主人公の姿に思わずKちゃんの姿を重ね合わせて読んだ。
川島さんの雅也くんの「なにかと燃える」とはちょっと意味合いが違うけれど、Kちゃんも何かと熱く燃える男だった。東日本大震災で島の実家が無くなって島を離れることになってしまった。以来Kちゃんとも会っていない。
フローリングなめらかマイケルジャクソン忌 うにがわえりも
5月の30句の中でも、リズムにおいてこの句のなめらかさに敵う句はない。
歌手のマイケル・ジャクソンが亡くなったのは2009年の6月25日。あまりの唐突な亡くなり方に、マイケルの不眠症に対して主治医が処方していた催眠鎮静剤が不適切だったのではないかと裁判沙汰にまでなった。
それはそれとしてこの句の二物の合わせ方はまことに上手い。「フローリングなめらか」のたった10文字の措辞にムーンウオークで舞台狭しと歌って踊るマイケルの姿を余すところなく伝えている。「マイケルジャクソン忌」の語彙も悪くない。いかにもフットワークがよくて、いささか不謹慎だけれど乗りがいい。惜しむらくは「マイケル・ジャクソン忌」じゃなく、中黒を抜いて「マイケルジャクソン忌」としたこと。字面に少々締まりがなくなってしまった。とは言ってもこの句を嚆矢として上五に詠むひとの想いが存分にこもった「マイケル忌」の句が次々と詠まれてくるだろうと想像すると楽しくなる。
舞台狭しと
菊田一平
晩春のなにかと燃える千葉雅也 川島健佑
いいなあ、この千葉雅也くん。この句を読んで同級生だったKちゃんのことを懐かしく思いだした。中学生のころ私の出身の島の中学校には卓球部や野球部はあったけれど陸上部というものはなかった。中体連の陸上競技には、既存の部活や、部活に参加していないけれども足の速い者たちが自薦やクラス推薦で出場するのが常だった。出場選手たちは放課後にグラウンドや海岸の砂浜をわずか一週間か十日ぐらい形ばかりの身体慣らしをしてその日を迎えた。
Kちゃんが生徒会長だったある年、100メートル走に出る選手が誰もいなかった。OとかTとか、全校でも圧倒的に足の速い連中がいたのだが彼らは推薦されても首をたてに振らない。学年ごとにクラス会が開かれたが結論がでず、とうとう「俺が出る」と手を挙げたKちゃんが出ることになってしまった。
クラブ活動こそ卓球部だったけれど決してKちゃんは足が速い方ではない。市内のK中学やS中学にはちゃんと陸上部があって、毎日、日課のように手の降りや足のあげ方を練習している連中が出場してくる。案の定、Kちゃんはスタートから離された。それでも大きく手を振り、歯をくいしばって頑張ったが力の差は歴然としていた。
大学生になって、アラン・シリトーの小説を読んだ。確かエルトン君というクロスカントリーだったか陸上競技の選手が主人公の小説だった。ストーリーは忘れてしまったが、足がもつれて地面が膨らむよう感覚に捉えながらも、必死でゴールを目指す主人公の姿に思わずKちゃんの姿を重ね合わせて読んだ。
川島さんの雅也くんの「なにかと燃える」とはちょっと意味合いが違うけれど、Kちゃんも何かと熱く燃える男だった。東日本大震災で島の実家が無くなって島を離れることになってしまった。以来Kちゃんとも会っていない。
フローリングなめらかマイケルジャクソン忌 うにがわえりも
5月の30句の中でも、リズムにおいてこの句のなめらかさに敵う句はない。
歌手のマイケル・ジャクソンが亡くなったのは2009年の6月25日。あまりの唐突な亡くなり方に、マイケルの不眠症に対して主治医が処方していた催眠鎮静剤が不適切だったのではないかと裁判沙汰にまでなった。
それはそれとしてこの句の二物の合わせ方はまことに上手い。「フローリングなめらか」のたった10文字の措辞にムーンウオークで舞台狭しと歌って踊るマイケルの姿を余すところなく伝えている。「マイケルジャクソン忌」の語彙も悪くない。いかにもフットワークがよくて、いささか不謹慎だけれど乗りがいい。惜しむらくは「マイケル・ジャクソン忌」じゃなく、中黒を抜いて「マイケルジャクソン忌」としたこと。字面に少々締まりがなくなってしまった。とは言ってもこの句を嚆矢として上五に詠むひとの想いが存分にこもった「マイケル忌」の句が次々と詠まれてくるだろうと想像すると楽しくなる。
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BLな俳句 第22回 関悦史
BLな俳句 第22回
関 悦史
関 悦史
『ふらんす堂通信』第157号より転載
藪巻や美童攫はれたるはなし 能村登四郎『長嘯』
「藪巻」が冬の季語で、「雪折れのおそれのある低木や竹などを,むしろや縄で巻いて損傷を防ぐもの」(『大辞林』)。
「美童攫はれたるはなし」の「はなし」は「話」とも「は無し」とも読めるが、後者は特に詩趣を形成することもなさそうなので「話」と取っておく。
この「話」がどういうものかは詳らかでないので、美童が天狗や何か怪力乱神の類に攫われたのか、それとも単なる稚児趣味をめぐるトラブルかも判然としないが、伝聞の「話」であるという間接性を挟んだ美童消失の悲劇とだけわかれば、さしあたり用は足りる。間接的でしかも断片的で唐突であるがゆえに、美童消失のイメージは淡くもなり、また一面鮮やかにもなるのである。
目の前にあるのは藪巻である。木の本体が隠された状態であることが、「攫はれた」の消失のイメージに通底する。また冬の季語であることから、攫われた美童がどことも知れぬ場所で凍えている可憐な図を連想することもできる。藪巻そのもののように、美童が縄で縛められている図まで連想するとなると、少々意味に引きつけた読み過ぎということになろうか。
ただ縄やむしろで巻かれただけの木が、「美童攫はれたるはなし」という一見実のないフレーズと取り合わされると、たしかにそういうことがあったのだと証言している謎めいた物件のように見えるところが面白い。
坊主めくりの引き当てし僧うつくしき 能村登四郎『長嘯』
百人一首を諳んじていない人でも、簡単にできる遊び方が坊主めくりである。
絵札の山を囲んで座り、順番に札を取っていって、坊主が出たら持ち札を全て捨て、姫が出たらそれをまとめてもらえるというだけのもので、最終的に持ち札の枚数がもっとも多かった者が勝ちとなる。
つまり坊主の札はハズレで、せっかくそれまで溜め込んだ札を手放さなければならないのだから、普通ならば顔をしかめるところなのだが、登四郎の句では、なぜか絵札の僧の美貌に見とれるということになるのだ。
うつくしいとはいっても百人一首の絵札の肖像は、かなり簡略化された描き方なので、たかが知れているはずだが、そんなところにも登四郎の美男センサーは反応してしまうのである。
もともと登四郎は僧形が好みらしくて、知られた句〈青滝や来世があらば僧として〉では、自分もそうなりたいという憧れが示されているし、『長嘯』のひとつ前の句集『菊塵』には〈よき僧となり紅顔の冬も失せず〉という句もある。こちらには「大畑善昭」という前書きがついている。「沖」同人の俳人である。「紅顔」は少年によく使われる形容で、それが僧に使われるという意外性が生気を生んでいる。
登四郎の僧形への関心は、熾烈な求道といったものではなく、まず外見が好みだということであり、その向こうに清冽な精神性がほの見えるのがエロティックであるということのようだ。この嗜好性は、現在のコスプレ文化に近いところがあるのではないか。
男顔完璧なりし神輿舁き 能村登四郎『長嘯』
こちらも和モノの句。
「神輿舁き」というと、神輿を担ぐ人と見物から成る群衆全体の騒々しい活気に注意が行きそうなものだが、ここでも登四郎の視線は、担ぎ手の一人の「男顔」にただちに釘づけになっている。周りの騒がしさなどもはや「男顔」の背景に過ぎない。文字通りのモブである。
中七の「完璧なりし」というのが句としては工夫のしどころか。
「美しかりし」では神輿舁きの活気が消えてしまって、スタティックになる。「完璧」はこの場合、周りの活気も背景として有機的に巻き込み、それと互いに照らし合うようにして「男顔」を際立たせる措辞となっている。
澄める夜の澄みの極みに男坐す 能村登四郎『長嘯』
一連の僧侶ものなどの延長線上というべきか、人格的なものを伴う格好よさが描かれた句で、男が坐っているだけでほれぼれとしている感じが伝わってくる。
言葉の並び順としては「澄める夜」が先に来て、そこから次第にクローズアップしていくように「男」が現れている。「澄み」を煮詰めていった結果「男」が出現するという順番で、「男」が澄む秋そのものの精のように見え、それが「男」のキャラクターをも規定していくのだが、実際の認識の順番としては、まず坐っている男が真ん中に来て、それから周りの秋の「澄み」へと注意が広がっていくはずで、ここでも「神輿舁き」の句と同様、男とその周囲との照らし合いがかたちづくられている。
この「男」も、キャラクターの方向ははっきりしていて、高倉健か誰かのような寡黙で重みのある、絵になる人物であることはわかるが、一方、登四郎句に現れる男のつねとして、内面性は希薄である。
内面とは発語されなかった言葉である。この「男」がものを言うことがあるとしても、それが句の語り手との間に決定的な摩擦を起こすことはおよそあり得そうになく、「男」は句の語り手の理想のうちにとどまるのである。その意味で、この「男」には内面はあまりない。
早くいえば「男」は美少女ゲームのキャラに近い、ご都合主義の空想によって成り立っているものとも見えるのだが、にもかかわらず登四郎句が平板な閉域をかたちづくってしまわないのは、その奥行に、季語によって形成される審美的に整えられた自然があるからなのではないか。
登四郎句の場合、単に好もしい男と季語が組み合わせられているということではなく、「男」そのものも、季語の宇宙と相互に浸透しあっているとでもいうべきか、内面が希薄であることで、季節、季語の美を体現する存在になることが可能になっているようだ。
これは季語そのものの萌えキャラ化といったこととは違う。季語と「男」とが、それぞれ違うものでありながら相互浸透を起こす、そのはざまの領域に登四郎句のエロスがあるのだろう。
竹皮をきのふ脱ぎたる男肌 能村登四郎『長嘯』
「竹の皮脱ぐ」が夏の季語。「男肌」は皮を脱いだばかりの竹のみずみずしい精悍な肌に対するものの喩えであるらしい。男のような肌というわけである。連体形の「脱ぎたる」に「男肌」が直に続いているのだから、そう取るのが自然だ。
客観写生であるかはともかく、一応写生句の枠内で鑑賞できる句ではある。
しかし「男」の一字の介入が、何やら読者の心をざわめかせる。べつに「男」の一字を入れなくても、例えば下五を「素肌なり」などと変えてしまっても、「肌」だけですでに暗喩になってしまうので、人体じみた色気は出てしまうはずなのだ。竹から女性の容姿を連想する人は少ないだろうから、それだけでも一応用は足りるのである。
それでも、この句には「男」が入った。
俳句には、連体形で繋がっていても、意味上の切れが入るというタイプの作品もあるので、〈竹皮をきのふ脱ぎたる/男肌〉と切ってみることも可能である。この場合、介入してきた「男」は喩えではなく本物となる。代わりに「竹皮をきのふ脱ぎたる」の方が「脱いだような」という暗喩的な位置にしりぞくことになる。
とはいうものの、この句の言葉のバランスから見て、「竹皮をきのふ脱ぎたる」が全て「男肌」を修飾するためだけの、ものの喩えと取るのは少々無理がある。季語が実物ではなくなってしまう点も、句を弱らせる。
昨日皮が脱がれたばかりの竹のイメージと男肌のイメージは、どちらがどちらの喩えなのかを曖昧に揺れ動かす余地を残しつつ、皮を脱いだ竹の真新しい幹を立ち上がらせる。いやむしろ、その真新しい竹の幹の両側に、皮を脱ぐ所作と、男肌がまつわる。この両側にまつわる二つのイメージのたゆたいこそを、この句の魅力と取るべきだろう。
白褌の一団に締る海開き 能村登四郎『易水』
褌である。
何というか、ここまでつき合ってくると、いつもの登四郎の世界という気がする。
大磯などで、海開きの際に、神輿の海中渡御という行事があるので、それを詠んでいるのかもしれないのだが、さしあたり目が行っているのは神輿や神事ではなく、「白褌の一団」であり「締る」である。
いつもの登四郎の世界とはいうものの、この前の句集『長嘯』には〈すさまじや肉体枯れてなほ男〉〈真裸の瘦てゐるだけ耶蘇に似て〉といった、自分のものらしい身体の老いと衰弱にかえって男性性を見出す句も収められているので、その後にこうした句が詠まれている辺り、好みのものへの執心が生の支えと華やぎになっているようだ。
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関悦史 カルナヴァル忌
関悦史 カルナヴァル忌
夏草が踝に触れ男子と知る
姫と呼ばれて男子の細さ更衣
水かけまくるは賛美ぞプールの男子同士
カルナヴァル忌の聖セバスチャンこそ夏料理
カルナヴァル忌=金原まさ子の命日 六月二十七日
梅雨雷夢魔の青年らに拉がる
照り返す汗の胸板パソコン点け
アナル既に縦割れの兄紺浴衣
片割れすでに歯磨く裸身青年らの後朝
運動会のダンス照れあひ男児同士
少年やラガーの体見つめゐる
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10句作品 ふたりでくらす暴風雨 柳本々々
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10句作品 戻らない日 津野利行
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週刊俳句 第635号 2019年6月23日
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