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【句集を読む】水と仮面のエチカ 小池正博句集『転校生は蟻まみれ』を読む 小津夜景

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【句集をむ】
水と仮面のエチカ
小池正博句集『校生は蟻まみれ』を読む

小津夜景


水の句集、と聞いて私がまず思い出すのは西原天『けむり』。最近では野間幸『WATER WAX』もあった。どちらも巧みな〈水の置〉織りなす句集だ。


小池正博校生は蟻まみれ』にも水の句の集中する連作がある。これが「柔よく剛を制す」の法とでも形容すればよいのかたいへん活殺自在にふるまう粋な水で、観察していると興味が尽きない。

悪霊を見るのは愉快だね
汲み上げた水軍の水よく燃える
一角もいて川岸の古本屋

水は善く万物を利してわず。上の句では「悪霊」「水軍」「一角」といった〈異形の現前〉の放つ気を相殺するのに水が一役買っている。

夢幻ではなく沸点の能舞台
紫探しあぐねて水ぶとり

夢幻能という〈異形の現前〉を旨とするはずの舞台を、沸騰=化によって殺いでみせた一句目。つまりこの句の「沸点」は「悪霊を見るのは愉快だね」の「」や「汲み上げた水軍の水よく燃える」の「燃える水」などと同様〈異形の現前〉をコントロールするからくりの一例である。

一方、粋の象である「江紫」が見つからず、体内に水を溜めこんでしまったのが二句目。川柳に「紫と男は江戸に限るなり」と言うが、この句の人物は侠客気分を高める道具が手に入らなくて、せっかくの水の法術を持て余しているようだ。

君がよければ川の話をはじめよう
友釣りの鮎にしばらくなっておく
突き落とされてもよい流だ
水底の杉の葉たちのひとつ話

水という柔のを介しつつ「君」相対する〈私〉。我が身を呑みこまれても突き落とされても良しとする、まこと潔い捨己人さで「友」に接する〈私〉。勢いよく火のつくことで有名な「杉の葉」が、その燃えやすき質を「水底」で抑えつつ、とっておきの話を語りあう光景。いづれの句も、澄んだ水に重ねられた綺麗な男気を感じさせる。


このように『転校生は蟻まみれ』における水は〈異形の現前〉を活殺するブースターとして働き、また句中に〈私〉が存在する場合はその私が対象に合気=同期してゆくための仕掛けにもなっている。素晴らしく面白い。とはいえ私の興味をより引いたのは、今説明したような光景が本書では〈男としての立ち居振る舞い〉にそこはかとなく重ねられていることの方である

日頃の小池作品が、異化効果などの理論的観点からアプローチされることが多い事情を省みるに、男、などといった感想は衆人を唖然とさせるだろうが、本当にそう感じたのだから仕方がない。私は小池の句を眺めるたび「この人の意識の底には、いつも責任という問題があるのではないか」と思う。しかもその時私の想像している責任とは「すべてが終わってしまい、もはや責任を果たしようのない段階になって初めて向き合わざるを得ない責任」といった類のものだ。と、こう書くとなにやら回りくどいが、これを素朴に「総括」と言っても一向に構わない。

戦争に線がいろいろありまして
明るさは退却のせいだろう
反復はもうしなくてもいいのだよ
       ふりかけの半減期なら知っている
       この町は葉脈だけで生き
       鳥去って世界はひとつ咳をする
       七色の埃が飴についている

行雲流水として、終わりの世界をなお道義的に生きること。熱狂を抑えつつ、正気の侠気を静かに掲げること。私にはあの〈たてがみを失ってからまた逢おう〉という有名句も、しさを味わいつくしたのちにがる、明るくかな風の吹く光景のように思われる(風が吹いたとて、なびく鬣はもはや残っていないのだけれど)。

水牛の余波かきわけて逢いにゆく

ここで〈私〉が逢いにゆく相手は男女のいずれか、と尋ねられれば私は「女ではない」と答する。では男? いや、そうとも言いきれない。「友のなさけをたづぬれば、義のあるところ火をも踏む」ではないが、ともあれそれは小池の義侠心をゆさぶる〈何か〉に違いなく、まただからこそ、たとえ水のない場所でも、逢わねばと思う心が「余波」を創出し、〈私〉はその水に合気=同期するかたちで、わが心を呼ぶ〈何か〉に対する礼に赴くことになる。

ここで「かきわける」のが人混みではなく水牛であるところがこの句の良さ。静かな熱い想いととぼけた味わいとが交差し、さらには言葉からどこか一歩引いた冷静さも感じさせる。


最後に触れておきたいのは次のこと。

「本書に見られる語の選択は、本当に異化効果——日常と非日常とをゆさぶり、言語と人間との関係を脱習慣化させることで新しい世界を発見すること——を目的としているのだろうか?」 

違う、と私は思う。おそらく小池正博の言葉の新鮮さ(難解さ)は、言葉が内面=意味へと沈まないようにするための仮面だ。

前九年をとりかえ後三年
水槽の模擬サンゴにも主

この世の中には「とりかえ可能な」「本物そっくりの贋サンゴ」だからこそ果たせる道義というものがある。内面という〈主体の遠近法〉が確立される近代以前は、誰もがその仮面をかぶっていた。そしてエチカとは〈擬の仮面〉を黙ってかぶる大人のたしなみ以外の何ものでもない。

小池正博は、川柳を「面」的にではなく「面」的にたしなんでいる。私はそう思う。なんのために? 言葉がややもすると産み出してしまう〈異形の現前〉すなわち〈内面の熱情〉を躱すために。そして水と共に〈仮面の倫理〉演じる、すなわち再表象化(ルプレザンタシヨン)するために。


京劇の面をかぶると波の音

鴇田智哉インタビュー 季語・もの足りること・しらいし 聞き手:西原天気

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鴇田智哉インタビュー
季語・もの足りること・しらいし

聞き手:西原天気


■結社から無所属へ、同人へ

Q◆
鴇田智哉さんは、2014年秋の『凧と円柱』刊行から、2015年は同人誌『オルガン』創刊。そのあたりの経緯について、お聞かせください。

鴇田智哉(以下・鴇田)◆
2014年の1月から、結社無所属となりました。句集『凧と円柱』を出すにあたり、あの句集には何句か無季の俳句が入っているという事情があって、有季定型の結社を辞めました。

Q◆
辞めたのは自発的にですか、それとも、圧力とまで言わないまでも、無季句の発表について問いただすような声が、結社にあったのでしょうか。

鴇田◆
圧力というより、もっときっぱりとしたものでした。主宰の方針に尽きます。句集を出したいということを主宰に相談し、無季の句も入れたいという旨を伝えたところ、その場合は、残念だが結社を辞めてもらわないといけない、ということでした。

Q◆
厳格ですね。

鴇田◆
結社が有季定型を標榜しているため、その同人である私が無季の句を発表するのは、方針に反しているということになる。だから辞めるということです。

私自身は、有季定型は、俳句の教育においてとても有効な手段だと思っています。だから、結社が有季定型に従うのはよいと思っています。そのうえで、「結社は教育機関であり、その機関の中では有季定型にのっとるが、個人の作品集である句集はその限りではない」というのが私の考えでした。しかし、その考えは、受け入れられませんでした。

このあたりの事情は、結社により、その主宰の方針により、違うと思います。私のいた結社は、けっこう固かったのだと思います。

Q◆
無所属になると、とうぜん、ふだんの俳句活動に変化がありますよね。

鴇田◆
結社時代は、月に3回ほど句会があったのですが、それが無くなりました。で、句会をどうしようかと思っておりましたが、結社を辞めて見回してみると、けっこう、世の中ではいろいろな句会というものが有志で開かれており、そこに割と自由に参加できることがわかりました。で、幾つか句会にもお邪魔させてもらいました。

そのうち、6月に私から呼びかけて、立川で句会をしました。それが定期化し、月1回のbiwa句会となり、現在も続いています。

そのbiwa句会を何度か重ね、句会のあと話したりしているうち、田島健一くん、宮本佳世乃さんと、同人誌をやろうかという話になりました。

Q◆
それが『オルガン』ですね。

鴇田◆
もともと、同人誌をやりたいという思いは、結社を辞めたあとの私個人の中に育っていました。理由のひとつは、自分の作品の発表の場がほしいということでした。無所属になると、定期的な作品発表の場がなくなるので。

理由のもうひとつは、俳句について、人と一緒に考えたり話したりしたことを、形にする場がほしいということでした。田島くん宮本さんとは、以前から割と話す機会もあり、一緒に句会をするようになってからは、さらにこの2人から刺激や影響を受けてきたので、一緒に何かやれたら面白そうだな、と思いました。

そして、俳句にのめりこんでいる生駒大祐くんに声をかけ、4人で同人誌『オルガン』始めました。その後、俳句にのめりこんでいるもう1人、福田若之くんが加わり、『オルガン』は5人でやっています。

Q◆
メンバーからの影響とは、例えば?

鴇田◆
客観的にわかりやすい面としては、リズムとか、俳句の形の影響が強いです。最近の句で、

  部屋は水母の紐の階段つらなれり   鴇田智哉

があります。「部屋は水母の」の部分の音感が独特です。今まで私は、

  地は秋の車の中の一家族     鴇田智哉

の「地は秋の」のように、上五の音数を五にまとめることに気持ちを向けていましたが、七音以上に緩ませるのも、ときにはアリかなと思うようになりました。

「地は秋の」があくまで一句全体の中の上五、つまりは一句の中の三分の一という感じに納まっているのに対し、「部屋は水母の」は一句から五割増しではみ出たようなボリュームがあると思います。これは田島健一からの影響ではないかと思っています。

もう一句。

  うすばかげろふ罅割れてゐる団地   鴇田智哉

「うすばかげろふ」で切れて「罅割れてゐる団地」があるわけですが、今まで私はこういう場合、二者の間に助詞を伴ったなんらかの繫ぎを入れていました。この句はそれが全くない形です。骨だけを投げかける感じ。こういうのも時にはよいかと。これは宮本佳世乃からの影響かと思っています。


■季語と「物足りる体(てい)」

Q◆
同様のメールインタビューを柳本々々さんにもしたとき、「鴇田さんに質問してみたいことはありますか?」と聞いたところ、次のような回答が来ました。
〔鴇田智哉さんがかつておっしゃられた言葉に《今まで自分は、俳句に季語を入れることで、一句に「物足りる」体を付与してきたところがある。でもそんな必要はあるのだろうか、そもそも俳句に「物足りる」という必要はあるのだろうか、ということも含めて考えていきたい》という言葉があって、わたしはよくこの鴇田さんの言葉について考えているんですが、このときたぶん〈俳句の境界〉や〈俳句の臨界〉のようなことについて考えておられたんじゃないかと思うんです。それで、〈いま・現在〉鴇田さんがご自身のこの言葉を読んでどう思われるかをお聞きしてみたいです。〕
鴇田◆
「季語」と「もの足りる体」ついては、その頃からずっと考え中です。

『俳句文学館』2016年2月号への寄稿でも触れたのですが、例を挙げますと、以前、

  南から骨のひらいた傘が来る

という句が浮かびました。季語がありません。当時私は有季定型を標榜する結社に所属していたので、

  みなみかぜ骨のひらいた傘が来る

と季語を入れて、発表しました。季語を入れることで、句に「もの足りる体」を付与したわけです。

どのように「もの足りる」のかというと、まず歳時記の「南風」の欄を見ればわかるのですが、夏の季節風であり、暖かい湿った風であり、……とまだまだ続く長い情報をいちおう、その句が纏う空気の中にすべて含んだことになる。そして、同じ季語を使った過去の誰かの句をすべて含んだことになる。上記の句の場合なら、「みなみかぜ」が平仮名表記ということもあり、たとえば、

  南国に死して御恩のみなみかぜ 攝津幸彦

の風情などが浮かぶでしょう。目の前の句が過去の句をふまえているという、知的満足感を、作者がもつだけでなく、読者にもあたえることになります。そのあたりすべてを含めて「もの足りる体」というわけです。

そして数年後、句集をまとめるときになり、この句を見直しました。「季語を入れなければならない」という決まりを外した場合、「南から」と「みなみかぜ」どちらがいいのだろう、と考え直しました。結論としては、

  南から骨のひらいた傘が来る

を句集『凧と円柱』に入れました。句を最初の形に戻したわけです。

理由としては、まず、「みなみかぜ」より「南から」のほうが、「骨」のという言葉の印象が強まり、ひらいた傘のフォルムがはっきりと心に焼付くように思ったからです。私は、一句全体を、風にでなく傘に引っ張らせたかったんだと思います。「みなみかぜ」だと「かぜ」という言葉があることにより、「風がふいたからこうなった」という理が生じ、傘へと視点が集中していく感じが薄れるのではないでしょうか。

Q◆
たしかに。

鴇田◆
そもそも私がこの句に求めているものは、がちがちの歳時記的な季感や光景ではないことを思いました。夏でなくてもいいのですが、しいていえば眩しさや遠い茂み、「南」という言葉がかろうじて醸し出す程度のほんのまばゆい雰囲気、遠い植物めいたもの、そのくらいがあればいいのだということに気づきました。

ここからわかるのは、「みなみかぜ」が含む、歳時記によりかかったひきだしと同様に、「南から」には言葉による別のひきだしがあるということです。ただ、そのひきだしには、個人差があります。ひきだしの背景に歳時記のような「特定の書物」が存在していないためです。

「南から」には、私が今言ったような、かすかな眩しさ、遠い植物らしきもの、ではないひきだしもあるでしょう。たとえば磁石や砂鉄のイメージとか。それでも私は、この句を「南から」としてよいと判断しました。その言葉がもつ広さと限界とを想像しつつ。最後は直感です。

Q◆
「みなみかぜ」を選べば、歳時記の伝統とともに、先行テクスト(攝津の「みなみかぜ」)を背負うことになる(「ひきだし」という用語)という指摘はたへん示唆深い。「南から」がもつ「特定されない書物」というひきだしを選ぶことは、俳句の決まり事=歳時記から自由になると、解しました。それによって、作品が読者に向かって、より開かれたものになる、と解していいのでしょうか。

鴇田◆
句によると思いますが、「南から」の句については、そうだと思います。

「南から」→「みなみかぜ」の変更は、作者がわざわざ作品を狭めている感じがしましたので、「南から」へ戻すのは、作品が読者へより開かれたことになると思います。

ただ、有季から無季にすれば全てそうなるということではないです。たとえば、

  神宮球場から骨のひらいた傘が来る

としたなら、スワローズの応援団(?)とか、狭い解釈を呼び込みます。

それはさておき、「みなみかぜ」→「南から」という変更は、〝歳時記が共通の拠り所であるという感じ〟からの解放ではあると思います。

私はここで、「感じ」までを〝 〟で括りましたが、それは私がこの「感じ」という半ば無意識な感覚のところに引っかかっているからです。

読者は、半ば無意識に歳時記という権威に寄り掛かってしまう。寄り掛かっているという自覚もないままそうなる。

その度合いが強くなると、読者はしぜんと権威を着、しぜんと「正しい解釈」を振りかざす。

たとえば、ある句の鑑賞を書く場合に、その句に使われている季語の本意のようなところに触れることで、その句を「読んだ」ことになってしまう。

季語をネタにして、一句についてそれなりに鑑賞文ができあがってしまう。

この「一丁上がり感」は嫌だなあと、私は思っています。

〝拠り所がある〟ことは別に悪いことではないのですが、そこに寄り掛かりすぎると、表現とか、解釈とか鑑賞とかが、悪い意味でゆるんだものになる。なあなあになるというか。

「南から」は、その「一丁上がり感」から解放したかったというのがありますが、いつも私は、季語を使うときも、作った句が一丁上がり的に読まれないように願っています。

有季の場合でも、季語に重みがかかりすぎないように作っているところがあります。

Q◆
「一丁あがり感」、含蓄です。ただ、不特定の、広範な「ひきだし」は、作者が効果をコントロールできないことになりませんか? それでかまわないという立場でしょうか。コントロールとは、作者のしつらえが読者の感興の質に反映される、くらいに考えてください。

鴇田◆
コントロールできない、ということにはならないと思います。

ただ、そもそも私は、コントロールというものをそれほど決定的に考えてはいません。基本的には、俳句において、コントロールできない部分は広いと考えています。季語を入れている場合でも入れていない場合でも、コントロールを意識する度合いは同じぐらいです。

というわけで、効果をコントロールできるかできないかは、俳句に季語が入っているかどうかには関係ないと思います。

Q◆
季語という「原典」の参照いかんではない、ということですね。


■有季定型という眼鏡

鴇田◆
例をもう1つ。

  輪郭がとんで石灰山にひと

十七音がいちどきに浮かんだ句です。以前の私なら、季語が入るように直して、

  輪郭がとんで二月の山にひと

などとしていたと思います。こうすると、「もの足りる体」になります。しかし、有季節定型という眼鏡を取り外して、二つを並べてみると、「二月の山」に比べて、「石灰山」がもの足りないという感じはしませんでした。この句は、元句のまま『凧と円柱』に入れました。この場合も最後は直感です。

このように、

1 有季定型の眼鏡を取り外す

2 最後は直感

という方法で、今は作品とかかわっているのですが、答えがはっきりと出ない場合もあります。それについて、最近の具体例を挙げてみます。歩いていてふと、

  首から上を空といふ

というフレーズが浮かびました。これにどんな上五をつけるか、と考え、

  はつなつは首から上を空といふ

としました。季語をつけたわけです。

有季定型の眼鏡をかけて見るなら、この句の場合、「はつなつは」は悪くない選択だと思います。「はつなつは」がついたことにより、「首から上を空といふ」が「はつなつ」という季語の情緒に引き込まれ、「もの足りる体」になります。

「もの足りる体」を求める感覚、それは、歳時記という書物の世界観にとけこんで安らぎを得ようとする感覚です。その一方で、このような季語の安心感によりかかってしまう予定調和感覚には、正直、うんざりする思いもあります。それで、

  しらいしは首から上を空といふ

としてみました。「しらいし」は口をついて出た言葉ですが、十中八九、人の名前でしょう。そんな友達が昔いたようにも思いますが、それはどちらでもいいことです。「はつなつは」の健康さとは違って、きょとんとした気分が出るのではないでしょうか。

Q◆
おっしゃるとおりです。きょとんとしてる。

鴇田◆
有季定型という眼鏡をかけて見るなら、「しらいし」はもの足りなく、弱いです。しかし、眼鏡をとって見たら、「はつなつ」も「しらいし」も同程度の重みをもっているのではないだろうかと考えます。どちらも、「首から上を空といふ」というフレーズに対して、ある強さをもった捩れを与えていることは同じだと考えます。

とすると、この句の上五は、「しらいしは」でも、いいのではないでしょうか。あとは作者として、どちらの句を選ぶか、というだけの話になります。たまたま、『オルガン』3号の題詠テーマが「上五」だったので、「しらいしは……」の句を、その中の1句に加えました。『オルガン』第3号のテーマ詠「上五」は、メンバーの句が面白いので、多くの人にぜひ読んでほしいです(と、ここで宣伝)。

今はこのようにして、私は自分の作品に関わっています。季語がないと「もの足りない」理由、それは、有季定型という眼鏡をかけているからに過ぎない。と、思うようにして、私は過ごしています。

ただ、先に言ったように、ずっと考え中であり、はっきりとした結論が出ない場合が多いです。この句の場合も、本当に「しらいしは」でよかったのか、まだわかりません。

「季語」と「もの足りる体」については、『凧と円柱』それ以前から考え中です。


■「鯉のぼり」は「お化け」

Q◆
季語に関して、お聞かせください。第一句集にあえて例をとります。《畳から秋の草へとつづく家》と《ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり》。畳は共通ですが、それぞれに季語にあたる部分、「秋の草」と「鯉のぼり」は、かなり異なるアプローチに思えます。簡単にいえば、前者は伝統に則ったもの、後者はさにあらず。とくに「鯉のぼり」は、意図的に思えます。このあたりはどうなのですか。曖昧な質問ですが。また、自句自解を強要するのなら、遺憾ですが。

鴇田◆
この二句には、句の捩れ所が季語にあるか、ないかの違いがあると思います。

作者として言うと、句の構造として、二つの句は似ています。つまり、

畳+秋の草
畳+鯉のぼり

という核があり、それを周囲の言葉がどうつないでいるか、という構造です。作者としては、どうつなぐのか、ということしか考えていない。問題は核をどうつなぐかであり、それが作品の個性になります。

結果、前者は「……から……とつづく家」、後者は「ゆふぐれの……白い」という繫ぎが見いだされました。作者から見ると、どちらの句も同じくらい捩れています。

ただ、出来上がった二句を並べて見ると、捩れ所が季語にあるか、そうでないかが違う。

前者は「へとつづく家」に捩れがあるのに対して、後者は「に白い鯉のぼり」に捩れがある。読者としては、季語「秋の草」はすんなり読めるので、そこでは捩れない。これに対して、季語「鯉のぼり」にはちょっと引っ掛かりがある。「鯉のぼり」がノイズを発している。なぜかというと、畳に重ねる対象としては、「秋の草」よりも「鯉のぼり」のほうが思い描きにくいからでしょう。で、「鯉のぼり」で捩れることになる。

Q◆
ノイズ。よくわかります。肯定的な意味でのノイズ。

鴇田◆
昔これを句会に出したとき、師の今井杏太郎が、「この〈鯉のぼり〉は、つまりは『お化け』だ」と言ったのを思い出します。

この「お化け」が表していたのは、一種の違和感ではあるのでしょうが、俳句の構造上の話として、ここは必ずしも「鯉のぼり」でなくともよい、つまり入れ替え可能である、ということであったように、私は思います。

下五に何が置かれるか。作者の最終的な結論として「鯉のぼり」が選ばれるとしても、あくまで前提としては、必ずしも「鯉のぼり」でなくともよいということではないか。この句の場合は、「鯉のぼり」が選ばれたことで、他のものが選ばれた場合に比べて、「お化け」の様相を呈したということなのではないかと。

ここまで見てくると、二つの句における「季語」のありようは、だいぶ違うように思います。ただそれは、出来上がった作品の構造を読者として分析すると、そうなるということです。作者としての私には、「秋の草」の句の場合と同様「鯉のぼり」の句についても、あくまで最初から「畳+鯉のぼり」のモチーフがあったので、そこが動く可能性は低かったと言えます。

Q◆
最後に、がらっと質問を変えて。俳句とは離れますが、最近、おもしろいと思う音楽、よく聴いている音楽は?

鴇田◆
アニマル・コレクティブという人たちの曲で、



が、前から好きだったんですが、最近これを、Tall Tall Treesという人(?)が1人でやっている楽しい映像をユーチューブで見つけて、



感動しました。

改造(?)バンジョーが笑えますが、しかもそれがカラフルに光ってる。そしてアレンジがいい。演奏と歌が巧い。

Q◆
おもしろいですね、トール・トール・トゥリーズ。ワンマンバンドの魅力。ライブ映像ならでは、ですね。長いあいだ、ありがとうございました。鴇田さんの近況とともに、長期のスパンで考えてこられたこと、その一端を、とても具体的なかたちで示していただきました。『オルガン』も注目させていただきます。



🔣「オルガン」のウェブサイト
http://organ-haiku.blogspot.jp/

10句作品テキスト 嵯峨根鈴子 ふたつの性

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嵯峨根鈴子 ふたつの性

だありあと少し凄んで名告りけり

空つぽの浮巣に戻る回転扉

夏鶯ふたつの性を跨いでしまふ

油絵具全色滝を搾り出す

そこんとこ超合金の蜥蜴の尾

仏桑華あんぐりかうもんくわつやくきん

充血した地球に添うて蚊柱が立つ

ででむしや箱にしんなりふたつの性

心臓のかゆきところに花ざくろ

かかとからくるりとむけて夏の月

10句作品 嵯峨根鈴子 ふたつの性

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週刊俳句 第479号 2016-6-26
嵯峨根鈴子 ふたつの性
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週刊俳句 第479号 2016年6月26日

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第479号
2016年6月26日


2015 角川俳句賞落選展 ≫見る
2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


嵯峨根鈴子 ふたつの性 10句 ≫読む
……………………………………………

鴇田智哉インタビュー 
季語・もの足りること・しらいし ≫読む
聞き手:西原天気

それは確かに「早計」というほかはない
筑紫磐井「関悦史の独自性 震災・社会性をめぐる若い世代」に対して……福田若之 ≫読む

〔句集を読む〕
水と仮面のエチカ
小池正博転校生は蟻まみれ』を読む……小津夜景 ≫読む

はじめてください、川の話を
小池正博転校生は蟻まみれ』を読む……西原天気 ≫読む

おなじものとちがうもの
加田由美句集『桃太郎』の一句……西原天気 ≫読む

月とカタツムリ
浜田はるみ句集『(ひび)』の一句……西原天気 ≫読む


連載 八田木枯の一句
酸つぱけれ三橋敏雄夏男……田中惣一郎 ≫読む

自由律俳句を読む 142
「鉄塊」を読む〔28〕 ……畠 働猫 ≫読む


〔今週号の表紙〕第479号 酒蔵……今野浮儚 ≫読む

後記+執筆者プロフィール ……西原天気 ≫読む



 
週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る





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後記+プロフィール 第480号

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後記 ● 村田 篠


滞在型の旅行をして、それがツアーではなくて自由に動く旅の場合、その街がとても身近になります。たとえそれが二泊三日程度だとしても、自分の足で歩くと、何度も同じ交差点を通ったり、同じ駅に降りたり、「疑似生活」的な行動をすることになるので、ぐっと親しみが増すのです。でも、旅を終えると同時にその身近さは消え去り、実際の生活の背景に押しやられて、なにやら懐かしい感じがし始めてしまいます。旅って不思議だなあ、と思います。



今週号は俳句作品がふたつ。夏らしさがあふれる遠藤由樹子さんの「夏の空」と、夏に毛皮の登場する竹井紫乙さんの「ドライクリーニング」。わたしは涼しさと暑さの対決として楽しませていただきました。



それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。

no.480/2016-7-3 profile

遠藤由樹子 えんどう・ゆきこ
昭和32年生まれ。鍵和田秞子に師事、未来図編集同人。
平成27年第61回角川俳句賞受賞。句集『濾過』。

■竹井紫乙 たけい・しおと
1970年生まれ。「びわこ番傘」会員 句集『ひよこ』『白百合亭日常』。ブログ「竹井紫乙 川柳日記」http://shirayuritei.jimdo.com

■瀬戸正洋 せと・せいよう
1954年生まれ。れもん二十歳代俳句研究会に途中参加。春燈「第三次桃青会」結成に参加。月刊俳句同人誌「里」創刊に参加。2014年『俳句と雑文 B』を上梓。

■小林すみれ こばやし・すみれ
1955年東京生まれ。2006年、「椋」入会、石田郷子に師事。2011年、第二回「椋年間賞」受賞。2015年、第一句集『星のなまへ』上梓。現在「椋」会員、俳人協会会員。

■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。句集『犬の眉』(2014年・現代俳句協会)。ブログ「ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記」

■鈴木茂雄 すずき・しげお
1950年大阪生まれ。堺市在住。「きっこのハイヒール」「KoteKote-句-Love」所属。 ☆Blog 「ハイク・カプセル」

■小久保佳世子 こくぼ・かよこ
1945年生まれ。「街」同人。句集『アングル』。

■トオイダイスケ とおい・だいすけ
1982年栃木県佐野市生まれ。東京都在住。澤俳句会所属。 URL: http://daisuketoi.com Twitter: @daisuketoi

■西村 麒麟 にしむら・きりん
1983年生れ、「古志」所属。 句集『鶉』(2013・私家版)。第4回芝不器男俳句新人賞大石悦子奨励賞、第5回田中裕明賞(ともに2014)を受賞。

■畠 働猫 はた・どうみょう
1975年生まれ。北海道札幌市在住。自由律俳句集団「鉄塊」を中心とした活動を経て、現在「自由律句のひろば」在籍。

■守屋明俊 もりや・あきとし
1950年生れ。86年に「未来図」入会、鍵和田秞子に師事。未来図新人賞、未来図賞を受賞。99年から「未来図」編集長。句集に『西日家族』『蓬生』『日暮れ鳥』。俳人協会幹事。

西原天気 さいばら・てんき
1955年生まれ。句集に『人名句集チャーリーさん』(2005年・私家版)、『けむり』(2011年10月・西田書店)。ブログ「俳句的日常」 twitter

■村田 篠 むらた・しの
1958年、兵庫県生まれ。2002年、俳句を始める。現在「月天」「塵風」同人、「百句会」会員。共著『子規に学ぶ俳句365日』(2011)。「Belle Epoque」

〔今週号の表紙〕第480号 CINEMA 守屋明俊

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〔今週号の表紙〕
第480号 CINEMA


守屋明俊



立川シネマ・ツー。2階から雨降りの気怠い街が見える。無機質の色調。暫く、ゴダールの『アルファヴィル』の主人公の気分で居られた。

手前の天井に扇風機がカラコロ回り、映画を観る前からハードボイルドタッチの感情が移入される。自分をさえ忘れさせてくれるこういう時空が有り難い。

そのような格好いいことを言っていながら、映画を観終わったあと毎度、立川高島屋の地下で崎陽軒の焼売弁当を買うのが慣わしになっていることを今、思い出した。

バーボンを1万本飲んで死んだハンフリー・ボガートの真似事をして数十年。でも、焼売は美味しい。



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自由律俳句を読む 143 「鉄塊」を読む〔29〕 畠働猫

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自由律俳句を読む 143
「鉄塊」を読む29

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第三十回(20151月)から。

この回から鉄塊に小澤温(はる)と武里圭一が参加する。
とは言え、小澤は「木葦」「春風亭馬堤曲」の号で、第一回から第四回にかけて参加していた草創期のメンバーである。
小澤も武里も若い詠み手である。
前回も述べたように、若い詠み手は貴重な存在だ。
この先の俳句人生の長さを思えば、その伸びしろや生み出せる句の数において若さはそのまま可能性の大きさである。
ただ、自由律俳句において、詠み始める早さが必ずしもそのままアドバンテージとなるかは疑問である。
花鳥諷詠、自らの外部に句材を求めていくならば、いつ詠み始めようと無限に句を拾うことができよう。
しかし、自らの内面に材を求めていく場合、それはいずれ枯渇するのではないか。
事実自分の場合、詠み始めて2年くらいは、汲んでも汲み尽くせない井戸が自分の中にあった。これまでの人生の中で、詩や小説にできなかった素材たちが、「自由律俳句」という表現手段に出会い、次々に現出していった。
そしてある日、覗き込んだ井戸が空になっていることに気づく。
もはや「表現しなくてはならない」ものは枯れ果てていた。
不思議と喪失感はなく、晴れ晴れした気分があった。
これは自分の実感であるし、誰もがそうだとは思わない。
そして、恐らくはまだ自分が至らぬ境地がこの先にあるのであろうとも思う。

しかし、若くして同様に井戸を汲み尽くしてしまったと感じた者はどうなるのか。
「これしかない」という思いでこの表現方法を選び、そして詠めなくなってしまった者は。
その苦しみを思うと、私は他人事ながら胸が痛む。
だからそうした若者のために何ができるかと、いつも考えてしまうのである。


文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第三十回(20151月)より

手にいっぱいの種をまく 小澤温
○希望を感じさせる。小さな手であろう。子供の手か。私たちは種を蒔く土壌をどれだけ次の世代に残せるのだろう。(働猫)

美しい句である。
小さな子供とともに種をまく様子を思い浮かべた。
種は未来への希望である。
私も種をまき育てる仕事をしながら、その種が育つ未来を思い、しばしば暗鬱たる思いに囚われる。
自分も含めて、すべての大人は無力であり、一種白痴的傾向に陥っているように思う。
政治も経済も行き詰まり、もはや自分がこの世から逃げ切るまでの誤魔化しや暇潰しに終始しているようだ。
「いかなることも七世代先まで考えて決めなくてはならない」というネイティブアメリカンの格言がある。まだこの世にいない者の利益が最大限になるよう考えて生きなくてはならないということだ。
それが今を生きる者の責任である。
いますでに存在している若者をも切り捨てようとしている社会は滅ぶべくして滅ぶ。せめて私は、種をまくことをやめないでいたい。



雀一斉に陽へ隠れ 小澤温
○羽ばたく雀を目で追って太陽を見たのだろう。視点の移動を自然と表現している。(働猫)

小さなものを追った視線が太陽を見てしまったのだろう。
冬の日の長閑やかな景を切り取っている。
さえずりや羽音まで聞こえてくるようである。



鉄塔の重き夜空 小澤温
○曇り空ならば重いのもわかるのだが、「夜空」が重いというのはよくわからない。では重いのは鉄塔か。鉄塔を重いと感じるのはどのような目なのか。これは景色・情景を常に審美眼によって切り取る癖を持つ者の句であろう。この夜、この情景においてあの鉄塔が重いのである。その自らの違和を詠んだものか。(働猫)

小澤温の句に通底するものは、この審美眼であろう。
小澤は好んで性的な句材を用い、また露悪的とも言えるような句を詠む。
そうした句ばかりを見ると気づきにくいが、そこには自身の審美観に沿った美の発見があるのである。その美醜の判断は、社会的通念や倫理、道徳とは無縁である。ただただ、自らの眼で美の本質を探り当てようとしているのだろう。
ここまでの3つの句だけでも、その美への眼差しの鋭さ、慧眼を感じ取ることができよう。



インポや妻に初夢見させる 小澤温
△「見せたる」と誤読して、関西弁の句かな、と思ったが違った。関西弁の句の方が面白かった。(働猫)

露悪的で自嘲的である。



今日の寝床か脚をさらせば 小澤温
△一夜の宿を得るために、脚を晒しているのだろうか。家出の末、身体を売ることを覚えた女子の悲哀を詠んだものか。女子の貧困は、搾取と偏見によってさらに貶められてしまう深い闇だ。(働猫)

こちらも性的な匂いのする句である。



殺したい顔面拭えないので 一人暮らしはじめました 武里圭一
●よくわからない。意味が、ではなく、表現の意図が。空白も効果的ではないように思う。始めるのは冷やし中華でもよいように思う。(働猫)

武里の鉄塊での最初の句であるが、当時逆選でとっているように、よくない。
冗長であり、内容も甘えが過ぎる。
若さゆえであろう。今はまだ詠むべき景ではなかった。
のちに振り返って詠めばまた違う句になろうかと思う。



君の的外れ俺の的を射た 武里圭一
△J-POPの歌詞のようだなと感じた。(働猫)

「君」と「俺」が「若い子の聞く曲」に感じたところだろうか。
「君」に対応する一人称は「僕」であろうし、「俺」と言うなら「お前」だろう。
「君」と「俺」だとパーソナリティが分裂気味であり、思春期の不安定なアイデンティティを感じさせる。
そうした若さゆえの不安定さを(それこそ露悪的に)そのまま見せていけば、それこそ今しか詠めない句となり、彼の持ち味となると思う。しかし武里は妙に老成したところがあり(あるいはそう見せたいのか)、それを隠してしまう。
周囲に同世代の詠み人がないせいかもしれないが、老人が詠むような句を武里が詠む必要などないのである。
必要なのは呈示ではなく開示だろうと思う。



寂しい夜の水洟すする 武里圭一
△「水」で区切るのか、「水洟」とするのか。「水洟」ならば相当熱も高いのだろう。大事にしてほしいものだ。(働猫)

句意としては「水」で区切った方がおもしろいと思う。
しかしそうであるならば、表記上そう読めるようにしただろう。
だからやはり「水洟」なのだ。
熱の夜の寂しさを「寂しい」と言ってしまっては身も蓋もないではないか。
これも若さか。



二の足踏むや祖父はICUにいる 武里圭一
△母親の脳梗塞を経験しているので、この心境には共感できる。現実を直視することを恐れる心境がよく表現されている。(働猫)

目を逸らしているうちは、苦しみや悲しみを無いものとしていられる。
しかし、現実は時間とともに確実に進行してゆく。
失わずにすむものなど、この世には何もない。



主治医の話きいていきおい煙草吸いに出た俺だった 武里圭一
△「永訣の朝(宮澤賢治)」中の「曲がった鉄砲玉のように」を思わせる。「俺だった」はなくともいいと思うが、よく知っている自分自身の意外な行動に驚いたという意味での「俺だった」ならば、削るわけにもいかないのだろう。(働猫)

「俺だった」と聞くと、ジョジョ好きとしてはヌケサクしか思い浮かばないから困るよ。



真っ直ぐ蒲団を敷いて祈る 小笠原玉虫
△ムスリムかな。互いの祈りが尊重される世界であってほしい。(働猫)

種をまき、あとは祈ること。
未来のために、次の世代のために私たちにできることは限られている。
人がみな尊重し合える世界になるように願うばかりだ。



裸木のレース透かして鈍空がくる 小笠原玉虫
△「レース」と表現したのは詩的であると思う。「鈍空」はよくわからないが曇天のことなのであろうか。雪の降る前の情景を詠んだものだろうか。(働猫)

「裸木のレース」は巧みな比喩表現であったと思う。
おそらくは、葉を落とした枝の影がレースのように絡み合う様子を喩えたものと思うが、その景に気づくのは晴天でなかろうかと思う。
明るい日差しにふと見上げた枝が逆光で黒くレースのように絡み合っている。
その発見は「鈍空」とは別の日にあったのではないか。
そしてその「レース」の印象を持ったまま、それ以降の日の鈍空に出会ったのだろう。
つまりこの句は二つの時間の発見を一つの句にまとめているのだ。
そこに違和感を覚えるのは確かだが、詩としては悪くないように思う。



明け方の月が薄くて爪を噛んだ 小笠原玉虫
△なぜ「噛む」にしなかったのだろう。「噛む」の方がずっといいのに。「噛んだ」と過去形にすることで、爪を噛むという無意識の行為を意識下のものとしてしまう。「爪を噛んだ自分」を詩的なものとして振り返っているような、やや過剰な自意識を思わせてしまうのだ。「噛む」であれば、意図のない瞬間を切り取った表現となる。どちらも「爪を噛む自分」を客観視しているのだが、「噛んだ」とした場合には自意識がやや臭う。(働猫)

これは当時の句評の通りである。好みの問題かもしれないが。



鍵盤叩いてひとつずつ葬る 小笠原玉虫
△レクイエムだろう。鎮めるものは魂であろうか、思い出であろうか。(働猫)

私はあらゆる楽器が弾けない。
おそらく神は与えすぎることを恐れたのだろう。
したがって、楽器が出てくる句は、どうにもよくわからない。
当時の句評も「そんなことがあるのだろうかなあああ」くらいの想像で書いたものである。



雨のせいです笑うしかない 小笠原玉虫
△「他者のせいにすること」も「笑ってごまかすこと」も私は忌み嫌っている。この句にはそれが二つとも入っている。むう。許せぬ。(働猫)

十年くらい前のことだが、雪道で信号待ちをしているときに後続車に追突されたことがあった。
幸い互いにけがはなかったが、私の車はバンパーがかなりへこんだ。
後続車を運転していたのは若い女性で、かなり動揺していたようだったので、できるだけ優しく対応することにした。
その後、事故処理の過程で、謝罪の電話をかけてきたのだが、終始へらへらと笑っているのである。緊張すると笑ってしまう人というのはいるものなので、電話の応対の際は「ああしかたないよな」と思いながら聞いていたが、あとになって猛烈に腹が立った。
そんなことを思いだした句である。
むう。



水音かさなる秒針 馬場古戸暢
○時を刻む音が二つある状態。「水音」は水滴であろうか。重なっているから耐えられるが、二つの音にずれがあった場合、精神に異常を来しそうな気がする。(働猫)

微かな音を描写することで静けさを表現する古典的技法である。
しかし、その音を二つにすることで、狂気的な不安定さを加味した。
眠れずに冴えていく意識が、何秒かに一度落ちる水滴の音と秒針の音を数えている。
ぞっとするような景である。



ごみも落ち葉もこの棟の陰 馬場古戸暢
△吹き溜まりになっているのだろう。掃除する者もない閑居の様子か。(働猫)

団地を思う。
そこに住んでいるのだとすれば、ごみや落ち葉とともに吹き溜まりわだかまる自分自身を詠んでいるのだろう。



ごみ袋あいて雀二羽 馬場古戸暢
△袋の中にいたのか。開けたところに餌を求めてやってきたのか。いずれにしても微笑ましい景色だ。(働猫)

小澤の詠んだ雀が飛び去って行くのに対し、古戸暢の雀はそこに留まっている。
人柄の差であろうか。



小雨のふたりの近い深夜 馬場古戸暢
△傘の中の二人なのだろう。温もりを感じる。(働猫)

今日(72日)札幌はひどい豪雨に見舞われた。
出かける用事がなければ、雨も悪くはないのだが。
小雨の深夜、一つの傘で歩く。
色気のある状況である。
このところ経験していない景でもあり、寂しい。



この子どこの子抱き上げておく 馬場古戸暢
△正月の親類が集まる席であろうか。誰の子供かわからないが、とりあえず抱き上げておく。やさしさのようでもある。しかし自分に引き寄せて考えてみると、子供嫌いな人間が、社会にうまく適応するために、パフォーマンスとして行っている情景を思う。そういった「とりあえず」感がこの句の主題であろう。(働猫)

ああ、私はよくやってしまうのだ。
子供は本当に嫌いなのだが、とりあえずパフォーマンスとしてかまってしまう。
その度自己嫌悪に陥るが、「子供嫌いなので近寄らないでください」とか言ってしまうのは幼稚に過ぎる。
とりあえずやっとかないといけないことが大人には無限にあるのだ。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
雪降り積もりだれもいない夜が輝く 畠働猫
平等に呪われながら愛を負う 畠働猫
夜しずか咎の無い者みな眠る 畠働猫
--・-・ ・-・-・ --・- ・-・-・ -・-・- ・・-・- --・-・ ・・・- ・-・・・ ・・- ・・-・・ ・・- ・--- ---- ・・- 畠働猫
避けられぬ苦しみぐらいあるさひつじ年 畠働猫

1月の句会であったので、新年を詠んだ句が集まるかと思ったが、自分以外では小澤のインポ句しかなかった。

4句目はモールス符号で、
「シンネンサミシクオウトウヲコウ」
「新年さみしく応答を乞う」
と詠んだ。
同音で「信念」、「桜桃」などの意にとってもおもしろかろうと思ったのだが、どうか。特に誰も言及してくれなかった。
応答のない「さみしさ」は、鉄塊の終焉を遠からず感じていたこともあるのだろう。



次回は、「鉄塊」を読む〔30〕。



【八田木枯の一句】衣食住のみか晝寝も附いてゐし 西村麒麟

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【八田木枯の一句】
衣食住のみか晝寝も附いてゐし

西村麒麟


衣食住のみか晝寝も附いてゐし  八田木枯

『夜さり』(2004年)より。

高級旅館に行って何もせず、昼寝をすることを一番の贅沢とする人の話を何かで読んだことがあるが、羨ましいなと思う。

無くてもまぁ、生きてはいける程度のもの、嫌な言い方をするとおまけのようなもの、年齢を重ねるにつれて、そういったものが愛しくなる。昼寝が実にいい気持ちなのは、余計なものだからだろう。だって夜は夜でちゃんと眠るもの。

お洒落着も美食も豪邸も、その無駄ぶりは昼寝にはかなわない。昼寝を美しいなぁと思う。誰もそうは言ってくれないところなんかも奥ゆかしくて良い、昼寝ってやつは。

掲句はそのままの意味で読むと、昼寝とかもできるし、まぁ、満足な暮らしかな、といったところだろうけど、人生で一番楽しいことが何か、がよくわかっているような句である。

 衣食足りて昼寝が足らず、ではまだまだ。


【週俳5月・6月の俳句を読む】遠くから、聴くように トオイダイスケ

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【週俳5月・6月の俳句を読む】
遠くから、聴くように

トオイダイスケ


木の樽は静かなLとRかな  野間幸恵

「LとR」とは、「左側と右側」を表す言葉だろうか。オーディオやPAにおいてステレオスピーカーの左側と右側から出る音量のバランスを調節するときにしばしば「LとR」の話をする。また、樽をスピーカーにしたものは実際存在する。樽でできた音を出していない状態のスピーカーを目にしてそのまま句にしたのかもしれない。スピーカーという音が出る、どちらかといえば騒がしいイメージがあるものにまつわるような言葉に「静かな」という形容が付いていること自体が私には面白かった。

しかしこの言葉の並びでは、”木の樽は、LとR(であって、静かであるなあ)”と言っているので、スピーカーにLとRがあるという意味の句というよりは、「木の樽」の対称な形、それが置かれてあることの揺るぎなさのような印象を句にしたのかもしれない。
「木の樽」は多分かなり昔から、主に酒や食物を発酵させたり貯蔵するために、多くの土地でたくさん作られ、繰り返し使われ、分解されてまた別の物体として再利用されてきただろう。樽という物体にいろいろな物事や出来事が纏わり付いているような気持ちになる。そんな人間の文化文明の歴史の積み重なりも思う。「静か」「LとR」の言葉によって、歴史上の膨大な数の、古今東西の人間たちの様々な振る舞いの数々を俯瞰的に遠くから――まるで聴くように――見ている心持になる。

「LとR」は聴覚にまつわることでもあるが、聴こえてくる場所を調節変化させるつまみで表されるため、視覚のことでもある。つまみをひねる運動やその触覚も伴う。つまみは円いし、樽も円く転がして運ぶこともある。こういった様々なイメージや情報をひっくるめてこの言葉の並びで句にしたことで、この句は具体的なことを何も伝えていないようでいて、多くの感覚を味わわせてくれる。

第472号 2016年5月8日
広渡敬雄 黒 潮 10句 ≫読む
第473号 2016年5月15日
野間幸恵 雨の木 10句 ≫読む
第476号 2016年6月5日
こしのゆみこ まみれる 10句 ≫読む
第477号 2016年6月12日
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第478号 2016年6月19日
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【週俳5月・6月の俳句を読む】新しい関係 鈴木茂雄

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【週俳5月・6月の俳句を読む】
新しい関係

鈴木茂雄


「形態から離れた、色と形の感情的意味に基づく純粋な抽象画の先駆者」というカンデンスキーを紹介した文章に触発されて、それでは「言葉の意味から離れた、音と形の感覚的記号に基づく純粋な俳句の先駆者」はだれだろう、ツイッターでそうつぶやいたところ、あなたはだれだと思いますか、という質問を受けた。こちらは軽くつぶやいただけなのだが、その質問がわたしの中では、純粋俳句とは何かという妄想となってさらにふくらむ始末。そんな折にふっと本稿依頼のメールが届いた。

そのタイミングがわたしには面白かったので、妄想はさらにつづくことになり、音と形の感覚的記号に基づく純粋な俳句(かつて俳句用語として取り沙汰された「純粋俳句」を意識してはいるが、ここではそれを用語として使っていない)というのは、もとよりわたしの妄想にすぎないが、この未踏ともいうべき詩の領域へ俳人が未だ踏み込んだことのない場所かというと、それがそうでもないような気がする。あるハイジンの、あるハイクが、あるとき突然変異の新種のようにこの世に出現することがある。

そういうタイミングでわたしの目に飛び込んできたのが、野間幸恵の「雨の木」だった。一読不思議な作品だと思った。不思議というより異色、たとえば格調の高さは現代俳句の到達した一典型と謳われる飯田蛇笏の作品群に代表される、これぞ俳句というような俳句的骨法から良い意味で遠くかけ離れていて、かけ離れているどころか、いや、いったいこの作者は俳句の作り手なのか、詩の作り手なのか、そんな印象を受けた。なぜならこの作者は俳句という詩形になぞらえて表現してはいるが、つまり、限りなく十七音に近づけようとしているが、一方で季語や切れ字を踏まえた俳句を、作るというか、詠むというか、あるいは書くといったらいいのか、そういうことにはまるで無頓着、ただ、言葉のあやとり、言語構築の工夫にのみ重きを置いているように見て取れ、逆に俳句ってなんだろうと考えさせられる。

言葉が持つあらゆる意味、あらゆるニュアンスは、作者がそれらを選択する以前に、歴史的に蓄積されてきた既成の言葉の意味によって支配されているであろう、それゆえ、言葉は俳句という詩形の中にいろいろと並び替え、あらゆる方法を駆使して新しく構築し直して行くほかはない。しかもさらに困難なことに、言葉が持つ意味やニュアンスを含めて、伝統という場所は容易に入ることが出来るところではあるが、そこに深入りすると、たちまち支配され拘束されることは俳句のみならず言葉に関わるだれもが経験済みのことである。その危険から回避する術を身につけていくものだけが、ひとりの俳人の方法論へと移行する。

かたくなに三半規管だろう雨   野間幸恵

「雨の木」というと大江健三郎の連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』を持ち出すまでもなく、そのメタファーの喚起力によって一気にその世界に引き摺り込まれるのだが、揚句は一読正直なんのことかさっぱりわからない。が、ここは是が非でもわかってみせようと、こちらもかたくなに耳の奥にあるという三半規管を覗いてみようと試みる。そして雨の音にも注意深く耳を傾ける。が、やっぱりわからない。何がわからないのか。「かたくなに」も「三半規管」も「だろう」も「雨」も、すべてよくわかる。どこがわからないのか。「かたくなに三半規管」がわからない。「三半規管だろう」も「だろう雨」もよくわからない。再読、一句全体を眺め直す。すると、コトバがモザイク(小さな断片を並べて模様を表していく)されていく(されている、つまり、映像の一部の解像度を落とて粗いブロックの集まりに置き換えてボカす、というのではなく)、そんな感じがしてくる。

省略のために抜き出したであろうと思われるピースを足してみよう。

かたくなに◯◯◯◯◯◯◯
三半規管◯◯◯だろう、◯ 。
雨◯◯◯◯◯

「小さな断片」の欠落部分は十七音詩という定型に収めるための省略だ。三半規管は平衡感覚をつかさどる部分、などと辞書的なことを考えだすと、たちまちこの作品から詩は霧散する。同時発表の作品からピースを拾ってみると少しづつに伝わってくる。「雨を書く」「木の樽」「静かなLとR」「睡眠」「シマウマ」「牛乳」「語尾」「森」「来る」「鰯の群れ」「海岸」「パンを焼く」「雨の日」「つるうめもどき」。

この作品のコアは「耳」、とくに雨の止んだ直後のレインツリーに、じっと聴き澄ます耳なのだ。

詩人の西脇順三郎は言う、
すぐれた「新しい関係」を発見することがすぐれたポエジイの目的である。ここでいう「発見」という意味は創作するという意味である。(略)
新しい関係を発見することが詩作の目的である。ポエジイということは新しい関係を発見するよろこびの感情である。このよろこびの感情のことを快感とも昔からよんでいる。また美といったり、神秘といったり、驚きといっている。いずれにしても詩作者は自分の頭の中にそうした感情を起こすように詩作する。読者もそうしたポエジイという感情を感じるように読まなければならない。(定本 西脇順三郎全集 VI 「詩学」筑摩書房より)
と。

このほかとくに印象に残った作品は次の通りです。

慰霊碑は津波の高さ春の雲    広渡敬雄

箱の蓋ずらし青葉騒を聞く    こしのゆみこ

サイダーや花屋の前の男たち   黒岩徳将

金魚より長生きをして詩を読んで   小林かんな

ででむしや箱にしんなりふたつの性   嵯峨根鈴子

第472号 2016年5月8日
広渡敬雄 黒 潮 10句 ≫読む
第473号 2016年5月15日
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第476号 2016年6月5日
こしのゆみこ まみれる 10句 ≫読む
第477号 2016年6月12日
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第478号 2016年6月19日
小林かんな 休 日 10句 ≫読む
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【週俳5月・6月の俳句を読む】別の時間 小久保佳世子

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【週俳5月・6月の俳句を読む】
別の時間

小久保佳世子


黒岩徳将「耳打ち」10句に底流するテーマは「日常からの遠さ」でしょうか。なんとなく絵画化したくなる俳句でした。

芝桜埴輪の馬に短き尾  黒岩徳将

埴輪馬の尾に焦点を当てています。芝桜に照り映える古墳時代の明るい空気がイメージされ、シンプルな仕立てが句に広がりを持たせたと思います。

顔に巻く手拭ひ短か苗代田  同

どうも「短さ」が気になる作者のようです。頬かむりに余る大きな農夫の顔が可笑しくちょっと哀れ。「顔に巻く」は作者独自の素朴でリアルな表現だと思います。

明易や古墳と知らず昇りつめ  同

季語「明易」の違和感に中七下五の平凡さをひっくり返す働きがあるような。知らないうちに古代へ踏み込んでいたという感じですが思えば「明易」は朝と夜の境界なのですね。

六月の鼻緒に指の開きたる  同

「六月」がうまくハマっています。六月の情緒と写生の配合が上手すぎる、かも。絵に描くとしたら鼻緒は赤でしょうか。

だんだんに木々のひらけて時鳥  同

時鳥の目線からの句。「ひらけて」は森から林そして木の一本一本という感じに視界がひらけるということでしょうか。動きが巧みに詠まれています。

耳打ちの蛇左右から「マチュピチュ」と  同

突然の「マチュピチュ」。あの遺跡のマチュピチュではなく意味不明のおまじないのようです。神話の世界では、二一世紀とは別の時間が流れていることを思わせる句です。

サイダーや花屋の前の男たち  同

草食男子の淡さがサイダーにパラフレーズされているようです。と言ってもシニカルな味は薄いような。

汗が汗を匿ふアレクサンドリア  同

汗が汗を匿うとは、次々出る玉の汗のことだと思いました。アレクサンドリアの壮大感と汗の卑小さの対比が面白いです。

青林檎服をつかみしまま眠る  同

青春ですね。「林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき 寺山修司」を思い出しました。

夏の夕とほき小芥子と目が合つて  同

目が合っていながらなお遠い小芥子。懐かしさと憧憬はある遠さがあってこそかもしれません。

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【週俳5月・6月の俳句を読む】老人のブルース 瀬戸正洋

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【週俳5月・6月の俳句を読む】
老人のブルース

瀬戸正洋


三年前、左足首の手術をした。それ以来、ふくらはぎから足首のあたりが痛む。足を引き摺りながら歩くのは老人くさくて嫌なので、普通に歩こうとすると痛みが酷くなる。湯ぶねに浸かるたびにマッサージをするようになった。

私は、O線でE駅まで行きE駅でS線に乗り換える。E駅のホームでは、二輌乗り過ごし座席を確保している。ある日、発車間際、ひとりの若者が乗り込んできた。「足が悪いのでご協力して下さいませんか」と言う。座っている三人に向かって言い続けるので、必ず、そのうちのひとりは立ち上がり席を譲る。私は怯えた。六十歳を越えた老人の前には来ないだろうと思ってみても、その若者が私の前に立ったら、勇気を振り絞り自分の左足の痛みを説明しなければならない。だが、大勢の中、そんなことを言うより、座席を譲った方がいいに決まっている。私は憂鬱になった。

油絵具全色滝を搾り出す  嵯峨根鈴子

油絵具は憂鬱なのである。滝も憂鬱なのである。もちろん、作者自身も憂鬱なのである。油絵具だけを搾り出すだけでは「憂鬱」さを描くことはできない。作者は自身のことを未熟だとも思っている。自分自身の全てを搾り出さなければ「憂鬱」な私自身を描くことはできないと考えている。

充血した地球に添うて蚊柱が立つ  嵯峨根鈴子

充血といえば目を思い浮かべるが、作者は地球が充血したと言っている。地球が充血していると作者には見えるのである。充血した地球は憂鬱なのである。その地球に添って蚊柱が立つ。群れをなして飛ぶ雄のユスリカに雌のユスリカが飛んできては雄をつかまえて、どこかへと飛び去っていく。巨大なユスリカなのだ。不快なものでも何でもかまわない。誰かが、あるいは何かが寄り添ってくれればそれでいいのだと思う。

心臓のかゆきところに花ざくろ  嵯峨根鈴子

心臓を見たことはない。石榴の花は見たことがある。小学校の校庭に老木があった。心臓がかゆいと感じているのだから心臓に何か違和感があるのかも知れない。作者も自身の心臓は見たことはないだろう。その心臓のかゆいところに花ざくろを置こうというのだから、これも風流のひとつなのかも知れない。

かかとからくるりとむけて夏の月  嵯峨根鈴子

くるりとむくには、頭から、あるいは、踵からというのが常套の手段なのだろう。そのひとの本質、性格は、なかなか変えることはできない。従って、見た目ぐらいは変えて、他人に対しても、自分に対しても、気分転換を図ってもいいと考えたのである。地球の上でくるりとむくのである。夏の月に見られていることが恥ずかしい。

朝ぐもり開封の前よく振って  小林かんな

朝食にはサラダが似合う。サラダにはドレッシングをかける。かける前にはよく振らなくてはならない。冷たい野菜サラダ、こころも身体もシャキッとして、今日も一日がんばろうという意欲がみなぎる。

記憶より明るきくらげ出てきたり  小林かんな

明るきくらげを先に見るか暗きくらげを先に見るかによって人生は変わるのである。たまたま、「暗きくらげ」を先に見てしまったということなのである。その他のことも、すべて同じことだ。どちらを先に見るかによって幸不幸は決まる。恐ろしい話だと思う。

そうめんの乱れぬように帯の色   小林かんな

そうめんがばらばらにならないように帯をまく。帯が、そうめんをまとめているのだが、本当にそうめんを乱れぬようにしているのは帯ではなく帯の「色」なのである。「色」とは、全てのものを束縛する不思議な**なのである。

海の底見てきた夜の扇風機  小林かんな

海辺の旅館、あるいは、民宿なのかも知れない。一日、海で遊んだあと、大広間での冷たいビールと夕食。素潜りで楽しんだ海の底の話で盛り上がる。窓は開け放たれ、大きな扇風機と蚊取り線香のけむり。

金魚より長生きをして詩を読んで  小林かんな

金魚より長生きをすることは奇跡なのである。詩を読むことも奇跡なのである。ひとは奇跡の積み重ねで生き続けることができ、詩を読むことができるのである。

夏の月字を消しているボールペン  小林かんな

ボールペンは文字を書く道具である。ボールペンで文字を消すとは黒く塗りつぶすことである。ボールペンの本来のはたらきとは異なっている。ひとは意思を持って文字を書く、意思を持って文字を消す。夏の月は何も言わずにおろかなひとの行為を、ただ、じっと眺めている。

六月の鼻緒に指の開きたる  黒岩徳将

鼻緒のある履物をはくとき無意識のうちに足の親指が動くのである。六月とあるのでビーチサンダルなのかも知れない。ビーチサンダルで街を歩く。六月の雨は舗道を濡らし、舗道からビーチサンダルへ、ビーチサンダルから素足へ、素足から身体全体へと、だんだんに侵されていく。

サイダーや花屋の前の男たち  黒岩徳将

老妻に花を買って帰ろうなどと思ったことはない。私が花を買うのは、春と秋の彼岸、旧盆、それから暮の三十日等々、墓参りの時だけなのである。そんな私は、「花屋の前に男たちが意味もなく屯っているのを訝りながら眺め、サイダーをらっぱ飲みしている」などと思う。これが精一杯の鑑賞なのである。

空の箱つみあがりゆく夏の家   こしのゆみこ

空の箱が積み上がっていくというと八百屋の店先というイメージだ。それも繁盛している商店街にある八百屋なのである。店先には、夏野菜であふれ買い物客でごった返している。その奥には、誰もいない開け放たれた住居があり卓袱台には団扇が置かれている。

郭公のきこえてきたる眠りかな  こしのゆみこ

郭公を聞くには、丹沢、箱根、富士の裾野あたりまで出掛けなければ難しいのだと思う。だが、自宅でも、他の野鳥の声はいくらでも聞くことができる。尾崎一雄のように野鳥図鑑と双眼鏡を買い込み観察をしなければ、どの野鳥がどのように鳴いているのかを知ることができない。作者はおそらく山荘かどこかで休日を過ごしているのだ。うつらうつらしながら郭公の声を聞いているのだ。

泰山木の花はずれかかった冠  こしのゆみこ

泰山木の花は冠に見えないことはない。咲いているすがたは、はずれかかった冠のように見えないこともない。生きるためには、見っとも無いこともするし嘘も付く。悪を拒むことなど至難の業なのである。尊厳、あるいは、プライドなどが外れかかっていてこその人生なのである。それにしても泰山木の花の白は眩し過ぎる。

雨を書く生まれてくる日に追いついて  野間幸恵

雨を眺めていたら何故か楽しくなってきた。言葉に整えようとしてもなかなかうまくいかない。それは、あたりまえのことなのである。言葉を整えていくことは苦行なのである。苦行など忘れて、ただ、雨を楽しめばいいなどと弱気のかみさまは囁く。だから、作者は幸福な出来事を傍らに置いてみた。これで何とかなるかも知れないと思う。

good-byeと鰯の群れを思いけり  野間幸恵

「good-bye」と彼氏に言ったのである。最後のデートは水族館、鰯の群れが泳いでいる。鰯の群れの泳ぐ勢いは虚しさの象徴だ。数十年を経て作者は、ふたたび、「good-bye」と言う。その時、脳髄いっぱいに鰯の群れが勢いよく泳ぎはじめたのである。

戦没と津波の位牌梅の花  広渡敬雄

七十一年前に亡くなった方の位牌と五年前に亡くなった方の位牌がある。花立には梅の花が飾られている。戦死広報が届けられたのもこの季節だったのかも知れない。作者は、梅の花が開く度に、ふたりのことを思い出すのである。暦のない時代、季節の変化は、ひとが何かを思い出す切っ掛けとして大切なものだったのである。

遠ざかるほど蒲公英のあふれけり  広渡敬雄

足元に蒲公英が咲いている。その程度に思っていた。しばらく歩き振り返ってみると野原一面に蒲公英に驚く。また、「振り返る山の遠さよ花辛夷」という作品もある。蒲公英は振り返った先、花辛夷は振り返ったところ。作者には、振り返らなければならない何か理由があったのである。

私は、E駅では三輌、乗り過ごすことにした。毎日、乗っていた改札口に近い、一番うしろの車両も二番目の車両に乗ることにした。逃げることにしたのである。そこで、気付いたことがあった。その車両には見知った顔が多く乗っていた。避難してきたひとたちであった。座席を若者に譲ったひとは、必ず、その車両から出て、どこかへ行ってしまう。満員の通勤快速で立つことは苦痛なのである。誰もが座りたい一心で、朝早く起き、ホームでは数輌、乗り過ごし、やっとの思いで座席を確保するのだ。

だが、このように、いくら弁明してみても逃げたことに対し、私には罪悪感のようなものが残る。どんな小さな罪悪感でも残る以上、私は悪人であるのだ。いつものように、同じ時刻、同じ車両に乗る。その若者が前に立ったら、すこしぐらい左足が痛くても座席を譲る。「ソンナ人間ニ、私ハ、ナリタイ。」

第472号 2016年5月8日
広渡敬雄 黒 潮 10句 ≫読む
第473号 2016年5月15日
野間幸恵 雨の木 10句 ≫読む
第476号 2016年6月5日
こしのゆみこ まみれる 10句 ≫読む
第477号 2016年6月12日
黒岩徳将 耳打ち 10句 ≫読む
第478号 2016年6月19日
小林かんな 休 日 10句 ≫読む
嵯峨根鈴子 ふたつの性 10句 ≫読む

【週俳5月・6月の俳句を読む】人間の不自由さについても 岡田由季

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【週俳5月・6月の俳句を読む】
人間の不自由さについても

岡田由季


遠ざかるほど蒲公英のあふれけり  広渡敬雄

10句中に「慰霊碑は津波の高さ春の雲」「復興の仮設店舗に種物屋」等の句があり、震災五年後の現在の東北を題材とした作品と読み取れるが、なかでも遠景を詠んだ句が多いように感じた。作者の常の詠み方がそうであるとも思えないので、このまなざしの遠さは、作者の立ち位置が旅人であり、当地の現実との距離があることを示すのかもしれない。掲句は「遠ざかるほど」と言っている。蒲公英の黄色は目を引く色であるが、背を向けて遠ざかってゆくのでは、いくら目立つ色でも目に入ってくることはない。振り返り見ているか、心の内でのものか、いずれにせよ作者の気持ちは遠ざかっていくその地に残っている。そして、そこに、あふれるほどの蒲公英の黄の強さ、明るさを見ている。

雨を書く生まれてくる日に追いついて  野間幸恵

「雨を書く」であって「雨を描く」ではない。そこがムードに流れた読み方をされることを回避している。「雨」という字を書く、「雨」について描写する、雨の中で何かを書く、いろいろなパターンが考えられるが、大量の文字情報が猛スピードで書かれている様子をイメージした。その様子は何かに憑かれたようで凄みがあるし、生まれてくる日に追いつくというのも胎児の姿などを想像し、やや不気味に感じた。意味が全くとれない難解な句ではなく、句の内容が像を結びそうで結びきれない不安定な心持ちが、そういう読みを誘うのかもしれない。

箱の蓋ずらし青葉騒を聞く  こしのゆみこ

青葉騒は箱の中にあるのか、外なのか。中と考えるのが一般的な読みだろうか。そうすると、いわゆる「神目線」で箱の中の小さな世界を覗き混んでいることになる。逆に外と考えると、箱の中の世界に住んでいる者が、ざわめきにつられ、外界への窓を開けるように箱の蓋をずらしてみた、ということになる。いずれにせよ、箱というものが異なるふたつの世界を結ぶファンタジーの仕掛けになっている。あるいは、そのどちらでもなく箱の蓋をずらすということと、青葉騒を聞くということを切り離して考えて読むこともできるかもしれない。そうするとその二つの行為には不思議に共鳴しあうような気にもなってくる。そんなことをぐるぐると考えて遊んでみたいような句。

耳打ちの蛇左右から「マチュピチュ」と 黒岩徳将

名前の響きだけで惹きつけられてしまう場所や人や物がある。マチュピチュもそのひとつ。マチュピチュは「老いた峰」という意味だとクイズ番組で聞いたことがあるが、ここでは、言葉の意味はあまり関係が無いように思う。いかにも囁きにふさわしい音をもった言葉として「マチュピチュ」が選択されている。蛇の耳打ちであれば、当然原罪を連想するが、蛇の誘惑を空中都市に結びつけて考えるよりは、「マチュピチュ」という言葉の響きの甘美さだけよっていると考えたほうが納得できる。「左右から」と駄目押しをしているところがなんとなく可笑しい。

金魚より長生きをして詩を読んで  小林かんな

金魚より長生きなんという、当たり前のようなことを言われ、気になってしまう。長生きといっても、単に金魚と人間の寿命の比較ということではなく、金魚よりは確からしい、儚くない存在として自分を感じていると読んだ。犬猫では生々しくなってしまうし、虫や植物では儚すぎるから、金魚くらいがちょうどよい。散文を読む場合、さらさらとお茶漬けを食べるように流して読むことも可能だが、詩を読む際には、立ち止まりつつ、言葉の意味や響き等、受け止めつつ読むことが必要になると思う。ゆっくりと言葉を咀嚼する過程で、静かながらも自己の生命感、存在の確からしさも味わっているのである。

ででむしや箱にしんなりふたつの性  嵯峨根鈴子

カタツムリは雌雄同体だそうだ。しかし通常は一匹で増殖するのではなく、異個体と交尾をし、その後それぞれが卵を産む。詳しい生態についての知識がないが、条件により単為生殖する場合もあるようだ。この句の場合、「箱に」とあるのでカタツムリは一匹のみで捕えられているのかもしれない。この個体が単為生殖を企んでいるかどうかは知れないが、ふたつの性を持つことで、ででむしは妙に充足しているように感じられる。「しんなり」という言葉により、ででむしの性のフレキシビリティ、したたかさを感じる。同時に人間の不自由さについても。


第472号 2016年5月8日
広渡敬雄 黒 潮 10句 ≫読む
第473号 2016年5月15日
野間幸恵 雨の木 10句 ≫読む
第476号 2016年6月5日
こしのゆみこ まみれる 10句 ≫読む
第477号 2016年6月12日
黒岩徳将 耳打ち 10句 ≫読む
第478号 2016年6月19日
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【週俳5月・6月の俳句を読む】瑞々しき朝 小林すみれ

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【週俳5月・6月の俳句を読む】
瑞々しき朝

小林すみれ


復興の仮設店舗の種物屋  広渡敬雄

作品は被災地を詠まれているが、その中でもさりげないこの句は希望があり、温かい。どの句もまだ春になりたての景が迫って来る。作者の眼差しはどこまでもやさしい。復興の願いが詰まった一句。

遠ざかるほど蒲公英のあふれけり  広渡敬雄

黄色の残照。まぶたを閉じるとなおさら色が鮮明になる。色彩の妙。
蒲公英はどこにでも咲いているが、この日はひときわ眼に染みたのだろう。当たり前のことがどんなに大切か、しみじみとした気持ちになる。

黒潮を望む岬の巣箱かな  広渡敬雄

岬と巣箱、ちょっと意外だったが、小さな命を大切にする市井の人々の営みが見えてくる。この句も種物屋に通じて、つんと優しい気持ちにさせてくれる。

牛乳のどこかに語尾のふくらんで  野間幸恵

牛乳を飲んだ時の感覚だろうか。白色が身体に巡り言葉がふくらんできたのだろう。そう言われてみればそのような気になってくるから不思議。

木は森に友が答えのように来る  野間幸恵

確かに木は森にある。この友はきっと大切な一人で、何でも忌憚なく言える仲だと想像してみた。句のリズムも鮮やかで読み手を引きこんでゆく。

Good‐byと鰯の群れを思いけり  野間幸恵

鰯の群れはすごく速く泳ぐ。それを見て、グッバイの文字に見えたのかと思ったが、作者の一瞬のひらめきが言葉になった、そんな感覚的な句なのだろう。

箱の蓋ずらし青葉騒を聞く  こしのゆみこ

大切でお気に入りの美しい箱。清々しい青葉の声を何度も蓋をずらして聞いている。今日はどんな話をしているのかな、と。柔らかな感性を思う。

郭公のきこえてきたる眠りかな  こしのゆみこ

眠れない夜もある。しかし、今夜は眠りがすっとやって来た。森に近い宿か、あるいは別荘であろうか。健やかな安息。明日に思いを馳せて。

泰山木の花はずれかかった冠  こしのゆみこ

泰山木の花びらは厚くいい香りがする。大きく誇り高く見える木だ。
それが冠と呼応しているのかと思う。気高い女王の冠がはずれかかり、お付の人たちが冷や冷やとしている様を想像すると、なんだか楽しい。

六月の鼻緒に指の開きたる  黒岩徳将

白南風が身体にも鼻緒にもあたっている。梅雨の晴れ間の気持ちの良いひととき。最初は固い鼻緒もやがて指に馴染み、そのうち違和感もなくなってくる。

だんだんに木々のひらけて時鳥  黒岩徳将

今年、時鳥の声を聴いた。この句の通り、森に入るとまさにこんな感じであるが、言葉にするのは難しい。五感を研ぎ澄ました作者。

青林檎服をつかみしまま眠る  黒岩徳将

子どもか、あるいは若い恋人同士としても読める。でもやはり、小さな子どもが遊び疲れてぐったりとしているそんな様子と捉えたい。おだやかな温もりを感じながら、一番信頼できる母親の服を掴んで眠っている子。「青林檎」が少し汗ばんだ子どもの匂いを連想させる。

朝ぐもり開封の前よく振って  小林かんな

よく振っているのはドレッシングか、日焼け止めか。振り忘れると濁った液体が底に沈殿してしまう。リズミカルな動作がおもしろい。本人も楽しんでいる様子で、朝の曇りも吹き飛びそう。

プールから人引き上げるひつじ雲  小林かんな

躍動感がありその動作も若々しい。水を蹴散らしてプールから上がったその人の、日焼けした笑顔まで見えてくる。信頼し合っている二人なのだろう。

海の底見てきた夜の扇風機  小林かんな

なんて瑞々しい句なんだろう。何も言っていないけれど、南の海でスキューバダイビングなどをして、今は快い疲れを感じている、そんな様子が浮かんでくる。たくさんのサンゴ礁や、ふだん見ることのできない美しい魚たちが泳ぐ海。想像がふくらんで、いつかは行ってみたい、見てみたいと思わせてくれる。エアコンではなく、「扇風機」に青春性があり、作者が心地よい暑さを感じているのもわかる。

そこんとこ超合金の蜥蜴の尾  嵯峨根鈴子

蜥蜴と遭遇した時、尾だけが冷たい光を発していたのかもしれない。そこを「超合金」という硬質な言葉で読み取った感性が鋭い。蜥蜴など苦手な人もいるが、もし超合金の蜥蜴ならかっこいいと思うのではないか。

心臓のかゆきところに花ざくろ  嵯峨根鈴子

ドキッとする句。心臓の中身はきっと石榴の花の色なのだと思う。学校の理科室でそんな模型を見た覚えがある。心臓が痛いのではなく、かゆいと感じたところがすごい。

かかとからくるりとむけて夏の月  嵯峨根鈴子

この夏の月はきっと美しいのだろうなあ、と思った。出初めの黄色く大きな月が目の前に浮かんでくる、すごく惹かれた句。「くるりとむけて」の感覚的な若々しい表現が秀逸。。

第472号 2016年5月8日
広渡敬雄 黒 潮 10句 ≫読む
第473号 2016年5月15日
野間幸恵 雨の木 10句 ≫読む
第476号 2016年6月5日
こしのゆみこ まみれる 10句 ≫読む
第477号 2016年6月12日
黒岩徳将 耳打ち 10句 ≫読む
第478号 2016年6月19日
小林かんな 休 日 10句 ≫読む
嵯峨根鈴子 ふたつの性 10句 ≫読む

【句集を読む】世界のありどころ 岡野泰輔『なめらかな世界の肉』の最初のページを読む 西原天気

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【句集を読む】
世界のありどころ
岡野泰輔なめらかな世界の肉』の最初のページを読む

西原天気






1句目

肩を? 誰の? 作者か。

cf. 《鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波 》

2句目

付加。

《花種の袋に花の絵がありぬ  今井杏太郎》+空


3句目



http://mettapops.blog.fc2.com/blog-entry-767.html

4句目







次のページ以降? もちろん読みました。

すでにして愛読書と言っていいんだろうと思います、この『なめらかな世界の肉』(略して「なめ肉」)。

俳句を書くとは、世界というプレテキスタイル(造語です)を親しくする作業なのだなあ、と、あらためて。

私の身体は世界の織目の中に取り込まれており、その凝集力は物のそれなのだ。しかし、私の身体は自分で見たり動いたりもするのだから、自分の回りに物を集めるのだが、それらの物はいわば身体そのものの付属品か延長であって、その肉のうちに象嵌され、言葉のすべき意味での身体の一部をなしている。したがって、世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。
メルロ=ポンティ『眼と精神』(滝浦静雄・木田元訳/みすず書房/1966年)




【句集を読む】食べものという恵み 須原和男『五風十雨』の一句 西原天気

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【句集を読む】
食べものという恵み
須原和男五風十雨』の一句

西原天気


納豆のために葱あり朝日あり  須原和男

なんて美味しそう! 朝日に輝くのは、混ぜてからでもいいけれど、混ぜる前。納豆の一粒一粒の表面がつややかなうちがいい。葱もよく見えるし。

ほかにも、「美味しそうな」句がいくつか。

天に白雲てのひらに櫻餅  同

(白雲に「しらくも」のルビ)

食べものというのは、つまりは天の恵みという考え方があって、だとするなら、「いただきます」「ごちそうさま」は母親やお百姓さんにだけでなく、むしろ天に向かって言ってることにもなる。

春の月粥のやうなる雲を出て  同

雲が美味しそうに思えるのは、倒錯だけれど。

割りたての箸を汚しぬ鮎の腸  同

(腸に「わた」のルビ)

鮎よりもむしろ割り箸の木の匂いがしてくる句。


【真説温泉あんま芸者】ベネズエラの油田の味するキャラメルと知覚の虚実

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【真説温泉あんま芸者】
ベネズエラの油田の味するキャラメルと知覚の虚実

西原天気


友人からもらった塩バター飴。


舌に載せた瞬間、「あ、ガソリンの味」。

ガソリンを舐めたことはないから、香りの話だろう。そして、「というよりも、ベネズエラの油田の味だな」。

ベネズエラに行ったことはない。それどころか油田にも行ったことがない。

ベネズエラうんぬんは噓ということになる。ガソリンの味、ガソリンの香りは、比喩、あるいは虚の表現、あまり驚きも工夫もない表現、ということになる。いずれにせよ、「ほんとうの現実」からは遠い。

なお、この飴、第一印象ならぬ最初の味がガソリンだっただけで、次の瞬間からはとても美味しく、舌の上で転がし続けたのでした。サンキュー・マイ・ディアー!

最初感じたガソリン味、油田の味は何かの間違いで、本来は塩バターな美味だったということでしょう。いや、ガソリン味・油田味は、じつは美味なんじゃないか。……と、もう、なんだかわからない。



俳句の虚実を言うとき、噓と本当、虚と実は、はっきり分けて考えなければならないことは当然。

鴇田(智哉) 「虚-実」に関しては(…略…)表現レベル。たとえば「ガラスの皿がやわらかい」(…略…)は、実生活ではありえない。でも表現としてはありうる。(…略…)一方、「噓-本当」というのは、あくまで実生活のレベルの話。俳句を「意味」で読み、ときには作品のテキスト外の情報までも含めて読む場合の話。大阪に行ったことがないのに「大阪に行った」という句を作ったら噓という、そういう話。『オルガン』第5号(2016年5月) 座談会「虚と実」

さきほどの「ベネズエラの油田の味」は、噓であり、同時に(たぶん)虚ということになる。



「噓・本当」については、別の機会に譲る。ここでは、表現の虚実について、分野を限定してお話をしようと思います。むずかしい話じゃあありません。ごくカジュアルな話題ですので、どうぞ、膝をお崩しになって。

吉永興子句集『パンパスグラス』(2015年12月/角川文化振興財団)に、こんな句があります。

  ジーンズの乾く音する電波の日  吉永興子

洗濯物が乾くとき、音を発するのだろうか。

聞いたことがない気がします。

音がしないとしたら、虚の表現。

表現として、なかなかのものです。乾く音が聞こえる気がします。分厚いデニムなら、きっと。絹のシャツなら、しない感じ。綿のTシャツでも、しなさそう。

ところが、ちょっと待て、するのかもしれない。そう思い始めたのです。



以前、俳句雑誌の座談会で、雪には匂いがないことを前提に話が進んでいて、驚いたことがあります。

え? するよ。


いや、ベテラン俳人がこんなに自信満々で「匂いはない」と言っているのだから、きっと、ない。

雪に匂いがあると思ったのは、そんな気がしただけ。あるいは、心が匂いを感じた(詩人か?)。


いや、しかし、

誰の忌ぞ雪の匂ひがしてならぬ  八田木枯

こんな句もある。

ただし、ジーンズ句の吉永興子も八田木枯も、乾く音、雪の匂いを、「実」ではなく「虚」として扱っているフシがある。

電波という目に見えないものとの取り合わせ。「電波の日」という歴史の浅いものとの取り合わせ。「してならぬ」という言い方。

ううむ、どっちなんだ?

雪に匂いはあるのか? ないのか?

雨の匂いなら、「ペトリコール(Petrichor)」と言って、すでに196年代、雨がなぜ匂うかの研究があるという。雨が匂うなら、雪も匂うだろう。

いや、ペトリコールは雨が濡らした地面から来る匂いなので、雪は事情が違う、という考え方もありそうだ。

ためしに、すぐ近くにいた嫁はんに、雪が匂うかを問うてみた。

「ううん、どうかなあ。雨は匂うけどね」

「雨が匂うんなら、雪にも匂いがありそうじゃない?」

「どうだろう。でもね、味はするよ」

「え? 雪を食べたのか? どんな味?」

「不味かった! 汚れた空気の味」

「塵があるからね。雪の結晶の芯には」

味の話をしているのではなかった。



閑話休題。いろいろ考えてみた結果、雪の匂いも洗濯物が乾く音も、人によって嗅ぎ分けられたり、聞き分けられたりするのではないか、と思うことにした。

例えば、ヒトの耳が聞き取れる周波数域(可聴域)には、個人差がある(検査すると、平均と比較できます)。加齢による変化もある。

嗅覚の個人差は、聴覚よりもさらに大きいそうです。

してみると、聞こえる・聞こえない、匂う・匂わないは、個人によって違うと解したほうがよいのではないか。

だらだらと寸感を並べましたが、つまり、知覚に大きな個人差がある以上、表現の虚実も、こうとは決められない。

ややこしい問題です。

俳句における虚実。これは、もう、なんだかわからない。

虚とか実とか。そこにこだわったり、議論してみたりしても、得るものはあんまりないんじゃないの?

これがとりあえずの結論です。

(結論なんて要らないんだけどね)


10句作品テキスト ドライクリーニング 竹井紫乙

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ドライクリーニング  竹井紫乙

風鈴と冷やし毛皮を売り歩く

折檻や冷凍毛皮に包まれて

埋没は毛皮に任せ失神す

毛皮の空洞からもれる細い目

人でなし人面鳥に告げられる

種を取る君は私じゃないけれど

幾万の毛皮が雪崩れ込んで来る

貪婪な温室のなか毛皮鍋

何食わぬ顔して混ざる晩御飯

押し花と一緒に眠る押し毛皮



10句作品テキスト 夏の空 遠藤由樹子

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夏の空    遠藤由樹子

砂時計のくびれを落つる蛍かな

昼顔や孵りたてなる雛の嘴

みづうみに向く籐椅子の遺品めき

青柿も実梅もわれも雨の中

合歓の花ぽつんぽつんと夢滲む

目凝らせば梅雨の燕のかく高く

花鬼灯喪服の傘のとりどりに

眠る子にプールの匂ひかすかなり

揚羽蝶連れて飛び石渡りけり

シーソーに一人は静か夏の空

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