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【週俳7月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れてⅣ  瀬戸正洋

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【週俳7月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅣ

瀬戸正洋


立秋である。台風13号の影響で雨も降りはじめ、たいぶ涼しくなった。体温以上の気温はからだに堪える。夏日とは、こんなに過ごしやすいものなのかと驚いている。月に一度、予約している歯科医院から、診療機器の不具合から今日の診療はできないという電話が入った。医療機器もこの暑さに耐えていたのかも知れない。

夏風邪の耳鳴り三角縁神獣  加藤知子

耳鳴りとは不快なものである。古代中国の神話の神仙、霊獣が表現され周縁部断面が三角形状に突出したものを「三角縁神獣鏡」という。故意に鏡を外している。「不快」と「鏡」について考えることに意味はあるのかも知れない。

脳の襞さわぐ万緑かがみの間  加藤知子

万緑とは、かがみの中にあるみどり。そのみどりを何枚ものかがみが作者もろとも取り囲んでいく。脳の襞とは脳髄そのもののことだ。万緑にも、かがみにも、ひとにも脳髄はある。その襞が動き始めるのである。

梅雨おんな闇の国から踊りでて  加藤知子

踊ることとは自分自身を表現することではない。自分自身を誤魔化していくことなのかも知れない。梅雨のおんなも闇の国もどこにも存在しない。だから、ひとは踊り続けなければならないのである。存在しない闇の国と梅雨のおんなに出会うために。

湯浴みの時間蜘蛛たれさがる時間  加藤知子

湯浴みをしていたら天井から蜘蛛がたれさがってきた。これは蜘蛛の意志によるものではない。それは、他の意志によるものなのか。それとも、ひとの意志によるものなのか。蜘蛛は、その時間、たれさがったままだ。ひとは湯に入ったまま一向に出る気配がない。

花は実に露出狂なるランナーなる  加藤知子

露出狂は学校の近くに生息するようである。走るということは身体を痛めつけることなのである。花から実となるまでは時間がかかる。「実」とは、果実のことである。「実」とは、嘘偽りのないまごころのことである。「実」とは、物の中心にある固いもののことである。

扇風機菜食主義者ののどぼとけ  加藤知子

菜食主義者を疑っているのである。菜食主義について雄弁に語るひとがいる。そのひとの前では、耳よりも目が働いてしまうのである。菜食主義者の「のどぼとけ」が気になって仕方がないのである。何故ならば、何を話すのかはわかりきっているから。扇風機の首が左右に動くことと同じことだから。

街じゅうに犬のしっぽの林立す  加藤知子

この街は犬に乗っ取られてしまったのである。街を乗っ取られてしまうほど、ひとはおろかなものなのである。犬はしっぽを林立させ権勢を示している。いつのまにか、ひとも犬の真似をして、しっぽを林立させる。もちろん、犬の真似をするものは、ひとしかいない。

いいえ花はどこへ行ったの排卵日  加藤知子

花はどこへ行ったの、の前に「いいえ」と言っている。「そうなんです」とは言ってはいない。何を尋ねられたのかを想像してみればいいのだと思う。「花」と「排卵日」とは近しい関係にあるのだとも思う。

阿蘇白雨ミトコンドリア・イブ撓る  加藤知子

緑におおわれた阿蘇の大地がある。明るい空から急に雨が降る。ミトコンドリアイブ・イブとは愛称だ。現生人類の最も近い共通女系祖先に対して名付けられた愛称のことである。撓るとは何らかの圧力により変化することである。変化について考えてみようと思う。

水上にかさね花びら反抗す  加藤知子

かさなるようにと指示されると花びらでなくても反抗するものなのである。かさねられることは不快なことなのである。はなびらはいちまいで流れに身をまかせていたいと思っているのである。

涼しさの火(ひ)(ごも)りの眸(め)のふたつづつ  紆夜曲雪

ある能力を、そのために使い切るためには、こころとからだ、力の入れ方、それらのバランスが必要なのである。「ふたつづつ」とは、もうひとつあることである。あたりまえのことなのだが、そのことに多少の不安を覚えているのである。火籠りといえば、油日神社の大宮ごもりが有名である。

夢いまだ指にのこれる団扇かな  紆夜曲雪

BARのカウンターで見知らぬ男から聞いた与太話である。

「あなたの肉体を抜け出した魂は、あちこちを彷徨する。その時、経験したことを、眠っているあなたに語りかける。それが『夢』なのだ」と言った。

夢は指に残っているのである。忘れたい夢なのである。思い出したくもない夢なのである。団扇ではたくくらいではとても消えてはくれないのである。自業自得とということなのかも知れない。

燕子花天のごとくに和紙破(や)れて  紆夜曲雪

和紙とはひとのうえにある存在なのである、ひとを越えた存在なのである。それは破れるものだという、壊れるものだともいう。天とは空のことなのである。ひとは天より一生の仕事をあたえられる。燕子花は空から落ちてくる雨により天命をあたえられる。

優曇華や空き家よりこゑある日々の  紆夜曲雪

ひとのいない家からひとの声がする。まいにちのようにひとの声がする。電灯のかさに優曇華がついている。このくさかげろうのたまごに、二千年にいちど咲くという架空の植物の名をつけた。

亡くなったひとの魂の声がする。空き家にまぎれ込んだ浮浪者の声がする。亡くなったひとの魂と浮浪者とがおしゃべりをしている。空き家自身のつぶやきも聞こえる。

生きて会ふその風の世の籐椅子よ  紆夜曲雪

空気が流れ動く現象を「風」という。「風が吹いた」といえば何かのはずみでひとの考えが同じ方向に流れたことである。風のたよりならば、宛先人不明ではなく差出人不明ということだ。どこからともなく伝わってきた知らせ。怪文書のようなものかも知れない。「世」とはひとが社会生活を営んでいる場であり、その間のことをいう。

要するに、まともなものは籐椅子だけなのである。生きるためには籐椅子のことだけを考えればいいのである。

ねむるゆゑをりをりを吊忍なる  紆夜曲雪

ねむる理由は、そのつど吊忍になれば解ると言っている。吊忍であることを自覚すればいいと言っている。崖から滴り落ちる清らかな水を想像すればいいのである。睡魔は風とともに訪れあなたのこころを抱きしめる。

睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ  紆夜曲雪

水はこころが湧かすのである。にやんにやんと湧かすのである。こころが無ければ水は湧かないのである。それは、大地のこころなのである。にゃんにゃんとは大地のこころなのである。睡蓮が水面に花をうかべるのも、大地のこころなのである。

水盤とたなごころ汝をうしなひき  紆夜曲雪

水盤と目とか、水盤と頭ではなく、水盤と「たなごころ」なのである。すこしずらしたところが肝要なのである。その微妙なずれの積み重ねが汝を失った理由なのである。「ずれ」とは怖いものなのである。

すれちがふたびにほたるとなりにける  紆夜曲雪

やさしいひとなのである。相手のこころがわかるのである。蛍の嫌いなひともいるのである。すれちがうのは一瞬である。そのときぐらい相手のこころに寄り添わなければならないのである。そのたびに自分のこころが痛むことはしかたがないことだと諦めなければならないのである。

蟬茸の記憶の紐やかよひあふ  紆夜曲雪

ミンミン蟬のさなぎに寄生する茸を「蟬茸」という。ミンミン蝉の幼虫は土の中で数年間過ごし、成虫になった地上では数日間で死ぬ。他に寄生するものはなかったのかと思う。「蟬茸」もぎりぎりの選択だったのだろう。

冬虫夏草について知ったのは、白土三平の「カムイ外伝」だ。気持ちが悪くなった記憶がある。ストーリーについては全く忘れてしまったが、子どものころ読んだ漫画の不快感を数十年たっても忘れないのだから強烈な作品だったのだろう。

この場合は記憶の紐(を結ぶ)とあるので断片的なものではないのだろう。「かよひあふ」とは、意思疎通が上手くいきよく理解し合えることである。

けものらに乳房ある繪圖柏餅  吉田竜宇

柏餅とは端午の節句に供えるもち菓子である。柏は神道に用いるめでたい葉。乳房ある繪圖は、名所、旧跡、あるいは美術館の掛け軸、屏風、襖に描かれていたものかも知れない。けものとは、全身が毛でおおわれ四足で歩く動物である。ひとでなくけものの乳房であったことへの微妙な違和感が漂う。

コイントスの表裏炎天漂へり  吉田竜宇

ラクビー、サッカー等、スポーツ観戦ではおなじみである。主審がコインを空中にあげて表か裏を決める。コインはどこにでもあるし、裏表は一瞬に決まる。BARのカウンターでも見かけることもある。この場合は、表と裏が炎天に漂うのである。その決定を決めるのは炎天である。重要な決定は、ひとに任せてはいけないのだ。炎天が決めさせることは正しいと思う。

切るは男の一事なるかな河童卷  吉田竜宇

男の一事なのだと思う。この精神は大切なことなのである。常に、男はこうでなくてはならないのである。海苔と米と胡瓜の精神を切るのである。男の精神を切るのである。美しく切らなければならないのだ。カウンターのなかでは鮨職人が包丁を握る。

古書積みし間を行くでなく蟹の歩は  吉田竜宇

運命、まわりあわせのことを「歩」という。してみると蟹とは作者のことなのである。古書積みし「間」を行くとは古書の旅をしたいということなのである。だが、気力が失せ途方に暮れている。ひとには、どんなに気力を持とうと思っても持てない日があるのである。

鶴肉や父母の仲極まれり  吉田竜宇

父母の仲がぎりぎりの状態にまで達したのである。最高の状態に達したのだとしたらあとは下るだけである。最悪の状態だとしたらあとは上るだけである。つまり、一喜一憂とは、どうでもいいということになる。

天然記念物である鶴の肉は夢のなかで食すものだろう。杉田久女には「鶴料理る」という随筆があるという。

天の如く湯豆腐冷めて海のごとし  吉田竜宇 

湯豆腐は天なのである。冷めた湯豆腐は海なのである。冷めた湯豆腐は天でなくなってしまうのである。だから、居酒屋で気楽に「湯豆腐下さい」などと言ってはいけないのである。海に対しても気を使うことは必要なことなのである。

蛇の鬚の瑠璃や茂吉はフアルスを見せ  吉田竜宇

「濃い赤みの青色」を瑠璃色という。仏教の七宝のひとつに瑠璃がある。茂吉のフアルスを見たのは温泉とか銭湯といったところだろう。蛇の鬚から茂吉の陰毛を連想してもいいだろう。茂吉にフアルスを扱った作品があるのかは知らない。

蛇の苦手な私は、この辺で、考えることを止めにしたいと思う。

烈やら忠やら睾丸やらの辛夷咲く  吉田竜宇

「烈」、「忠」とこころの問題を並べ、最後に「睾丸」とからだ、雄の象徴である生殖器を置く。おれは「男」だとでも言っているようだ。辛夷は桜と同じころ咲き、遠くだと桜かと見間違うこともある。辛夷から拳を連想することは、すこし、「右」寄りなのかも知れない。

胎兒が蹴り花野に瓶の棄てどころ  吉田竜宇

私が胎児だったころ母のからだを蹴った記憶はない。私は子を身ごもったことはないので胎児にお腹を蹴られたことはない。底の深い陶製の容器のことを瓶という。瓶に何を入れて秋草の咲く野原に棄てるのだろう。

「火を産む」と朝寢のあとの眞白さに  吉田竜宇

火を産むとは火の神を産むということだ。死とは、ひとそれぞれに異なる。ひとの人生がからみあい複雑なものとなる。だが、出産となるとめでたいというところに落ち着く。ただ、笑っているだけで、その場を誤魔化すことができる。産着も死に装束も真っ白なものである。朝方に見た夢は忘れないという。

夏草の草豊かなる秋田かな  西村麒麟

夏草の草豊かなるとは都会人の感想である。単一の夏草が整然と生えているといったイメージである。水分をたっぷり含んだ雑草が、複雑に生い茂っているという感じではない。秋になれば、豊作、さらに、あきたこまち、ひとめぼれを連想する。

山村に暮らすものにとって夏草とは「刈る」ものなのである。炎天下にひたすら夏草を刈るのである。老人が救急車で運ばれることも多々ある。蜂の巣に刃を入れてしまうこともある。

最近、草刈りを依頼する家が増えてきたという。かわりに草を刈ってくれるひとがいるということは有り難いことだと思う。

蚋を打ちさらに何かに怒りつつ  西村麒麟

子どものころ校庭で蚋に血を吸われた記憶があるが、最近は、滅多にお目にかからない。蚊も連日の猛暑日で、あまりお目にかからなくなった。

蚋に血を吸われ手のひらで打ち殺し怒りを覚えた。その怒りは蚋を殺したことだけに収まらず、怒りの連鎖がはじまったのである。こころが乱れてきたのである。こんなときは気を付けなければならない。こんなときは、何もしないのに限る。怒りに身をまかせているに限るのである。

馬群れてゐる幻や麦の秋  西村麒麟

麦が熟したころ馬が群れているのである。幻を視ることは幸福なことなのである。はかなく消えていってしまうもの、もうすでに消えていってしまったものを視ることは幸福なことなのである。ひとも群れればいいのである。それが、たとえ幻であっても、ひとは群れて生きていけばいいのである。孤独に託けて歪んだ正論を吐くよりも、楽しく、群れて生きていけばいいのである。

踏台を抱へて来たり安居僧  西村麒麟

怠けものの私は修行は苦手である。同じ理由から集団で何かをすることも苦手である。

僧は踏台を抱えて来た。手の届かぬところで何かする予定があったのだろう。踏台とは高い所へ手を伸ばすためのものではない。手の届かぬ所へ手を伸ばすためのものである。踏台を使って低いところのものを取る。これが正しい踏台の使い方なのである。

滝の上に神様がゐて弾みをり  西村麒麟

滝の上に神様がいらっしゃったからこころが弾んだ訳ではない。思い切って余計にお金を奮発した訳でもない。神様のお力で滝の水が弾むように落ちてきたのでもない。

滝の上に神様がいらっしゃつたことで、目に見える何もかもが、本当に弾み出したのである。

千年の宴や滝を一つ見て  西村麒麟

千年の宴といえば京都を連想する。京都の滝といえば東山の清水寺を思う。修学旅行で京都を訪れたひとは、音羽の瀧の水を柄杓ですくい触れてみたはずだ。

明治維新までの千年のあいだ、ここで暮らすひとびとは、ただひたすらに音羽山から流れ落ちる水を眺めていたのだろう。清水寺は平安遷都以前からの歴史を持つ。

白糸の如くに雨や業平忌  西村麒麟

洗濯物が風に揺れている。夕立になる前に取り込んでおこうと思う。そらの神さまが千筋の糸を地上に投げたりしたたら困るからである。千筋の糸とは、そらの神さまが落とすおおきな雨粒のことなのである。それは、浮世絵に描かれた夕立のような雨なのである。ひとが節度を失っていても、そらの神さまは、平安時代から、何も変わらず接してくれるのである。

短夜の門の辺りに灯が少し  西村麒麟

住宅街なのである。概ね、門のあたりには外灯は少ないのである。彼女を家まで送って行ってひとりで帰る。そんな夏の夜の若き日の思い出だったのだろう。老人になると、そんなときはタクシーで送る。あるいは、タクシー代を渡すかで誤魔化す。とても、いっしょに歩いて帰ろうなどとは思わない。

よたよたとみんな大人や夏の家  西村麒麟

大人はみんなよたよたしているのである。老人になればなおさらである。ひとは分別ができるようになると余計なことばかり考える。そのために頭が重たくなるのである。それで、よたよた歩くようになるのである。暑い家の中ならばなおさらのことなのである。

落し文かなと再び拾ひしが  西村麒麟

広葉樹の葉を筒状に巻いた中に産卵して地上に落とす。この葉を落し文に見立てたのである。

昆虫より「公然とは言えないことを文書にして落しておくもの」とした方が面白いのかも知れない。拾って読んでみたもののよくわからないのでそのままにしておく。しばらくして、何故か気になり読み返してみたのである。当然、落し文の内容も、その行為も意味のあることではない。

夕立の潜入捜査永田町  紀本直美

夕立となったから潜入捜査をはじめようと思ったのである。永田町にいるから夕立に出会ったのである。潜入捜査とは密かにやるもので夕立のような激しい捜査などできるものではない。永田町には隠しごとはいくらでもあるだろう。隠しごとを持たないひとなどどこにもいないだろう。見知ったひとも潜入捜査員、見知らぬひとも潜入捜査員。日本国中、誰もかれもが潜入捜査員なのである。

子ども手に抱きたい夕立が降るから  紀本直美

腕ではなく手で抱きたいのである。生まれたばかりなのかも知れない。子どもを守るために抱くのではない。夕立のなか、こころが弾んでいる母親が、子どもといっしょに感動したから抱くのである。母と子は、硝子窓越しに夕立を眺めている。

ねばりとかがんばりとかと夏を病む  紀本直美

病は気からという。意志のちからで病と向き合うのである。割と攻撃的であるひとのようだ。若いひとはこの向き合い方でいいと思う。ところが、老人は守るのである。かわすのである。歳をとると「ねばり」「がんばり」は大敵なのである。そんなことをしたら、すぐに、疲れてしまう。まして、酷暑なのだからなおさらのことである。

八月の終電はみな広島へ  紀本直美

原爆を落とされ、戦争が終わった。あの日から七十三年が経ったのである。あの日から現在まで、日本国中の八月の最終電車はすべて広島に向かうのである。向かわなければならないのである。つまり、これは作者の怒りなのだと思う。

マンホール食べたくなっちゃう炎天下  紀本直美

腹が減ったのである。マンホールが食べたくなったのである。炎天下ならなおさらのことなのである。

旨いものを食べるには高級レストランへ行けばいいというものではない。からだを動かせばいいのだ。汗を流せばいいのである。腹を減らせば何でも旨くなる。こちらが変わればいいのである。数十年前の小学校の教師のことばを思い出した。

脱臼をしたの山椒魚なのに  紀本直美

山椒魚が脱臼するのかなどと考えてはいけないのである。誰でも脱臼ぐらいするのである。だが、「山椒魚なのに」と言っているので、多少疑問もあるのかも知れない。

家の近くに水の湧く神社があった。神社のうしろは崖であり、そこから水が湧いていたのだ。子どものころ、夏になるとそこでよく遊んだ。そこで腹が直角に曲がっている山椒魚を見つけた。バケツに入れたことまでは記憶している。

その山椒魚は、それからどうなったのかは記憶にない。

小さな夜を胸に抱えて海月かな  紀本直美

夜は十人十色である。それぞれ、そのひとにとって相応しい夜がある。こころを癒すために、誰もが貴重な自分の夜を胸に抱えて過ごすのである。海月は水に漂う。ひとは、怨みつらみ哀しみを胸に抱えて夜を漂うのである。まるで、海月のように。

ドアの前立たされたまま誘蛾灯  紀本直美

アパートの扉の前に立たされているのである。招かざる客なのである。こちらだって訪問したい訳ではない。しかたなく訪問するのである。誘蛾灯は、蛾を集めて始末するものではない。ひとを集めるものなのだ。よほど嫌われているのか、ちっとも扉は開かない。

しばらくすると扉は開けられ石油や殺虫剤の置かれた部屋に案内される。

親友が独身になる風薫る  紀本直美

離婚したということなのだろう。独身となった安堵感は、はつなつの風と共に運ばれてくる。結婚しても何も変わらないのだ。離婚しても何も変わらないのだ。この季節になると、ここちよい青葉の風が吹いてくることも何も変わらないのである。

草いきれふつうに家族いる暮らし  紀本直美

草いきれのなかは悪くないと思う。だが、たまに不快になることもある。家族のいる暮しとは、そのようなものなのかも知れない。「草いきれ」とは、「ふつう」とは、いちばん大事なものなのかも知れない。

砂粒をはらひてはこべ摘みにけり  金山桜子

何もしなくても生きていくことはできる。だが、何もしないで生きていくことは不安なのである。だから、はこべを摘んだのである。砂粒を払ってはこべを摘んだのである。はこべとは、春の七草のひとつである。藤村の「小諸なる古城のほとり」にも登場する。

橋脚を照らしてゐたり春の水  金山桜子

橋脚とは垂直力、水平力にも耐えなければならい。つまり、全体からの荷重、流圧、風圧、地震に耐えることができなければならないのである。太陽のひかりが春の水面に反射して橋脚をゆらゆらと照らしている。それにも橋脚は耐えなければならないのである。

引きあへる力もて揺れ蝌蚪の紐  金山桜子

悩んでいるのである。迷っているのである。蝌蚪の紐が揺れているのを見ているのである。前へ進むために蝌蚪は紐を揺らしているのではない。何か異なる力、他者による引き合う力によって揺れているのである。前へ進まなければならない理由など何もないのである。

麦青む長距離トラック魚を積み  金山桜子

長距離トラックは麦に誘われたのである。積まれている魚は、そのことに同意したのである。故に、長距離トラックは脇道にそれ麦畑を走っている。

同じことの繰り返しは空しい。そして、疲れる。たまには、こんな日も必要なのである。長距離トラックは国道、あるいは高速道路を走るものなのである。

銀細工商ふ窓のヒヤシンス  金山桜子

商店街のはずれ、あるいは観光地の、ひっそりとした銀細工だけを売る店のように思われる。商うという古風なことばからそんな感じがした。ヒヤシンスはあざやかな花である。銀細工よりもあざやかだと思う。商う銀細工と窓辺に飾られたヒヤシンス。店の扉を開けると老婦人があらわれるような気がする。

夏至きのふ洗ひざらしの藍を着て  金山桜子

夏至の日の翌日、洗いざらしの藍染を着たのである。目的があって、あるいは何か理由があって着たのではない。たまたま、洗いざらしの藍染が目に留まったから着たのである。

人生とは、そういうものだと思う。

地球儀の子午線のずれ夏休み  金山桜子

子午線は無数にある。子午線もずれることはある。地球儀だからずれていたのか。何故、地球儀の子午線がずれていることが解ったのか。夏休みがはじまる前はずれていなかったのか。夏休みが終われば、そのずれは解消されるのか。

夏休みの地球儀の子午線はずれているらしい。

展示せる臼歯に触れてパナマ帽  金山桜子

パナマ帽とは紳士の正装である。正装の紳士が展示されている臼歯に触れたのである。いちばん奥の歯に触れたのである。あたりを見まわし、そっと指でふれてみる。意志によるものではなく、目的があるわけでもなく、展示されているいちばん奥の歯に正装の紳士の指が触れたのである。

マンモスの肋くぐりて涼しさよ  金山桜子

マンモスの模型が展示されている。気楽にマンモスと触れあうことができる公共施設のようなところなのだろう。肋の下を通り抜けたとき涼しさを感じた。涼しさとは、平然としている、いさぎよい、潔白であるという意味もある。平和な時代であることを忘れてはいけないと思う。

汗の子のかうべ重たく梳る  金山桜子

髪を櫛でとかしたのである。汗で濡れた子どもの髪をとかしたのである。汗で濡れた子どもの髪は重たく感じるのである。不思議なことだが、特に、重たく感じるのである。いつも、重たく感じるのである。遊びの質量と汗の髪の重さは正比例するのである。

はつなつの樹上生活ほーいほーい  秋月祐一

樹上生活にあこがれている。「はつなつ」をひらがな標記にしたこと、下五を「ほーいほーい」としていることから、そのように感じた。樹上生活などできるはずもなく、おとなになればひとつの空想に過ぎない。子どものころの夏休みの体験がその基礎になっているのかも知れない。

酔郷譚ぱたんと閉ぢる夏の宵  秋月祐一

学生のころ倉橋由美子は書店に並んでいた。文庫本も含めて二、三冊は持っているはずだ。「パルタイ」「大人のための残酷童話」は、内容は忘れてしまっているが読んだと思う。

書棚を引っ掻き回していたら、文藝春秋社刊「パルタイ」が出て来た。七百二十円とある。もちろん、初版本ではなく袴もなく「1974年9月15日第22刷」とあった。カバーは、黒、タイトルの文字は、赤であり、(背文字は白)ページの外側は、黒く塗られていた。初版本しか興味のない私が持っているのだから、装丁が気に入ったのだと思う。十数年前に亡くなっていたことは知らなかった。

高糖度トマトみたいな日々でした  秋月祐一

私にとってトマトとは、大小ありごつごつしていてバケツか何かに入れられ流れている井戸水で冷やされている。そんなイメージである。高糖度トマトをはじめて食べたのは、とあるBARのカウンターであった。「高糖度」と鉛筆で原稿用紙に書いてみると何故か不健康な気がする。高糖度ということばそのものも不自然な感じがする。

餃子屋には餃子の幽霊でるといふ  秋月祐一

あたりまえのことなのである。餃子屋には餃子の怨念が満ち溢れている。幽霊が出ることはあたりまえのことなのである。餃子を食べ誰もがその旨さを感じる。その幸せだと思った分のマイナスを引き受けるのが餃子の幽霊なのである。餃子の幽霊の責任なのである。

餃子屋であるのだから、それが餃子であったということは、ごく自然なことなのである。

だが、ときどき、向かいに座ったひとが、そのマイナスを引き受けることもあるのである。

職やめる決意ぐらりと夜の蟻  秋月祐一

夜の蟻というと畳のうえでよく見かける。黒いおおきな蟻が、あちこち歩き回っている。きりぎりすにはなれなかったということなのである。それは、正しい選択であったと思う。ただ、ぐらりとしなかったらどうなったのかということも、ゆっくり考えてみることも必要なことだと思う。

夏燕どこへ行くにも自転車で  秋月祐一

都会暮らしのひとなのだと思う。夏燕のようにどこへでも行けるだろう。山村に暮らしていると自転車は疲れる。引いて歩かなければならない場所がいくらでもあるからである。下り坂もあるが、下り坂はそれなりに危険でもある。急カーブで畑に落ちることもある。よろけて川に落ちることもある。

柿若葉ひげも剃らずに会ひにきて  秋月祐一

喜んでいるのだか怒っているのか「ひげも剃らずに会ひにきて」だけなら、よくわからない。身振り手振り、ことばのイントネーションが加わることではっきりするのだ。幸福になるために会いに来たのであろう。柿の葉はかたい。柿の若葉ならいくぶんやわらかい。そういうことなんだろうと思う。

夏雲のレイヤーの数かぞへをり  秋月祐一

気象に関係ある仕事をしているのだろう。夏雲だからレイヤーの数をかぞえたくなったのだろう。晴れた日の入道雲はこころがわくわくする。講演会、あるいは研修会の休憩時間、冷房の効いたホテルの高層の窓から夏空を眺めほっとした経験は誰にもあるだろう。

小顔かつマッチョな猫や夏座敷  秋月祐一

小顔でマッチョにあこがれているのだろう。猫でさえその視点が基準となる。風を入れるため襖、障子など開けっ放しにしておく。猫もやすやすと座敷に入り込んでくる。小顔、マッチョな猫、確かに、夏向きといえば夏向きなのかも知れない。

バタフライ効果あるいは水中花  秋月祐一

実力のないひとにとって「バタフライ効果」とは、唯一、頼りにすべきものなのかも知れない。たが、「非常に些細な小さなこと」を知るということもひとつの能力である。作者が「あるいは」ということばにたどり着いたとき、すでに「水中花」の存在など忘れてしまっているのかも知れない。

台風13号は関東地方直撃のおそれがあるという。暑さがやわらぐのはうれしいが、暴風、大雨、洪水等、自然災害の脅威が、私たちを取り囲み、少しずつだが確実に迫りはじめている。猛暑日の多さもそのひとつなのだろう。老人のからだには、この暑さは本当に堪えるのだ。この台風が無事に通過して、涼しくなることを願う。


加藤知子 花はどこへ 10句 読む
紆夜曲雪 Snail's House 10句 読む
吉田竜宇 炎上譚 読む
西村麒麟 秋田 10句 読む
紀本直美 夕立が降るから 10句 読む  
金山桜子 藍を着て 10句 読む
秋月祐一 はつなつの 10句 読む


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