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〔今週号の表紙〕 第334号 晴れた日は 山岸由佳

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今週号の表紙〕 
第334号 晴れた日は

山岸由佳



鞄の中にいつも入っているのがフィルムのコンパクトカメラ。ズームがないので足で画角を決めるしかない。現像する時には何を撮ったのか覚えてないこともある。WEBにアップするにもデータ化しなければならず効率の悪さときたらこの上ない。

でも、仕上がりの写真を見る時の楽しみはフィルムだからこそ。デジタルカメラの画質は本当に綺麗になったけれど、何か失ってしまったものがあると思っている。

一昔前のモノクロの家庭の写真って、かっこよかったなぁ。

フィルムカメラを持って、洗濯物の干された団地をあてもなくぶらぶらするのも悪くない。まだ当分この効率の悪さを楽しむつもりだ。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

朝の爽波84 小川春休

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小川春休




84



さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十一年」から。今回鑑賞した句は昭和六十一年の秋の句。九月前後ではなかろうかと思われます。九月十四日には、初めての「青」句集まつり(その年に刊行された句集の合同出版祝賀会のようなものと思われ)が開催。その翌日、嵯峨での高槻吟行会には句集まつりの来賓でもあった辻桃子・大屋達治も参加した模様。なお、「青」二月号から連載開始の「枚方から」、九月号はこんな感じでした。
(前略)即ち「何々を写生しにゆく」という確固たる目的をもって、その「何々」に徹底的に食らい付いて、一切の傍目もふらずに対象を見て見て見抜いて、気力をふり絞って現場での写生を遂行すること。ここ何年か、これ一点に絞って徹底的にみんなにこれを実行して貰う以外には、写生の実践が即写生力の向上に繋がる道はないのだと改めて考えている。
 漫然と野に出て写生を、などと言ってみたところで、手も足も出ないというのが本音である筈だ。
 さてその「何々」だが、兎にも角にも対象自体に「動き」があることが絶対の要件であり、更にその「何々」自体が季語であることが一番望ましい。
 関西では幸いなことに自然との距離が近いし、こういう対象として一番身近に見られる「田植」とか「稲刈」なども、昔のままに手で植えたり刈ったりする状況をいくらでも見られる。(後略)

(波多野爽波「枚方から・写生とは(その一)」)

出穂の香のはげしく来るや閨の闇  『一筆』(以下同)

日中でも暗い寝室と読めなくもないが、夜、眠ろうとして灯を消した後と読みたい。稲田の景は昼のものとして描かれることが多いが、掲句は夜。一日を終え、暗い寝室に深い息をした時、予想外の濃密な出穂の香を吸い込む。稲の生命の生々しさを感じる句。

からし溶きわさびも溶いて星月夜

秋は夜空も澄んで星がよく見えるが、特に新月の頃、月と星とが輝き合う様を星月夜と称する。さて掲句、わさびは刺身のものであろうが、からしは何に付けるものだろう。食卓に並んだ数々の料理、そこに集う多くの人、何とも賑やかな景がありありと見える。

ソース壜汚れて立てる野分かな

明言されずとも句の背後に人の姿の見える句とそうでない句があるが、掲句からは全く人の気配を感じない。汚れたソース壜が立っているのは食卓の上。かつて団欒の場でもあったはずの食卓だが、現在は無人。野分の激しい風が庭木や窓を鳴らす音が響くばかり。

燈下親しむに涎を拭ひつつ

「灯下親しむ」とは、灯火の下で読書や団欒をすること。いかにも秋の夜長を想起させる季語だ。掲句の場合は、団欒ではなく一人で読書に没頭している状況であろう。「拭ひつつ」という言い方からは、一度ならず何度も涎を垂らしては拭いする様子が目に浮かぶ。

林田紀音夫全句集拾読 283 野口裕

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林田紀音夫
全句集拾読
283

野口 裕





桜の芽おびただしくて夜を招く

平成四年、未発表句。この句を先頭として、二十四句の桜の句が断続する。例年、桜の句は多いが、平成四年はとりわけ多い。掲出句は、若干の不気味さを漂わせて獣めく。

 

口中に飴玉さくらほころびて

飴ひとつなくなるまでの桜の芽

平成四年、未発表句。さくらと飴の取り合わせが、面白い響き合いを醸す。


跳び箱を片隅に春すぐそこに

平成四年、未発表句。桜二十四句に挟まれて、この句がある。平成六年花曜発表句に、「跳び箱は墓標のひとつ走り出す」。平成四年から六年の間に関連句が見当たらないことから、有季から無季へ作り替えた一例と考えられる。季語のあるなしよりも、句の表情までも変えてしまったことの方に注目したい。思わず、そこまで無理せんでもと言いたくなるが、余計なお世話か。

自由律俳句を読む 11 藤井雪兎 1 馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 11 藤井雪兎〔1

馬場古戸暢


今回より少し趣を変えて、自由律俳句を読んで行きたい。すなわち、作家ごとに数句を取り上げて、鑑賞文を付す形式をとる。

その初回となる今回は、藤井雪兎(ふじいせっと、1978-)の句の鑑賞を行う。氏は既に週刊俳句において、10句作品「十年前」や小文「現前するリズム」を発表しているので、ご存知の方も多いだろう。第10回尾崎放哉賞で入賞を果たし、また、自由律俳句集団「鉄塊」に参加するなど、精力的な活動を続けている。

描かずに大樹の前  藤井雪兎

大樹を前にして、そのあまりの巨大さに筆が止まった。あるいは、描くつもりもなくやって来て、大樹の前で立ち止まった。どちらにせよ、大樹感が感じられる。

わかりやすい男に酒が来た  同

注文した酒がやって来るまでの間に、相当量の情報をこの男は既に知られてしまっていたのではないか。飲み会はまだまだはじまったばかりである。彼が隠したい情報を隠し通せることを祈りたい。

嫌いな人と台風の中ゆく  同

仕事の最中か、たまたま帰り道が一緒になったのか。「苦手」ではなく「嫌い」と言い切るところに、作者の本気度を見る。しかし、台風という共通の敵と対峙したことによって、意外と仲良くなっているのかもしれない。

白いままの便せんに雪が落ちた  同

未だ使用していない便せんを屋外で開き、何を書こうか考えていたところか。寒くはないのかという心配が生じるが、詩的な景である。

はじめての詩を書いて吐く息の白さ  同

この初々しい詩人は、十代の少年少女のように思える。多感な時期に感じた様々な思いを詩として吐き出し、筆を置いたところだろう。もろさと美しさが同居しているような景だ。

【週俳8月の俳句を読む】愛、燦燦と 村越敦

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【週俳8月の俳句を読む】
愛、燦燦と

村越 敦


人声は月に届かず月涼し  村上鞆彦

屋外で月を愛でる人々。その声が月に届かないのは自明のことであろう。というのも、声が届くという事象には声の発し手と受け手の双方の存在が必要でだからだ。月には残念ながら我々の声を認識しうる生命体は、存在しない(とされている)。

むしろこの句の妙味は月そのものが擬人化して描かれているところにある。月は人声が自身のところまで届き得ないことを知りながら、しかしあたかもそのことを関知していないかのように粛々と、いつもどおり照りまさる。一方人はというとまさか月のほうにそういう背景があるとはつゆしらず、ただ月を仰ぐ。

人間・自然、双方に対するさりげない愛を感じる一句。


燦々と市民プールの市民たち  同

手ごろで気楽な市民プールは地域住人の憩いの場である。家族連れ、子ども、老人、年代問わず多くの人が訪れる。ここで描かれているのはそんないつものプールの光景であるが、燦燦と、という措辞で雰囲気が一変する。水しぶき、光、歓声、すべてが黄金の光を纏う。それは絢爛たる公衆浴場で悠々と湯浴みをするローマ市民たちと重なるようですらある。


第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


第331号 2013年8月25日
久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む

【週俳8月の俳句を読む】ボールの話 生駒大祐

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【週俳8月の俳句を読む】
ボールの話

生駒大祐


ボールの話をします。

7はどうひらくか波の糸つらなる  鴇田智哉

これは速い。しかし、速すぎる。前半のゆったりとした動きから後半に至っての速度に手が追いつけない。

点線の線になりたる速さかな  同

これは遅すぎる。見切れる。遅すぎることを狙ったのかもしれないが、それすらも見えてしまう。

かどのある数字が星のよりどころ  同

これは見えそうで見えない。速度は普通。しかし、緩やかにカーブして手元から逸れてしまう。。

木の揺れを覚まさうと日の裏手へと  同
 
これは少し遅め。早く見せかけているけれども。実は遅い。摑んでみれば、判る。

覚めたるは緑の蓋が嵌めてある  同

ちょうど良い速さ。取ろうとすると、ボールの意外な重さに気付く。

河骨のひらく高さに目のみゆる  同

はじめて見る人なら、気持ちよくキャッチできる。でも、もう見慣れてしまった。

虹あとの通路めまぐるしく変る  同

フォームが最初ふらついたか。それにしては良く伸びた。もう一度投げるのを見たい。

我は藻のまはりに殖ゆるものらしき  同

少し乱暴に投げられている。投げるときの癖も少し出ている。

かほを打ちつけて麦秋までもどる  同

良いボール。適度な速度。コースも見事。すっぽりと気持ちよく手に収まる。

潰れたる西瓜はのちの夜にありぬ  同

良いコースに見えるが、手で投げている。手元まで届かない。


第328号 2013年8月4日
彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む


第329号 2013年8月11日
鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
 

第330号 2013年8月18日
井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む


第331号 2013年8月25日
久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む

愛と幻の俳句甲子園(2) その他のインタビューから 青木亮人

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愛と幻の俳句甲子園(2)
その他のインタビューから

青木亮人


今回は、第一回目「俳句と青春」(「愛媛新聞」9/3掲載記事に加筆・修正したもの→http://bit.ly/15IiUBG)で言及しえなかった出場者へのインタビューから、2チーム分をまとめたものである。


1 情感豊かに

ある高校のチームがまず手に取るのは電子辞書と歳時記である。季語を知るため、そして例句を通じて季語の傾向を学ぶためだ。

例句等はネットで検索することもあり、顧問の先生が教えてくれることも多い。彼らはそのようにして「季語の基本」をチェックし、また句をどの方向に練り上げるかを思案する際に再び歳時記等を確認する。主に歳時記を土台にしつつ「傾向と対策」を練るのが句作の第一歩、という感じだろうか。

その上で彼らが目指したのは、「景をはっきりさせるより情感を豊かに押しだす」という句作だった。大会での作品を見てみよう。

夏 の 海 泣 け ば 蒸 発 で き る の に
憤 る 夜 の ゼ リ ー の 色 淡 し
一 斉 に 蓮 闇 を 吐 く 真 昼 中

確かにこれらは「情感」を軸とした作品といえるかもしれない。

ところで、上記作品を読んだ時に興味深く感じたのは、彼らの中で「歳時記を基本とする季語の世界観」と「情感を豊かに押しだす句作のあり方」は矛盾しないらしい、ということだった。

彼らが親しんだ歳時記の中身も気になるが、むしろ個人的に興味を感じるのは、上記作品は結果として季語以上に「情感=私」が強く押し出されており、トーナメント上位まで勝ち進むチームの句作傾向と異なる作品に仕上がっている、という点である。

一般的に、常勝チームは題として出された季語を作品のクライマックスに据えるとともに、「季語の世界観」を乱さないように一幅の情景を描く、つまり「作者・読者がともに瞬時に共有できる安定した季語観」を増幅させる「風景」を造ることで、「題として出された季語をいかにうまく消化したか」という技術の冴えを前面に押し出す傾向があるのに対し、先ほどの句群は結果的に題として出された季語よりも「情感」が強調されている。

ここで言いたいのは作品としての価値云々でなく、句を練り上げる方向性の軸が常勝チーム系と異なるということ、その違いに関心があるのだ。

よりいえば、上記句のチームはなぜこれらの句を「俳句甲子園としての作品」と見なしたのか、そもそもなぜ「景をはっきりさせるより情感を豊かに押しだす」ことを句作の中心としたのか、来年以降もその方向性で俳句甲子園出場を目指すのだろうか? それらの点を興味深く感じたのだ。


インタビューの際、「好きな俳人は?」と聞くと困惑の表情を浮かべたが、「好きな俳句は?」と質問を変えてみると、次の句を挙げてくれた。

カ ン バ ス の 余 白 八 月 十 五 日  神野紗希
を り と り て は ら り と お も き す す き かな  飯田蛇笏

メンバーの一人は、過去の最優秀句の中でも特に好きな作品として「カンバス」句を挙げた。「をりとりて」句を挙げたメンバーは、授業で習った際に強い印象を受けたという。

ただ、俳句関連よりも彼らが目を輝かせたのは、「好きな小説家や音楽は?」という質問だった。有川浩や三浦しをん、K-POP、東方神起……時間が許せば、彼らは多くの小説家やミュージシャンを挙げただろう。

彼らは勝ち進むことはできなかったが、「俳句甲子園は楽しかったし、勉強にもなった」という。俳句という「文学」を点数でジャッジすることや、勝敗の結果に疑問を感じることもあったが、試合中のディベートや審査員の講評を通じて気付かされることも多く、何より松山に先生や仲間たちとともに訪れ、俳句甲子園に参加したのが楽しかったという。

インタビューに応じる彼らの表情には、負けたことの悔しさよりも参加できた楽しさが感じられた。勝敗は勝敗、それと楽しむことは別、というサバサバしたチームの雰囲気もあり、むしろそれゆえに彼らが明るく感じられたのかもしれない。


2 景をはっきりと

ある高校のチームは「文芸道場」なる大会に出場した経験がある。県下の高校で文芸全般に関心を抱く生徒が集い、競い合うとともに交流しあう大会だ。もちろん俳句部門もある。彼らはそこで「文学」や「俳句」を学び、その上で俳句甲子園に臨んだという経緯を持つ。

文芸道場出場の他に、彼らは俳句甲子園の過去優秀作や先輩たちの句群、また『17音の青春』(神奈川大学)等を通じて「俳句」らしさを学んだという。インターネットや俳句史における著名句等は特に気にかけなかった。

ただ、彼らはもともと俳句が好きというわけでなく、むしろ他ジャンルの文学に惹かれる方だ。たとえば歌人の俵万智や加藤千恵、小説家の桜庭一樹。『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』(桜庭一樹)を読んだ時にはあまりの凄さにため息が出たものだ。

そんな彼らが句作の際に心がけたのは「はっきりと分かりやすく、景が一瞬で思い浮かぶような作品」。誰もが理解し、共感できるもの、それが「俳句」であり、俳句甲子園での作品というわけだ。

顧問の先生は俳句指導等を細かくすることはせず、メンバーそれぞれの個性を尊重してくれる。だからチームメンバーはのびのびと俳句を作り、景がぱっと思い浮かぶ作品を詠もうとした。そして全国大会への切符を手に入れ、八月の松山へ旅立ったのだ。

大会当日、彼らが出したのは次のような句だった。

嘘 を つ く 透 き 通 っ た ま ま の ゼリ ー

嘘を付いたことのやましさが、心にかげりを帯びて引っかかっている。その「私」の屈託を見透かすようにゼリーは一点の曇りもなく、ただ「透き通ったまま」眼前にたたずむ。

無論、ゼリーは「私」の心の翳を知るよしもない。しかし、それゆえに「私」はゼリーがいつもより「透き通ったまま」に感じられるのだ。

または、「透き通ったまま」のゼリーは、嘘をついた「私」を突き放すことで許しを与え、慰める存在として目の前にたたずんでいるのかもしれない。

あるいは、ゼリーは「嘘を付いたとか、そんなことはどうでもいいよ」というように「私」の前で「透き通ったまま」現出している、そういう存在なのだろうか。

上記句について「透き通ったままのゼリー」のありようをあれこれ想像したのは、次の歌が思い出されたためである。

今 日 ま で に 私 が つ い た 嘘 な ん て
ど う で も い い よ と い う よ う な 海  俵万智
(『サラダ記念日』)


先ほどの「ゼリー」句からこの短歌を想起したのは、彼らに好きな文学者を聞いた際に「俵万智」という返答があったためだが、同時に次の句と比較した時、「短歌的なもの」を感じた点も大きい。

憤 る 夜 の ゼ リ ー の 色 淡 し

本記事で最初に紹介した高校の句だが、句の内容や「ゼリー」の把握は「嘘をつく」句と近似しつつも、「憤る」句には短歌の雰囲気が感じられず、かたや「嘘をつく」句の表現には「短歌的なもの」が感じられたためだ。

「嘘をつく」句が大会で勝利を収めたかどうかは知らないが(試合を観ていないため)、個人的には「嘘をつく」句の作者がこれまでどのような作品に触れ、どの作品に感動し、何をもって「文学」と感じてきたのか、その点をより知りたいと感じた。

「嘘をつく」句は、今回の大会でさして問題にならなかった作品だ。優秀句や入選句に選ばれたわけでなく、準決勝以上の試合で出された句でもない。予選リーグのある会場で出された後はひっそりと忘却の闇の中へ滑り落ちた一句であり、今後思い出す人は少ないだろう。

しかし、「嘘をつく」句は、大会での勝敗よりも「なぜその句が「俳句」として詠まれたのか」と思いを馳せたくなる作品だ。この作者は他句が優秀句に選ばれたが、それよりも「嘘をつく」句の方に魅力的な謎が感じられる。少なくとも研究者の私にはそう感じられた作品だった。



彼らにインタビューを申し込んだ時、試合直後だったのか、やや上気した面持ちで応じてくれた。試合後の冷めやらぬ熱気と八月の暑さで額に汗がにじみ出ているにも関わらず、「好きな文学者は?」と聞くと「加藤千恵!」「桜庭一樹!」と答える表情が明るく、快活で、その姿がとても印象的だった。

(第2回・終)

10句作品テキスト 草の絮 村田篠

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草の絮   村田 篠

二学期の少年水に触れてゆく
秋の暮とは階段の見ゆる窓
鉄塔の二百十日の高さかな
水澄むや玄関先に人の立つ
地響きのして秋麗の鼓笛隊
秋灯のひとつ港を離れけり
町名のここより変る白芙蓉
草の絮降る石を運んでゐる人に
月の夜をオプティミストの通りけり
花野より傘をなくして帰りたる


10句作品 村田篠 草の絮

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週刊俳句 第334号 2013-9-15
村田 篠 草の絮
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週刊俳句 第334号 2013年9月15日

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第334号
2013年9月15日



村田 篠 草の絮 10句 ≫読む

…………………………………………………………
愛と幻の俳句甲子園
(2)その他のインタビューから……青木亮人 ≫読む

【週俳8月の俳句を読む】
生駒大祐 ボールの話 ≫読む
村越 敦 愛、燦々と ≫読む

自由律俳句を読む11藤井雪兎〔1〕……馬場古戸暢 ≫読む
朝の爽波 84……小川春休 ≫読む
林田紀音夫全句集拾読 283……野口 裕 ≫読む

 〔今週号の表紙〕 晴れた日は……山岸由佳 ≫読む

後記+プロフィール……西原天気 ≫読む



週刊俳句編『子規に学ぶ俳句365日』発売のお知らせ ≫見る






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新アンソロジー『俳コレ』刊行のごあいさつ ≫読む
週俳アーカイヴ(0~199号)≫読む
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後記+プロフィール 335

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後記 ● 上田信治

おさわがせいたします。

「ku+(クプラス)」、たまたま「週俳」運営当番の一人である自分が編集に関わっていることと、ネットと紙の橋渡しをする過渡期的メディアというアイディアが高山さんにあったことから、「週刊俳句」をプラットフォームとして使ってもらおうというアイディアが生まれました。

今後も、告知にとどまらず、スピンアウト企画など掲載していく予定です。

こちらより数日早く「-blog俳句空間-戦後俳句を読む」の、筑紫磐井さんの時評で「ku+」ちょうど(櫂未知子さん佐藤郁良さんの同人誌「群青」とあわせて)とりあげていただいています。≫読む

そして、仁平勝さんの戯作二人姓名詠込之句には、磐井さん、れおなさん、櫂さん登場、と。円環が閉じたような、閉じないような、今号でした。

小早川忠義さん、今泉礼奈さんの10句作品、ひさびさ登場の今井聖さんの「奇人怪人俳人」(書き下し!)と、今号も充実でした。



ひさびさに、haiku mp3 を。



これは、Tom Tom Club(トーキングヘッズからスピンアウトしたバンドです。聞けば、ああ、あのって思う人は多いはず)なんですけど、NPR Music っていうラジオ局?の事務所?で、ミニライブシリーズの一幕。

どの演奏家もじつに楽しそうに遊んでます。

こんなの見てると、時間いくらあっても足りないですけど、例えば、こういう。



0:50あたりからでも。





それでは、次の日曜日に、またお会いしましょう。 


no.335/2013-9-22 profile

■小早川忠義 こばやかわ・ただよし
1969年富山県生まれ東京育ち。2009年「童子」入会。
2012年新童賞受賞。2013年ネットプリントの同人誌「あすてりずむ」創刊。

■今泉礼奈 いまいずみ・れな
1994年生まれ。現在、お茶の水女子大学2年。「東大学生俳句会」所属。

仁平 勝 にひら・まさる1949年東京生れ。著書に『俳句が文学になるとき』(サントリー学芸賞)『俳句のモダン』(山本健吉賞)『俳句の射程』(俳人協会評論賞、加藤郁乎賞)、句集『黄金の街』など。

■高山れおな たかやま・れおな 
1968年、茨城県生まれ。 句集『ウルトラ』『荒東雑詩』『俳諧曾我』。

■山田耕司 やまだ・こうじ
1967年生まれ。俳句同人誌「未定」を経て、俳句同人誌「円錐」創刊に参加。その後、俳句作品の発表を中断。2010年 句集『大風呂敷』出版。現在、「円錐」同人。共著『超新撰21』(2010)。サイト 大風呂敷

■佐藤文香 さとう・あやか
1985年生まれ。句集『海藻標本』。「里」「鏡」所属。アキヤマ香「ぼくらの17-ON!」(双葉社JOURコミックス)俳句監修。メルマガ「さとうあやかのはいくサプリ」。blog「さとうあやかとボク」

■馬場古戸暢 ばば・ことのぶ
1983年生まれ。自由律俳句(随句)結社「草原」同人。

■小川春休 おがわ・しゅんきゅう
1976年、広島生まれ。現在「童子」同人、「澤」会員。句集『銀の泡』。サイト「ハルヤスミ web site

■野口 裕 のぐち・ゆたか
1952年兵庫県尼崎市生まれ。1952年兵庫県尼崎市生まれ。二人誌「五七五定型」(小池正博・野口裕)完結しました。最終号は品切れですが、第一号から第四号までは残部あります。希望の方は、yutakanoguti@mail.goo.ne.jp まで。進呈します。サイト「野口家のホーム ページ」

■鈴木不意 すずき・ふい 1952年新潟県生まれ。「なんぢや」「蒐」

■上田信治 うえだ・しんじ
1961年生れ。共著『超新撰21』(2010)『虚子に学ぶ俳句365日』(2011)共編『俳コレ』(2012)ほか。  


〔今週号の表紙〕 第335号 第一生命ビル 鈴木不意

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今週号の表紙〕 
第335号 第一生命ビル

鈴木不意


出光美術館で書の展示を見ての帰り、久し振りに銀ブラでもしようと皇居前を歩いて遠回りをしてみた。

一緒に歩いていた連れ合いが郵便局のATMに立ち寄ると言って入ったのがこの建物。第一生命の本社ビルの玄関付近はどこか入る者を拒むような雰囲気がある。塵ひとつ落ちていない石の床をいったい何人の人が歩いたのだろう。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

林田紀音夫全句集拾読 284 野口裕

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林田紀音夫
全句集拾読
284

野口 裕





海へ道さくら発光して昏れる

平成四年、未発表句。海へ通じる道、おそらく河口沿いの道だろう。日の暮れてゆく中を桜は発光しているようだ、というような意味合いだろう。生の貴重なひとときを実感している。

 

終日雨さくらに髪の白加わる

平成四年、未発表句。桜に自己の老いを重ねたか。

花褪せてさくら擦過の夕まぐれ

平成四年、未発表句。「花」、「さくら」と重ねるのは珍しい。緊張感に満ちた句も良いが、ふと口をついて出たような軽い句も好ましい。花片が触れるか触れないかの軽い蝕感とよくあった句柄だ。

 

風わたる陸橋時に落花また

平成四年、未発表句。陸橋は、紀音夫の好むアイテムのひとつで、無季の句の道具立てとして頻出する。ここでは有季。風と落花という常套手段は、句に破綻を生じさせない。無季の句に作り替える下ごしらえか。

朝の爽波85 小川春休

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小川春休




85



さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十一年」から。今回鑑賞した句は昭和六十一年の秋の句。十月前後ではなかろうかと思われます。なお、爽波晩年の居住地である大阪の枚方は、「ひらかた大菊人形」という菊人形の展覧会が毎年開催されており、〈菊人形となりて裏切者見据ゑむ〉という句もそこでの作という線が濃厚です。ちなみに昭和六十一年開催の「ひらかた大菊人形」のテーマは武蔵坊弁慶、句の内容にどんぴしゃのテーマだった模様。なお、「青」二月号から連載開始の「枚方から」、十月号はこんな感じでした。写生のお手本として素十俳句を挙げていますが、新潟の亀田って、亀田製菓で有名なあの亀田ですよね。
(前略)さて先月、「何々」を写生しに行く、そしてその何々とは主として「農のくらし」に関わるもので、「動き」とは主としてそこに登場する「人」の動きであると書いたが、これらはすべて私が初学時代に素十俳句に傾倒し、そこから得たものと言える。
 素十は昭和十年、四十二歳のとき新潟医大教授として新潟に住みつき、昭和二十八年、六十歳を迎えて定年となり、新潟医大を退き新潟を離れるまで二十年近くを新潟の地で暮らしている。
 私が俳句を始めたのが昭和十四年。学徒出陣で兵隊に取られていた期間などあるから、私の初学十年という期間と殆ど一致する訳である。
 新潟時代の素十は、何かと言えば新潟郊外の亀田という水郷の地に足を運んで句を作った。「亀田俳句」という呼び名すら残っているぐらいだから、ごく大ざっぱに言って素十の新潟時代とは「農のくらし」の俳句とも言えよう。
(後略)
(波多野爽波「枚方から・写生とは(その二)」)

秋の蚊のすぐさま来るや白砂より  『一筆』(以下同)

白砂青松の地、白い砂浜と青い松林の、広がりと奥行きのあるくっきりとした色彩のコントラストの中を、一直線に飛来する一匹の蚊。「すぐさま」から蚊の俊敏さがありありと窺われる。か行音・さ行音の多用による颯爽とした句の響きも併せて味わいたい。

一棚はみなスパイスで水澄めり

ずらりと棚に並べられたスパイス、インド料理の厨房であろうか。色とりどりのスパイスの小瓶が並び、刺激的な匂い同士が混ざり合った複雑な匂いが胸に迫る。屋内であるが外光のよく入る明るい店内から澄む水が見え、自然と健康的な食欲の湧いてくる句だ。

洗ひたる障子の屑やみな沈む

来るべき冬に備えて、障子を洗ってから貼り替える。庭先などで水をかけて洗う方法もあるが、掲句は池などにしばらく浸け、古い紙が剥がれるのを待って洗ったのであろう。障子洗いが終わってから、池の水の乱れが治まるまでの、たっぷりとした、静かな時間。

菊人形となりて裏切者見据ゑむ

菊の花や葉を衣装に見立てて作る菊人形。芝居の名場面や歴史上の人物を題材とすることが多いが、義経・弁慶主従や信長など、裏切りによって命を落とした者も多い。七七六の破調に独特の勢いがあり、怨みの形相と濃い菊の香が読む者の脳裏に浮かんでくる。

自由律俳句を読む 12 藤井雪兎〔2〕 馬場古戸暢

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自由律俳句を読む 12 藤井雪兎〔2

馬場古戸暢


前回に引き続き、藤井雪兎句の鑑賞を行う。

なみだのなかのなつのなきがら  藤井雪兎

このなきがらは、カブトムシやクワガタのものだったろう。夏の日の少年は、皆、こうした涙を流して成長して行くのである。

つないだ手がたんぽぽをかすめた  同

手をつないだ二人が、春の陽気を楽しそうに歩いている様を思い浮かべる。若い男女ととっても、親子ととっても、少年少女ととっても、老爺と孫ととってもいい。どの二人であっても、幸せそうだ。

叱られた夜に時刻表読んでいる
  同
 
家出の準備をしているところだろう。行動が速い子供である。なんとなく、インターネットが未だ普及していない時代を詠んだ句のようにみえる。夜行列車をうまく使えば、結構遠くまで行けるのかもしれない。

知らん花だと春のおじさん
  同
 
作者とおじさんの会話の一端だろうが、あまりにシュールである。夏のおじさんなら、花の名前を知っているのだろうか。

野球捨てた筋肉が鉄打っている  同

学生時代に培った体を生かして、仕事に励んでいるところだろう。しかし野球を「捨てた」ということは、故障でやめたり、学校を卒業してやめたというわけではなく、積極的に放り投げた感じがする。そうした経緯ゆえに生じた後悔をも、この鉄に打ち込んでいるのか。


【「ku+」創刊予告特集】編集人4人が語る こんな(名前の)雑誌になるはずだった

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「ku+」創刊予告特集

編集人4人が語る  
こんな(名前の)雑誌になるはずだった



「ハイジ」じゃない……佐藤文香

わたしたちの雑誌は、「ハイジ(仮)」だった。

ハイジ」という案は、山田さんの「俳句ゴジラ」に対して、わたしが考えたものだった。
 なかなか、しっくりきていたと思う。
 4月のカレンダーには、4人の会議のこと、「ハイジ会合」と書いてある。

 ある時期に、(仮)がとれると信じて、疑わなかった。

「俳誌」を濁点で汚したようなだとか
「俳人」に一文字足りないぼくらとか
せっかくのご指名ですが「拝辞」いたしますとかいう理屈は、いつまでも考え飽きることはなかったし、

もちろんあの、アルプスの彼女の名まえのこと、
彼女が山の前に、おじいさんや犬とともに立っているあの景色、その登場人物たちを、わたしたちにあてはめて笑っては
(その場合ハイジはわたしではなく。念のため)
きっと楽しくて新しい、素敵な雑誌になるだろうと夢想した。

そう、そして、「ハイジ」は「俳児」だった。

まだふつうに児童的なわたしよりむしろ、
かしこくてはちゃめちゃな、子どもおとなな山田さんや高山さんが、その呼称にふさわしい人たちと思った。
ふたりも「ハイジ」を気に入っていた。

編集部内では上田さんひとりの反対から、
参加メンバーみんなと話し合うことになり、
結果、わたしの「ハイジ」はみんなの「ku+」になって、

(わたしは何に)

それはいいことでした、

(恋をしていたのだろう?)

わたしは「ku+」の一員です、

ハイジなんて、はじめからなかったし、いなかったんじゃないか)

どうぞよろしく

(大丈夫、みんなと仲良くやるし)

(面白い俳句書きたいし)

ハイジじゃなくたって)

(みんながいるから)

よろしく、

よろしくお願いします。

ハイジって呼ばれても振り向く準備はある)





「俳句ゴジラ」じゃなく……山田耕司

このところアニメの主人公をテーマにした切手シートが発売されることがあって、かつ、そのアニメの主人公とは「ほどほどに懐かしく」「40代の人間にはど真ん中」という手合いのものであり、その日郵便局の窓口に掲示されていたのがハイジだったのである。

「いかがですか?」ぶらさげられているハイジのシートの前でじっとしている山田に対して、窓口の女性からすみやかに声がとどく。

ハイジ、お好きでしょ?」

言うまでもないことだけれど、佐藤さんが提案していた「ハイジ」は、アルプスの少女ハイジを前提とするものではない。

高山れおな、上田信治、佐藤文香、山田耕司の4人をモミの木のそびえる山小屋に並べてみて、さて、どうする。

ともあれ、どう宣言をしたところで、「ああ、この人たちはアルプスの山小屋の←に立てこもりたいのかしら」などと誤解されることは避けられないだろう。すでに世にあるおおまかなイメージにからめとられる可能性が、あまりにも高い名前である。

であるからこそ、「ハイジ」でもいいのかなぁ、と傾きつつあった。

そもそも、編集部の4人のみならず、執筆メンバーの顔ぶれを思い浮かべるに、どうにもひとつのイメージにまとめきれるものではない。むしろ「ひとつのイメージにまとめきれない」人たちがひとつの場を共有することをもって〈総合性〉のようなものが立ち現れるだろう、そんな展開が期待されてこその顔ぶれなのである。

「すでに世にあるおおまかなイメージ」を誌名としていったん掲げて、かつ、活動においてそのイメージを破壊していくことが、新誌の宿命なのかもしれないとさえ思った。「すでに世にあるおおまかなイメージ」なるものが堅固で平板であればあるほど、破壊する時のインパクトがわかりやすくなるのではないか、とも。ちなみにハイジは「俳児」ということでもあると編集部の中でイメージはふくらんでいて、「俳句児評」(おとなげないほどに俳壇的な空気を読まない時評)などの企画も上がっていた。

新誌の名前として、山田は「俳句ゴジラ」を〈たたきだい〉の状態で提案していた。

もうね、わかる人にはわかると拝察するが、コレかなり1980年代。ニューアカデミズム的な入射角度ですよ、ええ。

暴力性なり無意識性なり、社会通念の陰画であったり、もうね、露骨なまでのメタファーまみれ。

ただ、あまり〈ちんまりと〉〈おだやかな〉名前になるのも、もどかしいなぁという気分が「ゴジラ」を召喚したのである。

 ベビーフェイス(いいヤツ)とヒール(困ったヤツ)。
 
ゴジラ」は、まあ論じるまでもなく、ヒール。ゴジラが、ゴジラであるにもかかわらず「いいこと」なんぞをつぶやくと、これは、沁みる。あらかじめヒールを名乗ることの〈さもしさ〉というものは、そんなところにある。

一方、「ハイジ」はベビーフェイス。ベビーフェイスがぶっ飛んだことを言い放つ時のインパクトは、〈さもしさ〉をかるく超越する。

おおむね、穏便な言説など求めないからこその新誌発行ではあった。

かくして「ゴジラ」は「ハイジ」に駆逐され、山田は桐生本町二郵便局において、「アニメヒーローヒロイン 第19集〈アルプスの少女ハイジ〉」をイキオイで購入するに及んだのである。

と、ここまできて、なお、誌名をめぐる議論は続く。

それもそうだ。
「すでに世にあるおおまかなイメージ」とは、モロハのツルギ。
それを壊そうとする意気やヨシ、として、うっかりすると逆にのみ込まれかねない。われらが「ハイジ」は、まだ何もしていないのであったし、一方、イメージのハイジはアルプスを駆け抜けて青い服を着た少女に奇跡をもたらしたりしているのである。

この「いまひとつ決定打に欠ける」状態に対して、ある程度の方針をもたらすことも、7月14日の会議の課題であった。

結論を言うと、編集部と執筆メンバーが顔を揃えた(杉山久子さん欠席)新宿のカラオケボックスおよび居酒屋での会議において、誌名は一本化されなかった。

ほどよく酔いが加わった俳人たちの、その大喜利の面白さ。事前に編集人の間で検討されていた「ハイジ」「ハイド」に加え「ハイクポイント」「ハイクエンジン」「chun」「俳句鶴亀」「俳句盆暮」「金時」「」「短い」などが沸き立ち、そこに「赤い犬」が横断していくという按配。つまり、決定打が出るどころか、むしろ選択肢が増えてしまったのである。

ここで「ハイジ」は、もろもろの候補のひとつという立ち位置に後退させられることで、「ゴジラ」を駆逐したイキオイを喪失した。

しかし、新宿から桐生へと帰る3時間ほどの道のりにて、なにやら爽快な気分に浸っていたような気がする。ひとつのテーブルを囲んでひとつの話題に存分に沸き立つ事態こそが、新誌発行のための顔合わせ会合としてふさわしい。決まらなかったことの余韻と、それでも必ず解決するだろうという確信。

その帰路において思いついたのが「俳句丼(はいくどんぶり)」。略して「ハイドン」。

個人的なことになるのだけれど、かれこれ25年ほど前に実弟と出版を企画していた雑誌があって、それが「メロンどんぶり」。結局使われること無く終わってしまった名前なのだが、その地下茎が夜の両毛線で通過する真っ暗な関東平野にて芽を吹いた。

もともと「いろんなものが意外なカタチでひとつのパッケージに入っている」というような意味合いの「どんぶり」。

これが「ハイドン」となり、メンバーのみなさんに伝えられる過程で、「どんぶり」テイストは薄れ、一方、楽聖のイメージなどを蓄えつつ別の候補として成長してゆく。「ハイドン」の成長とその後については、高山さんから紹介されることだろう。

結局、われらが誌名は「ku+」と決まった。クプラスと読む。上田さんの声掛けで営まれた民主的なプロセスを経て、つまり投票において決定したものだ。どちらかといえば「すでに世にあるおおまかなイメージ」をかなり払拭した名前と言えるだろう。

ここまでの足取りにおいて「ハイジ」も「ゴジラ」も「すでに世にある大まかなイメージ」に沿いながらも、それをくつがえそうというフィールドにあった。「ハイドン」もまた、さにあらん。

「新しさ」とは、あらゆる文脈から離れて濁りの無い状態をイメージすることでもあろうけれど、同時に、すでに世にあるものを内実からくつがえしていく志向でもあるにちがいない。

しかるに、「ku+」を得て、その歩みをこれから見いだそうという地点に立ち、かつ、「ハイジ」「ゴジラ」それからほかの名前たちについて、供養しつつもその余韻をそれとなく忘れずにいてみようかなと思う次第。

山田の手元から郵便でお送りした「アンケート」の封筒に「アルプスの少女ハイジ」の切手が貼ってあったのには、まあ、そんないきさつがあるのです。





「ハイドン」ではなく……高山れおな

佐藤文香さんが提案した「ハイジ」という仮タイトル、かなり気に入ってました。

「俳児」という漢字の引き当てが最高です。日暮れて道遠し、はてしなき俳路を行く俳児たち・・・うーん、絵になる。ちなみに歴史用語に「健児(こんでい)」というのがあります。奈良時代から平安初期にかけて、朝廷が組織した軍団の兵士たちのことで、俳児/健児って字面が似てるなあ、なんてことも思ってました。古代軍団の兵士に思い入れがあるわけではないものの、「こんでい」という音は美しいです。

健兒の足を揃へる旱みち  筑紫磐井

が、その後、山田耕司さんの提案で飛び出した「ハイドン」はもっと気に入りました。なぜなら、基本的に音楽聴かない高山が、唯一よく聴く作曲家がハイドンだから。

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンに比べるとマイナーながら、ハイドン素晴らしいです。ドラティ指揮の交響曲全集はもちろん、パリ交響曲集やロンドン交響曲集は、複数の指揮者で何セットも持ってます。関悦史氏みたいな本格クラシックマニアならそれも不思議ではないでしょうけど、とうてい音楽好きとはいえない人間が、ハイドンのCDばかりそんなに買い込んでるのはおかしいのですがね。

ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団演奏の「V字(交響曲第八十八番)」と「軍隊(交響曲第百番)」のカップリングが中でもベスト盤で、しかしワルターはハイドンの交響曲をこれしか録音してないらしいのはなんとも残念。

氷の微笑の太鼓連打で襲ふのね  高山れおな

ワルターの「太鼓連打(交響曲第百三番)」とかあったらいかによからまし。ちなみに、どなたさまも必ず聴いているはずのハイドンの名曲はドイツ国歌。サッカーのワールドカップのTV中継で流れてた、国歌にあるまじきあの優美な曲はハイドンの作です。

さて、そんな個人的な思い入れに加えての、誌名としての「ハイドン」のよろしさとはなんぞや。アニメの印象が強烈すぎる「ハイジ」に比べ、相対的に先入観が薄いこと。しかしともかくも、ハイドンという作曲家いたね、ベートーヴェンの先生だっけ、くらいの知識はかなり共有されていようから、なにやらえたいの知れない大物感やら古雅な格調のようなものが醸しだされる。「はい」と「どん」からなる響きも明るいし、インパクトもある。漢字は「俳丼」で、多彩な顔ぶれ価値観がひとつに盛られた俳句の器という意味を帯びつつ、おふざけ感もいささか。

気品あるおふざけというのが、個人的には俳句の理想の半ばを占めておりますので、まあこれ以上の名前はなかなかないな、と。それが自分の発案でなく、他の人のアイディアとして天から降ってきた具合だったのもまさに天啓という感じ。これは運命や、もう決まりや、そんな気分でいました。

音楽を降らしめよ夥しき蝶に  藤田湘子

ハイドン」はメンバーのみなさんからもかなり広く支持され、結局、投票により次点となりました。

アバドいま秋思のかたち緩徐章  橋本榮治

それが夏の終わりのことだったのに、たちまち仲秋です。今日もハイドンを聴きつつ、「ku+」の創刊宣言など書いております。「ロンドン(交響曲第百四番)」の第二楽章って「ku+」な感じだなあと、台風が過ぎた空を眺めたりしながら。第二楽章とはつまり緩徐楽章ですが(交響曲の父ハイドンがそう決めた)、流れているのはアバドではなくカラヤン。カラヤンもいいけど、アバドもハイドンの交響曲を八曲録音しているそうなので、これをご縁にCDを入手しようと思っております。





「中」でも「短い」でもなく……上田信治

はじめ、自分は「中 chun」とか「CENTER」という誌名を推していて、それは俳句にいま足りないものは、中心ではないか、という発想によるものだったけれど、編集部内では一顧だにされなかった。

しかし、高山さんの声掛けで集まった編集人4人が、誰といっしょにやりたいか、という話をしているとき、自分の頭にあったのは、メンツの「足がそろわないように」ということで、それは、ばらばらの立ち位置と志向性をもつメンバーの、それぞれの視線の交点に、まぎれもない俳句の「真ん中」が出現することを確信してのことだったので、誌名にせずとも、それはすでに達成されていたのだと思う。

遠方の杉山さんをのぞくメンバー11人が、はじめて全員顔を合わせた編集会議は、えんえん誌名についてブレストを重ね、ついに室内で目に入った文字を端から検討するという段階に至った。

末期的な段階であったかもしれない。

「『丸い』はどうか」
「おお、新しい!形容詞の誌名!!」
「俳句につける形容詞なら『短い』ではないか」
「おお『短い』! 新しい!」

というわけで、自分が最終的に推した誌名は「短い」でした。ショルダーに小さく「俳句」とつけて「ハイク /ミジカイ」と読ませる。

※クリックするとムダに大きくなります。

誌名はメッセージであり顔なので、すでに俳句の世界の内側にいる人たち「だけ」にではなく、これから俳句に出会う人たちにも、向けられているのがよろしかろう、と思った。

俳句は「短い」ですからね。言っていることが、分かりやすくていい。

そして、誌名の違和感をもって、あらためて、俳句という奇態な言語活動の存在に注意を喚起したい、と。

けっきょく、メンバー全員による投票を経て、新雑誌は「ku+」という名前を得て、始動することになった。

会議後もメールのやり取りの続く中、生駒大祐さんがわりとひっそり提案した誌名が、しずかに支持を集めた。各候補への支持表明のなかで、野口る理さんが「クプラス、ということばの造語感が好ましい」という趣旨の発言をしたことが印象に残っている。

状況に何か飲み込みにくいものを突きつけるのではなく、しずかに始まって楽しげで好ましい、というスタイルを、私たちの特に若いほうの仲間が選択したことを、自分は、とてもよいことだと感じている。

 

【「ku+」創刊予告特集】「ku+」が創刊されるのだ宣言 ……高山れおな

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「ku+」創刊予告特集

「ku+」が創刊されるのだ宣言

高山れおな



十二人の仲間で俳句雑誌を創刊する。
紙の雑誌である。
創刊号の参加メンバーは次の通り。

高山れおな(編集人)、山田耕司(同)、上田信治(同)、佐藤文香(同)
生駒大祐阪西敦子杉山久子関 悦史谷 雄介野口る理福田若之依光陽子

雑誌の名前は「ku+」で、“クプラス”と読む。“句plus”というのが一応のアリバイ的な解釈だが、クプラスという音の響きの方が重要かもしれない。極彩の熱帯魚か、神話の鳥か、隕石と共に飛来した鉱物か、そんな異物の名めいた感じがするのは良いと思う。

ご存知のように、俳句世界では、北極がどちらで南極がどちらかさえ意見の一致を見ていない。当然、なにがプラスでなにがマイナスかもだ。しかも素晴らしいことに、クプラスと呼ばれる鳥も魚も鉱物も現実には存在しないらしい。飛んでゆくのやら潜るのやら、熱いのやら冷たいのやら、なにをするのか知れたものではないという次第なのだ。

俳句をひとつの定型の名として捉えるなら、それは姿の上でも、歴史的な由来の上でも、かなり明快なもののように感じられるし、事実、明快なものだと信じたがっている人は多いわけである。しかし、それがひとつの遊びの名だとすれば話はまた別だろう。

私たちが俳句を選んだのか、俳句が私たちを選んだのか、それすらわからないまま俳句で私たちは遊ぶのである。それは果てしない遊びであり、私たちはその果てしなさに耐えなくてはならない。

さて、こう書き進めながら、筆者は執筆にある困難を感じている。それというのも、この雑誌が同人誌の形態を備えながら必ずしも同人誌を志向していないこと、参加メンバーの顔ぶれが、年齢も閲歴もばらばらで、とりとめもないことがその原因である。

いや、そんなことは気にせず、華やかに、あるいは重厚に、または軽やかに、ひた押しの言挙げを心がければ済むのかも知れないが、そのように振る舞うにはこの書き手は少々年を食い過ぎ、遺憾ながら社会化し過ぎているようだ。かくて現時点での自己イメージは、国柄を異にした十二の独立国が集う国際会議で共同声明文を執筆しつつある議長国の実務官僚、みたいなものとなる。

もう少し、上記の要件を具体的に検証しよう。「同人誌の形態」というのは、この雑誌が執筆参加者の出資金による運営を前提にし、ボランティアの編集人が企画編集の現場を担う点を指す。執筆発表の権利が、出資と引き換えに与えられる点では紛れもなく同人誌である。にもかかわらず「同人誌を志向していない」というのは、つまり参加者の存在を外部に主張することには雑誌の主眼が無いということである。

ならば何を志向するかといえば、俳句という遊び、俳句という夢、その全体の攪拌であり、その先にある総合である。いかにも小さな雑誌の小さな出発であるが、私たちはマイナーを志向するものではない。

私たちが作り読む小さな詩には、日本語の歴史の総体が流入し、またそこから流出する――その可能性を信じていなければ、なぜそれに賭けられよう。

顔ぶれのばらばらさ加減は、冒頭のメンバー一覧を見ていただければ明らかだ。「ホトトギス」はじめ正調有季定型を掲げる結社の成員もいれば、もっともいかがわしき前衛俳誌「豈」の同人もいるし、俳句甲子園出身無所属の若者も、俳句界のIT化においてかなめの役割をはたしてきた人物もいる。

年齢差は、五十代前半から二十代前半までで約三十歳、しかもこの幅の中に比較的均等に分布している。三十歳の幅といっても、一人の指導者のもとに会員が集う結社誌ならどうということもなかろうが、メンバーのある程度の同質性を前提として創刊される場合が普通の同人誌としてはやはり異例に属しようし、本誌運営の難しさも楽しさも挙げてここにあると予想している。

もちろん十二人の価値観になんらの共通の基盤も無いのであれば、協力して雑誌を作ることはできない。

その共通性の第一は、編集人のうちの一人の個人的キャッチフレーズを援用するなら「ハイクラブ」。第二は、俳句世界の風土病である反知性主義には与しない人たちであるということ。第三は、紙媒体と電子媒体の関係について、感傷的にではなくあくまで現実的にかつ積極的に対処する姿勢を持っていること。

なので早速、紙雑誌の創刊宣言を、こちら「週刊俳句」で発表しているわけである。

「ku+」は年二回刊行。

創刊号は本年十二月末の発行を目指している。

メンバーの作品発表に加えて大特集が二本、その他、企画記事いろいろ。
請うご期待。

奇人怪人俳人(11) 抒情派マルキスト・古沢太穂(ふるさわ・たいほ) 今井 聖

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奇人怪人俳人(11)
抒情派マルキスト・古沢太穂(ふるさわ・たいほ)

今井 聖


2000年3月2日古沢太穂さんが肺炎で亡くなられた。享年86。

横浜プリンスホテルでひらかれた「「古沢太穂」別れの会」で、太穂さんと同じ楸邨門で1940年の「寒雷」創刊以来六〇年の友人である金子兜太さんが述べた弔辞が忘れられない。

戦後すぐの頃、「寒雷」の句会の帰りに東京のはずれで飲んで電車が無くなった。兜太さんが「宿を探そう」と言うと、太穂さんが「俺にまかせておけ。タダで泊れるところがある」と応えてどんどん歩いていく。

どこに行くのかと思いながらついてゆくと、ようと手を挙げながら警察署に入った。そこには太穂さんの顔見知りの刑事がいて二人で留置場に泊めてもらったというエピソード。

筋金入りのマルキスト太穂さんらしい話である



古沢太穂、1913年富山市生まれ。生家は芸妓置屋。

幼くして父が亡くなり横浜に出る。1938年、東京外語専修科ロシア語学科終了。直後に結核で療養所に入所。そこで俳句を始め、加藤楸邨に師事。'40年の「寒雷」創刊に参加するに到る。

その後、赤城さかえ、栗林一石路、橋本夢道、石橋辰之助ら新俳句人連盟の俳人たちと親しく交わる。また内灘試射場反対闘争への参加、松川事件対策協議会の副会長を努める。

1955年には新俳句人連盟の委員長に推される。ソ日協会の文化交流としての訪ソ団団長。共産党機関紙「赤旗」にも頻繁に執筆している。「古沢太穂」全集年譜には特に記載はないが日本共産党の党員であったことは周知のことである。

不遇の少年時代を送りさらに結核療養を余儀なくされた英才が共産主義に目覚める。しかも外語のロシア語科を経てというのは古典的マルキストの一典型とも言える。

入党の時期はいつだったのだろう。兜太さんの発言にあるような経験を太穂さんがしているところから類推すると太穂さんは1955年以前からの党員。共産党の非合法活動は1955年で終るのだ。それ以前からの党員がどういう経緯で党の合法活動への決定を支持したのか。そのことは小論の内容と関ってくる。



「寒雷」というのは面白いところで創刊以来いつもさまざまな個性的な作風の俳人が楸邨の回りを囲んだ。

戦前から戦後にかけては、太穂さん他、金子兜太、森澄雄、安東次男、沢木欣一、田川飛旅子、原子公平、和知喜八、前田正治、寺田京子等々。僕が句会に通い出した昭和40年代でもその雰囲気は続いていた。

同人会に太穂さんが久しぶりに顔を見せると会長の秋山牧車さんがうれしそうに迎える。牧車さんは元大本営参謀。旧軍中枢の元軍人と共産党の闘士が談笑している。

作風は百八十度違う兜太さんと澄雄さんが座談会でやり合う。兜太さんと安東次男さんなど誌上座談会で「テメエ」とか「下手な句を作りやがって」など、読んでいる側がハラハラするような応酬である。

「あのやりとりそのまま載せたんですね」と僕が聞くと森さんのあとの編集長だった平井照敏さんが苦笑していたのを思い出す。飲み会では「即物派」の田川飛旅子さんに「花鳥諷詠派」川崎展宏さんが突っかかる。

師に対しても例外ではない。1982年に出た楸邨全集の第一巻の栞で楸邨作品について兜太、澄雄が対談している。〈十二月八日の霜の屋根幾万〉の句を挙げて、兜太さんが「どうしてこんな思いつめた下手な句を作ったんだろうか」「この句を見たとたんがっかりした」

楸邨句〈天の川鷹は飼はれて眠りをり〉を森さんは評価しない。「『沙漠の鶴』は九〇〇句余りの句が入っているけどいい句ということになると非常に少ないな」師の全集の中に挟む栞(月報)でこれである。こんな調子の座談会は数回続く。

いくらなんでもこれだけ先生をくさすのはどうかと、見かねた秋山牧車さんが注意すると「先生はどう思っているか聞いて欲しい」と二人が応じた。牧車さんが楸邨に聞くと、「その座談会に是非参加したい。僕にも一言言わせて欲しい」と言ったとか。そんな逸話が残っている。

こんなあけすけな師弟関係は空前絶後であろう。

1995年、96歳で亡くなられた牧車さんのご葬儀に太穂さんと和知喜八さんの二人を案内する役を僕が承り、二人の電車の接続駅で待ち合わせをすることにした。このとき太穂さん81歳、和知さん82歳。

待ち合わせの駅に太穂さんが先に着いたが、定刻を過ぎても和知さんがなかなか現れない。和知さんは足が悪いのだ。ようやく現れた和知さんを太穂さんが叱った。

「時間を守らなきゃだめじゃないか」
「しょうがないだろ。この足なんだから」

杖を突き足を引きずりながら言訳をする和知さんに向って太穂さんは「足のせいじゃないよ。あんたは昔から時間にルーズだ」と容赦ない。

20代から「寒雷」で切磋琢磨し一緒に同人誌も出したことのある「親友」のやりとりである。高齢の二人が子供のように見えたのだった。

そもそも太穂さんと和知さんはことのほか仲がよかった。

太穂作品
ロシア映画みてきて冬のにんじん太し
白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ
ボンベより顔長い馬工区曇る
蜂飼いのアカシアいま花日本海
子も手うつ冬夜北国の魚とる唄

喜八作品。
霜くるか熔鉱炉一日一日赭し
焼け工場の鉄管の中冬蜂死ぬ
勤めいやな朝まつこうから燕の白
ちちろほそる夜や屋根赤い貯金箱
梅雨産み月硝子の外から蛾がはためく

二人の句の内容は一句一句異なるから、たとえば労働実感がテーマというような括りで両者の共通性を論じるのは乱暴な論議のように思うが、決定的に共通しているところがある。

それは定型の枠をきっちり使うこと。ときにははみ出すほどに。枠に詰め込むだけ詰め込むという書き方。これは共通。俳壇からは腸詰俳句という揶揄も頂戴した。

ここには俳句という器に対する楸邨系の根っこにあたる考え方がある。

俳句は短いからものの言えない表現形式だという至極当然に思える形式観に立って、言えないのならどう「言わずして言うか」という論法から、季語の本意を中心において「主観」を抑制するという詠み方が生じてくる。

内容で勝負と言ってもそもそも小太刀に大刀と同じ働きを期待するのは無理。だから小太刀には小太刀にあった流儀が必要となるという考え方の上に立っている。

しかし、いわゆる諷詠派はそういう通念の上に乗って、意味を詰め込まず抜いて流していく詠み方を踏襲してきた。季語は必須、その上切れ字を入れて副詞のひとつも付ければもうあとは五音くらいの枠しかない。季語、切れ字だけの話ではない。つながりが慣用的な成句や複合動詞を手拍子の付くようにリズム本位で出してくる。たった十七音しかない形式でさらに言葉を流すのだ。それが「諧謔」や「飄逸」や「枯淡」に直結してきた。

本当に俳句は「言えない形式」だろうか。

短いから言えない。じゃあ、言えるか言えないか、最初から見切らずに思うことを言おうとしたことがあるのか。

言えない形式だと見切る人は、ほんとうは言えないのじゃなくて言うことがないのではないか。

言うことがないのに作ろうとするから使い古された俳句的情緒をテーマにして言い回しだけの「技術の妙」を競うことになる。

詰め込んで冗長に詠えということではない。一文字、一音を緊張させて意味を追い詰めて形式の枠の隅々まで埋めて、その結果、「ああ、やっぱり言えなかった」と空を仰いだことがあるのか。

二人の句はそう言っている。

太穂さんに「和知さんと句風が似てますね」と言ったことがある。太穂さんはムッとして応えなかった。仲良しだけどそれはそれ。句は違うよとお互いに矜持があったのは当然である。



太穂さんははるかに年少である楸邨門の僕にいい印象は持っていなかったようだ。というより最悪だったのではないかと思っている。

昭和63年、僕は一票差で現代俳句協会賞の次席となった。受賞は金子皆子さんと柿本多映さん(僕は、今は俳人協会所属だが当時は現俳協の会員だった)。

選考委員の一人であった寒雷編集長久保田月鈴子氏さんから残念でしたという知らせが葉書で届き、その脇に憤然とした調子で「理由は太穂くんに聞いてください」とある。太穂さんもまた選考委員の一人であった。

何のことやら解らなかったがやがて「現代俳句」誌上に選考経過が詳細に発表になったときその理由が判明した。予選の段階から、複数連記のときですら太穂さんは一貫して僕を外している。選後の感想からも一切省かれている。黙殺である。

嫌われたものである。

「太穂君に聞いてください」の意味が飲み込めた。

「聞いてください」と言われてそのとおりにするほどの勇気は僕にはなかったが、自分なりに太穂さんに「嫌われた」理由を考えると、それは大いに思い当るところがあった。

「寒雷」の会合があると僕と太穂さんは帰り道が同じであったため、ご自宅のある京急屏風ヶ浦付近までずっとご一緒することが多かった。僕は洋光台、すぐ近くである。

学生時代入った寮が過激派のアジトだったこともあり「反代々木」の洗礼を受けた僕は「代々木」の太穂さんによく議論をぶつけた。

日本共産党は戦前の結党以来非合法活動の組織であったが1955年の六全協(日本共産党第六回全国協議会)で武装闘争路線を捨てて(議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる党)への転換を決定する。

革命を捨てて合法的な議会政治に参加するということ。それは一方で革命路線を信奉していた党員への裏切りに当たる。暴力を捨てて議会制民主主義に転じるというと聞こえはいいが、要するにプロレタリア革命を放棄するということであり共産主義の解釈を修正することになる。

新左翼と言われる各派はそこをついて六全協以降の日本共産党を修正主義、またはスターリニズムという名で呼んだ。一方で武力革命路線を主張する新左翼を日本共産党の側はトロツキストと呼んで双方は激しく対立し今日に至っている。

芸者置屋の子として生まれ幼くして父に死なれ、職を転々として苦学の末東京外語専門学校(今の東京外語大)でロシア語科を選択した太穂さんはレーニン率いるボルシェビキによるロシア革命のような「革命」を夢見たのではなかったのか。だから留置場に泊れるような非合法活動の青春を送ったのではなかったのか。

太穂さん、あなたの志と今の党の現状は矛盾しないのですか。

今は退職してしまったけれど僕が三十年も在職した職場の労働組合は日本共産党系の組織であり組合費のかなりの割合が党組織に上納されていた。もちろん合法的に。

職場に新人が入ると必ず組合加入へのオルグと党の機関紙をとることを強く勧められる。入らないと職場の人間関係がうまく行かないようなことをほのめかされる。

管理職から攻撃されても加入しないと助けてやらないぞ。それはそうだろう。組合というものの本義でしょうから。

組合を傘下に収める党への動員やら上納金やらに与するか、資本の「忠犬」として上目遣いに生きるか、新人は究極の選択を迫られる。まあ、どちらにしても巻き上げられるのだ。

太穂さんの信奉する党はどうして幹部に帝大出ばかりを集めた「知識人」が主導する官僚主義政党なのか。委員会決定を徹底するということなのだろうが、どうして金太郎飴のようにまったく乱れなく党員の主張が一致するのか。

学生時代に日本共産党の青年組織民青(民主青年同盟)を揶揄した数え唄に「三つ出たほいのよさほいのほい、民青の女と姦るときにゃ、ほい、党の許しを得にゃならぬ」というのがあった。下品な春歌だがすべてを党が規定してそれに全員一致で従うことを揶揄した喩えだ。何でもかんでも綱領や既定方針に沿ったかたちですすめねばならぬ、それは彼らが作る「文学」でも同じこと。というような固定概念が僕の中にあった。

例えば党員が俳句を作るとき、憲法解釈や情況分析に党の方針と逸れることを作品化できるのか。党決定からぶれない範囲で俳句を作る。そんな馬鹿げた「文学」がありましょうか。

僕はそんな議論を延々と太穂さんにぶつけた。太穂さんは憮然として聞いていた。

「しょうがない奴だ」と思われたのだろう。いな、もっと厳しく「ダメだ、こいつは」と思われたに違いない。それが僕の作品に対する「黙殺」につながったのだろうと僕は推測した。それは、まあ、いわば自業自得だった。



しかし後年何度かお会いするうちに次第に優しい眼差しも向けてもらえるようになった。

楸邨逝去の後、太穂さんは僕を磯子の割烹に呼んでご馳走してくださって、当時「寒雷」の編集部にいた僕にいろいろと示唆を与えられた。内容は「寒雷」の新しい組織人事についての提言だったが、これについて僕は太穂さんの意見を聞き入れなかった。

太穂さんはまた「しょうがない奴だ」と思われたかもしれない。僕はしかし、太穂さんが自分の結社「道標」のこともあるのに、「寒雷」のことをそこまで気にかけてくださっているということに驚きかつ感動したものだ。

うれしかったのはその後に僕が脚本を書いた映画「エイジアンブルー浮島丸サコン」を観てくださったこと。或る時「見たよ。良かった」と言われた。僕は、多忙な太穂さんが黄金町の小さな映画館まで足を運ばれたことに感激した。

「街」にも原稿を頂いた。「同人欄・十句選」をお願いしたら快諾の返事をいただいた。原稿が届くと九句しかない。脇に「九句しか選べませんでした」と書いてあった。太穂さんらしいやと僕は苦笑したものだ。

全集の巻頭に太穂さんの微笑んだ写真が挟まれているが、僕には眼が笑っていないように見える。「お前はだめだ」と今でも叱られているような気がする。

探りあつまでの長き手蓮根堀り

長いのは蓮根の形状そのものよりそれを探す手。泥の中で根気強く目標を追う過程の大切さだ。

実際の蓮根堀りの肉体感覚を入口に太穂さんの生き方や信条に転ずる比喩がきちんと詠み込まれている。党派性の枠よりもまずは優先させねばならない「詩」があること太穂さんは知っていたのだった。

酩酊した太穂さんを支え、腕を組んで屏風ヶ浦前を歩いた記憶が蘇る。

太穂さんは胸を張り、顎をぐいと前に突き出した独特の角度で進む。少し足がもつれる。

太穂さんはそれでも決して足元を見ない。ぐいぐいと前へ、前へ。

内灘闘争で、松川事件闘争で、六十年安保で、太穂さんはこの姿勢で「巨悪」に向って進撃したのだった。

僕も10・21の「東京戦争」の霞ヶ関を思い出す。僕らのジグザグデモは胸を張るどころかかなりの前傾姿勢だったけれど。

「代々木」と「反代々木」のスクラムだぜ、太穂さん。

(了)



古沢太穂三十句 今井 聖 撰

白髪みごとしかし俺には神を説くな
疲れるな鯨のハムをパンにはさむ
食用蛙鳴き昼の湯にただよう垢
鵙鳴くや寝ころぶ胸へ子が寝ころぶ
ロシア映画みてきて冬のにんじん太し
ローザ今日殺されき雪泥の中の欅
何をひるむ湯気いっぱいに霜の馬糞
東京西日金なき妻子家におく
獄出でしや曇り日一点の冬日ほのか
子も手うつ冬夜北ぐにの魚とる歌
白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ
ボンベより顔長い馬工区曇る
星座さがす少年に来て松虫澄む
議論のあとのシャワー木槿が頭に透いて
もうむくろに今日ぼろぼろの雲とつばめ(前書・赤城さかえ逝く)
歯が死にしのこぎり鮫の顔雪ふる
蜂飼いのアカシアいま花日本海
怒濤まで四五枚の田が冬の旅
カドミ田のいずれへ瀬音風の盆
草萌ゆる男手ばかりの産後の家
巣燕仰ぐ金髪汝も日本の子
孤児たちに映画くる日や燕の天
牡丹雪の日と記し獄に入るる書よ
走れ雷声はりあげて露語おしう
啄木忌春田へ灯す君らの寮
炎天やなお抗わず税負う屋根
寒夜わが酔えば生まるる金の虹
寒夜しまい湯に湯気と口笛“太陽がいっぱい”
やつにも注げよ北風が吹きあぐ縄のれん
歯こまかき子の音朝餉のきうり漬




「街」俳句の会 (主宰・今井聖)サイト ≫見る

「二人姓名詠込之句」解題とヒント

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「二人姓名詠込之句」解題とヒント

仁平 勝

【解題】
三十歳を過ぎて自己流で俳句を始めたとき、戯れに人名をフルネームで詠み込む俳句を作ってみた。一人では単純過ぎるので二人にした。促音と長音は許容範囲。意味が通らないのは(前衛俳句だと思って)我慢してもらう。

最初の三句は1980年頃の作品である。以来ずっとお蔵入りだったが、俳句甲子園のとき宴席で小澤實に披露したら、けっこう受けた。「澤」に載せてもいいと言うので、三十数年ぶりに四句目を作った。今度は村田篠に披露したら、面白いから「週刊俳句」に載せたいと言う。そこでまた一気に四句作った。

小澤さん、スミマセン。先に「週刊俳句」に出しちゃいました。

【ヒント】
1句目 前衛短歌の旗手
2句目 現代歌仙の達人
3句目 たんに好きな俳人
4句目 有名な論争
5句目 夭折の作家
6句目 兜虫か水中花か
7句目 師弟、変?
8句目 ネット俳壇のパイオニア

10句作品テキスト 仁平勝 二人姓名詠込之句 

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二人姓名詠込之句 仁平 勝

お母いたか塩摑もぅと故郷想う
おお男娼コート絡まる野菜市
新富座若き女形紅一点
田舎村腐った俺か猫と歌
義仲が眉間皺立て待つは兵
置く雑貨まやかしを買い道拒む
鷹病まれオナニー尽くし晩成す
ダサい薔薇テンキーで買う枝信じ


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