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週刊俳句はどのように「10句作品」を執筆依頼しているのか 菅原慎矢(第五回芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞) さんのコメントを機に 西原天気

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週刊俳句はどのように「10句作品」を執筆依頼しているのか
菅原慎矢(第五回芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞) さんのコメントを機に

西原天気


菅原慎矢さんが2018年7月17日のコメントで、小誌「週刊俳句」の「掲載俳句作品について」触れていらっしゃいます(≫こちら)。

そこで、これを機会に、週刊俳句は10句作品をどのように執筆依頼/掲載しているのかについて、簡単にお伝えしておきたいと思います。

といっても、複雑な仕組みや取り決めがあるわけではありません。簡単にいえば、当番(運営。現在5名)がそれぞれ「寄稿してほしい」と思う/思いついた人に、メールあるいは郵便で「執筆依頼状」を送っています。

他メンバーへの相談・打診は原則ありません。全員が裁量〔*1〕

したがって、菅原慎矢さんがおっしゃる「西原天気氏と上田信治氏が中心という認識で良いだろうか」という部分については、そうではない、ということになります。

どんな人に書いてもらうのか。その基準/方針もとくべつなものはありません。当番それぞれの思うところ・考えるところ〔*2〕にしたがって依頼しているのだと想像します。

依頼したら、連絡用のBBSに書き込みます。執筆OKがもらえたら、それも書き込みます〔*3〕。そうやって、掲載号への作品割り振りについて情報を共有しています。月に掲載数が多すぎないような調整が必要なので(主に、翌月の「俳句を読む」執筆者の負担を考えて)、このBBSは重要です。

当番は、俳句世間・俳壇で意欲的に活動しているという人たちではないので、俳人の知り合いは多くありません(特に私は、少なくとも私は)。面識のない人には郵送で依頼したりしています。

知っている人にお願いするのが正直ラクなのですが(遠近法的なアプローチですね)、俯瞰も必要です。なかなかそうは行きませんが、広がりの出るように努力はしているつもりです。

例えば、同人誌を読んで、作品に興味を持ち、郵送依頼することもあります。若い人の場合、名簿で連絡先が見つからないことも多く、そのときは、同人の代表的なポジションの方に依頼希望の旨を伝えて、連絡先を教えてもらったり、あるいは、「10句作品の執筆者を探しているのですが、どなたか推薦してもらえませんか」とお願いしたりしています。

これらは、俯瞰を取り込む、あるいは自分の判断や好みに収まらないようにするための、ささやかな方策です。

ざっと、以上のような感じです。こんなやり方で、600号近く、11年以上、続いています。

いかがでしょうか。「テキトー」でしょう? びっくりされた方もいらっしゃるかかしれません。でも、これ、いい意味の「テキトー」と思っているのです。

当番それぞれに極力負担がかからないようなやり方です。でないと、続かないので。当番は悠々自適の老後を送っているわけではなく、暮らしの中の余った時間で週刊俳句を運営していますから、「テキトー」じゃないと続かないのです。



さて、菅原慎矢さんのコメントの件です。

週刊俳句の10句作品の依頼に関して、菅原慎矢さんの目には、不透明と映るようです。
週刊俳句の編集方針には不明点もある。具体的には、掲載俳句作品については編集部(西原天気氏と上田信治氏が中心という認識で良いだろうか)の依頼によるという形態の不透明さである。(コメントより)
これについて、正直に言うと、私にはよくわからなくて、まず、執筆依頼から掲載への流れにまつわる透明/不透明という区別について、うまく理解できません。だから、週刊俳句が、「おっしゃるとおり不透明です」とも「いや透明です」とも言えない状態です。

菅原慎矢さんのお考えの中に、不透明ではない形態、不透明ではない媒体があれば、しくみでもイメージでも実例でもいいので、教えてください。そうすると、私にもわかるかもしれません。

アンソロジーうんぬんについても同様に、私にはうまく理解できません。
週刊俳句とは、編集部が掲載作家を選ぶという点で、俳句アンソロジーと類似した場と言って良いだろう。(コメントより)
この部分については、「類似していないと思います」としか言いようがありません。

それとは別に、「掲載作家を選ぶ」という部分が、運営当事者である私にはピンとこないのです。前述したような過程(執筆依頼先を決め、依頼し、応諾をもらい、掲載に至る過程)を見ていただければわかると思うのですが、これは「選ぶ」というより、掲載作家を「探す」「見つける」というほうが実感に近い。

誰もが週刊俳句に書きたがる、そのなかから選ぶ、というのとは程遠いのです。

それにまた、依頼したものの、断られることもあります。「諾否」をうかがって、「否」の返事が続き、心折れることもあるそうです(私は心折れません。性分なのか何なのか。いや、ほとんどは快く応諾いただいています。幸運なことに)。

しかしながら、考えてみれば、「俳句を掲載させてください」と頼んで、「はい」と快い返事をいただけるなんてことは、当然でもなんでもない。かなりすごいことです。作家諸氏・俳人諸氏の厚意というしかない。創刊から間もない頃は、なおさらです〔*4〕。不安いっぱいで依頼していました。依頼先によっては、メールでも郵送でもなく、直接お会いしたとき、おそるおそるということもありました(懐かしい)。

おっと、奮戦記を書くつもりはなかったのです。すみません。つまり「選ぶ」という意識は、じつはあまりないということを申し上げたい。ほかの当番も同じだと思います。「選んでいるという意識を持つべきだ」と言われれば、そんなものかな、そうかもしれない、とは思うでしょうけれど。

なお、「選んでいる」というふうに映ることもあるのだなあ、たしかに選ぶという側面もあるのだろう、実感はなくても、といったように、「外からの目」を教えてもらった気はしています。



以上、前半部分で、週刊俳句の10句依頼の実態・実際をお話ししました。後半部分で、菅原慎矢さんのコメントへの応答にはなりませんでしたが、所感を述べました。

最後に、これからも10句作品の執筆依頼を、いろいろな方にさせていただくと思います(週刊俳句が続くなら)。そのときは、よろしくお願い申し上げます。断りの返事も、どうぞお気兼ねなく。


〔*1〕俳句作品以外の記事についても、メンバー間で掲載の可否についての相談・打診は原則ありません。思いついたら、各自の裁量で、掲載・連載します。外部からの持ち込み原稿、持ち込み企画についても、ほぼ同様。

〔*2〕依頼先を探す際、私自身にはいくつかの基準があります(厳密ではなく緩やかな基準)。

優先の基準は、例えば、若い人の作品は見たい。多く作れそうなのに、発表の場/読者が目にする場が少ないと思しき人(逆に発表の場が多そうな人は、どうしても敬遠しがち(週刊俳句に掲載しなくても、たくさん読者の目に触れるはず、という判断)。受賞者。句集上梓直後。などなど。こうしたことを、依頼先探しの基準にしています(他の当番のことははっきりとは知りません)。

〔*3〕連絡用BBSはこんな(↓↓↓)感じです。


〔*4〕創刊当時、10句作品の掲載はありませんでした。

バックナンバー参照≫http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/04/blog-post_22.html

当時、「俳句作品はじゅうぶんに足りている。足りないのは『俳句を読む』行為と習慣だ」という意識から、俳句を掲載しなかったのです。やがて掲載するようになった、その経緯は、「なんとなく」です。あるいは、詳しいことは忘れました。

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 第62回 フェリックス・チャポティーン「キンボンボ」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
第62回 フェリックス・チャポティーン「キンボンボ」


憲武●日本って周期的にラテン音楽のブームが来てるようですけど、ラテン音楽って懐かしい感じがあります。

天気●なんでなんでしょうね。日本に入ってきた洋楽ポップスのなかでは最も古い部類のジャンルだからでしょうか。

憲武●親の代がマンボにハマったとかというご家庭が、日本国中にあるんじゃないでしょうか。こういうディープな楽曲には、その理由の一端を窺えますでしょうかね。チャポティーンの「キンボンボ」です。


憲武●元気が出ますよね。フェリックス・チャポティーンはキューバを代表するソン(キューバに元からあった音楽。サルサの原型とも)のミュージシャンです。

天気●いいかんじ。キューバといえば、映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」の上映が始まっていますね。

憲武●そうですね。前作はヴェンダース監督で、一躍有名になったとても高齢のバンドです。この曲の入ってるアルバム「SABOR TROPICAL」、熱帯風味って意味らしいですけど、ジャケ買いでしたね。暖色系のバックに、単純な線で描かれたイラストの色合いがとても良くて。これは絶対いいに違いないと思ってしまって。

天気●はい。イラストの「20世紀中葉」感がたまりませんね。

憲武●キンボンボってオクラのことらしいです。歌詞は料理のことを歌ってるようですね。えーと、このアルバムの8曲めに入ってる「canallon」聴いてみましょうか。


憲武●いいですね。のっけからトランペット高音で。中盤でトランペットのソロを取るおじさんがチャポティーンです。

天気●ハイノート勝負なんですね。耳に痛いわ。

憲武●ヴォーカルは、チャポティーンの楽団専属といってもいいミゲリート・クニー。キッド・クレオールみたいですね。

天気●帽子が粋。

憲武●夏こそサルサです。

天気●暦の上ではもう秋ですけどね。


(最終回まで、あと939夜) 
(次回は西原天気の推薦曲)

【週俳7月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れてⅣ  瀬戸正洋

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【週俳7月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅣ

瀬戸正洋


立秋である。台風13号の影響で雨も降りはじめ、たいぶ涼しくなった。体温以上の気温はからだに堪える。夏日とは、こんなに過ごしやすいものなのかと驚いている。月に一度、予約している歯科医院から、診療機器の不具合から今日の診療はできないという電話が入った。医療機器もこの暑さに耐えていたのかも知れない。

夏風邪の耳鳴り三角縁神獣  加藤知子

耳鳴りとは不快なものである。古代中国の神話の神仙、霊獣が表現され周縁部断面が三角形状に突出したものを「三角縁神獣鏡」という。故意に鏡を外している。「不快」と「鏡」について考えることに意味はあるのかも知れない。

脳の襞さわぐ万緑かがみの間  加藤知子

万緑とは、かがみの中にあるみどり。そのみどりを何枚ものかがみが作者もろとも取り囲んでいく。脳の襞とは脳髄そのもののことだ。万緑にも、かがみにも、ひとにも脳髄はある。その襞が動き始めるのである。

梅雨おんな闇の国から踊りでて  加藤知子

踊ることとは自分自身を表現することではない。自分自身を誤魔化していくことなのかも知れない。梅雨のおんなも闇の国もどこにも存在しない。だから、ひとは踊り続けなければならないのである。存在しない闇の国と梅雨のおんなに出会うために。

湯浴みの時間蜘蛛たれさがる時間  加藤知子

湯浴みをしていたら天井から蜘蛛がたれさがってきた。これは蜘蛛の意志によるものではない。それは、他の意志によるものなのか。それとも、ひとの意志によるものなのか。蜘蛛は、その時間、たれさがったままだ。ひとは湯に入ったまま一向に出る気配がない。

花は実に露出狂なるランナーなる  加藤知子

露出狂は学校の近くに生息するようである。走るということは身体を痛めつけることなのである。花から実となるまでは時間がかかる。「実」とは、果実のことである。「実」とは、嘘偽りのないまごころのことである。「実」とは、物の中心にある固いもののことである。

扇風機菜食主義者ののどぼとけ  加藤知子

菜食主義者を疑っているのである。菜食主義について雄弁に語るひとがいる。そのひとの前では、耳よりも目が働いてしまうのである。菜食主義者の「のどぼとけ」が気になって仕方がないのである。何故ならば、何を話すのかはわかりきっているから。扇風機の首が左右に動くことと同じことだから。

街じゅうに犬のしっぽの林立す  加藤知子

この街は犬に乗っ取られてしまったのである。街を乗っ取られてしまうほど、ひとはおろかなものなのである。犬はしっぽを林立させ権勢を示している。いつのまにか、ひとも犬の真似をして、しっぽを林立させる。もちろん、犬の真似をするものは、ひとしかいない。

いいえ花はどこへ行ったの排卵日  加藤知子

花はどこへ行ったの、の前に「いいえ」と言っている。「そうなんです」とは言ってはいない。何を尋ねられたのかを想像してみればいいのだと思う。「花」と「排卵日」とは近しい関係にあるのだとも思う。

阿蘇白雨ミトコンドリア・イブ撓る  加藤知子

緑におおわれた阿蘇の大地がある。明るい空から急に雨が降る。ミトコンドリアイブ・イブとは愛称だ。現生人類の最も近い共通女系祖先に対して名付けられた愛称のことである。撓るとは何らかの圧力により変化することである。変化について考えてみようと思う。

水上にかさね花びら反抗す  加藤知子

かさなるようにと指示されると花びらでなくても反抗するものなのである。かさねられることは不快なことなのである。はなびらはいちまいで流れに身をまかせていたいと思っているのである。

涼しさの火(ひ)(ごも)りの眸(め)のふたつづつ  紆夜曲雪

ある能力を、そのために使い切るためには、こころとからだ、力の入れ方、それらのバランスが必要なのである。「ふたつづつ」とは、もうひとつあることである。あたりまえのことなのだが、そのことに多少の不安を覚えているのである。火籠りといえば、油日神社の大宮ごもりが有名である。

夢いまだ指にのこれる団扇かな  紆夜曲雪

BARのカウンターで見知らぬ男から聞いた与太話である。

「あなたの肉体を抜け出した魂は、あちこちを彷徨する。その時、経験したことを、眠っているあなたに語りかける。それが『夢』なのだ」と言った。

夢は指に残っているのである。忘れたい夢なのである。思い出したくもない夢なのである。団扇ではたくくらいではとても消えてはくれないのである。自業自得とということなのかも知れない。

燕子花天のごとくに和紙破(や)れて  紆夜曲雪

和紙とはひとのうえにある存在なのである、ひとを越えた存在なのである。それは破れるものだという、壊れるものだともいう。天とは空のことなのである。ひとは天より一生の仕事をあたえられる。燕子花は空から落ちてくる雨により天命をあたえられる。

優曇華や空き家よりこゑある日々の  紆夜曲雪

ひとのいない家からひとの声がする。まいにちのようにひとの声がする。電灯のかさに優曇華がついている。このくさかげろうのたまごに、二千年にいちど咲くという架空の植物の名をつけた。

亡くなったひとの魂の声がする。空き家にまぎれ込んだ浮浪者の声がする。亡くなったひとの魂と浮浪者とがおしゃべりをしている。空き家自身のつぶやきも聞こえる。

生きて会ふその風の世の籐椅子よ  紆夜曲雪

空気が流れ動く現象を「風」という。「風が吹いた」といえば何かのはずみでひとの考えが同じ方向に流れたことである。風のたよりならば、宛先人不明ではなく差出人不明ということだ。どこからともなく伝わってきた知らせ。怪文書のようなものかも知れない。「世」とはひとが社会生活を営んでいる場であり、その間のことをいう。

要するに、まともなものは籐椅子だけなのである。生きるためには籐椅子のことだけを考えればいいのである。

ねむるゆゑをりをりを吊忍なる  紆夜曲雪

ねむる理由は、そのつど吊忍になれば解ると言っている。吊忍であることを自覚すればいいと言っている。崖から滴り落ちる清らかな水を想像すればいいのである。睡魔は風とともに訪れあなたのこころを抱きしめる。

睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ  紆夜曲雪

水はこころが湧かすのである。にやんにやんと湧かすのである。こころが無ければ水は湧かないのである。それは、大地のこころなのである。にゃんにゃんとは大地のこころなのである。睡蓮が水面に花をうかべるのも、大地のこころなのである。

水盤とたなごころ汝をうしなひき  紆夜曲雪

水盤と目とか、水盤と頭ではなく、水盤と「たなごころ」なのである。すこしずらしたところが肝要なのである。その微妙なずれの積み重ねが汝を失った理由なのである。「ずれ」とは怖いものなのである。

すれちがふたびにほたるとなりにける  紆夜曲雪

やさしいひとなのである。相手のこころがわかるのである。蛍の嫌いなひともいるのである。すれちがうのは一瞬である。そのときぐらい相手のこころに寄り添わなければならないのである。そのたびに自分のこころが痛むことはしかたがないことだと諦めなければならないのである。

蟬茸の記憶の紐やかよひあふ  紆夜曲雪

ミンミン蟬のさなぎに寄生する茸を「蟬茸」という。ミンミン蝉の幼虫は土の中で数年間過ごし、成虫になった地上では数日間で死ぬ。他に寄生するものはなかったのかと思う。「蟬茸」もぎりぎりの選択だったのだろう。

冬虫夏草について知ったのは、白土三平の「カムイ外伝」だ。気持ちが悪くなった記憶がある。ストーリーについては全く忘れてしまったが、子どものころ読んだ漫画の不快感を数十年たっても忘れないのだから強烈な作品だったのだろう。

この場合は記憶の紐(を結ぶ)とあるので断片的なものではないのだろう。「かよひあふ」とは、意思疎通が上手くいきよく理解し合えることである。

けものらに乳房ある繪圖柏餅  吉田竜宇

柏餅とは端午の節句に供えるもち菓子である。柏は神道に用いるめでたい葉。乳房ある繪圖は、名所、旧跡、あるいは美術館の掛け軸、屏風、襖に描かれていたものかも知れない。けものとは、全身が毛でおおわれ四足で歩く動物である。ひとでなくけものの乳房であったことへの微妙な違和感が漂う。

コイントスの表裏炎天漂へり  吉田竜宇

ラクビー、サッカー等、スポーツ観戦ではおなじみである。主審がコインを空中にあげて表か裏を決める。コインはどこにでもあるし、裏表は一瞬に決まる。BARのカウンターでも見かけることもある。この場合は、表と裏が炎天に漂うのである。その決定を決めるのは炎天である。重要な決定は、ひとに任せてはいけないのだ。炎天が決めさせることは正しいと思う。

切るは男の一事なるかな河童卷  吉田竜宇

男の一事なのだと思う。この精神は大切なことなのである。常に、男はこうでなくてはならないのである。海苔と米と胡瓜の精神を切るのである。男の精神を切るのである。美しく切らなければならないのだ。カウンターのなかでは鮨職人が包丁を握る。

古書積みし間を行くでなく蟹の歩は  吉田竜宇

運命、まわりあわせのことを「歩」という。してみると蟹とは作者のことなのである。古書積みし「間」を行くとは古書の旅をしたいということなのである。だが、気力が失せ途方に暮れている。ひとには、どんなに気力を持とうと思っても持てない日があるのである。

鶴肉や父母の仲極まれり  吉田竜宇

父母の仲がぎりぎりの状態にまで達したのである。最高の状態に達したのだとしたらあとは下るだけである。最悪の状態だとしたらあとは上るだけである。つまり、一喜一憂とは、どうでもいいということになる。

天然記念物である鶴の肉は夢のなかで食すものだろう。杉田久女には「鶴料理る」という随筆があるという。

天の如く湯豆腐冷めて海のごとし  吉田竜宇 

湯豆腐は天なのである。冷めた湯豆腐は海なのである。冷めた湯豆腐は天でなくなってしまうのである。だから、居酒屋で気楽に「湯豆腐下さい」などと言ってはいけないのである。海に対しても気を使うことは必要なことなのである。

蛇の鬚の瑠璃や茂吉はフアルスを見せ  吉田竜宇

「濃い赤みの青色」を瑠璃色という。仏教の七宝のひとつに瑠璃がある。茂吉のフアルスを見たのは温泉とか銭湯といったところだろう。蛇の鬚から茂吉の陰毛を連想してもいいだろう。茂吉にフアルスを扱った作品があるのかは知らない。

蛇の苦手な私は、この辺で、考えることを止めにしたいと思う。

烈やら忠やら睾丸やらの辛夷咲く  吉田竜宇

「烈」、「忠」とこころの問題を並べ、最後に「睾丸」とからだ、雄の象徴である生殖器を置く。おれは「男」だとでも言っているようだ。辛夷は桜と同じころ咲き、遠くだと桜かと見間違うこともある。辛夷から拳を連想することは、すこし、「右」寄りなのかも知れない。

胎兒が蹴り花野に瓶の棄てどころ  吉田竜宇

私が胎児だったころ母のからだを蹴った記憶はない。私は子を身ごもったことはないので胎児にお腹を蹴られたことはない。底の深い陶製の容器のことを瓶という。瓶に何を入れて秋草の咲く野原に棄てるのだろう。

「火を産む」と朝寢のあとの眞白さに  吉田竜宇

火を産むとは火の神を産むということだ。死とは、ひとそれぞれに異なる。ひとの人生がからみあい複雑なものとなる。だが、出産となるとめでたいというところに落ち着く。ただ、笑っているだけで、その場を誤魔化すことができる。産着も死に装束も真っ白なものである。朝方に見た夢は忘れないという。

夏草の草豊かなる秋田かな  西村麒麟

夏草の草豊かなるとは都会人の感想である。単一の夏草が整然と生えているといったイメージである。水分をたっぷり含んだ雑草が、複雑に生い茂っているという感じではない。秋になれば、豊作、さらに、あきたこまち、ひとめぼれを連想する。

山村に暮らすものにとって夏草とは「刈る」ものなのである。炎天下にひたすら夏草を刈るのである。老人が救急車で運ばれることも多々ある。蜂の巣に刃を入れてしまうこともある。

最近、草刈りを依頼する家が増えてきたという。かわりに草を刈ってくれるひとがいるということは有り難いことだと思う。

蚋を打ちさらに何かに怒りつつ  西村麒麟

子どものころ校庭で蚋に血を吸われた記憶があるが、最近は、滅多にお目にかからない。蚊も連日の猛暑日で、あまりお目にかからなくなった。

蚋に血を吸われ手のひらで打ち殺し怒りを覚えた。その怒りは蚋を殺したことだけに収まらず、怒りの連鎖がはじまったのである。こころが乱れてきたのである。こんなときは気を付けなければならない。こんなときは、何もしないのに限る。怒りに身をまかせているに限るのである。

馬群れてゐる幻や麦の秋  西村麒麟

麦が熟したころ馬が群れているのである。幻を視ることは幸福なことなのである。はかなく消えていってしまうもの、もうすでに消えていってしまったものを視ることは幸福なことなのである。ひとも群れればいいのである。それが、たとえ幻であっても、ひとは群れて生きていけばいいのである。孤独に託けて歪んだ正論を吐くよりも、楽しく、群れて生きていけばいいのである。

踏台を抱へて来たり安居僧  西村麒麟

怠けものの私は修行は苦手である。同じ理由から集団で何かをすることも苦手である。

僧は踏台を抱えて来た。手の届かぬところで何かする予定があったのだろう。踏台とは高い所へ手を伸ばすためのものではない。手の届かぬ所へ手を伸ばすためのものである。踏台を使って低いところのものを取る。これが正しい踏台の使い方なのである。

滝の上に神様がゐて弾みをり  西村麒麟

滝の上に神様がいらっしゃったからこころが弾んだ訳ではない。思い切って余計にお金を奮発した訳でもない。神様のお力で滝の水が弾むように落ちてきたのでもない。

滝の上に神様がいらっしゃつたことで、目に見える何もかもが、本当に弾み出したのである。

千年の宴や滝を一つ見て  西村麒麟

千年の宴といえば京都を連想する。京都の滝といえば東山の清水寺を思う。修学旅行で京都を訪れたひとは、音羽の瀧の水を柄杓ですくい触れてみたはずだ。

明治維新までの千年のあいだ、ここで暮らすひとびとは、ただひたすらに音羽山から流れ落ちる水を眺めていたのだろう。清水寺は平安遷都以前からの歴史を持つ。

白糸の如くに雨や業平忌  西村麒麟

洗濯物が風に揺れている。夕立になる前に取り込んでおこうと思う。そらの神さまが千筋の糸を地上に投げたりしたたら困るからである。千筋の糸とは、そらの神さまが落とすおおきな雨粒のことなのである。それは、浮世絵に描かれた夕立のような雨なのである。ひとが節度を失っていても、そらの神さまは、平安時代から、何も変わらず接してくれるのである。

短夜の門の辺りに灯が少し  西村麒麟

住宅街なのである。概ね、門のあたりには外灯は少ないのである。彼女を家まで送って行ってひとりで帰る。そんな夏の夜の若き日の思い出だったのだろう。老人になると、そんなときはタクシーで送る。あるいは、タクシー代を渡すかで誤魔化す。とても、いっしょに歩いて帰ろうなどとは思わない。

よたよたとみんな大人や夏の家  西村麒麟

大人はみんなよたよたしているのである。老人になればなおさらである。ひとは分別ができるようになると余計なことばかり考える。そのために頭が重たくなるのである。それで、よたよた歩くようになるのである。暑い家の中ならばなおさらのことなのである。

落し文かなと再び拾ひしが  西村麒麟

広葉樹の葉を筒状に巻いた中に産卵して地上に落とす。この葉を落し文に見立てたのである。

昆虫より「公然とは言えないことを文書にして落しておくもの」とした方が面白いのかも知れない。拾って読んでみたもののよくわからないのでそのままにしておく。しばらくして、何故か気になり読み返してみたのである。当然、落し文の内容も、その行為も意味のあることではない。

夕立の潜入捜査永田町  紀本直美

夕立となったから潜入捜査をはじめようと思ったのである。永田町にいるから夕立に出会ったのである。潜入捜査とは密かにやるもので夕立のような激しい捜査などできるものではない。永田町には隠しごとはいくらでもあるだろう。隠しごとを持たないひとなどどこにもいないだろう。見知ったひとも潜入捜査員、見知らぬひとも潜入捜査員。日本国中、誰もかれもが潜入捜査員なのである。

子ども手に抱きたい夕立が降るから  紀本直美

腕ではなく手で抱きたいのである。生まれたばかりなのかも知れない。子どもを守るために抱くのではない。夕立のなか、こころが弾んでいる母親が、子どもといっしょに感動したから抱くのである。母と子は、硝子窓越しに夕立を眺めている。

ねばりとかがんばりとかと夏を病む  紀本直美

病は気からという。意志のちからで病と向き合うのである。割と攻撃的であるひとのようだ。若いひとはこの向き合い方でいいと思う。ところが、老人は守るのである。かわすのである。歳をとると「ねばり」「がんばり」は大敵なのである。そんなことをしたら、すぐに、疲れてしまう。まして、酷暑なのだからなおさらのことである。

八月の終電はみな広島へ  紀本直美

原爆を落とされ、戦争が終わった。あの日から七十三年が経ったのである。あの日から現在まで、日本国中の八月の最終電車はすべて広島に向かうのである。向かわなければならないのである。つまり、これは作者の怒りなのだと思う。

マンホール食べたくなっちゃう炎天下  紀本直美

腹が減ったのである。マンホールが食べたくなったのである。炎天下ならなおさらのことなのである。

旨いものを食べるには高級レストランへ行けばいいというものではない。からだを動かせばいいのだ。汗を流せばいいのである。腹を減らせば何でも旨くなる。こちらが変わればいいのである。数十年前の小学校の教師のことばを思い出した。

脱臼をしたの山椒魚なのに  紀本直美

山椒魚が脱臼するのかなどと考えてはいけないのである。誰でも脱臼ぐらいするのである。だが、「山椒魚なのに」と言っているので、多少疑問もあるのかも知れない。

家の近くに水の湧く神社があった。神社のうしろは崖であり、そこから水が湧いていたのだ。子どものころ、夏になるとそこでよく遊んだ。そこで腹が直角に曲がっている山椒魚を見つけた。バケツに入れたことまでは記憶している。

その山椒魚は、それからどうなったのかは記憶にない。

小さな夜を胸に抱えて海月かな  紀本直美

夜は十人十色である。それぞれ、そのひとにとって相応しい夜がある。こころを癒すために、誰もが貴重な自分の夜を胸に抱えて過ごすのである。海月は水に漂う。ひとは、怨みつらみ哀しみを胸に抱えて夜を漂うのである。まるで、海月のように。

ドアの前立たされたまま誘蛾灯  紀本直美

アパートの扉の前に立たされているのである。招かざる客なのである。こちらだって訪問したい訳ではない。しかたなく訪問するのである。誘蛾灯は、蛾を集めて始末するものではない。ひとを集めるものなのだ。よほど嫌われているのか、ちっとも扉は開かない。

しばらくすると扉は開けられ石油や殺虫剤の置かれた部屋に案内される。

親友が独身になる風薫る  紀本直美

離婚したということなのだろう。独身となった安堵感は、はつなつの風と共に運ばれてくる。結婚しても何も変わらないのだ。離婚しても何も変わらないのだ。この季節になると、ここちよい青葉の風が吹いてくることも何も変わらないのである。

草いきれふつうに家族いる暮らし  紀本直美

草いきれのなかは悪くないと思う。だが、たまに不快になることもある。家族のいる暮しとは、そのようなものなのかも知れない。「草いきれ」とは、「ふつう」とは、いちばん大事なものなのかも知れない。

砂粒をはらひてはこべ摘みにけり  金山桜子

何もしなくても生きていくことはできる。だが、何もしないで生きていくことは不安なのである。だから、はこべを摘んだのである。砂粒を払ってはこべを摘んだのである。はこべとは、春の七草のひとつである。藤村の「小諸なる古城のほとり」にも登場する。

橋脚を照らしてゐたり春の水  金山桜子

橋脚とは垂直力、水平力にも耐えなければならい。つまり、全体からの荷重、流圧、風圧、地震に耐えることができなければならないのである。太陽のひかりが春の水面に反射して橋脚をゆらゆらと照らしている。それにも橋脚は耐えなければならないのである。

引きあへる力もて揺れ蝌蚪の紐  金山桜子

悩んでいるのである。迷っているのである。蝌蚪の紐が揺れているのを見ているのである。前へ進むために蝌蚪は紐を揺らしているのではない。何か異なる力、他者による引き合う力によって揺れているのである。前へ進まなければならない理由など何もないのである。

麦青む長距離トラック魚を積み  金山桜子

長距離トラックは麦に誘われたのである。積まれている魚は、そのことに同意したのである。故に、長距離トラックは脇道にそれ麦畑を走っている。

同じことの繰り返しは空しい。そして、疲れる。たまには、こんな日も必要なのである。長距離トラックは国道、あるいは高速道路を走るものなのである。

銀細工商ふ窓のヒヤシンス  金山桜子

商店街のはずれ、あるいは観光地の、ひっそりとした銀細工だけを売る店のように思われる。商うという古風なことばからそんな感じがした。ヒヤシンスはあざやかな花である。銀細工よりもあざやかだと思う。商う銀細工と窓辺に飾られたヒヤシンス。店の扉を開けると老婦人があらわれるような気がする。

夏至きのふ洗ひざらしの藍を着て  金山桜子

夏至の日の翌日、洗いざらしの藍染を着たのである。目的があって、あるいは何か理由があって着たのではない。たまたま、洗いざらしの藍染が目に留まったから着たのである。

人生とは、そういうものだと思う。

地球儀の子午線のずれ夏休み  金山桜子

子午線は無数にある。子午線もずれることはある。地球儀だからずれていたのか。何故、地球儀の子午線がずれていることが解ったのか。夏休みがはじまる前はずれていなかったのか。夏休みが終われば、そのずれは解消されるのか。

夏休みの地球儀の子午線はずれているらしい。

展示せる臼歯に触れてパナマ帽  金山桜子

パナマ帽とは紳士の正装である。正装の紳士が展示されている臼歯に触れたのである。いちばん奥の歯に触れたのである。あたりを見まわし、そっと指でふれてみる。意志によるものではなく、目的があるわけでもなく、展示されているいちばん奥の歯に正装の紳士の指が触れたのである。

マンモスの肋くぐりて涼しさよ  金山桜子

マンモスの模型が展示されている。気楽にマンモスと触れあうことができる公共施設のようなところなのだろう。肋の下を通り抜けたとき涼しさを感じた。涼しさとは、平然としている、いさぎよい、潔白であるという意味もある。平和な時代であることを忘れてはいけないと思う。

汗の子のかうべ重たく梳る  金山桜子

髪を櫛でとかしたのである。汗で濡れた子どもの髪をとかしたのである。汗で濡れた子どもの髪は重たく感じるのである。不思議なことだが、特に、重たく感じるのである。いつも、重たく感じるのである。遊びの質量と汗の髪の重さは正比例するのである。

はつなつの樹上生活ほーいほーい  秋月祐一

樹上生活にあこがれている。「はつなつ」をひらがな標記にしたこと、下五を「ほーいほーい」としていることから、そのように感じた。樹上生活などできるはずもなく、おとなになればひとつの空想に過ぎない。子どものころの夏休みの体験がその基礎になっているのかも知れない。

酔郷譚ぱたんと閉ぢる夏の宵  秋月祐一

学生のころ倉橋由美子は書店に並んでいた。文庫本も含めて二、三冊は持っているはずだ。「パルタイ」「大人のための残酷童話」は、内容は忘れてしまっているが読んだと思う。

書棚を引っ掻き回していたら、文藝春秋社刊「パルタイ」が出て来た。七百二十円とある。もちろん、初版本ではなく袴もなく「1974年9月15日第22刷」とあった。カバーは、黒、タイトルの文字は、赤であり、(背文字は白)ページの外側は、黒く塗られていた。初版本しか興味のない私が持っているのだから、装丁が気に入ったのだと思う。十数年前に亡くなっていたことは知らなかった。

高糖度トマトみたいな日々でした  秋月祐一

私にとってトマトとは、大小ありごつごつしていてバケツか何かに入れられ流れている井戸水で冷やされている。そんなイメージである。高糖度トマトをはじめて食べたのは、とあるBARのカウンターであった。「高糖度」と鉛筆で原稿用紙に書いてみると何故か不健康な気がする。高糖度ということばそのものも不自然な感じがする。

餃子屋には餃子の幽霊でるといふ  秋月祐一

あたりまえのことなのである。餃子屋には餃子の怨念が満ち溢れている。幽霊が出ることはあたりまえのことなのである。餃子を食べ誰もがその旨さを感じる。その幸せだと思った分のマイナスを引き受けるのが餃子の幽霊なのである。餃子の幽霊の責任なのである。

餃子屋であるのだから、それが餃子であったということは、ごく自然なことなのである。

だが、ときどき、向かいに座ったひとが、そのマイナスを引き受けることもあるのである。

職やめる決意ぐらりと夜の蟻  秋月祐一

夜の蟻というと畳のうえでよく見かける。黒いおおきな蟻が、あちこち歩き回っている。きりぎりすにはなれなかったということなのである。それは、正しい選択であったと思う。ただ、ぐらりとしなかったらどうなったのかということも、ゆっくり考えてみることも必要なことだと思う。

夏燕どこへ行くにも自転車で  秋月祐一

都会暮らしのひとなのだと思う。夏燕のようにどこへでも行けるだろう。山村に暮らしていると自転車は疲れる。引いて歩かなければならない場所がいくらでもあるからである。下り坂もあるが、下り坂はそれなりに危険でもある。急カーブで畑に落ちることもある。よろけて川に落ちることもある。

柿若葉ひげも剃らずに会ひにきて  秋月祐一

喜んでいるのだか怒っているのか「ひげも剃らずに会ひにきて」だけなら、よくわからない。身振り手振り、ことばのイントネーションが加わることではっきりするのだ。幸福になるために会いに来たのであろう。柿の葉はかたい。柿の若葉ならいくぶんやわらかい。そういうことなんだろうと思う。

夏雲のレイヤーの数かぞへをり  秋月祐一

気象に関係ある仕事をしているのだろう。夏雲だからレイヤーの数をかぞえたくなったのだろう。晴れた日の入道雲はこころがわくわくする。講演会、あるいは研修会の休憩時間、冷房の効いたホテルの高層の窓から夏空を眺めほっとした経験は誰にもあるだろう。

小顔かつマッチョな猫や夏座敷  秋月祐一

小顔でマッチョにあこがれているのだろう。猫でさえその視点が基準となる。風を入れるため襖、障子など開けっ放しにしておく。猫もやすやすと座敷に入り込んでくる。小顔、マッチョな猫、確かに、夏向きといえば夏向きなのかも知れない。

バタフライ効果あるいは水中花  秋月祐一

実力のないひとにとって「バタフライ効果」とは、唯一、頼りにすべきものなのかも知れない。たが、「非常に些細な小さなこと」を知るということもひとつの能力である。作者が「あるいは」ということばにたどり着いたとき、すでに「水中花」の存在など忘れてしまっているのかも知れない。

台風13号は関東地方直撃のおそれがあるという。暑さがやわらぐのはうれしいが、暴風、大雨、洪水等、自然災害の脅威が、私たちを取り囲み、少しずつだが確実に迫りはじめている。猛暑日の多さもそのひとつなのだろう。老人のからだには、この暑さは本当に堪えるのだ。この台風が無事に通過して、涼しくなることを願う。


加藤知子 花はどこへ 10句 読む
紆夜曲雪 Snail's House 10句 読む
吉田竜宇 炎上譚 読む
西村麒麟 秋田 10句 読む
紀本直美 夕立が降るから 10句 読む  
金山桜子 藍を着て 10句 読む
秋月祐一 はつなつの 10句 読む

【週俳7月の俳句を読む】縦と横 鈴木茂雄

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【週俳7月の俳句を読む】
縦と横

鈴木茂雄


ふと思ったのだが、キーボードを指で打つ軽快さを得た代償として、文字を線でたどって紙の上に言葉を綴るという楽しみを失くしたような気がする。それと同じように俳句を横書きで書いたり(打ったり)読んだりするようになって、縦書きの俳句を上の句から下の句まで一気に読み下し再びもとに戻っては一句全体に反響させるという俳句的読書法、いわゆる「行きて帰る心」の味わいを忘れてしまっていることに気がつくときがある。「俳句はやっぱり手書き、縦書きが似合う。」(Twitter)そんなことをつぶやいたあとにこの「俳句を読む」の原稿依頼のメールが届いた。届いたタイミングがわたしには偶然と思えず、今回はこのことに触れて書こうと思う。

湯浴みの時間蜘蛛たれさがる時間     加藤知子

ネット上の横書きの俳句は、ときにキャッチコピーのようにコトバがきらきらして縦書きより訴求力がある(ように思える)。タップダンスのような軽快さを体感する。だが、その代わりに縦書きの俳句を読むときに覚える立句の重厚感と言ったものが奪われたような気がしてならない。いずれにしても、横書き俳句を読むときは、これらの呪縛から心を解放させてやる必要があるだろう。

たとえば上掲の句がそうだ。なんと横書きのよく似合う俳句だろう。一読、キャッチコピーのように横に一列に並んだ文字がいっせいに目に飛び込んでくる。左から右へと視点を移動させると、「湯浴みの時間」と「蜘蛛たれさがる時間」の二つのまとまった文字列が右から左へと電光掲示板のように流れ出す。だが、よく見ると、ときどき流れが左から右へ逆流しているようにみえる。目の前をさっと流れ去ったようにみえて、実際はあの電光掲示板のように右から左へ何度も繰り返して文字は現れる。一瞬、文字は逆流してはまたもとの位置に現れるのだが、その文字がコトバになって具体的な像として立ち上がろうとしないのだ。横書きを横書きのままで読むといつもこうである。

縦書きにして読むとどうだろう。ノートに書かれたものや句集に収められた縦書きの作品になったときの印象を思い浮かべてみよう。上から下へ読み下す。すると、文字の周囲に白い空間がひろがる。紙に刻まれた文字が凹凸をともなうコトバとなってにわかに浮かび上がろうとする。「湯浴み」と読んだ瞬間に「時間」はそこでいったん静止し、白紙に描かれた、やがて裸体になるであろう輪郭から、微かな湯気と共に滲み出てきた泡のようなものがむくむくと湧き立ち、まだ形をなしていないものが形をなそうとして起き上がり、色に染まり、陰影を深め、豊満な肉体を自ら形作ろうとする。「湯浴みをする女」だ。そう思ってしばらく眺めていると、こんどはまなじりに静止していた「蜘蛛たれさがる時間」がじりじりと小刻みに動き出す。

その瞬間、わたしは読み手から書き手の位置へと移動する。いやそうではない。読み手から書き手へと変身するのだ。湯浴みする女を眺めていたはずのわたし自身が気がつくと浴槽に浸かっていて、天井から垂れ下がっている蜘蛛を見上げているのである。すると今度はまた色彩のついた「湯浴みの時間」から「蜘蛛たれさがる時間」というモノクロの世界へテレポートしてしまう。「湯浴み」や「蜘蛛」と対峙する視点が変わったのではなく、視点の主体そのものが変わったのである。

この句を書いた(もちろん縦書きで)作者自身も書き上げたものを上から下へと何度も読み返しては推敲しているうちに読み手に変身して、しばらくは行きて帰る心を味わって読んだことだろう。縦書きの一行詩には行きて帰る心が作動する装置がある、ということをあらためて知る一句となった。

しかし、それにしても、入浴することを「湯浴み」と言ったり、蜘蛛が垂れ下がっているという情景はどこか現実離れしていることを暗示していて、しかもこの「時間」は時の流れのある一点からある一点までの「時の長さ」のことなのか、時の流れのある一点の「時刻」のことを言っているのか、よくわからない。入浴しているときに蜘蛛が垂れ下がってくるという、これは作者にとって日常的な空間なのか、それともそれとは異なる世界のことなのかということも、よくわからない。湯浴みの時間/蜘蛛たれさがる時間、というこんな単純なフレーズだというのに、単純なフレーズゆえにコトバの交差が理性では合理的な解釈ができないシュールな世界へと読者をいざなう。

ただ、注目したのは「たれさがる」という平仮名表記の箇所。それが意図的であっても無意識の結果であっても、かぎりなく透明に近い蜘蛛の糸を描こうとしているのに違いなく、それは作者の奥深い所にひそんだ意識と深く繋がろうとしている心の表れにほかならないと思うのだが、どうだろう。

このほか印象に残った作品を挙げておこう。

脳の襞さわぐ万緑かがみの間     加藤知子

よたよたとみんな大人や夏の家     西村麒麟

八月の終電はみな広島へ     紀本直美

地球儀の子午線のずれ夏休み    金山桜子

高糖度トマトみたいな日々でした     秋月祐一




加藤知子 花はどこへ 10句 読む
紆夜曲雪 Snail's House 10句 読む
吉田竜宇 炎上譚 読む
西村麒麟 秋田 10句 読む
紀本直美 夕立が降るから 10句 読む  
金山桜子 藍を着て 10句 読む
秋月祐一 はつなつの 10句 読む

【俳人インタビュー】三宅やよいさんへの10の質問

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【俳人インタビュー
三宅やよいさんへの10質問


質問:西原天気
Q1 今週、何句作りました?

週末に句会があるので、たぶん4、5句作ると思います(予定)。

Q2 きょう、朝起きてから2~3時間の行動をできるだけ詳しく(公表できる範囲で)教えてください。

朝5時半に起きて連れ合いが老犬の散歩に出かけている間に朝食の準備。食べないで出勤するということはここ10年を振り返ってみてもないです。6時から食事開始。

6時25分から10分間教育テレビのラジオ体操。これは職場の同僚に教えてもらってからここ5年続けている習慣。おかげで肩こりがすっかりよくなりました。

7時から出かける用意をして、7時半には老犬のためにクーラーのスイッチをオンにして駅へ。準急に乗れば40分内で職場につきますが、ここはあえて隣の駅発の鈍行に乗り換え読書をしたり、句を作ったり。15分余計にかかりますが、座ってゆっくり行けます。いただいた俳誌や句集を読むのはたいていこの時間。9時に出勤をした後はひたすら昼に何を食べに行くか考えています。

Q3 現在お住まいの町は、どんなところですか?

上智の神学部にある桜の巨木が毎年見事な花を見せてくれます。石神井川沿いの桜並木も散歩コースにぴったりだったのですが河川改修工事でだいぶ切られてしまいました(気に入っている枝垂れ桜は無事でした)。練馬らしくのんびりした場所です。

Q4 行ってみたい海外の国/都市/場所を教えてください。

海外にあまり興味はなくて、高知県。ここに行けば47都道府県すべてを訪れたことになるので。

Q5 はじめてつくった句を憶えていますか?

俳句を始めた大阪の朝日カルチャーの句会で最初に出した句が「ぱらり撒く音符のような貝割菜」。点を入れてもらえるかどうか心配でバスの中で呪文のように唱えていたので憶えています。

Q6 どういうわけか、雄鶏を飼うことになりました。なんて名前を付けますか?

バグ。雄鶏ってうるさくて面倒くさそうなので、何となく。

Q7 目が覚めました。何十時間も眠ってしまったらしく、おなかがぺこぺこです。何を食べますか。

桃。

Q8 いま読んでいる本を教えてください。

だいたいいつも3冊ぐらいを平行して読んでいます。西崎憲編訳の『怪奇小説日和』同じシリーズの『短編小説日和』。『病短編小説集』のドリス・レッシングの『19号室へ』が印象深かったので同じ作者の『草は歌っている』を読んでいるところです。

Q9 10年後は何をしていると思いますか? どんな状態でいたいですか?

海が眺められる町か、温泉のある町で犬を飼って暮らしたい。

Q10  好きな自然現象について、教えてください。

台風一過のあとの青空。


三宅やよい 近作十句

手袋に手を暗くしてさようなら

録音のテープにノイズ沖に鮫

春はあけぼの西川ローズ羽根布団

筍をつめたリックサックの凸凹

ワイファイを空に飛ばしてパセリの香

たそがれをつまみそこねた碧揚羽

剃り味のよき剃刀を手にダリア

グラビアの菊池桃子へ海鞘の水

風の島蝶に火の色海の色 

蚊遣香間取り図になき隠し部屋

出会いで終わるとは思えない 2018年7月21日(土)関西現代俳句協会青年部勉強会『句集はどこへ行くのか』レポート 樫本由貴 序:久留島元

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出会いで終わるとは思えない
2018年7月21日(土)関西現代俳句協会青年部勉強会『句集はどこへ行くのか』レポート

樫本由貴  序:久留島元


2018年7月21日(土)、関西現代俳句協会青年部勉強会『句集はどこへ行くのか』が
大阪、梅田パシフィックビル会議室で開催された。
話題提供は、田島健一、鴇田智哉、福田若之、宮﨑莉々香、宮本佳世乃、現代俳句協会から野口裕、歌人から牛隆祐、柳人から八上桐子。司会は関西現代俳句協会青年部部長の久留島元。
当日は、現代の出版状況の変化をふまえ、短詩型をめぐる書籍の出版、流通についてさ
まざまな視点から議論がなされた。このレポートは参加者のひとり、現代俳句協会の樫
本由貴による報告である。
樫本には当日レポートを依頼したため、録音などの正確な記録ではなく、記憶とメモに
もとづき執筆いただいたが、発言者の確認、校正をへて掲載するものである。
談論風発、多岐にわたる問題が提起された刺激的な議論の様子が伝われば幸いである。
以上、久留島記。

*****
敬称略。発言は適宜要約し、必要と思われた箇所には()で注を付けた。

○句集を編集すること

まず、「オルガン」11号(2017年11月)について。
ここでは、座談会「宮﨑莉々香からの質問状~句集って~」というテーマ設定で、以下の三つの質問状が出されている(以下、質問文は当該箇所の引用)。
①(句集を編む行為について)横書きの俳句を意図的に句集に入れることについてどう思いますか。また、まとめるという行為には必然的に「らしさ」が付きまとってくると思うのですが、「俳句」らしさに抗いたいと思いましたか? どんな風にどのくらい抗いながら、どのくらい「俳句」らしさに乗っかろうと思いましたか。
②(句集として)句集を作った際に、その本がどのようなものとしてありたいと思いましたか。また、あえて自分で規定することを行いましたか。
③(句集を出すこと自体について)短歌の世界には書肆侃々房の「新鋭短歌シリーズ」があり、若手が本を出すことを支援する一つのプロジェクトとして成功しているのではないかと思います。俳句にはこのような仕組みはない上に、名刺としての第一句集を要求されます。これについてどう思いますか。
座談会では、これらを柱として様々な問題提起が行われた。いわゆる俳句らしさとは縦書き/横書きによって担保されている側面があるのではないかという疑問と考察、句集を出すことや句を書くことそのものが、自身を俳句表現史上に置く行為であること、そして、読者が俳句を読むときに、句集の果たす役割についてなどである。

座談会時に提起された宮﨑の質問の①と②について、その意図が本人から次のように説明された。

①には、句集を編集する際には、それを一冊の本として差し出すことが意識され、句を並べることやどう見せるかといったことが俳句を書くうえで、あるいは俳句史としての立ち位置を表すことが付け加えられた。また、②には、宮﨑は句集とは自分の立ち位置を示すものだという認識を示したうえで、それがどんなものであれば読者に届くかということが聞きたい、と付け加えられた。

本にする際の編集について野口、牛、八上から次のように応答があった。
野口:見た目の話であれば、縦書き/横書きではなく、縦組み/横組みという言葉の方が正しいと思う。野間幸恵に『WATER WAX』(あざみエージェント 2016年)という横組みの句集があるが、手に取ったとき、それにはそんなに驚かなかった。もう横組みの本は受容される文化ではないか。ただし、俳句を横組みにする場合、左揃えは不格好になる。『WATER WAX』は中央揃え。縦組みは悪い意味での俳句らしさの残り、気取りであるような気がする。

(樫本注:「オルガン」11号の座談会では、宮﨑の質問の③で、俳句には短歌の「新鋭短歌シリーズ」(書肆侃々房)のように、若手が安く句集を出せる仕組みがないにもかかわらず、名刺としての第一句集を要求されるということへの不満が付け加えられていた。以下はこういった流れを受けての回答。)書肆侃々房の「新鋭短歌シリーズ」は玉石混淆。最初はあそこからは出したくないという人もいた。シリーズものだから全国の書店に全部が並ぶ。そして中でもいい人の歌集が売れて、賞も取った。そうなるとシリーズ全体への見る目が変わった。

八上:川柳はもともと句集を残さない、書き捨ての文芸だった。近ごろは、短歌同様シリーズで出版されることが増えた。自分自身の場合(樫本注:『hibi』(港の人 2018年))は、出版社への強いこだわりがあって、どうしても本の最後に「港の人」と入れたかった。どう句集を差し出すかというと、読まれるように届けたい、読み手に届いてほしい。私淑した方の遺句集を作ったときも同じ気持ちだった。自分の句集はあまり謹呈せず、買ってもらったが、それは売りたい(樫本注:利益を得たいという意)ということと同義ではない。葉ね文庫に自分の句集をおいてもらったら、歌人が買ってくれて嬉しかった。
「本」としてどう作るかを中心とした応答に対し、田島・福田からは本を作る行為に関わる人々や読者を想像することも必要だという発言があった。
田島:句集はもう出しちゃったもの。それをブックデザインとして語るのは俺たちの仕事じゃない。短歌は『サラダ記念日』(俵万智 河出書房新社 1987年)が1987年に大ヒットした。俳句も同じポジションの人を探したが、その頃の若手女流の中心は片山由美子さんらで、黛まどかも角川俳句賞の奨励賞を取ったりしたが、結局“俵万智”は出ずに、結社の時代に入った。句集は売れたことがないゆえに、“俳句らしさとは何か”という議論が出ないままになってしまった。昭和の時代には句集に関する話は出てこない。消費の時代に入ったから、句集というモノが語られるようになった。句集がどういう風に読まれていくのかが分からない。こういうことの方が気になる。

福田:俳句の場合、自費出版が多いこともあってか、句集のかたちを決めるにあたって作者の裁量に委ねられるところが大きいということが言えると思うが、それでも、一般的に言って、本は一人で作るものではないという点に留意する必要がある。編集、版元、流通、装丁、そして、喩えでなしに読者が作る部分だってある……どこまでを僕らが語るべきなのか?

○「俳句らしさ」について

田島から「俳句らしさ」という言葉が出たことに宮﨑、鴇田が反応した。
宮﨑:「俳句らしさ」というと、私の俳句は「川柳や短歌のようだ」といわれる。でも私は私が俳句と思えばそうだと思っている。見た目で作品を規定したくはない。俳句をどう思っていて、どう書きたいか、それを支えるための編集ではないか。何かが主張として現れているというのは俳句じゃない。俳句と対峙した時に見えるものが自分らしさになってほしい。

鴇田:俳句らしさは人それぞれ。自分でいうなら五七五。溜まったものをどう見せるかは一句一句の延長にある。
宮﨑の経験について、野口から「マウンティングみたいなものだ」という発言があった。田島はそこから話題を出版に至るまでの文化に広げた。
田島:マウンティングはそもそもある。関係性の話になってくることだから。句集も、「先生に評価されたものを提示する」文化。書きおろしが文化としてないのも、先生優先の文化があるから。

宮本:マウンティングの関係では、そもそも「句集を出すのに順番がある」という雰囲気がある。句集を出せばたとえば俳句協会の新人賞の対象になりもするから。しかし、こういう結社内・結社間の話だけで納められないものが多くあるのでは。

福田:「俳句らしさ」とは何かという問いかけは本質的じゃないと思う。このぼんやりしたもの、みおぼえのあるものに、「抗う」ということに、宮﨑の問いかけの核心があるように思う。たとえば、「タンクローリー」を題に一句を書くとする。厳格な有季定型の立場をとるなら、この七音に加えて、取り合わせる季題にも音数を取られるわけで、付け加えられる言葉はほとんどなくなる。必然的に、取り合わせの妙で勝負をせざるをえない。無季の立場をとるなら、一物仕立ての句も可能になるだろうし、季題に費やされたはずの音数が余る。その音数は、何かほかに費やすか、そうでないなら、音数そのものを減らさざるをえない。このように、形式というのは、ある点を変えれば、他の点も自ずから違ってくるもので、諸要素が相互に複雑に絡み合っている。ある点を新しくしようとすれば、他の点も自ずから変化する。だから、俳句らしさに抗うというのは、本当は、明確な一点のもとでの抗いではありえない。たとえば、句集の組み方を縦組みから横組みにした場合、文字のかたちがそうなっている(樫本注:ひらがなは横書きにしたとき、連綿が起こりにくい)がゆえに、「の」で切れる型の俳句をすこし作りやすくなるということがあるかもしれない。つまり、字の組み方を変えるという選択が、おのずから、書かれる句の切れ字にまで思わぬ変化をきたすということ。こうした変化は、作者の意図しないところで無数に起こる。
他に「俳句では、加藤郁乎に、その名も当て字で『佳氣颪』(コーベブックス 1977年)というタイトルの、書き下ろしの句集がある。逆に言えば、それがひとつの特色になるぐらい、書き下ろしの句集というのは珍しいように思う。書き下ろしは川柳や短歌にはあるか」と福田から質問があった。八上・牛ともに基本的には「ない」という返答だったが、短歌では『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(木下龍也・岡野大嗣 ナナロク社 2017年)が挙げられた。川柳ではとあるテーマでまとめられたものはあるが、それは書きおろしではないということだった。
また、俳句、短歌、川柳すべてに言えることであるが、賞や結社への投稿を考えると、一冊全て書き下ろす行為は、もったいないという考えもあるのではないかということが確認された。

ここまでで二時間。あとの一時間はフロアからの質問の時間となった。 

①「オルガン」11号の座談会で宮本さんが「私の『自生地』になっていく」と発言されたようなことについて、句集を読むことそのものの快楽を聞きたい。また、句集を出したことで出会えた読み手、嬉しかった経験などはあるか。
宮本:「私の~」の発言は愛着という意味。本になり、紙になることで、開き癖がついたり、時間的にも物質的にも所有することができる。自分から本に近づくことができる。句集を出して良かったことは、自分の知らない読者に届くこと。一冊となることで作者としての顔を示しやすくなること。

田島:「〈西日暮里から稲妻見えている健康〉という句があるが、それを「自分のことです!」といった人がいた。そんなことは全くないのだが(笑)、その人に句が実体化することがあるというのが面白かった。

福田:句集を出した側からは、読み手の顔はそれについて語ってくれる人以外基本的には見えないことを一つ言っておきたい。Twitterで、ディスレクシア(識字困難)の子供に家族の方が『自生地』を薦めたら、「どハマリ」したというツイートがあった。それを聞いた時、この句集をこのかたちで出すことができてよかったと思った。

鴇田:編集や、組んだところで共感してもらえたのがよかった。目次や紙質についてとか。

野口:版元が送った、知らない人から反応がきて驚いた。

八上:いろんな人から感想を貰ったこと。句集を出すと今までを振り返って何をどう書いたかが分かる。尻尾を切り離したような気持ち。
ここで田島から、「さっき、俳句は消費の文化に入ってしまったと言ったが、俳句の消費は“作る”ことだと思う。短歌はどうか」と牛に対して質問があった。
:短歌に純粋読者かどうかみたいな区別は要らないと思う。

田島:俳句に穂村弘や枡野浩一がいないのはなぜか。自分としては、虚子がいて、虚子がいたから結局みんな彼に戻ってしまったことがあると思う。短歌は、歌壇が俵万智や穂村弘も「短歌ですよ」みたいな顔をする。それはなぜかというと、売れているからでは。

②そもそもなぜ句集を出したのか
八上:どうせ出しても反応はないと思っていた。葉ね文庫さんでの「葉ねのかべ」(樫本注:葉ね文庫の壁面を利用して行われる、詩歌×アートの作品発表プロジェクト)で、「句集ないの?」と言われて出そうと思った。句集を出さないと一人前じゃない、みたいな言葉からは、子供を産まないと、と同じような印象を受けていた。

:歌集を出していないのは、歌人でありながら短歌の部外者でもありたいから。結社無所属、歌集を出さない、新人賞に出さないことをスタンスにしている。

野口:句会などではできるだけテクニカルタームを出さずに話したいと思っている。しかし、「句集にあったら○○だね」と言ってしまうことがあって、それなら句集を出さないといけないだろうと。

鴇田:今出そう、と思えたから。形ができてしまって、自己模倣してしまう。客観視のために出した。

福田:個人句集を出そうという考えを持ったのは、『俳コレ』(邑書林 2012年)の時に自作がまとめて掲載されたのがきっかけ。いつ第一句集を出すかとは考えていて、でも、ずっと現実的な問題があると感じていた。縁があって、そこからはあっけないくらいとんとん拍子に行ってしまった。

宮﨑:出すときがあれば出す。試したいことはある。句集を出すことによって作家像を規定されたくはない。

田島:俳句史的な位置取りは知らないつもり。家族に勧められたから「みんながいいなら……」と結婚式と同じような感じで出した。

宮本:2012年に現代俳句協会青年部で「句集のゆくえ」という勉強会を開催した。そのときに、山田耕司さんが「たまっちゃったから出した」と仰っていたのが印象的だった。句集出版について改めて考える機会となり、若手の句集を出す企画が現俳協で立ち上がったときに、現俳協の多大な協力を得て出版することができた。

③なぜ句集という媒体なのか。纏めて読んでもらうなら、100句でも200句でも、電子書籍やメールマガジンでもいいように思う。「紙の意義」を知りたい。
田島:電子は読まれない。所有するという感覚が、さっきも愛着という話が出たが、大事なのでは。というか、別に句集もそんなに読まれてはない。大事なのは作者が何を書こうとしているのかというところと、何を書いたのかというところ。句集は書かれたもの以上にはならない。

福田:情報として句を伝えるのであればネットでいいが、それ以上のものを届けたいと思うときに、句集を本として出すことに意義が生まれるのではないか。

鴇田:活字や本は読んでもらえる感じがする。

野口:ネットは情報量が膨大で編集がいまいち追いついていない。故人のFacebookがまだあったりするのには違和感がある。

:ネットは消せてしまう。なかったことにできる。ただ、最近の発達を見ていると、手書きでiPad上に書けたりもして、紙と電子区別なくできるようになるのではと思う。

④句集は売れない。書店で売ることについて作者はどう思うか。
⑤「新鋭短歌シリーズ」など、短歌は棚で映える。俳句はそこをどう思うか、売られるときのことを考えたりはするか。

田島:大事なのは何を書こうとしているのか。ここを書店にもアピールしてほしいが、本当か総合誌がやればいいこと。売れないからできないというのが……。

福田:発信についての質問だと思う。売る、という言葉だと議論が卑近になってしまうと思う。むしろ、市販という言葉の、とりわけ“市”の字の意味をを考えることに意義があると感じる。“市”というのは、多様なひとびとが行き交う空間。句集を市販するというのは、その多様なひとびとに向かってそれを投げ出すということ。まちがって届くということに、句集を市販することの可能性はあると思う。書店は、そこを支えてくれている。
ここで時間となった。

「オルガン」メンバー含めて総勢8名が、それぞれの言葉を拾いながらの対話だったので、話題は常に転換・拡張した。句集について、何か一つに対して集中的に議論があったというわけではないので、話題を取り上げる一助となればと思い、フロアからの質問について付け加えておく。実はフロアからの発言の一つ目、読むことの快楽、出会えて嬉しかった読み手についての質問は筆者によるものだ。

週刊俳句に掲載された、「遺句集じゃダメなんですか 現代俳句協会青年部勉強会「句集のゆくえ」雑感」(週刊俳句 第257号2012年3月)で、西原天気氏が、関悦史氏の「ひとりでも奨めてくれる人、自分の句集が読みたいという人がいれば、出すべき」という発言を受けて、「これはこれで説得力があった。ひとりの人の「読みたい」という欲望にできるかぎり応えるという態度は、「句集なんて出さないよ」と粋がるよりも、はるかに心優しく、きよらかで、少なくも自分中心ではない」と述べたことや、「個人句集の300句を読めば、それは300の句を経験するという以上に(あるいは同時に)、句と作者の直接的/間接的関係を300句ぶん経験することだ。一句一句の俳句を楽しむのとは、また別の、格別の句集の楽しみがある」と示唆したような、「誰かの〈読む〉欲望と関係を結」ぶことについての発言を期待してのものだった。「オルガン」のメンバーが、書き手としては非常に強い意識のもとで俳句や句集に関わっていることは勉強会の中でも、あるいはそれ以前の活動を見ていてもわかる。前半の対話の中で、すでに宮﨑からは見た目レベルの編集で、それがなにか俳句を規定する/されることになるのは避けたい、という旨の発言も出ていた。一方、田島からはブックデザインの話は「俺たちの仕事じゃない」とし、句集がどう読まれていくのかということを考えるほうに興味があるという趣旨の話もあった。

筆者は、となれば、パネラーのうちすでに句集を出した7人は、どのような「読まれる」経験をし、その中で特に何を喜びとしたのかということを聞きたかったのである。筆者としては、「オルガン」メンバーは、読者側に高次の読解能力であったり、書き手の編集の苦心をくみ取ったりできることを要求する思いがあったのではないかと考えていた。「出会えた読み手」というくくりが甘かったかとも思うが、結果的にこの質問には、鴇田だけが句集を作るときにある種の“スキル”が必要な目次づくりや紙の選定を“読まれた”ことを挙げた。

これは本当に意外だった。筆者は句集を出したことがないし、連作を誰かに読まれるという経験もわずかしかない。しかし、その僅かな経験のなかで、連作を表面的・内面的に(それを筆者自身が意図していたかは別として)読み明かされたときの喜びは鮮烈だったからだ。快感といってもいい。だから、句集を読み明かされることの経験があれば、それを一番に挙げるのでは、と思っていた。想定していた回答は出てこなかったわけだが、かえって、句集が結ぶ書き手と読み手の関係を思わされた。読み手は「〈読む〉欲望」を潜在的に持ち、あるいは句集を読むことでさらなる「〈読む〉欲望」を引き出される。そして書き手は欲望を原動力としたさらなる読みによって照らされることがあるはずだ。もちろん、意外な人まで届いた、想定しなかった人がかけがえのない経験をしてくれた、という出会いの体験は、読む/読まれるの経験と優劣がつくものではないが、筆者には、句集を出すことの喜びが出会いで終わるとは思えないのである。

「句集はどこへゆくのか」という問いの一つの答えは「読者のもとへゆく」だろう。田島からこの読者や句集を読むことについての示唆があったことが、この勉強会の大きな収穫だと感じている。

週刊俳句 第590号 2018年8月12日

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第590号
2018年8月12日


俳人インタビュー
三宅やよいさんへの10の質問 ≫読む

出会いで終わるとは思えない
関西現代俳句協会青年部勉強会『句集はどこへ行くのか』レポート……樫本由貴(序:久留島元) ≫読む

【週俳7月の俳句を読む】
鈴木茂雄 縦と横 ≫読む

瀬戸正洋 雑文書いて日が暮れてⅢ ≫読む

中嶋憲武西原天気の音楽千夜一夜】
第62回 フェリックス・チャポティーン「キンボンボ」 ≫読む

2018年6月から約2か月間にわたるコメント欄の不具合・不手際について+コメント欄の仕様変更のお知らせ
……西原天気 ≫読む

週刊俳句はどのように「10句作品」を執筆依頼しているのか
菅原慎矢(第五回芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞) さんの
コメントを機に
……西原天気 ≫読む


〔今週号の表紙〕キアシシギ……岡田由季 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……村田 篠 ≫読む

 
新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ≫読む
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』のお知らせ≫見る

後記+プロフィール591

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後記 ◆ 西原天気


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no.591/2018-8-19 profile

森尾ようこ もりお・ようこ
1974年生まれ。「藍生」「いぶき」所属。堺市在住。

■樋口由紀子 ひぐち・ゆきこ
1953年大阪府生まれ。姫路市在住。「MANO」編集発行人。「バックストローク」「豈」同人。句集に『ゆうるりと』『容顔』。セレクション柳人『樋口由紀子集』。共著に『現代川柳の精鋭たち』。川柳Z賞受賞。川柳句集文学賞受賞。「川柳MANO」サイト 

■浅川芳直 あさかわ・よしなお
1992年生れ。「駒草」。蓬田紀枝子、西山睦に師事。「むじな」編集・発行人。カレーショップ酒井屋の冷し野菜そばがマイブーム。宮城県名取市在住。

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■大江進 おおえ・すすむ
1953年生まれ。本業は木工(注文家具・木製小物など)。鳥海山麓に住んでいることもあり、自然が大好き。ジオパーク認定ガイド。俳句は約20年前から作っていますが、最近は酒田市を中心として10名ほどのメンバーで「青猫」句会を毎月開催。ブログ www.e-o-2.com

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter


〔今週号の表紙〕第591号 六所神社 大江進

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〔今週号の表紙〕
第591号 六所神社

大江 進

神社の入口や屋根廻りにはさまざまな装飾がほどこされていることが多いが、動物でいうとたいていは鶴や亀や兎や龍といったものである。獅子も定番であるが、モデルとなったライオンの姿など、昔は工人は実際には目にしたことがないだろうから、想像と妄想をたくましくしてさまざまな改変がなされている。

写真は山形県の北西部の八幡町(現在は酒田市)市条地区にある六所神社のものだが、耳がまるでダンボのように大きい。しかも碧眼である。全体の姿形はたてがみをなびかせながら宙を飛んでいるような案配だから、その駆動力の一端はこの大きな耳であるのかもしれない。耳と口と鼻穴が赤く、目は青と、部分的に着色されているのもじつに効果的だ。

神社の名前が耳慣れない六所神社とあるのは、イザナギノミコト、イザナミノミコト、スサノオノミコトなど、六つの命(みこと)を祀っているかららしいが、その方面にはまったく疎い私には不分明である。


小誌『週刊俳句』ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

コメント欄の仕様変更・その後 西原天気

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コメント欄の仕様変更・その後

西原天気


コメントの書き込みを「googlアカウントのユーザー」に限定しましたが、捨てアカをつくれば、匿名のコメントができるということで、オープン状態とそう変わらないのですね。まあ、いいや。とりあえず、現状で行こうと思います。

さて、こうしたシステムの如何とは別に、私から提案がふたつばかりあります。

1 挨拶をしませんか?

人に話しかけるとき、いきなり用件をしゃべり始める人っていないですよね。挨拶をして、必要なら、自己紹介もする。コメント欄も、同様のマナーにしてみてはいかがでしょう。口汚く下品な物言いは減りそうです。無責任な「意見」も減りそうです。

2 書き込む前に深呼吸をしましょう

込み入った内容を書き込むときは特に、これ、効果的です。

おすすめは、直接、コメント欄に入力するのはなく、エディターなりワープロソフトに文言を入力することです。そうしたら、一度、深呼吸して、読み直し、そのコメント欄でいいのかどうか、文意や理路が最低限通っているのかを確かめる。

以上の2点で、コメント欄がだいぶ実り多きものになると思うのですが、いかがでしょう。

なお、小誌「週刊俳句」からのお知らせコメント(whの名義)は、挨拶はしません。ウラハイへのリンクというだけの内容ですが、いちいちの「こんにちは」は省略させていただきます(気分を変えるために挨拶するかもしれませんが)。

それでは、今後とも、よろしくお願い申し上げます。

中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜 第63回 Richie Havens「Freedom」

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中嶋憲武✕西原天気の音楽千夜一夜
第63回 Richie Havens「Freedom」


天気●このあいだね、江戸川の花火大会に行ったんです。人があまりに多いので、打ち上げ会場はあきらめて、すこし離れたところから眺めたのですが、なかなか楽しかったです。

憲武●豆の木の吟行で、2000年頃行った記憶があります。

天気●友人の井口吾郎さんたちは、打ち上げ会場で見てて、その夜、帰宅後のメールで、ウッドストック気分がちょっと味わえたとかとあって、おお、ウッドストックかあ、と。

憲武●ほほう。1980年頃、池袋の文芸座がどこかでウッドストックの映画、「レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ」と二本立てで観ました。

天気●観客数を調べてみたんですが、ウッドストックは1969年8月15日から17日まで3日間の入場者数が40万人強。すごい! 一方、このあいだの江戸川は、139万人!(江戸川区側90万人、市川市側49万人)。みんな、花火が好きすぎませんか。

憲武●ちなみに台風で順延になった隅田川花火大会は75万人です。そして夏フェス元祖と言われる「吉田拓郎 かぐや姫 コンサート・イン・つま恋」は1975年8月2日3日で5万人以上です。

天気●ま、そういうわけで、ウッドストックから1曲取り上げようと思います。



天気●ジミ・ヘンドリックスやジョー・コッカーなど有名どころは避けて、ちょっと凝ってみました。当時、中学生だったか高校生だったかでまずレコードで聴いて、それから少し経ってから映画観て、いつも、このリッチー・ヘイヴンズが気になったんですよね。

憲武●ウッドストックのオープニングの登場でしたよね。

天気●黒人(アフリカ系アメリカ人?)というと、ブルースやソウル、ジャズがもっぱら。ポップス系もソウルっぽかった。フィフス・ディメンションとかね。ところが、リッチー・ヘイヴンズは、ちょっとソウル寄り・ゴスペル寄りとはいえ、かなりフォークっぽい。

憲武●フォークソングですね。もはや。

天気●でしょ?

憲武●映画で気になりました。お目当はジャニス・ジョプリン、ザ・フー、ジミヘンだったんですけど。

天気●レコードも何枚か買ったのですが、「Mixed Bag」というアルバムはそうとうにフォーキーでね。なかでも、この「I Can't Make It Anymore」は、泣かせる歌唱で、お気に入りでしたよ。



天気●アレンジや演奏のゆるい感じが、なんか懐かしくて、むしろもっと泣けるんですよね。

憲武●これ、いいですね。演奏が優しい。

天気●で、話を元に戻すんだけど、ウッドストックの3.5倍も、江戸川に集まるなよ、という、ね。



(最終回まで、あと938夜) 
(次回は中嶋憲武の推薦曲)

2017落選展を読む 11. 「ハードエッジ 豚カツ」 上田信治

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2017落選展を読む 
11.「ハードエッジ 豚カツ

上田信治

ハードエッジ 「豚カツ ≫読む 

この50句には、いま俳句いっぱんに流通している基準から、わりと自由に書かれている感触があって、賞応募作といえども、俳句が採点競技のようであったらつまらないので、その自由さは、まず好ましい。

大いなるシーツが飛んで花吹雪
花ふぶき張子の虎も吠ゆるかな


発想は「月並」ふうだけれど、イラスト的にイメージを構成したり。

客布団黴を寄せじと絢爛に
水族館に海の一族注連飾


なにかそれこそ「絢爛」たるものを見せようという。

噛み抱くは子猫の時のタオルなり

「噛み抱くは」という言い方の粘っこさが、猫のあそびのしつっこさに通じて、言葉に質感がある(この句については、季語がないことより、「の時の」が示す内容のあいまいさが気になる)。

南瓜煮て一晩寝かす手紙かな
干布団枯野の見ゆる丘の上


「手紙」と「南瓜」、「干布団」と「枯野」それぞれに、句中の主体も加えた、位置と時間の関係があいまいで、そこに面白さが生じているような、いないような(「ビニールも儚かりしが蛇の衣」も、そう)一見、腰折れのようで、裏側できっちり第三項的なものをたちあげている、この書き方の大成功句が読んでみたい。というか、自分が書きたい。

ゆるやかに階段状の雪として

「として」もまた、あいまいで「として……何?」とつっこみたくなるけれど、『「ゆるやかに階段状の雪として」雪がある』という、冗語の面白さは見逃せない。

水仙を切つてぽたぽたしてゐたる
豚カツを母が作るよ春休


かわいい。

読者として、楽しませていただきました。

【柳人インタビュー】樋口由紀子さんへの10の質問

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【柳人インタビュー
樋口由紀子さんへの10質問


質問:西原天気



Q1 今週、何句作りましたか?

今週はゼロ。作るときと作らないときが極端。

Q2 きょう、朝起きてから2~3時間の行動をできるだけ詳しく(公表できる範囲で)教えてください。

うがいをして、水を飲み、洗濯機を回し、仏飯を供えて、朝食の準備、朝食を食べ、歯磨き洗顔、メールチェック、洗濯物を干し、掃除。プラス食器棚の除菌。←毎日一箇所は徹底的に掃除することを課しています。それでもう2~3時間はすぐにたってしまいます。

Q3 現在お住まいの町は、どんなところですか?

兵庫県姫路市の浜手で、昔は陸と海の継ぎ目のところだったらしく、地名が「継」です。
半年ほど前に歩いて10分のところにコンビニがやっと出来ました。便利になったと思ったのですが、まだ一度も行っていません。

村自体は高齢者が多いですが、「継」全体では新しい住宅がどんどん増えて、小学校の児童数は1000人を超えています。

Q4 行ってみたい海外の国/都市/場所を教えてください。

海外は数回行ったのですが、苦手です。

ただ、最近、友人がウイーンに10日ほど一人で滞在し、とてもよかったらしく、今度一緒に行こうと誘われています。行ってもいいかなと思いはじめています。

Q5 はじめてつくった句を憶えていますか?

まったく覚えていません。

Q7 目が覚めました。何十時間も眠ってしまったらしく、おなかがぺこぺこです。何を食べますか。

おにぎりと漬け物。

Q8 いま読んでいる本を教えてください。

文藝別冊『木皿泉』。

Q6 どういうわけか、雄鶏を飼うことになりました。なんて名前を付けますか?

ツトムくん。

由来はなく、ふと思いついただけなのですが、考えてみると、Q8で答えた木皿泉は和泉務さんと妻鹿年季子さん夫婦の共作ペンネーム。務さん、いいなあ、側に居てほしいなあと思って、それで、たぶん。

読んでいるものや見たものにすぐに影響を受けます。

Q9 春夏秋冬、どの季節がいちばん好きですか。

晩秋。

Q10とも重なるのですが、一年が一日が終りそうになる、その前が好きです。花開くとかこれからを活動するとか、活動の最中とかはきらびやかすぎて、疲れます。なにがあっても、なにがどうであれ、終わってしまいそうになる、その前が好きです。

Q10  好きな自然現象について、教えてください。

夕焼け。


樋口由紀子 近作十句

額からリリー・フランキー型の汗

クリップとゴムの間が汗臭い

石仏の異常乾燥注意報

梅シロップ赤紫蘇シロップ石川県

九州と四国の間にエビフライ

セロファンの五分の一は月誘う

押入れの奥から洩れる氷水

宇治金時タワーマンションがいっぱい

大正の父が愛した百葉箱

音もなく茂る葉っぱの薄笑い

【週俳7月の俳句を読む】作者は死なず 浅川芳直

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【週俳7月の俳句を読む】
作者は死なず

浅川芳直


マンモスの肋くぐりて涼しさよ  金山桜子

この句にほとほと感じ入った。といっても、その巧さではなく「涼しさ」に独特のものを感じたからである。俳人はさまざまなものにこの「涼し」という感覚を見つけてゆくが、マンモスの骨とはなんという自由さだろうか。博物館に大がかりな特別展がやってくるのは、およそ夏休み企画である。外の炎天下とは落差のあるひんやりした空気が、展示場はいわば死骸を飾る死の世界だということを否が応にも訴えてくる。おそらく目玉展示のひときわ大きな骨をくぐったとき、その空間のなかで抱く感覚は容易には表現できぬ不思議なものだろう。その万感を一切抹消しての「涼しさよ」である。大真面目でありながら肩の力の抜けた感覚が、いかにも等身大の人間を見るようで面白い。掲句には、生と死についての物思いも博物館で得た知識も、すべて飛ばしてしまうような作者の実感だけがある。しかしさらりとした表現の奥にはやはり、展示を見終えた万感が沈殿しているようだ。この巧まざる二面性はまさに自然体の句の面白さ、良さだと思う。作者の感じ方・物の見方に、黙って通じてゆきたい一句である。



ところで今回「週刊俳句」の七月分の作品を読みながら、作句への姿勢・信条について少し考えてみた。というのもそこに無自覚だと、往々にしてつい自分好みの造りの句だけを不当に高く評価してしまう、逆に取り上げるべき句を見落としてしまう、といった弊に陥るからである。「俳壇は内輪褒め体質だ」といった論が最近生じているが、何のことはない、誰でも好みは偏ってしまうと思う。もちろん佳い句は、どんなに表現が奇妙でも、内容が特殊でも、その人の芯がありさえすれば伝わる。しかし良い句を見逃さないようにするには、自分の俳句理念は括弧に入れ、頭ではなく胸で作品にぶつかる作業が必要だと思ったのである。

たとえば俳句を「書く」という行為を自覚的に引き受けているか、そうでないか、という態度の違いは意識したいと思っている。山本健吉が指摘しているように、「書く」という行為によってなまの発話の場面から切り離された言葉は理念性・抽象性を帯び、それゆえに読者が「現実の池や蛙ではない、もっと真実な何ものかをそこに見る」(山本健吉『俳句の世界』、講談社文芸文庫版、p.116)ことを可能にする。こうした書き言葉の特性に強くコミットメントしようとする作者が内容よりもフォルムの点で新しさを追求すると、ときに難解という評価が加えられることもある。しかし内容以上に一句の雰囲気や表記そのものの面白さが、そうした作品の魅力ともなる。他方「書く」という行為の抽象化・理念化の働きに積極的になれない人(ないしそういった議論に無関心な人)は、感受性と直感をたのみに自分にとっての現実を作品化しようとする傾向をもつ。私などは「書く」ではなく「詠む」と言いたい派だが、表記の効果というよりも内容と音とのひびき合いを重視するようである。ときに古ぶるしい作品となる場合もあるかもしれないが、現場性を大事にすると言ってもいい。こうした創作の上での態度の違いが、ときに不毛な対立を生むようだ。「意味がわからない句はダメなのか問題」「ウソを詠んではダメなのか問題」などは、多分にこうした俳句観の違いが問題の背景にあるかもしれない。



そうした意味で要注意の作品なのは、紆夜曲雪さんの「Snail's House」である。と言うのも人によって「わからない」と一蹴するか「素晴らしい」と絶賛するかが分かれる作品だと思うからである。この作者は今年まで筆者とはずんだ句会で遊んだ仲で「むじな」のメンバーでもある。だから筆者としては身内のつもり、手放しに褒めるのではなく、句会で批評し合うようなつもりで、一句友として短評を述べたい。

涼しさの火籠りの眸のふたつづつ  紆夜曲雪

優曇華や空き家よりこゑある日々の  同

睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ  同

蟬茸の記憶の紐やかよひあふ  同

作者はかなり自覚的に、「書く」という行為にコミットしていると思う。筆者は氏が過去の俳人の文体をよく研究していたのを知っているし、今回の作品も直観に頼るというよりは、Snail's House(ミュージシャン)のミュージック・ビデオのまったりとした雰囲気にマッチするよう巧みに書き上げられた意欲作だと拝察する(勘違いだったら許されよ)。加えて表記にもの言わせるスタイルは紆夜曲雪さんの得意とするところであるが、句の内容について開き直った態度を取っているために、言葉を強くしようとしてギクシャクすることがない。

しかし身内の心配性だろうか、ときに雰囲気だけで押し切る一面が気にかかるのである。おそらく紆夜曲雪さんは、内容・素材の力に頼らず、言葉だけでどれだけ一句に雰囲気を作れるかを工夫されているのだと思う。そういった理論的な面を勘案すればこれらの句は確かに成功しているだろう。ただし、本当の佳句とは主義主張や文学理論に関係がなく、一句読み下したときに胸にひびく句のはずである。作者の狙いは一度括弧に入れ、頭ではなく胸で作品を受け止めるべきではないか。かくしてここは私の感じるまま、私の鑑賞で突き進みたい。繰り返すけれども、本当に良い句は作句上の立場、文学理論上の面白さに関係なく、読者に訴える何かがあると思うからだ。

涼しさの火籠りの眸のふたつづつ  同

目が二つずつというのはわかりやすいくらいわかりやすいが、「火籠りの眸」という措辞は、果たして一句のなかで効いているのだろうか。火祭りか何かだと取ると、わかる・わからないという意味の問題以前に「涼し」の感覚に共鳴することが難しくなる。あるいはその不整合を諒とするかどうかに、作句姿勢の違いが現れるのかもしれない。しかしそれにしてもパッと読み下したときに全体が曖昧だと筆者は思うのだが、これは筆者の鑑賞眼の問題だろうか。

優曇華や空き家よりこゑある日々の  同

取り合わせの妙は相変わらず、さすがだと思う。内容の不思議さに面白さがないわけではない。しかしまあそれだけ、内容の突飛さのために作者の顔が見えてこず、訴える力に欠ける憾みがあると思うのだがどうだろう。

睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ  同

読む側としてもまず頭で受け止めてしまうようなところがある。「にやんにやんとみづ湧くこゝろ」。好みを言えばだらだらと水の描写を伸ばさないで湧水をきちっと言い切ってほしい。もちろんそこを評価する向きもあろう。しかし季語に旧かなで「みづ」の字面を取り合わせて情感を作るのはもはや手垢の付いた常套手段となりつつあるし、水に心では言葉先行、擬態語のポップさも流行を取り入れた感があって、損をしているのではあるまいか。借り物の感覚という印象が生じて、素直な鑑賞を邪魔してしまうようでもある。そうそう、「むじな 2018」ではこんな句があったね。

 木蓮にほほゑみはこゑ在らぬとき  同

 古りし字ゆこゑこぼれ来し竹の秋  同

 花林檎みづかがみへと日の手触る  同

筆者はこれらの句への賛辞を惜しまないが、今回の十句を見ると、「こゑ」「みづ」という表記から入っていく手法が、個性というより癖になっているのではないかとも思う。どうかこの点を考えてみてほしい。

少し手厳しく書きすぎたかもしれない。しかし筆者は、進歩し続ける君の意欲作を前にして「よかったね、いい句だね」とだけ言って終わらす気にはなれないのだ。紆夜曲雪作品の場合、「雰囲気しかない」ということはまさに作者の狙っていることであろうし、筆者の繰り言などつまらぬ難癖かもしれない。あるいは、筆者はうっかり「作者が見えてこない」と述べてしまったが、「これはもう俳句観の違いに訴えた難癖である。言語で何かを表現するということは、現実をコピーすることではない。〈ほんとうらしさ〉など作品にとってどうでもいいのだ。浅川は俳句観の違いから紆夜曲雪作品を不当に低く見積もっている」、と反批判を受けるかもしれない。

しかしここで本格的に文学論へ首を突っ込むことはしない。というのも筆者は、何も議論をして相互理解を深めることなしにでも、紆夜曲雪の作品の魅力をたとえば次のような句によって存分に感じ取ることができるからだ。

生きて会ふその風の世の籐椅子よ  同

すれちがふたびにほたるとなりにける  同

この二句はたとえフィクションであろうと、筆者の胸に訴えてくるものがある。その理由を考えてみると、やはり借り物ではない本物の紆夜曲雪さんの感性がしみじみと行き渡っているからではないかと思う。句を鑑賞するうえで、「実際の作者からして……」と言うのは禁じ手かもしれない。紆夜曲雪という号もなるべく生身の人間らしくない名前にしたいということで名乗っているそうだから、作者らしさ云々を持ち出すことは本人としても不本意だろう。しかしこの二句には、作句上の立場を超えた強い力があり、しかもそれは紆夜曲雪の心からの表現となっているかどうかの違いではないかと思うのだ。

「心からの表現」ということで、筆者は何も「事実通りの事柄」といったものを意図しているわけではない。たとえばタイトルになったミュージシャンの音楽世界の借り物ではない、紆夜曲雪自身の詩性、といったことを意図しているのだ。〈生きて会ふその風の世の籐椅子よ〉〈すれちがふたびにほたるとなりにける〉。この二句は、たとえ本人が生身の人間らしさを離れた句を志向しているとしても、消しきれなかった「いかにもこの作者」という感覚が魅力の源泉であると思うのである。

生きて会ふその風の世の籐椅子よ  同

見方によっては、「生きて会ふ」はもってまわった言い方で嘘っぽいし、「その風の世」も曖昧である。一句として景を結ぶのは籐椅子だけだ。しかし世界に対する、あるいは風に対する紆夜曲雪のリアルな態度が、この観念的な表現を見事に基礎づけているように感じられる。ここまで吹っ切れてこそ句を「書く」人の句として一級の作だと思って瞠目した。

すれちがふたびにほたるとなりにける  同

すべて平仮名という特殊さがあるが、けっして不自然さを感じさせない。ずんだ句会のみんなで蛍狩りに行ったことを思い出すと、作者の歩み、蛍を待つ姿勢が、この一句のなかに結実しているようにも思える。作者は観念的・抽象的な句のつもりだろうが、それだけでなく事実の強みをも感じさせる。仁平勝は「日常ごく普通に使われている言葉が、俳句という定型に収められると、ある比喩的な効果が生まれる」(『シリーズ自句自解Ⅱ ベスト100 仁平勝』, ふらんす堂, 2018, p.113)と指摘し、これを「俳句的喩」と呼んでいる。掲句の「ほたるとなりにける」はおそらくはこれとは逆で、作者が蛍に変身しているという何かの比喩が俳句の形式に収まることによって、蛍が光ったという実景を喚起させるようにも機能していると言うべきだろう。これも句の背後に紆夜曲雪という人間の感覚がいきいきと働いていることの効果ではないか。多くの読者はたとえ作者を知らずとも、なるべく作者に寄り添って鑑賞しようとするものだ。そのときに強いのは、作者の芯から出て来た発想・表現だと筆者は思う。

以上、紆夜曲雪さんには、だいぶ失礼な言葉を吐いた。しかしこれは先ほど述べたように一句友の歯に衣着せない感想であり、誤解があればお教えいただきたいし、また反論も承りたい。切り捨て御免は筆者のもっとも嫌う批評態度だからである。今は仙台と東京で遠く離れてしまっているけれど、いよいよのご健吟を祈っている。



この時点でだいぶ字数を食ってしまっている。このままでは「身びいき」の誹りを免れないので、七月の作品から私の琴線に触れた句を掲げ、その責めをわずかでも塞ぐこととしたい。

脳の襞さわぐ万緑かがみの間  加藤知子

湯浴みの時間蜘蛛たれさがる時間  同

〈脳の襞〉の観念。万緑の映る鏡のかがやき。コントラストの印象鮮烈である。〈湯浴みの時間〉とは、昼の風呂か。「時間」のリフレインが印象深い。ケの日常の中のハレを切り取る視線である。

コイントスの表裏炎天漂へり  吉田竜宇

コイントスをスローモーションで捉えるおもしろさ。「漂へり」の思い切った主観が、炎天の空気を表現して余すところがない。

馬群れてゐる幻や麦の秋  西村麒麟

「幻」。甘く浮きがちな言葉だが、その甘さを抑えた何気ない詠み方は尋常でない。幻の馬、なんと素敵な、ゆったりとしたひびきだろうか。黄金色に輝く風まで感じられるようだ。キルギス映画に出て来るような、颯爽と駆ける馬ではない。田舎の駄馬だ。道端で馬がのんびりと馬ングソこいていたような時代が目に浮かぶ、ノスタルジックな一句である。

ねばりとかがんばりとかと夏を病む  紀本直美

草いきれふつうに家族いる暮らし  同

平常心ということを強く感じた一連。本当はもっと多くの字数を当てて触れたかった。生活に密着して素朴に詠出された作品群。「夏を病む」という小さなひとひねりが新鮮である。「ふつうに家族いる暮らし」というつぶやきにも共感した。

汗の子のかうべ重たく梳る  金山桜子

前掲の〈マンモスの肋〉同様飾らぬ実感。軽いと思った赤ん坊の体感を言い留めて巧みである。この作者、風景よりも人間の生活が大きい。いや人間よりも「私の感覚」が大きく出ている。

職やめる決意ぐらりと夜の蟻  秋月祐一

「ぐらりと」は夜の蟻の動作ではなく、職をやめる決意であろう。茶化すような言い差しが、かえって離職の決意の強さを印象づけている。ユーモラスな味わいの中に、骨組のしっかりした、まじめな句である。


加藤知子 花はどこへ 10句 読む
紆夜曲雪 Snail's House 10句 読む
吉田竜宇 炎上譚 読む
西村麒麟 秋田 10句 読む
紀本直美 夕立が降るから 10句 読む  
金山桜子 藍を着て 10句 読む
秋月祐一 はつなつの 10句 読む

【句集を読む】 蝶にふれ 木本隆行句集『鶏冠』の一句 西原天気

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【句集を読む】
蝶にふれ
木本隆行句集『鶏冠』の一句

西原天気


蝶をもつときは、たしか翅の根っこと胸を同時に、力を入れすぎぬように、かといって羽ばたかない程度にしっかりと、細心の注意を払った(と記憶する)。蝶をつまむ行為は、人間の指先が最初に強いられる精密で微妙な動きかもしれない。

秋蝶の翅に耳たぶほどの冷え  木本隆行

蝶の翅にふれて、それを別のものに譬える句に、《つまみたる夏蝶トランプの厚さ 髙柳克弘『未踏』2009年》があるが、掲句は温度。

蝶も耳たぶも生きているととのことからすれば、なまめかしい見立てでもある(トランプの理知とはやや対照的)。

そういえば、耳たぶほどの冷たさであったか、と、はっきり思い出せたわけではないが、きっとそうなのだと、〈二次的に〉思い出せた感覚がある。

はるかな距離感をもって(というのは、もっぱら、長らく蝶など触っていないというこちらの事情)、繊細を伝えてくる。


木本隆行句集『鶏冠』(2018年3月/ふらんす堂)より。


10句作品 森尾ようこ くらげ

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森尾ようこ くらげ

水母拾ふ海の一部のこぼれけり

圏外と思ふ水母の体内は

いいねするたびにくらげのうまれけり

寿命あと一年ほどの闘魚かな

金魚進む金魚の糞もつづきけり

結婚記念日金魚の口の奢りやう

新涼の何か逃げ込む蛙股

矮星を見失ふ夜の芋嵐

龍淵に潜むけはひの空家かな

とろ昆布のやうな星雲秋に入る

自宅警備員駆けだす稲妻へ

週刊俳句 第591号 2018年8月19日

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第591号
2018年8月19日


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…………………………………………
柳人インタビュー
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……上田信治

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〔今週号の表紙〕六所神社……大江 進 ≫読む

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2017落選展を読む 12. 「宮﨑莉々香 うそぶく」 上田信治

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2017落選展を読む 
12.「宮﨑莉々香 うそぶく

上田信治

宮﨑莉々香 「うそぶく」 ≫読む 

この人が「円錐」「オルガン」に書くものと手応えがだいぶちがって、読めば書かれているとおり、そのままの意味で頭に入ってくる。

散文のような、日常言語に通じる構文意識で書かれているようだ。とすれば、それが、どこで俳句になるか、が勝負になってくるのだけれど。

昼は春みんなで銀杏をわける
球根をならべもどれないんだよもう
ささやかにつつじを捨ててあるきだす


十七音を、カットアップされた映像の断片のように使って、言葉足らずを逆手にとっている。字数が足りなくなりがちな口語俳句では、ときどき試される方法だ。

TVドラマのアヴァンのような、断片的カット。動詞の時制はひたすら現在形終始。その前後で、何が起こっているかは分からない。

本編の全体を作らなくてよいのだから、なんでも好きに書けるようだけれど、じゃあ、たとえば少女漫画の1コマだけ描いて、それを成立させられるかといえば、ずいぶんむずかしいわけで。

ノートとるほんとつまらないね虹たち
手をつなぎむなしくなつてゐる白鳥
パンジーを見るもごもごとしてしまふ


きっと、これは「高校生やつし」の50句なのだろう。タイトルも「うそ・ぶく」だし。「虹たち」の「たち」は、ちょっと面白いし。

正月が来てなんとなく食べる海苔
機械からうごかなくなつてつちふる


さいごのほうで、すこし面白くなってみたりしてるし。

くたびれて夏野を最高に行かう 

これなんかは、ちょっとよかった。

【句集を読む】運動形式から俳句形式へ 花谷清句集『球殻』を読む……黒岩徳将

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【句集を読む】
運動形式から俳句形式へ
花谷清句集『球殻』を読む

黒岩徳将


「球殻」は花谷清第二句集。句集の章立ては「輪郭」「公転」「創発」「間隙」「反跳」「分岐」「等号」となっていて、それぞれ2011年〜2017年の作品を一年ずつ収めている。

青き踏むモーツアルトのソナタの眼

言わずもがな、踏青は屋外を彷彿とさせる季語なので、モーツアルトの眼は眼前にはない。モーツアルトだけでなく「ソナタの眼」であることで、一歩踏み込んで、その人の眼に深く入り込みたい気分になった。「ソナタを弾いている眼」ということか。ハ長調であってほしい。

実ざくろや古地図に水の冥き途

対象の奥を見つめ、流れるはずであろう水の暗さに想像を巡らせる。石榴の実の質感を思えば、目の前に暗い水があっても成立しそうな句である。しかし、それ以上に古地図に流れる(であろう)水、ともう一段階クッションを置いて間接的にすることで、より石榴の実の陰影が際立った。

時間より狭き空間つばくらめ

次元が違うものを無理に比較することで俳句形式に押し込めて詩情を生み出す方法はこれまでにもあったはずだ。その手法の試行に留まっているかどうかは、配する季語にも大きく関わる。燕の飛翔は時間から空間への移行だと思うと、この燕は、もがき苦しんで空間の外には出られないのかもしれず、苦しそうだ。もっと遠くへ飛んで欲しいと思うが、厳しいのかもしれない。

巻貝の渦紋につづく花うつぎ

「つづく」は難しい。空木の花に渦のようにループするイメージは、この句を見るまで思いいたらなかった。

仮死の紙魚着払いにて届きたる

着払いは俗な人間社会を表しているが、届いているのは本ではなく紙魚だと捉える主体の立場はやや浮世離れしている。人間より紙魚に興味があるのかもしれない。

残像の手毬残響の手毬唄

対句形式や像→モノ、響→唄だという理屈で捉えるだけで終わりたくない。キーは語順にある。「手毬」で切れているので、手と地に突かれた毬が時間差で響くことこそが認識のずれを生み、現実からの浮遊観を醸し出した。この手毬、読者の頭の中では永遠に上下運動を繰り返す。

運動、と書いたが、作者が物理学者であるという外部情報を差し引いて読もうとしても、「運動」は一つのテーマと言える。(動き、というよりも運動というニュアンスを重視したい)。

モトクロスの前輪鯖雲へ翔る
ぼうふらの激しく横へうごかざる
眼が合えば眼から寄りくる春の鹿
立ち尽くすぼくら疾走する蟻ら
去年今年止まり続けるゼノンの矢
滝壺へ右ネジ向きに下る坂
きさらぎのソリスト弦よりも撓る


各章から運動を志向した句を引いた。運動というテーマを基底にして、味付けの手法はさまざまだ。例えば蟻の句も前述の手毬の句と同じ対句構造だが、アングルが興味深い。「立ち尽くすぼくら」は地面から僕らの身長に向かっているカメラだと思ってもいいし、上から眺めていると捉えても面白い。「疾走する蟻ら」は一転して徹底的に地べたを這う視線だ。この句は句集の帯に「ことばに変換しておかなければ、失われてしまうような一瞬の感覚の凝縮」という言葉とともに紹介されているが、「疾走」という語を選択しているのにも関わらず、音のないスピードを蟻に見定めたことが「一瞬の感覚の凝縮」なのだろう。清は、運動する形式・座標が頭にまずあってから俳句を構成しているのかもしれない。その証拠に、滝壺の句は滝の美しさや季語としての本意にあまり関心がない。この把握手法には神社仏閣老病死をメインテーマに据えた句のような抹香臭い雰囲気を消去するのにも役立っている。

運動以外はどうか。集中の他の特徴としては、以下の三つが興味深かった。

一 章立てのタイトルの語が使われた句が元ネタにある
二 偉人の生年—没年を横に記した句がいくつか見受けられる
三 時々、立ち止まらせるように口語体の句が飛び出してくる。

一について、句を挙げる。

列島の暗き輪郭熱帯夜
自転しつ公転しつつ冬ごもり
創発の即刻直後秋つばめ
ジュラルミンの楯に間隙春疾風
翡翠か水に反跳のみ残し
分岐して分岐して滝音ひとつ
質量の前の等号冬隣


「創発」は個の行動によって、全体の秩序が規定されることを言う。人工生命や人工知能の分野で重要となる概念である。「即刻直後」は「即刻」と「直後」両方詰めているところが興味深い。「時間より狭き空間つばくらめ」でもがいていた燕が、創発により飛翔する。「輪郭」〜「等号」はいずれも硬いイメージを持った言葉で、その語が使われた句における核になっている。硬そうなジュラルミンに「間隙」を見いだすことで春の風が一気に吹き抜ける。等号の句は「前の」が難しく、読み切れなかった。

句集の題を冠した句「かぎりなく脆き球殻雁渡る」と「悴みて全き球にペルシャ猫」を横に並べて鑑賞すると、このペルシャ猫は’詰まっていると考えるのも楽しい。

二についてはこのような句である。

ジョブス逝く林檎一箇所だけ齧り
《スティーブ・ジョブス1955-2011》


夏の蝶レヴィ・ウォークとも違う
《ポール・P・レヴィ 1866-1971》


短夜の撃たれつづけるJFK
《ジョン・F・ケネディ1917-1963》


アンネに日記ゾフィーに調書ばらに露
《ゾフィー・M・ショル 1921-1943》


ジョブスの句は、あのApple社のマークはジョブスが噛んだのだいう断定だが、それほど驚きはない。ポール・P・レヴィは調べたところ数学者で、レヴィ・ウォークはランダム・ウォークという株価の変動 • 微生物の運動などといったいろいろな量が時間の経過とともにランダムに変化していく量を確率論の立場で表現した最初の人がレヴィであることから付けられたものらしい。要は、夏蝶の動きとそのグラフの変遷を重ね合わせたということである。

ケネディとゾフィーは社会詠の一歩手前ということだろうか。政治的主張を述べているわけではなく、「撃たれ『つづける』」と時間を引き延ばしたり、薔薇の露にゾフィーの無念を集約させる。

三について、「異物としての口語体」が突然飛び出してくる感覚もそれこそピンポン球が跳ねるようでもある。

シーシュポス午後は爆睡してごらん

シジュフォスではなく、「シーシュポス」を選んだことも、「ごらん」と響き合っている。



ランダムウォークの参考資料
file:///Users/kuroiwatokumasa/Downloads/sotugyou.pdf

花谷清「球殻」
http://furansudo.ocnk.net/product/2425





















後記+プロフィール592

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後記 ◆ 岡田由季

8月最終週の週刊俳句は、「読む」記事を多めでお届けしました。

暑かった今年の夏、皆さまはどのように過ごされたでしょうか。


私は、動物園、水族館、サーカスへ行き、花火を見、自分でもして、
身近な生き物を観察し、自転車で近所を走り回り、うっかり日焼けまでしてしまいました。
つまり、夏休みの
子供のように遊び回っておりました。

家の中に子供がいないと、大人が子供のようになってしまうのかもしれませんね。



それではまた、次の日曜にお会いしましょう。



no.592/2018-8-26 profile

■池田奈加 いけだ・なか
1988年生まれ。伊丹市在住。現代俳句協会会員。

柳本々々  やぎもと・もともと  かばん、おかじょうき所属。東京在住。ブログ「あとがき全集。」

■樫本由貴 かしもと・ゆき
1994年生まれ。広島市在住。「小熊座」所属。広島大学大学院博士課程前期一年。

■仮屋賢一 かりや・けんいち
1992年生まれ。京都府在住。俳句雑誌「奎」編集長、関西現代音楽交流協会会員。好きなことしか進んでやらないが、とにかく「好きなこと」が多岐にわたるので助かっている。

■名取里美 なとり・さとみ
1961年伊勢生まれ。山口青邨の「夏草」を経て黒田杏子の 「藍生」所属。句集『螢の木』『あかり』(駿河梅花文学大賞)『家族』。ラ-メル俳句賞、藍生賞受賞。ブログ「名取里美 こんにちは・俳句」https://natosato.exblog.jp/

中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1994年、「炎環」入会とほぼ同時期に「豆の木」参加。2000年「炎環」同人。03年「炎環」退会。04年「炎環」入会。08年「炎環」同人。

■太田うさぎ おおた・うさぎ
1963年東京生まれ。「豆の木」「雷魚」会員。「なんぢや」同人。現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。句集『リボン』(2017)共編著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。笠井亞子と『はがきハイク』を不定期刊行。ブログ「俳句的日常」 twitter

■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ 「道草俳句日記」
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