【2019落選展を読む.5】「私性」と自由古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む上田信治今回は「
8.みみづくの散歩」(古川朋子)と「
9.花のゆうべ」(丸田洋渡)の2作品を読み、あわせて、高山れおなさんが2019年のベストにあげていた句集、ふけとしこさんの『眠たい羊』についても書きます。
三つの作品を取りあげるのは、それらが俳句に表現される「私性」の現在地点をよく現しているように、思えたからです。
2. 古川朋子「みみづくの散歩
」 >>読む古川さんは「蒼海」(堀本裕樹主宰)所属。第6回星野立子新人賞を受賞。角川俳句賞でも2016年
(*1)2017年と一次予選を通過した注目の作家です。
春の川生きて可笑しなことを言ふかさぶたはかさぶたのまま牡丹雪この先の靴跡深し菫草日が溜まる大根畑の足跡に海に来て山の近さよ氷水立ちながら眠るペンギン秋の昼遠目にもわかるおむすび岸は秋鰡跳ねてけふ日曜のこの感じみみづくの散歩はひとの肩の上室咲やひとりにひとつ長机初夢に見てにぎやかなお正月戸を引けば階段のある寒さかないちにちは全き青のヒヤシンスさて。
春の川生きて可笑しなことを言ふこの人は、その場にいて、個人的なことを言おうとしている。内容は、人がふつうに生きていて感じるであろう、生への肯定。けれど、この「
生きて」は出そうで出ないフレーズで「
盆踊人に生まれて手を叩く」(岩淵喜代子)「
水無月や地球に生まれ傘をさす」(山本紫黄)のような、人間のどうしようもなさを描く句を思い出した。つまり、この句は、日常のスケッチのようでとても思弁的で、生のストレートな肯定のようで、かすかに淋しい。
また「
生きて可笑しなことを言ふ」は、単独では成立しないフレーズなわけだけれど、その不安定さに加えて、春の川とのバランスに価値がある。
鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ「
けふ日曜の」の調子の良さと「
この感じ」の大胆さ。冗語に冗語を重ねることは、日曜日の感じを出すための、認識の引き延ばしであり、また、「
鯔跳ねて」のあとにしばらくの時間があったことの強調でもある。
ある時間の中の一瞬の偶然が、平板な生の持続に何の影響も与えない(かのように見えて、何かを動かしている)。それは誰もが見たことのある「
鯔」がはねるという現象(季語でもある)から析出された、普遍的なものだ。
この人の季語に対する意識は、「
春の川」から生命感を浮かび上がらせる繊細な手つきにもあらわれている(擬人法と考えると全く面白くなくなるので、そうは取らない)。
かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪この先の靴跡深し菫草海に来て山の近さよ氷水室咲やひとりにひとつ長机「
牡丹雪」のやさしさと、それが終わった季節のなごりであることが「
かさぶた」に二重写しされること(この取り合わせは、津川絵理子さん的に上手い)。「
菫草」の句に、さらりと芭蕉が重ねてあること。海水浴場だろうか、この「
山の近」い海が、すでに、すばらしく涼しいこと。「
室咲」の句が、習字教室?を思わせつつ暗示にとどめ、物だけを書くことで、季語を場面の一要素に縮小することなく、きれいにオブジェ化していること。
これらの句、言葉の運用も内容も人を驚かせることが少なくストレートでありながら、複雑なたくらみがしかけられ、立体化している。
そうやって、俳句という小さな詩型のもつインティマシー(親密さ)を大切にしながら、詩として高度なものを作り出していることに、この作者の志向が見える。
微量の不自然さを含む語法に見られる新しさへの志向と、季語の扱いに現れる繊細さと複雑性。ここには、いわゆる「平成俳句」の可能性を生きのびさせる方向が現れているのではないかと、予想屋めいた言い方だけれど、わりと本気で思っている。
立ちながら眠るペンギン秋の昼遠目にもわかるおむすび岸は秋みみづくの散歩はひとの肩の上初夢に見てにぎやかなお正月これらの句に現れた「親しさ」「かわいさ」もまた、俳句がまだ攻め尽くしてはいない可能性だろう。こういったものを「かわいい」と感じることを自分に許すことも、また「私性」の俳句への持ち込みだろう。
(*2)「
滝の音すこし歩めば川の音」「
しづけさのまま夜に入る野分あと」のような(俳句読者全体との距離を計量するような)常識的な作もあり、「
また少し夕日くづれて梨の花」「
いきいきとおたまじやくしに蛙の目」のような、魅力的だけれどゆるさを感じる句もある。
古川さんには、この際、ご自身が、俳句の最も新しい価値の一部を作りつつあるということに、開き直ってしまわれることを期待したい。
*1 古川さんの2016年作品はこちら
>>
http://weekly-haiku.blogspot.com/2016/11/2016413-14-15-16-17.html*2 2010年に「ゼロ年代の100句」というミニアンソロジーを作った際、その傾向を五項目に分類したうちの一つに「私性=ノーバディな私による「私」語り」という項目を立てたのだけれど、そこには、まだ野口る理さんも福田若之さんも名前がなかったわけです(あれから10年かあ、とこれは個人的つぶやき)。
ここしばらくの、俳壇で話題となった作者・句集を固めて読んでいて気がついたのは、非常に小さな、ささやきやつぶやきのような句の多さです。それらを、ノーバディな=誰でもない、誰でもいい、どこにでもいる(しかしまぎれもなく、どこかにいる)「私」の声、というふうに名付けてみたら、ふに落ちるものがありました。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/06/100_2462.html○
9. 丸田洋渡「花のゆうべ」>>読む丸田さんは、20代前半の若い書き手。平野皓大、柳元佑太、吉川創揮さん達とともに、短詩形ブログ「箒」を創刊。こちらで、定期的に近作が読めます。
http://houkipoetry.com/春暁の谷を隔てて鳥と鳥鷲の巣や静かな場所で書き直す噴水のひよひよとでて巻きもどる木洩れ日に犬さしかかり五月の犬芍薬や喜びは球体である風鈴を繋げるように坂上る朝曇二つしかない家の鍵吾亦紅夢に出てくる町の地名鹿の毛の斑らに光るところあり鵯や妹にまだ小さな手寒鯉は手をかえす踊りのようにこの人も、俳句を「私的」に書こうとしている。それは、短歌的なアプローチだとも言える。
俳句はともすれば、いわゆる「個性」をいったん棚上げし、採点競技のような共通の価値観によって、作品を律することを好む。とりわけそれは「修練」や「師承」を強調する、結社の主流をなす考え方で、じつは、若書きが素朴派的に面白くなってしまいがちな短詩形の特徴を、いったん抑圧しておくことに主眼があるのだと思う
(*3)けれど、彼/彼女にはじめから作者たる自恃があるならば、どれだけ個に執しようと、それは、必ずしも遠回りではない。
鷲の巣や静かな場所で書き直す「
鷲の巣」を見て、それから、それに背をむけて、自分の場所に戻ろうという内容の句なのだろう。ここには時制の齟齬があるのだけれど、鷲の巣を見たと思ったらもう自分の場所に帰ろうとしている性急さに、面白みを感じた。つまり自分は、この人が「静かな場所で書き直す!」と言っているように読んだのだ(「
鷲の巣」が「
静かな場所」とイコールだとも取れることは、句の結構を弱くしているかもしれない)。
木洩れ日に犬さしかかり五月の犬芍薬や喜びは球体であるどちらも、さいごに「!」を足して読んでいいような同じ性急さを感じる二句。「
芍薬」の川柳的な言明もいいけれど、「
五月の犬」は、そこまでゆるく進んできて(「
さしかかり」は相当ゆるい)、下五で急に、そう思ったからそう言った(つまり「!」)が出てくるのが楽しい。
噴水のひよひよとでて巻きもどる朝曇二つしかない家の鍵鹿の毛の斑らに光るところありこちらは、採点競技的にも、得点がねらえそうな句。
この人は、よくできた句への指向と私的なものへの指向を合わせ持っていて、そのバランスを見つけようとしている所なのかもしれないけれど、筆者はそのゆらぎに魅力を感じている。
とりわけ「
朝曇」の句の、なにを文句言ってるんだか分からない(イコール詩的に上質な)淋しさと、色彩には惹かれた。
鵯や妹にまだ小さな手はじめ「カササギ」と空目して恋の句と思ったのだけれど、「
鵯」であれば、現実の記憶。「まだ/小さな」と句切れをはさんで読み進めると、手の中の妹の手がしゅーっと小さくなってしまうような、時間が巻きもどって自分も子供にもどってしまうような、魔法的な美しいイメージが手渡される。
「や」と打ちだして、遡行の出発点に眼前性を加えたこともよい。
意味だけとれば誰かがどこかで詠んでいてもおかしくない内容だけれど、むしろ、普遍的な内容に、言葉で微量のマジックを加えているというべき。佳句だと思う。
*3 若い落語家たちの群像劇である映画「のようなもの」(森田芳光)は、そのあたりの事情をうまく点描していた。
○
ふけとしこ句集『眠たい羊』(ふらんす堂)
ふらんす堂オンラインショップふけとしこさんは、「カリヨン」(市村究一郎)をへて「椋」(石田郷子)「船団」(坪内稔典)に所属。『眠たい羊』が第五句集となるキャリアの長い作者です。
ふけさんのような作家の句集と「落選展」の作品を、並べて鑑賞することに、失礼さを感じる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし新人賞の応募作には、同時代のもっとも先端の問題意識があらわれている(べきだ)と、自分は思っていて、同じ課題を、ふけさんの句集は、分けもっていると感じたのです。(新人賞の応募作もまた、作家の作品として読まれるべき、ということも思います)
『眠たい羊』は、本当に佳句揃いなので、ランダムに引いていきます
日が溜まる大根畑の足跡に 古川さんの「
菫草」の句と同じく、足跡がモチーフ。
足跡が刻印された瞬間とそこから経過した時間、いま私がそこに視線を向けている時間と、一つのアングルに、二つの時間の幅が書かれている。それは、そこに痕跡をのこした人が今はいないということだけが、描かれている絵だ。
鉄橋の三角三角春がくる淡雪や干菓子焙じ茶いただいて調子でできているような二句。
なのだけれど「三角四角」といえば、字数が合うところを、あえて「
三角三角」で中八にしている、この破調、胸にきませんか? 「春が来る」をこう配しての、この「
三角三角」は、人をはげます調子であるように、自分には思えた。
「
淡雪」の句。「
干菓子焙じ茶いただいて」の助詞を飛び石のように飛ばしていく軽さと、室内画の一部にでもなったような静かさとの、微量のアンバランスに味わいがある。
「
三角三角」や「
干菓子焙じ茶いただいて」に、自分が句会で出会ったら「わがままな言い方」と評すだろう。
前回取り上げたクズウさんのような(あるいは、生駒さんや青本さん達のような)言葉に負荷をかけてたわめていく行き方ではなく、もう少しカジュアルに、楽に、言いたいように言葉を使われる。
要するに、自由度が高い。
というと「型や形式を逸脱しない中にも自由はある」という話を出してくる人がいそうだけれど、そういう不自由さを感じない(感じない)から「自由」ということではなく、もっと積極的に、書きたいように書いてはみだしてしまう、むしろはみ出してしまう自分の勝手さを面白がるという行き方。私性と自由を、どちらが原因・結果というのではなく、一つのものとして追求していく書き方がある。
もっとも、自由であろうとすることは、それなりに「家賃の高い」行き方でもあって、それこそ生来の(天然のと言ってもいい)「上手さ」と「品の良さ」がないと、目も当てられないことになる。
梅花藻の水にタオルを絞りけりご無体なようだけれど、雑巾じゃないんだから、きっとこのタオルの水もきれいなんだろう(というような「品の良さ」の話をしている)。
水草の花の裏本意(
*4)は、たぶん「別天地」なので(「
河骨に金鈴ふるる流れかな 茅舎」「
水草に白楼ひくき門もてり 多佳子」)、タオルの水をじゃーとしぼるのは、あの世とこの世、肉体と抽象の次元のちがいを攪乱し、ひとつながりにしてしまうことだ。
山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり古川さんの「海に来て」と発想は似ているのだけれど、この理屈の通らなさ。というか、あやうく通ってしまいそうになる理屈の、念の入ったナンセンスには、滋味掬すべきものがある。ほんとうに何の意味もないけれど、なんとなく色合いもキレイだし。
春昼や壁へ広がる湯気の影 擂粉木をつるりと洗ひ夕長し風鈴や酢へ放つべく魚を切り待春やスープの底にひよこ豆 発想が、生活感情に近い。
偉大なる明治大正時代に生き、あるいは生まれた人々(主に男性)とは、どうにも、もともと人間が違う。偉大さや荘厳さが身に沿わないという「私たち」が、この世にいる。
小さくひそやかで親密であることで、その感受性の正当性を訴えることが、いわゆる「石田郷子ライン」(と筆者を含む何人かが一括りに呼んでしまった作家たち)の、分けもった時代精神なのだと思う。
ただ「
擂粉木」の句の「
つるりと」、「
風鈴」の句の「
放つべく」という言葉の軽さには、この人の固有性がある(もちろん「船団」の気風でもある)。
雀蛾に小豆の煮えてゐる匂ひ山の日の丸テーブルを三つ寄せ義士の日の混み合うてゐる足湯かな雪の日を眠たい羊眠い山羊 「
雀蛾」という、蛾の中に雀がいるような奇体ないきものに、赤茶色の小豆の匂いを、「
丸テーブル」を三つ寄せることの落ち着かなさと、歴史性を感じない「
山の日」のよるべなさ、をそれぞれ二重写しにすること。「羊」と「山羊」と「
眠たい」と「
眠い」の違いが字数でしかないこと、などなど。この句集の、オリジナルな面白さを数えていけば切りがない。
とりわけ「
義士の日」の句。忠臣蔵といえば雪の日にざっざっざっざと歩いて行くわけですが、その四十七士の足だけの幽霊が現れたかのようで、ごく当たり前の日常風景だと言っても通ってしまう、その知的なはからいに大いに喜びました。
製材所の焚火のなんといい匂ひそりゃそうだろうなあ、っていう、計らいの無さも面白かった。
*4 裏本意については、昔こちらに書きました。>>